「ホロコースト。
それはナチスドイツによるユダヤ人絶滅計画による600万人のユダヤ人の犠牲である。
ナチスの収容所では毒ガスによるユダヤ人処刑が行われた。
……とされているが、ガス殺遺体は一体も確認されてない。
唯一、ソ連が『マイダネク収容所に一酸化炭素中毒の遺体があった』と言っているだけで、これを西側諸国が確認したわけではない。
マイダネクはソ連が開放してから一ヶ月間も封鎖されており、その他の国は現場検証を行えなかったのだ。
これはドイツによるカチンの森事件検証の態度とは対照的だ。
ドイツによるカチンの森事件検証はドイツ、ヨーロッパ12カ国、ポーランド赤十字の3つの調査委員会がそれぞれ独自に調査し、アメリカ・イギリス・カナダの戦争捕虜の将校も現場に立ち会った。
こうした公開現場検証の結果、ドイツは検死報告、80の写真、4143名の犠牲者の名前をつけた『カチンでの大量殺戮の公式報告』と題する275頁の本を公表した。
証拠のなかには、ソ連がこの地区を占領する1940年4月以前の新聞記事が入っている犠牲者の衣服、ソ連軍のライフル銃に特徴的な銃剣による星型の傷が含まれていた。
戦後、ソ連がスターリンの署名入り命令書を公開し、公式にこの事件をソ連の仕業と認めた。
21世紀現在、ロシア政府もこの事実は認めている。ただし謝罪も賠償もしてないし、するつもりもない。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがもしも本当にユダヤ人のガス殺処刑を行っていたならば、ソ連も同じように西側諸国・中立国・赤十字など外部の人間で構成された調査委員会を作って現場検証を外国メディアに公開しただろう。
そうすればドイツは言い逃れができないし、そういった現場検証が行われていたとしたらホロコースト否定論など存在しなかったに違いない。
さて、ガス殺遺体が一体も確認されてない状況でなお、『ドイツの死体処理は完璧でガス殺遺体はすべて焼却された』と言っている人たちがいる。
大戦末期のドイツ軍にそんな余力があったとは実に想像力豊かだ。
しかし冷戦時代のアウシュヴィッツ博物館は、ナチス・ドイツの資料はすべてドイツ軍が焼却してしまったとして、アウシュヴィッツの焼却能力の検証は目撃証言に頼るしかなかった。
だが、その言い訳は今日では通用しない。
赤軍が捕獲した80000頁の資料が公開されてしまったからだ。
というわけで今回は公開された資料からアウシュヴィッツの焼却能力を検証し、『遺体をすべて焼却することは不可能だった』ということを立証しよう」
「アウシュヴィッツIの焼却炉はいわゆる『ガス室』と同じ焼却棟Iの中にある。
証言によれば『ユダヤ人は毒ガスで殺された後に同じ建物の焼却炉で遺体を火葬された』ということになっている。
ビルケナウには焼却棟が4つあった。
よく知られているように、4つの焼却棟は最初からいきなり建設が予定されたわけではない。
SSは疫病で死体処理が追いつかないほど死亡者数が増えることは最初から想定してなかったし、絶滅計画で大勢が死ぬことなど当然想定してなかった。
その場の状況に応じて追加建設したのだ。
SSはビルケナウを拡張するにあたり、当初は焼却棟IIの建設だけを予定していた。
少なくとも1942年8月3日までは、アウシュヴィッツ中央建設局長が念頭に置いていたのは一つの焼却棟にすぎなかった。
これが3つの焼却棟が追加されて最終的に4つになった理由は、囚人の高い死亡率のためだ。
1942年8月はアウシュヴィッツの歴史で月間死亡率がもっとも高い月だった。
8月だけで8600人が死亡した。これは7月の2倍に当たる。
8月1日から19日までの収容所の平均収容人員は22900名であった。
このような状況でありながら、SS長官であるヒムラーは1942年7月17日〜18日にアウシュヴィッツを訪問したとき、『ビルケナウを20万人収容できるような収容所にする』ことを決定していた。
2万人が収容された状況でこれだけ死亡者数が多いのに、この10倍の収容数でチフスが蔓延したらと考えると、ビルケナウに焼却棟が4つ作られる決定がされたのは当然のことだった」
参考資料:ドイツ側資料から見たビルケナウ収容所の実像 著:C.マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_12.htm)
SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、1942年7月17/18日にアウシュヴィッツを訪問したとき、ビルケナウ捕虜収容所を20万名収容できるまでに拡張することを決定した。
(中略)
それゆえ、少なくとも1942年8月3日までは、アウシュヴィッツ中央建設局長が念頭に置いていたのは一つの焼却棟にすぎなかったことになる。エルトルSS少尉が、トップフ・ウント・ゼーネ社の主任技師クルト・プリュファーの訪問との関連で執筆した1942年8月21日の会議要録には、こうある[17]。
「5つの3燃焼室炉をもつ二番目の焼却棟の建設に関して、資材の割り当てについて国家保安中央本部との交渉が進められているが、その結果をまずはっきりさせなくてはなりません。」それゆえ、焼却棟IIIの建設決定はまだなされていなかったのである。同じ文書によると、8つの燃焼室をもつ2つの炉をモギリョーフからアウシュヴィッツに移送するとのプリュファーの提案が8月19日に認められたことがわかる。SS経済管理本部は8月24日に、この提案(欄外の手書き)を認めている。すなわち、少なくともこの時点まで、焼却棟IVとVの炉の燃焼室の数はまだ決められていなかったことになる。
1942年8月は、アウシュヴィッツ収容所の歴史の中で月間死亡率がもっとも高い月であった。この月だけで合計8600名が死亡し[18]、7月(4400名ほど)のほぼ2倍であった。さらに3つの焼却棟を建設するとの決定の最初の痕跡は、8月14日に登場する(焼却棟IV/Vの図面1678の日付)[19]。8月1日から13日までで、2500名以上の囚人が死亡しており、死亡率は1日190名に達していた。8月14日から19日(8月21日の会議要録に議論がまとめられている日)のあいだの死亡率はもっと高かった。2400名ほどが死亡し、1日平均400名ほどであった。その頂点は8月19日であり、500名以上の死者が記録されている。8月1日の時点で、男性収容所の収容人員は21421名であった。19日までに、4113名の囚人が死亡し、1日平均216名であった。14日から19日のあいだには、1675名が死亡し、1日平均279名であった。8月1日から19日までの収容所の平均収容人員は22900名であった。もしも、収容人員が計画されている通りに200000名に達し、そのときにチフスが蔓延したらどのような事態となるであろうか。それゆえ、さらに3つの焼却棟を建設するとの決定に向かわせた理由は、衛生保健措置への、当然ともいえる配慮だったのである。
[17]RGVA, 502-1-313, S. 159.
[18]この数字は、『アウシュヴィッツ死亡者記録』にあるデータにもとづいている。
[19]この図面はJ.-C. Pressac in Auschwitz: ..., aaO. (Anm. 5), S. 393,に掲載されている。
「ビルケナウに作られた4つの焼却棟、焼却棟II〜Vにはそれぞれガス室があり、ユダヤ人はそこでガス殺されて遺体は火葬されたということになっている。
このプロセスではガス殺死体を火葬するまでの間、死体をどこかに置く必要があるが、そんなスペースは焼却棟内部にはない。
したがって建物の外に置かねばならないが、「焼却棟に入った人間は二度と外に出てこなかった」というのがホロコースト物語のあらすじなのでそれはダメだ。
よって、ホロコーストが行われたとすれば、ガス殺死体は次のガス殺が行われている間にすぐに灰にする能力が必要となる。
では実際の焼却炉にはどの程度の焼却能力があったのか?
それを検証する前にアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却施設がどんなものだったかを説明しよう」
↑アウシュヴィッツIに現存する焼却炉。ただし現存しているものは戦後に復元されたものである。
焼却棟Iには2燃焼室炉が3つあった。
↑ 焼却棟Iのオリジナルの設計図
図面には2燃焼室炉が3つ書かれている。
アウシュヴィッツIの焼却炉は合計6個となる。
↑ ビルケナウの焼却棟は爆破されて現在は焼却炉を見ることはできない。
焼却棟II、IIIには3燃焼室炉が5つあった。
焼却棟IV、Vには8燃焼炉(4室2重炉)が1つずつあった。
ビルケナウの焼却炉は合計46個となる。
アウシュヴィッツIの焼却炉 炉の数 燃焼室炉の型 合計 焼却棟I 3 2 6
ビルケナウの焼却炉 炉の数 燃焼室炉の型 合計 焼却棟II 5 3 15 焼却棟III 5 3 15 焼却棟IV 1 8 8 焼却棟V 1 8 8 合計 46
「アウシュヴィッツの焼却棟Iの2燃焼室炉は石炭ガスによって2つの燃焼室が熱せられる。
だがビルケナウの焼却棟II・IIIの3燃焼室炉はによって3つの燃焼室すべてが熱せられるわけではない。
熱せられるのは両端の2つだけで真ん中の燃焼室には熱源がないのだ。
この3つの室炉は内部でつながっており、端の2つを熱してその熱を中央に送るという仕組みになっている。
焼却棟IV・Vの8燃焼室炉も8つすべてが熱せられるわけではなく、熱源のある室炉とない室炉が互い違いになっている。
したがって、もしも一つの燃焼室に2体以上の遺体を無理やり入れてしまった場合、内部で熱した空気を送るための開口部がふさがって焼却能力が低下するか、焼却そのものができなくなってしまう」
↑ 赤丸部分は空気と熱の通り道であり、複数の死体を無理に詰め込むとこの部分を塞いでしまうことになる。
ブッヘンヴァルトの焼却棟の2つの3室炉はビルケナウの焼却棟II、IIIの炉と同様のモデルであった。ブッヘンヴァルトの焼却炉が稼働し始めたのは、それぞれ1942年8月23日と10月3日であった。
「ビルケナウの焼却棟の燃焼室のドアは60cm×60cmで、下の10cmは、ストレッチャー(死体を乗せる担架)を押し込めるためのローラーがスペースをとっているので使うことはできない。
さらに、これらのドアは30cmの半円アーチ形状をしており、それは、ストレッチャーの上ちょうど20センチのところから始まっている。
つまり、アウシュヴィッツ・ビルケナウの燃焼室はサイズからしてすべて棺おけなしの1人用に設計されているということだ。
実際に1人以上を詰め込んだかどうかは別として、この焼却施設が1人用に設計されていることに議論の余地はないだろう」
参考資料:国際的な広がりをみせるアウシュヴィッツ論争――ツィンマーマンのマイヤー論文批判について――著:ゲルマール・ルドルフ
(アドレス:http://revisionist.jp/lies/rudolf_13.htm)
アウシュヴィッツの炉に関する文書資料と図面は、この燃焼室が1体の死体を焼却する目的で設計されていることを証明している。例えば、炉の扉はわずか600mm×600mmであり、しかもその上部は半円形をしている。炉の扉の高さは、ストレッチャーを誘導するころが下部についているために、さらに制限される(下記の図版参照)。したがって、この扉だけでも、この燃焼室が1体の焼却用に設計されていたことの証拠になるが、多くの死体の焼却が不可能であることを示す熱力学的理由もある。一つの燃焼室に多くの死体を押し込めば、燃焼ガスが流れる壁の中のガス導管をブロックしてしまうであろう。さらに、ガス発生器は、脱水化という当初の局面に必要な熱を発生させることができないので、炉の温度は最初から劇的に下がってしまうであろう。次の焼却局面では、燃え上がっている死体が非常に多くの熱を生み出すので、燃焼室がオーバーヒートしてしまうであろう[20]。主任技師クルト・プリュファーは、2体が同時に入れられたとき、「炉はこの負荷に耐えることはできなかった」と記している[21]。
「アウシュヴィッツのものに対して、現在の焼却炉は遺体を棺に入れて棺ごとでガスで焼く。
だから焼却炉のサイズは棺が入るように大きくなっている。
現代の焼却炉のほぼすべては燃焼室壁に設置されたガスバーナーで作動しており、それが効果的に稼働するのは棺との間の距離がもっとも短いときだ。
このとき1体の遺体を焼くことを前提に作られた燃焼室で複数の遺体を同時に焼くというのはやってはならない。
熱源のない燃焼室はもちろんダメだが、熱源のある燃焼室もダメだ。
なぜなら数多くの死体を押し込めば、死体と燃焼室の壁とのあいだのスペースが狭くなってしまうため、熱風は非常に早く燃焼室を通過してしまう。
すなわち、熱は死体や燃焼室の壁に吸収されるのではなく、導管や煙突に吸収されることになるため、導管や煙突の損傷がひどくなってしまう。
また数体の冷たい死体を押し込むと、焼却開始当初の温度がかなり下がってしまうので、焼却開始時間がかなり長くなってしまう。
炉の発熱装置はそれだけの熱量を供給できるようには設計されていない。
さらに死体の水分が昇華されてしまえば、今度は、数体の死体の可燃組織が大量の熱を放出するので、燃焼室・導管・煙突をひどく損傷させてしまう。
では通常の遺体では大きすぎるが、チフス患者の遺体ならばどうだろうか?
チフスに感染すると発熱と下痢が続き、体の水分が全部外に出て骨と皮だけの状態になってしまう。
チフス患者なら体が細いから一度に2体を焼くことができるのではないか?
これは当時のアウシュヴィッツ収容所も同じことを考えた。
だがそれは失敗に終わった」
参考資料:ホロコースト講義 ルドルフ報告
(アドレス:http://revisionist.jp/lectures/458.htm)
1943年初頭、焼却棟IIが稼動し始めたとき、アウシュヴィッツ収容所には、チフスが蔓延した7ヶ月を超える期間を通じて、十分な死体処理能力がありませんでした。ですから、SSは、一つの燃焼室に一体以上の死体を押し込んで、たまっていたはずである死体の山をすみやかに焼却しようとしたにちがいありません。そして、タウバーが証言しているのはまさにこの点だったのでしょう。ビルケナウの焼却炉を建築したトップフ社の主任技師クルト・プリュファーは、1946年にモスクワでKGBから尋問をされているときに、この点についてこうコメントしています[7]。
「私は、アウシュヴィッツ強制収容所の焼却棟の炉の実験に立ち会うとザンダーに伝え、焼却炉の能力がそんなに高くないので、焼却炉が一度に多くの死体を処理することはできないという結論に達しました。私は、炉に課せられた非常に大きな負担についてすでに申し述べました。私のいるところで、1体ではなく、2体が一つの燃焼室に入れられましたが、炉はその負担に耐えることはできませんでした。」
炉を酷使したために、稼動開始の2週間後には、焼却棟の導管と煙突の一部が損傷してしまったのです[8]。そのために、焼却棟全体が5月には稼動停止してしまい、その状態は1943年8月末まで続いたのです[9]。
「実際やってみたが、炉がオーバーヒートしてぶっ壊れてしまった。
修理には4ヶ月もかかってしまい、そのために焼却棟全体が稼動停止してしまった。
メーカーのマニュアルには1人用だと書いてあるのに、それを無視したため製品が耐えられなかったのだ。
アウシュヴィッツの焼却棟での作業を担当する囚人の特別チーム『特別労務班(ゾンダーコマンドー)』の一人ヘンリク・タウバーは『燃焼室に4、5体を押し込んだ。衰弱死体なら8体を押し込めた』と証言している。
衰弱死体2体で炉がぶっ壊れたのに8体は無理だろう。
また『煙突から炎があがるようにした』というタウバーの証言は技術的に不可能だ。
燃焼室から出てくる不燃焼石炭ガスは、必要な発火温度と燃焼空気があれば、煙突の中で燃焼してしまう。
これらの条件がなければ、燃焼されないまま、炉から出てくる。とくに、窒素、二酸化炭素、水蒸気、最小限の量の二酸化硫黄。
前者の場合、完全に燃焼したガスが煙突から出てくるし、後者の場合、煙が出てくるだけだ。
炎は上がらない。
というわけで、この証言は嘘だな」
参考資料:ホロコースト講義 ルドルフ報告
(アドレス:http://revisionist.jp/lectures/458.htm)
R:次に、ビルケナウの焼却棟IIの特別労務班員であったとされるヘンリク・タウバーを取りあげましょう。プレサックがアウシュヴィッツの殺人ガス処刑の最良の証人とみなしている人物です[1]。タウバーの馬鹿げた証言には以下のような話しがあります[2]。
「一般的にいえば、4体か5体を一つの燃焼室の中で同時に焼却したが、それ以上の死体を燃焼室に押し込んだこともあった。衰弱した死体ならば8体を同時に押し込めることができた。空襲警報が出ると、焼却棟の監督官に知らせずに、このような大量の死体を一時に焼却した。とくに、煙突から大きな炎があがれば、パイロットの注意をひきつけることができると考えられていた。そうすることで自分たちの運命を切り開くことができると考えていたのである。」
「アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の焼却施設がどんなものかわかってもらえただろうか。
では、次はその能力と処理効率を検証しよう。
能力とは、一定時間の(例えば、一日)中での焼却死体数のこと。
処理効率とは、生産される熱と消費される熱との関係、とくに、燃料消費のことになる。
2室炉、3室炉、8室炉ではそれぞれ一人当たりの燃料消費の量が異なる。
2室炉、3室炉を比べた場合を見てみよう。
2室炉には熱源が2室あるが、3室炉には熱源が2室しかない。1室分足りないのだ。
そして2室炉で2人焼くのと3室炉で3人を焼くのは同じ量の燃料が必要となる。
つまり3室炉なら2人分の燃料で3人が焼けることとなる。
側室で事前に暖められた空気を利用する3室炉は、2室炉の2/3の燃料消費で済んだのだ。
その代償として3室炉の中央の室炉は、熱風が死体や壁が熱を吸収する前に燃焼室をはやく通ってしまうため導管や煙突にダメージを与えてしまう。
同じように考えれば8室炉は4人分の燃料で8人が焼ける、つまり8室炉なら2人分の燃料で4人が焼けるわけだな。
となると3つの焼却炉が1体の死体を燃やすための燃料の消費量は 1/2 : 1/3 :1/4 =6:4:3となる。
では実際にはどれくらいの量が必要なのか。
まずその前にデブとガリではデブの方が良く燃えるという事実を確認しておきたい。
痩せた死体は通常の死体より燃やすための燃料が多く必要なのだ。
これは人体の可燃組織の量が違うからだ。
痩せた死体はミイラではない。ミイラは水分がないからよく燃えるが、それと混合してはならない。
2室炉での理論的な石炭消費は、ヴィルヘルム・ヒープケ技師の計算方法(当時のドイツの技術文献でもっとも一般的)によれば、痩せた成人の死体は27.8キロ、通常の死体は22.7キロ。
グーゼン収容所の2室炉での実際の石炭消費は、13日間で677体(恐らく痩せていた)、1日平均57体を焼却したときには、それゆえ、恒常的な熱的均衡を保っていた炉を使って、20700キロ、平均、1体につき30.5キロだった。
2室炉の消費は、これらの実験的データを考慮すると、痩せた死体では30.5キロ、通常の死体では25キロとなる。
3室炉では(2室炉の2/3)、痩せた死体で20.3キロ、通常の死体で16.7キロとなる。
8室炉では(2室炉の1/2)、痩せた死体で15.25キロ、通常の死体で12.5キロとなる。
以下の表にアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉の石炭消費をまとめておこう」
焼却に際しての1体当たりの石炭消費(キロ) | ||
炉の形式 | 痩せた死体 | 通常の死体 |
2室 | 30.5 | 25 |
3室 | 20.3 | 16.7 |
8室 | 15.25 | 12.5 |
平均 | 22.01 | 18.06 |
参考資料:アウシュヴィッツの犠牲者数400万人――その起源、修正、帰結――著C.マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_10.htm)
2室炉での理論的な石炭消費は、ヴィルヘルム・ヒープケ技師の計算方法(当時のドイツの技術文献でもっとも一般的)[22]によれば、痩せた成人の死体は27.8キロ、通常の死体は22.7キロである。グーゼンの2室炉での実際の石炭消費は、13日間で677体(恐らく痩せていた)、1日平均57体を焼却したときには、それゆえ、恒常的な熱的均衡を保っていた炉を使って、20700キロ[23]、平均、1体につき30.5キロであった。
2室炉の消費は、これらの実験的データを考慮すると、痩せた死体では30.5キロ、通常の死体では25キロとなる。
3室炉では(3分の1減少して)、痩せた死体で20.3キロ、通常の死体で16.7キロとなる。
8室炉では(半分減少して)、痩せた死体で15.25キロ、通常の死体で12.5キロとなる。
以下の表にアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉の石炭消費をまとめておく。
[22]W. Heepke, "Die neuzeitlichen Leicheneinascherungsofen mit Koksfeuerung, deren Warmebilanz und Brennstoff verbrauch", Feuerungstechnik, 21. Jg., Heft 8/9, 1933.
[23]List of the cremations of the crematory at Gusen (26 September-12 November 1941). Offentliches Denkmal und Museum Mauthausen, Archiv, B 12/31.
「さて1943年3月1日から10月25日までの約8ヶ月間、合計641.5トンの石炭がアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟に搬入されている。一日平均で2.6トンほどだ。
この時期、囚人の死亡者(毒ガス死体は除外)は約27300人だった。
その焼却の平均の石炭利用量は、1体あたり、641500/27300=23.5キロとなる。
痩せた囚人1体の焼却には平均22キロが必要だから、これは炉の消費量と完全に一致する数字だ。
もしも、一日に何千人も処刑したとされるガス殺処刑が本当にあったとすれば、石炭はその人数に応じた量が必要だ。
そうなると大量の石炭を毎日運ばねばならない。
たとえば1日に2000人を処刑した場合、一日に必要な石炭は44トンとなる。
隣のアウシュヴィッツIII(モノヴィッツ)を見てみると、合成石油生産のために一日50トンの石炭が必要だったため、巨大な石炭の貯蔵庫とそれを運ぶための列車が存在した。
だからアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟にも巨大な石炭の貯蔵庫とそれを運ぶための列車がなければ死体処理は成り立たない。
つまり、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の焼却棟では大量死体処理は行われなかったし、死体がないのだから大量殺人もなかったのだ」
↓ 左:アウシュヴィッツIII収容所 右:ビルケナウ収容所(焼却棟II)
(1)合成石油を生産するためのメタン・ガスを放出するためにガス生成プラント@では1日50トン以上の石炭が燃やされた。 | 1体につき22kgの石炭が必要であるとすると、1日に2000体を焼却するには44トンの石炭が必要である。 |
(2)鉄道Bに隣接した石炭貯蔵場と80mの長さ石炭の山A。石炭供給を安定させるためであった。 | 鉄道@に隣接して石炭の山も貯蔵場もなく、焼却棟Bに隣接する広場Aにもない。 |
(3) 70mの長さのコンベア・ベルトC | 石炭の運搬施設もない。 |
参考資料:アウシュヴィッツ:伝説の終焉 著カルト・マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_01.htm)
1943年3月1日から10月25日まで、合計641.5トンの石炭がアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟に搬入されている。[28] この時期、囚人の自然死は約27300人で、いわゆるガス処刑された人々の数は118300人ということになっている。[29] だから、約145600名となる。自然死の囚人だけの焼却の平均の石炭利用量は、1体あたり、641500/27300=23.5キロとなり、これは炉の消費量と完全に一致する数字である。ガス処刑されたといわれている人々プラス自然死の囚人の焼却の石炭の利用量は、1体あたり、641000/145000=4.4キロとなり、これは熱力学的にありえない数字である。
[28]APMO, D-Au-I-4, segregator 22, 22a.
Danuta Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939 - 1945, Rowohlt Verlag, Reinbeck bei Hamburg 1989, S. 281.
[29]この数は『アウシュヴィッツ・カレンダー』からとっている。
「今まで説明したのは焼却炉の燃料消費だが、これは焼却数とはまったく関係がない。
2室炉より3室炉のほうが燃料が2/3で済むが、焼却にかかる時間は同じなのだ。
へリンク・タウバー証言にあるような『1200℃〜1500℃』という高温ならたしかにはやく焼却できるが、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉は火力を大幅に強くすることができるようには作られていない。
民間の民間炉の燃焼室内の温度の最大は1100℃にすぎず、しかも、数分間だけ稼動できるにすぎない。
1200℃という高温では骨と耐火煉瓦が溶解して交じり合ってしまう。
だからタウバー証言は嘘だな。
さて、アウシュヴィッツにおける焼却時間がどれくらいの時間がかかったか?
アウシュヴィッツ稼動温度は800℃である。
ソ連がドイツの民間データを参考にして作った報告書には800℃では焼却には2時間かかる。
ただしこのデータはクリンゲンスティエルナ、ジーメンス、シュナイダー型の民間炉で測定された稼動温度にもとづいている。
今問題なのはアウシュヴィッツI型の炉だ。
だからソ連の報告書にある『800℃で2時間』という数字は焼却炉の型が違うためそのまま使うことはできない。
そこで、アウシュヴィッツ焼却棟Iの最初の2室炉の詳細に関する1940年6月10日の書簡を参考にしよう。
この書簡には『1時間に2体を焼却することができる』ということが書かれている。
2室炉で1時間に2体ということは、1炉では1時間に1体ということになる。
アウシュヴィッツの焼却炉で焼却される死体は上と下から熱せられるので、急速な焼却をもたらすのだ。
これはガス発生装置と結びついた開口部との関連で、耐火粘土で作られた発熱機の配置に依存している」
参考資料:アウシュヴィッツの犠牲者数400万人――その起源、修正、帰結――著C.マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_10.htm)
問題の炉は、ダッハウの炉ではなく、アウシュヴィッツの焼却棟Iに導入された炉である。このことは、上記の「コストの見積もり」からだけではなく、アウシュヴィッツ焼却棟Iの最初の2室炉の詳細に関する1940年6月10日の書簡につけられたトップフ社の技術図面D57253からも明らかである。この図面は、プレサックによって資料6として公表されている。
この型の炉の能力に関しては、上記の書簡は 「わが社のプリュファー氏が、上記の炉では、1時間に2体を焼却することができることをすでに伝えてあります」(イタリック――マットーニョ)と記している。
※クルト・プリュファーはアウシュヴィッツ建設局に雇われていた主任技師であり、ビルケナウの焼却炉の建設責任者であった。
参考資料:伝説の終焉 マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_01.htm)
(4) プレサックは、トップフ社からマウトハウゼン強制収容所SS新建設局への1941年7月14日の書簡を引用しているが、これは正しい。しかし、プレサックはこの資料の意味しているところをまったく理解していない。[9] この書簡は、2室炉での約10時間に30〜36体――1体で33〜40分――の焼却について述べている。この結果は、吸気システム(Saugzuganlage)の助けを借りた好適な条件のもとでのみ可能であった。成人死体に対する効率の典型的な限界は、焼却室での40分の主要焼却+下の灰受けでの20分の燃焼後焼却であった。これは1時間のことであり、1970年代においてさえも、イギリスで行なわれた焼却実験からもわかるように、ガス炉での最小の時間である。[10] 33分(+20分の燃焼後焼却)が達成できるのは、例外的な場合にであり、きわめて短期間だけである。これらのデータが適用されているのはグーゼンの炉だけであり、それはトップフ社製の可動2室炉であり、それはもともとは石油を燃料としていたが、2つの側方ガス発生装置の導入とともに(プレサックの資料7)、ダッハウの最初の炉のように石炭燃料に改造されたものであった。地元の技術的な困難のために、これらのデータがアウシュヴィッツの焼却棟Iに適用できるのは理論上のことだけである。
[10] "Factors Which Affect the Process of Cremation: Third Session" by Dr. E.W. Jones, assisted by Mr. R.G. Williamson. Extracted from: The Cremation Society of Great Britain Annual Cremation Conference Report, 1975.
参考資料:試訳:アウシュヴィッツ:伝説の終焉 著カルロ・マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_01.htm)
(3) プレサックが引用している資料はトップフ社からマウトハウゼン強制収容所SS新建設局への1941年1月6日の書簡である(98頁の注25)。圧縮空気の導入は、焼却時間を短縮するというのは、テキストには(あるいは実際にも)根拠のない、プレサックの恣意的な推測である。テキストも次のように述べている。
「二つの炉では、焼却される死体は上と下から熱せられるので、急速な焼却をもたらす」[8]。
この書簡が言及しているのは、技術図面D57253にあるアウシュヴィッツ型の2室炉と、設置されなかった石炭燃料炉(図面D58173)であるから、(民間の炉に関する)「急速な焼却」とは1940年11月1日の書簡の中のクルト・プリュファーが指摘している1時間に他ならない。この「急速な焼却」は、ガス発生装置と結びついた開口部との関連で、耐火粘土で作られた発熱機の配置に依存している。
参考資料:アウシュヴィッツの犠牲者数400万人――その起源、修正、帰結――著C.マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_10.htm)
重要証人のヘンリク・タウバーは、1945年2月27日、28日にソ連の尋問を受けている。彼は、焼却棟Iの2燃焼室炉が1200〜1500℃で稼動していたと述べているが、これはまったく馬鹿げている[6]。また、焼却棟IIとIIIの5つの3燃焼室炉の1つの燃焼室では、20〜25分で、4〜5体が焼却されたと証言しているが、これも技術的には不可能なことである。さらに、焼却棟IIとIIIでは、1日に3000体が焼却されたと証言しているが、これは、ポーランドとソ連の「専門家たち」が述べている数字とぴったり対応している[7]。
(中略)
半年前の1944年8月、別のソ連の「専門家たち」、すなわち、技術者のクラウゼ、テリャネル、グリゴレフが、H.コリ社の製造したマイダネク強制収容所の焼却炉についての「専門家報告」を作成した。この報告には、「異なった温度での異なった焼却炉における死体焼却時間を決定するための図表」が含まれている。報告作成者によると、この図表は、クリンゲンスティエルナ、ジーメンス、シュナイダー型の民間炉で測定された稼動温度にもとづいている。それによると、800℃の稼動温度での焼却時間は2時間であった。それは低いとはいえないが、実際に必要な時間を上回っていた。この図表によると、これらの巨大な「熱風焼却炉」における1000℃の稼動温度での焼却時間は60分、1200℃では50分、1300℃では45分、1400℃では30分、1500℃では15分であった[9]。民間炉の燃焼室内の温度の最大は1100℃にすぎず、しかも、数分間だけ稼動できるにすぎない。焼却に関するドイツのもっともよく知られている技術者の一人リヒャルト・ケスラーはこの点に関して次のように述べている[10]。
「焼却棟の作動についての報告書の中には、1200−1500℃での稼動温度がしばしば言及されているが、…それは測定の誤りか、測定されていない温度であろう。この温度では、骨と耐火煉瓦が溶解して交じり合ってしまうからである。デッサウでの実験によると、もっとも現実的な稼動温度は850℃から900℃のあいだにある。」
アウシュヴィッツを調査したソ連の「専門家たち」は、トッププ社の炉の焼却時間を、馬鹿げているほど短い20−40分としているが、彼らは、それを算出するにあたって、このような焼却時間が達成できるのは1200−1500℃であるというマイダネクの調査報告の図表に依拠したにちがいない[11]。
以上のことから、炉の稼動温度は1200−1500℃であったというタウバー証言は、まったくありえないような短い焼却時間を釈明しようとする試みにすぎないことがわかる。「専門家たち」自身がこの温度および焼却時間について、タウバーに直接・間接的に情報を提供していたというのが唯一の論理的結論である。のちの1945年5月、(これらの諸問題についてほとんど理解していない)タウバーは、ポーランド人判事ヤン・ゼーンの尋問を受けて、炉の稼動温度は1000〜1200℃であったと証言しているが[12]、焼却能力に関しては、科学的に立証されていない自説をそのまま主張し、400万人の犠牲者というソ連側の数字を強調している[13]。タウバーは自己矛盾に陥っていることを理解していなかったにちがいない。この図表によると、この温度での焼却時間は平均75分なのであるから。
[6]燃焼室の稼動温度は、800℃であった。1500℃が達成できるのは、ガス発生器の発火場所だけである。
[7]Protocol of the questioning of Henryk Taubers from Februar 27-28, 1945. GARF, 7021-108-13, pp. 1-12.
[8]J. Graf, C. Mattogno, Concentration Camp Majdanek. A Historical and Technical Study; Theses & Dissertations Press, Chicago 2003, p. 79. マイダネクの実際の犠牲者は約42300名であった。(ibid., Chapter 4).
[9]Ibid, p. 286.
[10]R. Kessler, Rationelle Warme-Wirtschaft in Krematorien unter besonderer Berucksichtigung der Leuchtgasfeuerung, in: V. Jahrbuch des Verbandes der Feuerbestattungs-Vereine Deutscher Sprache 1930, Konigsberg 1930, p. 136.
[11]さらに奇怪なのは、4−5体が1体と同じ時間で焼却されうるというソ連の「専門家たち」の証言である。ちなみに、ドイツの法律は、1体以上を同時に1燃焼室で焼却することを禁じていた。
[12]Hos Trial, Band 11, p. 133.
[13]Ibid., p. 150.
「さて、この石炭ガスの焼却炉は一日何時間使用できるだろうか?
答えは20時間だ。
石炭を使ったガス発生炉は、炉の清掃のために毎日の休息を必要としていた。
溶けて炉に付着した石炭の残余物が長い間には、発熱機のグリル棒のあいだの燃焼空気の通過を阻害し、焼却炉の作動効率を低下させてしまうからだ。
ということは、アウシュヴィッツの焼却炉は一日20時間使用したとして、1炉につき20人を焼却できたということになる。
なお、赤軍が押収した当時のアウシュヴィッツの資料『1943年3月17日』の記録簿によれば、収容所のSSは一日12時間の使用を想定していた。
20時間という数字はあくまで理論上の最大値となる。
12時間を想定したものを20時間使い続けていればいつかは壊れるだろうが。
以上の数字を元に焼却棟の1日の最大焼却能力を図にしてみよう」
参考資料:伝説の終焉 マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_01.htm)
石炭を使ったガス発生炉は、炉の清掃のために毎日の休息を必要としていた。溶けて炉に付着した石炭の残余物が長い間には、発熱機のグリル棒のあいだの燃焼空気の通過を阻害し、焼却炉の作動効率を低下させてしまうからである。ルブリン強制収容所の技師コリの1941年10月23日づけの書簡[12]によると、強制収容所の焼却炉は最大限20時間だけ使われたと推測できる。
[12]Letter of H. Kori G.m.b.H. to SS-Sturmbannfuhrer Lenzer, Lublin, of 23 October 1941. Archiwum Pa?stwowego Muzeum na Majdanku, sygn. VI-9a, vol.1.
参考資料:伝説の終焉 マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_01.htm)
(プレサックが119頁に言及している)1943年3月17日の記録簿(Aktenvermerk)[26]は、ビルケナウの4つの焼却棟の石炭消費の見積もりを示している。焼却棟の稼働時間は12時間となっている。その書簡は炉の発熱機の燃焼能力を示している。それゆえ、焼却されうる死体の数を計算することができる。すなわち、1日につき約362の痩せた成人の死体である。3月1日から17日までのビルケナウでの平均死亡率は1日292名であり[27]、これは焼却のための石炭消費の条件のもとでは、SSの見積もりの80%にあたる。これは、この見積もりが、平均的な死亡率+20%の安全マージンにもとづいて算出されていることを意味している。
焼却能力 |
|
焼却棟I | 120人(2室炉×3台×20時間) |
焼却棟II | 300人(3室炉×5台×20時間) |
焼却棟III | 300人(3室炉×5台×20時間) |
焼却棟IV | 160人(8室炉×1台×20時間) |
焼却棟V | 160人(8室炉×1台×20時間) |
合計 | 1040人(アウシュヴィッツ120人+ビルケナウ920人) |
「さて、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の焼却炉の一日の焼却能力が計算できたわけだ。
しかしこれはあくまで理論上の話で実際はもっと低い。
アウシュヴィッツ収容所の焼却棟Iにおける最初の焼却は1940年8月15日に行われた。
わずか3ヶ月後の11月22日に、建設局はベルリンの中央建物・建設管理局に次のような書簡を送っている。
『焼却棟のこれまでの作動は、1年の比較的好都合な時期においてさえも、2つの室をもった炉は小さすぎる』
プレサックによると、1940年3月から12月までに、アウシュヴィッツでは2000名の死者が出た。
1日に8名平均だ。
だから、アウシュヴィッツの焼却棟Iは理論上は1日に120体を焼却できるはずだが、実際には1日に8体を焼却するのにも困難を抱えていたことになる。
この時点で理論上の数字など何の役にも立たないような気がするが、理論上はこれが最大値だ」
参考資料:伝説の終焉 マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_01.htm)
最初の焼却は1940年8月15日に行われた(13頁)。わずか3ヶ月後の11月22日に、建設局はベルリンの中央建物・建設管理局に次のような書簡を送っている。「焼却棟のこれまでの作動は、1年の比較的好都合な時期においてさえも、2つの(燃焼)室をもった炉は小さすぎる(それゆえ、不充分である―マットーニョ)ことを示した。」[11]プレサックによると、1940年3月から12月までに、アウシュヴィッツでは2000名の死者が出た(146頁)。1日に8名平均である。だから、アウシュヴィッツの焼却棟は1日に8体を焼却するのにも困難を抱えていたことになる。この書簡は、モスクワ文書館にあるアウシュヴィッツ建設局の資料の一部であるが、プレサックはこれに言及さえもしていない。これを除外した彼の動機は容易に理解しうる。
「1日の理論上の焼却数が出たから、あとはこれに実際の稼動日数がわかれば焼却可能な人数が出る。
……と思ったら大間違いだ。
実はこの数字はあまり役に立たない。
なぜなら焼却炉の耐火壁は一定回数の使用で壊れてしまうからだ。
実際に、グーゼン収容所の2室炉が3200回の焼却の後に解体して耐火壁を張り替えている。
よって1室は1600回の焼却に耐えられる。
アウシュヴィッツ・ビルケナウの炉を1室につき、かなり大目に見積もって、3000回に耐えられるとしよう。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所には合計52炉がある(アウシュヴィッツ6炉+ビルケナウ46炉)から、52炉×3000回で約156000体を焼却できたことになる。
たった15万人だ。400万人はおろか100万人も焼却することはできない。
100万人説の場合、アウシュヴィッツには毒ガス遺体が85万人も残っていたことにある。
では仮に焼却炉の耐火壁が10000回耐えられるとしよう。グーゼン収容所の焼却炉の耐火壁の3倍以上の耐久力を持っていたとする。
それでも52万人。現在公表されている100万人の半分だ。
残りの48万人分のガス殺死体は、焼却棟から持ち出されもせずにどこへ消えてしまったのだろうか?
結論は一つしかない。
それはガス室で殺された人間は一人も存在しなかったということだ。
100万人、あるいは400万人という遺体をすべて燃やして灰にしてしまうためには、耐火壁を修理する必要がある。
だがその数回の完全な張替えをした証拠はない。
もしも張替えをしたならば書類はもちろん、解体した何百トンという耐火壁資材が必要となるが、その痕跡がないからだ」
参考資料:伝説の終焉 マットーニョ
ヤコブ・シュケッター技師は、1941年に、エルフェルトの焼却棟のトップフ社製の電気式炉について、第二の炉は3000回の焼却を実行でき、炉の壁は2000回の焼却に耐えられると述べている。[40] グーゼンの炉は3200回の焼却を行ない[41]、その後、それを解体して、耐火壁を張り替えなくてはならなかった。[42] それゆえ、1室は1600回の焼却に耐えられる。アウシュヴィッツ・ビルケナウの炉が1室につき最大の3000回の使用に耐えられるとすると、約156000体を焼却できたことになる(プレサックによると、登録囚人のあいだの犠牲者は130000である[149頁])。675000体の焼却には、少なくとも4回の室の耐火壁の完全な張替えが必要である。このことは、焼却棟II、IIIだけで、256トンの耐火壁資材が必要であることになる(ガス発生装置の壁を考えないでも)。また、同時に、(グーゼンの経験にもとづくと)約7200時間の労働時間が必要となる。にもかかわらず、アウシュヴィッツのSSが「無傷のまま」残していた建設局資料――プレサックが検証した――には、これらの巨大プロジェクトに関する痕跡はない。これは、これらが実行されなかったことを意味している。というのは、建設局の記録には、一例を挙げると、828マルクという少額な支払いに関しても、建設局とトップ社のあいだで「執拗な行政的支払い精算」(59頁)文書が存在しているからである。675000の焼却は、技術的に不可能である。したがって、大量絶滅はアウシュヴィッツ・ビルケナウではまったく実行されなかったことになる。
※電気式炉というのは電気で発熱したヒーターを熱源とする炉である。
「アウシュヴィッツ・ビルケナウには毒ガスで殺された何百万人の遺体をすべて焼却することができる焼却炉などなかった。
よって絶滅計画があったとしても証拠隠滅は不可能。
ガス殺死体はなかった。ゆえに絶滅計画はなかったし、実行されなかったのだ。
今回はこれで終わり。
またネタが溜まったら更新するだろう。以上だ」