「証拠はあるのですか?」
「物的証拠は何もない。
あるのは戦後の証言だけだ」
「そんなことはない。
絶滅計画の存在を示した多くの証拠がある。
例えば、ナチス宣伝大臣ゲッペルス の日記が絶滅計画の存在を裏付けている」
参考資料: 「ゲッペルス日記」1948年 pp.86,147-148 ロシナーの翻訳
(アドレス:http://www.ss.iij4u.or.jp/~mitaka/nizkor/66qa39.txt)
「1942年2月14日:総統は、ヨーロッパのユダヤ人を情け容赦なく一掃する彼の決定を、今一度表明した。それに関して、神経質なセンチメンタリズムなどあってはならない。ユダヤ人は破滅に値するのであり、今こそその運命が彼らを襲ったのだ。彼らの絶滅は我々の敵の絶滅と同一歩調をとってなされるだろう。我々は、冷たい無慈悲さでもって、この過程を促進せねばならない。
1942年3月27日:手続きはきわめて野蛮なものであり、ここにより正確に描写すべきではない。ユダヤ人のうち残るのは、けして多くはないだろう。概して、彼らの約60%が消され、しかるに40%のみが強制労働に使用可能だ。」
「検察が用いた資料には3つの間違いがある!」
「弁護人、それは何ですか?」
「ナチスの宣伝大臣はゲッペルスではない。
ゲッベルスだ。
G o e b b e l s
」
「……」
「はっきり言ってお前ら間違いすぎなんだよ!
GoogleでもInfoseekでもビシバシヒットするじゃねぇか!
おかげで宣伝省がぶちきれてるぞ!」
「また変なフラッシュがあるものねぇ」
「それが一つの間違い。
そして次は、この日記には正確な描写はなされるべきではないと書かれている。
従って、何が起きたのかがはっきりしない日記で殺人事件は立証できないということだ!」
「ユダヤ人を消したってのは『殺す』って意味じゃないのか?」
「そうとも読めるが、断定はできない。
そもそも『彼(=総統)の決定』というのは、ユダヤ人を欧州からロシアへ強制移動させることだ。
消えるってのは文字通り、『その場からいなくなる』って意味と受け取るべきだな」
参考資料: 1942年2月10日のドイツ外務省文書
(Der Krieg gegen die Sowjetunion hat inzwischen die Möglichkeit gegeben, andere Territorieren für die Endlösung zur Verfügung zu stellen. Demgemäß hat der Führer entschieden dass die Jueden nicht nach Madagaskar, sondern nach dem Osten abgeschoben werden sollen. Madagaskar braucht mithin nicht mehr für die Endlösung vorgesehen zu werden.)
(Nurenberg Document NG-3933)
「ソ連に対する戦争は、一方において、最終的解決の為に、別の土地が得られる可能性を生み出している。その結果、総統は、ユダヤ人達は、マダガスカルにではなく、東方に移住させられるべきであると決定された。マダガスカルは、最早、最終的解決との関係の中で考慮されるべきものではない。」
参考資料: 1942年8月21日 ドイツ外務省の極秘書類より
「この戦争により、ドイツはヨーロッパにおけるユダヤ人問題を解決する機会、及びその義務を持つことになった。ユダヤ人をヨーロッパから移住させる政策は,ヒムラーSS(Schutzstaffel=親衛隊)長官の協力の下、進められている」
「マダガスカルってどこ?」
「アフリカ大陸の東にある世界で4つ目に大きな島よ。
ここはフランスの植民地だったわ。
1940年6月にフランスはドイツに降伏してるのよね。
でも海はイギリス海軍が支配してたからこの計画は頓挫しちゃったのよね」
↑ 赤い部分がマダカスカル島
1941年まで、ドイツ政府は、ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカルに移送し、この島にユダヤ人国家を創設するというマダガスカル計画を実施しようとしていたが、イギリスが海を支配していたので、この計画を実行できなかった。そのため独ソ戦に勝利した後はロシアに移送する計画になった。当時のドイツは若い男は兵隊として徴兵されてしまうため深刻な労働力不足に悩まされ、ユダヤ人や戦争捕虜が収容所で働かされた。
「そして3つ目の間違い……
この日記が偽造であるということだ!」
「なんだと?」
「弁護人、この『ゲッベルス日記』が偽造されたものだという証拠はあるのですか?」
「もちろんです。
偽造されたという根拠は、アメリカ政府が『ゲッベルス日記が本物である』と保証していないからですよ」
参考資料: 『Did Six Million Really Die?』 著Richard E. Harwood
「Browning said that Goebbels did not write a memorandum", he wrote a "diary entry." Goebbels did not lay emphasis on the need for compulsory labor but said exactly the opposite; for example, on March 27, 1942, he wrote that 60% of the Jews will have to be liquidated and 40% used for forced labor. Browning admitted he had never checked the authenticity of the original Goebbels diaries but had accepted the commercial printed version. Historian Weber testified there was great doubt about the authenticity of the entire Goebbels diaries because they were typewritten. There was therefore no way to verify their authenticity. The U.S. Government itself indicated that it would take no responsibility for the accuracy of the diaries: the original clothbound edition contained a U.S. Government statement that it "neither warrants nor disclaims the authenticity of the manuscript". Browning relied on other documents such as the Seraphim report to show that the Germans did not put priority on using Jews for labor. Historian Weber disagreed with this opinion. In his view, the Jews were a valuable source of labor for the Germans; Himmler himself ordered that concentration camp inmates be used as extensively as possible in war production.」
和訳:『600万人は本当に死んだか?』
ブラウニングは、『ゲッベルスは「備忘録」を書いておらず、「日記」を書いた』と言った。ゲッベルスは強制労働の必要性を力説しておらず、しかし正反対の事を言った、と。例えば、1942年3月27日に、彼はユダヤ人の60%は浄化されなければならず、40%は強制労働に使われるだろうと書いていると。ブラウニングは、自分はそのゲッベルス日記の原本の信憑性を確認した事はないと認めたが、商業出版された版を受け入れていた。歴史家ウェーバーは、タイプ打ちで書かれているためゲッベルス日記全体の信憑性は極めて疑わしいと証言した。タイプ打ちだから、その信憑性を検査する方法がないと。合衆国政府自体がこの日記の正確さの責任を持てないと指摘している:原本の布装丁版には、「この写本の信憑性の保証も否定もしない」という合衆国政府の主張が含まれていると。ブラウニングは、Seraphim reportといった他の文書に依拠してドイツ人は労働力としてのユダヤ人の利用に優先順位を置いていないことを示した。歴史家ウェーバーはこの意見に同意しなかった。彼の見方によると、ユダヤ人はドイツ人にとって価値ある労働資源であった。ヒムラー自身が強制収容所の収容者を可能な限り広範な軍事生産に使うよう命令を下していると。
「ゲッベルス日記を絶滅政策の根拠にしているのは、アメリカ・パシフィック・ルター大学歴史学教授ドイツ現代史・ホロコースト研究家クリストファー・ブラウニング(Christopher R. Browning)だ。
だが、このブラウニングはオリジナル版のゲッベルス日記を読んだことがなく、ブラウニングが読んだ複製版の内容がオリジナルと一致するかどうかをアメリカ政府が保証していない。
もしオリジナル版と内容が同じなら、アメリカ政府が内容を保証してないのは理屈に合わない。
よって、上記のゲッベルス日記は偽造されたものと考える」
「ぬ、ぐぐぐぐ!!!!!」
「さらにこの日記が偽造である証拠はまだある。
1990年、ソ連はカチンの森の虐殺事件がソ連の仕業であることを認めた。
1992年、ソ連崩壊後のロシア政府はカチンの森の虐殺がスターリンの命令で発生し、それを裏付けるスターリンの署名入りの命令書を公表した。
命令書の写真は英語版Wikiで公開されている。
これによってあまりに規模の大きな大量虐殺事件には命令書が不可欠だと立証されたわけだが、ゲッべルス日記にはカチンの森の虐殺はナチスの仕業と書かれている。
ここまでくればどう考えても日記は偽造されたものだ。
そもそも日記なんて曖昧なものが証拠になるわけないがな」
参考資料:ゲッペルス日記 1943年9月29日
一九九二年十一月号『中央公論』より
(アドレス:www2u.biglobe.ne.jp/~NKK/new_page_19.htm)
ところが歴史はまわり、時代がかわり、ソ連が崩壊し、ソビエト時代のあらゆる秘密文書が外に流れ出した一九九二年七月のはじめに、モスクワのロシア連邦国立公文書館で、ナチス・ドイツの宣伝相であったあのゲッペルスの自筆日記が発見された。ヨゼフ・ゲッペルスこそ「カチンの森」事件を最初に世界へ向かってスターリンの犯罪だと呼びかけた張本人だった。その本人の日記に驚くべきことが記されていた。そのいきさつについては一九九二年十一月号の『中央公論』に作家の逢坂剛氏が書いているが、ゲッペルス日記の一九四三年九月二十九日付にはつぎのように書いてあった。
「遺憾ながらわれわれは、カチンの森の一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが一万二千人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件は行くゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない」と。ゲッペルスは一九四三年四月段階では対外的にソビエト政府とスターリンの犯罪だと声明しつつ、同年の九月の日記には「われわれが殺した事実」を認めつつ、このことがナチスとヒトラーへはねかえってくることを心配しているのである。
参考資料:SANSPO_COM 2004/7/14
第2次世界大戦中の1943年4月、ソ連西部(現ロシア)スモレンスク郊外のカチンの森で、ソ連に抑留されていたポーランド人将校ら約4000人の虐殺体が見つかった同事件は、長くナチス・ドイツの犯行とされてきたが、90年、当時のソ連のゴルバチョフ政権がソ連秘密警察の犯行だったことを認めた。
※ 1989年、ソビエト連邦の学者たちはヨセフ・スターリンが虐殺を命令したことを明らかにした。そして1990年、ミハイル・ゴルバチョフはカチンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部(NKVD)がポーランド人を処刑したことを認めた。1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリンの署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の処刑が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたニキータ・フルシチョフあての文書も含まれている。
参考資料:カチンの森事件に関する一考察−真相解明の過程における関係諸国の動向を中心にして−
(アドレス:http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/kansai/okano04.htm)
ドイツ法医学委員会、12か国から成る国際委員会、ポーランド赤十字の3つの調査団が独自に事件の調査を行った。3つの調査委員会は次のような点で、一致した結論を得た。
「
- 死体を縛っていたヒモはソ連製である。
- 死体の中には突き刺した跡があるものがあるが、これはソ連の銃剣によるものである。
- 死体の多くからソ連の新聞が大量に見つかった。
- C死体に撃ち込まれた弾丸はドイツ製である」(渡辺, 1991, p.12)。
上に挙げた4番目の点については、ドイツ側は即座にこの弾丸を1939年以前にポーランドやソ連に輸出していたことを立証した。一番重要な点は、この虐殺がいつ行われたかということである。1941年夏の終わり頃まで、カチンの森一帯はソ連の支配下にあった。事件の発覚が1943年4月であるから、虐殺が調査当時から20か月以上以前に行われていればソ連の犯行になり、それ以降であればドイツの犯行になる。3つの調査団は約3年前の1940年春頃に虐殺が行われたと結論づけた。つまり、ソ連の犯行であったということが判明したのである。その根拠は「亡くなった将校を埋めた場所の地層が特殊で、死体は実質ミイラ化していた。数ヶ月で特定困難な骨になるところが、書類や身分を証明する物とともに保存状態良好な死体となって残っていたのだ。日記、新聞、未投函の書簡により殺害の日時が特定された。こうした文書から、カチンの森の墓から発見された4143人は1940年5月に殺されたのだ」(ミコワイチク, 2001, p.60)。この事件はKGB(ソ連秘密警察)の前身であるNKVD(ソ連内務人民委員部)のべリヤ(Lavrentij Pavlovich Berija 1899-1953)がスターリンの命令で、幹部メルクーロフ(Vsevolod Nikolayevich Merkulov ?-1953)及びその部下たちに行わせた犯行であった。
参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割――C. マットーニョ――
(アドレス:http://revisionist.jp/treblinka/07.htm)
ドイツ側がカチンとヴィンニツァの大量埋葬地を発見すると、ソ連の宣伝は、おもに2つの策略を使って、反撃に転じた。その1つは、ソ連の秘密機関である内務人民委員部(KGBの前身)による虐殺をドイツ側のせいにすること、もう1つは、ドイツ人による犠牲者の大量埋葬地を発見したと喧伝することであった。周知のように、1943年4月13日、ドイツは、スモレンスクからさして離れていないカチンの森で、地元住民からの情報にもとづいて、合計4143名のポーランド軍将校の銃殺死体の大量埋葬地を7つ発見した。4〜6月、12のヨーロッパ諸国からの医者も含む委員会が埋葬地を調査し、さらに、ポーランド赤十字、およびアメリカ軍・イギリス軍・カナダ軍の捕虜将校からなる委員会も埋葬地を調査した。それを受けて、ドイツは、膨大な文書資料にもとづく公式の報告書を公表した。そこには、法医学的な調査結果、80枚の写真、身元確認された犠牲者の名前が含まれていた[613]。ヴィンニツァ(ウクライナ)の虐殺は、1943年6月初頭にドイツによって発見された。3つの異なった地点に97の大量埋葬地があり、ソ連が殺した9432名のウクライナ人の死骸が発見された。少なくとも14の委員会――うち6つは外国の委員会――が6月24日〜8月25日に、この埋葬地を調査した。この場合も、ドイツ側は、282頁におよぶ調査結果を公表しているが、その中には、151枚の写真、法医学専門家の意見および犠牲者の名前が含まれている[614]。
(中略)
ソ連側が厚顔無恥にもドイツ側を糾弾したニュルンベルク裁判では、カチン事件は数回の審理公判に登場しているが[616]、ヴィンニツァの大量虐殺は一度だけ登場しているにすぎず、それも、3年前にドイツが招請したカチン調査委員会のメンバーであったブルガリアの法廷医師マルコ・A・マルコフがそれとなく言及したにすぎない[617]。
※第二次大戦中に行われたとされる大量殺人事件において、大戦中にドイツによるカチンの森事件検証ほど丁寧に行われたものはない。ドイツは「自国だけの調査では信用度がゼロ」だということをふまえ、ヨーロッパ12ヶ国と赤十字、連合軍の捕虜に検証を依頼して外国メディアにも公開した。公開現場検証の結果、遺体の身元や日記や新聞などの所持品などの物的証拠も発見された。さらに戦後にはスターリンのサイン入りの命令書まで発見された。だからホロコーストを肯定するとすれば、カチンの森事件と同じくらい丁寧に行われた当時の現場検証と物的証拠が必要となる。
「なんでそんなものを公表したのかしら?」
「話題ずらしだよ。
当時はソ連崩壊で共産圏が大混乱だったからな。
自分が責められそうになったら前の指導者を叩いて誤魔化す。
フルシチョフ時代の頃からの伝統だぜ」
「なお、ソ連が崩壊してもロシア政府はカチンの森はスターリン時代のソ連の仕業だと認めているが、謝罪も賠償もしていない。
『昔そういうことがあった。だから何?』というスタンスだ」
「それはそうでしょう。半世紀以上も前のことをいまさら謝る必要はありません。
当時の責任者はみんな死んでしまったわけですし」
「その理屈を認めると日本に『アジアに謝罪しろ』とは言えなくなるわよ」
「ハッハッハ。それはそれ。これはこれですよ。日本人はバカだからすぐにお金くれます。
だからこれからもず〜〜〜〜っとたからせてもらうつもりなのですよ。ウェーハッハッハ!」
「ユダヤ人が考えていることもきっと同じなのだろうな……」
「検察は言うことはありませんか?」
「ふっふっふっ……
たしかに弁護人の言っていることは正しい。
だが、ブラウニングの説はすでに古い。
ブラウニングはとっくの昔に論破されている」
「いいの? そんな大胆な発言しちゃって?」
「訂正するなら今のうちよ」
「構わないさ。
ブラウニングは、1941年10月にはすでに絶滅計画が発動していたという奇説を唱えている学者だ。
だが、それは有り得ない。絶滅計画は1942年1月20日のヴァンゼー会議で決定されたからだ。Wikiにもそう書いてある。
つまり、対ソ連戦が長引いてしまったため、移住計画が途中で絶滅計画に変わったということだ」
「なるほど。ならば弁護人の提出した一次資料は…」
「その通り。
外務省の資料は、1942年2月以降に絶滅計画が実行されたから、存在して当然というわけだ。
そしてヒトラーが絶滅計画を意図していたという証拠は、彼自身の演説にある」
参考資料 :1939年1月30日のヒトラー演説 帝国議会にて(「スケプティックマガジン」第2巻第4号 p.50より)
「本日、私は再び予言者として以下のことを述べたい。もし国際ユダヤ主義がヨーロッパ内外において、再び諸国を世界大戦に巻きこむことに成功するならば、その結果は世界のボルシェビキ化とそれによるユダヤ民族の勝利ではなく、ヨーロッパにおけるユダヤ人種の根絶である。 」
参考資料 :1942年9月のヒトラー演説 (「スケプティックマガジン」第2巻第4号 p.50より)
「……もしもユダヤ民族がヨーロッパのアーリア諸民族を絶滅せんがために再度世界大戦をくわだてたなら、絶滅させられるのはアーリア民族ではなく、ユダヤ民族であるだろう。」
参考資料 :1942年11月8日のヒトラー演説 (「スケプティックマガジン」第2巻第4号 p.50より)
「諸君は、私が帝国議会で以下のように宣言したことを想起するだろう:もし、ユダヤ民族が、ヨーロッパ諸民族を絶滅させるために世界大戦を引き起こすことが可能だと想像したとしたら、その結果は、ヨーロッパ諸民族の絶滅ではなく、ヨーロッパのユダヤ民族の絶滅であろう。聴衆はいつも、私が予言者を気取っていると笑ったものだった。当時私を笑った聴衆の中の、数え切れないほどの人々は、今日もはや笑ってはいない。そして、今なお笑っている連中は、おそらくは、今よりただちに笑うことをやめることだろう。」
「ここで検察側の主張を確認したい」
「なんだ? 言っておくがこれは公式な演説の文章だぞ。でっち上げじゃない」
「わかっている。ヒトラー総統がこの演説をしたのは認めるよ。
この演説が証拠ってことは、ヒトラー総統が一般のドイツ国民の前で絶滅計画の存在を宣言したということだよな?」
「そうだ。ヒトラーは自らの手で絶滅計画を明るみに……あ!」
(ふっ……)
「は、判事! 今の証拠を取り下げてもらいたい!」
「取り下げる? なぜですか?」
「そ、それは…混乱してたからだ。
その、何でもない。
いいから取り下げてもらいたい!」
「残念ですがそれはできません。
あなたの好きなニッコーもこの演説を証拠に挙げているではないですか。
異議は却下します」
「なっ! くっ…!」
「え? え? どういうこと?」
「検察の主張はおかしいんだよ。
当時の連合国の主張は、『絶滅計画は極秘で進められていた。ドイツ国民がその存在を知ったのは戦後』ってことだ。
だが、この演説を証拠として取り上げてしまえば、「絶滅計画は極秘で進められた」という話と《ムジュン》してしまう。
何せ議会の公式演説だからな」
「でも本屋さんで売ってるホロコースト関係の本は『ヒトラーが命令した』って書いてあるのが多いわよ。
ドイツは国を上げてユダヤ人絶滅を実行してたって。
作者は中学校のときに社会科の先生にそう習ったし、ほとんどの日本人はそう習うんじゃない?」
「それが何よりおかしいんだ。
敗戦直後のドイツ国民は、連合国から一方的に悪魔呼ばわりされてきた。
その理由がユダヤ人絶滅計画だったわけだが、ユダヤ人絶滅計画は国民の知らないところで進められて来たってことで説明してきた。
もし一般のドイツ国民相手に『ドイツは国民全員が絶滅計画の存在を知って協力していた』なんて言えば、当然嘘だってばれちまうだろ?
国民は絶滅計画なんて知らなかったんだからよ」
「あ、そっか。
公開演説を根拠にしちゃうと、国民は絶滅計画を知ってたってことになっちゃうわよね」
「そういうこと。
演説を根拠にすると検察の主張に《ムジュン》が生じてしまうんだよ」
参考資料: ベルリンの壁崩れて沈黙を破ったレニ・リーフェンシュタール「民族の祭典」監督が語る“政治とオリンピック”岩上安身 「Number 246」 1990.July 5より
「でも、私はナチ党員じゃなかったし、ユダヤ人迫害に一度だって賛成したこともなかったわ。それに実際のところ、ヒトラーがどんなに恐ろしいことをしていたか、戦争が終わるまで全く知らなかったのよ」戦後、連合軍によって投獄され、ナチスとの関わり、戦争犯罪を追求された。約4年間にわたり獄中で辛酸をなめつくした末、ナチ党員ではなかったこと、ユダヤ人虐殺に荷担していなかったことが立証され、最終的に無罪の判決がいいわたされた。
「あの頃、ドイツ人は誰もヒトラーのことを疑ってませんでした。ナチスの政権が始まってわずか1年で600万人もいた失業者が激減したんです。短期間に生活はすごく良くなりました。戦争がこれから始まるなんて、誰も考えていませんでした。あの当時、ナチスに反対する人なんていなかったんです。誰ひとりとして!」
「そもそも、演説はソースにならない。
演説に熱中して過激な単語を使っただけかもしれないし、演説しただけでは人は死なない。
こんないい加減なものが証拠になるなら、南北朝鮮は何度も日本人絶滅計画を企ててたってことになるぞ」
「ぐ、ぐぬぬっ……!」
「アルク検事、他にユダヤ人絶滅計画を命令したという証拠はないのですか?」
「例えば……そう、命令書とかな……」
「ヒ、ヒトラーは、命令は口頭でするのが好きだったんだ。
だから命令書なんて無くても問題なかったんだ!
ヒトラーが直接口頭で命じた『命令』は、1945〜46年のニュルンベルク国際軍事法廷、その後の「ナチ戦争犯罪人」裁判でも引用されてきた!」
「ヒトラー総統は命令書を重要視していた。
だから口頭で命令したなんてことは考えられない。
例えばソ連侵攻のバルバロッサ作戦にはちゃんと命令書が残っている」
参考資料: 総統指令 第21号 「独ソ戦史バルバロッサ作戦上 著パウル・カレル松谷健二訳」より
「ドイツ国防軍は、対英戦終了以前にも、ソ連邦を電撃戦により打倒する準備を進めるべし(バルバロッサ作戦)。最高指導部は、次の原則に基づいて準備するものとする。
I 全般構想 ロシア西部のソ連軍を、装甲兵力の大胆なる使用により殲滅し、戦闘力を有する敵軍が奥地へ後退するのを阻止すべし。しかる後、急追によりソ連空軍がわが領土の攻撃を不可能ならしむる線に到達する。作戦の最終目的は、ヴォルガ=アルハンゲリスクの線でロシアのアジア部を分離することにある。それにより、必要とあらばウラル周辺のソ連最後の工業地帯を空軍によって無力化できる。
II 予定される同盟国とその任務……省略……
III 作戦指導……(以下略)」
「そして、バルバロッサ作戦で使われた現場レベルの命令書もちゃんと残っている」
参考資料: 総統指令 第543254615号
「貴小隊は50メートル前進した後目前の瓦礫を排除し、敵部隊に対し小銃その他で5分間の射撃を実施せよ」
「ここまで細かい命令書を書くヤツが、ヨーロッパの何百万人というユダヤ人を絶滅させようとしている絶滅計画に限って命令書が一枚も無いなんてのは不自然極まりない話だ」
「……これってホントに実在するんですか?」
「2ちゃんの過去ログで拾ったネタだから出所があやしいかなぁ……とか思ったりしてる」
「2ちゃんかよ!」
「やはり弁護側の資料などいい加減なものばかりだ」
「でもバルバロッサ作戦の資料は出所もはっきりしてるわよ」
「ぐっ!」
「うむ。そっちは大丈夫だ。わざわざBook Offで買ったんだからな。300円も出して」
「300円“も”なのね……なんという貧乏性な……」
「バルバロッサ作戦にはしっかりと命令書が残っている。だが絶滅計画には命令書が残っていない。
もちろん絶滅計画には予算も計上されてない。
おまけに連合軍はドイツ政府・ドイツ軍の交信記録をすべてチェックしたが、秘密の無線通信やオフレコの会話でさえ、絶滅計画に関したものは何も残っていない。
こんな状況で絶滅計画の実行を信じられると言う人は、実社会で働いた事が無い人だけだ。
大学の先生が『ホロコースト』を信じる理由はそこにあるんだよ」
参考資料: 「粘土足の巨人 ラウル・ヒルバーグとホロコーストに関する彼の標準的著作」
著ユルゲン・グラーフ 歴史的修正主義研究会試訳
Jürgen Graf, The Giant with Feet of Clay, Raul Hilberg and his Standard Work on the “Holocaust”, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2001
あらゆる傾向の歴史家たちは、ヒトラーやその他のナチスの有力者によるユダヤ人の物理的絶滅文書命令は発見されていないことで意見の一致をみている。「ホロコースト」の正統派のレオン・ポリアコフは、明白に次のように述べている。[9]
「第三帝国の文書、その指導者の供述や陳述を使えば、攻撃、軍事作戦、ナチスの世界改造手段に関する計画の起源と発展について、その詳細まで完全に明らかにすることができる。ユダヤ人絶滅作戦だけが、その考え方およびその他の本質的側面について、暗闇に包まれている。推測、心理的考察、第三次・第四次的報告を使えば、かなり正確に、その進展を再現することができる。しかし、細部については、永遠に知られないまま残るであろう。全面的な絶滅計画を実際に作成したおもな3、4人は死んでしまっているし、資料はまったく現存していないし、おそらくは、存在しなかったのであろう。」
この一説に手を加えることは何もない。1984年に、シュトゥットガルトで「第二次大戦におけるユダヤ人の殺戮」という歴史家の会議が開かれたが、その参加者は、一つの点、すなわち絶滅の文書命令は発見されていないという点で一致している。[10]
こうした事情は、長いあいだ、歴史家の頭痛の種であった。数百万のユダヤ人を「絶滅収容所」に移送し、彼らを殺戮するという巨大な作戦には、数十万の人員が関与する組織の存在を前提とするし、とりわけ、第三帝国のような官僚的に組織された国家では、文書命令なしには、ありえないことだからである。ナチスは、敗戦が近づいても、文書資料を破棄しなかった。むしろ、膨大な資料が戦勝国の手に入った。シャイラーは、有名な『第三帝国の興亡』のなかで、次のように述べている。[11]
「……外務省、軍部、ナチス党、ヒムラーの秘密警察を含むドイツ政府やその部局の大半の文書が捕獲された。このように膨大な宝物が同時代の歴史家の手に落ちたことはなかったであろう。……1945年に第三帝国が降伏して、すぐに崩壊してしまったために、膨大な秘密文書だけではなく、日記、極秘演説、会議記録、往復書簡、ゲーリングが空軍の中に設置した特別局によるナチス指導者の電話の盗聴記録のような重要文書、……ドイツ外務省の485トンの記録文書が、ベルリンからの焼却命令の直前に、ハルツ山脈の城や鉱山の中で、アメリカ第一軍によって捕獲された。…数十万の捕獲文書が、主要戦犯裁判の証拠として、ニュルンベルクに急いで集められた。」
ナチス文書の山を考えると、ユダヤ人絶滅政策の文書証拠が存在しないことは、「ホロコースト」正史の提唱者にとっては、苦痛に満ちた、当惑する事態であった。少なくとも、「絶滅収容所」では犯罪を示す文書が破棄されたという主張も、とくに1991年以降は、役に立たなくなった。この年、ソ連は、1945年に赤軍が捕獲したアウシュヴィッツ中央建設局の資料を西側研究者に公開したからである。中央建設局は、ユダヤ人を大量に殺戮したガス室を装備していたとされる焼却棟の建設に責任を負っていた。少なくとも、88000頁の資料がある。[12]
[9] Léon Poliakov, Harvest of Hate, Holocaust Library, New York 1979, p.108.
[10] Eberhard Jackel and Jürgen Rohwer(eds.), Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg, Deutsche Verlagsanstat, Stuttgart 1985, p. 185.
[11] William L. Shirer, Rise and Fall of the Third Reich, Simon and Schuster, New York, 1960, pp. ix, x.
[12] 1995年に、イタリアの歴史家マットーニョとモスクワを訪問し、88000頁を検証して、うち、4000頁をコピーした。
参考資料:「シャーロック・ホームズのガス室 ホロコーストのガス処刑説の文芸学的分析の試み」
著サミュエル・クロウェル 歴史的修正主義研究会試訳
Samuel Crowell, The Gas Chamber of Sherlock Holmes, An Attempt at a Literary Analysis of the Holocaust Gassing Claim
大量ガス処刑説の最大の問題点は、それはわずかな証拠の上に組み立てられている、あるいはまったく証拠がなくて組み立てられているということではない。むしろ、この説を立証するような証拠が、50年間もまったく提出されていないということである。過去数年間に多くの文書が研究用に公開されてきた。イギリス政府は、ウルトラ暗号の多くや、秘密に記録されたドイツ人囚人のあいだでの会話の記録を、研究用に公開してきた[335]。こうしたテープや暗号によると、大量射殺は1941年夏には知られていたこと、これに参加したSS将校の自白があること、アウシュヴィッツなどの秘密収容所の無線交信があることが明らかになっている。しかし、ガス処刑に関する記録はまったくないのである。このことは、歴史家にとっては深刻な問題であるはずである。ニュルンベルク裁判の資料だけをもとにしてガス絶滅説を維持することは、ガス処刑が、秘密の無線交信やオフレコの会話にさえも記録が残っていないほど、巧妙かつ狡猾に実行されたと主張することでもあるからである。ガス処刑説が広く広まっているために、それを否定することは、ガス処刑説を作り出した陰謀の咎でユダヤ人を告発することであるといわれてきた。
「ぐ……!」
「そもそも絶滅計画が、当時のドイツに利益なんてもたらすわけがない。
若者が徴兵されてしまってドイツは労働力不足で困っているのに、せっかく収容所に入れたユダヤ人を殺すなんて理屈に合わないぜ」
参考資料:「ヒトラーの戦争」上巻P,428 歴史作家デヴィット・アーヴィング著 赤羽竜夫訳
「たいていの場合、ヒトラーは実際家だった。窮屈な輸送スペースを使って、ユダヤ人を抹殺するだけの目的で何百万と東に移送するのは、ヒトラーらしからぬことだったろう。産業が労働力不足を叫んでいるのに、彼が喜んでその労働力を破壊するはずもなかった。連合国のラジオが、ユダヤ人はみな殺しされているとの発表を放送したときのヒトラーの腹立ちまぎれの言葉をハインリヒ・ハイムは想起している、「全くね、ユダヤ人は私がちょっとばかり厳しい仕事しかさせないのを感謝すべきだ」と。ユダヤ人はヨーロッパから「最終的に消え去る」必要があるとのヒトラーの命令を残忍な徹底さで解釈したのは、ハイドリヒと東の狂気じみた大管区指導者たちだった。ヒムラー個人の役割はどっちつかずである。一九四一年一一月三〇日、彼はヒトラーとの秘密会談に“狼の巣”に招かれ、そこで明らかにベルリンのユダヤ人の運命が話題になり、午後一時三〇分、ヒムラーはヒトラーの地下壕からハイドリヒに電話で、ユダヤ人を抹殺しないこととの明確な命令を伝えざるを得なくなった。翌日ヒムラーは強制収容所組織全体の責任者SS将官オスヴァルト・ポールに電話で命令した、「ユダヤ人はそのままにしておくこと」と。」
参考資料:フランケ・グリクシュ「再定住行動報告」:偽造の分析 著:ブライアン・レンク
(アドレス:http://revisionist.jp/renk_01.htm)
いわゆるドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策は、文書命令ではなく、ヒトラーからの直接命令によって発動されたと長いあいだ考えられてきた。この「命令」は、1945〜46年のニュルンベルク国際軍事法廷、その後の「ナチ戦争犯罪人」裁判でも引用されてきた。「総統命令」の文書資料的証拠はあいまいなままであったけれども、絶滅派の歴史家たちは1977年まで、それが実在していたことを当然のこととして受け取っていた。その年、イギリス人歴史家アーヴィングが『ヒトラーの戦争』を出版し、それはエスタブリッシュメントの歴史家たちのあいだで広い論争を呼びおこした。アーヴィングは、文書記録を渉猟すると同時に、現存しているヒトラーの側近たちにインタビューを重ねた結果、ドイツ国総統はユダヤ人の大量殺戮を命じていない、彼が絶滅政策について知ったのは1943年以降のことであると論じた[1]。ユダヤ系イギリス人の歴史家ジェラルド・フレミング――サリー大学(イギリス)名誉講師――は、この問題に対処し、とくに1977年のアーヴィングの挑発的なテーゼに回答しようとして、ヒトラーはヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅命令をたしかに出したことを決定的に証明する著作を出版しようとした。彼は、数年間の研究・執筆ののちに、『ヒトラーと最終解決』(ドイツ語版1982年、アメリカでは1984年に出版)の中で自分の立場を明らかにした。この著作は、アーヴィングとその他の修正主義者に対する決定的回答として広く歓迎された。
Wikiより
デイヴィッド・アーヴィング(David Irving, 1938年3月24日〜)は、イギリス出身の独学の歴史作家である。
ロンドン大学インペリアル・カレッジを中退、1963年に『ドレスデンの破壊』を発表し、ヨーロッパでは大ヒットとなった。1977年に『ヒトラーの戦争』を発表、その中でアドルフ・ヒトラーがホロコーストに対して消極的だったと主張、物議を醸した。
2005年11月11日、オーストリアで逮捕され、2006年2月20日に3年間の服役という判決がでた。その理由は、オーストリアではホロコーストを否定する発言が禁止されている為である。
「ホロコースト肯定派はこういった資料は無条件で無視するな。
まるで結論が先にあって、それにあわせるように資料を集めているようだぜ」
「そこまでだ、ネオナチ。
ここは君の演説の場ではない。
少し黙れ」
「俺はナチじゃなくて国防軍なんだけどな……」
「まず、アーヴィングはあくまで歴史作家であって、マーク・ウェーバーのような近代ヨーロッパ史の博士号を取得したような歴史学者と同列に扱う事には疑問を感じる。
次にアーヴィング著『ヒトラーの戦争』から引用したと思われるヒムラーの命令に関する以下の下り。
翌日ヒムラーは強制収容所組織全体の責任者SS将官オスヴァルト・ポールに電話で命令した、『ユダヤ人はそのままにしておくこと』と。
メモの内容は『ベルリンからのユダヤの移送列車は殺害処理を禁ずる。』であって『そのままにしておけ』というのはアーヴィングによるそのメモの解釈だ」
「で?」
「ふっ。わからんか?」
「わからん」
「ハッハッハ。建前はあなたの資料解釈が歪曲しているから訂正してあげたのです。感謝しる!」
「本音は?」
「ただのい・や・が・ら・せ♪」
「おい……」
「アーヴィングはネオナチだ。
ドイツは過去にアーヴィングの身柄を要求したことがある。
当然だ。
そんなヤツの妄言など信用できん」
「なんで『王様は裸だ』と言うとネオナチ認定されるんだよ」
「ユダのこと、悪く言うやつ、皆ナチス」
「……そういうのって言論弾圧って言うんじゃねぇか?」
「言わない」
「ユダヤ人死者600万人を、599万9999人と言うだけで逮捕されるのが言論弾圧じゃないと?」
「もちろんだ」
「……はっきり言いやがった」
「ハッハッハ。それくらいアジアでは常識です」
「あなたの言うアジアってどこのアジアかしら?」
「ホロコースト肯定派は特定アジアと同レベルか…
で? 次の証拠は何かな?」
「米英委員会が調査した結果だ」
参考資料:英米委員会による人口統計学に基づいたユダヤ人犠牲者数 ニツコーQ66&A1より (アドレス:http://www.ss.iij4u.or.jp/~mitaka/nizkor/66qa01.txt) ドイツ 195,000 オーストリア 53,000 チェコスロバキア 255,000 デンマーク 1,500 フランス 140,000 ベルギー 57,000 ルクセンブルク 3,000 ノルウェー 1,000 オランダ 120,000 イタリア 20,000 ユーゴスラビア 64,000 ギリシア 64,000 ブルガリア 5,000 ルーマニア 530,000 ハンガリー 200,000 ポーランド 3,271,000 ソ連 1,050,000 引くところの離散亡命者数 (308,000) 殺されたユダヤ人の総数 5,721,500(5,311,000) ※作者注:赤い国は共産主義国家。東側は各収容所を封鎖して西側メディアに情報を公開してこなかった。
そのため殺されたユダヤ人の数は東側に存在した国の死者が9割を占めている。西側の死者数が少なくても東側を水増しすれば全体の数は変わらないからである。
(……死亡したユダヤ人の9割以上が共産主義国家で、というのは何かのギャグか?)
「この見積もりは人口統計からの結果であり、それぞれの収容所の犠牲者数の累計によるものではない。
だが、各収容所の犠牲者数も入手可能だ。
これがユダヤ人犠牲者600万を裏付ける証拠だ。
この人口統計ははっきりとユダヤ人600万人が消えたことを立証している!
ドイツの有罪はこれで間違いない!」
(……どうすりゃいいんだ。たったこれだけじゃ突っ込みところがないぞ……)
「ふっふっふ…… さあどう出るかな弁護人……?」
「その人口統計とはどの一次資料を使用したのだ?」
「何?」
「……大尉?」
「交代だ。
ちょっと休んでろ。
ごほん、検察側の資料には大変疑問がある」
「どういうことだ弁護人?」
「前回の授業で説明したように、1938年のユダヤ人人口は1600万だった。
しかし1948年には1500万〜1800万にまで増加している。
もちろん、私の使った資料が正しいといい切れる保障はどこにもない。
何せ1938年と1948年では別の資料を使っているのだから、よく考えてみれば木村のソースはソースにならない」
「なんだ? 自分で出した資料を自分で撤回するのか? ようやく自分の間違いを認めたな」
「あー認めたさ。木村はソースにならない。
で? 米英委員会のソースが信用できるという根拠はなんだ?
米英委員会が用いた人口統計でのユダヤ人の定義はなんだ?
ナチスとソ連ではユダヤ人の定義が異なる。
ナチスは1/8の血統、ソ連は自己申告制。
その他の欧州各国も時代・国ごとにばらばら。
こんな状態でどうやって正確な数を調べたのだ?」
「というかユダヤ人の定義なんてイスラエルでさえよくわかってないんだから、ちゃんとした数を調べるのは無理なんじゃないの?」
「国籍・人種・宗教。
どれにも当てはまらない曖昧な定義の人間の数を調べれば調査組織によって全然違う数になるのは当然なのでは?」
「ふっ 結局、この人口統計が間違っているとはっきり言うことはできまい」
「人口統計など当てにならん。
仮にユダヤ人が600万人死んだのが本当でも、それがユダヤ人絶滅計画によって死んだのかどうかは別問題だ」
「だからと言って、ユダヤ人が死んだことには変わりがないぞ。
あなたの言っていることは木を見て森を見ない議論だ」
「こういう議論をするとホロコースト肯定派は必ずそうヤジるな。
だが、そんなことをしても絶滅計画を肯定する材料にはならん。
誰がいつ、どんな死因で死亡したのか?
当時の欧州は戦争中だったから、戦死の可能性は低くない。
戦死、事故死、病死、餓死、エトセトラ、エトセトラ……
これらの可能性を排除して『絶滅計画によって殺された』と断定する決定的な証拠は何だ?
そもそもその資料からわかることは、戦時中に600万人のユダヤ人が消えたというだけではないか。
死んだかどうかもわからんのに、『死んだことには変わりない』だと?
行方不明者なら日本でも毎年何万人と出てるが、それは絶滅計画か?」
「では、600万人が死んでない。
つまり、600万人のうちの何人かが生きている証拠はあるのか?」
「ある。
前回の授業で説明した、終戦直後には156万人だったユダヤ人の生き残りは、1994年には354万人にまで増えているということがその証拠だ。
増えた理由は「ユダヤ人であることを隠していた」ということだが、これはつまり、表向きは死んだことに見せかけた連中がいたということだな。
結論から言えば、人口統計だけではホロコーストは立証できないということだ」
「くっ!
だが犠牲者数は各収容所から出せば簡単にわかる!
言い逃れはできない」
「各収容所から出した数だと?
バレバレの嘘をつくな。
アウシュヴィッツを一つを例にとっても数がどんどん変わっているではないか」
参考資料:アウシュヴィッツでの死亡者は何名か?著:ロベール・フォーリソン
(アドレス:http://revisionist.jp/faurison_02.htm)
〈900万人〉
ドキュメンタリー映画『夜と霧』による。その歴史学上の助言者は歴史家Henri Michelと女性歴史家Olga Wormser-Migotである(注1)。
注1:32分のモノクロ映画『夜と霧』は、過去40年間にわたって飽きることなく、フランスの大学、フランスの高校・中学、フランスのテレビで上映されている。監督:Alain Resnais。歴史学上の助言者:Henri Michel(第二次大戦史委員会議長)、Olga Wormser-Migot。テキスト:Jean Cayrol。1956年、Jean Vigo Award。この映画の中では、「ガス室(単数)は普通の建物と何も変わらない」とナレーションがある。「ガス室」のコンクリートの天井には、「指の爪で削られた」痕跡が示され、「コンクリートでさえも削られる」と続く。死体を使って、「石鹸製造が試みられた」とあり、死体の「皮膚については」、ドイツ人がそれをなめしているイメージが提示される。削られたコンクリート、人間石鹸、ドイツ人がなめす皮は神話の定番である。ビルケナウの風景を写しながら、「900万人の死者がこの風景の上に出現する」とのナレーションが続く。この文章は、映画の終わりに登場する。
〈800万人〉
フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービスによる(注2)。
注2:Jacques Billiet、戦争犯罪情報サービス所長、戦争史・強制収容所用の資料、公式フランス語版、1945年、7頁(J. Billiet自身)および196頁(戦争犯罪調査局報告集;この報告集は、ドイツと占領地域のすべての収容所で死亡した戦争捕虜および政治囚の数を2600万と見積もっている、197頁)。この著作は、Eugene Aroneanuによって書かれた。
〈700万人〉
Raphaël Feigelson (1945)による(注3)。
注3:Ibidem, p. 196.
〈600万人〉
Miklos Nyiszli (1951)の序文の筆者Tibère Kremerによる(注4)。
注4:「600万人が、アウシュヴィッツの煙突とかまどを通っていった。彼らの近い先祖、遠い先祖の一人がイスラエルの宗教を信仰していたからである」とMiklos Nyiszli博士の『SS上級集団長メンゲレ博士/アウシュヴィッツの焼却棟に移送された医師の日記』の序文でTibère Kremerが書いている。Les Temps modernes, March 1951, p. 1655.
〈500万から550万人〉 〈450万〉
Bernard Czardybon (1945)による、何名かのSS隊員の自白による、『ル・モンド』紙による――「そのうち90%がユダヤ人であった」と付け加えている――(注5)。
注5:クラクフでのヘス裁判でのBernard Czardybon、F. Piper, op. cit., 1992, p. 7-8.より。「アウシュヴィッツでは、500万以上の男性、女性、子供が死亡したが、そのうち90%がユダヤ人であった」(無名のユダヤ人殉教者記念碑の前で行なわれたパリの記念デモンストレーションにて)(『ル・モンド』、1978年4月20日)。
〈450万人〉
Henryk Mandelbaum (1945)による(注6)。
注6:クラクフでのヘス裁判でのHenryk Mandelbaum、F. Piper, op. cit., 1992, p. 7.より。
〈400万人〉 〈270万〉〈300万)〉
ニュルンベルク裁判が「法廷に顕著な事実」としたソ連側資料による。この数字は、アウシュヴィッツ・ビルケナウの記念碑に、注釈とともに、非常に多くの言語で、19回刻まれている。この数字は、ポーランド人歴史家Franciszek Piperを含む、多くの人々によって繰り返されてきた。しかし、この数字は、1990年に虚偽であるとされ、同じF. Piperの同意を得て、記念碑の数字は1995年に150万人と置き換えられた。F. Piperは、この数字は最大限で、最小限は110万としている。Miriam Novitch (1967)によると、400万の死者のうち270万がユダヤ人であるという。ラビのMoshe Weiss(1991)によると、400万以上がアウシュヴィッツで死亡し、そのうち300万人がユダヤ人であった。(注7)
注7:1945年から1990年まで、この400万にという数字は、まるで法律で支えられているかのように、押し付けられてきた。その起源は1945年5月6日のソ連側資料である。ニュルンベルク裁判は、法廷憲章21条にしたがって、この資料を「法廷に顕著な事実」とした。この資料は、the official proceedings and documents of the Trial of the Major War Criminals before The International Military Tribunal, Nuremberg, 14 November 1945 - 1 October 1946: IMTXXXIX, pp. 241 and 261にある。ロシア語のオリジナルがドイツ語に翻訳され、フランス語版の裁判記録に掲載されているのは、このドイツ語の翻訳である。資料冒頭にあるフランス語の要約は、「ドイツが占領した諸国から連行された400万以上の人々が[アウシュヴィッツ絶滅]収容所で殺され、大半は到着するとすぐにガス処刑された」(p. 241)と述べている。実際には、資料自体は、ドイツ語で「少なくとも400万以上」(p. 261)と述べている。(公式英語版のIMT, XXXIX, p. 241には「ドイツが占領した諸国からの400万以上がアウシュヴィッツで殺され、多くの場合、到着するとすぐにガス処刑された」とある。)この400万という数字、あるいは約400万という数字を繰り返してきた人々は非常に多い。例えば、かつての囚人Shlomo Dragon、Henry Tauber、Erwin Olszowka、調査団長Jan Sehn、検事Pechalski、工学教授Roman Dawidowski、ポーランド最高法院判事、アメリカ軍事法廷の検事、あらゆる種類の著述家と歴史家、Kazimierz Smolen、Danuta Czech、Franciskek Piperといったアウシュヴィッツ国立博物館の責任者である(F. Piper, op. cit., 1992, p. 7-8, 12-14)。「アウシュヴィッツの400万の犠牲者のうち、270万がユダヤ人で、130万が非ユダヤ人であった」(Miriam Novitch, La Vérité sur Treblinka『トレブリンカの真実』, Israel, Beth Lohamet, 1967, p. 39)。「400万以上が[アウシュヴィッツで]殺された、そのうちほぼ300万がユダヤ人であった」(Rabbi Dr. Moshe Weiss, Former Vice President Mizrachi-Hapoel Hamizrachi, "Yom HaShoah-Holocaust Remembrance, The Jewish Press, April 5, 1991)。
〈350万人〉
Dictionnaire de la langue française『フランス語辞典』published by Hachette (1991)による。Claude Lanzmann(1980)によると、350万人がガス処刑され、そのうち95%がユダヤ人であり、その他多くの死者があった。(注8)
注8:ニュルンベルク裁判の弁護側もやむなく、検事側と同じ立場をとった。たとえば、ザイス・インクヴァルトの弁護人グスタフ・シュタインバウアー博士は、1946年7月17日、「アウシュヴィッツだけで350万人の男性、女性、子供を飲み込んだ」(TMI, XIX, p. 55)(IMT, XIX, p. 48)と述べている。「アウシュヴィッツ:……大絶滅収容所、1940−45年に約350万人のユダヤ人とポーランド人がここで殺された」(Dictionnaire de la langue française, Hachette, 1991, 1430 pp.)。翌年、Hachette出版社はこの数字を100万に減らした(注21参照)。「ビルケナウのガス室で殺された人々の正確な数を1000人単位まで見積もることは不可能である(もっとも信頼できる見積もりは350万あたりである)が、絶滅されたのはユダヤ民族であった。ビルケナウでガス処刑された人々の95%はユダヤ人であった。……多くの(その他の囚人)も命を失った」(Preface of Claude Lanzmann to Filip Müller, Trois ans dans une chambre à gaz d'Auschwitz 『アウシュヴィッツのガス室での3年間』, Pygmalion/Gérard Watelet, 1980, p. 12)。
〈300万人〉
1943年12月1日まで。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの自白による。(注9)
注9:アウシュヴィッツ所長となったのは3名であるが、そのうちの初代所長ルドルフ・ヘスは、1946年4月5日、ニュルンベルクの監獄の中で、アメリカ軍中佐Smith W. Brochart, Jr.のまえで、供述書に署名した。英文の供述書の中で、「私は1943年12月1日までアウシュヴィッツの所長を務め、少なくとも250万人の犠牲者がガス処刑や焼却によって処刑・絶滅され、少なくとも50万人が飢えや疫病で死亡したと推定する。死者の合計は300万人である」(資料PS-3868)と述べている。10日後、アメリカ人の検事補John Harlan Amenは、上記の一節を含む資料PS-3868からの抜粋を法廷で彼に対して読み上げ、「証人、これらはすべて真実ですか」(IMT, XI, p. 415)と尋ねた。ヘスは、「はい、それは正確です」(TMI, XI, p. 426)、「はい、そうです」(IMT,XI, p. 415:)と答えた。ヘスは拷問を受けていた。1983年になってはじめて、その拷問者の一人(イギリス軍憲兵隊のユダヤ人)の口から、当時の状況と拷問の詳細が明らかとなった(Rupert Butler, Legions of Death, London, Arrow Books, 1983, page of the Acknowledgements and pp. 234-238)。この点や、ヘスの文とされるテキストにアメリカの検事団が加えた歪曲と詐術、これと関係する問題については、R. Faurisson , "Comment les Britanniques ont obtenu les aveux de Rudolf Höss, commandant d'Auschwitz", Annales d'histoire révisionniste, spring 1987, pp. 137-152 もしくは "How the British Obtained the Confessions of Rudolf Höss", The Journal of Historical Review, Winter 1986-1987, pp. 389-403を参照していただきたい。最近まで、「ホロコースト」史家の多くは、ヘスをアウシュヴィッツの犯罪(殺人ガス処刑と犠牲者数)の筆頭の目撃証人とみなしていた。1993年、このような歴史家の一人、アメリカ人の教授Christopher Browningは、フォーリソン論文についての意見をユダヤ系イギリス人ジャーナリストから求められて、ついに、「ヘスはいつもとても弱く、混乱した証人である」と答えた。しかし、この同じ教授は、「修正主義者はこの理由でヘスを利用して、アウシュヴィッツ全体の記憶の信憑性に疑問を呈している」とも述べている(Christopher Hitchens, "Whose History is it?", Vanity Fair, December 1993, p. 117)。ヘスは、1943年12月1日までの死亡者を、300万以上に見積もっていることもある。
〈300万のユダヤ人がガス処刑された〉〈300万人〉
David Susskind(1986)ともっとも重要なカリフォルニアのユダヤ系週刊誌Heritage(1993)による。(注10)
注10:「150万のユダヤ人と引用すれば、それは数字を偽っていることになります。アウシュヴィッツ・ビルケナウで絶滅されたのは300万のユダヤ人でした」(David Susskind, President of the Brussels Jewish secular community center, letter published in Le Nouvel Observateur, May 30, l986, p. 29)。アウシュヴィッツのカルメル修道会についての編集局論文の中で、カリフォルニア最大のユダヤ系週刊誌Heritageは、「……大量の毒性のチクロンBの丸薬によって、アウシュヴィッツでは300万人のユダヤ人の命が失われた」(June 7, 1993)と述べている。ユダヤ系週刊誌の記者は、もうすでに3年間も、このような数字がまったくの誇張であると世界中のマスコミが伝えているという事実にまったく無関心なのである。
〈250万人〉
アイヒマン裁判(1961)でのRudolf Vrbaによる。(注11)
注11:「結局、私の見積もりにもとづけば、アウシュヴィッツ強制収容所での最終的な死亡者数は250万人です。」これは、1961年7月16日、ロンドンのイスラエル大使館でRudolf Vrbaがアイヒマン裁判のために宣誓供述した内容である。ヘスがニュルンベルク裁判であげた数字は、1943年12月1日までだけで、すなわち、その後の14ヶ月間を入れないで、300万人である。にもかかわらず、R. Vrbaは、厚顔にも、自分の数字がヘスの数字とあっていると主張している。すなわち、R. Vrbaは「アウシュヴィッツでの死亡者数に関する私の見積もりと、ヘスの見積もりは、たがいに別に、ことなった方法を使っているにもかかわらず、うまく一致している」と付け加えている(Rudolf Vrba and Alan Bestic, I cannot Forgive, New York, Bantam, 1964, pp. 269-272)。
〈200万人(?)から400万人(?)〉〈150万人〉から〈350万人〉
歴史家Yehuda Bauer (1982)による。(注12)
注12:歴史家Yehuda Bauerにとっては、アウシュヴィッツの死亡者数の総計は、200万から400万であるようである。1982年、彼は、ガス処刑されたものだけについて、「1942年4月から1944年11月まで、ソ連軍捕虜に加えて、ガスは、2000名のジプシー(1944年)、数百以上のソ連軍捕虜、150万から350万の間のユダヤ人の命を奪った」と記している(A History of the Holocaust, New York, Franklin Watts, 1982, p. 215)。7年後の1989年には、Y. Bauerは、死亡者(ガス処刑されたものもされなかったものも)の合計を160万と見積もり、そのうち1352980人がユダヤ人であったとしている(注16を参照)。
〈200万人から300万人のユダヤ人と数千名の非ユダヤ人が殺された〉
関係者のSS隊員Pery Broadの自白による。(注13)
注13:政治部(ゲシュタポと呼ばれた)のメンバーであったSS軍曹Pery Broadは、「200万から300万が[アウシュヴィッツで]殺された! さらに、数千のポーランド人、ロシア人、チェコ人、ユーゴスラビア人などが」と記したとされている("Erinnerungen von Broad", KL Auschwitz in den Augen der SS『ブロードの回想:SSの目から見たアウシュヴィッツ強制収容所』, Verlag des Staatlichen Auschwitz-Museums, 1973, p. 141)。
〈200万人から250万人が殺された〉
SS医師Friedrich Entress 博士(1945)による。(注14)
注14:「1942−43年に収容所の医師であったSS医師Friedrich Entressは、自分の見解では、200万人から300万人がアウシュヴィッツで殺されたと述べている」F. Piper, op. cit., 1992, p. 8)。
〈200万人〉〈200万人〉
歴史家Léon Poliakov(1951)による。歴史家Georges Wellers (1973)による。女性歴史家Lucy Davidowicz(1975)による。(注15)
注15:「慎重に考慮すれば、[アウシュヴィッツでの死者数]200万という数字にたどり着くであろう」(Léon Poliakov, Bréviaire de la haine『憎悪の収穫』, Calmann-Lévy, 1974 [1951], p. 496)。「……列車から降りたあとでガス室で殺されたユダヤ人の正確な数は、わからないであろう。慎重に見積もれば200万人であろう……」(Georges Wellers, L'Étoile jaune à l'heure de Vichy / De Drancy à Auschwitz『ヴィシー時代の黄色い星/ドランシーからアウシュヴィッツまで』,Fayard, 1973, p. 290)。この見積もりは、(1)ユダヤ人、(2)ガス処刑、(3)到着するとすぐにとの観点からの数字であるので、時期と理由のいかんを問わない死亡者の総数は、この著者にとっては200万以上であろう。10年後、同じ著者は、総数を150万人以下と見積もっている(注18参照)。Lucy Davidowiczにとっては、200万人という数字はガス処刑されたユダヤ人の数のようである(The War against the Jews / 1933-1945, New York, Holt, 1975, pp. 149-149)。
〈160万人〉
歴史家Yehuda Bauer (1989)による。うち1352980人がユダヤ人であった(注16)(後者の数字はGeorges Wellers, 1983による)。
注16:「アウシュヴィッツでは400万人という犠牲者はありえない。……死者の総数は……160万ぐらいであろう……。ガス処刑によって殺されたユダヤ人の数は1323000名であり、さらに、収容所で29980名が死亡した」(Yehuda Bauer, "Auschwitz and the Poles / Fighting the distortions", The Jerusalem Post, September 22, 1989, p.6)。彼は、1983年のG. Wellersの見積もりを参考にしたと述べているが、1471595人という合計(G. Wellersの数字)を160万人に変えてしまっている。1982年の彼自身の見積もりは、注12参照。
〈150万人〉〈150万人〉
Lech Walesaが選択し、1995年にビルケナウの記念碑で、1990年に放棄されていた400万人という数字と差し替えられた数字。(注17)
注17:1990年4月3日まで、アウシュヴィッツ・ビルケナウの記念碑には、「ここで、1940年から1945年までに、400万人の男性、女性、子供がヒトラー一派の虐殺によって拷問を受け、殺された」と刻まれていた。数年間のごまかしののちに作成された新しい碑文は、「ナチスが150万人の男性、女性、子供――その大半はヨーロッパ諸国からのユダヤ人であった――を殺害したこの場所が、人類にとって、絶望と警告の叫びとなるように」というものである(Luc Rosenzweig, "Auschwitz, la Pologne et le génocide"「アウシュヴィッツ、ポーランド、虐殺」, Le Monde, January 27, 1995, p. 1)。
〈147,1595人〉
うち1352980人がユダヤ人であった。歴史家Georges Wellers (1983)による。(注18)
注18:G. Wellers, op. cit., 1993。1973年の同じ著者の見積もり(注15参照)と比較せよ。
〈約125万人〉〈100万人〉
うち、100万人のユダヤ人が殺され、25万以上の非ユダヤ人が死亡した。歴史家Raul Hilbergによる。(注19)
注19:「アウシュヴィッツで……殺された[ユダヤ人の]数は100万人である……。アウシュヴィッツで死亡した非ユダヤ人の数は、登録簿や移送記録にもとづくと、25万以上であろう。大半がポーランド人であった」(Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, New York, Holmes and Meier, 1985, p. 895)。R. Hilbergにとって、ユダヤ人はいつも「殺され」、非ユダヤ人はたんに「死亡した」となっている。
〈110万人から150万人〉〈135万人〉
歴史家Yisrael Gutman、Michael Berenbaum、Franciszek Piper (1994)による。(注20)
注20:「少なくとも150万人がアウシュヴィッツ・ビルケナウで殺された」(p. 11)。「少なくとも110万人が収容所で殺されるか死亡した。しかし、この数字は最小限の見積もりであるとすると、仮説的な最大限の数字を受け入れるならば、どのような数字となるであろうか。……135万人の[ユダヤ人]と、アウシュヴィッツの犠牲者総数は約150万人である」(pp. 71-72)。11頁からのこの文章は、Yisrael Gutmanの署名のある章「アウシュヴィッツ――概観」に挿入されている図版に登場している。71〜72頁からの文章は、Franciszek Piperの署名のある章「犠牲者の数」に登場している(Yisrael Gutman and Michael Berenbaum, Anatomy of the Auschwitz death Camp, op. cit., 1994)。以前、F. Piperにとっては、アウシュヴィッツの死亡者数は400万人であった(注7参照)。
〈100万人〉〈100万人(非ユダヤ人含む)〉
Jean-Claude Pressac (1989)による。Dictionnaire des noms propres published by Hachette (1992)による。(注21)
注21:「400万人の犠牲者という数字は今では『情緒的』とみなされており、実際には100万ほどとすべきである」(Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, New York, Beate Klarsfeld Foundation, 1989, p. 264)。「アウシュヴィッツ…1940−45年に約100万人のユダヤ人とポーランド人がここで殺された」(Le Dictionnaire des noms propres, Hachette, 1992)。J.-C. Pressacの1993年の見積もりは注23、1994年の見積もりは注24参照。Hachetteが1991年に出版した辞典の見積もりは注8参照。
〈80万人から90万人〉
歴史家Gerald Reitlinger (1953)による。(注22)
注22:「80万から90万の人間が、アウシュヴィッツ、そのガス室、その収容所で殺されたというまったく逃れられない事実」(Gerald Reitlinger, The Final Solution, London, Sphere Books, 1971 [1953], p. 500)。
〈77.5万人から90万人〉
Jean-Claude Pressac(1993)による。そのうち63万人がガス処刑されたユダヤ人であった。(注23)
注23:「死者の総数:77.5万人。しかしこの数字には誤差がある。だから、80万人の犠牲者という概数が今日でも維持されるべきである」(Jean-Claude Pressac, Les Crématoires d'Auschwitz / La Machinerie du meurtre de masse 『アウシュヴィッツの焼却棟/大量殺戮装置』, éditions du CNRS [Centre national de la recherche scientifique], 1993, p. 148。J. Pressacの1989年の見積もりについては注21を、1994年の見積もりについては注24を参照。
〈63万人から71万人〉〈47万人〉〈55万人〉
Jean-Claude Pressac(1994)による。そのうち47万人から55万人がガス処刑されたユダヤ人であった。(注24)
注24:「死者の総数:631000〜711000人;……犠牲者の数は630000人から710000人と見積もられる(translation in German of the work referred to just above: Die Krematorien von Auschwitz / Die Technik des Massenmordes, Munich, Piper, 1994, p. 202)。J. Pressacの1989年の見積もりについては注21を、1993年の見積もりについては注23を参照。
(中略)〈250万人〉〈400万人〉
1946年から1947年のルドルフ・ヘス裁判では、調査団長も検事も、数十万の「記録された」死者のほかに、アウシュヴィッツでは400万人か少なくとも250万人の死者がおり、その大半はユダヤ人であったと結論していた(注28)。
注28:注25参照。さらに、上記の要約リストを見ればわかるように、さまざまな計算を検討してみると、ユダヤ人自身もアウシュヴィッツでのユダヤ人の死者の数を150万より多く設定していたことも多い。だから、彼らには、非ユダヤ人が数字を誇張していると非難する権利はない。
参考資料:北海道新聞
(アドレス:http://www5.hokkaido-np.co.jp/syakai/senkanokioku/katari/01.php3)
ナチス・ドイツが1940年6月、占領中のポーランド南部のオシフィエンチム(ドイツ名・アウシュヴィッツ)と周辺に設置した。当初はポーランド人の政治犯収容が目的だったが、次第にユダヤ人をガス室などで大量虐殺する「ホロコースト」が拡大、「絶滅収容所」に性格を変えた。ポーランド内に計6カ所あった同種の収容所の中で、殺害数が一番多かった。その犠牲者数について、アウシュヴィッツ博物館は最低でもユダヤ人100万人、ポーランド人7万5000人、ロマ民族2万1000人、旧ソ連軍捕虜1万4000人と推定。大戦中、欧州のユダヤ人1100万人のうち600万人が虐殺されたとみられている。
※なぜアウシュヴィッツ博物館の展示物(ユダヤ人135万人)と北海道新聞(100万人)で数字が違うんだろう……
参考資料:アウシュヴィッツ「絶滅物語」における新しい「公的」変更――マイヤー論文によせて――著:M. ウェーバー
(アドレス:http://revisionist.jp/weber_04.htm)
マイヤーは『オスト・オイローパ』誌の論文の中で、この分野での著名なユダヤ系専門家ライトリンガーは、1953年の『最終解決』の中で、合計100万人がアウシュヴィッツで死亡し、そのうち、75万人がガス処刑されたと見積もっていると記している[6]。
マイヤーによると、東ヨーロッパでは、1989年まで、アウシュヴィッツで400万人が殺されたという定説に異論を唱えることは禁止されていた。アウシュヴィッツ国立博物館で、この数字に疑問を呈したスタッフは、懲罰措置にかけると脅かされたという。1989年、イスラエルのホロコースト史家イェフダ・バウアーは、よく知られている400万人という数字が意図的に作り出された神話であることを認めるべきときであると述べた[7]。1990年7月7日、ポーランドの政府機関であるアウシュヴィッツ国立博物館は、イスラエルのヤド・ヴァシェム・ホロコースト・センターと連名で、総計100万人(ユダヤ人・非ユダヤ人)がアウシュヴィッツで死亡したと声明した[8]。
参考資料:アウシュヴィッツの犠牲者数400万人――その起源、修正、帰結―― 著:C. マットーニョ
(アドレス:http://revisionist.jp/mattogno_10.htm)
1. 400万人という宣伝数字の起源
400万人のアウシュヴィッツ犠牲者という宣伝物語がはじめて登場したのは、よく知られているように、1945年5月7日の『プラヴダ』紙上であり、その数字は、ニュルンベルク裁判1946年2月19日の公判で、ソ連検事スミルノーフが言及したことで、公に認められるようになった[1]。しかし、この物語の起源についてはほとんど知られていない。ソ連調査委員会は1945年2月14日から3月8日にかけて、アウシュヴィッツの調査を実行したが、その過程で、4人の技術者、すなわちポーランド人ダヴィドフスキ、ソ連人ドリンスキイ、ラヴルシンス、シュエルが、アウシュヴィッツ・ビルケナウの「ガス室」と焼却棟についての専門家報告をまとめた。その中に、「アウシュヴィッツ収容所においてドイツ人に清算された人数を確定するための計算」と題する短い「付録1」がある[2]。この3頁の文書に、400万人という数字の起源がある。「専門家報告」は次のような前提から出発している[3]。
参考資料:試訳と評注:F. ピペル、マイヤー論文の書評
(アドレス:http://revisionist.jp/piper_01.htm)
ソ連調査委員会は、個々の焼却棟の稼動期間、その1日の処理能力を算出するにあたって、囚人たちの供述を利用した。これに2つの要素をかけあわせると500万人という数字が生み出された。そして、委員会は、メンテナンスと修理による中断期間を、少なくとも20%と見積もって、400万人を焼却することができた、したがって、400万人が収容所で殺されたという結論に達した[3]。この数字は、1945年5月8日にソ連委員会が『赤い星』紙上に発表したコミュニケに登場し、世界中の出版物が報道するようになった。収容所長ルドルフ・ヘスも、翌年のニュルンベルク軍事法廷の証言で、この数字を確認した。彼は、300万人が収容所で死亡したと証言したが。この数字は、1940年から1943年の彼の在任中の時期にあてはまるものとみなされた。
「愚かなりネオナチめ。
こんなものはソースにならんぞ。
なぜならこれはアウシュヴィッツでの死亡者数の変化であって、そのうちのユダヤ人の死亡者数の変化ではない。
アウシュヴィッツ博物館は死者数400万人から100万人に死者を減らしたが、内訳のユダヤ人の死亡者数に劇的な変化はない!」
「作者は中学生のとき社会科の授業で、アウシュヴィッツの死者は400万人でほとんどはユダヤ人だったって習ったぞ」
「それは作者の通ってた中学校の教師の頭が悪いだけだ!
あるいは作者の記憶違いかもしれんな! ボツだ! ボツ!」
「……地元の図書館行ってホロコースト関連の本を調べたらやっぱり『アウシュヴィッツのユダヤ人死者400人』説を採用してる文献があったぞ。
『光の中のアンネ・フランク』っていう本に「虐殺されたユダヤ人は、アウシュヴィッツだけで400万人ともいわれています」と書いてあったが、ありゃインチキ本か?」
「というか、上のソースによるとルドルフ・ヘス裁判の調査団長と検事が結論付けた数字が400万人説のソースでは?」
「なんだ。じゃあ記憶違いじゃないな。たぶん社会科の教師はそれを採用してたんだろ。図書館の本にも載ってたし。
調べたら埼玉県の「丸木美術館」のHPにも『ヒットラーの命令で、ヨーロッパの29ヶ国から集めて運ばれたユダヤ人、アウシュヴィッツだけで400万人が殺されました。はじめは機関銃で、一度にもっと大量にと、毒ガスに変わったのだという。』って書いてあるし、『アウシュヴィッツでユダヤ人が400万人殺された』って学校で習った日本人は多いんじゃないかな?」
「だがそれはアウシュヴィッツ博物館の公式発表とは違うな! 400万人説のときユダヤ人は250万人だったのだ!」
「……その数字ってホントか?
ググっても掲示板の書き込みの過去ログみたいなところしかヒットしないぞ。
地元の図書館行って調べたけど、400万人説のときのアウシュヴィッツ博物館の主張の数字をはっきり書いてあったものは見つからなかった。
本当に250万人だったのか?」
「知らん!調べたがわからんかった! そのうちネットで誰かが資料を持ってきてくれるだろう!」
「……仮に250万人だとしてだ。
中学の社会科の授業で習って市立図書館のアンネ・フランク関係の本にも書いてある数字がアウシュヴィッツ博物館の数字と一致しないとはどういうことだ…」
「それだけアウシュヴィッツの死亡者数がいい加減な資料に基づいているということだ。
アウシュヴィッツの死亡者数も内訳のユダヤ人の数もバラバラ。
アウシュヴィッツ死亡者数はホロコースト肯定派の間でも63〜900万人と実にいい加減だ。
内訳のユダヤ人の数はアウシュヴィッツ博物館の発表では135万人だが、他にも400万とか450万とかいろいろ数字が出てるぞ。
これは一体どういうことだ?」
「ちょっと待ってください。上に貼ったソース(北海道新聞)によると今は100万人みたいですよ」
「……なんでアウシュヴィッツ博物館内部の展示物と北海道新聞で数字が一致しないんだ?」
「ナチスに殺されたユダヤ人犠牲者数600万人という数字はニュルンベルク裁判で登場したが、アウシュヴィッツの数字がこれほど変化しているのでは、ユダヤ人死者600万人の数字が正しいわけがない。
400万人説のときがユダヤ人250万人、今は150万人説でユダヤ人135万人。
100万人以上も減ってるな。
その他のソースも数字がバラバラだ。
アウシュヴィッツで死んだユダヤ人の数字が博物館の発表でこれほど変わってしまっているようでは、米英委員会の調査結果は意図的に数字を捏造したものだと判断せざるを得ないな」
「ぬぐぐっ!
……ふっふっふ。
たしかにな。
まあ、この数字は戦後間もない頃の混乱で信用度が低いことは認めよう。
犠牲者数の9割は東側だし」
「……それは致命的な欠点じゃないのか?」
「それはお前の思い込みだ! 共産主義国家の主張はたしかに嘘ばっかりだったが、ホロコーストに関しては嘘はないのだ!」
「アウシュヴィッツ博物館の記念碑の数字は?」
「シャラップ! 揚げ足取りばかりとはなんと卑劣な!
だがネオナチがいくら小細工を使おうとも、根本の部分まで否定することはできない!
真実はいつも一つ! ホロコーストはあったのだ!
あとはそれを証明すれば言いだけの話だ」
「さっきからアンタそればっかだな」
「ぐっ!」
「いつになったら証明するのだ?」
「ぐぐっ!」
「適当、大味、大雑把。アメリカ人はこれだから…」
「ぐはあっ!」
「だいたいアメ公の言葉なんぞ信用できない。
アメリカはラジオ演説のマイク点検時、『本日は晴天なり』の代わりに『ソ連を5分後に爆撃する』とほざいたアホが大統領になるような国だぞ」
「それを言った大統領って誰?」
「ロナルド・レーガン」
「あー、アルツハイマー病の」
「弁護人! 議論に関係のない話はしないでいただこう!
あとアメリカ人は適当、大味、大雑把というのは偏見だ!
それもやめていただきたい!」
「別にいいじゃん。怒るほどのことでもないっしょ」
「ルクス! 君がそーいう性格だからアメリカ人が誤解されてしまうんだ!」
「んなこと言ったって、あたしはこーいう性格だからしょーがないでしょうが」
「ところでさっきの人口調査だと570万人よね。
どうして600万って数字になったの?」
「うむ。
600万という数字は欧州戦線が終わる前にはすでに出てきていたのだが、ホロコーストの犠牲者数600万人という主張を決定付けたのはニュルンベルク裁判だ。
しかしこの数字に根拠はない。
ニュルンベルク裁判に提出された唯一の証拠は、SS将校ヴィルヘルム・ヘットルの伝聞証言による文書証言だけだからだ。
彼は、ヒムラーの国家保安本部(RSHA)ユダヤ問題課長アイヒマンからの発言としてこの数字をあげていた。
なお、当のアイヒマンは1961年のイスラエルの裁判でその数字を否定している。
1945年、戦争に敗れたドイツに反論する力はなく、ニュルンベルク裁判によってこの600万人という数字は確定したわけだ」
参考資料:ヴィルヘルム・ヘットルと捕らえどころのない「600万人」著:マーク・ウェーバー
(http://revisionist.jp/weber_03.htm)
しかし、この数字は、入念な調査、研究、計算の上で出されたものではない。ニュルンベルク裁判に提出された唯一の証拠は、SS将校ヴィルヘルム・ヘットルの伝聞証言だけである。彼は、ヒムラーの国家保安本部(RSHA)ユダヤ問題課長アイヒマンからの発言として、この数字をあげていた。戦時中に国家保安本部に勤務していたヘットルは、1945年11月26日に作成され、ニュルンベルクの合衆国検事団にわたされた供述書の中で、400万人ほどのユダヤ人が「さまざまな絶滅収容所」で殺され、さらに、200万人が、その他の方法、とくに、独ソ戦期における特別行動部隊による銃殺によって殺されたということを、1944年8月にアイヒマンから聞いたと証言したのである[8]。注目すべきことに、アイヒマン自身は、ヘットルの話を「ナンセンス」とみなし、そのような話をしたことを強く否定して、ヘットルがこの数字を持ってきたのはラジオ放送か新聞記事からであったに違いないと推測している[9]。もしも、ヘットルが、600万人という商標を世界中の人々の心の中に刻み付けた張本人でなかったとすれば、彼の歴史的な位置はせいぜい脚注扱いにすぎなかったことであろう。
この人物は何者なのか、彼の歴史的な供述はどの程度信頼できるものなのであろうか?
ヘットルは1915年3月ウィーンで生まれた。1938年、23歳の若さで、ウィーン大学から歴史学の博士号を授与されている。まだ在学中に、ナチス党とSSに加入している。1939年から終戦まで、ヘットルはほほ中断なく、ドイツの中央情報局、国家保安本部に勤務していた。まず、ウィーンの「外国課」(Amt Ausland、のちのAmt VI)に、ついで、1943年初頭からは、ベルリンの第4課「南東ヨーロッパ局」にSS少佐として勤務した。1944年3月、ヘットルはブダペストに転勤となり、ハンガリーでのヒムラーのSS代表ナンバー・ツーとして、またヒトラーのハンガリー大使フェーゼンマイアー――彼は、1944年のハンガリーからのユダヤ人の大量移送についてベルリンに報告している――の政治顧問として勤務した。1945年5月8日、ドイツ軍が連合国に対して無条件降伏すると、アメリカ軍はオーストリアでヘットルを逮捕した。その後数年間、彼は、アメリカの情報員として活動した。彼は、自己弁明的な回想録を出版してほどなく、1999年に死んだ。
2001年4月、合衆国CIAは、それまで未公開であった、ドイツの戦時中の主要人物に関する数千頁の資料を公開したが、そこには、ヘットルについての膨大なファイルも入っていた。二人の合衆国の役人が、この文書の公開に伴って、最近極秘扱いから解除されたCIAのファイルにもとづいて、ヘットルについての詳細な報告を執筆・公表した。それは、ヘットルの戦時中と戦後の経歴に光をあてている。この報告の表題は「ヴィルヘルム・ヘットル人物ファイルの分析」であり、合衆国「部局間作業グループ」の二人の「歴史研究者」ミリアム・クレイマンとロバート・スクヴィロトによって書かれている[10]。
これらの文書によると、ヘットルが、自分にお金を支払ってくる人物の気に入るようにつねに情報を捏造するまったく信頼できない情報提供者であった。二人の合衆国の研究者は、報告の中で次のように述べている。
「ヘットルの人物ファイルは600頁にもおよび、今回公開されたものの中でも最大のファイルの一つである。ヘットルは戦後、自分に金を支払ってくれる人であれば、誰に対しても、よいものであれ悪いものであれ、情報を提供してきたが、そのために、彼の人物ファイルが膨大となっている。ヘットルは、合衆国、ユーゴスラヴィア、オーストリア、イスラエル、ルーマニア、バチカン、スイス、フランス、西ドイツ、ロシア、ハンガリー、イギリスなど12カ国の情報機関と接触していた。」
1945年5月、アメリカ軍に逮捕されると、すぐにヘットルは合衆国戦略情報局(OSS)――現在のCIAの前身――のために働き始めた。上記の研究者によると、「ヘットルは逮捕されるとすぐに、自分を逮捕した人々の利にかなうように行動した」というのである。ヘットルが、歴史的な、そして呪われた「600万人」という供述書を提供し、それをアメリカ検事団が連合国主導のニュルンベルク裁判に提出したのは、まさにこの時期、すなわち、彼が秘密裏にアメリカ情報機関のために働いていたときのことであった。ヘットルは、自分に金を提供してくれる人々が望むような情報を喜んで提供し、そこから利益を引き出していたが、そのような腐敗が明らかになるのには時間がかかった。腐敗が存在していると合衆国情報機関が確信するには数年を要したのである。1949年6月、合衆国の一人の情報将校が、いかなる理由であれヘットルを利用することに警告を発している。ヘットルは「非常に資質が劣悪で、政治的記録もかんばしくないので、彼を合衆国の情報活動に利用することは、それがどんなに役に立つように見えようと、先見の明のない政策となってしまう」というのである。1950年8月、CIAの内部文書は、ヘットルを「悪名高い情報の捏造者」と呼んでいる。1952年初頭の合衆国陸軍CIC報告は、ヘットルの情報を無益なものとしてしりぞけ、ヘットルは「誰であっても、自分の情報を買ってくれる人のために、幅広い情報活動にかかわっている」と記している。1952年4月、ヘットルの報告は「価値がなく、水増しされているか捏造されている」と呼ばれている。興味深いことに、合衆国の多くの情報報告が、ヘットルと有名な「ナチ・ハンター」サイモン・ヴィーゼンタールとの関係を指摘している。ある合衆国陸軍CIC文書は、ヴィーゼンタールを「イスラエル情報局のオーストリア工作員首席」と呼んでいる。1950年1月のCIC報告には、ヴィーゼンタールが過去3、4ヶ月、ヴィルヘルム・ヘットルから情報を集め」、彼を雇って、「ナチ・ハンター」の報告のために情報を集めたと指摘されている。1952年7月、合衆国陸軍情報機関がヘットルとの関係を絶ったとき、合衆国陸軍の書簡は次のように警告している。「ヘットル博士は、オーストリアの当司令部とその他の連合国軍事機関には、以前から情報の捏造者として知られていた。彼の報告には、事実の蜘蛛の巣の上に、嘘、虚偽、憶測、その他の虚偽情報がちりばめられている。当組織は、ヘットル博士と彼の仲間とはまったく関係を持たないであろう。彼は、オーストリア在住のアメリカ、フランス、イギリス諸機関には好ましからざる人物である。」
参考資料:ホロコースト講義 著:ゲルマール・ルドルフ
(アドレス:http://revisionist.jp/lectures/130.htm)
R:では、私たちは、600万人という犠牲者の数字については、いつから話題にしていたのでしょうか?
L:この問題に光をあてたのは1946年のニュルンベルク裁判のときがはじめてだと思います。
R:それが普通の見解です。ドイツ占領下の地域で進行していることを調査できるようになったのは戦後になってからであるとお考えであれば、この見解は合理的に思われます。しかし、もっと深く考察してみましょう。
ニュルンベルク裁判記録を分析すれば、ユダヤ人犠牲者600万人という数字[1]は、人口調査による統計学的証拠にも、犯罪にまつわる物的証拠の調査結果にももとづいておらず、たんに、二人のドイツSS官僚の伝聞証言にもとづいていることがわかります。そのうちの一つ、ヴィルヘルム・ヘットルによる証言[2]は、文書証言としてだけ提出されています。もう一つの、ディター・ヴィスリセニイの証言[3]は、法廷での証人証言というかたちでした。しかし、ヴィスリセニイは反対尋問を受けていません。二人の証人とも、アイヒマンから600万人という数字を聞いたと証言していますが、アイヒマン自身は1961年のイェルサレムでの裁判でこの件を否定しています[4]。
ヘットルもヴィスリセニイも、ユダヤ人をアウシュヴィッツに大量移送した咎で、もともとはニュルンベルク監獄の被告人監房に収容されていました。しかし、その証言のおかげで、証人監房に移ったのです。それは、多くの場合、自分の命を救うことになる引越しでした。その後、ヴィスリセニイとアイヒマンは裁判にかけられて絞首刑となりましたが、ヘットルは、ユダヤ人の移送に積極的に関与していたにもかかわらず、訴追されませんでした。彼は、犯罪を立証する証言を行なったことと引き換えに、赦免を約束され、その約束は、ヴィスリセニイの場合とは異なって、実際に守られたのです。ヘットルは自伝[5]の中で、自分の証言を正当化しようとしていますが、その内容は彼自身の初期の証言とは矛盾していますので、彼は疑わしい証人であったといえます[6]。
(中略)
L:ユダヤ人の苦難が語られる場合には、いつも600万人という数字が登場しているようですね。
R:これには特別な理由があるのです。Benjamin Blechは、600万人の同胞を失ったのちに、約束の土地に帰ることをユダヤ人に約束する古代ユダヤの予言について言及しています[19]。
「予言ですか。聖なる数字だから否定は許されない。
疑っただけで逮捕されるのは当然ですね。宗教なら当然のことです」
「……狂ってるなぁ」
「朝鮮では日常茶飯事ですが何か?」
「アレと同レベルか……」
「判事、次だ、次! 次のお題を出せ」