#1198/1770 研究室「パンドラの箱」
★タイトル (QYA33902) 96/10/ 9 23:51 ( 99)
ニツコー>66Q&A1番(その1) 三鷹板吉
★内容
一般的疑問
証拠はない。唯一の証拠は「生存者」個人の戦後の証言である。この証言は矛盾しているし、ガス殺を実際に目撃したと主張する主張する「生存者」は一人もいない。当時の証拠文書も、物的証拠もなんら存在しない。犠牲者の灰の山も、何百万もの死体を焼却することが可能な火葬炉も、犠牲者が脱ぎ捨てた服の山も、人間の脂肪で作られた石鹸も、人間の皮で作られたランプシェードも、記録も、信じるに足る人口統計も存在しない。
嘘の上に積み重ねた嘘、真実の一片さえ無い。
この質問は、一種のホロコースト否定初心者として、一貫して無視されてきた詳細な証拠のいくつかを提示しようとする者にとっては良い質問だ。そのために回答は、他の65個の回答よりずっと長いものとなる。だが読者はおそらく、その必要性を理解するだろう。
とりあえず、否定者の主張を見てみよう。
何よりも最初にまず、盲目的な陰謀論について考察しよう。いかにして、ナチ収容所一つ一つすべての収容者個々すべての証言が、説得力に欠けるとして自動的に却下されるのか、注目してみよう。この、収容者証言の全面的却下は、ナチ自身による証言の同様の全面的却下とともに、ホロコースト否定説が、言外に仮定している事項の最大のものである。
この仮定事項は、そうしばしばきちんと説明されるものではないが、ユダヤ人に対するジェノサイドなどけして行なわれず、その替わりに、ユダヤ人による秘密の陰謀が1941年ごろ始まり、ジェノサイドがあったことを証明するための無数の文書の種がまかれ、でっちあげられたと仮定するものである。そして、戦後、彼らは収容所の生存者全員を駆り集めて、証言すべきことを教えたのだ、と。
陰謀団は、どうにかして、鍵となる何百人ものナチが、彼らが絶対に犯さなかった犯罪を犯したと自白するよう、あるいは彼らの仲間のナチをそれら無実の罪に陥れるよう、彼らを拷問し、戦後になるまでけして発見されなかったナチのファイルの何百もの文書を捏造したかのようだ。そして、多くのケースの中でわずかに、例えばゲッペルスの日記のみは、まったくの幸運でかろうじて、7000ページもの反故紙として売られてしまうところから救い出されたのだが、しかし、四散した手書き原稿に埋もれた記述のいくつかは、全体像を語っている。
(ロシナーの翻訳による「ゲッペルス日記」1948年 pp.86,147-148)
1942年2月14日:総統は、ヨーロッパのユダヤ人を情け容赦なく一掃する彼の決定を、今一度表明した。それに関して、神経質なセンチメンタリズムなどあってはならない。ユダヤ人は破滅に値するのであり、今こそその運命が彼らを襲ったのだ。彼らの絶滅は我々の敵の絶滅と同一歩調をとってなされるだろう。我々は、冷たい無慈悲さでもって、この過程を促進せねばならない。
1942年3月27日:手続きはきわめて野蛮なものであり、ここにより正確に描写すべきではない。ユダヤ人のうち残るのは、けして多くはないだろう。概して、彼らの約60%が消され、しかるに40%のみが強制労働に使用可能だ。
ゲッベルス日記の信憑性のなさについては「逆転ニュルンベルク裁判 Subject3:ナチスがジェノサイドを実行した、または故意に600万人のユダヤ人を殺したという、いかなる証拠が存在するのか?」に詳しい
マイケル・シェルマーは、ヨーロッパのユダヤ人の総数についてのナチス自身の見積もりは千百万人であり、千百万人の60%は660万人であることを指摘している。これは実際の数字にかなり近い。(実際には、40%は、ナチに捕らえられたユダヤ人の生き残り率として相当の過大評価であるが、その反面、ナチの手から脱出したユダヤ人も多かったのだ)
どのケースでも、日記の大部分はきわめて世俗的な内容であり、歴史家にとってのみ興味深いものである。ユダヤ人陰謀団は、わずか数行を挿入するために、7000ページもの文書を偽造したとされるのだろうか? いかにして彼らは、日記の記述に矛盾が生じないほど十分に近しく、ゲッペルスの事情を知ることができたのだろうか? たとえば、彼や彼の同僚が、実際にいたのとは違う町に、違う日時にいたとしてしまうような矛盾を犯さないように。
リヴィジョニストのデビット・コールでさえ、ゲッペルス日記についてリビジョニストはもっと満足のいくような説明を用意する必要がある、と認めるにいたっている。
ナチによる戦後の証言に関しては、彼らのすべてが、実際には犯してはいないとされる憎むべき犯罪を犯したと自白するよう、拷問されたのだろうか? ごく少数のナチしか戦後捕虜にされていないというのなら、このことも信じられるかもしれない。あるいはまた、勇敢に法廷に立ち、彼らを沈黙させようという試みについて、世界に対して叫び立てたのが、幾人かしかいないならば。しかし、1945年の後半から1960年代までの裁判において、何百人ものナチが、ホロコーストに関して証言しているのだ。(実例として、Bök、Hofmann、Hösler、Klein、Müch、Starkを見よ)
戦後のドイツのホロコースト裁判の性質がどのようなものだったかは「殺人ガス輸送車 3.7.章西ドイツ裁判での殺人ガス輸送車」参照
これら拷問の犠牲者とされる人々の一人も――50年間で一人たりとも――証言は強制されたものだという主張を支持するために、現われ出ていない
オットー・オーレンドルフは? というか、ニツコーは「拷問の事実はなかった」「拷問の事実はあったが、証言は強制されなかった」どちらを言いたいのだ? 後者は馬鹿げているし、前者は「マルメディ虐殺裁判」あるし。
どのような強制であれば、彼が犯罪を告発されていなかった1946年のニュルンベルク国際裁判でコンラート・モルゲン判事に、目撃した犯罪を証言させられるのだ?
コンラート・モルゲン判事はナチスの命で収容所の規則違反を監視する職務に就いていて、囚人を無法に殺したSSに死刑を宣告していることは、絶滅政策がなかった証では?
証言の小さな矛盾を指摘して、それらを信用しまいとする
証言者が皆同じ嘘をついていることは、証言のような出来事が起きていたのでは全くなく、「検察に嘘を吐かされた」あるいは「定説(他者の嘘)を引き継いでいる」証拠では?
ガス殺室の人口密度:ダリオ・ガバイ…「一畳に20人の密度」/発掘されたメモ…「一畳に24人の密度」/ホロコースト博物館の公式設定…「一畳に16人の密度」/シャルル・ベンデル…「半立米に10人の密度」/SS将校ゲルシュタイン「一畳に40人の密度」(※被害者は正史でシャワーと騙されて入ったことになっている)
他の一貫した荒唐無稽な証言として、「ガス殺で死ぬまでにかかる時間の証言が一貫して短すぎる」「毒ガスのペレットを投下してから、ガス室の扉を開けて死体回収し始めるまでの時間の証言が一貫して短すぎる」もある
これらのナチの多くは証人として証言し、犯罪の件では告発されていない。彼らに強制が行なわれたと言うのなら、その根拠は何なのだ? 裁判の多くはドイツの法廷で行なわれた。ドイツ人が自分の同国人を拷問したというのか? なるほど、ホロコースト否定者たちは、ユダヤ人が秘密裏にドイツ政府に浸透していて、そのすべてをコントロールしている、と時おり主張する。彼らはしかし、この論について多くを語りすぎることを好まない。なぜならば、それが気違いじみた少数の過激派の論であることは明白だからだ。
主要なポイントは、これら拷問の犠牲者とされる人々の一人も――50年間で一人たりとも――証言は強制されたものだという主張を支持するために、現われ出ていないのだ。
これに反して、ホロコーストに関する元ナチの証言に対する確証や再確証は、多年にわたって続けられてきた。どのような強制であれば、彼が犯罪を告発されていなかった1946年のニュルンベルク国際裁判でコンラート・モルゲン判事に、目撃した犯罪を証言させられるのだ? さらに後、1963年から65年、ドイツ・フランクフルトで行なわれたアウシュヴィッツ裁判で彼を証言させるために、いかなる強制がなされたというのだろうか?
SS医師ヨハン・クレマーが1947年、彼自身の弁護のために証言した際に、いかなる強制が用いられたというのだろうか? その上、ポーランドとドイツ双方で有罪判決を受けた後、釈放後、再び証人としてフランクフルト裁判で証言させるために、いかなる強制が? Bök、Gerhard Hess,Höblinger、Storch、それにWiebeck、前記のSS隊員すべて、フランクフルト裁判の証人のすべて、そこでどんな犯罪についても告発されなかった人々に対して、いかなる強制が用いられたというのだろうか?
ホロコースト否定者たちは証言の小さな矛盾を指摘して、それらを信用しまいとする。この仮定事項は、そうハッキリと述べられてはいないが、読者がその小さな矛盾をユダヤの陰謀論につらなる巨大な証拠として受け入れるだろう、ということなのだ。これは明らかに馬鹿げている。
事実上、細部における矛盾や小さな間違いは、陰謀論を立証するのではなく、逆に陰謀論を否定しているのだ。なぜ陰謀団は、別々のナチに別々の偽証用情報を与えたのだろうか? 事実上、もしも、ナチの証言から収容者の証言まですべての証言が相互にまったく矛盾なく、あまりに似すぎているように聞こえたとしたら、ホロコースト否定者たちが、そのことをこそ、陰謀が存在する証拠として引用しただろうことは確実である。
いかなる強制が40年もの時を超えて、SS少尉ハンス・メンチ医師をして、家族の反対を押し切って、スウェーデンのTVのインタビューに応じることを強いたというのだろうか? 1981年のインタビューで、彼はアウシュヴィッツについて語っている。
インタビュアー:(ユダヤ人)絶滅のイデオロギーは、医師の倫理的価値観と両立しないのではないですか?
メンチ:まったくその通りです。議論の余地はありません。しかし、私はあの状況の中で生きていたのです。そして私はそれを受け入れることを避けるために可能な道をすべて試しました。しかし、私はそれとともに生きねばならなかったのです。私に他に何ができたでしょうか? そして私は、収容所の医師の仕事が多すぎるから諸君らも絶滅作業に協力すべしという命令が、私と私の上司、それにもう一人に下されるまで、それと直接に立ち向かいはしませんでした。そして、それに対抗することはできなかったのです。
インタビュアー:私はあることを質問しなければなりません。疑問を抱く人人は「特別処置(special treatment)」とはどんなことでも意味し得ると主張しています。それは絶滅であるとは限らなかった、と。
メンチ:「特別処置」とは、強制収容所の用語法において、肉体的絶滅を意味しています。もしもその疑問が、ごく少数の人間以外の人間によって抱かれたなら……(強制収容所のような)彼らをガス殺する以上の価値はないとしていた場所でですよ……疑問を抱いた人間たちもガス殺されたでしょう。
インタビュアー:「特別処置」とはガス殺のことだったんですか?
メンチ:まったくその通りです。
アウシュヴィッツで特別処置(Sonderbehandlung)が実際には何を意味していたかは逆転ニュルンベルク裁判 Subject:32 コード言語2で詳しい。
そして、いかなる強制が40年もの時を超えて、前記のSS伍長フランツ・ズーホメルをして、映画「ショアー」のインタビューに応じることを強いたというのだろうか? 匿名で話すという(偽りの)約束のもと、彼はトレブリンカ絶滅収容所で行なわれた犯罪について語った。(単行本「ショアー」 クロード・ランズマン 1985年 p.54)
インタビュアー:あなたは非常に重要な目撃証人です。あなたはトレブリンカがどんなところだったのか説明できますね。
ズーホメル:でも、私の名前は出さないでくださいよ。
インタビュアー:出しません。約束します。オーライ、あなたがトレブリンカに到着したところからでしたね。
ズーホメル:そこでシュターディエ、曹長だが、彼は我々に収容所をすみからすみまで見せた。我々が通りかかった時、ちょうど彼らはガス室のドアを開けるところだった。人々はジャガイモのように崩れ出た。もちろん、我々は怖いと思ったし、ぞっとしたよ。我々は戻って自分のスーツケースの上にへたりこみ、年寄り女のように泣いたんだ。
毎日、死体を大量埋葬壕まで引っ張っていかせるために、百人のユダヤ人が選別された。夕方には、ウクライナ人警備兵が、彼らをガス室の中に追い込むか銃殺した。毎日だ!
否定者たちに、なぜ彼らはフランツ・ズーホメルの証言をはね捨てたのか、尋ねてみるといい。グレッグ・ラビンはあなたに言うだろう。「それは証拠ではない……何か証拠を持ってきてください」と。他の否定者は、ズーホメルもメンチも気が狂っていたか、幻覚を見たか、幻想を語っているのだと言うだろう。
しかし、幻想は、大多数の証言を無視することを選択し、その替わりに自分自身の想像の産物以外の何物でもない仮定の陰謀論を信じることにした人間たちの、心の中にこそあることは明らかである。
ホロコーストをでっち上げた諸裁判は以下の本で解説されている:600万人は本当に死んだか?(ホロコースト裁判の概要)、ニュルンベルク裁判の完全崩壊(ニュルンベルク裁判)、殺人ガス輸送車(殺人ガス輸送車に関する裁判、翻訳中)
(ユダヤの陰謀がホロコーストをでっちあげたという仮定についての)全体的な証拠の欠乏こそが、この「陰謀があったという仮定事項」が、ほとんど常に、具体的に語られることのない仮定のままにとどめられている理由なのだ。我々が知る限り、この汚れ仕事のすべてを行なったとされる仮定のユダヤ/シオニスト陰謀に関して、多少なりとも詳しく論じた「リヴィジョニスト」の論文は、一つたりとも書かれていない。論説も、演説も、パンフレットも、本も、テープも、ビデオも、ニュースレターも、一つも無いのだ。
一番マシなものとしては、世界ユダヤ人会議が「大ボラ」を恒久化したと、遠回しに言及しているホロコースト否定の著述がある。(バッツ 1976年)――詳しい説明はまったくない。にもかかわらず、ホロコースト否定は全体として、この仮定の陰謀論に依拠しているのだ。
生存者の証言に関して、「リヴィジョニスト」はそれが証言でしかないと主張するが、収容所体験を生き延びたユダヤ人収容者によるガス殺や他の形の残虐行為についての、膨大な証言が実際に存在する。さらに、戦争捕虜のようなユダヤ人以外の収容者による証言さえも。ガス殺について証言した囚人の多くがユダヤ人ではないことはもちろんだ。その一例として、アウシュヴィッツにおける最初のガス殺人についての、ポーランド将校ゼノン・ロザンスキーの証言を見てみよう。ライトリンガーの「最終解決」p154に以下のようにある。
扉にもたれかかっていた者たちは、奇妙な硬直に身をそり返らせていた。そして、我々のすぐ足下に崩れ落ちた。彼らの顔はコンクリートの床に激突した。死体の群れだ! まっすぐ立ったまま、掩蔽壕の通路全体にいっぱいの死体の群れは、ギチギチに詰め込まれていたので、それ以上は倒れることも不可能だった。
ギチギチに詰め込まれていたので、それ以上は倒れることも不可能
シャワーと騙してその密度で詰め込もうとすれば不自然すぎて暴動が起きるのでは?
いかなる「リヴィジョニスト」がこれを否定するのだろうか? 彼らの中の誰がこの現場にいたというのだろう? 彼らの中の誰が、ロザンスキーに対して、彼が何を見て何を見なかったか、教えるだけの権威を持っているというのだろうか?
「実際にガス殺を目撃したと主張する『生存者』は一人もいない」という声明は明らかに間違っている。より新しい版では「ごく少数しかいない」と改訂されているが、こちらの方が真実に近い。
しかし、我々は生存者やナチや他の人々の証言だけに頼る必要はない。戦後の記述ではなく、ガス殺や他の残虐行為に関係する多数の戦時中の文書が、アメリカ軍によって押収された。そのほとんどはワシントンDCの国立文書庫にあり、一部はドイツにある。
ガス室に先立って使われたガストラックに関しては、一例として、SS少尉ベッカーからSS中佐ラウフに宛てた最高機密文書が発見されている。(「ナチの陰謀と侵略」1946年Vol.1,pp.999-1001より)(三鷹注:ガストラックとは、密閉された荷台に人間を詰め込み、エンジン排気を流し込んで殺害する装置。ヘウムノ絶滅収容所などで使用された)
たとえば、もし雨が半時間ほどでも降ったなら、トラックはスリップしてしまい使用不能です。完全に晴れた天気でしか使えません。今や、トラックが実行場所に駐められた状態でしか使えないかどうかが、問題であるにすぎません。最初にトラックをその場所へ運ばなければなりません。それは、良い天気の時にのみ可能なのです。
ガスの応用は通常は正確には行なわれておりません。終点にできるだけ早く到着したいと、運転手は限界一杯までアクセルを踏みます。そうすることにより、処刑される人々は、計画されていたような昏睡による死ではなく、窒息による死の苦しみを味わいます。レバーを正確に調整することによって、死をよりすみやかにもたらし、囚人たちを安らかに眠らせるのが、私の監督すべき仕事だと分かるに至っております。
ベッカー文書の内容のバカバカしさについては殺人ガス輸送車 2.2.2.ベッカー文書(501−PS)に詳しい
また、ユストは1942年6月5日、ラウフ宛の「最高機密」「複製不可」と印された手紙でガストラックについて書いている。これは、ナチのダブル・トーク(三鷹注:言葉の言い換えによる隠蔽話法)の恐るべき最高傑作である。それは殺害を「処理(processing)」と言い換え、犠牲者を「題目(subjects)」「積荷(the load)」と言い換えている。(コゴン「ナチの大量殺人」 1993年 pp.228-235を見よ)
たとえば、1941年12月より、3台のトラックを使用して、車には何の故障も発生することなく、97000が処理された……
トラックの標準積載能力は1平方メートルあたり9から10である。より大きなザウラー社製の特別トラックの積載能力は、最適なものではない。問題は積み過ぎによるものではなく、このトラックにおいてはシビアに削られているところの、あらゆる地形におけるオフロードでの運用性なのだ。積荷スペースの縮小が必要であると思われる。これは積荷スペースを約1メートル短くすることによって達成可能である。今まで行なってきたように、単に処理する題目数を減らすだけでは、問題を解決することはできない。この場合においては、より長い運転時間が必要とされる。空きスペースにまでCO(毒性のある排気ガス)を満たさねばならないからだ……
照明装置に対するより厳重な防護が必要だ。電球を壊すことができないように、電灯を金網で十分にカバーすべきである。これらの電灯は今までほとんど点灯されていないから、使用者はそれらを取り去ってもかまわないと考えているかもしれない。経験によれば、背後のドアが閉められ、中が真っ暗になると、積荷はドアに向かって殺到する。この理由は、内部が暗くなったときに、積荷は小さな明かりが残っているところに向かって押し寄せるからだ。それにより、ドアをロックするのが妨げられる。ドアをロックすることによって引き起こされる叫び声が、暗闇によって喚起される恐怖とつながっていることもまた、注目されている。
この内容の馬鹿馬鹿しさは殺人ガス輸送車 2.2.4.章ジュスト文書参照。
クレマ
Crematoriumは火葬場、火葬棟の意味で、ドイツ語のKremaでもそれは変わらない。
Vergasungskeller
「歴史的修正主義研究会>1943年1月29日の書簡のなかで、Vergasungskellerという単語を使っていますが」参照。
(三鷹注:このユスト書簡は「ショアー」(クロード・ランズマン 作品社)に全文が収録されています)
ガス室それ自体に関して書かれた通信文に手違いが発生して、そのうちのいくつかは、幸運なことに破壊を免れて、戦後発見された。SS隊員のカール・ビスホフによって、1942年11月27日に書かれたメモは、クレマ(三鷹注:クレマトリウム。ガス室と焼却炉がセットになった大量虐殺用施設。否定者は、ガス室ではなく単なる死体置場だったとしている)2のガス室を「ライヒェンケラー(Leichenkeller)(死体室)」という普通の通用名よりむしろ、「ゾンターケラー(Sonderkeller)」「特別室(special cellar)」と記述している。
2か月後の1943年1月29日、ビスホフはカムレルへのメモで、その同じ部屋を指すのに「フェーガスングスケラー(Vergasungskeller)」と書いている。(グットマン「死の収容所アウシュヴィッツの解剖」1994年 pp.223,227を見よ)「フェーガスングスケラー」とは、似たような響きの英語の「ガッシング セラー(gassing cellar)」すなわち地下のガス室を意味する。
ホロコースト否定者は、フェーガスングスケラーについてのもっともらしい説明を用意しているアーサー・バッツを参考にする。「フェーガスングスケラー」という言葉は、ガスによる殺人を意味し得ず、ただ固体もしくは液体から気体への変換処理のことを指しているのだ、とバッツは言う。ゆえに「フェーガスングスケラー」は、アウシュヴィッツの焼却炉のための燃料をガス化するための特別の部屋――「気化室」だったに違いない、とバッツは言う。
この説明には、三つの難点がある。まず最初に「フェーガスング(Vergasung)」が、ガスによる殺人を意味し得るのは確実である。バッツはドイツ語を話すわけではないし、ドイツ語についてのレクチャーを試みようともしていない。二番目に、バッツが描写するような機能を果たすのが可能な部屋は、クレマの中には存在しない。――本を書いて数年後、バッツもこのことを認めた。そして、手も足も出せないまま、気化室を収納したはずの別の建物が、収容所のどこかにあったはずだと、ほのめかしている。三番目に、アウシュヴィッツで使用された型の炉は、いかなる気化処理も必要としなかった! 炉は固体燃料を燃やしたのだ。(グットマンの前掲書pp.184〜193を見よ)
さて、「ガッシング セラー」という用語は何を指し示すのだろうか? ホロコースト否定者たちは、さらに、信じるに足る説明を提出する必要があるだろう。
クレマ3のガス室のための14個のシャワーヘッドと1個のガス密閉ドアのリストを示す目録が、戦後再押収された。ホロコースト否定者たちは、その部屋は死体置場だったと主張している。死体置場でシャワーヘッドとガス密閉ドアが何に使われたのか、否定者は説明しようとしない。(文書の写真か、プルサックの「アウシュビッツ:技術と運用」1989年 pp.231,438を見よ)(三鷹注:再押収(again captured)というのは、目録が旧ソ連の文書庫に眠っていたことを指すか?)
アウシュヴィッツの建設事務所からの、1943年3月31日付けのメモには以下のようにある。(ヒルバーグ「絶滅の記録文書」1971年 pp.207〜208)
今回、クレマ3のライヒェンケラー用の100/192のガス扉の調達のために、1943年3月6日のもう一つの注文を照会します。このBw 30aは、対向するクレマ2の、その室の扉と、同じ寸法に従って同じ方法で建てられねばなりません。同様にゴムで包まれた8ミリメートルのガラスを2重にした覗き穴をつけて。この注文は、特に至急であると考えられますが……
なぜ死体置場が、2重の1/3インチ厚のガラスで作られた覗き穴を、至急必要としたのだろうか?
シアン化ガスがアウシュヴィッツのガス室で使用されたことを証明できるかどうかという問題は、否定者の興味を惹いてきた。例えば、否定者が過大に喧伝しているロイヒター報告は、今日そこにシアン化物の残留痕跡が残っていないかという問題について、多大な努力を費やしている。しかし、我々としては、以下に引用する通り、シアン化物の使用を確証するのに、化学的痕跡を探す必要などない。(グットマン前掲書p.299)
(1943年)2月11日と12日に中央建設指導部(Zentralbauleitung)とトプフ社の間で交わされた手紙と電報は、ライヒェンケラー1用の木製送風器に言及している。この言及は、死体置場がガス室として使用されたことを確証する。ビスホフとPrüferは、濃度の高い青酸(シアン化物)(1立方メートルあたり20グラム)が混じった空気を排出するのに、腐食しない換気装置が必要だと考えたのだ。
ビスホフとPrüferは結局間違っているということが分かり、最終的に金属製の扇風機で十分に役に立つということになった。しかし彼らがシアンで腐食しない木製の換気装置が必要だと考えたという事実は、否定者が死体置場と呼ぶ部屋で、シアン化物が日常業務として使用されることになっていた、ということを論証する。(死体置場の消毒用としては、シアン化物は役立たずである。それはバクテリアを殺さないからだ)
他の押収文書は、絶滅プロセスの一部に直接関わるものでないとしても、それに対する言及を含蓄している。SS少将カムレルに宛てられた押収メモは、アウシュヴィッツの焼却炉は、総計で一日に4756人の死体を焼却できる能力を期待されていたということを暴露している。(文書の写真を見るか、コゴンの前掲書p.157を見よ)
ハンス・フランク
否定者たちは、このトータルの死体焼却数は実際には達成できなかった、としばしば主張する。(疑問45を見よ)これは論点を外している。これらの焼却炉は、毎月14万の死体を焼却するのに十分な能力を持つよう、入念に設計されていた。――12万5000人しか収容していない収容所において、である。我々は、1942年の半ば頃には早くも大量死が予想され、実際に計画されていた、と結論づけることができるだろう。その最大収容可能人員数を、4週間ごとに焼却しつくせるよう設計された収容所が、単なる拘留施設であろうはずがない。
最後に、ユダヤ人絶滅プロセスについての、あり余るほどの証言、告白、物的証拠を別としても、ナチスがそれを意図し、計画していた証拠に不足がないことは明らかである。
ナチのポーランド総督だったハンス・フランクの日記は、そのほんの一例である。(「ナチの陰謀と侵略」1946年 第1巻 pp.992, 994より)
しかし、ユダヤ人をいかにすべきだろうか? 連中を「オストランド」(東方領地)の(再定住)村落に定住させられると思うか? 我々はベルリンで次のように言われた。悩むことなどあるか? 「オストランド」においても「帝国委員会(Reichkommissariat)」においても、我々が連中に出来ることは何もない。だから、勝手に連中を消してしまえ、と。
紳士諸君、私は諸君に、いかなる慈悲の感情も捨て去るよう求めたい。我々はユダヤ人を根絶せねばならない。帝国の機構を全体としてまっとうするために、連中を見つけ出し根絶可能なところでならどこででも。
350万人ものユダヤ人を、射殺することも毒殺することもできない。しかし、それでもなお我々は、なんとかして彼らを根絶せしめる処置をとることが可能だろう。
1943年10月4日のポーゼンでのヒムラーの演説の録音テープが押収されている。(「主要戦犯裁判」 1948年 第29巻 p.145 最近の翻訳による)
私は今こそ、ユダヤ人の排出について語ろう。ユダヤ民族の絶滅についてだ。「ユダヤ民族は絶滅させられる」とは、言うにたやすいことの一つだ。党員は誰もが言うだろう。「ユダヤ人の除去、ユダヤ人の絶滅が我々の計画の一部だというのは、まさしく真実だ。我々はそれを遂行しつつある」と。
ユダヤ人絶滅への努力は、ナチによる公式裁判の評決の少なくとも一つの中でさえ、言及されている。1943年5月、ミュンヘンの法廷は、SS少尉マックス・タウブネルに対する判決文で、以下のように述べている。
被告は、ユダヤ人に対するそのような行為を理由に罰せられるのではない。ユダヤ人は絶滅されねばならず、ユダヤ人の誰が殺されようと、大した損失ではない。しかし被告は、ユダヤ人の絶滅は、その目的のために特別に訓練された部隊(Kommandos)の義務であるということを理解せねばならない。被告は、被告自身がユダヤ民族の絶滅に協力する権限を有していると、誤って考えたがゆえに、処罰されねばならない。
そしてヒトラーは、公の場で少なくとも3度にもわたり、きわめて明確に言っている。ドイツがポーランドに侵攻する7か月前の1939年1月30日、ヒトラーは帝国議会で公式に以下のように言っている。(「スケプティックマガジン」第2巻第4号 p.50より転載)
本日、私は再び予言者として以下のことを述べたい。もし国際ユダヤ主義がヨーロッパ内外において、再び諸国を世界大戦に巻きこむことに成功するならば、その結果は世界のボルシェビキ化とそれによるユダヤ民族の勝利ではなく、ヨーローッパにおけるユダヤ人種の根絶である。
さて、この最後の一節は、ドイツ語で「die Vernichtung der jüdischen Rasse in Europa(ヨーロッパのユダヤ人種の絶滅)」であり、ドイツ語を話す人ならばその意味をきわめて明確に理解するだろう。
1942年9月:
……もしもユダヤ民族がヨーロッパのアーリア諸民族を絶滅せんがために再度世界大戦をくわだてたなら、絶滅させられるのはアーリア民族ではなく、ユダヤ民族であるだろう。
1942年11月8日:
諸君は、私が帝国議会で以下のように宣言したことを想起するだろう:もし、ユダヤ民族が、ヨーロッパ諸民族を絶滅させるために世界大戦を引き起こすことが可能だと想像したとしたら、その結果は、ヨーロッパ諸民族の絶滅ではなく、ヨーロッパのユダヤ民族の絶滅であろう。聴衆はいつも、私が予言者を気取っていると笑ったものだった。当時私を笑った聴衆の中の、数え切れないほどの人々は、今日もはや笑ってはいない。そして、今なお笑っている連中は、おそらくは、今よりただちに笑うことをやめることだろう。
他にも多数の文書や証言を示すことができる。
「いかなる証拠が存在するのか?」という疑問に対するIHRの回答が「証拠はない」だったことを心にとめてほしい。この適当な回答が、まったく不誠実なものだということは、すでに示された通り、確実である。そして、これこそが我々が伝えたい一番のポイントなのだが、ホロコースト否定説は誠実さを欠いている。
続いて、残りの、IHRが存在しないだろうとしている証拠に関する、より具体的な主張について個々に分析していこう。
●「犠牲者の灰の山もない」というのは内的矛盾である。このQ&Aを出版したIHRが発行している雑誌の記事の中で、雑誌の編集人は、1946年にポーランドの委員会がトレブリンカ絶滅収容所から、20フィート以上もの深さの人間を焼いた灰を発見した、とリポートしている。(三鷹注:マーク・ウェーバー&アンドリュー・アレンの論文「トレブリンカ」のこと) この記事はグレッグ・ラビンのウェブ・サイトで入手できる。
(どうも、トレブリンカの生存者の幾人かは、犠牲者の死体は常に完全に火葬されたと主張しているようだ。火葬されてない遺体が灰に混じっていたという理由で、この編集人は、生存者証言は偽証だとほのめかしている。驚くことに、この編集人は20フィートもの厚さの人間を焼いた灰が、そもそもなぜそこに埋められるに至ったかについては、何のコメントもしていない。おそらく、彼は言及するに値しないと感じたのだろう)
マイダネク収容所にも犠牲者の灰の山が残っている。アウシュヴィッツ−ビルケナウ収容所では、死体を火葬した灰は、川に投げ捨てられ、収容所の周囲に埋められた。さらに、近所の農民の畑で肥料として使われもしたのだ。
その証言:
ヘンリク・タウバー「1体用焼却炉に千℃以上の状態のまま毎回4〜5体を入れた。20分程で焼却できた。多い時は1炉に8人詰めた」
ペリー・ブロード「1体用焼却炉に4〜6人入れた」
……証言者は嘘を吐いているのでは? ※右の写真は使われた火葬炉の写真
●何百万もの死体を焼却することが可能な「火葬炉もない」のだろうか? これは絶対に嘘である。ナチ自身の内部メモによっても、生存者証言によっても、火葬炉はこの仕事をこなすよりもずっと高性能だった。ホロコースト否定者たちは意図的に、葬儀屋の火葬炉と絶滅収容所の巨大な工業的な焼却炉とを一般人に混同させようとしている。この問題については、疑問42番と45番で、ずっと詳細に検討されている。
●「犠牲者が脱ぎ捨てた服の山もない」? どうもIHRは服の山が「確固たる証拠」であると考えているようだ! 奇妙な話である。なぜなら、IHRはナチの収容所で発見された他の種類の「山」については否定していないのだ。すなわち、犠牲者の眼鏡の山、靴の山(アウシュヴィッツ、ベルツェック、マイダネク収容所)、金歯の山、焼かれた死体の山、焼かれてない死体の山、義手や義足の山(スウィエボッカの「アウシュヴィッツ:写真による歴史」1993年 p.210を見よ)、人間の毛髪の山(同書p.211)、中身を漁られた荷物の山(同書p.213)、ひげそり用ブラシの山(同書p.215)、櫛の山(同書)、やかんと鍋の山(同書)、そして、そう、IHRが存在しないと主張している、犠牲者が脱ぎ捨てた服の山さえも発見されているのだ(同書p.214)。
おそらく66Q&Aの著者たちは「服の山」が確固たる証拠だと認めるのは彼らにとって危険であると考えたのだろう。なぜなら、そう認めてしまうと、彼らは、これら多くのものをも「確固たる証拠」として認めることを強いられるだろうからだ。このことが、おそらくは、この一節が改訂版の66Q&Aでは割愛されている理由だ。
これらの品物が大量に発見されていないとすれば、その理由は一つ、ナチスがそれらをドイツの市民に配給したからだ。これに関するメモも押収されている。そのメモは、犠牲者の女性が残した下着さえもナチは再配給したことを明らかにしている。
●「人間の脂肪で作られた石鹸もない」? これは本当だが、読者をミスリードしている。非常に限られた実験的な規模で死体から石鹸が作られたという証言や証拠がいくつかあるが、噂されたような「大量生産」はけしてなされず、知られている限りで人間の死体から作られた石鹸は現存しない。だがしかし、石鹸製造実験が行なわれたと供述する、イギリス兵捕虜たちとドイツ軍の役人の宣誓証言があり、それはいまだに反駁されていない。また、人間石鹸の製造法を記した文書も、連合軍によって押収されている。ナチスが人類を材料に石鹸を作らなかった、と単純に述べるのは不正確である。
イルゼ・コッホ所有とされる人皮のランプシェード他は、実際には人皮ではなくヤギの皮だったことは正史も認める通り。「収容所の解放」事実と嘘、Wikipedia参照。
●「人間の皮で作られたランプシェードもない」? 嘘だ。――ランプシェードと他の人皮製「装飾品」は、イルゼ・コッホの2回の裁判で証拠として提出され、40年代の終わりには合衆国上院調査委員会にも提示された。それらが人間の皮で作られていると分かる理由は、刺青が彫られているからであり、これらの品物に対する顕微鏡による法医学鑑定も行なわれているからだ。(この件についての詳細なページが準備中だ)(三鷹注:現在すでにアップされています)
●「記録もない」? ナンセンスである。(だから66Q&Aの「改訂版」では、この主張は割愛されているのかもしれない) 真実は、ガスによる絶滅については常に暗号化された用語で言及され、到着ししだいガス殺されるために収容所に移送された犠牲者については記録に残されなかったということだ。だが、暗号用語の使用についての手違いがあり、すでに述べてきたような真の意味を暴露した。クレマに関する目録と徴発請求書があり、それは、普通の用途としては異例の、だがガス大量殺人に使うには最適な品目の存在を暴露している。ユダヤ人を収容所に運んだ移送列車の記録があり、それらはつなぎあわされて、事実を明瞭に示している。そしてさらに、すでに述べたように、いくつかの実例も示されている。
●「信じるに足る人口統計も存在しない」? これは「灰の山」に続く2番目の内的矛盾である。――疑問2番と15番を見よ。この問題を検討した英米委員会は、ユダヤ人の犠牲者数を570万人と見積もっている。これは人口統計学に基づいている。
以下が、正確な国別分類である。
ドイツ | 195,000 |
オーストリア | 53,000 |
チェコスロバキア | 255,000 |
デンマーク | 1,500 |
フランス | 140,000 |
ベルギー | 57,000 |
ルクセンブルク | 3,000 |
ノルウェー | 1,000 |
オランダ | 120,000 |
イタリア | 20,000 |
ユーゴスラビア | 64,000 |
ギリシア | 64,000 |
ブルガリア | 5,000 |
ルーマニア | 530,000 |
ハンガリー | 200,000 |
ポーランド | 3,271,000 |
ソ連 | 1,050,000 |
引くところの離散亡命者数 | (308,000) |
殺されたユダヤ人の総数 | 5,721,500 |
(この見積もりは人口統計からの結果であり、それぞれの収容所の犠牲者数の累計によるものではない。各収容所の犠牲者数も入手可能である。―――例えば、ドイツの裁判所での判決と一緒に出された、トレブリンカ絶滅収容所の犠牲者数に関する別ファイルが入手可能だ。SSは比較的詳しい記録をとっていた。文書の多くは破壊を免れて残存し、目撃証人の計算がそれらを補強している)
見積もりのいくつかはもっと低い数字であり、いくつかはもっと高い数字であるが、これは問題における重大な点である。カーネギー・メロン大学の歴史学部長ピーター・スターンズは、新たに発見された文書――とりわけ旧ソ連における――が示すところによれば犠牲者数は600万人より多かったと述べていると、大学の学生新聞は報じている。他の歴史学者たちは犠牲者数は500万人をそううわまらないと主張している。ホロコースト百科事典は、最低で5,596,000人、最大で5,860,000人という数字を採用している。(グットマン 1990年 p.1799)
「リヴィジョニスト」はしばしば、挙証責任は歴史学者にある、と正しくも主張する。証拠は、もちろん、1945年後半以降の公文書の問題であり、それは世界中の図書館で入手可能である。挙証責任は何度も、何度となく果たされてきた。あなたがここまでで読んできたのは、莫大な証拠総体のサワリのようなものとして、簡便に提示されたものにすぎない。ずっと多くの証拠がたやすく入手できるだろう。
ホロコーストなどけして起こらなかった、とそれでもなお論じようとするのは、馬鹿げたことである。これらの証拠もまた存在しないと真顔で主張するのは、単なる馬鹿を超えている。そして、それこそが「リヴィジョニスト」が誠実さを欠いているということの、明白な実例なのだ。