注意して下さい:商業利用あるいは搾取は著作権によって明確に禁止されています。
勿論、残虐行為の宣伝戦は何ら新しいものではない。そうした宣伝戦は20世紀のあらゆる衝突に伴って現れたし、疑いなく未来もそうなるだろう。第一次世界大戦中、ドイツ人は実際にベルギーの赤子を食べていると、そして彼らを空中に放り投げて銃剣で貫いて喜んでいると非難された。英国は、ドイツ部隊は「死体工場」を操業し、そこで同国人の死体を焼く事でグリセリンや他の有用な物質を獲得しているとも主張し、ドイツ帝国の軍人の名誉を計算高く侮辱した。しかし戦後、撤回された。正確には、ドイツの名誉を侮辱した事を謝罪する、戦時中の宣伝戦であった事を認めた公式な声明が下院の外務大臣によって出された。
このような声明が第二次世界大戦の後に出された事はない。実のところ、時と共に減るのではなく、ドイツ占領地域の残虐行為に関する、特にユダヤ人の扱いに関する宣伝戦は毒々しさを増す一方であり、恐怖の目録を精巧に仕上げている。けばけばしい表紙の醜悪な仮製本が出版社から印刷され続け、強制収容所の増大する神話が、そして特にその内部で600万人を下らないユダヤ人が処刑されたという物語が追加され続けた。以降のページは、この主張は虚構の中でも最大のものであり、最も成功した欺瞞である事を証明するだろう。しかしここでは重要な質問に答える試みをしよう:『何が第二次世界大戦の残虐物語をここまで第一次からかけ離れたものにしたのか?』『何故第一次の残虐物語は撤回されたのに第二次のそれはかつてないほど繰り返されるのか?』『政治的脅迫を成すとしてさえ、600万人のユダヤ人という物語が政治的目的の為であるなど有りうるのか?』
ユダヤ人ら自身にとって、この嘘は計り知れないほど有益だ。想像しうるあらゆる民族と国民が第二次世界大戦の被害を共有したが、それを磨きあげてこれ程までに大きな優位にできた者は誰もいない。彼らの処刑規模とされるものは、ユダヤ人が長年探していたユダヤ故郷国家という同情を引き起こした。戦後、英国政府は、彼らが違法だと宣言していたユダヤ人によるパレスチナへの入植をほぼ妨害せず、それからシオニストが英国政府からパレスチナの土地を奪い、迫害から逃れる避難区イスラエル国を建国するまで長い時間はかからなかった。実のところ、第二次世界大戦から浮上したユダヤ人は大勝した少数派であるというのは驚くべき事実だ。ベルリンのユダヤ共同体の前主席ラビ、マックス・ヌスバウム博士は1953年4月11日に「今日ユダヤ人が世界で占める地位は――膨大な損失にもかかわらず――20年前の10倍強いものとなっています」と主張した。誠実な人物であるならば、「その力は、疑いなく史上最も利益のある残虐行為の申し立てである600万の虐殺とされているものによって財政的に強固に補強されている」と加えるべきであろう。今日までに、60億ポンドという眩暈のするような額が西ドイツの連邦政府によって補償として、殆どがイスラエル領(第二次世界大戦中は存在すらしなかったものだ)へと、そしてまたユダヤ人の請求者個々人にも支払われている。
しかし政治的脅迫の観点では、600万人のユダヤ人が第二次世界大戦中に死んだという主張は英国と欧州の人々にとって、ユダヤ国が獲得した単なる優位よりもっとずっと広い意味を持っている。そしてここで核心となる質問をしよう:『何故大嘘を?』『目的は?』と。そもそも、この主張はあらゆる形の国粋主義を妨害する為に極めて無節操に使われている。英国のあるいは欧州諸国の人々が、国の存立が脅かされている正にその時に愛国主義を力説し国の高潔さを今の時代のまま保存しようと試みる場合、彼らは即座に「ネオ=ナチ」だと烙印を押す。何故ならば、勿論民族社会主義は国粋主義であり、我々全員はそれから起こった事を知っているからだ――600万人のユダヤ人が処刑されたと! かの神話が続く限り、人々はどこにいてもこれに縛られ続けるだろう。自由の保証である国体そのものが廃止されるまで、国際的な忍耐と理解の必要性が国際連合によって力説されるだろう。
反国家の武器としての「600万」の使用の古典的な例は「20世紀の大虐殺」を扱っているマンヴェルとフランクルの共著「The Incomparable Crime」(ロンドンにて1967年刊行)に登場している。英国人である事に誇りを持っているなら誰でもこの本に書かれている大英帝国への容赦ない攻撃にいくらか驚くだろう。著者らはインド国内で英国の監獄にいる間に以下を書いた、パンディット・ネルーから引用している:「ヒトラーが無名の境涯から身を起こしドイツの総統になって以来、我々は民族主義と『君主民族』というナチスの理論について良く耳にしていました……しかしインドにいる我々は、英国の支配の開始以来ずっと、あらゆる形態の民族主義を知っています。この支配の価値体系は『君主民族』の、そして支配人種のそれでした……一国としてのインド、そして個人としてのインド人たちは、侮辱、侮蔑、そして軽蔑的な扱いの対象でした。英国人は帝国民族であり、私たちを統治し隷属させ続ける権利を神から与えられて持っていると私たちは教えられました。抵抗するなら、私たちは『帝国民族の虎の気性』と思い出す事になるぞと。」著者マンヴェルとフランケルは続け、我々に完璧にはっきりとこう指摘している:「欧米の白人は、」と彼らは書いている、「何世紀もの間自分たちを『君主民族』なのだと見做す事に慣れてしまっています。アウシュヴィッツの世紀である20世紀は、他民族共生の認識の第一段階を達成してもおります。」(同書、14ページ)
この罵倒の目的には「他民族共生」についての陰険な仄めかしも伴っている、と見逃す者は殆どいないだろう。つまり600万という非難は国体の根幹と国家の誇りを蝕むのに使われているだけでなく、民族そのものの生存を脅かしてもいる。地獄の劫火と破滅の脅威が中世にあったのと同じように、民衆の頭部を「600万という非難」が支配している。アングロ=サクソン世界の多くの国々、顕著なのは米英は、今日彼らの歴史の中で最も憂慮すべき危機、内にいる異邦の人種による危機に瀕している。英国でアフリカ人及びアジア人の移入と同化を止める何かを為さない限り、我々は近い将来に、流血を伴う人種間衝突とは全く別の、サクソン人が到来して以来ここに存在する者としての英国人の生物学的な変質と破壊に直面する。つまり、我々は欧州文化の、そして先祖代々続く人種の、修復不可能な喪失という脅威に晒されている。しかし人が生物学的及び政治的含意のある人種問題を話そうとする場合、何が起こる? 彼は最も憎むべき怪物、「人種主義者」だと烙印を押されてしまう。そして人種主義とは何か:勿論、ナチの血統書そのものだ! 彼ら(何れにせよ全員が言われるのだが)は人種主義により600万人のユダヤ人を殺したのだから、人種主義とは実際に悪そのものに違いない。イーノック・パウエルが彼の初期の演説の中で有色人種を英国に流入させる事による危機に注目した時、ある著名な民族社会者はダッハウとアウシュヴィッツの亡霊を引き合いに出して彼の仮定を黙らせた。
そうして人種問題の理性的な議論と人種保全の努力は実質的に阻止された。ユダヤ人が何世紀にも亘って今日も自身の人種を守ろうとしているやり方を称賛する以外には誰も何も出来なくなっている。この努力の中で彼らはあからさまに、ユダヤ人の人種的団結を強める必要性を強調する宗教神話じみた600万人の物語の支援を受けている。不幸な事に、600万人は他のあらゆる人々には正反対に機能し、自衛の為の努力を不能にさせている。
以降のページの内の目的は、純粋に事実を告げる為だ。著名な米国の歴史家ハリー・エルマー・バーンズはかつてこう著した、「優れ、客観的で、誠実な絶滅の疑問を表明する試みは……歴史家あるいは人口統計学者が今日行える内で確実に最も危険な冒険である。」この危険な仕事を遂行する試みに於いて、歴史的真実への貢献が、のみならず我々を脅かす危険に対し惜しまず立ち向かえるように自身の双肩から虚偽を剥がす為の貢献が、できることを期待している。
リチャード・E・ハーウッド正誤はさておき、アドルフ・ヒトラーのドイツはユダヤ人を、国内の共同体にいる不実で強欲な因子であり、またドイツの文化的生活を退廃させる勢力であるとも見做していた。ワイマール政権下でユダヤ人は著しく権力と影響力を、特に法と財力と報道機関の中で増していたため、喩え人口の5%しか占めていないとしてさえこの因子は極めて不健全だと考えられていた。カール・マルクスはユダヤ人であり、ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトといったユダヤ人はドイツでの革命活動で突出した重要性を持っていたという事実は、ナチスにユダヤ人自体が国際協調主義者にして共産主義者の傾向を強く持っていると確信させもした。
画面右半分を占める茶色の補足文章は、裁判での特筆すべき指摘内容・争点です。
1.検察側の歴史家クリストファー・ブラウニングの意見は、1939年迄のドイツのユダヤ人の移住は半数を僅かに超える程度だ、というものだ。ブラウニングは、800,000という数字は大袈裟だ、と証言した。1941年迄にドイツ、オーストリア、そしてその保護領を離れたユダヤ人の総数は530,000人だと。彼らに対して取られた方法のため、彼らは資産の「殆ど」を持って離れたと言うのは誤っていると。しかしブラウニングは反対尋問を受け、自分は人口統計学者でも統計家でもないと、そしてユダヤに関する人口統計は単なる推量に過ぎないと認めた。彼はまた、自分はユダヤ人が持って離れた資産の正確な割合も、量も示すことさえ出来ないと認めた。自分は資産の持ち出しを防ぐ大変な努力があったという事しか知らない、と。
ドイツによるユダヤ人への態度の正誤の議論も、彼らに対する立法手法の適切不適切の判断もここでは論説しない。我々の関心は単純に、ナチスによるユダヤ問題の解決とは、ユダヤ人たちを当時のありのままの姿の通りに捉えつつ様々な立法によってユダヤ人から国内での影響力を奪う為の、そして何より重要な事として、国内からの脱出を推奨する為のものだった、という事実にある。1939年までにドイツのユダヤ人の大多数は移住しており、その全員が資産の殆どを手元に携えていた。どの時点でもナチの指導者は彼らの大虐殺政策を検討する事さえなかった。1
しかし、特定のユダヤ人たちが即座に内部差別の政治を絶滅そのものに値すると解釈したのは大変重要だ。リオン・フォイヒトヴァンガー他複数名による1936年の反ドイツ宣伝戦の「Der Gelbe Fleck: Die Ausrotung von 500,000 deutschen Juden」(「黄斑:500,000人のドイツ在住ユダヤ人の絶滅」、パリで1936年に刊行)という題名の本がその典型的な例だ。実際には根拠がないにもかかわらず、1ページ目からユダヤ人抹消が論じられている――移住を一直線にドイツ在住ユダヤ人の物理的「絶滅」と結びつけている。ナチの政治犯用の強制収容所は大虐殺の潜在的な道具であるとも見做しており、1936年の時点で未だダッハウに捕まっていた100人のユダヤ人への、そしてそのうち60人は1933年から逮捕されている事への特別な言及がされている。もう1つの例はドイツ在住ユダヤ人共産主義者ハンス・バイムラーによる、1933年という早期にニュー・ヨークで出版された「Four Weeks in the Hands of Hitler's Hell-Hounds: The Nazi Murder Camp of Dachau」と呼ばれる衝撃的な本だ。マルクス主義者との連携によって逮捕されていた彼はダッハウを死の収容所と呼んだが、彼自身の自白によって、彼はたったひと月で釈放された。東ドイツの現政権は共産主義の貢献者にハンス・バイムラー賞を与えている。
反ナチの大虐殺宣伝戦がこの有り得ないほど早い時期に人種的に或いは政治的に偏った人々により広められていたという事実は、戦時中の似た物語に触れる際に主体性のある観察者に対して細心の注意を喚起するに違いない。
戦前におけるユダヤ人への移住の奨励を、強制収容所の目的と混同するべきではない。強制収容所は政治的対立者と転覆活動家――主に自由主義者、社会民主主義者、そしてあらゆる種類の共産主義者であり、その一部はハンス・バイムラーといったユダヤ人であった――の勾留に使われた。ソ連国内で奴隷化した数百万人とは異なり、ドイツの強制収容所の人口は常に少なかった。ライトリンガーは、1934年から1938年までの間でドイツ全体で20,000人を超えた事は皆無で、ユダヤ人が3,000人を超えた事は一度もないと認めている。(「The SS: Alibi of a Nation」、ロンドンで1956年に刊行、253ページ)。
2.ブラウニングは、1933年より前ではマダガスカルをユダヤの故郷となる国にする事はナチ党の綱領の目玉ではなかったと証言した。ナチの指導者が初めてマダガスカルに言及したのは1938年だった、と。マダガスカルの為の計画は1940年が初めてだ、と。
ナチはユダヤ人移住を、単なる追放という否定的な政策のみならず、現代的シオニズムという路線に沿って理論立てていた。19世紀の政治的シオニズムの創始者であるテオドール・ヘルツルは、その著書「The Jewish State」の中で、元々マダガスカルをユダヤの故郷となる国にする事を考えており、この可能性はナチスによって熱心に学ばれた。マダガスカル計画は 1933年より前の国家社会党綱領の目玉であり、小冊子の形式で党から出版されている。2この考えは、イスラエルをユダヤ国として奪還する事はアラブ世界の中に終わりなき戦争と紛争を引き起こすため遥かに受け入れられないものであると主張しており、この懸念は現実のものとなっている。ドイツ人がユダヤ人をマダガスカルに移住させると元々主張しだしたのではない。ポーランド政府が既に自国のユダヤ人口についてこの政策を考えており、1937年にはミヒャエル・レペッキをユダヤ人の代表を伴わせてマダガスカルへと関連する問題の調査に送っている。
ナチによるマダガスカル解決の最初の主張は1938年のシャハト計画と関連付けて発表された。ゲーリングの助言を受けて、ヒトラーはドイツ大国銀行の総裁ヒャルマル・シャハト博士をロンドンへ送り、ユダヤ人の代表ベアステッド卿とニュー・ヨークのルブリー氏と議論させる事に同意した(ライトリンガー著、「The Final Solution」、1953年にロンドンで刊行、20ページ参照)。その計画とは、ドイツのユダヤ人の資産を、ユダヤ人によるパレスチナへの移住の資金調達の為の国際的借款の保障として凍結するもので、シャハトはそうした交渉を1939年の1月2日にベルヒテスガーデンでヒトラーに報告した。英国側が財政的な額面の受け入れを拒否したため失敗したこの計画は、1938年11月12日にゲーリングが招集した会議で最初に提唱され、そこで彼は、ヒトラーはユダヤ人をマダガスカルの居住地へと定住させる事を既に考えている、と明かした(同書、21ページ)。後日、12月に、リッベントロップはフランスの外務大臣M・ジョルジュ・ボネから、フランス政府自体が10,000人のユダヤ人をマダガスカルへと退去させる計画を立てていると告げられる。
本質的に1935年程に始まった議論の延長である1938年のシャハトのパレスチナ提案より前に、欧州諸国外へのユダヤ人移住を保証する試みは無数に為され、そうした努力は1938年7月のエヴィアン会議で最高潮に達した。しかし、1939年までにはマダガスカルへのユダヤ人移住計画がドイツ国内で最大の支持を得た。1939年4月という遅くになってもロンドンでドイツ外務省のヘルムート・ヴォールタートがローデシアへの、そして英領ギアナへの限定的なユダヤ人移住を議論していたのは事実だ。だが、ゲーリングが内務大臣フリックにユダヤ人の為の中央移住局を創設する命令を
1939年までには、大国からユダヤ人を確実に離脱させる為のドイツ政府による一貫した努力は、合計約600,000人のドイツのユダヤ人の内400,000人を移住させ、追加でオーストリアとチェコスロバキアから480,000人の移民を出させるという結果を出していた、オーストリアとチェコスロバキアについては両国のユダヤ人口のほぼ全てだった。これは、ゲシュタポ局のユダヤ調査課の課長アドルフ・アイヒマンによって設置されたベルリン、ウィーン、そしてプラハのユダヤ移住諸局によって達成された。ドイツ人はこの確実な移住に余りに熱心であり、アイヒマンはオーストリアに訓練局を建てさえし、そこで若いユダヤ人たちはパレスチナへの非合法な密入国を予期して農業を学習できる程だった(マンヴェルとフランクル著、「SS and Gestapo」、60ページ)。ヒトラーがユダヤ人の絶滅の意図を持っていたとしたら、大量の富を持たせたまま800,000人以上を大国の領域から離れさせるに任せたというのは考えられない1し、況してやパレスチナあるいはマダガスカルへの大量移住の為の計画も考えにくい。その上、戦時中でも欧州からの移住政策は十分に考慮されていたと見做すべきであり、注目すべき事に1940年フランス打倒後にアイヒマンがフランスの植民地局の専門家と議論していたマダガスカル計画は植民地の明け渡しを現実的な提案へと変えている。
戦争が迫り、ユダヤ人に関する状況も劇的に変化した。ユダヤ世界そのものが自分は第二次世界大戦の交戦勢力の1つであると宣言しており、つまりドイツ人たちがユダヤ人口を敵対勢力として抑留する為の国際法の基盤は十分にあった事は広く知られてはいない。1939年9月5日、シオニストの主要指導者であるハイム・ヴァイツマンは世界のユダヤ人の為にドイツへと宣戦布告し、こう主張した「ユダヤ人は大英帝国の側に立ち、民主主義の側で戦う……ユダヤ機関はユダヤの人力、技術能力、そして資源等を活用する為の手配を即座に行う準備がある……」(「Jewish Chronicle」、1939年9月8日刊)。
ユダヤ人全員はこうしてドイツ大国に対して戦争を宣言する意思のある公然たる遂行者となり、その結果ヒムラーとハイドリヒは最終的に抑留の政策を始めた。合衆国とカナダは在留日本人と日系市民全員を拘留所に抑留しており、それはドイツが同じ予防手段を欧州のユダヤ人に適用する前の話だったという事は注目すべきであろう。それ以上に、ヴァイツマンがしたものと同じような、日系米国人による不忠の証拠あるいは宣言はどこにもない。英国もボーア戦争の間ボーア人口の女子供を全員抑留し、数千人がその結果死んだが、英国人がボーア人を絶滅したがっていたと咎を受ける事は全く有り得ない。欧州の占領地域におけるユダヤ人の拘禁はドイツの視点から見て2つの根本的な目的に適った。1つ目は社会不安と転覆騒擾の防止だ。ヒムラーは1942年の10月11日にムッソリーニに、ユダヤ人に対するドイツの政策は戦時中は軍事的予防という理由のため完全に変わったと伝えた。彼は、占領地域にいるユダヤ人数千人はパルチザン戦闘、破壊工作と諜報活動を行っていると不満を漏らしており、この見方はレイモンド・アーサー・デイヴィスへと与えられた『ユーゴスラビアのチトーの下で35,000人以上のヨーロッパ系ユダヤ人がパルチザン戦を行っていた』というソ連の公式情報によって確実なものとなっている。結果として、ユダヤ人はドイツ国内にある制限区域と拘禁収容所へと、そして特に1942年の3月以降はポーランド総督府にあるそれらへと輸送された。戦争が進展するにつれ、政策はユダヤ人抑留者を戦時下の労働人口として使うものへと発展していった。ユダヤ人大虐殺計画という主張を考える時にこの労働人口という疑問は根本的となる、論理に基づけば、大虐殺は二正面の戦争での生存を遂行する間において労働力、時間、そして労力の完全に荒唐無稽な浪費だからだ。ロシアへの攻撃後間違いなく、強制労働という考えはユダヤ人移住というドイツの計画よりも優先されていった。1943年4月17日の、ヒトラーとハンガリーの摂政ホルティの間の会話の公式記録では、このドイツの指導者が直接ホルティに100,000人のハンガリーのユダヤ人を、ドイツへの空爆が増加していた当時のドイツ空軍の「追撃機計画」の労働の為に解放するよう要求している(ライトリンガー著、「Die Endlösung」、1956年刊行、478ページ)。この会話は、ドイツ人が既にユダヤ人を絶滅しようとしていたと言われている時期に交わされているが、ヒトラーの要求は明確に労働勢力の拡大を優先して狙っていた事を示している。追撃機計画と歩調を合わせて強制収容所は実質的に工業複合体となっていった。ユダヤ人及び他国の民が拘留されていた収容所それぞれにはドイツの軍事物資用の大きな産業的工場と製造所があった――例えばベルゲン=ベルゼンにはブナ社のゴム工場があり、アウシュビッツにはブナ社とI・G・ファルベン・インドゥストリーがあり、ラーフェンスブリュックにはシーメンス社の電気工場があった。多くの場合、強制収容所の特別紙幣が労働の対価として発行されており、これによって囚人は収容所の店で追加の買い物ができるようになっていた。ドイツは強制収容所の制度から最大の見返りを得ようと決心しており、それはその内にいる数百万人を絶滅しようとする等という計画と完全に矛盾している。この利益追求が、強制収容所を大規模な工業地帯にしようとしている、オズヴァルト・ポールが長を務める親衛隊経済管理本部の職分だった。
3.ブラウニングは、フランス人とのそのような折衝はなかったと証言した。マダガスカル計画は英国の外洋支配継続のため失敗したと。
4.ブラウニングは、『ゲッベルスは「備忘録」を書いておらず、「日記」を書いた』と言った。ゲッベルスは強制労働の必要性を力説しておらず、しかし正反対の事を言った、と。例えば、1942年3月27日に、彼はユダヤ人の60%は浄化されなければならず、40%は強制労働に使われるだろうと書いていると。ブラウニングは、自分はそのゲッベルス日記の原本の信憑性を確認した事はないと認めたが、商業出版された版を受け入れていた。歴史家ウェーバーは、タイプ打ちで書かれているためゲッベルス日記全体の信憑性は極めて疑わしいと証言した。タイプ打ちだから、その信憑性を検査する方法がないと。合衆国政府自体がこの日記の正確さの責任を持てないと指摘している:原本の布装丁版には、「この写本の信憑性の保証も否定もしない」という合衆国政府の主張が含まれていると。ブラウニングは、Seraphim reportといった他の文書に依拠してドイツ人は労働力としてのユダヤ人の利用に優先順位を置いていないことを示した。歴史家ウェーバーはこの意見に同意しなかった。彼の見方によると、ユダヤ人はドイツ人にとって価値ある労働資源であった。ヒムラー自身が強制収容所の収容者を可能な限り広範な軍事生産に使うよう命令を下していると。
しかし驚くべき事実として、戦時下に入ってもドイツ人はユダヤ人移住政策を実行し続けた。1940年のフランス陥落によってドイツ政府はフランス人との間で、欧州のユダヤ人をマダガスカルへと輸送する為の重要な折衝の口火を切れるようになった。1942年8月のドイツ外務省の外務大臣ルターによる備忘録は、彼はこうした折衝を1940年7月から12月までの間行い、フランス人に断られた事を明らかにしている。31940年8月15日と日付の入っているルターのいた外務省の回覧は、右腕のダンネッカーによって署名されている事から、このドイツの計画の詳細はアイヒマンによって練られていた事を示している。アイヒマンは実のところ8月に詳細なマダガスカル計画を作成するよう任じられており、ダンネッカーはフランスの植民地省でマダガスカルの調査を行っていた(ライトリンガー著、「The Final Solution」、77ページ)。8月15日付のその主張は、欧州間の銀行1社に段階的な計画の間じゅう数百万人の移住の資産融資を行わせるというものだった。ルターの1942年の備忘録は、8月の終わり迄にはハイドリヒはヒムラーからこの計画の承認を得ており、これをゲーリングにも提示している事を示している。6月17日という早くに、ムッソリーニに向かってヒトラーが「マダガスカルの中にイスラエルを見出だす事は可能です」と述べているのを通訳シュミトが回想しているため、ヒトラーの承認を取っている事も確実だ(「Schmidt, Hitler's lnterpreter」、1951年にロンドンで刊行、178ページ)。フランスは1940年12月にマダガスカル折衝を断ったが、パリのユダヤ証拠資料センターの局長ポリアコフは、それにもかかわらずドイツはこの計画を追求し、アイヒマンは1941年じゅうこれで忙しかった、と認めている。しかし最終的に、これは戦争の進展により、特にロシア侵攻という状況の後は非現実的になり、1942年2月10日、外務省はこの計画を一時的に棚上げすると通達を受けた。ルターの右腕ラーデマッハーから外務省に送られたこの決定は極めて重要である、この決定は、決定的に「最終的解決」という語にはユダヤ人の移住という意味しかなく、東方居住区とアウシュヴィッツといった強制収容所への輸送は排出の代替的計画でしかいないと示しているからだ。直接的にこう書かれている:「ソ連との戦争は『最終的解決』の為の別の土地を配備する可能性を一時的に作り出しています。最終的に総統は、ユダヤ人はマダガスカルでなく東方へと排出されるべきであると結論付けています。そのためマダガスカルを最早『最終的解決』と結び付けて考える必要はありません」(ライトリンガー著、同書「The Final Solution」、79ページ)。その排出の詳細はひと月前にベルリンでのヴァンゼー会議で議論されており、下記で精査しよう。マダガスカル計画は棚上げされたため、ドイツ人は必然的に「絶滅」を考えなければならなかった、とライトリンガーとポリアコフは共に全く根拠のない考えを持っている。しかしそのひと月後の1942年3月7日に、ゲッベルスはユダヤ人問題の「最終的解決」としてのマダガスカル計画の為の備忘録を書いている(マンヴェル及びフランクル著、「Dr. Goebbels」、ロンドンにて1960年に刊行、165ページ)。この時に彼は「東方で収容されている」ユダヤ人を認めている。のちのゲッベルスの備忘録は東方(つまりポーランド総督府)への追放を強調もするようになり、そこでの強制労働の必要性を力説している。東方への排出政策がひと度始まると、ユダヤ人労働力の利用がこの作戦の根本的な一部となっていた。4前述の通り、「最終的解決」という語がマダガスカルと東方圏の両方へと適用されており、つまりユダヤ人の追放のみを意味している事は完全に明らかだ。1944年5月という遅くでさえ、ドイツ人は100万人の欧州ユダヤ人に欧州からの移住を認める準備ができていた。この主張の説明はスターリンの粛清の間追放されていたソ連の著名なユダヤ人科学者アレクサンダー・ヴァイスベルクによって、彼の著作「Die Geschichte von Joel Brand」(1956年にケルンにて刊行)の中でなされた。ドイツ人は自分を強制収容所に抑留するだろうと考えていたが戦中をクラクフで過ごせたヴァイスベルクは、「ヒムラーの個人的な権限によってアイヒマンは、ブダペストのユダヤ人指導者ジョエル・ブランドに、『連合国宛の、戦争真っただ中にいる100万人の欧州ユダヤ人への輸送許可の申し出』を持たせて、それからイスタンブールへと送りました」と説明している(もし仮に「絶滅」著者らを信じられるとしたら、1944年5月になっても100万人のユダヤ人が残っているなどまずあり得ないだろうというのにだ)。これに纏わる輸送はドイツの軍事遂行努力に大変負担になるとゲシュタポは認めていたが、ロシア戦線で独占的に使われている10,000台の貨物自動車と引き換えにそれを認める準備をしていた。不幸にも、この計画は無に帰した。英国は指導者ブランドを危険なナチの使者だと結論付けて即座に彼をカイロに幽閉し、新聞社はこの申し出をナチの奸計だと非難した。ウィンストン・チャーチルは、ハンガリーのユダヤ人への扱いは恐らく「世界の歴史の中で犯された中で最大で最も恐ろしい犯罪だ」という趣旨の演説をしたが、にもかかわらずハイム・ヴァイツマンにブランドの提案の受け入れは不可能だ、彼のロシアの同胞への裏切りになってしまうからと告げていた。この計画は結実しなかったが、この計画は、絶滅を「徹底的に」実行したとされる容疑者は誰も100万人のユダヤ人の移住を認めないだろうという実例に十分になっているし、ドイツ人にとって軍事遂行努力において何が根本的な重要性を持っていたのか、という事も示している。
5.ブラウニングは、同時代のドイツの統計学研究は600万人を絶滅するのに十分なユダヤ人がいた事を示していると証言した。それらの研究は:(a)ブルクドルファーの研究(欧州には約1072万人のユダヤ人がいたという見積もり)、(b)マダガスカル計画(1940年の時点で400万人がドイツの勢力下にいた)、(c)ヴァンゼー会議議定書(1100万人のユダヤ人)。ブラウニングの意見によれば、その当時に行われたドイツの研究は、欧州内のドイツ勢力下に1000万人のユダヤがいる事さえ示したのだと言う。だから、600万人は絶滅されうると。彼は再度、自分は人口統計学者でも統計家でもないと認め、そして国境線の変遷と様々な「ユダヤ人」の定義の問題がこの地域に於けるあらゆる結論を単なる見積もりに過ぎないという水準に達してしまう程に難しくしていると認めた。
6.チェンバーズ百科事典はロシアを別にした欧州大陸で暮らしているユダヤ人の総数しか扱っていない、この小冊子で述べているような、戦前の欧州で暮らしている総数ではない。
7.これらの人数は当時行われたドイツの研究と矛盾している、とブラウニングは証言した。ヴァンゼー会議議事録の統計と比較すれば、360,000人のユダヤがドイツから移住した、147,000人がオーストリアから移住した、30,000人が保護国から移住した事になる、と。これらの人数はハーウッドの人数より全てずっと少ない、と。
8.ブラウニングは、このライトリンガーへの言及は誤りだと証言した。ライトリンガーは合計で300,000人のポーランドのユダヤがソヴィエト連邦に逃げたと言ったのであって、ハーウッドが述べた「他の欧州のユダヤ人」ではない、と。つまりハーウッドが出した1,250,000という人数は、5倍も多いことになる、と。
ユダヤ人口に関する統計はどこでも正確な詳細さで分かってはいないし、様々な国で推測値は大きく異なり、1939年〜1945年の間に追放され抑留されたユダヤの人数も分からない。しかし概して信頼できる統計というものが、特に移住に関するものが、600万人のユダヤ人が絶滅された等ひと欠片もあり得ないと十分に示している。5まず、この600万人という主張は欧州のユダヤ人口の精査からは全く有り得ない。チェンバーズ百科事典によれば、戦前に欧州で暮らしていたユダヤ人は6,500,000人だった。6これはほぼ全員が絶滅された事を明白に意味している。しかし利用可能なユダヤ人統計情報を用いた中立的なスイスの出版物「Baseler Nachrichten」は、1933年から1945年の間に1,500,000人のユダヤ人が英国、スウェーデン、スペイン、ポルトガル、オーストラリア、支那、インド、パレスチナそして合衆国へと移住したと立証している。これはニュー・ヨークのユダヤ紙「Aufbau」で1948年8月13日に同じ数字を唱えた人物ユダヤ人記者ブルーノ・ブラウによって確証された。そうした移民のうち、およそ400,000人が1939年9月以前にドイツから出ている。世界ユダヤ人会議によって、その出版物「Unity in Dispersion」(377ページ)の中でこの数字は認められており、その書物の中で「戦争が勃発する前にドイツのユダヤ人たちの大多数はドイツから離れる事に成功しています」と述べている。ドイツのユダヤ人に加え、オーストリアのユダヤ人合計280,000のうち220,000人が1939年9月までに移住しており、1939年3月以降プラハのユダヤ人移住局はチェコスロヴァキアがあった地域からの260,000人の移住の安全を確保している。全員で、360,000人のユダヤ人しか1939年9月以降のドイツ、オーストリア、そしてチェコスロヴァキアにはいなかった。7戦争勃発前におおよそ500,000人がポーランドから移住している。これらの人数は、他の欧州諸国(フランス、オランダ、イタリア、東欧諸国等)からのユダヤ人移住者人数は約120,000人だった事を意味している。戦前戦中のこのユダヤ人逃避行は、そのため、欧州のユダヤ人数を推計5,000,000人にまで減らした。これらの移民に加え、1939年以降にソヴィエト連邦に逃げた、そしてのちにドイツ侵攻の届かないところへと避難したユダヤ人数も含めなければならない。大まかに1,250,000人である彼らの大多数はポーランドからの移民であった事は下で示される。しかしポーランドは別にして、ライトリンガーは300,000人の他の欧州のユダヤ人が1939年から1941年の間にソ連領に逃げ込んだ事を認めている。これによってソヴィエト連邦へのユダヤ人移民は約1,550,000人になる。8雑誌「Colliers」の1945年6月9日号で、ロシアのユダヤ人を記しているフライリング・フォスターは「1939年以降2,200,000人がナチスを逃れてソヴィエト連邦へと移住していた」と説明していたが、我々のより少ない推計の方が恐らくより正確だろう。ソヴィエト連邦へのユダヤ人移住は、そのためドイツ領域内のユダヤ人数を350万人前後、3,450,000程へと減少させていた。そこから、戦火を逃れた欧州の中立国で暮らしていたユダヤ人を差し引くべきだ。1942年の「World Almanac」によれば(594ページ)、ジブラルタル、英国、ポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス、アイルランドそしてトルコで暮らしていたユダヤ人の数は413,128人だった。
9.ヒルバーグは、これは誤りだと証言した。実際には、1920年代に行われた人口調査で2,732,600人が発表されていると。
10.これらの統計はナチス独自の統計とは矛盾している、とブラウニングは言った。例えば、1942年用のドイツの統計ではハンガリーのユダヤ人口は743,800人だと。ドイツによるハンガリーからの追放の記録は、ハーウッドがハンガリーのユダヤ人口として提示した数より多いユダヤ人数を示していると。
したがって、ドイツ占領下の欧州にいた300万人前後のユダヤ人の数は移住統計が許す限りで正確な値になるだろう。しかしまさにこの数は、大国に占領されていた国々に残っていたユダヤの人口統計を調査するという別の方法でおおよそ推論できる。1939年以降にソヴィエト連邦へと移住したユダヤ人の半分以上はポーランドから来た。『ポーランドとの戦争により約300万人のユダヤ人がドイツの勢力圏内に加えられ、ポーランドのユダヤ人口のほぼ全てが「絶滅」された、』というのはよく主張される。これは大いなる事実誤認だ。1931年、ポーランドのユダヤ人口調査で2,732,600人のユダヤ人口がいた(ライトリンガー著、「Die Endlösung」、36ページ)。9ライトリンガーは、1939年秋の時点でそのうち少なくとも1,170,000人がロシアの占領地域におり、そのうち100万人ほどは1941年6月のドイツ侵攻のあとウラルと南シベリアに避難させられた、と述べている(同書、50ページ)。上記の通り、おおよそ500,000人のユダヤ人が戦前にポーランドから移住していた。その上、ソヴィエト連邦内で戦時下を過ごした記者レイモンド・アーサー・デイヴィスは、およそ250,000人が1939年から1941年までの間にドイツ占領下のポーランドからロシアへと逃げてきた事を目撃しており、そしてソ連の地方どこででもそうした者たちと出会っている(「Odyssey through Hell」、1946年ニュー・ヨークにて刊行)。そして、これらの人数を人口2,732,600人から引き、通常の人口増加を考えると、1939年の終わりの時点でドイツの統治下に1,100,000人を超えないポーランドのユダヤ人が存在し得た(「Gutachen des Instituts für Zeitgeschichte」、ミュンヘンにて1956年にて刊行、80ページ)。この数に、戦前のドイツ、オーストリア、そして元チェコスロヴァキア国(ボヘミア=モラヴィアとスロヴァキア)からの上述の大規模な移住の後もこれらの国に残っていた、360,000人のユダヤ人を加えよう。しかしフランスのユダヤ320,000人について、ニュルンベルク諸裁判でフランスに関する起訴の代表となった検察官は、120,000人のユダヤ人が追放されたと表明している。ライトリンガーは僅か50,000人程が追放されたとしか見積もっていない。つまりナチ統治下のユダヤ合計人数は200万人以下だった。スカンジナヴィア諸国からの追放は少数で、ブルガリアからは全くいない。オランダ(140,000人)、ベルギー(40,000人)、イタリア(50,000人)、ユーゴスラヴィア(55,000人)、ハンガリー(380,000人)、ルーマニア(725,000人)のユダヤ人口を含める時でもドイツ勢力下の人数は300万人をそう超えない。10この超過は、大国に占領されていた国々に残っていたユダヤの人口統計による人数は「ドイツ、オーストリア、チェコスロヴァキア、ポーランドを除いた欧州諸国(フランス、オランダ、イタリア、東欧諸国等)からのユダヤ人移住者120,000人(上記参照)」の影響を受けていない、戦前の見積もりであるという事実のためである。この多角的な検証は、つまり、おおよそ300万人の欧州のユダヤ人がドイツ権勢下にいたという推測を確証させる。
ロシアのユダヤ人に関し、正確な人数は分からず、そのため極端な誇張の対象になっている。ユダヤ人統計学者ジェイコブ・レシチニスキは、1939年時、その後ドイツの占領するロシアには、つまり西ロシアには、2,100,000人のユダヤ人が暮らしていたと主張している。加えて、エストニアのバルト地方、ラトヴィア及びリトアニアには260,000人ほどが生活していた。戦後にソヴィエト連邦に赴きそこでのユダヤの地位の報告を行ったロシア救済米国ユダヤ議会の会長ルイス・リーヴァインによれば、その大多数はドイツの軍隊が侵略に乗り出した後東へと疎開させられたという。1946年10月30日にシカゴで、彼はこう宣言した:「戦争勃発の時点で、ユダヤ人はヒトラー配下の侵略者の脅威に晒されている西部から最初に疎開した者たちの中におり、安全にウラル東部へと輸送されました。そのため200万人のユダヤ人が救出されています。」この多量の人数は、モスクワのイディッシュ語雑誌「Ainikeit」に1942年12月5日に「疎開のお陰で、ウクライナ、白ロシア、リトアニアそしてラトヴィアのユダヤ人の大部分(8割)はドイツが到着する前に救出されました。」と書いたユダヤ人記者ダヴィト・ベルゲルソンによっても確証されている。ライトリンガーは、大半が疎開させられていたと認めているユダヤ人の権威ジョセフ・シェヒトマンに同意しているが、ドイツ占領下に残ったロシアとバルトのユダヤ人を僅かに多い、650,000から850,000人の間に見積もっている(ライトリンガー著、「The Final Solution」、499ページ)。ドイツの領域内に残っているソヴィエトのユダヤ人に関して、ドイツのアクション・グループによってパルチザン及びボルシェビキ・コミッサール(人民委員)として戦時中にロシアで殺された人数は10万を超えはせず、その全員がユダヤ人であったわけではない事を後に証明するだろう。それとは対照的に、パルチザン自身がドイツの部隊をその5倍殺害したと主張している。
そのため、ドイツが600万人近いユダヤ人を占領下に置いたあるいは絶滅したなどあり得ないのは明らかだ。ソヴィエト連邦を除いて、移住の後にナチが占領した欧州のユダヤの人数は300万を殆ど超えず、どのような手段でも彼ら全員を抑留できない。600万人の半数の絶滅の試みは、欧州で生きていたユダヤ人それぞれの浄化を意味するだろう。そしてまたユダヤ人の大多数は1945年より後も欧州で生きていた事も知られている。書籍「Their Brother's Keepers」(ニュー・ヨークにて1957年に刊行)の中でフィリップ・フリードマンは「少なくとも100万人のユダヤ人がナチ地獄の坩堝から生き延びた」と述べているが、ユダヤ人共同配給委員会の公式な人数は1,559,600人だ。つまり、後者の推計を受け入れてさえ、あり得る戦中のユダヤ人の死者の数は150万の上限を超えられない。この結論は正確に中立国スイスの有名な雑誌「Baseler Nachrichten」によっても到達されている。「Wie hoch ist die Zahl der jüdischen Opfer?」(「ユダヤ犠牲者の数はどこまで多かったのか?」、1946年6月13日刊行)と題する記事で、上述の人口と移住の数に純粋に基づいて死傷者として数え得るユダヤは150万人が上限であると説明している。しかし本稿の後半で死者数は実際には遥かに少ない事を提示しよう、バーゼル通信は共同配給委員会による「戦後の1,559,600人の生存者」という人数を受け入れたが、ユダヤ人生存者によって主張される補償対象の人数はその数の倍以上である、と提示する事によって。この情報は1946年のスイスでは利用できなかった。
議論の余地のない証拠は戦後の世界のユダヤ人口統計からももたらされている。1938年のWorld Almanacは世界のユダヤ人口を16,588,259としている。しかし戦後、1948年2月22日のニュー・ヨーク・タイムズでは世界のユダヤ人数を最小15,600,000、最大18,700,000と置いている。これらの数字が数千人を超えるユダヤ人死者数を不可能にしているのは極めて明らかだ。1938年の1550万人から主張される600万人を引くと900万が残る。だからニュー・ヨーク・タイムズは、世界のユダヤ人は10年間で700万の子を産み、人口をほぼ倍にしたと言っている事になる。余りにも馬鹿げている。だからこれは、消えた「600万」の大多数は実際には移民――戦前、戦中、そして戦後の欧州諸国、ソヴィエト連邦、そして合衆国への移民――だったことを明かしているだろう。そして移民の大多数は、戦中、そして何より終戦時に、パレスチナにも移住した。1945年以降、ユダヤ人生存者の船客らは欧州からパレスチナへと密航し、当時この地を統治していた英国政府に酷い困惑を引き起こした。その数は余りに多く、女王陛下の記録資料保管局の公布番号190(1946年11月5日)では彼らを「第二のエクソダスに匹敵する量だ」と記述する程だ。1948年までに世界のユダヤ人口を1500万から1800万の間へと膨らませたのが世界のあらゆる場所へのこうした移民であり、おそらく受け入れ制限の法を犯して合衆国に移住した者が一番多かった。1963年8月16日、イスラエル首相ダヴィド・ベン・グリオンは公式の米国のユダヤ人口は5,600,000人であるにもかかわらずこう述べた、「総人数は9,000,000人と見積もっても多すぎはしないでしょう」(「Deutsche Wochenzeitung」、1963年11月23日刊)。この人数の多さの理由はウクライナ出身のアメリカの記録映画監督ユダヤ人アルバート・メイサルによって彼の著作「Our Newest Americans」(リーダーズ・ダイジェスト出版より1957年1月刊)で「第二次世界大戦直後、大統領令によって、東欧と中欧に割り当てられた査証全ての9割は追放された者たちへ発行されました」と明かされることで強調された。そこのページで再印刷しているのは、ニュー・ヨークで週刊されているユダヤ系米国人向け雑誌「Aufbau」の死亡記事欄の中で定期的に登場している数百の抜粋のうちのほんの1つである(1972年6月16日刊)。その再印刷では、合衆国へのユダヤ移住者はどのようにして何度も名前を変えたかが示されている。欧州にいた頃の元の名前が丸括弧のうちに登場している。例えばこのような調子だ:アーサー・キングスレイ(元はフランクフルトのケーニヒスベルガー博士)。名前に「故」と加えられているそうした人々の一部あるいは全員が、欧州の消えた600万人の中に含まれている、というのは有りえないことだろうか?
以上から、殺害されたユダヤ人600万人という数は、全く根拠のないいくつかの推量の間の単なる曖昧な妥協に過ぎないと確定できるように見える。この数は信用できるという一片の文書証拠もない。時に、文筆家たちは犠牲者数を絞って宥和的な信憑性のうわべを与えることがある。例えばリヴァプールのラッセル卿はその著書「The Scourge of the Swastika」(ロンドンにて1954年に刊行)で、「500万人は下らない」ユダヤ人がドイツの強制収容所で死んだと主張しており、600万人と見積もる者たちと400万人を好む者たちの中間にいる自分に満足していた。しかし彼は、「本当の数が分かることはないでしょう」と認めている。であれば、彼が「500万人は下らない」とどうやって断言できたかを知るのは困難であろう。共同配給委員会は5,012,000という人数を好んでいるが、ユダヤ人の「専門家」ライトリンガーは、「消えたユダヤ人」は4,192,200人だ、という奇抜な数字を提示しており、そのうち1/3は病死や老衰だと見積もっている。これは、故意に「絶滅された」人数を2,796,000へと減少させる。しかし、1948年のジュネーヴで開かれた世界ユダヤ人会議の記者会見にニュー・ヨーク代表として参加したM・パールツワイグ博士はこう述べている:「民族社会主義と結束主義の凋落の代償として、残酷な反ユダヤ主義がために700万のユダヤ人命が失われました。」この会見やそこ以外で、人数は時に楽々と800万人に、あるいは900万人にさえ達している。前章で証明した通り、これらの数字はどれも最も妥当そうな程度に至っておらず、実のところ馬鹿げている。
11.最初のユダヤ人への大量虐殺非難は、連合国によって1942年11月17日に共同宣言の中で行われた。ブラウニングの知る限り、レムキンは600万人という人数を著書の中で使っていない。ウェーバーは、この誤りはこの小冊子の論の構成にとってどうでもよいものだと指摘した。
12.ゲルシュタインの姉妹ではなく、義理の姉妹であり、安楽死プログラムの中殺された。実のところディベーリウスは、ハーウッドが書いたのとは正反対に、ゲルシュタインは信頼に値すると確信していると証言した。しかしヒルバーグは、ゲルシュタインを全く理性を失った人物だと見做しており、彼は現実に想像を加えるような人物であるという点に疑問の余地はない、と認めている。ブラウニングはゲルシュタインの口述書に「問題」があると承諾した。彼の明確な誇張は、経験による「心的外傷」に起因する、とブラウニングは言った。
知られている限り、ドイツ人への戦中の欧州でユダヤ人を大量殺戮したという最初の非難はポーランドのユダヤ人ラファエル・レムキンが1943年にニュー・ヨークで出版した著作「Axis Rule in Occupied Europe」の中で為されている。11ちょっとした偶然で、レムキンは後に「人種主義」の違法化を求める国際連合のジェノサイド条約を立案した。彼の著書で、ナチスは数百万人の、恐らくは600万人程度の、ユダヤ人を殺したと主張されている。1943年までを書いたこの本は実のところ驚くべきものだ、絶滅作戦は1942年の夏にやっと始まったと言われているのだから。この比率だと、世界のユダヤ人口全体は1945年までには絶滅されるだろう。戦後、宣伝戦の数字は鰻登りし、幻想的なまでになっている。親衛隊に潜入したと自称している反ナチのクルト・ゲルシュタインは、フランスの尋問者レイモンド・カルティエに、少なくとも4000万人の強制収用所の収容者がガス殺された事を知っていると告げた。1945年4月26日に初めて署名した備忘録の中で、彼は人数を2500万人に減らしたが、これでさえフランスの諜報部にとっては奇異に過ぎ、1945年5月4日のロットヴァイルで署名した2回目の備忘録で彼は、人数をニュルンベルク裁判で好まれた600万に近付けた。ゲルシュタインの姉妹は先天的に狂っていて安楽死しており、これは精神の不安定さの傾向がゲルシュタイン本人にもあった事を十分に示唆している。12実のところ彼は、1936年に奇怪な手紙を投函したため有罪判決を受けている。2度の「告白」の後、彼はパリのシェルシュ・ミディ監獄で首吊り自殺した。戦時中にユダヤ人殺害についての情報を、ドイツの男爵を通してスイス政府に送ったが、何らかの不可解な理由のため彼の報告は「仕舞い込まれ、忘れ去られました」、とゲルシュタインは主張した。彼はまた、1942年8月にベルリンにいるローマ教皇使節に「絶滅計画」全容について伝えたが、その聖職者はただ「出て行きなさい」と告げただけだった、とも主張している。ゲルシュタインの陳述には圧倒的な大量処刑(ベウジェツでたったの1日に1万2000人)を何度も目撃したという主張が多数あるが、2度目の備忘録では1942年6月6日にヒトラーがポーランドにある強制収容所を訪れたという、全く起きていないことが知られている出来事を記述している。ゲルシュタインの幻想的なまでの誇張は大規模絶滅という考え全体への不信を招く以外にはほぼ何もしていない。実際、ベルリンの福音派の司教ヴィルヘルム・ディベーリウスは彼の備忘録を「信用に値しない」と弾劾している(H・ロートフェルス著、「"Augenzeugenbericht zu den Massenvergasungen" in Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte」、1953年4月刊行)。12しかし、1955年、ドイツ政府がドイツの学校に2つ目のゲルシュタイン備忘録を配布するという信じられない事が起きた(「Dokumentation zur Massenvergasung」、1955年にボンにて刊行)。その中では、ディベーリウスはゲルシュタインに格別の信頼を置いており、忘備録は「疑問の余地もない」と述べられている。これは、ドイツで継続しており、特に若者を対象にしている、ナチスによる大虐殺に対する根拠のない非難の手法の顕著な一例である。
戦時中に絶滅された600万人のユダヤ人という物語はニュルンベルク裁判でヴィルヘルム・ヘットル博士による証言によって最終的な権威が与えられた。彼はアイヒマンの補佐だったが、実のところアメリカ諜報局にいてウォルター・ヘーゲンという仮名で数冊の本を著した些かの変人だった。ヘットルはソ連の間諜としても働いており、ニュルンベルク裁判の事前尋問の間、合衆国の官吏として活動していたウィーンからの2人のユダヤ移民、ペルガーとヴェルベルと共謀した。この極めて胡散臭い人物ヘットルの口述書が、600万人のユダヤ殺害に関する唯一の「証明」を構成していると言われているのは極めて驚くべき事だ。1945年11月26日の自白調書の中で、合計で600万人のユダヤが絶滅されたと自分は知っていたとは述べなかったが、1944年の8月にブダペストでアイヒマンがそう「自分に告げた」と述べている。言うまでもないが、アイヒマンは自身の裁判の中でこの主張に全く同調していない。ヘットルは大戦の後半ずっと米国の密偵として動いていたため、直接ハイドリヒとアイヒマンの下で働いていたとしてさえ、彼が米国人にユダヤ人殺害政策の僅かな仄めかしさえ与えなかったというのは大変奇妙である。
13.ブラウニングの意見によれば、そのような文書は存在し、ハンス・フランク日記、ヴァンゼー会議議事録、そしてヒムラーの1943年ポズナン演説が含まれるという。歴史家ロベール・フォリソンは、そのような文書がユダヤ人虐殺への入念な計画の存在を「証明する」としたら、ホロコースト学会の輪の中で「機能説派」と「意図説派」の間で議論など生じないだろうと指摘した。この議論自体が入念な計画の存在の証拠がない事を示していると。ヒルバーグは、1985年のツンデル裁判の中でユダヤ人を絶滅させる為の口頭命令は2つあったと証言した。彼は、『直後に出版される予定の「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」の次版たる第2版の中でこの見方を変える』事を否定した。1988年、ヒルバーグは第2のツンデル裁判での証言を断り、検察当局に送った親書の中で、再び証言する行為は「酷く疑わしい」と唱えた。「弁護側は、」彼は書いている「……矛盾があるように見えるものへの指摘によって事あるごとに私を嵌めようとしていましたが、これまでの私の証言と今年1988年に私がするであろう答えの間の差異は些細なものになるでしょう。」ブラウニングは証言の中で、ヒルバーグは初版から1985年に出版された2版の間で、決定までの工程の中に於けるヒトラーの役割に関して「意義深い」変更をしていた、と認めた。「The Revised Hilberg」と題される論文の中でブラウニングは、ヒルバーグは著書の第2版で、著作内にある、ヒトラーの決定に関する、あるいは「最終的解決」に関するあらゆる言及を「体系的に削除していました」、と書いた。「新版の中で、」とブラウニングは書いた、「決定はされておらず、命令は下されておりません」。
ドイツ人がユダヤ人虐殺を検討していた、あるいは実行していた事を証明する文書は1枚たりとて存在しないというのは早急に強調されるべきであろう。13ポリアコフとウルフの「Das Dritte Reich und die Juden: Dokumente und Aufsätze」(1955年にベルリンで刊行)では、彼らが集められたのはヘットルやオーレンドルフ、ヴィスリツェニーといった人々から戦後に聞き出した証言ばかりであり、最後の人物の証言に至ってはソ連の監獄で拷問によって得たものだった。証拠がないため、ポリアコフはこう書かざるを得なかった:「こうした3〜4人が主に完全絶滅の計画立案に関与し、そして死んだため、文書は全く残っていません。」実に都合が良いように思える。計画自体も「3〜4人」の人々も、単なる著者の思い込みに過ぎず、全く証明できていない。勿論、残っている文書には絶滅への言及が全くないため、ポリアコフやライトリンガーといった著者らは『そうした命令は概して「口頭」でなされました』といった都合の良い思い込みを再び行っている。文書的な証明を欠いているのに、ユダヤ人虐殺の計画の起源は1941年のロシア攻撃と同時期であるに違いないと想定している。その計画の第1段階にはソ連のユダヤ人殺戮が含まれていたと主張されており、後でそれを反証しよう。この計画の残りは1942年の3月に、クラクフ付近にあるアウシュヴィッツの巨大工業複合体といったポーランド総督府の東方収容所への、欧州のユダヤ人の追放と強制収容と共に始まったと思われている。その幻想的で全く根拠のない思い込みは、「アイヒマンの部署の監督下での東方への輸送は実は、到着するや否やの竈での絶滅を意味していました」というものだ。マンヴェルとフランクル によれば(「Heinrich Himmler」、1965年にロンドンにて刊行)、大虐殺政策はヒトラーとヒムラーの間の「秘密討議」の後「登場したように思えます」(118ページ)だそうだが、彼らはその証明に失敗している。ライトリンガーとポリアコフは、類似の「口頭」路線を考えており、ヒトラー、ヒムラー以外の誰もそうした議論に同席を許されず、そして記録に残されなかったのだ、と追加している。そうした奇異な会合が起こった事を示唆だけするものですら一片の証拠もないため、これは純然たるでっち上げである。概して出鱈目で無責任な著書「The Rise and Fall of the Third Reich」の中で、筆者ウィリアム・シャイラーも同じく文書による証明という問題について沈黙を貫いた。彼は、ヒトラーによるユダヤ人虐殺の命令と思われるものは「紙に全く起こされなかったようです――少なくともその写しは未だ確認されていません。恐らく、ゲーリング、ヒムラー、そしてハイドリヒに口頭で伝えられ、彼らはそれを下位へと送りました……」(1148ページ)と弱々しく述べている。絶滅伝説を支えるのに引用される「証明」の種類の典型的な例はマンヴェルとフランクルが提示している。2人は、ゲーリングが大国国家保安本部の長官にしてヒムラーの副官であったハイドリヒに送った1941年7月31日付の備忘録を引証する。意義深い事に、その備忘録はこう始まる:『1939年1月24日に貴殿に与えられた、現在の状況に関し最良の可能な手段である「移住と避難」によってユダヤ問題を解決する為の任務の追加……。』その備忘録で与えている追加任務は「欧州のドイツ勢力地域におけるユダヤ問題の完全解決(Gesamtlösung)」であり、これは東方に強制収容するという意味であるとこの著者らは認めていて、そしてこの備忘録は関連する組織的、財政的、そして物資的な問題の備えを要求している。この備忘録はそれから、この指令の冒頭で言及した理想的で究極的な移住と避難の計画に明確に触れている「望ましい最終的解決」(Endlösung)の為の将来計画を求めている。人々の虐殺行為への言及は全くないのに、マンヴェルとフランクルは我々にこの備忘録の正体を保証する。繰り返すが勿論、完全解決とはかけ離れているという最終的解決の「正体」は、「ハイドリヒはゲーリングにより口頭で知らされました」のだという(「Heinrich Himmler」、118ページ)。そこかしこで登場するこうした「口頭」の指令の都合の良さは明らかである。
ユダヤ人を絶滅する計画の最終的な詳細は1942年1月20日にベルリンのグロス・ヴァンゼーでの、ハイドリヒが議長を務めた会議で詰められたと考えられている(ポリアコフ著、「Das Dritte Reich und die Juden」、120ページ以降。ライトリンガー著、「The Final Solution」、95ページ以降)。ドイツの省庁の高官らが出席し、ミュラーとアイヒマンはゲシュタポ本省代表として参加した。ライトリンガーとマンヴェルとフランクルはこの会議の議事録を虐殺計画の存在を証明する切り札だと考えているが、実際にはそのような計画は言及すらされておらず、それ以上に、彼らは自由気儘にそれを認めている。マンヴェルとフランクルはこう言って些か弱々しい言い逃れをしている:「この議事録は、使用された言葉と用語の本当の重要性を覆い隠す官僚の形式に包まれています」(「The Incomparable Crime」、1967年にてロンドンにて刊行、46ページ)、これは、彼らは議事録を独自のやり方で解釈する意図を持っている事を正に意味している。ハイドリヒが実際に言ったのは、上記で引用した備忘録の中にあるものと同様、自分はユダヤ問題の解決の差配をゲーリングより任されている、ということだ。彼はユダヤ人の移住の歴史を批評し、戦争によってマダガスカル計画が非現実的になってしまったと述べ、こう続けた:「移住計画は今は、総統のこれまでの承認に従ってより可能な解決である東方へのユダヤ人避難に取って代わられています。」ユダヤ人の労働は活用できるとここで彼は説明している。この全ては深刻な邪悪さを持ち、ユダヤ人は絶滅されるべきであるという隠れた意味を孕んでいると思われているが、ブーヘンヴァルトに抑留され、600万人という神話への反論という立派な務めを行っているフランス人ポール・ラッシニエ教授は、額面通りのものでしかないと説明した、即ち、労働力の為、ポーランド総督府の巨大な東方のゲットーへのユダヤ人強制収容だと。「そこで彼らは、終戦して彼らの未来を決めるであろう国際的な議論が再開できるようになるまで待たされていました。その決定は最終的に、省庁をまたいだベルリン=ヴァンゼー会議でなされました……」(ラッシニエ著、「Le Véritable Proces Eichmann」、20ページ)。しかしマンヴェルとフランクルは、絶滅を示す出典の欠如を恐れていない。ヴァンゼー会議では、と彼らは著している:「殺人への直接的な言及は避けられていました、ハイドリヒは『Arbeitseinsatz im Osten』(東方での労働割当)という語を好みました」(前掲書「Heinrich Himmler」、209ページ)。何故「東方での労働割当」を「東方での労働割当」という意味で受け取ってはいけないのかは説明されない。ライトリンガー他によれば、それから絶滅を明記してある無数の指令が1942年の以降の月に実際にヒムラー、ハイドリヒ、アイヒマン、そして所長ヘスの間で行き交ったそうだが、言うまでもなく、「何も残っていない」。
14.ブラウニングは、ポズナン演説にはユダヤ人絶滅に対する明確な言及が含まれていると証言した。しかし歴史家デイヴィッド・アーヴィングは、「絶滅」に関するポズナン演説の原本の記述のそうした箇所は改竄されていると証言した。別のカーボン紙が使われ、別のタイプライターで打たれ、番号が鉛筆で振られていると。アーヴィングはまた、イスラエル人たちはヒムラーの私的な日記を持っているが、歴史家へのその開示を拒んでいるとも指摘した。ヒムラーの日記が「ホロコースト」を支えるとしたら、とアーヴィングは言う、イスラエル人は真っ先にそれを開陳するだろう。
絶滅計画の存在を支える文書証拠の完全な欠如のため、残っている文書の再解釈が行われる傾向にある。例えば、追放に関する文書は追放についてのものでは全くなく、絶滅について語る狡猾な手法なのだ、というものだ。マンヴェルとフランクルは「様々な用語が虐殺を迷彩するのに使われました。それには『Aussiedlung』(疎開)、『Abbeförderung』(引っ越し)が含まれます。」(前掲書「Heinrich Himmler」、265ページ)と述べている。つまり、既に見てきている通り、語句はそれが余りに不都合な場合にはもう言葉通りとは想定されない。東方での労働割当というハイドリヒの指令の解釈など、この種の事例は全く信用できない極限まで達している。別の例は被追放者を東方に送るようにというヒムラーの命令への言及で、「つまり、彼らを殺せということだ」(前掲書「Heinrich Himmler」、251ページ)だそうだ。等しく証拠を欠いているライトリンガーも全く同じ事をしており、ヴァンゼー会議の「持って回った」語句から、「人種全体の緩慢な虐殺が意図されている」のは明らかだと宣言した(前掲書「The Final Solution」、98ページ)。この文書状況への再吟味は重要である、あてずっぽうと根拠のない思い込みの構造の上に絶滅伝説が成り立っている事を明らかにするからだ。ドイツ人は緻密なまでに紙になんでも記録するという偏執的な性癖を持つが、数千の、獲得した『国家防衛隊とゲシュタポの文書、大国国家保安部の文書、ヒムラーの指令本部の書類記録、そしてヒトラーが保有する戦争指令書』の中に、ユダヤ人絶滅やそれに類する命令書は1枚もない。実のところこれはテル=アヴィヴにある当代ユダヤ証拠資料世界センターも認めている、と後で見ることになるだろう。1943年にポズナンでヒムラーから親衛隊大将たちに送られた話の中に虐殺の「分かりにくい暗示」を見つける試みも同様に全く絶望的だ。14戦後に引き出された、常に強迫の下にあったニュルンベルクの証言は続く章で精査する。
600万人の物語は、1945年から1949年の間にドイツ指導者を裁いた、歴史上最も不名誉な法の茶番であると判明しているニュルンベルク諸裁判で司法のお墨付きを与えられた。英国陸軍元帥モントゴメリーが言ったように、「敗戦を犯罪にするものである」これらの裁判の不正への、より詳細な研究なら、読者に下記に引用される作品群を、特に著名な英国の法学者F・J・P・ヴィールによる傑出した書物「Advance to Barbarism」(1953年にネルソン郡にて刊行)を、参照すると良い。まさにその発端から、ニュルンベルク諸裁判は統計的な大間違いに基づいて進行した。シドニー・オーダーマン氏は1945年11月20日に起訴の読み上げの中で9,600,000人のユダヤ人がドイツの占領する欧州で生きていたと言明した。我々の前述の言及は、その人数は不正確にも程があると示している。その言明は(a)1933年から1945年までのユダヤ移住を完全に全て無視し、(b)ドイツ占領下に全く入らなかった200万人以上を含むロシアのユダヤ人を加えること、でなされている。同じく膨れ上がり、僅かに大きくなった9,800,000人がイスラエルでのアイヒマン裁判でシャロム・バロン教授によって再び出された。主張される600万人の犠牲者は最初はニュルンベルクでの告発の根幹として登場し、同時期の新聞による1000万やそれ以上の犠牲者というおふざけの後、最終的に国際的な認知と同意を得た。しかしながら、1945年の向こう見ずな逆襲の雰囲気の中でこの奇抜な数字が信用を勝ち得れたにもかかわらず、1961年のアイヒマン裁判までには最早批判に耐えられるものでなくなっていたというのは大変に重要である。エルサレム法廷は600万という数字への言及を慎重に避け、ギデオン・ハウスナー氏が起草した告発文では単に「数」百万と言っていた。
15.ヒルバーグは、ニュルンベルクで弁護人には目撃証言への反対尋問が許されていたと証言した。ウェーバーは、多数の自白調書が証拠に入れられており、その上での反対尋問は不可能だと証言した。
ユダヤの根絶はニュルンベルクで「証拠」によって「証明」されていると信じるよう誤導されている者は、この諸裁判自体の性質があらゆる種類の正常な法の原則の完全な無視に基づいていたと考えるべきである。原告が検察官、裁判官、そして死刑執行人として振る舞った。「有罪」が最初から想定されていた。(裁判官の中には勿論ロシア人がおり、彼らの無数の犯罪の中には、スモレンスク付近のカチンの森でドイツ人がその死体の一部を発見した15,000人のポーランドの士官の虐殺が含まれていた。ソ連の検察官はこの虐殺でドイツの被告人を非難しようとした)。ニュルンベルクで遡及法が立法され、人々は行った後にその行為を犯罪だと宣言されただけで「犯罪」の審理にかけられた。これまで、人は侵害した時点で強制力を持っていた罪を犯す事によってのみ有罪判決を下され得る、というのは法の最大の基本原則であった。「Nulla Poena Sine Lege.」英国の法律学によって何世紀もかけて発展していった、可能な限り確実性を積み上げて咎の真実に至る為の証拠法は、ニュルンベルクで完全に無視された。「この法廷は技術的な証拠法に拘束されるべきではない」と布告されたが、「証拠能力を持つと思われる証拠」は認められ、つまり、有罪判決を支えた。実際にはこれは、通常の司法裁判では信用に値しないと必ず排除される風聞の証拠と文書を認めるものであった。認められたそのような証拠は深刻な重要性を持つ、絶滅伝説による主要な手法の1つは詐欺の「自白調書」によって織り成されているからだ。240人の証人しかこの裁判の法廷に召喚されていないにもかかわらず、300,000を下らないこれらの「自白調書」が、宣誓のもと聴取を受けることもなく、告発を支えるものとして認められた。こうした状況の下、ユダヤの被追放者あるいは収容所の収容者は望んでいた復讐の主張を何でも行えた。取り分け信じられないのは恐らく、ニュルンベルクでは弁護人に検察側の証人への反対尋問が認められていなかったという事実であろう。15いくらか似た情況が蔓延っていたのはアドルフ・アイヒマン裁判で、当時「耐え難い状況が生じた場合」にはいつでもアイヒマンの弁護人は罷免され得ると告知されており、その場合とは恐らく彼の無罪の証明を始めた時であった。ニュルンベルク諸裁判の本当の背景は、これらの法廷の1つの裁判長であった米国の裁判官であるヴェンナーストラム判事によって暴露された。彼は余りにその進行にむかつきを覚え、自分への任命を辞任し米国へ逃げ帰り、「Chicago Tribune」紙に主張を残し、あの諸裁判への異議を1つ1つ挙げていった(マーク・ラウターン著、「Das Letzte Wort über Nürnberg」56ページ参照)。その論点3〜8は以下の通り:3.検察局の者たちは規範となる新たな法の基幹を公式化し達成させようとしているのではなく、私的な野望と復讐に衝き動かされていた。4.検察当局は、可能なあらゆる手段で最大限、被告側によるこの案件の準備を妨害し、被告側が証拠を得るのを不可能にした。5.テイラー将軍が主導したこの検察当局は、その権力の限りを尽くして、軍事法廷の全会一致の決定が実行に移されるのを妨害した、即ち、米国政府の保有する文書証拠を更に法廷に与え利用可能にするようワシントンに依頼した。6.ニュルンベルク法廷の9割は政治基盤あるいは人種基盤に偏りのある者で構成されており、検察当局の場合に至ってはそれ以上である。7.検察当局は明らかに、この軍事法廷の行政職の席全てを「帰化証明書が実際には極めて新しい『米国人』」で占めるやり方を知っており、そして、席を占めた者たちは行政業務や翻訳業務他によって、被告人に敵対的な空気を醸成した。8.ニュルンベルク裁判の本当の狙いはドイツ人に総統の罪を示す事であり、そしてこの狙いは同時に、この裁判が命じられた口実であった……私ヴェンナーストラムは、その7ヵ月前にニュルンベルクで起こる事を知っていたなら、そこには行かなかっただろう。論点6のニュルンベルク法廷の9割は政治基盤あるいは人種基盤に偏りのある者で構成されているというのは、他者の提示からでも確証できる事実である。米国の法律家アール・キャロルによれば、検察庁の職員の6割はヒトラーの人種法の公表の後ドイツを離れたドイツのユダヤ人だった。彼は、ニュルンベルク法廷に従事していた米国人のうち実際に生まれつき米国人であるのは1割にも満たないと観察していた。テイラー大将の裏で働いていた検察庁の長官は、ドイツからのユダヤ移住者ロバート・M・ケンプナーだった。彼はモリス・アンチャンの補助を受けていた。裁判を観察していたマーク・ラウターンはその自著でこう書いている:「彼らは全員外来でした:ソロモン姓、シュロスベルガー姓、そしてラビノヴィッチ姓の者らが検事側の職員でした……」(前掲書「Das Letzte Wort über Nürnberg」、68ページ)。これらの事実から、「根本的法理:自分に関係する事件の裁判官の椅子に座れる者はいない」が棄却されているのは明白だ。それ以上に、証人の大多数もユダヤ人であった。モーリス・バルデシュ教授もこの諸裁判を観察していたが、彼によればそうした証人の唯一の関心は自身の憎悪を過度に公にする事ではなく、裁いて客観性があるという印象を与える事だった(「Nuremberg ou la Terre Promise」、パリにて1948年に刊行、179ページ)。
しかし全体的に見てより心をかき乱すのは、絶滅の咎を支えるのに使われた、ニュルンベルクでの、特に親衛隊の士官から証言と「自白」を引き出すのに用いられた手法だ。米国の上院議員ジョセフ・マッカーシーは、1949年5月20日に「American Press」紙に寄稿した主張の中で、こうした自白を確保する為の以下のような拷問の事例に注目を喚起した。シュヴェービッシュ・ハルの監獄の中で、ライプシュタンダーテ親衛隊アドルフ・ヒトラーの士官たちは血塗れになるまで鞭で打たれ、その後地面に腹ばいになっている間に性器を踏み潰された。兵卒たちへの悪名高きマルメディ虐殺裁判と同じく、囚人たちは求められた供述書に署名するまで空中に吊るされ、殴られ続けられた。親衛隊上級大将ゼップ・ディートリヒとヨアヒム・パイパーに強要して得たそうした「自白」に基づき、ライプシュタンダーテは「有罪組織」だと判決を下された。強制収容所制度の経済部門の管理者である親衛隊大将オズヴァルト・ポールは顔に糞を塗りたくられ、自供を提供するまで何度も殴られた。こうした事例に関して、上院議員マッカーシーは記者団にこう告げた:「被告人が殴られ、虐待され、病んだ脳味噌でしか思い付かないような方法による身体的な拷問を受けていた証拠を聞いた事があるし、文書証拠を読んだ事があります。彼らは模擬裁判と処刑擬きの標的であり、家族は配給カードを剥奪されるだろうと脅されました。これら全ては、要求する自白の強要に必要不可欠な、心理的な空気を確保する為に検事の承認の下行われました。合衆国が、少数の者によるそうした悪行を罰さなかったのであれば、世界中は我々を厳しく正当に批判できるし、我々の動機の正しさと道徳の清廉さを永遠に疑えるでしょう。」記述されている恫喝の手法はフランクフルト=アム=マインとダッハウでの諸裁判で繰り返され、多数のドイツ人がそうした自供に基づいて残虐行為の有罪判決を受けた。後にダッハウ諸裁判での司法の手法の調査を任じられたシンプソン陸軍調査委員会の3人いる委員の1人である米国の判事エドワード・L・ヴァン・ローデンは、1949年1月9日の「Washington Daily News」紙で、そうした自供を確保した手法を明らかにした。彼の説明は、1949年1月23日の英国の新聞紙である「Sunday Pictorial」紙にも登場した。彼の描写した手法とは:「告解を聞いて許しを与える僧侶のふりをする。囚人の爪への燃えるマッチという拷問。歯を殴り顎を砕く。独房監禁と飢餓配給。」ヴァン・ローデンは説明している:「証拠として認められた証言は、最初に3、4、そして5ヶ月独房監禁された者たちから得ています……尋問官は被告人の頭に黒い頭巾を被せ、それからブラス・ナックルで顔を殴り、蹴り、ラバー・ホースで打ち付けました……139の事例のうち2人のドイツ人を除いた全員が、睾丸を蹴りで潰されていました。これが米国の尋問官の標準的なやり方でした」と。「米国の」尋問官の責任者(そして後に諸裁判で検察当局として機能した者たち)は:バートン・F・エリス中佐(戦争犯罪調査委員会の議長)とその補佐ラファエル・シューマッカー大尉、ロバート・E・バーン大尉、ウィリアム・R・パール大尉、モリス・エロウィッツ氏、ハリー・トーン氏、そしてキルシュバウム氏だ。法廷の法律顧問はA・H・ローゼンフェルド大佐だった。読者はすぐに彼らの名前から、こうした人々の大多数は、ヴェンナーストラム判事の言葉を借りれば「人種基盤に偏りがある」、と察知するだろう――つまり、彼らはユダヤ人であり、そのためそうした調査に関与すべきではなかった。ユダヤ人の絶滅に関する「自白」はこうした状況下で引き出されたものであるという事実にもかかわらず、ニュルンベルクでの証言は未だライトリンガーや他の著者から決定的な証拠と見做されており、諸裁判は公平でありこの上なく公正であるという幻は維持されている。検事正であるテイラー大将が、どこで600万人という数字を得たのか訊かれた時、彼は親衛隊中将オットー・オーレンドルフの自白に基づいていると答えた。彼も拷問されており、その事例は以下で精査する。しかしそうした一般的な「自白」を考える限り、ヴァン・ローデン判事の報告を批評している「British Sunday Pictorial」紙を引用するのが最良だろう:「屈強な男たちは検察官に要求された自白を何でも呟く、壊れた残骸になってしまいました。」
ここで、ニュルンベルクの文書そのものの一部に目を向けてみよう。600万人という伝説を支えるのに一番引用される文書は、そして主にポリアコフとウルフの「Das Dritte Reich und die Juden: Dokumente und Aufsätze」で登場する文書は、アドルフ・アイヒマンの局で補佐を務め後にスロヴァキアのゲシュタポの長となった親衛隊大尉ディーター・ヴィスリツェニーの証言だ。この証言は上述のものと比べてさえ遥かに甚だしい状況で得たものである、彼はチェコの共産主義者たちの手に落ち、1946年11月にソ連の支配するブラチスラヴァ監獄で「尋問」されたのだから。拷問の対象になったヴィスリツェニーは神経質な残骸になり、処刑前の後半には何時間も啜り泣く制御不能の発作に見舞われるようになっていた。彼の証言を得た状況では信憑性が全くないにもかかわらず、ポリアコフはそれの無視を選び、単にこう書いた:「獄中で彼は、大いに興味を惹く情報を含む回想録をいくつか書きました」(「Harvest of Hate」、3ページ)。そうした回想録には、ヒムラーはユダヤ移住の熱心な提唱者だったや欧州外へのユダヤ移住は戦中もずっと続いていたといった、確実性を提供するいくつかの偽りない真実の証言も含まれているが、大体はソ連の見世物裁判が産んだ共産式の典型的な「自白」である。ユダヤ人絶滅への頻繁な言及が行われ、可能な限り多くの親衛隊指導者をやり過ぎなまでに巻き込む試みが為された。事実的な誤りも一般的で、特にポーランドとの戦争によって300万以上のユダヤ人がドイツ領内に加えられたという証言があり、これは上記で我々が反証している。
ヴィスリツェニーの証言は、ロシア内での作戦行動に使われたアインザッツグルッペンあるいはアクション・グループの活動にかなり長く触れている。これらはニュルンベルクの調査において精緻なる熟考の価値がある、この諸裁判で提示されたその描写は、「600万」の小型模型の類であり、つまり史上最大の誇張かつ歪曲であると証明されているものだからだ。アインザッツグルッペンはゲシュタポとS.D.(保安局)から集められた4つの部隊で、ロシア内において行軍するドイツ軍の後に続いてパルチザンと共産主義者コミッサールを駆逐する任務を負っていた。1939年という早期に、赤軍に34,000人の政治コミッサールが所属していた。アインザッツグルッペンの活動はニュルンベルク諸裁判においてソ連の検事ルジェーンコにとって特段の関心事項だった。その4つの集団への1947年の起訴は、彼らの任務の中でロシアの100万を下らないユダヤ人がユダヤ人という理由だけで殺されたと主張している。こうした主張は以降精巧になっていっている。現在は、ユダヤ絶滅計画の第一段階としてアインザッツグルッペンによるソ連のユダヤ人虐殺があり、第二段階が欧州のユダヤ人のポーランドへの輸送だと主張されている。ライトリンガーは、元々の「最終的解決」という語句は移住への言及であり、ユダヤ人浄化とは関係ないと認めているが、それから彼は絶滅政策は1941年のロシア侵略時に始まったと主張している。彼は1941年7月の共産主義コミッサールの浄化の為のヒトラーの命令を考慮に入れており、そしてヒトラーによりアインザッツグルッペンに対し続けて口頭でソ連のユダヤ人全てを浄化しろという命令があったと結論付けている(「Die Endlösung」、91ページ)。もしこの憶測が何かに基づいているのだとしたら、恐らくこの無価値なヴィスリツェニーの証言に基づいているのだろう、その証言は、『アインザッツグルッペンはすぐに、共産主義者とパルチザンの粉砕の任務をロシアのユダヤ人の「大規模虐殺」まで拡張する命令を受けた』と主張しているのだから。繰り返すが大変重要な事として、ヒトラーの純正の書面による命令に続いたと思われるユダヤ人絶滅の「口頭の命令」もまた――ライトリンガーの不明瞭で証明不可能な憶測の一部なのだ。ヒトラーによるそれ以前の命令に1941年3月の日付があり、陸軍元帥カイテルによる署名付きであるそれは、将来のアインザッツグルッペンの本当の任務がどのようなものかを極めて明白なものにしている。ロシア内での作戦行動において、親衛隊全国指導者(ヒムラー)は「政権の為の任務、2つの対立する政治系統の中間で実行される抗争の結果生じる任務」を一任される、とその命令書は述べている(マンヴェルとフランクル著、前掲書「Heinrich Himmler」、115ページ)。この命令書は明確に、共産主義の、特に共産主義の教化という特定の任務を持つ政治コミッサールの、排除に言及している。
ニュルンベルクにおいて「アインザッツグルッペン事件」の最も露出度の高い裁判は、ウクライナで陸軍元帥フォン・マンシュタインの第11軍に随行したアインザッツグルッペD隊を指揮した、親衛隊中将にして保安局の局長であるオットー・オーレンドルフの裁判だ。大戦の最終段階で、彼は経済省で国家間貿易の専門家として任用された。オーレンドルフは前述の拷問の対象の1人であり、1945年11月5日付の自白調書の中で、彼は彼の監督権限単体の内で90,000人のユダヤ人が殺されたと自白するよう「説得」されている。オーレンドルフはニュルンベルク本裁判よりずっと後の1948年まで裁判に現れず、そしてその時まで、彼はこれまでの自分の証言は拷問で引き出されたものだと主張していた。その法廷の前の主な演説の中でオーレンドルフは、ドイツの強制収容所で傷ついた「1100万人のユダヤ人」の補償を当時主張していたバイエルン国立賠償局のユダヤ人法務長官フィリップ・アウエルバッハを非難する機会を持った。オーレンドルフはアウエルバッハのこの馬鹿げた主張を退け、アウエルバッハが掲げるユダヤ人数のうち極僅かしか強制収容所を1つも見ていないと述べた。オーレンドルフはアウエルバッハが横領と詐欺(存在しない人々への補償の過剰な支払金を示すのを目的とした文書偽造)で有罪判決を受けるのを目撃するまで生きてから、1951年に彼自身の最終的な処刑を受けた。オーレンドルフは法廷に、自身の部隊は時に、戦線より手前にいる反ユダヤ主義のウクライナ人によって計画されたユダヤ人虐殺を防がなければならなかったと説明し、アインザッツグルッペン全体は起訴が主張する死傷者の1/4すら傷つけていないと述べた。彼は、自分が戦わなければならなかったロシアでの違法なパルチザンとの交戦は通常のドイツ軍から命を遥かに多く奪ったと断言した――これはソ連政府によっても確証されている主張である、連邦は500,000のドイツ兵がパルチザンによって殺されたと自慢しているのだから。実際にバルト地方と白ロシアにあったアインザッツグルッペAの指揮官フランツ・シュターレッカーは1942年にパルチザンによって殺されている。英国の法学者F・J・P・ヴィールはアクション・グループに関し、ロシア戦線での戦闘においてパルチザンと市民との正確な区別は不可能である、テロリストとして振る舞わずに市民の状態を維持しているロシア市民は確実にその国民によって裏切者として処刑されるからだ、と説明している。ヴィールはアクション・グループについてこう言っている:「彼らへの命令はテロによってテロと戦えというものであった事に疑問の余地はありません」と、そして抗争の中でパルチザンによって為された残虐行為は、勝者の側にいた事が分かっているからという理由だけで非難に値しないと見做されていることに奇妙さを見出している(前掲書「Advance to Barbarism」、223ページ)。オーレンドルフも同じ見方をしており、自身の処刑の前に著した辛辣な表明の中で、当時の国際戦時法を尊重しなかった野蛮なソ連と戦っている間のドイツ軍に、それらの法による記述を順守させる連合国の偽善を非難した。
16.ブラウニングは、アインザッツグルッペン報告と他の歴史家の著作を根拠にしていると、そして最低100万人のユダヤ人がアインザッツグルッペンによって殺されたと証言した。しかし歴史家ウェーバーは、『アインザッツグルッペンについての大著「Die Truppe des Weltanschauungskrieges」の中で、その2人の著者はアインザッツグルッペン報告の中の人数全てを足せば合計で220万人のユダヤ人が死んでいることになると計算しています』と証言した。その著者らは、これは不可能であり、アインザッツグルッペン報告の人数は誇張されていると渋々認めていた、と。ウェーバーの意見では、ユダヤ人の大多数が1941年のドイツ侵略の前に東方圏から逃げたか避難した事が知られているため、約100万という人数は信じられるものではない。
その作戦の間にアクション・グループは100万人のユダヤ人を出鱈目に絶滅させたのだ、というソ連の非難は、既に紹介した直後に巨大な歪曲だと示した。実のところ、その数には僅かな統計学的な根拠もない。16これに関して、ポリアコフとウルフは疑わしい米国の密偵、二重スパイにしてアイヒマンの元補佐であるヴィルヘルム・ヘットルの主張を引用している。覚えているだろうが、600万人のユダヤ人が絶滅された、とアイヒマンは「自分に告げたのです」と、ヘットルは主張している――そして彼はその主張に、その内の200万人はアインザッツグルッペンによって殺されたと付け加えている。この不条理な人数はソ連の検事ルジェーンコの途方もない見積もりを遥かに上回っており、オーレンドルフを裁き判決を下した米国の法廷によって何ら信任を与えられていない。アクション・グループが原因である本当の死傷者数は有能な英国の法律家R・T・パジェットの著した学術書「Manstein, his Campaigns and his Trial」(ロンドンにて1951年に刊行)の中で明かされている。オーレンドルフはマンシュタインの名ばかりの指揮下にあった。パジェットの結論は、ソ連の起訴の人数を受け入れているニュルンベルク法廷は死傷者数を100割以上水増ししており、そうした死傷者が発生した状況を、それ以上に歪めている、というものだ。(これらの恐ろしい歪曲は、ウィリアム・シャイラーによる「The Rise and Fall of the Third Reich」の1140〜1146ページまでの6ページ分の話題である)。ここに、600万の伝説の小型模型がある。100万人の死ではなく、10万人の死だ。勿論、そのうちのごく一部しかユダヤ人パルチザンとユダヤ人共産党員ではなかった。『こうした死傷者は東部戦線における野蛮なパルチザンとの交戦の間に発生した』、そして『ソ連のテロリストたちは、その5倍のドイツの部隊を殺したと主張している』事は繰り返す価値があるだろう。にもかかわらず、ユダヤの絶滅はロシアでのアインザッツグルッペンの行動と共に始まったという人気の神話は残っている。終わりに臨んで、我々は簡単に、多数あったニュルンベルクの裁判手続きの中で典型的なマンシュタイン裁判そのものを調査しよう。(この部隊はヒムラーに対してのみ責任を負ってはいたが)アクション・グループDはマンシュタインの指揮下に属していたという根本的な理由により、多くの権威から戦争の最も輝かしきドイツ元帥であると見做されているこの62歳の病弱な元帥は、「戦争犯罪」裁判の下品な侮辱の対象となった。17の告訴のうち、15は共産ロシア政府により出され、2は共産ポーランド政府から出された。たった1人の証人がこの裁判で証拠を出すよう求められ、その証人は検察当局が彼の証拠を撤回するほどに不十分な証明を出した。代わりに信憑性は800の又聞きの文書に置かれ、それらの文書は信頼性の証明や出所の証明もなく法廷によって認められた。検察当局はオーレンドルフと他の親衛隊の指導者たちによる自白調書を持ち込んだが、それらの男たちは未だ生きているため、マンシュタインの被告側弁護士レジナルド・パジェット・K・Cは彼らを証人席に座らせるよう要求した。これは米国の当局によって退けられ、パジェットは「この拒否は、自白調書に署名させるのに使われた手法がどのようなものかを有罪判決を受けた者が明かすのを恐れてのものです」と言明した。マンシュタインは最終的に8つの告訴で無罪を勝ち取り、そのうちの2つはパジェット曰く「人々が何故存在しているのか不思議に思う程に目に余る、全くの捏造」である、ポーランドによるものだった。
アクション・グループの事例はニュルンベルク諸裁判の手法及び600万人の神話の偽造への意義深い見識である。別の事例は1948年のオズヴァルト・ポール裁判で、直接強制収容所組織の運営を扱っているがため極めて重要だ。ポールは、ヒムラーが親衛隊への彼の異動を求めた1934年まで、ドイツ海軍の主計将校の長だった。11年間、彼は親衛隊全体の経済部門の長官を務め、1941年以降に強制収容所制度の工業的生産高の担当をすることになる親衛隊経済管理局の長官も併任した。偽善の最高潮は裁判で検察当局がポールにこう言うあたりだ、「ドイツが自国領からのユダヤ人を排除し、ドイツの市民権を否定し、公職あるいは他の国内規則から除外する事で満足していれば、他国から不満が聞かれる事はなかったでしょう。」実際にはドイツはまさにその事をした為に非難の嵐を浴び、経済制裁を受け、そしてユダヤ人に対する国内でのやり方は確実に民主諸国家からドイツへの宣戦布告の大きな原因となった。オズヴァルト・ポールは極めて繊細で知的な人物だったが、裁判の中で人格が破壊された。上院議員マッカーシーが指摘したように、ポールは過酷な拷問の対象になった後に罪を負わせる供述書何枚かに署名しており、その中に1944年の夏にアウシュビッツでガス殺室を見たという偽りの自供がある。検察当局は熱心にこの責任を追及したが、ポールは拒否に成功した。この起訴の狙いは、この意気消沈した男を人の形をした真実の魔物として描写し、彼を知る者の陳述と矛盾する印象をどうしようもない程与えるところにあった。そのような彼を知る者の陳述は、ポールの妻の反ナチの友人、1942年から45年の間頻繁に接触していたハインリヒ・へプカーよりもたらされていた。ヘプカーは、ポールは本質的に物静かで穏やかな人物であると指摘した。1944年春にポールの元へと訪れた際、ヘプカーは収容所外での地元の事業で働いている収容者らと接触した。彼は、囚人たちは看守の重圧もなく寛ぎながら弛緩した雰囲気の中働いている事に気付いた。ヘプカーは、「ポールはユダヤ人に感情的な態度を取っておらず、ユダヤ人の友人アンマリー・ジャックスと打ち解けて楽しんでいる妻を咎めませんでした」と言明した。1945年の始まりから、ヘプカーはこの強制収容所の監督ポールは人道的で、良心的で、職務に忠実だと完全に納得しており、1945年後半にポールと彼の同僚への非難を聞いた時に驚いた。ポール夫人は、夫は、1945年3月にチフスが大流行しているベルゲン=ベルゼン収容所を訪れるまで、苦境に直面しながらも平静さを保っていました、と指摘した。これまで、この収容所は清潔さと規律の模範であったが、迫る戦禍という混沌とした状態によって極めて過酷な環境になってしまっていた。その時までに戦禍が押し寄せ通行の見込みがなくなっていた山道のためにもう状態を改善できなくなっていたポールはその経験の影響を深く受け、そして妻によれば、かつての落ち着きを取り戻す事は二度となかった。ニュルンベルク裁判で弁護団団長を務めた、大変尊敬に値する弁護士アルフレッド・ザイドル博士は、ポールの無罪を確保しようと熱心に行動した。ザイドルはこの被告人と長年私的な友人であり、ユダヤ人大虐殺計画というイカサマの告発に関して彼の潔白を心から確信していた。ポールに有罪判決を下した連合国の審判は、ザイドルの考えの変化を僅かでも促すものではなかった。彼は、検察当局は彼への有効な証拠の一欠片を生み出すことにも失敗していたと言明した。オズヴァルト・ポールへの最も雄弁な弁護の1つは、親衛隊の経済管理局内の法務官である親衛隊大佐クルト・シュミット=クレヴェノフによって、1947年8月8日の自白調書の中で為された。この自白調書は「Trials of the War Criminals before the Nuremberg Military Tribunals 1946 -1949」として知られる出版された文書からは入念に排除されている。シュミット=クレヴェノフは「ポールは、強制収容所の違法を調査するのが仕事である連邦刑事庁の法務官、コンラート・モルゲンに最大限の支援をしていた」と指摘した。後で、不法経営に関する親衛隊の法廷によって告発された収容所所長コッホの死刑にポールが賛成した件に言及しよう。シュミット=クレヴェノフは、ポールは地方の警察の長官と強制収容所の管轄を共有する為の調整の助けをしており、収容所職員の厳格な規律の保持において率先して努力していたと説明した。要するに、ポール裁判で提出された証拠は、『裁判の進行は、彼が管理していた強制収容所の中でのユダヤ人に対する大虐殺の伝説の宣伝戦を支える為の、この男への計画的な人格中傷に他ならなかった』事を示している。
600万人の神話を支える突飛な証言も含むニュルンベルクでの偽りの陳述は、常にこれまで例証に出した裁判事例の中にあるものと同様の過酷な拷問という、あるいは彼らが要求された証言を提供したら慈悲を保証するという、重圧によって、元ドイツ士官から提供されたものである。後者の一例は親衛隊大将エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーの陳述だ。彼は、1944年の8月にワルシャワで白ロシアの旅団と共にポーランド人パルチザンによる暴動を鎮圧したがために処刑の危機に瀕していた。そのため彼は「協力」する準備ができていた。バッハ=ツェレウスキーの証拠はニュルンベルク本裁判で親衛隊の全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーに対する陳述の基幹を構成していた(「Trial of the Major War Criminals」、4巻、29ページと36ページ)。ロシア侵攻の前夜である1941年3月、ヒムラーは親衛隊の高位指導者たちをヴェヴェルスブルクの城での会議に招き、招待された者の中にはパルチザン局地戦の専門家だったバッハ=ツェレウスキーがいた。彼のニュルンベルク証拠の中で、彼は会議でヒムラーが大袈裟な語で東欧の人々を浄化すると話した、と描写をしたが、法廷にいるゲーリングはその法廷内でこの陳述の虚偽についてバッハ=ツェレウスキーを目の前で非難した。ヒムラーによるロシア軍事作戦の狙いの1つの宣言とされているものに関する極めて悪意のある主張は、「スラヴ人口を3000万人殺す」というものだ。ウルフ参謀長が述べた、実際にヒムラーが語った内容は――ロシアでの戦争は確実に数百万人の死者を生じさせる、というものだ(マンヴェルとフランクル著、前掲書「Heinrich Himmler」、117ページ )。別の厚かましい欺瞞は、1942年8月31日にヒムラーはミンスクでのアインザッツ特務隊によるユダヤ100人の処刑を私的に視察し、気絶しかけた、というバッハ=ツェレウスキーの告発だ。しかしこの日ヒムラーはウクライナのジトームィルにある彼の指揮所での会議に参加していた(K・フォーヴィンケル著「Die Wehrmacht im Kampf」、4巻、275ページ参照)。ヒムラーに関する全ての本にあるものの大半がバッハ=ツェレウスキーによる証拠で構成されており、ウィリー・フライシャワーによる「Himmler: Evil Genius of the Third Reich」(ロンドンにて1953年に刊行、148ページ以降)はそれが甚だしい。しかし1959年4月、西ドイツ法廷の前で、バッハ=ツェレウスキーは公に自分のニュルンベルクの供述書を否定した。彼は、これまでの自身の証言は事実に僅かたりとも基づいておらず、利己心と自分の生存の為に言ったのだと認めた。ドイツ法廷は入念な討議の後、彼の撤回を認めた。言うまでもないが、ヴィールが「思慮ある沈黙という鉄のカーテン」と呼んでいるものが即座にこれらの出来事へと降ろされている。そうした出来事は600万人という神話を広める書物に何ら影響を与えず、バッハ=ツェレウスキーの陳述は未だ額面通りの価値があるものと扱われている。ヒムラーに関する真実は皮肉にも反ナチによって提供されている――医師であり按摩師であるフェリックス・ケルステンによって。ケルステンはかの政権に反対だったため、ユダヤ人抑留は絶滅を意味していたという伝説を支えがちだった。だがヒムラーへの親密で私的な知識のため、彼に関する真実を告げるのを抑えられず、著書「Memoirs 1940-1945」(ロンドンにて1956年に刊行、119ページ以降)の中で、彼はハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人浄化を唱えず、海外への彼らの移住に熱心だったという主張を強調した。彼はヒトラーも関係があるものとはしなかった。しかし、反ナチである彼の話の信頼性は、別の悪人を探す際に粉々に砕かれる、彼はゲッベルス博士が「絶滅」の本当の提唱者だと言明しているのだ。この荒唐無稽な主張は、前述の通りドイツ外務省によって一時的に棚上げされた後でさえゲッベルスはマダガスカル計画を未だ検討していたという事実によって十分に反証できる。ニュルンベルクでの偽証はここまでにしよう。その中身の信憑性の、あるいはその出所さえ確認する試みもされずにニュルンベルク法廷によって受け入れられた、詐欺で手に入れた数千の「署名つき自白調書」についても論じよう。そうした又聞きの、時に怪奇極まる文書は、要求された署名を帯びている限り「証拠」として持ち込まれた。1947年の強制収容所裁判で弁護側から正当性を疑われた典型的な起訴の自白調書はオーストリアにあるマウトハウゼンの職員、アロイス・ヘルリーゲルによるものだ。弁護側が、ヘルリーゲルへの拷問によって引き出されたものだと証明したこの自白調書は、既に1946年の親衛隊大将エルンスト・カルテンブルンナーへの有罪宣告の確保に使われていた。その自白調書は、マウトハウゼンで大量ガス殺作戦が実行され、カルテンブルンナー(ヒムラーを除いた中で大国内の親衛隊最高指導者)が実際にそれに参加していたと主張している。この強制収容所裁判(ポールの裁判)までに、再度これを法廷に提示する際にこの荒唐無稽な欠片を維持するのは不可能になっていた。弁護側はその自白調書の偽りを提示しただけでなく、マウトハウゼンでのあらゆる死は地元の警察機構によって機能的に確認されていた事も示した。彼らは収容所入所者登録簿にも手を付けており、残った僅かなものの1つであるマウトハウゼン登録簿が証拠として提出された時に検察当局に甚だしい困惑が生じた。弁護側はマウトハウゼン(主に犯罪者用の収容施設)の元収容者から、そこは人道的で規律のある状態だったと証言している無数の自白調書も得ている。
自らに課された醜悪な告発に対しての被告人の悲愴な驚嘆や憤慨した不信ほどニュルンベルクの悲劇と暴虐を雄弁に物語るものはない。そうしたものは大戦終盤の数年の間にドイツの強制収容所の大半を訪れた親衛隊少将ハインツ・ファンスラウの自白調書に反映されている。ファンスラウは武装親衛隊の前線の兵士だったが、強制収容所の状態に非常な関心を持っており、連合国によってユダヤ人抹消の陰謀の告発において重要な標的に選ばれた。彼の多くの接触に基づいて、「彼は完全に関係していたに違いない」と論じられた。彼は告発され有罪判決を受けるだろうと最初に噂された時、彼が訪れた収容所の収容者によって、彼に対する数百の自白調書が提出された。1947年5月6日のニュルンベルク継続裁判4番の中で、この強制収容所の隊員に対する起訴の全範囲を読んだ時、ファンスラウは疑念の中宣言した:「有り得ません、もしあったなら、私もそれについて何かしら知っていたに違いないのですから。」ニュルンベルクの進捗を通して、裁判を受けているドイツの指導者たちは連合国による起訴の主張の内容を一瞬たりとも信じなかったというのは強調されるべきであろう。ニュルンベルクの残虐行為宣伝戦の完全な矢面に立たされたヘルマン・ゲーリングは、起訴に納得することはなかった。ゲッベルス内閣の最高役人として裁判を受けていたハンス・フリッチェは、「アインザッツグルッペンに関するオーレンドルフの自白調書とアウシュヴィッツに関するヘスの口述書を聞いた後でさえ、ユダヤ人絶滅は完全に宣伝戦の創作だと、ゲーリングは確信したままである」と論じた(「The Sword in the Scales」1953年にロンドンにて刊行、145ページ)。裁判のある時点でゲーリングは、「ニュルンベルクの正にここで」初めてユダヤ人絶滅を聞いたと、なるほどと思わせる宣言をした(シャイラー著、前掲書「The Rise and Fall of the Third Reich」、1147ページ)。ユダヤ人著述家のポリアコフ、ライトリンガー、マンヴェルそしてフランクルは全員、この絶滅とされるものの中にゲーリングを巻き込もうと試みているが、チャールズ・ベウリーはその著作「Hermann Göring」(ゲッティンゲンにて1956年に刊行)の中で、ニュルンベルクではこの告発を立証する僅かな証拠も見つからなかったと示した。ハンス・フリッチェはニュルンベルク諸裁判の間この疑問全体を熟考し、これらの怪物じみた告発の徹底的な調査は確実に行われていないと締め括った。無罪を勝ち取ったフリッチェはゲッベルスの仕事仲間であり、卓越した宣伝戦術家であった。彼は、ユダヤ人大虐殺という主張は被告人全員に対する告発の要だと認識した。ハイドリヒを継いで国家保安部の長官となり、ヒムラーの死によって親衛隊の重要な被告人となったカルテンブルンナーは、ゲーリングよりも遥かに大虐殺の告発に納得しなかった。彼はフリッチェに、検察当局は目撃証言の強要と証拠の抑制という技術によって明確な成功を収めたのだ、と打ち明けた、これはヴェンナーストラムとヴァン・ローデン両判事による非難と全く同じものだ。
ポーランド内、クラクフ近くのアウシュヴィッツにある強制収容所は数百万人のユダヤ人絶滅とされるものの中心地であり続けている。どのようにかは後で見るが、戦後に英米の勢力圏内にいる誠実な観察者たちによってダッハウやベルゲン=ベルゼンといったドイツの収容所に「ガス殺室」は存在しなかった事が明らかになっており、注目は東方の収容所、特にアウシュヴィッツへと移っている。炉は確実にそこに存在したと主張された。不幸な事に、それらの東方の収容所はロシアの占領地域にあったため、誰もそうした主張の真偽を検証できなかった。ロシア人は戦後10年ほどアウシュヴィッツへの視察を拒み、その期間彼らはその外観を変更でき、そこで数百万人が絶滅されたという主張にもっともらしさを与えられた。ロシア人はそうした欺瞞をしかねない者たちであるかを疑う人は、数千人がスターリンの秘密警察によって殺された地に建てられた――だがこの死者らは第二次世界大戦でドイツの部隊の犠牲者であると宣言している――碑を思い出すべきだろう。アウシュヴィッツの真実は、これは軍需工場の為のあらゆる種類の物資を生産する為の最大にして最重要の工業的強制収容所であるというものだ。この収容所はI・G・ファルベン・インドゥストリー社によって建てられた石炭全般とゴムの製造工場で構成されており、そうした工場に対し囚人は労働力を提供していた。アウシュヴィッツは農業研究施設も含んでおり、研究所、植物園、畜産施設、そしてクルップ社の軍事工場を伴っていた。既に、この種の活動は諸収容所の主な機能だったと述べてきた。あらゆる大企業は収容所内に小施設を置いており、親衛隊さえ独自の工場を開いていた。ヒムラーによる諸収容所への訪問は、彼の主目的は工業的有効性の精査と評価だった事を示している。1941年の3月にI・G・ファルベン社の重役らを伴ってアウシュヴィッツを訪れた際、彼は収容所の問題と囚人用の施設に関心を持たず、ただI・G・ファルベン社に労働力を提供する為に100,000人の拘留者を収容できるよう収容所を拡張しろと命令した。これは数百万人の囚人を絶滅させるという政策とは全く合致していない。
にもかかわらずこの単一の収容所で600万のユダヤ人の半数程が絶滅されたと思われている、実のところ、一部の著述家は400万や500万を主張している。400万人というのはソヴィエト政府がこの収容所を「調査」した後に、そして同時にかの共産政府がカチンの虐殺でドイツへの非難を試みている頃に発表した衝撃的な数字だ。ライトリンガーは、アウシュヴィッツと他の東部の収容所に関する戦後の東欧の共産主義政権から来た情報をこう認めている:「ポーランドにある複数の死の収容所に関する証拠は、主に戦後ポーランド国の調査委員会によって、或いはポーランドの中央ユダヤ歴史調査委員会によって得られたものです」(「The Final Solution」、631ページ)。しかし、そうした「ガス殺」の生きていて信憑性のある目撃者が現れ検証された事はない。アウシュヴィッツでの3年間を含む7年間を強制収容所の中で過ごしたベネディクト・カウツキーは、著書「Teufel und Verdammte」(「悪魔と鬼畜」、チューリッヒにて1946年に刊行)の中で「3,500,000人を下らないユダヤ人が」そこで殺されたと主張している。これは全く驚くべき証言である、彼本人がガス殺など見たこともないと認めているのだから。彼は告白している、「私は複数のドイツの巨大強制収容所にいました。しかし、どの収容所にもどの時点ででもガス殺室のような施設に出くわした事はないという事実を明かさなければなりません」(272〜273ページ)。彼が実際に目撃した唯一の処刑は、2人のユダヤ人収容者を殺害したがために処刑された2人のポーランド人収容者だった。1942年10月にブーヘンヴァルトからアウシュヴィッツのブナ社で労働するよう移送されたカウツキーは著書の中で、軍事工場内での囚人の利用は終戦まで強制収容所の政策の重要項目だったと強調した。彼はこれとユダヤ人殺戮政策という主張との折り合いに失敗している。アウシュヴィッツでの絶滅は1942年3月から1944年10月まで起きたと主張される。その人数は600万人の半数であるそうなのだから、つまり32ヶ月間の間絶滅と死体処理を毎月約94,000人していたという事になる――2年と半年の間、昼夜問わず毎日大体3,350人だった。この種の主張は余りに馬鹿げており反駁の必要もない程だ。にもかかわらずライトリンガーは大真面目にアウシュヴィッツでは1日に6,000体を下らない死体処理が可能だったと主張している。ライトリンガーの1日に6,000人というのは1944年10月迄の合計500万超を意味しているが、そうした推量もオルガ・レンゲルの著書「Five Chimneys」(ロンドンにて1959年に刊行)の奔放な幻想の前には色褪せる。元はアウシュヴィッツの収容者だったと主張している彼女は、収容所は「1時間に720体、つまり24時間で17,280体の時間効率」を上回る焼却をしていたと断言している。彼女はまた、それに加えて「死の穴」の中で毎日8,000人が焼かれ、つまり「丸めて毎日約24,000体の死体が処分された」(80〜81ページ)とも主張している。これは勿論、1年に850万人超の時間効率を意味する。つまり1942年3月から1944年10月迄の間でアウシュヴィッツは最終的に、世界中のユダヤ人口より600万以上多い2100万人の死体を処理した事になる。突っ込みは不要だろう。アウシュヴィッツのみで数百万人が殺されたと思われているが、ライトリンガーは1940年1月から1945年2月迄の期間全体でこの収容所に363,000人の収容者しか登録されておらず(「The S.S. Alibi of a Nation」、268ページ以降)、その全員がユダヤ人であるわけはないと認めざるを得ない。多くの収容者は全く登録されなかったと頻繁に主張されるが、その証明を提出した者はいない。登録された者と同数だけ登録されなかった者がいたとしてさえ、合計で750,000人の囚人しかいない事になる――300万や400万という推測には程遠い。それ以上に、収容所の人口の大半は戦時中に解放されたか他所へ輸送され、最終的にロシア人が進軍する前の1945年1月に80,000人が西方に避難した。アウシュヴィッツの死傷者に関する統計学的な欺瞞については一例で十分だろう。シャイラーは、1944年の夏に300,000人を下らないハンガリーのユダヤ人がたった46日のうちに殺されたと主張した(前掲書「The Rise and Fall of the Third Reich」、1156ページ)。これは、380,000程であるハンガリーのユダヤ人口のほぼ全てだ。しかしブダペストの中央統計局によると、1945年のハンガリーには260,000人のユダヤ人がいた(これは共同配給委員会の数字220,000とおおよそ合致している)ため、たった120,000人しか「最早住人ではない」と分類されてはいない。最早住人ではない120,000人のうち35,000人はこの新しい共産政権体制から逃れた移民であり、更に25,000人はドイツの動員労働隊で働いた後でロシア領内へと連行されて拘留された。つまり計上されていないハンガリーのユダヤ人は60,000人しかいないが、M・E・ナメンニィはドイツへ追放された後に帰還したユダヤ人を60,000人と見積もっており、ライトリンガーはこの人数を多すぎると言っている(「The Final Solution」、497ページ)。このライトリンガーの指摘はありうるだろうが、戦時中のハンガリーのユダヤ人のかなりの国外への移住(「Report of the ICRC」1巻、649ページ参照)を心に留めれば、ハンガリーのユダヤ人の死者数は実際には僅少であったに違いない。
幾つかの新しいアウシュヴィッツに関する事実が、やっとそのあやふやな表層を形成し始めている。それは、「Die Auschwitz-Lüge: Ein Erlebnisbericht von Theis Christopherson」(「アウシュヴィッツ伝説:ティース・クリストファーセンによる体験諸報告」、1973年にKritik Verla社がモールキルヒにて刊行)と呼ばれる最近の作品の中に含まれている。定期刊行物「Deutsche Bürger-Iniative」の中でドイツの法律家マンフレート・レーダー博士によって発表されたこれは、カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会の為の合成ゴム生産の調査を目的としてアウシュヴィッツにあるブナワーク社の大規模製造所へと送られたティース・クリストファーセンによる、アウシュヴィッツでの目撃報告だ。この報告から少しした1973年5月に、練達の「ナチ狩り」ユダヤ人であるサイモン・ヴィーゼンタールは、フランクフルトの法律事務所に対し、『この「図々しい」本の出版社は、そして著者にして御事務所の所員であるレーダー博士は、懲罰委員会の前に出頭すべきだ』と要求した。本当に7月に訴訟が始まったが、新聞社からすら痛烈な批判を受けるものであり、「サイモン・ヴィーゼンタールはドイツの新しい大管区指導者なのですか?」と訊ねられている(「Deutsche Wochenzeitung」、1973年7月27日刊行)。クリストファーセンの報告は確実にアウシュヴィッツの再評価にあたっての最重要文書の1つだ。彼は1944年をまるまるそこで過ごし、その間にユダヤ人の一括虐殺が起きていたと言われるアウシュヴィッツ=ビルケナウを含む、巨大なアウシュヴィッツ共同住宅を構成する個別の収容所を全て訪問した。しかしクリストファーセンは、ユダヤ人一括虐殺は全く真実でないと確信を抱いている。彼はこう書いている:「私は1944年1月から1944年11月までアウシュヴィッツにいました。戦後、ユダヤ人収容者に対して親衛隊が行ったとされる大量殺人について耳にし、大変驚きました。あらゆる目撃証言、あらゆる新聞報道、そしてあらゆるラジオ報道にかかわらず、私は今でもそうした恐ろしい行為の存在を信じていません。私は何度もいくつもの場所でこれを言っていますが、無駄に終わっています。信じてもらえないのです」(16ページ)。紙面の問題で、宣伝戦の主張とは全く矛盾する収容所の日課や囚人の日常(22〜27ページ)を含むこの筆者のアウシュヴィッツでの経験の詳細な要約はここでしない。より重要なのは絶滅収容所とされる存在についての彼の暴露だ。「アウシュヴィッツにいた頃ずっと、ガス殺の証拠を僅かたりとも見ませんでした。それ以上に、時に言われる収容所を覆う焼けた肉の臭いというのは真っ赤な嘘です。第一収容所(アウシュヴィッツI)近辺には大きな蹄鉄工の作業場があり、そこからの溶けた鉄の臭いは当然不快なものでした」(33〜34ページ)。ライトリンガーは、アウシュヴィッツには5基の高炉と5つの炭鉱があり、アウシュヴィッツIIIを含めてブナワークス社の工場群も併設されていた事を確証している(前掲書「The Final Solution」、452ページ)。筆者クリストファーセンは、火葬炉は確実にアウシュヴィッツに存在しただろうと同意している、「20万人の人々が暮らしており、人口20万人の都市にはどこにも火葬炉があるでしょうから。当然そこで人は死にました――ですが囚人に限りません。実のところ親衛隊中佐A(クリストファーセンの上司)の妻も死にました」(33ページ)。この筆者は説明する:「アウシュヴィッツに秘密はありませんでした。1944年9月に国際赤十字委員会の使節が調査の為この収容所に来ました。彼らはビルケナウにある収容所に特に関心を持っていましたが、ライスコでも多くの調査を受けました」(「Bunawerk section」、35ページ)。クリストファーセンは、部外者の絶え間ない来訪は大量絶滅という主張と相反すると指摘している。5月に彼の妻がこの収容所を訪れた時、彼はこう観察している、「いつでも私たちの親類の訪問を受け入れる可能性があったという事実は、収容所の管理の透明性を示しています。アウシュヴィッツが大絶滅収容所であったなら、確実にそうした来訪は受け入れられないでしょう」(27ページ)。戦後、クリストファーセンは第一収容所近くに巨大な煙突を複数持つ建物があるという話を聞くようになった。「これは火葬棟だったと言われています。しかし、1944年12月にアウシュヴィッツの収容所を離れた時、私はそこで件の建物は見ていないという事実を残しておかねばなりません」(37ページ)。この不可思議な建物は今日も存在しているのだろうか? 明らかに否だ。ライトリンガーは、これは10月に破壊され「完全に収容所から丸見えの状態で焼き消された」と主張しているが、クリストファーセンはその目立つ破壊を目撃していない。「収容所から丸見えの状態で」起こったというが、それはただ一人のユダヤ人証言者、具体的にはベンデル博士によってのみ目撃されたとされているもので、それがこの出来事の唯一の証言だ(ライトリンガー著、同書、457ページ)。この状況はおおよそ典型的だ。確実な証拠の話になると、奇妙な逃げが打たれる。建物は「破壊された」、文書は「消えた」、命令は「口頭だった」。今日のアウシュヴィッツでは、訪問者には小さな火葬炉を見せられ、そこで数百万人が絶滅されたと伝えられる。この収容所を「調査」したソヴィエト連邦委員会は、1945年5月12日に「調整された関数を使って……技術専門委員会はアウシュヴィッツ収容所が存在している間ドイツの屠殺者たちはこの収容所で400万人を下らない市民を絶滅していた事を確かめました……」と発表した。ライトリンガーによるこれへの驚くべき直截な所感は完璧に事足りるものだ:「世界は『調整された関数』に不信を募らせており、400万という人数は馬鹿げたものになっています」(前掲書「The Final Solution」、460ページ)。最終的に、クリストファーセン氏の報告はある極めて奇妙な状況へと注目を集めさせた。1963年のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判に姿を現さなかった唯一の被告人はアウシュヴィッツの所長としてルドルフ・ヘスの後任となったリヒャルト・ベーアだ。完全に健康だったのに、彼は裁判が始まる前に、新聞「Deutsche Wochenzeitung」(1973年7月23日)によれば獄中で「極めて不思議な方法で」突然死んだ。証拠を提供する前のベーアの突然死は格別に奇妙だ、パリの新聞「Rivarol」は、「アウシュビッツを管理している間ずっとガス室を見ていないし、そのようなものが存在したとは信じていません」という彼の主張を記録しており、この証言から何者も彼を思い留まらせられないだろうと残しているからだ。要するにクリストファーセン報告は、『アウシュヴィッツの巨大工業的集合施設(ウィーン〜クラクフ線路本線で分けられた30の別個の軍事施設を含む)は、確かに拘留者の強制労働はあったが確実に「大量絶滅」の場所ではない、単なる広大な軍事品生産施設に過ぎない』事を示す、増加する証拠群に追加されるものだ。
17.ワルシャワ・ゲットー一掃の報告は、これは暴力的に行われた事を示しており、ハーウッドが主張するように「平和裡」なわけではなかった、とブラウニングは述べた。ブラウニングの意見によれば、彼らは再定住させられず、トレブリンカとマイダネクへと連れて行かれ、ガス殺されたか射殺された。歴史家マーク・ウェーバーは、そうしたユダヤ人に何が起こったかの記録は未だ不明瞭だと証言した。ウェーバーの意見によれば、トレブリンカとマイダネクは単純に収容所かつ、でなくば又は、中継収容所だった。
人口に関して、ポーランドのユダヤ人は、アウシュヴィッツでだけでなく、トレブリンカ、ソビボル、ベウジェツ、ヘウムノそして突如脚光を浴びるように思える数多の不明瞭な場所といった終わりなく発見される新たな「死の収容所」で、ほぼ全員が絶滅されたと主張される。主張されるポーランドのユダヤ人の絶滅の中核はワルシャワ・ゲットーの1943年4月に起こった劇的な反乱だ。これは時にガス・オーヴン送りに対する反乱として表現される。恐らくヒトラーとヒムラーの「秘密の議論」が漏れてワルシャワ内で広まったという話を提唱しているのだろう。ワルシャワ・ゲットーの事件は絶滅の伝説そのものの創造への有益な洞察となる。実のところ1943年のドイツ人によるその疎開はよく「ポーランドのユダヤ人の絶滅」として言及されるが、その種のものでは全くなく、ジョン・ハーシーの「壁」やレオン・ユリスの「栄光への脱出」といった世間を賑わせた小説の出版後に神話の諸層がこれを取り巻くようになった。ドイツ人が初めてポーランドを占領した時、彼らはユダヤ人を拘禁収容所ではなくゲットーに安全のため入れた。ゲットーの内部の管理は彼ら自身が設立したユダヤ評議会の手に委ね、独立したユダヤ警察組織が治安を維持した。投機を避けるため、特別な政府通貨がゲットーに導入された。この制度の正誤はともあれ、戦時中のこれは理解可能であり、ゲットーは恐らく不快な社会環境構築であっただろうが、野蛮に行われたのではなかった。そしてこれは確実に人種の破壊の為の機構ではない。しかし勿論、ゲットーが本当は何の為にあったのかは頻繁に語られる。最近のワルシャワ・ゲットーに関する出版物は、強制収容所は「ユダヤ人をぎゅうぎゅう詰めのゲットーに詰め込んで餓死させる行為の代替」だった、という図々しい主張をしている。どのような安全保持制度をドイツ人が使っていようと、そして彼らがどれだけの期間ユダヤ人の共同体の外観を保っていようと、彼らが「絶滅」の咎から逃げられる事はないように思える。既に確証した通り、1931年ポーランドのユダヤ人口調査はユダヤ人口を2,732,600人と見ており、移住とソヴィエト連邦との戦いの後、ドイツ統治下にいる者は1,100,000人未満となっていた。そうした議論の余地のない事実はしかし、マンヴェルとフランクルの「ドイツが侵略を開始した時ポーランドには300万人以上のユダヤがおり」、1942年に「なっても200万人前後が死を待っていました」(同書、140ページ)という主張を妨害していない。実のところ、ポーランドのユダヤのその約100万人のうち半分ほど、400,000人は最終的に、中世の古いゲットー周辺2.5平方マイル程の地域であるワルシャワのゲットーに収容された。残りは1940年9月までにポーランド総督府へと移動済みだ。1942年の夏にヒムラーは、全般的な収容制度の一部である彼らの労働力を得ようと、総督府内での労働割当ての為に、拘禁収容所にいるポーランドのユダヤ人全員に再定住を命じた。そうして1942年の7月から10月の間に、ワルシャワ・ゲットーの住人の3/4以上がユダヤ警察そのものによって監督されながら平和的に避難し移送された。17これまで見ているように、収容所への移送は「絶滅」で終わると主張される、しかし利用可能な証拠から、これは効率的な労働力調達と社会不安の防止に関するものでしかない事は全く疑いようがない。そもそもとして、ヒムラーは1943年1月のワルシャワへの抜き打ち訪問で軍事作業員として登録されている24,000人のユダヤ人が実際には違法にも仕立屋や毛皮職人として働いている事を知った程だ(マンヴェルとフランクル著、同書、140ページ)。このゲットーはワルシャワの首都部への侵略拠点としても使われていた。6ヶ月の平和的な避難の後、たった60,000人程のユダヤ人がこの居住向きのゲットーに残った時、ドイツ人たちは1943年1月18日に武装蜂起を受けた。マンヴェルとフランクルは、「計画的な反乱に参加したユダヤ人たちは長期間外部からの武器密輸に関与しており、ユダヤの戦闘部隊が親衛隊の男たちと追放者移送の監督をしていた民兵たちに発砲し殺していきました」と認めている。ゲットーでの蜂起においてこのテロリストたちは、ポーランド国内軍とPPR――Polska Partia Robotnicza、ポーランド共産労働者党――からの支援も受けていた。パルチザンと共産主義者の手助けを受けたこうした反乱の状況下、似たような状況下にいる軍隊と同じように、そうしたパルチザンと共産主義者も参加していたテロリストどもを鎮圧する為に軍人らは必要ならば居住地域そのものの破壊も含む襲撃を行った。もし住人の中の過激派が、最終的に失敗へと帰結するに決まっている武装蜂起を計画していなかったとしたら、避難の工程全体は平和裡に継続されたであろう事は心に留めておくべきである。親衛隊陸軍中将シュトロープは4月19日に装甲車と共にゲットーに入った時、即座に撃たれ12人の部下を失った。4週間続いたこの戦いで、ドイツとポーランドに合計101人の死傷者が出た。圧倒的な戦力差を前にしてのユダヤの戦闘組織による激しい抵抗によって約12,000人のユダヤ死傷者が出、生き残りによって死者の大半は燃える建物と濠に入れられた。しかし合計で56,065人の住人が捕らえられ、平和裡に総督府の地域内に再定住させられた。17ゲットーの中のユダヤ人の多くはこの戦闘組織によって自分たちに課されたテロ行為に憤っており、自分たち司令部の情報をドイツ人権力者にこの情報を伝えようとしていた。
ワルシャワ・ゲットーの蜂起を巡る状況は、アウシュヴィッツといった東方の労働収容所への追放と同様、ヨーロッパ最大のユダヤ人区域であるポーランドのユダヤ人の命運に関して、最高に色とりどりの話を齎している。ユダヤ共同配給委員会は、ニュルンベルク裁判の為に彼らが準備した計算の中で、1945年にはポーランドに80,000人しか残らなかったと主張した。彼らはまた、ドイツやオーストリアに移動されたポーランドのユダヤ人はいなかったとも主張し、これは闇市での活動によって英国と米国に逮捕されたポーランドのユダヤの人数と矛盾がある。しかし、ポーランド内の新しい共産党政権は1946年7月4日のキルツェでの大規模な反ユダヤのポグロムを妨げられず、150,000人以上のポーランドのユダヤは突然西ドイツ内に逃走した。彼らの登場は幾分厄介がられ、彼らのパレスチナと合衆国への移住は記録的な早さで実行された。続いて、ポーランドのユダヤ人生存者の人数は酷い歴史修正を受けた。「American-Jewish Year Book 1948-1949」の中で、本来の80,000人から390,000人へと急増している。将来、更なる上方への歴史修正を期待できるだろう。
絶滅伝説の宣伝戦で最も影響のある機関は並製本と雑誌の産業であり、その商業的な利益の為に出版された煽情的な刊行物を通して、普通の人々が完全に政治的な特性と目的を持つ神話を知るようになっている。そうした反独の本の最盛期は1950年代、つまり悪意に満ちた嫌独の需要が高かった時期だが、今日もこの産業は栄え、別の流行りを体験している。この産業の製品は概して「回顧録」と呼ばれるものを含み、それらは2つの基本的な分類に分けられる:1つは、元親衛隊や収容所の所長などによるとされるもの、そしてもう1つは元強制収容所の収容者とされる者の血も凍る回想録。
18.ブラウニングとこの小冊子の間の重要な違いの1つは、ユダヤ人殺害の為のガス殺室の存在を否定しているかどうかだ。彼は、フィリップ・ミューラーといったユダヤ人はゾンダーコマンドの一員だったと主張するようになっている、と証言した、ミューラーの報告は「心揺さぶられる」ものだった、と。しかしブラウニングは反対尋問を受け、ガス殺室やガス殺貨物車の存在を支える技術的な計画を1つたりとも見た事がないと認めた。彼は、火葬の工程について、そして人体の焼却にどれだけの熱と時間がかかるか問い合わせた事はないと。ブラウニングは、連合国によって撮られた空中写真を、ヤド・ヴァシェムの壁に掛かっている1枚を除いて観た事がなかった。ブラウニングもヒルバーグも収容所の収容者がチクロンBで殺された事を示す検死報告を知らなかった。ヒルバーグとブラウニングは、記念碑を見る為に、ホロコースト委員会の委員としてしか強制収容所を訪れていなかった。証人ロイヒターとロスはアウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」とされるものの壁と床から採取した試料を示す証拠を提出し、それはシアン化物の痕跡が全く無いか僅少である事を示しており、一方でビルケナウの燻蒸殺虫室として知られる、チクロンBが使われていた部屋の壁は検出できるシアン化物がガス殺室とされる部屋の1000倍以上だった。ガス殺室の技術的専門家であるロイヒターの意見では、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、そしてマイダネクのガス殺室とされるものは排気機構の、投下口の、そして気密性の欠如といった要素を含む構造のため、人間殺害用のガス室として使用不可能である。火葬の専門家イヴァン・ガラセは、現代の火葬炉でも1つの炉で最低1時間半かかると証言した。彼は、ビルケナウでは1日に46基の炉で4,400体の死体が火葬されたという絶滅証言を「馬鹿げている」と称した。「目撃」証言の正確性に関して、記録にある「生存者」の報告の半分以上はヤド・ヴァシェムも「想像が迸ってい」て信頼に値しないと認めている、とウェーバーは証言した。歴史家フォリソンは、1986年に「幻想的かつ不正確な」内容を強情に繰り返している「記録は核心に入れるには腐敗している」と認めたユダヤの著作家ミシェル・ド・ブアールを引用した。
19.ブラウニングは、アイヒマンは戦争を生き延び証言した、ユダヤ人絶滅計画に於ける最高の中心人物だと信じており、そう証言した。アイヒマンは、『ハイドリヒは自分に「ヒトラーが欧州ユダヤ人の絶滅を命令しました」と告げた』と証言した、と。しかしブラウニングは、アイヒマンは心の中での出来事の整理に「少しばかり問題がありました」と認めた。歴史家アーヴィングの意見では、裁判中のアイヒマンは身体的精神的な強制を受けていた。そのような証言は歴史的知識を向上させるものでなく、汚染させるものだと。
1つ目の種類では、最も傑出した例はルドルフ・ヘスによる「Commandant of Auschwitz」(ロンドンにて1960年に刊行)で、原著は共産党政府によって「Wspomnienia」としてポーランド語で出版されたものだ。1940年に若くしてアウシュヴィッツを監督したヘスはまず英国によって逮捕され、フレンスブルクで勾留されたが、すぐにポーランド共産党当局へと引き渡され、1947年に死刑宣告が下され、ほぼ即座に処刑された。所謂ヘスの回顧録は、我々がこれから示すように疑いなく共産党の支援を受けながら出版された偽書であるが、共産党員自体は、ヘスは「生涯の物語を書くよう命じられた」のであって、手書きの原本は恐らく存在する、と主張している、それを見た者はいないというのに。ヘスは逮捕期間の間、共産党員による拷問と洗脳技術の標的となり、ニュルンベルクでの彼の証言は虚空を凝視しながらの心の籠らない単調な口調から発せられた。ライトリンガーでさえこの証言を絶望的な迄に信用に値しないとして除外している。実のところ、600万人に関する「証拠」が共産党の諸出典にどれ程多く基づいているかには驚くべきものがある。その諸出典には、疑いなく絶滅文学で最も引用される二大巨頭であるヴィスリツェニー証言とヘスの「回顧録」といった有名な文書が含まれ、アウシュヴィッツ等の所謂「死の収容所」の情報全ても同じく含まれている。その情報は、ポーランドのユダヤ歴史委員会、ワルシャワの戦争犯罪調査中央委員会、そしてモスクワのロシア国立戦争犯罪追及委員会から来ているものだ。ライトリンガーは、ニュルンベルクでのヘスの証言は「アウシュヴィッツは1日に16,000人の死体処分をしており、つまり合計で終戦時に1300万人以上だ」といった出鱈目な誇張の一覧表であると認めている。ライトリンガーその他は、明らかにソ連が広めた欺瞞であるそうした見積もりをそれと暴露する代わりに、こうした馬鹿げた誇張を、専門的な務めを果たした事への「誇り」によるものだと考える事を好んでいる。皮肉にも、その捉え方は信頼すべきヘスの回顧録とされるものと完全に矛盾している、回顧録はその仕事への嫌悪という真逆の絵をもっともらしく上手に試みているからだ。ヘスはアウシュヴィッツで合計300万人を絶滅させたと「自白した」とされているが、ワルシャワでの彼本人の裁判で検察当局はその人数を1,135,000人へと減らしている。しかし、1945年にその収容所への「調査」の後、公式に400万という死者数がソヴィエト政府から公布されているとは既に指摘している通りだ。気紛れな数百万人の誤魔化しといった類のものを絶滅文学の作家らは気にしないようだ。ヘスの「回顧録」のあらゆる恐ろしい描写への批評はうんざりするような行為だ。絶滅伝説の『伝説は虚偽であるという証明』を明らかに妨害する目的を持って設計されているという側面への付言に留めよう。例えば、主張されるユダヤ人絶滅の描写における手法だ。これは、ユダヤ囚人の「特別部隊」によって遂行されたと述べられている。彼らは来たばかりの収容所への派遣団を任されており、その派遣団を巨大な「ガス室」へと連れていき、その後死体を処分したのだという。だから親衛隊はほぼ何もせず、そのため収容所の親衛隊隊員の大半は「絶滅計画」に完全に無知だった可能性がある、と。勿論、この凄絶な「特別部隊」の隊員であったと主張するユダヤ人は見つかっていないため、この問題全体が都合良く証明不可能になっている。これらの出来事が起こったという生きていて確実な目撃者はいないというのは繰り返す価値があるだろう。18、19ヘスの回顧録はでっち上げである事を示す決定的な証拠が、共産党の編集者による信じられないようなしくじりの中にある。ヘスは、「ユダヤ人はキリストの敵であるがため、アウシュヴィッツのエホヴァの証人がユダヤ人虐殺を認めた」と言ったと主張される。現ロシアのソ連領と東欧の全てのソ連衛星国において、『かの宗教分派は共産党にとって最も危険である』と見做していた共産諸党がエホヴァの証人に対して激しい弾圧の作戦を行っていた事はよく知られている。この宗派がヘスの回顧録の中で念入りに下品に中傷されている事は、この文書は疑いの域を超えて共産党が起源である事を証明している。
既に出版されている内で最もいんちきである「回顧録」は、間違いなくアドルフ・アイヒマンのものだ。1960年5月のイスラエルによる違法な誘拐とそれに付随する国際的な宣伝より以前は、殆どの者が彼について聞いた事もなかった。彼は実のところ比較的重要人物ではなく、国家保安部のIV局(ゲシュタポ局)A4b課の課長だった。彼の課は敵国人のうち特定の一部であるユダヤを拘禁収容所へと輸送する任務の監督をしていた。アイヒマンに関する、純正なるゴミの大洪水が1960年に世界に浴びせられた、その一例としてカマー・クラークによる「Eichmann: The Savage Truth」を挙げよう。(「乱交は、次の犠牲者の集団が死へと旅立つ1〜2時間前である朝6時まで続くこともありました、」とクラークは「死の流れ作業と荒々しい乱交」の章、124ページで述べている)。大変奇妙な事に、アドルフ・アイヒマンの「回顧録」だと申し立てられているものはイスラエルへと誘拐された時に突然登場した。これらの回顧録は「American Life」誌によって無批判に発行(1960年11月28日と12月5日刊行)され、逮捕直前にアイヒマンによってアルゼンチンで記者に渡されたのだと申し立てられている――驚くべき偶然だ。しかし他の出典では全く異なる起源の説明をしており、これは1955年に「仲間」に対してした発言に基づいた記録だと主張している、その仲間が誰か分かる者は誰もいないのだが。同じく超自然的な偶然によって、戦争犯罪調査官らは戦後15年以上経っているというのにその直後にアイヒマンの課の「完全な文書記録」を米国議会図書館の蔵書の中で「見つけた」と主張した。これらの「回顧録」に関する限り、純然たる幻想作品の域へと余りに深く彷徨い過ぎる事なく可能な限り重い罪を負わせるように作られており、「ユダヤ人の物理的な抹消」に関し喜びに満ち溢れながら話すアイヒマンを描写している。これらが詐欺である事も、アイヒマンなら確実に知っているであろう『1944年7月にあったヒトラーの命を狙う計画より後にヒムラーが国内予備軍の指揮を執る』という事実の代わりに書籍内では4月の時点でヒムラーがその指揮を執っていた事になっているといった様々な事実的誤りによって、証明されている。正にこの時期に於けるこうした「回顧録」の出版は、裁判前の宣伝戦として典型的な「罪深いナチ」であり人の形をした悪魔という画を提示するのがその狙いである事を確信させる。イスラエルでのアイヒマン裁判の状況はここでは扱わない。ヴィスリツェニー証言といった、そこで証拠として使われたソ連の文書は既に精査しており、虜囚の間にアイヒマンに使われ彼を「協力的」にした拷問という手段の説明については、読者は1960年9月2日の「London Jewish Chronicle」を参照されたい。絶滅伝説の文学により関連があるのは、アイヒマンが自発的に書いてブエノス・アイレスで彼を逮捕した者に手渡したと申し立てられている手紙の中身だ。それはイスラエルの著者であると透けて見えると付け加える必要性は、ほぼないだろう。その中には、「この宣言は私の自由意志によるものだと言明いたします」という語句を超えて人を信じさせやすくするものは存在しない。しかし何よりも空虚で啓発的な証言は、イスラエルの法廷の前で表明した意思とされるものだ、「真実の叙述が未来の世代に伝えられるように。」
出版物の中に登場した最新の回顧録はポーランドにある収容所の元所長であり1970年12月に終身刑を宣告されたフランツ・シュタングルのものだ。それらの回顧録は1971年10月8日に「London Daily Telegraph Magazine」による記事の中で発行され、獄中でのシュタングルとの一連の聞き取りに起源を持つと申し立てられている。彼は、聞き取りが終わってからほんの数日後に死にましたと締め括られている。こうした回顧録と言われるものは既に出版済みの中で確実に最も血塗れで奇妙なものであるが、「彼の裁判の中で提示された証拠はシュタングル自身が特定の殺人行為を犯した事を証明してはいません」や、シュタングルのポーランドでの最初の頃についての報告は「捏造の一部」だったといった、この文の著者による僅かな告白については感謝できる。その捏造の典型的な例はシュタングルが最初にトレブリンカに訪問したという描写だ。そこの鉄道駅に入った際、轍のすぐ横で広がる「数千人の死体」を見たと言われている、「数百、いや数千の死体がそこかしこで腐り肥やしになっていっていました」と。そして「駅の中にはユダヤ人でいっぱいの列車がありました、その一部は死んでいて、一部はまだ生きていました……まるで何日もここにあったかのような様相でした」と。この報告はシュタングルが車から出て「膝の深さまでお金に浸かりました:どちらを向くべきか、どちらに行くべきか分かりませんでした。私は紙幣、硬貨、貴石、宝石、衣服の中を歩きました。それらはそこら中にあり、広場中に散らばっていました」と主張された時に馬鹿らしさの最高潮に達する。この場面は、棘付きの金網の反対側にいた「ワルシャワからの売春婦たちは酔っ払いながらふらつき、踊り、歌い、曲を奏でていました」というあたりで完成を迎える。腐った死体数千体の只中でユダヤの紙幣と貴石に「膝の深さまで」沈み、そしてよろめき歌う娼婦たちがいたという報告を文字通りに信じるには、最高に驚くべき騙されやすさが要求され、600万人の伝説を除いたあらゆる状況の中であれば、これは最高に突飛な荒唐無稽だとして却下されるだろう。シュタングルの回顧録から信憑性を残滓まで確実に奪っている証言は、ユダヤ人は何故絶滅対象になったと考えていますかと訊かれた時の回答と主張されるものだ:「彼らはユダヤ人の金が欲しかったのです」という。「人種は二次的なものに過ぎませんでした」と。この一連の聞き取りは実のところ、極めて疑わしいある文で締め括られている、と申し立てられている。「この恐怖の中に考えられる価値」があったと考えるかどうかを聞かれた時、この元ナチの所長は恍惚しながら応えたと申し立てられている:「はい、確実にあったと思います。恐らくユダヤ人はこの圧倒的な衝撃を団結、子作り、互いとの理解に使うよう意図されていました。」この嘘がでっち上げられた理由をこの回答よりも完璧に想像するのは至難だろう。
20.これは事実ではない。実際にはレヴィンはこの日記そのものに基づいた戯曲を書いた事への支払いの為に訴訟を起こしていた。しかしフォリソンとアーヴィングは、この日記の信憑性が疑わしいという事を示す別の証拠が存在すると証言した。筆跡学者たちと西ドイツの犯罪研究室によるこの日記の原書の専門的な精査は、1人の人間がこの日記を書いており、その一部はボールペンの墨で書かれており、それは1950年代になってからやっと使われるようになったと。フォリソンは、この日記はアンネ・フランクの父オットー・フランクによって書かれたと信じていた。
ナチズムの悪性の虜囚になったか弱いユダヤ人という絵を表現する様々な回顧録の中で、一番称揚されているのは疑いなくアンネの日記であり、この本に関する真実は宣伝戦の伝説のでっち上げへのぞっとするような洞察でしかないものだ。1952年に初めて出版されたアンネの日記は即座に売上一位を記録した。以来それは並製本という形で再出版され、40刷を経て、成功したハリウッド映画となった。印税だけで、かの少女の父オットー・フランクは娘の人生の悲劇を綴ったと称するこの本の販売で財産を築いた。感情に直接訴えるこの本と映画は文字通り数百万人に影響を与え、他の同種のあらゆる物語より世界中に広まっている。そして最初の出版からたった7年後に、ニュー・ヨーク州高位裁判所の係争案件がこの本はでっち上げだと確証した20。アンネの日記は、『アムステルダム出身の若いユダヤ少女が12歳の頃、ドイツ占領中に、家族及び他のユダヤ4人と共に家の秘密の部屋に隠れていた時期に著した本当の日記』だとして公に売られていた。最終的に、彼らは逮捕され強制収容所に拘留され、そこで14歳のアンネ・フランクは息を引き取った、と主張される。オットー・フランクは終戦時に収容所から解放された時、アムステルダムの実家に帰って垂木に隠されていた娘の日記を「発見」した。アンネの日記に関する事実は1959年にスウェーデンの雑誌「Fria Ord」で初めて明らかにされた。その雑誌は、ユダヤ人小説家マイヤー・レヴィンがこの「日記」の対話部分を書いており、レヴィンはオットー・フランクに裁判で自分の作品への支払いを要求している事を立証した20。このスウェーデンの記事の要約は1959年4月15日の米国合衆国国家経済会議書簡の中で登場し、それは以下のようなものだった:「歴史の中には真実よりも長く豊かに生きている神話の例は数多あり、事実よりも目立っているものもあります。」「西洋世界はここ何年も、私的に書いた日記だと称するアンネの日記と称する媒体を通して、ユダヤの少女1人を意識されられています。識者によるこの本の文学的な精査は、これは十代の作品では有り得ないと示すでしょう。」ニュー・ヨーク州高位裁判所の注目に値する判決文はこの観点を認めており、その判決の中で有名な米国のユダヤ人著作家マイヤー・レヴィンには、アンネの日記というレヴィンの著作の謝礼として、アンネ・フランクの父から彼に払われるべき$50,000が認められた。「著作家レヴィンの対話をそのまま使用し、日記の中にその対話を娘の知的な行いとして『挿入』したため、スイスのフランク氏は、同人種のマイヤー・レヴィンに$50,000以上を支払うと約束しました。」更なる調査は1962年5月7日にニュー・ヨークの法律事務所からある回答を引き出しており、それはこのようなものである:「オットー・フランクや他の者に対する訴訟で、私はマイヤー・レヴィンの弁護士でした。陪審団がレヴィン氏に損害賠償として$50,000を認めたのは、貴社の手紙で指摘されているように事実です。この損害は法が求める方法では証明できないということを根拠として、高名な裁判官サミュエル・C・コールマンによって後にこの賠償額は破棄されました。その後コールマン判事の決断による上訴が保留されている間に、この訴訟は解決しました。」「この裁判そのものに関して、あるいは裁判官コールマンの決定に関してさえ、この係争案件自体が公的に報告されていないという状況を私は憂いています。ある程度の係争問題は『141 New York Supplement, Second Series 170』と『5 Second Series 181』の中で報告されていました。New York County Clerk's office内での正確な書類番号は2241−1956で、その書類は恐らく大きく十全なものでしょう……」そしてこれは、『ホロコースト』伝説と600万人という叙事詩を支える一連の欺瞞の中で一際傑出している欺瞞だ。勿論、アンネ・フランクの日記の信憑性に直接関係しているこの裁判案件は「公式報告はされていない」。アンネ・フランクの日記の出版から間もなくして出版された、「Notes from the Warsaw Ghetto: the Journal of Emmanuel Ringelblum」(ニュー・ヨークにて1958年に刊行)という題名の別の「日記」に対しても軽く言及しても良いだろう。リンゲルブルムはポーランド内でドイツ人に対する破壊工作作戦の指導者を務めており、1943年の蜂起の指導者も務め、後の1944年に最終的に逮捕され処刑された。ポーランド内でのユダヤ人絶滅に関して流布されていたとされる一般的な「噂」について語っているリンゲルブルムの日誌は、ヘスの回顧録と呼ばれるものと同様に、まさに共産党による支援のもと登場した。米国版の出版会社マグロウヒル社は、自分たちはワルシャワにある無検閲の原著への参照を禁止されており、代わりに1952年に共産党政権によってワルシャワで出版された添削された版に誠実に従っていると認めている。この種の、共産党の出典から発行されるあらゆるホロコーストの「証明」は、歴史的文書として無価値である。
大戦以来、その大多数がユダヤ作である煽情的な強制収容所の文学は有り余る程に数を増し続けており、それぞれの本は恐怖の上に恐怖を重ね、事実の欠片と最高に醜悪な幻想とぺてんを混ぜ合わせ、歴史的事実との関連性がとっくに消滅してしまった神話体系を休むことなく創造している。既にその種のものには言及している――オルガ・レンゲルの不条理な「Five Chimneys」(「毎日24,000体の死体が処置されました」)、明確に神話上のかつでっち上げられた人物であるミクロス・ニスリの「Doctor at Auschwitz」、フィリップ・フリードマンによる「This was Auschwitz: The Story of a Murder Camp」、そして他の胃のむかつく作品がある。この系譜の最新のものはマーティン・グレイによる、ポーランドのトレブリンカ収容所での彼の経験の報告書だと称する「For Those I Loved」(ボドリー・ヘッド社から1973年に刊行)だ。グレイは強制収容所回顧録に体を向けるまでは骨董品の贋作を米国に販売する専門家だった。しかし彼の本の出版まわりの状況は独特である、初めてこの種の作品群の中で内容の信憑性について重大な疑義が呈されたからだ。ユダヤ人さえ、その作品が与える打撃を警戒し、彼の本を詐欺だと非難し、彼はトレブリンカにいた事は果たしてあったのかと疑問を投げかけたが、B.B.C.のラジオは何故自らの経験を著す迄に28年も待ったのかと彼に迫った。1973年3月30日の「London Jewish Chronicle」にある小欄「私見」では、グレイの本を容赦なく咎めているにもかかわらず、600万人神話にそれを大仰に追加しているのを観察するのは興味深い。「Five Chimneys」はこう述べている:「100万近くの人々が1年を通してトレブリンカで虐殺されました。毎日18,000人がガス殺室に呑まれていきました。」実のところ多くの人々がこの種の荒唐無稽な作品を、心を苛立たせることもなく読み受け入れているというのは情けないことだ。毎日18,000人が殺されたなら、100万人には「1年を通して」ではなくたった56日で達するだろう。この大成果は1年の内の残る10ヶ月を完全な余暇にすることだろう。毎日18,000人は実際には「1年を通して」合計で6,480,000人を意味するだろう。つまり600万人はトレブリンカで12ヶ月で死んだのだろうか? アウシュヴィッツで300万あるいは400万人とされていたのはどうなったのだ? この種のものは単純に、600万という非常識な折衷した人数がひとたび途方もない成功を収め、国際的に認められてしまえば、有り得ない置換が好きなだけ行われ、誰もその批判を考えさえしない事を示している。「Jewish Chronicle」の小欄はグレイの本への批評の中で、ガス殺室に関する詐欺の主張への意義深い洞察も提供している:「グレイは、ガス殺室の床は斜面だったと回想しているが、その建造を手助けした別の生存者は床は水平だったと主張しています……」収容所の元収容者の著した本が、これまでのそうした元収容者の著書の中で流行っていた状況とは全く異なる叙述を提示するというのはままあることだ。そのようなものにはマルガレーテ・ブーバーによる「Under Two Dictators」(ロンドンにて1950年に刊行)がある。彼女はドイツのユダヤ女性であり、ロシアの監獄収容所の暴力的で原始的な状態の7年間を経験した後1940年の8月に女性勾留者用のドイツの収容所であるラーフェンスブリュックに送られた。彼女は、『ゲシュタポによって即座に解放されはしなかった、私のいたロシアからの勾留者団の中で、私は唯一のユダヤ人でした』、と記している。彼女の著書はソヴィエト・ロシアとドイツの収容所の間で衝撃的な対称性を表現している。ロシア収容所の汚さ、無秩序と飢餓と比較して、彼女はラーフェンスブリュックに清潔さ、文明、そして良好な管理を見出している。規則的な入浴と清潔な亜麻布はこれまでの経験をした後では高級に感じられ、白いパン、腸詰め、甘い燕麦粥、そして乾燥果物という彼女の最初の食事は彼女に、別の収容者に「1940年8月3日というのは何かの祭日なのですか、それとも特別な催しなのですか」と尋ねさせることとなった。彼女はまた、ラーフェンスブリュックの宿舎はソ連の収容所のぎゅうぎゅう詰めの土壁の小屋と比べて驚くほど広々としているとも観察している。1945年の最後の数ヶ月、彼女は収容所の状況の漸次的な衰退を経験しており、その原因は後で我々が精査しよう。普及している宣伝戦とは全く異なる別の報告は、同じくラーフェンスブリュックに抑留された共産主義者の囚人シャーロット・ボルマンによる「Die Gestapo Lässt Bitten」(ゲシュタポは君を歓迎する)だ。その最も重要な暴露は、ガス処刑という噂は共産主義者たちによって囚人の中に流布された精巧で悪意に満ちたでっち上げだ、というこの著者による証言だ。この共産主義者たちの集団は、『マルガレーテ・ブーバーはソヴィエト・ロシアに収監されていた』という理由で彼女を受け入れなかった。戦後の諸裁判の更に衝撃的な不名誉は、シャーロット・ボルマンはラシュタット裁判でラーフェンスブリュック収容所のフランス人居留地域の参考人としての証言が許可されなかったという事実であり、これは絶滅伝説を否定した者たちの一般的な命運だった。
かの期間の多くの問題に関して一般よりも多くの知性を提供する人物コリン・クロスは近年の著書「Adolf Hitler」(ロンドンにて1973年に刊行)の中で、鋭くこう観察している、「欧州周辺の数百万のユダヤ人を方々に移動させ虐殺する行為は、絶望的な戦中の緊急事態に於いて、理性的な観点からは無駄な行為です」(307ページ)。全くその通りで、我々はこの観点で、この非理性主義があり得そうかについて、そしてそれが可能かどうかさえ、良く疑う事が出来る。ドイツが二正面作戦での生存という絶望的な戦闘を戦い抜いているという戦争の最高潮に、数百万人のユダヤ人を手の込んだ高価な屠畜場へと何百マイルも移送したというのだろうか? アウシュヴィッツだけで300あるいは400万人のユダヤ人を運送する行為は、(欧州にはそのような膨大な人数はいないが、いると仮定してさえ)彼方にあるロシア戦線を支えようと限界まで伸び切っていたドイツの輸送施設に想像できない程の重荷になっていただろう。神話上の600万人のユダヤ人と数えきれない他の国籍の者を抑留収容所に運び、そこで泊め、衣服を与え、食わせる行為は、自分たちの軍事作戦を麻痺させるだけだろう。有能なドイツ人が自らの軍事的な運命をそのような危機に晒したと考える理由はない。反対に、戦争のあいだ妥当な363,000人(そこで登録されていたと我々が知っている人数)の囚人をアウシュヴィッツに輸送したというのは少なくとも彼らが供給する強制労働力の見地から道理に適う。実のところ、欧州で暮らしていた300万人のユダヤ人のうち、200万人未満しか抑留されなかった事は確実であり、恐らくその人数は1,500,000の方がずっと近い。赤十字の報告では、スロヴァキアに居住しているようなユダヤ人口は完全に収容所での拘禁を免れており、そうした土地以外ではテレージエンシュタットといった共同体ゲットーに入れられた者もいた、と後で見る事になるだろう。それ以上に、西欧からの追放者は遥かに少なかった。合計320,000人いたフランスのユダヤ人の内約50,000人だけが追放され抑留されたというライトリンガーの見積もりは既に書いた通りだ。主張されている、数百万人のユダヤ人の殺害は物理的に可能だったのかという疑問も訊ねられるべきだろう。ドイツ人にはそれをできるだけの時間があったのか? 同じく、労働力が欠如し、軍需品の為にあらゆる捕虜が求められていた時期に彼らは百万人単位で火葬していたのだろうか? 6ヶ月で100万人を殺し跡形もなく消し去る事は可能なのだろうか? 斯様に大人数であるユダヤ人集めとそのように大規模である処刑を、秘密裡に行えたのだろうか? そのような種類の質問は鑑識眼があって考える人なら訊ねるべきであろう。そして訊ねた者はすぐに、ここに示したような統計や文書証拠だけでなく、単純な兵站学も組み合わさって600万人の伝説を疑わせる事を理解するだろう。数百万人が強制収容所の中で殺されたというのは不可能であるが、ドイツの強制収容所の性質と状態が大袈裟に誇張される事でその主張を尤もらしいものとしている。ウィリアム・シャイラーは、概して無謀な一節の中で、こう証言した:「30ある奇妙で重要なナチの強制収容所全ては死の収容所でした」(同書、1150ページ)。これは事実では全くなく、現在の絶滅伝説の主要な宣伝戦術家たちによってさえ受け入れられていない。シャイラーは、オイゲン・コーゴンの「The Theory and Practice of Hell」(ニュー・ヨークにて1950年に刊行、227ページ)の、全て合計した死者数を、馬鹿げた7,125,000という数と記している箇所を引用もしているが、シャイラーは補足説明の中でこれは「疑う余地なく多すぎる」と認めている。
21.ブラウニングは、ソ連圏にある収容所の視察は誰にも許されなかったというのは嘘だと証言した。彼は、1944年にソ連によって記者たちに与えられたマイダネク旅行の参加者W・ローレンスによるニュー・ヨーク・タイムズの記事を引用した。ブラウニングは、この記事には死んだとされる人数とチクロンBの機能の仕方に関し重大な誤りがあると認めた。歴史家ウェーバーは、西側連合国の調査員は戦後にソ連占領圏にある収容所の調査は許されなかったと証言した。新聞報道陣によるマイダネク訪問はソ連による案内付きの、宣伝戦目的の旅行だった。専門家による調査ではない、と。
全ての強制収容所、特にドイツ国内のものは、「死の収容所」だった、と1945年に連合国の宣伝戦は主張していた事は事実だが、長く保たなかった。この論点に関し、米国の著名な歴史家ハリー・エルマー・バーンズはこう著している:「これらの収容所はダッハウ、ベルゼン、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼン、そしてドーラといった、ドイツにあるものである、と最初は記されましたが、すぐにそうした収容所の中に組織的な絶滅はなかったと示されました。そして注目はアウシュヴィッツ、トレブリンカ、ベウジェツ、ヘウムノ、ヤノフスカ、タルヌフ、ラーフェンスブリュック、マウトハウゼン、Brezeznia、そしてビルケナウに移り、必要に応じて増えていくように見える候補の一覧は尽きる事がありませんでした」(「Rampart Journal」、1967年夏季号)。ドイツ内での英国と米国の占領部隊の中に信頼できる誠実な観察者がいた事は事実であり、多くの収容者が大戦の最後の数ヶ月間病気と飢餓により死んだ事は認めているが、「ガス殺室」の証拠は全く見つけていない。結果として、アウシュヴィッツやトレブリンカといったロシア占領圏にある東方の収容所が(どれも内部の視察が許可されていないというのに)次第に恐ろしい絶滅施設として前面に出てき、この傾向は現在まで続いている。21それらの収容所の中で全てが起こったと申し立てられているが、鉄のカーテンがそれらの前に厚く降ろされており、誰もそうした告発の内容を精査できるようになっていなかった。共産主義者たちは400万人がアウシュヴィッツで、2,000人を収容できる巨大なガス殺室の中で死んだと主張していた――誰もそれの反論は不可能だった。「ガス殺室」と呼ばれるものに関する真実は何だろう? 戦後6年間ドイツとオーストリア内の占領部隊における合衆国旧陸軍省の弁護士を務めていたスティーブン・F・ピンターは、1959年6月14日刊行の広く読まれるカトリック誌「Our Sunday Visitor」の中でこう証言した:「私はU.Sの省の代理人として戦後17ヶ月間ダッハウにおり、ダッハウにガス殺室はなかったと証言できます。そこで訪問者や観光客に見せられ誤ってガス殺室と表記されているものは火葬場です。ドイツ国内の他の収容所のどこについてもガス室はありません。我々はアウシュヴィッツにはガス殺室があったと教えられますが、そこはロシアの占領圏であり、ロシア世界が認めないようになって以来調査が許されておりませんでした。ドイツとオーストリアに戦後6年間いて見定められた事により、そこではユダヤ人が多数殺されましたが、100万人には確実に達しません。私はドイツとオーストリアにいる数千人のユダヤ人と強制収容所の元収容者に聞き取りしており、自分をこの論点について十分に資格を有した者であると考えています。」これは慣習的な宣伝戦とは実に異なる話を語っている。ピンターは勿論、ガス殺室だと表現されている火葬場というものに対する問題に極めて明敏である。そうした収容所の中に、存在すると示されているガス殺室といったものはないため、『ガス殺室だと表現されている火葬場』というものはよくある手であり、つまり「ガス・オーヴン」という手の込んだ誤導の語句はガス殺室を火葬場と混同させる事を狙いにしている。後者であるオーヴンの、通常は1基の火葬炉と今日も用いられている種類に似たものは、収容所内での様々な病死や老衰で、特に伝染病で亡くなった者たちの火葬に極めて単純に用いられていた。この事実はドイツの大司教であるミュンヘンのファウルハーバー枢機卿によって決定的に証明されている。彼は米国人たちに、1944年9月に連合国がミュンヘンに空爆した際に30,000人が殺されたと伝えた。この大司教は当時の権力者たちに、犠牲者の死体をダッハウの火葬場で火葬して欲しいと求めた。しかし不幸にも、この計画は実行不能だと彼は告げられた。たった1つの火葬炉しかない火葬場では空爆の犠牲者の死体に対処できないと。だから明確に、そこで焼却されたとされている238,000体のユダヤの死体の対処は不可能だ。それをする為には、326年間休むことなくその火葬炉が動き続け、530トンの灰が回収されなければならない。
ダッハウの死者数は劇的な改定を受けなければならなかった典型的な種類の誇張だ。1946年、1枚の記念碑の碑文が、『実在しないユダヤ人の為の補償だと彼が主張した金銭を横領した咎で有罪判決を受けた、バイエルン州政府の副首相であるユダヤ人フィリップ・アウエルバッハ』によって除幕された。その碑文にはこう書いてある:「この地はここで火葬された238,000人へ捧ぐ神殿として保管されています。」以来、公式の死者人数は着々と下方修正を受け続け、現在はたった20,600人であり、その大多数は終戦時のチフスと飢餓で死んだ事になっている。この元々の1割まで減った縮小は、疑いなく以降も続き、いつか伝説の600万人全体にも適用されるだろう。別の劇的な歴史修正の例は現在のアウシュヴィッツの死者の見積もりだ。300あるいは400万の死という馬鹿げた主張は最早ライトリンガーにとってさえ尤もらしいものではない。彼は現在たった600,000人の死者だけしか見積もっていない。そしてこの人数は未だ極端に誇張されているものの、400万人からの重要な減少であり、更なる進行が予測される。シャイラー自身はライトリンガーの最新の見積もりを引用しているが、彼はこの見積もりと、『「46日間のうちに殺された」と申し立てている、この人数の半分である約300,000のハンガリーのユダヤ人』という自身のこれまでの主張との折り合いに失敗している――この問題に関して著されている、無責任かつ荒唐無稽であるこの種の極端な一例だ。
大戦の最後の混沌とした数ヶ月のうちの収容所の収容者数千人の死は、我々に戦時中の状態についての疑問を抱かせる。これは、赤々と眩く輝く不愉快な種類の数え切れない程の書物の中で念入りに歪曲されている。赤十字報告は以下のように精査し、戦争の間中収容所はよく管理されていたと決定的に示している。労働する収容者は1943と1944年を通してさえ毎日2,750カロリーを下らない食事を受け取っており、これは1945年以降の占領下ドイツの市民の平均的な食事の2倍以上である。抑留者は定期的な医療手当を受けており、重病を患った者は病院へ輸送された。ソ連の収容所にいた者とは異なり、全ての抑留者は赤十字の特別厚生課から食料、衣服、そして薬品の補給を受けられた。検察庁は犯罪者逮捕の事例それぞれで徹底的な調査を指揮し、無罪だと分かった者は釈放された。有罪と分かった者は、収容所内で重罪を犯し有罪と決せられた抑留者と同様、軍事法廷によって判決を受け処刑された。コブレンツにある連邦公文書館には、1943年1月付けのそうした処刑に関するヒムラーからの指示書があり、「残虐行為は許されない」と念を押していた(マンヴェルとフランクル著、前掲書「Heinrich Himmler」、312ページ)。時に暴力行為があったが、そうした事例は、様々な収容所の不正事件を調査するのが仕事である大国の連邦刑事庁の親衛隊判事コンラート・モルゲン博士によって即座に精査された。モルゲン自身は1943年に、自身の収容所で過度の行為を行ったブーヘンヴァルトの所長コッホを起訴し、その裁判ではドイツ国民も招待された。ニュルンベルクで甚だしい扱いを受けた、強制収容所制度の管理者であるオズヴァルト・ポールがコッホへの死刑を支持したというのは意味深長だ。実のところ、親衛隊の法廷はコッホに死刑を宣告したが、彼にはロシア戦線に従事する選択肢を与えられた。しかしこれができるようになる前に、その地区の親衛隊の指導者であるヴァルデック侯が処刑を執行した。この一件は、親衛隊は不要な暴力を重く判断していた事への十分な証明である。幾つかの親衛隊の法廷のこの種の訴訟は、過剰な行為を防ぐ為に戦時中に収容所の中で行われ、1945年までに800以上の事例が調査された。モルゲンはニュルンベルクで、『数百人の収容者を相手に、収容所の内で蔓延っている状態について胸襟を開いて論じあった』事を証言した。彼は、病院内以外では栄養失調の者が皆無だと知り、収容者による強制労働の労働量と成果は、ドイツの市民労働者たちのものより遥かに少ないと気付いた。ピンターとファウルハーバー枢機卿の証拠は『ダッハウでの絶滅の主張への論駁』を提示しており、その収容所の死者数がどのように下向修正を続けているかは我々が既に見ている。ミュンヘン近くのダッハウにある収容者は、実際には公正な抑留の場所の典型例として受け取るべきなのかもしれない。工場と製造場内での強制労働は最大の関心事であったが、共産主義者の指導者エルンスト・ラフは1947年4月18日のニュルンベルクの自白調書の中で、労働囚人への扱いと、ダッハウ収容所内は人道的だった事を証言した。1940年5月22日以降ダッハウにいたポーランドの地下組織の指導者ジャン・ピホーヴィアクも、1946年3月21日に囚人たちは良い扱いを受けていたと、そしてその収容所の親衛隊の職員は「規律正しかった」と証言した。戦時中ずっとダッハウの食糧班で働いていたベルタ・スカイロツチンは、働く囚人たちは1945年初頭まで、そしてドイツの増大する窮乏にもかかわらず、毎日午前10時に慣習となっている2度目の朝食を受け取っていた、と証言した。概して、ニュルンベルクからの数百の自白調書が強制収容所内で広く維持されていた人道的な状況を証言している。しかし強調されたのはいつも、ドイツの管理を劣悪なものに思わせる、宣伝戦目的に使えるものだった。文書研究も、『自らの追放と監獄収容所への抑留に憤るユダヤの証人は自らの状況の過酷さを甚だ誇張する傾向があり、一方で上記のような政治的理由で抑留された他の国民は概してより均衡の取れた叙述を提示している』事を明らかにしている。多くの場合、シャーロット・ボルマンといった、ニュルンベルクが提示した叙述とは合致しない経験をしている囚人は証言を許されなかった。
ドイツの強制収容所内で普及していた秩序だった状況は1945年の最後の恐ろしき数ヶ月のうちにゆっくりと崩れていった。1948年の赤十字の報告は、連合国による絨毯爆撃が大国の輸送と連絡の機構を麻痺させ、食料が収容所に届かなくなり飢餓によって収容所内とドイツ市民の内で犠牲者が増大していった、と説明している。この恐ろしき状況は超過密とその結果生じたチフスの大流行の両方によって収容所内で悪化した。超過密は、ロシア勢力が侵攻する前にアウシュヴィッツといった東方の収容所から西方へと避難した囚人の結果として発生した。そうした疲れ切った人々の列が、ベルゼンやブーヘンヴァルトといった、そこ自体非常に過酷な状態になっていたいくつかのドイツの収容所に到着した。ブレーメン付近のベルゼンは数ヶ月の間一際混沌とした状態になり、ヒムラーの反ナチの内科医フェリックス・ケルステンは、「死の収容所」という不幸な評判は単に1945年3月に発生したチフスの大流行の凶暴性によるものだと説明している(「Memoirs 1940-1945」、ロンドンにて1956年に刊行)。疑いなくそうした恐ろしき状況によって膨大な命が犠牲となり、『彼らは「絶滅」の犠牲者なのだ』と主張しながら宣伝戦術家たちが喜んで見せびらかすやせ衰えた人間や死体の山といった写真の中からそうした状態は見て取れる。この状況への驚くべき誠実な評価が「Purnell's History of the Second World War」(7巻、15番)の中で、戦後一ヶ月間医学生としてこの収容所で過ごし、現在エセックス州のセヴェラルス病院で院長にして精神科の顧問医師を務めているラッセル・バートン医師によって著されている。彼の報告は終戦へと向かっているそうした収容所の中で起こった大量死の原因を、そしてどのようにこうした極限の状況がそこで蔓延していったかを鮮明に表現している。バートン医師は、『1945年にベルゼンの監督を行った英国の軍医グリン・ヒューズは、規律と厳しい労働はあれど「この収容所で残虐行為があった、とは考えていませんでした」』と説明している。「多くの人々は、」とバートン医師は書いている、「収容者の状態をドイツ人たちの計画的な意思のせいだと考えました……収容者たちは嬉々として暴力や怠慢の例を唱え、他国から訪れた記者たちは母国の宣伝戦の需要に従って状況を解釈しました。」しかし、バートン医師は飢餓と病気の状態はこの状況では不可避であり、1945年の数ヶ月でしか起きなかったと明言する。「囚人たちとの議論から、収容所の状況は1944年遅くまではそこまで劣悪ではなかったようです。宿舎はどれも松の木々の間にあり、それぞれには厠、洗面台、シャワー、そして暖房が備え付けられていました。」食糧難の原因も説明されている。「ドイツの医療職員は私に、数ヶ月の間収容所への食糧輸送がどんどん困難になっていっていたと告げました。アウトバーンの上を動くものはまず爆撃されました……私は2〜3年前まで遡った記録を見つけて驚きました、大量の食料が毎日配給のため調理されていたのです。その時確信しました、一般的な見解とは正反対に、人工飢餓政策など存在しなかったのだと。これは多数の太った収容者によって確証できます。では何故多くの人が酷い栄養失調に苦しんだのでしょうか?……ベルゼンの状態の大きな理由は病気、中枢権力による粗悪な過密、宿舎内の規律と秩序の欠乏、そして食糧、水、そして薬品といった配給の不足です。」食料配給への暴動を発生させた秩序の欠如は、英国の戦車と装甲車がこの収容所にやって来た時、英国の機関銃の発砲と武力誇示によって鎮圧され治まった。そうした状況下での不可避の死とは別に、グリン・ヒューズは約「1,000人が、自分の食糧とチョコレートを与える英国人の慈悲によって殺されました」と見積もっている。ベルゼンにいた人物である医師バートンは、明確に強制収容所神話の誤りの正に生き証人であり、こう結論付けている:「ベルゼンで判明している状況の原因を評価しようとする者は、宣伝戦目的としては十分な、大量の餓死者死体のぞっとするような視覚的誇示で警告されるに違いありません。」そうした状況を議論する為に「『善』と『悪』に関して素朴に語るのは、構成要素たる諸々を無視することになります……」
ベルゼンであったような状況は宣伝戦の為に恥知らずにも食い物にされているが、この宣伝戦は完全に偽の残虐行為の写真と映画を使ってもいる。ベルゼンの極限状況は実のところ一握りの収容所にしかなかった。大多数は最悪の困難を回避し、収容者全員は健康なまま生き延びた。結果として、直接的な偽造が恐怖の状況の誇張に使われている。そうした偽造の初期の事例は1948年10月28日刊行の「British Catholic Herald」で暴露された。この雑誌は『成人したドイツ人それぞれがブーヘンヴァルトの「恐怖」を表現する映画を強制的に見せられていた土地カッセルで、ゲッティンゲンからの医者が銀幕に、犠牲者を手当てしている自身が映っているのを見た』と報告した。彼はブーヘンヴァルトに行った事がなかった。当惑の間の後に彼は、自分が見たのは1945年2月13日の連合国による恐ろしきドレスデン爆撃の後に撮影されたのだと気付いた、そこで自分は働いていたのだからと。問題のその映画は1948年10月19日にカッセルで公開された。135,000人が殺された、その大多数は女子供の疎開者だった、と記録されているドレスデン爆撃の後、犠牲者の死体は山積みにされ400から500人分の塊として数週間かけて火葬された。ブーヘンヴァルトからのものだと称する光景はそれなのだと医者は認識した。
戦時中の残虐行為の写真の偽造は何ら新しいものではない。読者が参照できる更なる情報はアーサー・ポンソンビーの著作「Falsehood in Wartime」(ロンドンにて1928年に刊行)で、これは第一次世界大戦中のドイツの残虐行為の偽写真を暴露している。ポンソンビーは、「死体工場」や「ベルギーの手のない赤子」といったでっち上げを引用しており、これらはナチの「残虐行為」に関する宣伝戦を強く想起させるものだ。F・J・P・ヴィールは自著の中で、いんちきの「人間石鹸の入った容器」がニュルンベルクでソ連の検察当局によって粛々と持ち込まれたのは、『残忍なドイツ人が加工された死体から様々な小物を得ていたと申し立てていた英国が広めた、有名な「死体工場」神話』とぴたりと符合する、と説明している(ヴィール著、前掲書「Advance to Barbarism」、192ページ)。この非難は、英国政府が1918年以降に謝罪したものの1つだ。そうした神話は、ソ連が広めた「人間石鹸」と同様、確実な欺瞞である人革製の灯りの笠という話の中で1945年以降に新たな命を得た。実のところマンヴェルとフランクルから、我々はブーヘンヴァルト裁判での灯りの笠の証拠は「後に疑わしいと判明しました」という渋々とした認定を受けている(「The Incomparable Crime」、84ページ)。この証拠は前述にあるような種類の「記された自白調書」の中で、アンドレアス・パッフェンバーガーという人物によって提供されたが、1948年にルシウス・クレイ大将は、裁判で使われたその自白調書は、より徹底的な調査の後、大半が使い古された「又聞き」であると分かった、と認めた。
600万人の神話に関するこうした偽の残虐写真に対する素晴らしい作品はウド・ヴァレンディ博士による「Bild 'Dokumente' für die Geschichtsschreibung?」(フロートー/ヴェーザーにて1973年に刊行)で、そこで主張されている無数の例からこのページで1つ例証しよう。1枚目の写真の起源は不明であり、2枚目は合成写真だ。精査すれば即座に複数の立ち姿は1枚目の写真から取ったものであり、死体の山がその手前に重ね合わされている事が明らかになる。金網が除去され、全く新しい恐怖の「写真」が創造されている。この図々しい偽造はR・シュナーベルの親衛隊に関する本「Macht ohne Moral: eine Dokumentation über die SS」(フランクフルトにて1957年に刊行)の341ページ目に、「マウトハウゼン」という見出し付きで登場する。(ヴァレンディはシュナーベルの著書に、他に偽造の例が18あると主張している)。同じ写真が国際軍事裁判の訴訟手続き、XXX巻、421ページ目の中で登場し、同様にマウトハウゼン収容所を写していると称している。これはまた、ユージーン・アロネアヌによるニュルンベルクでの国際裁判用の「Konzentrationlager Document F.321」、ハインツ・キューンリッヒの「Der KZ-Staat」(ベルリンにて1960年に刊行、81ページ)、ヴァーツラフ・ベルディハによる「Mauthausen」(プラハにて1959年に刊行)、そしてロバート・ノイマンの「Hitler -- Aufstieg und Untergang des Dritten Reiches」(ミュンヘンにて1961年に刊行)の中で見出しなしで挿入された。
その誠実さと客観性という点に於いてほぼ唯一無二である、第二次世界大戦中の欧州におけるユダヤ人問題とドイツの強制収容所の精査が1つある、1948年にジュネーヴで刊行された「Report of the International Committee of the Red Cross on its Activities during the Second World War」全3巻だ。この完全に中立な出典からの包括的な説明はこれまでの2作品の調査結果を組み入れ、拡張している:「Documents sur I'activité du CICR en faveur des civils detenus dans les camps de concentration en Allemagne 1939- 1945」(ジュネーヴにて1946年に刊行)と「Inter Arma Caritas: the Work of the ICRC during the Second World War」(ジュネーヴにて1947年に刊行)だ。フレドリック・シオルデが率いる著者集団はこの報告のはじめのページで、自分たちの目的は赤十字の伝統に従い政治的に厳密に中立である事であり、そこに大変価値がある、と説明した。ICRCは、ドイツ当局による中欧及び西欧での市民抑留に関与する為に1929年ジュネーヴ軍事条約を成功裡に適用した。それとは対照的に、ICRCはかの条約の批准を拒んでいたソヴィエト連邦への関与が不可能だった。市民と軍事の抑留者数百万人が、そこの環境は最悪の極みであると知られているUSSR内に捕えられ、国際的な接触や監督から断絶された。この赤十字報告は、強制収容所に拘留されたユダヤ人が置かれた正当な状況を最初に明確化している点で価値がある、つまり、敵国人としての状況を。市民抑留者の2つある分類の説明の中で、この報告は2つ目の種類を「彼らの存在は国或いは占領部隊にとって危険と見做されるがため、政治的な或いは人種的な動機を理由として行政基盤の観点で追放された(ドイツ語では「Schutzhäftlinge」)市民」と区分している(III巻、73ページ)。「こうした人物は、」と、報告は続けている、「安全保全の為の慣習法に従って逮捕拘禁されている人物と同じ立場に置かれていました」(74ページ)。ドイツは保安に関する理由によって赤十字による拘禁された人々への監督を渋っていたが、1942年後半にICRCはドイツから重要な権利を得た、とこの報告は認めている。彼らは1942年8月からドイツの主要な強制収容所に食料の小包を分配する事を認められており、「1943年2月以降はこの認可が他の収容所と監獄全てに拡大しました」(III巻、78ページ)。ICRCは即座に諸収容所の所長との連絡体制を確立し、1945年の最後の数ヶ月まで機能し続けることになる食料救援計画を始動させ、送られたものに対するユダヤ抑留者からの感謝の手紙が届いた。
この報告は「9,000程の包みが毎日梱包されました。1943年秋から1945年5月まで、合計4,500トンある約1,112,000の包みが強制収容所へと配送されました」(III巻、80ページ)と述べている。食料に加え、包みには衣服と医薬品も含まれていた。「包みはダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザンガーハウゼン、ザクセンハウゼン、オラニエンブルク、フロッセンビュルク、ランツベルク・アム・レヒ、フレーア、ラーフェンスブリュック、ハンブルク=ノイエンガンメ、マウトハウゼン、テレージエンシュタット、アウシュヴィッツ、ベルゲン=ベルゼンに、ウィーン付近のそしてドイツ中央部と南部の諸収容所に送られました。主な受取人はベルギー人、オランダ人、フランス人、ギリシャ人、イタリア人、ノルウェー人、ポーランド人、そして無国籍のユダヤ人でした」(III巻、83ページ)。戦争の最中、「この委員会は世界中のユダヤ系福祉団体によって、特にニュー・ヨークの米国共同配給委員会によって、集められた2000万スイス・フラン分以上の救援物資という形で輸送し分配する立場にありました」(I巻、644ページ)。米国共同配給委員会は米国人が戦争に参戦するまで、ベルリンに職場を維持する事をドイツ政府によって許可されていた。ICRCは、ユダヤ抑留者への大規模な救援作戦がドイツ人によってではなく連合国による厳しい欧州封鎖によって妨害されている事に不満を訴えていた。彼らの食料援助の大半はルーマニア、ハンガリー、そしてスロヴァキア産のものを公に購入していた。ICRCは1945年4月の自分たちによる最後の訪問の時まで継続していた、テレージエンシュタットで普及していた自由な状況に一際の称賛を送っていた。この収容所は「様々な国から追放された約40,000人のユダヤがいるところであり、比較的特権が与えられていたゲットーでした」(III巻、75ページ)。この報告によれば、「委員会の使節は、もっぱらユダヤ人に使用され、特別な状態で統制されているテレージエンシュタット(テレジーン)の収容所を訪れる事ができていました。委員会が集めた情報によれば、この収容所はかの大国の一部の指導者によって実験として開始されました……そうした指導者はユダヤ人に、町での共同生活を手配する手段と、ほぼ完全な自治の過程を与えたがっていました……使節2人は1945年4月6日にこの収容所を訪れました。彼らはその初めての滞在で、良好な印象を確認しました」(I巻、642ページ)。ICRCはまた、ルーマニアファシスト党のイオン・アントネスク政権も称賛していた、その政権下で委員会はソ連による占領の時まで183,000人のルーマニアのユダヤへの特別な救援を延長できたと。占領以降それは停止し、ICRCは「ロシアへは何も送れませんでした」(II巻、62ページ)と苦々しく不満を訴えている。同じ状況はロシア人による「解放」後の多くのドイツの収容所に見られた。ICRCはソ連による占領期間になるまでアウシュヴィッツから大量の手紙を受け取っており、占領される際に抑留者の多くは西方へと避難した。しかし援助をソ連支配下のアウシュヴィッツに残った抑留者に送ろうという赤十字による努力は無駄に終わった。だが、ブーヘンヴァルトやオラニエンブルクといった西に移送された元アウシュヴィッツの収容者には食料包みは送られ続けた。
この赤十字報告で最重要の箇所の1つは、終戦が近い頃に疑いなく生じた大量死の本当の原因を明らかにしているところだ。報告はこう言っている:「大戦最後の数ヶ月の間、侵略が始まった後のドイツの混沌とした状態の中、収容所は全く食料物資を受け取れず、飢餓によって犠牲者が益々増えていきました。これ自体は状況によって警告されていましたが、ドイツ政府は1945年2月1日にICRCに遂に伝えました……1945年3月のICRCの総裁と親衛隊大将カルテンブルンナーの間での議論がそれより更に重大な結果をもたらしました。援助は以降ICRCによる配給が許され、収容所それぞれに代表1人が滞在する事が認められました……」(III巻、83ページ)。明らかに、ドイツの権力者たちは全力を尽くしてこの過酷な状況を緩和しようと骨を折っていた。赤十字は、食料提供はこの時連合国によるドイツの輸送路爆撃によって停止しており、抑留されているユダヤ人の利益の為に赤十字は1944年3月15日に「連合国の野蛮な空爆」に抗議していた事をはっきりと明言している(「Inter Arma Caritas」、78ページ)。1944年10月2日までに、ICRCはドイツ外務省に切迫したドイツの輸送機構の崩壊を警告しており、ドイツ中の人々の飢餓状態は不可避であると宣言している。この包括的な全3巻の報告に関して、国際赤十字は枢軸国が占領した欧州内の収容所にユダヤ人を絶滅する計画的な政策の証拠を全く見つけられなかったのを強調するのは重要だ。この報告1,600ページ全ての中に、ガス殺室といったものへの言及すらない。報告書は、他の戦時中の諸国と同様にユダヤ人は苦難を受け窮乏した、と認めているが、計画された絶滅という論点についての完全なる沈黙は600万人の伝説を十分に論駁している。共に働いたヴァチカンの代表と同様、赤十字は『自分は、当時関心事となっていた大虐殺への無責任な告発に耽る事は不可能である』と理解していた。正真の死亡率に関して、収容所のユダヤ人医師の多くは東部戦線でチフスと良く戦っていたため、1945年に収容所内でチフスが大流行した時に収容所で活動できなかった、と報告は指摘している(I巻、204ページ)。ついでに、狡猾にもシャワー施設に偽装されたガス殺室で大量処刑が実行されたとは頻繁に主張される。この報告ではこの主張も粉砕している。「洗い場だけでなく、浴槽、シャワー、そして洗濯物用の設備も使節によって検査されています。使節は時折備品の原始的さを減じるために行動を起こさねば、そして修理して大型化させねばなりませんでした」(III巻、594ページ)。
この赤十字報告のIII巻3章(I部、ユダヤ市民人口)は「自由市民のユダヤ人に与えられた支援」について触れており、そしてこの章は欧州のユダヤ人全員が抑留収容所に入れられたわけでは全くなく、特定の制約の対象にはなりながらも自由市民人口の一員で居続けていたと極めて明確に表している。これは「絶滅計画」と申し立てられているものの「徹底さ」と全く矛盾しており、偽造されたヘスの回顧録の中の、『アイヒマンは「ユダヤを1人残らず手中に」収める事に執着していた』という主張に反している。例えばアイヒマンの補佐ディーター・ヴィスリツェニーが監督していたスロヴァキアでは、「ユダヤ系の少数派の大多数がその国内に滞在する許可を得ており、スロヴァキアは一定期間ユダヤ難民にとって、特にポーランドから来るユダヤ人にとって、相対的に避難先となっていました。スロヴァキアに残った者は1944年8月の終わりまで比較的安全であるようでした、そしてその安全でなくなった時期というのは、ドイツ軍への蜂起が起こった時でした。1942年5月15日の法律が数千人のユダヤ人を抑留したことは事実ですが、抑留される人々は食と住がかなり良い収容所に入れられ、そこで抑留者は自由競争の労働市場のそれとほぼ変わらない条件の給料付きの労働を行えました」(I巻、646ページ)。300万人程いた欧州ユダヤ人の大多数が抑留を完全に回避していただけではなく、ユダヤの移住は概してハンガリー、ルーマニア、そしてトルコを経由して戦争の間じゅうずっと続いた。皮肉にも、ドイツ占領地域からの開戦後のユダヤ移住もこの第三大国によって円滑に進められた、ポーランドが占領される前にフランスに逃げたポーランドのユダヤ人の場合のようにだ。「フランスにいる間に合衆国への移入許可を獲得したポーランドからのユダヤ人は、占領しているドイツの権力者から米国市民と見做されておりました、この権力者たちはまた、南米諸国の領事館からユダヤ人に発行された約3,000の旅券が有効である事を承知してもいました」(I巻、645ページ)。未来の合衆国市民であるこうしたユダヤ人は、フランス南部にある米国の異邦人の為のヴィッテル収容所に入れられた。欧州ユダヤ人の移住は、特にハンガリーからの移住は、ドイツの権力者に妨害される事もなく戦時中に進んだ。「1944年3月までに」と、赤十字報告は述べている、「パレスチナ行きの入国許可という権利を持っていたユダヤ人は、自由にハンガリーを離れられました」(I巻、648ページ)。1944年に、(ソヴィエト連邦との休戦を試みていた)ホルティ政権から、ドイツの権力により依存した政府へと取って替わった後でさえ、ユダヤ人の移住は続いた。赤十字の委員会は英国と合衆国両国と結んだ「ハンガリーからのユダヤ人移住をあらゆる手段で支援すること」という誓いを守っており、ICRCは合衆国政府から「合衆国政府は……出国が許される状況にあるユダヤ全員の援助の為に手配が行われるであろうという保証を、今特別に繰り返します」(I巻、649ページ)という言伝てを受け取っている。
絶滅の疑問への真実の研究に疑いなく一番重要な貢献をしたのはフランスの歴史家であるポール・ラッシニエ教授の著書だ。この著書の傑出した価値は、まずラッシニエは実際にドイツの強制収容所での生活を経験しているという事実に依拠しており、また知的で反ナチな社会主義者として、彼ほどヒトラーと民族社会主義を擁護したいと思わない者は存在し得ない程である点に依拠している。しかし、正義と歴史的真実の為に、ラッシニエは戦後の年月を費やして1966年に死ぬまで、600万人という神話とナチの悪魔主義の伝説を完全に論駁する研究を進め続けた。1933年から1943年まで、ラッシニエはベルフォールにある一般大学、ブザンソン大学の史学教授だった。戦時中彼は1943年10月30日にゲシュタポに逮捕されるまで反政府活動に参加しており、その結果ブーヘンヴァルトとドーラにあるドイツの強制収容所に1945年まで投獄された。ブーヘンヴァルトでは、終戦に向かっている間彼はチフスに罹り、二度と教鞭を執れなくなる程に健康を害した。戦後にラッシニエは「レジスタンス勲章」と「フランス再興賞」を授与され、フランスの上院議員に選ばれたが、1946年11月に共産主義者によって追放された。それからラッシニエは自らの大著、即ちドイツの戦時残虐行為とされるもの、特にユダヤ人の「絶滅」と申し立てられているものへの体系立てた解析に着手した。彼の著作が殆ど知られていないのは驚くべき事ではない。フランス語から翻訳された作品は皆無であり、英訳されたものは1つもない。彼の最重要の著作2作品は:自身の経験に基づいて強制収容所の状況を調査した「Le Mensonge d'Ulysse」(「ユリシーズの嘘」、パリにて1949年に刊行)、そしてドイツの強制収容所に関する宣伝戦術家の詐欺に更に反論している続編「Ulysse trahi par les Siens」(1960年刊行)だ。彼の不朽の功績は最後の2冊「Le Véritable Proces Eichmann」(1962年刊行)と「Le Drame des Juifs européen」(1964年刊行)で完成し、それらの中でラッシニエは細心の注意を払った統計学的解析によってユダヤ人の命運に関する不誠実で向こう見ずな歪曲を暴露している。その最後の著作はまた、絶滅伝説の政治的かつ財政的な重要性を、そしてイスラエルと共産主義の諸権力による搾取を精査している。ラッシニエの著作の数ある価値の1つに、ドイツ独自の「邪悪さ」の神話を論破している点が挙げられる。そして彼はまた、如何に歴史的事実がパルチザンの宣伝戦の突破不能な濃霧によって消されているかを圧倒的な筆力で明らかにしてもいる。彼の調査は、第二次世界大戦中のユダヤ人の命運は一度歪曲から解放され適切な規模に収めてしまえば大半の吹聴される「非道さ」を失い、より大規模で広範な悲劇の中の単なる一幕に見える事を決定的に示している。1960年にあった西ドイツでの広範囲の巡回講義の中で、ラッシニエ教授はドイツの聴衆に向けて今は絶滅伝説に関する真実を再誕させる良い時であり、くだんの主張が世界の目にドイツの全く不当な汚れを残しているのだからドイツ人自身がそれを始めるべきだと強調した。
22.ブラウニングはクボヴィも当代ユダヤ証拠資料世界センターも聞いた事がなかった。しかしフォリソンもアーヴィングもクボヴィを知っており、アーヴィングは自著「Hitler's War」の中で「La Terre Retrouvee」からのクボヴィの引用文に言及していた。
旅人はいつも法螺話を携えて帰還するという事実を踏まえ、ラッシニエは最初の著書に「ユリシーズの嘘」と題し、そして生涯をかけて絶滅文学を調査し、その著者らの足取りを追おうとした。デイヴィッド・ルセの著した「The Other Kingdom」(ニュー・ヨークにて1947年に刊行)にある、ブーヘンヴァルトのガス殺室に関する突飛な主張への短い著書もラッシニエは執筆している。自身がブーヘンヴァルトの収容者であったラッシニエは、ブーヘンヴァルトにガス殺室など全く存在しなかった事を証明した(「Le Mensonge d'Ulysse」、209ページ以降)。ラッシニエはまた、アベ・ジャン=ポール・ルナールの足取りを追い、ルナールの著書「Chaines et Lumieres」の中でブーヘンヴァルトでガス殺室が稼働していたとどうして述べられたのかと彼に訊いた。ルナールは、複数の方が私に自らの経験を語ったため、見たこともない物事の目撃者として振る舞いたくなったのですと応えた(同書、209ページ以降)。ラッシニエはまた、ドゥニーズ・デュフルニエの著書「Ravensbrück.- The Women's Camp of Death」(ロンドンにて1948年に刊行)を調査し、これについてもこの女流作家は『シャーロット・ボルマンが「共産主義政治犯の囚人が故意に広めた」と証言している曖昧な「噂」』以外に、そこにガス殺室があるという証拠を持っていない事を突き止めた。そうした調査はフィリップ・フリードマンの「This was Auschwitz: The Story of a Murder Camp」(ニュー・ヨークにて1946年に刊行)とオイゲン・コーゴンの「The Theory and Practice of Hell」(ニュー・ヨークにて1950年に刊行)といった本にもなされ、こうした著者らのうち誰一人として信憑性のあるアウシュヴィッツのガス殺室の目撃証言を生み出せておらず、彼ら自身も実際には見ていない事を判明させた。ラッシニエは、『元収容者の故人ヤンダ・ワイスはコーゴンだけに対してアウシュヴィッツでガス殺室を目撃したと言いました』というコーゴンの主張に言及しているが、勿論、その人物は死んでいるため、ラッシニエにはその主張の調査が不可能でいる。ラッシニエは、数百万人のユダヤ人がアウシュヴィッツで絶滅されたと主張する「Teufel und Verdammte」の著者ベネディクト・カウツキーに取材できた。しかし、カウツキーはラッシニエに自著内での告白の保証だけをした、つまり、自分はガス殺室を見たことなど一度たりともなく、情報は他人が「自分に言った」事に基づいていると。絶滅文学賞がラッシニエからミクロス・ニスリの「Doctor at Auschwitz」に贈られている、その作品では、事実歪曲、明確な矛盾、そして恥知らずな嘘が、その著者は明確に自分が見た事のない場所について話している事を示していた(「Le Drame des Juifs européen」、52ページ)。「doctor of Auschwitz」によれば、4年半の間毎日25,000人の犠牲者が絶滅させられているというが、これはオルガ・レンゲルの2年半の間毎日24,000人を堂々と進化させた値である。これでは1945年までに合計4100万人の犠牲者がアウシュヴィッツで出たことになり、その数字は戦前の世界中のユダヤ人口合計の2.5倍である。ラッシニエはこの奇妙な「目撃者」の人格を知ろうと試みた時に「この証人はこの本の出版より幾らか前に死んでいます」と告げられている。ラッシニエは、彼は神話上の人物に過ぎないと確信している。実のところ大戦以降ラッシニエは、第二次世界大戦中にドイツの強制収容所内でガス殺室による絶滅を本当に見た者を求めて欧州中を旅していたが、そのような人物はただの1人も見つけられなかった。彼は、ユダヤ数百万人を絶滅させたとドイツを責めている数ある書物の著者らのうち誰一人としてそうした目的の為に建てられたガス殺室を見てさえおらず、言わずもがな稼働しているところも見ておらず、著者の誰も目撃したという生々しく信憑性のある証言者を提示できていない事を発見した。ルナール、カウツキー、そしてコーゴンといった元囚人は例外なく、実際には本人が見たのではなく「信頼できる」情報源から「聞いた」ものに基づいて証言しているが、その情報源は何らかの理由でほぼ間違いなく死んでおり、つまり彼らの証言は確証も否定もしようがない。ラッシニエの研究から浮上する確実に最重要である事実は、そして今や全く疑う余地のない事実は、「ガス殺室」の完全なる詐欺だ。現地で行った入念な調査によって、上記で検査した生き残っている「目撃者」の宣言とは真逆に、ドイツのブーヘンヴァルト、ベルゲン=ベルゼン、ラーフェンスブリュック、ダッハウ、ドーラにある収容所とオーストリアのマウトハウゼンにある収容所には、ガス殺室が全く存在しなかったという反論しようのない証拠が明らかになった。U.S旧陸軍省のスティーブン・ピンターによって証明されている我々が記したこの事実は、ミュンヘンの現代史協会によって評価され認められている。しかし、ラッシニエは、これにもかかわらず「証人」はアイヒマン裁判でベルゲン=ベルゼンでガス殺室送りにされている囚人たちを見たと再び宣言した事を指摘している。ポーランドにある東部収容所に関する限り、ラッシニエは『トレブリンカ、ヘウムノ、ベウゼツ、マイダネクそしてソビボルのガス殺室を証明する証拠は、上で挙げたクルト・ゲルシュタインの信用ならない回想録だけである』と示している。彼のもともとの主張では不合理な4000万もの人々が戦時中に絶滅させられたと回想しているが、彼が初めて署名した覚え書きではその人数を2500万に減らしている。彼の2番目の覚え書きでは更なる減少がなされている。これらの文書は信憑性が疑わしいと見做されており、ニュルンベルク法廷でさえ認められていないが、それぞれと矛盾する3つの版、即ちドイツ語1つ(学校で配布されている)とフランス語2つは頒布され続けている。ドイツ語版は1961年のアイヒマン裁判で「証拠」として採用された。最後に、ラッシニエ教授はテル=アヴィヴにある当代ユダヤ証拠資料世界センターの局長であるクボヴィ博士が1960年12月15日出版の「La Terre Retrouvée」の中で行っていた重要な告白に注目していた。クボヴィ博士は、ヒトラー、ヒムラー、ハイドリヒ、そしてゲーリングによる絶滅の文書を1つも把握していなかった(「Le Drame des Juifs européen」、31と39ページ)22。
23.ヒルバーグは、自分は統計学者ではなく896,892という見積もりをした事もないと証言した。彼独自の計算では実のところ500万を超えている。ウェーバーは、ハーウッドはこの情報をポール・ラッシニエの著作から得ていると証言した。大元の間違いはだからラッシニエにあり、ハーウッドにはない、と。
24.ヒルバーグは、この施設もハーウッドの引用したその人数も聞いたことがないと証言した。
600万人という恐るべき宣伝戦の人数に関して、ラッシニエ教授は極めて詳細な統計学的解析に基づいてその数を排除している。彼は、この数は一方であらゆる移住と疎開を無視する事で戦前のユダヤ人口を水増しし、もう一方で1945年後の関連する生存者人数を過小に見積もる事で偽って打ち立てられたものであると示した。これは、世界ユダヤ人会議が使った手法である。ラッシニエはまた、上記で引用したような種類の「証人」によって提供されている記述や口頭の証言も除外している、それらは矛盾、誇張、そして欺瞞に満ちているのだから。彼はダッハウでの死者数を例に挙げ、『1946年にニーメラー牧師が、アウエルバッハが唱えたダッハウでの詐偽の「238,000人」の死を復唱している一方で、1962年にミュンヘンのノイヘウスラー司教はダッハウでの演説の中で「38の国々から抑留された200,000人のうち」30,000人しか死んでいないと明言した』と指摘した(「Le Drame des Juifs européen」、12ページ)。今日、この見積もりは更に数千人減少しており、これからもそうなる。ラッシニエはまた、ヘス、ヘットル、ヴィスリツェニーそしてヘルリーゲルといった、死刑宣告か猶予の見通しを受け、拘禁の間頻繁に拷問を受けていた被告人による、600万人を支える証言は全く信用に値しないとも結論付けている。ラッシニエは、600万という人数はアイヒマン裁判の間に言及されていない事に大変な重要性を見出している。「エルサレム裁判の検察当局はガス室で絶滅させられたとされる600万の欧州ユダヤ人という中枢にある主題によって非常に弱っていました。それは精神的物質的混乱というよくある状態のただ中であった戦争が終わった直後に易々と確信を得られた主張でした。今日では、ニュルンベルク諸裁判当時では利用不可能だった多くの文書が出版されており、そしてそうした書類は、もしユダヤ同胞がヒトラーの政策によって不当に扱われ迫害されていたなら、600万人の犠牲者など有り得ない、と証明する傾向にあります。」(同書、125ページ)。多角的に検証した人口統計100ページの助けも伴い、ラッシニエ教授は「Le Drame des Juifs européen」の中で第二次世界大戦中のユダヤ死者数は1,200,000を超えようがないと結論付けており、これは最終的にパリの当代ユダヤ証拠資料世界センターによっても有効だと認められた、と彼は記している。24しかし、彼はそのような人数を最上限だと見做しており、ユダヤ人統計学者ラウル・ヒルバーグによる、この問題への研究の中にあったより低い見積もり死者896,892人に言及している。23ラッシニエは、イスラエル国はそれにもかかわらず、1人につき5,000マルクの賠償の計600万人の死者の補償を主張し続けている事を指摘している。
ラッシニエ教授は、ドイツ政府は国外へのユダヤ人移住以外にはユダヤに関する政策を有していなかったという主張を強調している。彼は、1935年9月のニュルンベルク人種法の発布の後、ドイツ人たちはバルフォア宣言に基づいてドイツのユダヤ人のパレスチナへの輸送について英国と折衝した事を示した。折衝が失敗した後、ドイツ人たちは他の国に彼らの世話をするよう頼んだが、断られた(「Le Drame des Juifs européen」20ページ)。パレスチナ計画は1938年に復活したが、英国が要求した何の補償の合意もない3,000,000マルクに基づいたユダヤ人離脱の折衝がドイツにはできなかったため、破談した。こうした困難にもかかわらず、ドイツはユダヤ人の大多数の安全な移住、大半は合衆国への移住を実現した。ラッシニエは、1940年終わりのフランスによるドイツのマダガスカル計画への拒否にも言及している。「1942年8月21日の報告の中で、第三大国の外務省の外務大臣ルターはこの方針でフランスと折衝するのは可能だと決心しており、そして『1940年7月から12月までの間に開かれ、且つ1940年12月13日のモントワールとの会見の後にラヴァルの後任であるピエール=エティエンヌ・フランダンによって中止されてしまった、会議』を記述しています。1941年の間ずっとドイツ人は、こうした交渉が再開され、幸福な結末をもたらす事を期待していました」(同書、108ページ)。戦争勃発後、ラッシニエが思い出させているように1933年という早くからドイツに対し経済的財政的な戦争を宣言していたユダヤ人は、強制収容所に抑留された、「これは世界中の国々において戦時中に敵国人を扱う手法でした……。ユダヤ人を集め、1941年の終わりまでにロシアとポーランドの間の元国境付近にあった東方圏と呼ばれる地域に位置していた巨大なゲットーの1つへと彼らを押し込んで働かせる事がロシア侵略成功後に決定しました:つまり、アウシュヴィッツ、ヘウムノ、ベウジェツ、マイダネク、トレブリンカ等へと……。そこで彼らは、自らの将来を決定するだろう国際的な会議が再開するのを終戦まで待っていました」(「Le Véritable Proces Eichmann」、20ページ)。東方にあるゲットーへのこの強制収容の命令は先述のようにゲーリングからハイドリヒへと与えられ、「望ましい最終的解決」である戦争終結後の海外への移住の序章と見做されていた。
ラッシニエ教授にとっての重大な関心事項は、絶滅伝説を政治的財政的利益の為に計画的に利用するやり方であり、そして彼はこれに関してイスラエルとソヴィエト連邦が協力している事を発見した。1950年以降に2つの組織の判子を押されて登場したでっち上げの絶滅文学の雪崩の様は、それらは計画して協調しているのだと人が信じるには十分な程に2つの活動の息が合っていた事を彼は示した。1つはワルシャワで共産党の支援の下設立された「戦争犯罪及び犯罪者調査委員会」で、もう1つはパリとテル=アヴィヴにある「当代ユダヤ証拠資料世界センター」だ。2つの組織の出版物は政治情勢が都合の良い時に登場しているように見え、そしてソヴィエト連邦にとってその出版物の目的は、単純に自分たちの目的から注目を逸らす策略としてナチスの脅威を維持する為である。イスラエルについても同様に、ラッシニエは600万人神話を純粋に物欲の問題によって想起されたものだと見做している。「Le Drame des Juifs européen」の中で(31、39ページ)、彼はこう書いている:「……主張される行為が発生した当時イスラエル国はなかったのだから実質的にも法律的にもイスラエル国は蒙りようがない損害への賠償として、終戦以来毎年ドイツがイスラエル国に支払っている膨大な補助金を、比例する死者数から正当化しているのは単純に疑問です。つまりこれは純粋かつ卑劣な物欲の問題なのです。」「イスラエル国は1948年5月に建国されたばかりで、そしてユダヤ人はイスラエルを除いたあらゆる国の国民であった事は、どのような言語でも記述できない程の詐欺の大きさを強調する為にここで思い出させても許されるでしょう。ドイツは一方で600万人の死者数から計算した額をイスラエルに支払っており、もう一方では最低でもその600万人の8割の人数が終戦時に確実に生存していたがため、『イスラエルを除いた世界中の国々で未だ生きている、ヒトラーのドイツによる犠牲者』に、そして『もう故人となってしまった者たちの縁者である正当な要求者』に、相当な額を補償という形で支払っています、つまり1つ目の主張(つまり、600万人)に対し、或いは別の表現をすればその大部分に対し、ドイツは二重支払いをしています。」
ここでユダヤ人の戦中の死者数に関する情報を簡潔にまとめよう。ニュルンベルク及びアイヒマン裁判で提唱されたドイツ占領地域内の900万以上のユダヤという人数に反して、広範な移住の後にはおおよそ300万人がソヴィエト連邦以外の欧州で生きていた事は既に立証している。ドイツ占領下のロシアのユダヤを含める(ロシアのユダヤ人の大半はドイツ支配下から疎開していた)時でさえ、全体の数は恐らく400万を超えない。ヒムラー付きの統計学者リヒャルト・コルヘア博士と当代ユダヤ証拠資料世界センターはドイツの占領地域が最大だった時点のその数をそれぞれ5,550,000人、5,294,000人と推計しているが、どちらの統計でもバルト地方と西ロシアの200万人を含んでおり、疎開したその大多数に注目を全く向けていない。しかし少なくとも後者の組織は、欧州と西ロシアを組み合わせても600万人にさえ満たないと認めている。アイヒマン裁判の検察当局がその人数への言及を意図的に避けた事以上に、600万人伝説の衰えゆく信憑性を示すものはない。更に、死者数への公式なユダヤの推計は静かに下方修正されている。人口と移住の統計への解析は、「Swiss Baseler Nachrichten」及びラッシニエ教授の研究と同様に、ユダヤの死者数が150万人という上限を超えるのは単純に不可能だろうと示している。だからパリの当代ユダヤ証拠資料世界センターが、現在は『第二次世界大戦中にユダヤはあらゆる死因を含め1,485,292人しか死んでいない』と述べているのは大変重要であり、その人数は確実に多すぎるにしても、少なくとも伝説上の600万人とは似ても似つかない。前述の通り、ユダヤ人統計学者ラウル・ヒルバーグはそれより更に低い人数896,892人を見積もっている。これは現実的な人数への接近の始まりであり、この歴史修正の工程は確実に続いていくであろう。疑い無く百万未満のユダヤ人は第二次世界大戦の中で死んでいるが、これはあらゆる陣営にいる無辜なる犠牲者を何百万人も出した戦争の文脈の中に収まるように見えるに違いない。この問題を概観すると、例えば700,000人のロシア市民がレニングラード包囲戦で死んでおり、合計で2,050,000人のドイツ市民が連合軍の空爆及び戦後の強制送還の中で死んでいると指摘できる。1955年に、中立国スイスの更なる出典「Die Tat of Zurich」(1955年1月19日刊行)は、第二次世界大戦中のあらゆる死傷者の調査の中で、国際赤十字による人数に基づいて「1939年から1945年までの間に政治思想、人種、あるいは宗教のために監獄及び強制収容所の中で死んだ迫害の犠牲者たちの喪失」を300,000と推計しており、その全員がユダヤ人というわけではなく、そしてこの評価は最も正確な査定であるように見える。
25.歴史家ウェーバーは、この小冊子の著者は「リチャード・ハーウッド」という筆名を使うリチャード・ヴァロールという名前の男だと証言した。ヴァロールはロンドンの大学を極めて優秀な成績で卒業した者だ。彼は作家にして第二次世界大戦の一面である政治と交渉に特別な関心を持っていると。ヴァロールは1974年に出版したこの小冊子の上梓にあたり1950年代と1960年代に出版された二次出典に依拠したと。この作家によってされた誤りの多くは元々は歴史見直し論者の先駆者ポール・ラッシニエによってなされたものであり、彼の著作にヴァロールが重く頼ったのだと。
絶滅伝説への最も適切な質問は勿論これだ:『ドイツ支配下で300万人の欧州ユダヤ人のうち何人が1945年以降まで生き延びたのか?』ユダヤ共同配給委員会は欧州の生存者をたった150万人と見積もっていたが、その数は現在ではまったく受け入れられるものではない。これは1939年から1945年までの間に被害を蒙ったからと西ドイツに賠償を主張している、増大するユダヤ人の数によって証明されている。1965年までに、西ドイツ政府に登録されたそうした主張者の数は10年で3倍になり、3,375,000人に達している(「Aufbau」、1965年6月30日刊行)。これ以上に600万人という厚かましい幻想に対する壊滅的な証明は不可能だろう。これらの主張者の大半はユダヤ人であるため、ナチによる欧州占領を経験した300万人のユダヤ人の大半が実際にはそのまま生きている事は疑いようがない。これは第二次世界大戦中のユダヤの死者は百万未満としか見積もれないという事実を顕著に確証する。これはユダヤの人々にとって確実に十分な悲劇だろうか? この犠牲者数を膨大な空想上の虐殺と組み合わせて、偉大なる欧州の国への永遠の恥にし、同様に彼らから金銭的な詐欺の賠償を搾り取る権利を誰が持つのだろう? リチャード・ハーウッドは作家にして第二次世界大戦の一面である政治と交渉についての専門家である。現在彼はロンドン大学で働いている。25ハーウッド氏は、ポール・ラッシニエ教授の影響を受けてこの悩ませる戦争犯罪の題材に目を向け、彼の不滅の作品にこの小冊子は大変お世話になっている。この著者は現在1945〜1946年の一連のニュルンベルク本裁判の結末に着手している。
クアン・ファン博士、カナダのヨーク大学の哲学教授、元支那人:「この小冊子全体は……明確に政治的意見に分類されるべきでしょう……」
ディトライブ・フェルデラー、歴史研究家、作家、スウェーデン人:「この小冊子は過ぎ去った年月として『より真実』であると証明されたものであり、そして“この小冊子が初めて出版された時にハーウッドが行なったように議論を始める”のは今から来る絶滅主義者であるため、絶滅主義者は……更に更にとこの小冊子の方へと寄せていっています。」
ロベール・フォリソン博士、古文書の専門家、リヨン大学:「この本の主題は600万人のユダヤが死んだというのは真実ではなく、絶滅計画があったというのは真実ではなく、そしてガス殺室があったというのは真実ではないというものです。最初に適切さを見出だしたのは、その表題にです。この表題は素晴らしい。『600万人は本当に死んだか?』これは本当に問題です……リチャード・ハーウッドというこの人物は、1974年に門外漢向けに膨大な情報を提供してくれました。彼は1974年に、ヒトラーからのユダヤ人を絶滅する為の命令はなかったと言っています。3年後にデイヴィッド・アーヴィングがこれを言った時に大騒ぎになりましたから、これは本当に新しく、そして真実でした。これがフランスで出版された時にこれを配布した人物……フランソワ・デュプラ……が殺害される程に、この書は重要であると……1988年という今私たちは知っています。誰がそれをしたのか私たちは正確には知りませんが、まず興味深い点として、爆弾の操作といった類に極めて明るい人々によって行われた事であり、そして後に雑誌Le Monde内で出版された内容は興味深いものです。この殺人が『アウシュヴィッツ記憶』団体と称するものに再擁護されていました。パトリス・シェロフと呼ばれる人物によって正当化されていました――彼は、こんな小冊子を配布したフランソワ・デュプラに殺された責任がありますと言っていました。」
デイヴィッド・アーヴィング、英国の歴史家、WWIIとその後に関する30冊以上の本の著者:「……大変関心を持って読みました、そして、この書が指摘した議論の質の高さに驚いたと言わなければなりません。この書には明らかな瑕疵があります。この書は私なら使わないであろう出典を使っています。実のところ、出典の主要部全体が違っています。この本は完全に二次文献と一部の専門家を含む他者の著作に基づいており、一方で私は著作を使用しません。私は記録のみを使用します。しかしそれはそれとして、この本の著者は、私が全く異なる道筋から到達した論理的な結論に至り、疑問を投げ掛けています、言わば……。このようにしてこの小冊子の価値は何なのかを考慮してみるに、それは拙書『Hitler's War』が歴史家たちに提起したのと同様に、人々に疑問を提供した事だと思います……。これが、私がこの小冊子に見出だした価値の種類です。この本は完全に異なる出典一式に基づいて適切な疑問を問うています。」
マーク・ウェーバー、米国の歴史家、作家:「この小冊子の主題は正しいと信じています……つまり、第二次世界大戦ドイツにユダヤ人を絶滅させるという政策あるいは計画はありませんでした……この小冊子は人々を納得させる為に新聞雑誌的あるいは詩的な文章であり、歴史家である者によって通常称されるであろう学術的な作品や詳細な作品の厳密な調査基準を持ちうる作品である、と称してはいません……その主な価値は、これが提起した話題に関する更なる議論と思索と討論を奨励しているところにあります。」
コリン・ウィルソン、有名な英国の著者:「……私は郵便受けから、この……600万人は本当に死んだか?と題する小冊子を受け取りました。この本は私を徹底的に当惑させた事を認めなければなりません。ハーウッドが言っているのは、要約すると、強制労働にユダヤ人が必要な時に彼らを虐殺する理由がヒトラーにはない……これは訊く価値のある質問である:ナチスは本当に600万人のユダヤ人を絶滅させたのか? あるいはこれは、ヒトラーに関するほぼあらゆる書籍を殆ど無価値なものにしている感情的歴史的な歪曲の、更なる徴なのだろうか? ……そして、我々が真実に辿り着けるまで掘り下げる事を恐れる理由は何かあるだろうか? になりましょう。」
10年に亘る激論の後、検察側の証人によって見つかったこの小冊子の重要な誤りは以下である。斜字体はこの起訴によって論じられたこの小冊子の重要な部分であり、両陣営の専門家の証人によって示された証拠が続く。
1.1939年までにドイツのユダヤ人の大多数は移住しており、その全員が資産の殆どを手元に携えていた。どの時点でもナチの指導者は彼らの大虐殺政策を検討する事さえなかった……ヒトラーがユダヤ人の絶滅の意図を持っていたとしたら、大量の富を持たせたまま800,000人以上を大国の領域から離れさせるに任せたというのは考えられない……(5、6ページ)
検察側の歴史家クリストファー・ブラウニングの意見は、1939年迄のドイツのユダヤ人の移住は半数を僅かに超える程度だ、というものだ。ブラウニングは、800,000という数字は大袈裟だ、と証言した。1941年迄にドイツ、オーストリア、そしてその保護領を離れたユダヤ人の総数は530,000人だと。彼らに対して取られた方法のため、彼らは資産の「殆ど」を持って離れたと言うのは誤っていると。しかしブラウニングは反対尋問を受け、自分は人口統計学者でも統計家でもないと、そしてユダヤに関する人口統計は単なる推量に過ぎないと認めた。彼はまた、自分はユダヤ人が持って離れた資産の正確な割合も、量も示すことさえ出来ないと認めた。自分は資産の持ち出しを防ぐ大変な努力があったという事しか知らない、と。
2.19世紀の政治的シオニズムの創始者であるテオドール・ヘルツルは、その著書「The Jewish State」の中で、元々マダガスカルをユダヤの故郷となる国にする事を考えており、この可能性はナチスによって熱心に学ばれた。マダガスカル計画は 1933年より前の国家社会党綱領の目玉であり、小冊子の形式で党から出版されている。(5ページ)
ブラウニングは、1933年より前ではマダガスカルをユダヤの故郷となる国にする事はナチ党の綱領の目玉ではなかったと証言した。ナチの指導者が初めてマダガスカルに言及したのは1938年だった、と。マダガスカルの為の計画は1940年が初めてだ、と。
3.1940年のフランス陥落によってドイツ政府はフランス人との間で、欧州のユダヤ人をマダガスカルへと輸送する為の重要な折衝の口火を切れるようになった。1942年8月のドイツ外務省の外務大臣ルターによる備忘録は、彼はこうした折衝を1940年7月から12月までの間行い、フランス人に断られた事を明らかにしている。(7ページ)
ブラウニングは、フランス人とのそのような折衝はなかったと証言した。マダガスカル計画は英国の外洋支配継続のため失敗したと。
4.マダガスカル計画は棚上げされたため、ドイツ人は必然的に「絶滅」を考えなければならなかった、とライトリンガーとポリアコフは共に全く根拠のない考えを持っている。しかしそのひと月後の1942年3月7日に、ゲッベルスはユダヤ人問題の「最終的解決」としてのマダガスカル計画の為の備忘録を書いている(マンヴェル及びフランクル著、「Dr. Goebbels」、ロンドンにて1960年に刊行、165ページ)。この時に彼は「東方で収容されている」ユダヤ人を認めている。のちのゲッベルスの備忘録は東方(つまりポーランド総督府)への追放を強調もするようになり、そこでの強制労働の必要性を力説している。東方への排出政策がひと度始まると、ユダヤ人労働力の利用がこの作戦の根本的な一部となっていた。(7ページ)
ブラウニングは、『ゲッベルスは「備忘録」を書いておらず、「日記」を書いた』と言った。ゲッベルスは強制労働の必要性を力説しておらず、しかし正反対の事を言った、と。例えば、1942年3月27日に、彼はユダヤ人の60%は浄化されなければならず、40%は強制労働に使われるだろうと書いていると。ブラウニングは、自分はそのゲッベルス日記の原本の信憑性を確認した事はないと認めたが、商業出版された版を受け入れていた。歴史家ウェーバーは、タイプ打ちで書かれているためゲッベルス日記全体の信憑性は極めて疑わしいと証言した。タイプ打ちだから、その信憑性を検査する方法がないと。合衆国政府自体がこの日記の正確さの責任を持てないと指摘している:原本の布装丁版には、「この写本の信憑性の保証も否定もしない」という合衆国政府の主張が含まれていると。ブラウニングは、Seraphim reportといった他の文書に依拠してドイツ人は労働力としてのユダヤ人の利用に優先順位を置いていないことを示した。歴史家ウェーバーはこの意見に同意しなかった。彼の見方によると、ユダヤ人はドイツ人にとって価値ある労働資源であった。ヒムラー自身が強制収容所の収容者を可能な限り広範な軍事生産に使うよう命令を下していると。
5.ユダヤ人口に関する統計はどこでも正確な詳細さで分かってはいないし、様々な国で推測値は大きく異なり、1939年〜1945年の間に追放され抑留されたユダヤの人数も分からない。しかし概して信頼できる統計というものが、特に移住に関するものが、600万人のユダヤ人が絶滅された等ひと欠片もあり得ないと十分に示している。(7ページ)
ブラウニングは、同時代のドイツの統計学研究は600万人を絶滅するのに十分なユダヤ人がいた事を示していると証言した。それらの研究は:(a)ブルクドルファーの研究(欧州には約1072万人のユダヤ人がいたという見積もり)、(b)マダガスカル計画(1940年の時点で400万人がドイツの勢力下にいた)、(c)ヴァンゼー会議議定書(1100万人のユダヤ人)。ブラウニングの意見によれば、その当時に行われたドイツの研究は、欧州内のドイツ勢力下に1000万人のユダヤがいる事さえ示したのだと言う。だから、600万人は絶滅されうると。彼は再度、自分は人口統計学者でも統計家でもないと認め、そして国境線の変遷と様々な「ユダヤ人」の定義の問題がこの地域に於けるあらゆる結論を単なる見積もりに過ぎないという水準に達してしまう程に難しくしていると認めた。
6.チェンバーズ百科事典によれば、戦前に欧州で暮らしていたユダヤ人は6,500,000人だった。(7ページ)
チェンバーズ百科事典はロシアを別にした欧州大陸で暮らしているユダヤ人の総数しか扱っていない、この小冊子で述べているような、戦前の欧州で暮らしている総数ではない。
7.ドイツのユダヤ人に加え、オーストリアのユダヤ人合計280,000のうち220,000人が1939年9月までに移住しており、1939年3月以降プラハのユダヤ人移住局はチェコスロヴァキアがあった地域からの260,000人の移住の安全を確保している。全員で、360,000人のユダヤ人しか1939年9月以降のドイツ、オーストリア、そしてチェコスロヴァキアにはいなかった。(7、8ページ)
これらの人数は当時行われたドイツの研究と矛盾している、とブラウニングは証言した。ヴァンゼー会議議事録の統計と比較すれば、360,000人のユダヤがドイツから移住した、147,000人がオーストリアから移住した、30,000人が保護国から移住した事になる、と。これらの人数はハーウッドの人数より全てずっと少ない、と。
8.これらの移民に加え、1939年以降にソヴィエト連邦に逃げた、そしてのちにドイツ侵攻の届かないところへと避難したユダヤ人数も含めなければならない。大まかに1,250,000人である彼らの大多数はポーランドからの移民であった事は下で示される。しかしポーランドは別にして、ライトリンガーは300,000人の他の欧州のユダヤ人が1939年から1941年の間にソ連領に逃げ込んだ事を認めている。これによってソヴィエト連邦へのユダヤ人移民は約1,550,000人になる。(8ページ)
ブラウニングは、このライトリンガーへの言及は誤りだと証言した。ライトリンガーは合計で300,000人のポーランドのユダヤがソヴィエト連邦に逃げたと言ったのであって、ハーウッドが述べた「他の欧州のユダヤ人」ではない、と。つまりハーウッドが出した1,250,000という人数は、5倍も多いことになる、と。
9.1931年、ポーランドのユダヤ人口調査で2,732,600人のユダヤ人口がいた(ライトリンガー著、「Die Endlösung」、36ページ)。(8ページ)
ヒルバーグは、これは誤りだと証言した。実際には、1920年代に行われた人口調査で2,732,600人が発表されていると。
10.オランダ(140,000人)、ベルギー(40,000人)、イタリア(50,000人)、ユーゴスラヴィア(55,000人)、ハンガリー(380,000人)、ルーマニア(725,000人)のユダヤ人口を含める時でもドイツ勢力下の人数は300万人をそう超えない。(8ページ)
これらの統計はナチス独自の統計とは矛盾している、とブラウニングは言った。例えば、1942年用のドイツの統計ではハンガリーのユダヤ人口は743,800人だと。ドイツによるハンガリーからの追放の記録は、ハーウッドがハンガリーのユダヤ人口として提示した数より多いユダヤ人数を示していると。
11.知られている限り、ドイツ人への戦中の欧州でユダヤ人を大量殺戮したという最初の非難はポーランドのユダヤ人ラファエル・レムキンが1943年にニュー・ヨークで出版した著作「Axis Rule in Occupied Europe」の中で為されている。(9ページ)
最初のユダヤ人への大量虐殺非難は、連合国によって1942年11月17日に共同宣言の中で行われた。ブラウニングの知る限り、レムキンは600万人という人数を著書の中で使っていない。ウェーバーは、この誤りはこの小冊子の論の構成にとってどうでもよいものだと指摘した。
12.ゲルシュタインの姉妹は先天的に狂っていて安楽死しており、これは精神の不安定さの傾向がゲルシュタイン本人にもあった事を十分に示唆している。……ゲルシュタインの幻想的なまでの誇張は大規模絶滅という考え全体への不信を招く以外にはほぼ何もしていない。実際、ベルリンの福音派の司教ヴィルヘルム・ディベーリウスは彼の備忘録を「信用に値しない」と弾劾している。(9ページ)
ゲルシュタインの姉妹ではなく、義理の姉妹であり、安楽死プログラムの中殺された。実のところディベーリウスは、ハーウッドが書いたのとは正反対に、ゲルシュタインは信頼に値すると確信していると証言した。しかしヒルバーグは、ゲルシュタインを全く理性を失った人物だと見做しており、彼は現実に想像を加えるような人物であるという点に疑問の余地はない、と認めている。ブラウニングはゲルシュタインの口述書に「問題」があると承諾した。彼の明確な誇張は、経験による「心的外傷」に起因する、とブラウニングは言った。
13.ドイツ人がユダヤ人虐殺を検討していた、あるいは実行していた事を証明する文書は1枚たりとて存在しないというのは早急に強調されるべきであろう。(10ページ)
ブラウニングの意見によれば、そのような文書は存在し、ハンス・フランク日記、ヴァンゼー会議議事録、そしてヒムラーの1943年ポズナン演説が含まれるという。歴史家ロベール・フォリソンは、そのような文書がユダヤ人虐殺への入念な計画の存在を「証明する」としたら、ホロコースト学会の輪の中で「機能説派」と「意図説派」の間で議論など生じないだろうと指摘した。この議論自体が入念な計画の存在の証拠がない事を示していると。ヒルバーグは、1985年のツンデル裁判の中でユダヤ人を絶滅させる為の口頭命令は2つあったと証言した。彼は、『直後に出版される予定の「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」の次版たる第2版の中でこの見方を変える』事を否定した。1988年、ヒルバーグは第2のツンデル裁判での証言を断り、検察当局に送った親書の中で、再び証言する行為は「酷く疑わしい」と唱えた。「弁護側は、」彼は書いている「……矛盾があるように見えるものへの指摘によって事あるごとに私を嵌めようとしていましたが、これまでの私の証言と今年1988年に私がするであろう答えの間の差異は些細なものになるでしょう。」ブラウニングは証言の中で、ヒルバーグは初版から1985年に出版された2版の間で、決定までの工程の中に於けるヒトラーの役割に関して「意義深い」変更をしていた、と認めた。「The Revised Hilberg」と題される論文の中でブラウニングは、ヒルバーグは著書の第2版で、著作内にある、ヒトラーの決定に関する、あるいは「最終的解決」に関するあらゆる言及を「体系的に削除していました」、と書いた。「新版の中で、」とブラウニングは書いた、「決定はされておらず、命令は下されておりません」。
14.1943年にポズナンでヒムラーから親衛隊大将たちに送った話の中に虐殺の「分かりにくい暗示」を見つける試みも同様に全く絶望的だ。(11ページ)
ブラウニングは、ポズナン演説にはユダヤ人絶滅に対する明確な言及が含まれていると証言した。しかし歴史家デイヴィッド・アーヴィングは、「絶滅」に関するポズナン演説の原本の記述のそうした箇所は改竄されていると証言した。別のカーボン紙が使われ、別のタイプライターで打たれ、番号が鉛筆で振られていると。アーヴィングはまた、イスラエル人たちはヒムラーの私的な日記を持っているが、歴史家へのその開示を拒んでいるとも指摘した。ヒムラーの日記が「ホロコースト」を支えるとしたら、とアーヴィングは言う、イスラエル人は真っ先にそれを開陳するだろう。
15.取り分け信じられないのは恐らく、ニュルンベルクでは弁護人に検察側の証人への反対尋問が認められていなかったという事実であろう。(12ページ)
ヒルバーグは、ニュルンベルクで弁護人には目撃証言への反対尋問が許されていたと証言した。ウェーバーは、多数の自白調書が証拠に入れられており、その上での反対尋問は不可能だと証言した。
16.その作戦の間にアクション・グループは100万人のユダヤ人を出鱈目に絶滅させたのだ、というソ連の非難は、既に紹介した直後に巨大な歪曲だと示した。実のところ、その数には僅かな統計学的な根拠もない。(14ページ)
ブラウニングは、アインザッツグルッペン報告と他の歴史家の著作を根拠にしていると、そして最低100万人のユダヤ人がアインザッツグルッペンによって殺されたと証言した。しかし歴史家ウェーバーは、『アインザッツグルッペンについての大著「Die Truppe des Weltanschauungskrieges」の中で、その2人の著者はアインザッツグルッペン報告の中の人数全てを足せば合計で220万人のユダヤ人が死んでいることになると計算しています』と証言した。その著者らは、これは不可能であり、アインザッツグルッペン報告の人数は誇張されていると渋々認めていた、と。ウェーバーの意見では、ユダヤ人の大多数が1941年のドイツ侵略の前に東方圏から逃げたか避難した事が知られているため、約100万という人数は信じられるものではない。
17.そうして1942年の7月から10月の間に、ワルシャワ・ゲットーの住人の3/4以上がユダヤ警察そのものによって監督されながら平和的に避難し移送された。……しかし合計で56,065人の住人が捕らえられ、平和裡に総督府の地域内に再定住させられた。(19ページ)
ワルシャワ・ゲットー一掃の報告は、これは暴力的に行われた事を示しており、ハーウッドが主張するように「平和裡」なわけではなかった、とブラウニングは述べた。ブラウニングの意見によれば、彼らは再定住させられず、トレブリンカとマイダネクへと連れて行かれ、ガス殺されたか射殺された。歴史家マーク・ウェーバーは、そうしたユダヤ人に何が起こったかの記録は未だ不明瞭だと証言した。ウェーバーの意見によれば、トレブリンカとマイダネクは単純に収容所かつ、でなくば又は、中継収容所だった。
18.勿論、この凄絶な「特別部隊」の隊員であったと主張するユダヤ人は見つかっていないため、この問題全体が都合良く証明不可能になっている。これらの出来事が起こったという生きていて確実な目撃者はいないというのは繰り返す価値があるだろう。(20ページ)
ブラウニングとこの小冊子の間の重要な違いの1つは、ユダヤ人殺害の為のガス殺室の存在を否定しているかどうかだ。彼は、フィリップ・ミューラーといったユダヤ人はゾンダーコマンドの一員だったと主張するようになっている、と証言した、ミューラーの報告は「心揺さぶられる」ものだった、と。しかしブラウニングは反対尋問を受け、ガス殺室やガス殺貨物車の存在を支える技術的な計画を1つたりとも見た事がないと認めた。彼は、火葬の工程について、そして人体の焼却にどれだけの熱と時間がかかるか問い合わせた事はないと。ブラウニングは、連合国によって撮られた空中写真を、ヤド・ヴァシェムの壁に掛かっている1枚を除いて観た事がなかった。ブラウニングもヒルバーグも収容所の収容者がチクロンBで殺された事を示す検死報告を知らなかった。ヒルバーグとブラウニングは、記念碑を見る為に、ホロコースト委員会の委員としてしか強制収容所を訪れていなかった。証人ロイヒターとロスはアウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」とされるものの壁と床から採取した試料を示す証拠を提出し、それはシアン化物の痕跡が全く無いか僅少である事を示しており、一方でビルケナウの燻蒸殺虫室として知られる、チクロンBが使われていた部屋の壁は検出できるシアン化物がガス殺室とされる部屋の1000倍以上だった。ガス殺室の技術的専門家であるロイヒターの意見では、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、そしてマイダネクのガス殺室とされるものは排気機構の、投下口の、そして気密性の欠如といった要素を含む構造のため、人間殺害用のガス室として使用不可能である。火葬の専門家イヴァン・ガラセは、現代の火葬炉でも1つの炉で最低1時間半かかると証言した。彼は、ビルケナウでは1日に46基の炉で4,400体の死体が火葬されたという絶滅証言を「馬鹿げている」と称した。「目撃」証言の正確性に関して、記録にある「生存者」の報告の半分以上はヤド・ヴァシェムも「想像が迸ってい」て信頼に値しないと認めている、とウェーバーは証言した。歴史家フォリソンは、1986年に「幻想的かつ不正確な」内容を強情に繰り返している「記録は核心に入れるには腐敗している」と認めたユダヤの著作家ミシェル・ド・ブアールを引用した。
19.勿論、この凄絶な「特別部隊」の隊員であったと主張するユダヤ人は見つかっていないため、この問題全体が都合良く証明不可能になっている。これらの出来事が起こったという生きていて確実な目撃者はいないというのは繰り返す価値があるだろう。(20ページ)
ブラウニングは、アイヒマンは戦争を生き延び証言した、ユダヤ人絶滅計画に於ける最高の中心人物だと信じており、そう証言した。アイヒマンは、『ハイドリヒは自分に「ヒトラーが欧州ユダヤ人の絶滅を命令しました」と告げた』と証言した、と。しかしブラウニングは、アイヒマンは心の中での出来事の整理に「少しばかり問題がありました」と認めた。歴史家アーヴィングの意見では、裁判中のアイヒマンは身体的精神的な強制を受けていた。そのような証言は歴史的知識を向上させるものでなく、汚染させるものだと。
20.……最初の出版からたった7年後に、ニュー・ヨーク州高位裁判所の係争案件がこの本はでっち上げだと確証した……その雑誌は、ユダヤ人小説家マイヤー・レヴィンがこの「日記」の対話部分を書いており、レヴィンはオットー・フランクに裁判で自分の作品への支払いを要求している事を立証した。(21ページ)
これは事実ではない。実際にはレヴィンはこの日記そのものに基づいた戯曲を書いた事への支払いの為に訴訟を起こしていた。しかしフォリソンとアーヴィングは、この日記の信憑性が疑わしいという事を示す別の証拠が存在すると証言した。筆跡学者たちと西ドイツの犯罪研究室によるこの日記の原書の専門的な精査は、1人の人間がこの日記を書いており、その一部はボールペンの墨で書かれており、それは1950年代になってからやっと使われるようになったと。フォリソンは、この日記はアンネ・フランクの父オットー・フランクによって書かれたと信じていた。
21.結果として、アウシュヴィッツやトレブリンカといったロシア占領圏にある東方の収容所が(どれも内部の視察が許可されていないというのに)次第に恐ろしい絶滅施設として前面に出てき、この傾向は現在まで続いている。(23ページ)
ブラウニングは、ソ連圏にある収容所の視察は誰にも許されなかったというのは嘘だと証言した。彼は、1944年にソ連によって記者たちに与えられたマイダネク旅行の参加者W・ローレンスによるニュー・ヨーク・タイムズの記事を引用した。ブラウニングは、この記事には死んだとされる人数とチクロンBの機能の仕方に関し重大な誤りがあると認めた。歴史家ウェーバーは、西側連合国の調査員は戦後にソ連占領圏にある収容所の調査は許されなかったと証言した。新聞報道陣によるマイダネク訪問はソ連による案内付きの、宣伝戦目的の旅行だった。専門家による調査ではない、と。
22.最後に、ラッシニエ教授はテル=アヴィヴにある当代ユダヤ証拠資料世界センターの局長であるクボヴィ博士が1960年12月15日出版の「La Terre Retrouvée」の中で行っていた重要な告白に注目していた。クボヴィ博士は、ヒトラー、ヒムラー、ハイドリヒ、そしてゲーリングによる絶滅の文書を1つも把握していなかった(「Le Drame des Juifs européen」、31と39ページ)。(29ページ)
ブラウニングはクボヴィも当代ユダヤ証拠資料世界センターも聞いた事がなかった。しかしフォリソンもアーヴィングもクボヴィを知っており、アーヴィングは自著「Hitler's War」の中で「La Terre Retrouvee」からのクボヴィの引用文に言及していた。
23.しかし、{ラッシニエ}はそのような人数を最上限だと見做しており、ユダヤ人統計学者ラウル・ヒルバーグによる、この問題への研究の中にあったより低い見積もり死者896,892人に言及している。(29ページ)
ヒルバーグは、自分は統計学者ではなく896,892という見積もりをした事もないと証言した。彼独自の計算では実のところ500万を超えている。ウェーバーは、ハーウッドはこの情報をポール・ラッシニエの著作から得ていると証言した。大元の間違いはだからラッシニエにあり、ハーウッドにはない、と。
24.……ラッシニエ教授は……第二次世界大戦中のユダヤ死者数は1,200,000を超えようがないと結論付けており、これは最終的にパリの当代ユダヤ証拠資料世界センターによっても有効だと認められた、と彼は記している。(29ページ)
ヒルバーグは、この施設もハーウッドの引用したその人数も聞いたことがないと証言した。
25.リチャード・ハーウッドは作家にして第二次世界大戦の一面である政治と交渉についての専門家である。現在彼はロンドン大学で働いている。(30ページ)
歴史家ウェーバーは、この小冊子の著者は「リチャード・ハーウッド」という筆名を使うリチャード・ヴァロールという名前の男だと証言した。ヴァロールはロンドンの大学を極めて優秀な成績で卒業した者だ。彼は作家にして第二次世界大戦の一面である政治と交渉に特別な関心を持っていると。ヴァロールは1974年に出版したこの小冊子の上梓にあたり1950年代と1960年代に出版された二次出典に依拠したと。この作家によってされた誤りの多くは元々は歴史見直し論者の先駆者ポール・ラッシニエによってなされたものであり、彼の著作にヴァロールが重く頼ったのだと。