殺人ガス輸送車

批判的調査

サンティアゴ・アルヴァレス、ピエール・マラス著

キャッスル・ヒル・パブリッシャーズ刊

英国アックフィールドTN22 9AW、P.O. Box 243

2016年11月初版刊行

ホロコースト・ハンドブックス第26巻

サンティアゴ・アルヴァレス著

殺人ガス輸送車:批判的調査。

ピエール・マラスによる多大な貢献あり。

英国アックフィールドにてキャッスル・ヒル・パブリッシャーズ刊

英国アックフィールドTN22 9AW、P.O. Box 243

著作権者:サンティアゴ・アルヴァレス、2011年

配布:

キャッスル・ヒル・パブリッシャーズ社

英国アックフィールドTN22 9AW、P.O. Box 243

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表紙:上部:ガス発生発動機(102ページ参照)。左部:戦後何十年も「殺人ガス輸送車」だと詐称されてきた戦後ポーランドで見つかった引っ越し用貨物自動車(33ページ以降、275ページ以降参照)。右部:証言に従った「殺人ガス輸送車」と称するものの手描きの絵(278ページ参照)。背景下部:文書501‐PSの一部(281ページ参照)。

内容
ページ
序文…… ……11
前置き…… ……13
1.物的そして法医学的な証拠…… ……17

1.1.凶器の物的痕跡……

……17

1.2.犠牲者の物質的痕跡……

……20

1.3.法医学的かつ技術的検討……

……24

1.3.1.ディーゼル排気ガスの毒性……

……24

1.3.2.完全密閉のガス殺区画……

……28
2.文書…… ……31

2.1.写真……

……31

2.2.ドイツの当代文書……

……36

2.2.1.導入……

……36

2.2.2.ベッカー文書(501−PS)、1942年5月16日付……

……40
2.2.2.1.起源…… ……40
2.2.2.2.書式の解析…… ……40
2.2.2.3.翻訳された内容…… ……43
2.2.2.4.内容の解析…… ……47

2.2.3.501−PSの電報……

……55

2.2.3.1.2つの版……

……55
2.2.3.2.ベルグラードからの1942年6月9日の手紙…… ……55
2.2.3.3.リガから1942年6月15日付…… ……58
2.2.3.4.ベルリンより1942年6月22日付…… ……60
2.2.3.5.漏出するようになってしまっている排気可撓管…… ……61

2.2.4.ジュスト文書、1942年6月5日付……

……63
2.2.4.1.翻訳…… ……64
2.2.4.2.解析…… ……66
2.2.4.3.ジュスト文書でのイングリッド・ヴェッカート…… ……78
2.2.4.4.ジュスト文書と1942年6月42日の手紙…… ……80
2.2.4.5.ジュスト文書の3つある版の比較…… ……81

2.2.5.ベッカー文書とジュスト文書の比較……

……83

2.2.6.RSHAの特別自動車の本当の目的……

……84

2.2.7.ターナー書簡、1942年4月11日付……

……87
2.2.7.1.問題のある内容…… ……88
2.2.7.2.問題のある言語…… ……89
2.2.7.3.綴りと句読点…… ……90
2.2.7.4.査定…… ……91

2.2.8.アインザッツグルッペBによる活動報告……

……92

2.2.9.文書NO-365に関する意見……

……94

2.3.ドイツの特別自動車……

……97

2.4.ガス発生自動車……

……101
3.戦中戦後期の裁判所書類…… ……105

3.1.初期の報道報告……

……105

3.2.クラスノダール裁判……

……107

3.2.1.経緯:ソ連の殺人ガス輸送車……

……107

3.2.2.背景と状況……

……110

3.2.3. クラスノダール裁判の間の殺人ガス輸送車の主張……

……114

3.3.ハリコフ裁判……

……118

3.4.戦後の自白の心理的骨組み……

……125

3.5.国際軍事裁判(IMT)ニュルンベルク諸裁判(NMTs)での殺人ガス輸送車……

……128

3.5.1.ソ連の背景……

……128

3.5.2.ヴァルター・ラウフの自白調書……

……130

3.5.3.オットー・オーレンドルフと口述書……

……135

3.5.4.エルンスト・ビーバーシュタインの自白調書……

……136

3.5.5.カール・ブラウネの口述書……

……137

3.5.6.様々な口述書……

……137

3.5.7.フランツ・ツィライスの「自白」……

……139

3.5.8.特別殺人自動車……

……142

3.6.ドイツ外での殺人ガス輸送車戦後裁判……

……143

3.6.1.ユーゴスラヴィア……

……143

3.6.2.ポーランド……

……144
3.6.2.1.概論…… ……144
3.6.2.2.ピラーとギーローの案件…… ……145
3.6.2.3.ブロニスラフ・ファルボルスキへの尋問 ……146
3.6.2.4.サイモン・スレブルニクへの尋問…… ……154
3.6.2.5.ミヒャワ・ポドフレブニクへの尋問…… ……156
3.6.2.6.ミェチスワフ・ジュラフスキへの尋問…… ……159
3.6.2.7.捜査判事ウワディスワフ・ベドナーシュ…… ……162

3.6.3.イスラエル……

……167
3.6.3.1.サイモン・スレブルニク…… ……167
3.6.3.2.ミヒャワ・ポドフレブニク…… ……169
3.6.3.3.ミェチスワフ・ジュラフスキ…… ……169

3.6.4.オーストリア……

……170

3.7.西ドイツ裁判での殺人ガス輸送車……

……171

3.7.1.導入……

……171

3.7.2.1949年〜1959年(裁判4件)……

……175
3.7.2.1.シュトゥットガルト地方裁判所、1949年11月8日及び1950年8月15日の評決…… ……175
3.7.2.2.カールスルーエ地方裁判所、1949年12月15日及び1951年10月15日の評決…… ……178
3.7.2.3. LG Wiesbaden, Verdict of 24 Mar. 1952…… ……179
3.7.2.4. LG Koln, Verdict of 20 June 1953…… ……180

3.7.3. From 1960 to 1964 (2 trials)……

……184
3.7.3.1. LG Karlsruhe, Verdict of 20 Dec. 1961 & 13 Dec. 19635…… ……184
3.7.3.2. LG Koblenz, Verdict of 21 May 1963 & 10 Nov. 1965…… ……186
3.7.3.3.アウグスト・ベッカーへの尋問…… ……188

3.7.4. From 1965 to 1969 (11 trials)……

……191
3.7.4.1. LG Bonn, Verdicts of 30 Mar. 1963 & 23 July 1965…… ……191
3.7.4.2. LG Kiel, Verdict of 26 Nov. 1965…… ……203
3.7.4.3. LG Wuppertal, Verdicts of 30 Dec. 1965 & 13 Dec. 1967…… ……204
3.7.4.4.フランクフルト地方裁判所/M.、1996年3月12日の評決…… ……205
3.7.4.5. LG Hannover, Verdict of 7 June 1966…… ……207
3.7.4.6. LG Stuttgart, Verdict of 15 Sep. 1967…… ……215
3.7.4.7. LG Stuttgart, Verdict of 11 June 1968…… ……220
3.7.4.8. LG Dortmund, Verdict of 16 Jan. 1969…… ……221
3.7.4.9.キール地方裁判所、1969年4月11日の評決…… ……223
3.7.4.10.3.7.4.10.ダルムシュタット地方裁判所、1969年4月18日及び1971年12月23日の評決…… ……226
3.7.4.11.キール地方裁判所、1969年11月28日の評決…… ……228

3.7.5.1970〜1974年(6裁判)……

……230
3.7.5.1.フランクフルト地方裁判所/M.、1971年3月19日の評決…… ……230
3.7.5.2.ミュンヘン地方裁判所I、1972年3月22日の評決…… ……231
3.7.5.3.ミュンヘン地方裁判所…… ……231
3.7.5.4.ミュンヘン地方裁判所I、1974年3月29日の評決…… ……232
3.7.5.5.キール地方裁判所1974年6月14日の評決…… ……233
3.7.5.6.ミュンヘン地方裁判所I、1974年11月15日の評決…… ……234

3.7.6.1975年から現在まで(1裁判)……

……236
3.7.6.1.ミュンヘン地方裁判所I、1980年12月19日の評決…… ……236

3.8. Gas Vans during Communist East German Trials……

……238

3.8.1. General Remarks……

……238

3.8.2. LG Berlin, Verdict of 14 Aug. 1978……

……241

3.8.3. LG Karl-Marx-Stadt, Verdict of 11 June 1976……

……242

3.8.4. LG Karl-Marx-Stadt, Verdict of 2 Dec. 1971……

……242

3.8.5. LG Neubrandenburg, Verdict of 22 Feb. 1961……

……243

3.8.6. LG Greifswald, Verdict of 3 July 1952……

……243
4. Critical Summary of Witness Testimonies…… ……245

4.1. The Witness Problem……

……245

4.2. Claimed Features of the Vehicles……

……253

4.2.1. Introduction……

……253

4.2.2.車種……

……254

4.2.3. General Appearance……

……255

4.2.4. Capacity……

……259

4.2.5.ガス殺手続きの期間……

……260

4.2.6. Poison Source……

……261

4.2.7. Gassing Procedure……

……262

4.2.8. The When, Where, and How Many……

……264

4.2.9. Conclusion……

……266

4.3. A Hypothesis on the Origin of “Gas Van” Claims……

……268
5. Conclusions…… ……271
6. Appendices…… ……275

Appendix 1: Images of Alleged “Gas Vans”……

……275

Appendix 2: The Becker Letter……

……281

Version A……

……281

Version B……

……285

Version C……

……287

Version D……

……288

Appendix 3: The Telegrams of Document 501-PS……

……289

付録4:一件書類R 58/871 fo1、BAK……

……295

Letter of 26 March [194]2……

……296
Translation & Remarks…… ……297

Memo of 27 April 1942……

……299
Translation & Remarks…… ……306

Letter of 30 April 1942……

……312
Translation & Remarks…… ……314

Letter of 14 May 1942……

……316
Translation…… ……317

Memo of 5 June 1942 (Just document)……

……318

Memo and Letter of 23 June 1942……

……323
Translation & Remarks…… ……326
Juxtaposition of Two Documents…… ……328

Letter of 18 September 1942……

……330
Translation…… ……331

Letter of 24 September 1942……

……332
Translation…… ……333

Appendix 5: Published Versions of the Just Document……

……334

付録6:ターナー書簡……

……339
Translation…… ……341

Appendix 7: Einsatzgruppen Report February 1942……

……343

Appendix 8: Special Vehicles of the German Army……

……346

付録9:証人ファルボルスキの尋問協定……

……349
翻訳…… ……351

付録10:交換書簡……

……354

マウトハウゼンの「殺人ガス輸送車」の手紙……

……354
Translation and Comments by P. Marais…… ……355

マシアス・ベーアからピエール・マラスへの手紙……

……362
Translation and Comments by P. Marais…… ……364

Letter by the Town of Konin to P. Marais……

……370
Translation…… ……370

Letter by Auschwitz Museum (Poland)……

……371
Translation…… ……372

イェルサレムのヤド・ヴァシェムからの手紙2通……

……373

ヘウムノ記念碑の写真……

……375

シュタイア・ダイムラー・プフ社からP・マラス氏への手紙……

……376
Translation…… ……377

Appendix 11: Drawings of “Gas Vans”……

……378
Bibliography…… ……381
Index of Names…… ……387

序文 Preface

現在の研究とは多数の偶然の集合の結実である。事実、これの著者はこの話題で本を著すつもりはなかった。彼は単に別の著者によって著された本を翻訳し、もしかしたら求められるところを少し編集し更新したかっただけであった。だが思うようにはいかなかった。

2010年早期に、1994年という早くに出版されたピエール・マラスの研究Les camions a gaz en question精査されるガス殺貨物自動車)を英訳するという考えは開始した。それは、英訳開始時点では「殺人ガス輸送車」という捉えどころのない議題の研究論文が入っていなかったHolocaust Handbooks Seriesの隙間を埋める事を意図していた。マラスの研究は2009年の復刻ドイツ語版で僅かに登場しており、現在の著者にはフランス語の原版と同様にドイツ語訳版も提供されていた。その文書自体には気前よく様式の定められた100ページほどしかなく、ドイツ語版用に準備された近年の更新も併せて、それは迅速に達成できる企画のように見えた、少なくとも私にはそう思えた。

最初は第三大国の「殺人ガス輸送車」に関して全く詳しくなかった私は、所有することができたこの問題に関する複数の過去の文書を読み、その最先端までかなり上手く掌握できた。そのため、マラスの作品を翻訳している間に多数の事実的誤り、瑕疵、論点の歯抜け、そしてより悪いことには重要文書と裏付けに乏しい資料が余りに省略されており、その大多数はここ15年の間でやっと概して閲覧可能になったものであることに気付き、それがためこれを完全な作品に仕上げようと決心することとなった。そうして作業を続けるほどに資料が出てきたため、しまいにはその本の分量を最低でも100%増加させ、加えられた内容と多くの訂正の為に必要となった修正と更新によってピエール本人の文章のかなりの個所を書き直し、差し替え、あるいは削除さえした。

そう考えたのは編集努力の終わり頃で、出来上がった目の前の本はその内容の80%が最早ピエールのものではなく私のものであり、その中の未だピエールのものである部分は別の著者の書式で書かれたところどころ異質な残骸であり、この本の新しい構造からすると時に不自然で場違いだった。その本も同様に推敲する必要があることには疑いの余地がなかった。

こうした状況で、この本を著者の作品の翻訳として著者に――あるいは公に――提示できるだろうか? 困難だ。彼は為されたあらゆる変更を受け入れるだろうか? ああと、訊くのは不安だったし、ピエールの文筆関連の代理人に接触した時、彼は難色を示してこのタイプ打ち原稿を当時90歳だったムッシュ・マラスに提示さえしない方が良いと示唆してくれた、彼には自身の作品の抜粋にして書き直しであるこの不徳な本を克服するのは難しいかもしれないからと。そのため、代わりに完全に書き直して自分の名前で出版する決定を下すことにした。

しかし全ての書き直しを完了する代わりに、この現在の本は依然としてピエールの原本に帰するものがある。まず、ピエールの原本がこれの存在の理由そのものである。次に、この本の基本的構造の一部は依然としてピエールの導きに従っていて、調整され、言い直され、頻繁に再評価されていてさえ、彼の論理の多くはこれの中に未だ多く見受けられる。そして最後だが大事なこととして、ピエールの本は当時の草分けであり、それの上に構築されている現在の研究はそれを大きく、より全体的に体系立てて論じたものである。ピエールの本は現在の研究への私の足がかりとなった;彼の大著は巨人であり、黎明期の開拓者であり、その本がなければこの現在の本は存在しなかっただろう。

この本はピエールの著作と比較して明確に改良――ほぼ20年経過した後として想定される自然な進歩――されていると見做されるかもしれないが、これは未だ完璧には程遠い、ドイツのルートヴィヒスブルクにあるZentrale Stelleが保有している大量の公文書は現在、ドイツ検閲法によって批判的な研究者にとってもし不可能でないとしても閲覧が困難であるからだ。そのためこの研究の結論は暫定的に妥当と見做される必要があり、この議論は開かれ続ける。

ピエール・マラスに加え、現在の研究は、休むことなく私にあらゆる種類の文書を提供してくれるトーマス・クエスによる支持にその多くを負っており、そうした文書の一部は私の注文通りであったが、それまで私には未知であった文書も数多くあった。

カルロ・マットーニョはこの本の改良の助けをしてくれた、この本の前の版を批判的に読んでくれたのもあるし、ヘウムノ収容所に関する彼自身の著書の為の研究による間接的なものもあり、そこから現在の本は相当恩恵を受けている。

安全上の理由で名前を伏せるが、手助けしてくれた他の全員にも感謝の意を表する。

前置き Introduction

「ホロコースト」に関し、第三大国による欧州ユダヤ教徒の大量殺人と称するものを多くの人々が自分は「知っている」と考えるだろう。勿論我々全員がそれが起きたことを「知っている」。我々は600万人が死んだことを「知っている」。我々はナチスがガス殺室及びガス・オーヴンにユダヤ教徒を押し込み、巨大な火葬炉と大規模な野焼きで彼らを生死問わず焼き尽くした事を「知っている」。我々の知識は余りに確かであり、不信の声を上げた者は即座に排斥される程だ。多くの国々では人々は警察を呼んでそうした疑う者を逮捕、起訴、そして投獄さえする。皆が真実だと知っているものを疑う者は実のところ悪人であるに違いない。

上記の文を読み通した多くの読者は、この内容には典型的な間違い、正史派の歴史家が認めてさえいる虚偽が1つ含まれていると気付くこともできないかもしれない。この誤りは、『気付かないまま見逃してしまう「知識」だと我々が考えている決まり文句』の、不動部分になるべき程のものだ。

ガス・オーヴンはなかった。

この語は荒唐無稽だ。

1 しかし歴史見直し論者は例えばその観念には異議を唱えている:マットーニョ/グラーフの2005年、マットーニョの2004年a&b、グラーフ/クエス/マットーニョの2010年;ルドルフの2011年、マットーニョの2010年と2011年a。

2 その火葬炉の唯一存在する科学技術的研究については2011年bのマットーニョ参照。

正史派の歴史家は、その一方で僅か数分で一度に数千人もでないとしたら数百人を素早く窒息死させる為に設計されたガス殺室は存在する、と主張している。1対比して、収容所の亡くなった囚人を灰にするよう設計された火葬炉があったことは全員が認めている(囚人の死因と火葬炉の容量には議論の余地が残っているが2)。しかし一般人の心では、ガス殺室と火葬炉は融合して「ガス・オーヴン」という邪悪な何かになっている。ホロコーストに関する公の講演では、そのように描写すべきものは存在したことがないとしてさえこの荒唐無稽な語句が飽きるほど出る。

「我々は知っている」とはその程度のものだ。

「ホロコースト」に関して人口に膾炙するあらゆる嘘の決まり文句を言って説明すると本を1冊ぶん占めてしまうため、ここでそれをするのは控える。私が行いたい指摘は、私たちは皆「ホロコースト」が意味するものについて基本的な把握をしているが、多くの人々はその話題の一般的な面にさえ極めて不見識ということだ。

「ホロコースト」という場面を思い起こす際にガス殺室は一般人の心を占めるが、「殺人ガス輸送車」は通常議論から外れてしまう。大衆の何割が、『ナチスは歴史家が通常「殺人ガス輸送車」と呼ぶ移動式ガス殺室を運用していた』、と聞いたことがあるだろう?

この知識の欠如は許されるものだ、正史史観の中でさえ「殺人ガス輸送車」は些細な役割しか果たしていないのだから。今日まで、正史派の歴史家によって著されたこの話題の研究論文は登場していない。雑誌や論集内で出版された単なる記事は存在し、その多くは殺人ガス輸送車には焦点を当ててさえいないが、代わりに、例示するとポーランドのヘウムノ収容所あるいはセルビアのゼムン収容所といった何らかの場所や、ドイツの特定の武装部隊、就中ロシア戦線後方にいたドイツの対パルチザンであるアインザッツグルッペンや、あるいは安楽死作戦といった、こうした車が用いられたと言われている出来事に焦点を当てている。我々は今の研究の中でそうした論文の多くに出会うことになるだろう。だがその前に、そうした殺人ガス輸送車の研究に最も近い正史の誌面1つを論じたい。そうすることでもっとずっと包括的かつ批判的な研究が大いに必要であることを認識できるだろう。

1987年にドイツの歴史家マシアス・ベーアは、翻訳すれば題名が「ユダヤ殺しの為の殺人ガス輸送車の改良」となるドイツ語の論文を出版した。その中で彼は14の文献とそれを超える証言に基づいて、国家社会主義のドイツ人どもがどのようにこの殺人兵器を改良したのかを記述しようと試みた。その論文のすぐ最初で、現存する文献全ては殺人ガス輸送車運用後期のものであることを認め、それ故その改良については殆ど説明できないと認めていた。言い直させてもらうと、彼は何かを目撃したと断言している様々な人物による音声的な主張に頼っており、そしてその主張の多くは何らかの犯罪調査あるいは裁判の間の尋問に引き出されたものだった。そうした証言に頼っていることを知っていたベーアは不安定な領域に入り、常に「その奇妙さのため、証言は」常に一部の文書と結びつける必要があり、言い換えるとそうした文書に支えられており、そしてそうした文書自体が「全体的な典拠批判の対象となる」必要がある(全て404ページ)と宣言していた。

歴史学の標準的な手法であるため、私はこれに同意する。しかしベーアはここで2つの重要な問題を見逃していた:何よりもまず、証言夫々は、文書に支えられていようといまいと、批判の対象になる必要がある。『〔この書は「事実」そのものであると主張する中世の文書〕によって支えられている、悪魔が箒に乗って魔女と性交をしたと主張している中世の証言』はベーアの批判に耐えるのかもしれないが、真実を構成していない。その文書の作成者は証人と同じく間違っているかもしれないし、嘘吐きかもしれない。次に、ベーアは完全に証拠で最重要である集合を排除している:物的な、有形の証拠を。空飛ぶ箒はどこにある? 悪魔はどこにいる? 悪魔は精液を魔女に残したのか? 等は全て問うべき大変重要な質問だ。

そうした質問は我々の文脈であればこうなるだろう:殺人ガス輸送車はどこにある? 死体はどこにある? 死体の中に毒はあるのか?

ベーアはあらゆる説明を黙している:目撃証言の精査を行わず、物的証拠を求めず、そうした自動車の構造と運用面について質問しない。そしてより悪いことに:彼は文書批判は核心であるという自身の基準に成功していない、何故かというと彼の論文には自身が引用した文書の批判的検討がないし、そうした検討をしている最低限の引用もない(正史派の歴史家の中にそうしたものは存在しないと加えても良いだろう)からだ。

そのためベーアの論文は既に本式のやり方に於いて既に完全に間違っている。しかしそれで終わりではない。諸文書の枠内で殺人ガス輸送車の改良の痕跡を追う彼の半ば決めていた結論も失敗に終わっている。マットーニョが示している(2011年a、1章)通り、殺人ガス輸送車がどのようにしてこうなったかのベーアの長い「復元」はベーア本人が認めているようにどのような文書にも基づいていない。残っているのはベーアが重く依拠している証言だ。この研究の中でその大半には出会うだろうが、出会った際にはその証言を批判的な精査の対象にしよう。その結果は衝撃的なものだ:ベッカーが使用した重要な目撃証言の大半は全く信じがたいと示される(例えば、この輸送車の改良の責任を負っていたとされる人物2人、アウグスト・ベッカーは3.7.3.3章参照、アルバート・ウィドマンは3.7.4.7.章参照)。

ピエール・マラスは彼自身の1994年の殺人ガス輸送車の研究の為に調査をしたが、ベーアの完全に批判的な態度の欠如に気付いており、その結果としてピエールはベーアに複数の質問の書かれた手紙をしたため、それにベーアは対応した。付録10でマラスのこの交換書簡を寸評付きで複製している(362ページ)。マラスによるベーアへの質問は私が考えるであろうものよりも優しいが、続くベーアのやり取り拒否は、2人のうち誰が教条的な空論家であるか、誰が批判的な自由思想家であるかを示している。

3 ベーアはこの論文へと、正史派のホロコースト著者たちの間で一般的な目立たない欺瞞を加えていた:彼は「例えば1941年12月以降、運用されていた3台の自動車で97,000個が処理されました(since December 1941, for example, 97,000 were processed with 3 deployed vehicles)」(モルシュ/ペレス/レイ著、164ページ)とラウフ宛のベッカーの手紙を引用していて、つまり「以来(since)」と小文字から始めることで、実際には正に(馬鹿馬鹿しい)開始であるというのに、このくだりはこの手紙半ばのどこかで見つかるという偽りの印象を与えていた。2.2.4.1.章参照。

見苦しくない研究者ならそのような批判的な問い合わせを自身の研究の見直しの、そして必要な修正の、動機と解釈するだろう。だがそのような胸襟を開いた試みはベーアの活動には見られない、1987年論文から僅かに要約し更新し2011年の論集内で出版された版では(モルシュ/ペレス/レイ著、154〜165ページ)、同じく浅薄な欠陥を示していた。そこでも、ベーアによる文書と証言への参照は自身が読んだものを再度無批判に繰り返す為にしか使われていなかった。加えて、このベーアの論文の新版は過去20年の間に為された典型的な批判(主に1994年のマラスと2003年のヴェッカート)のどれにも言及して――そして論じて――いなかった。そのため、大抵の正史派のホロコースト著者と同様ベッカーも自身の批判への鈍感さを、つまり彼は科学的手法を受け入れられない人物であることを証していた。3

大コケしている正史の歴史観を考慮して「殺人ガス輸送車」という論点に適切に触れているピエール・マラスによる1994年の「殺人ガス輸送車」の研究論文は実のところ非常に必要な研究だ。不幸なことにこれによって歴史学の進歩という反応は起きていない。

今の研究はマラスが既に明かしたものを考慮に入れて要約し、その論点をより広く深く進める事から始めよう。

1.物的そして法医学的な証拠 Material and Forensic Evidence

1.1.凶器の物的痕跡 Material Traces of the Weapon of Crime

殺人が犯されたと疑う十分な理由が存在する時には、その凶器や少なくとも犠牲者の痕跡の発見は、何が起きたかの調査の間重要な問題だ。法による統治下にある訴訟手続きでもそれは同様であるが、これは依存しない科学的調査においての核心でもなければならない。つまるところ、科学で最重要である教義の1つは、ある主張は実証されなければならず、さもなければ単なる駄法螺に過ぎないというものだ。より正確には:ある人物の主張の実証には「同じあるいは似た主張をしている更なる個人を連れて来る」ことを超えたものが要求される。単に証言を集めるだけの場合、つまり数を得ているだけであり、恐らく同じあるいはそっくりな主張を大量に集めてさえ、それは依然として単なる主張である。実証にはあらゆる要素の殆どが要求される:ただの証言は、堅固で、物質的で、有形の証拠に遠く及ばない。

ここで調査している件では、第二次世界大戦中に大量の人々が様々な場所で同時に殺された、ドイツ部隊が運用する「殺人ガス輸送車」という手段によって多数の土地で殺された、という主張がされている。そうした殺人の一部は、一時的にドイツ人が占領したソ連領内で対パルチザン戦の最中で起き、そうでないものは表面上は「ユダヤ教徒問題の最終的解決」と呼ばれるものの履行の文脈で起きたと言われている、「ユダヤ教徒問題の最終的解決」とは、正史派の歴史観によれば、第二次世界大戦中のドイツ勢力下にいるユダヤ教徒多数の物理的な抹消を意味する。

4 時にそれは非情だったが、第二次世界大戦の間、概して受け入れられていた戦の慣習だった――市民の殺害に通じることもあった――シーガートの2003年参照;パルチザン戦はサイドラーの1998年参照。

5 西ドイツの裁判での被告人の多くは、自分はパルチザンを殺しただけだと(あるいは殺したということを知っているだけだと)主張したが、裁判官は彼らを信じなかった;3.7.4.3.〜3.7.4.5.、3.7.4.9.、そして3.7.6.11.参照。しかし1つの事例では、被告人の主張は受け入れられ、その結果彼は無罪判決を受けた、3.7.5.5.章参照。

第二次世界中のパルチザン戦は独自の、時に非情な規則に従っていた。この文脈において、当時実効的だった国際法に従えばパルチザンを略式で殺すのは違法な活動ではなかった。4「殺人ガス輸送車」で犯したとされるパルチザン殺害を扱った西ドイツの法廷でさえ、度を越して非情というわけではない限り、どのような手段であろうとパルチザンの殺害は戦争内で合法な振る舞いと見做されたがために、被告人はそれのみに基づいて有罪宣告を受けることはなかった。5共産党の東ドイツの裁判は、正反対に、パルチザンの殺害を犯罪と見做した(3.8.1.参照)。今の研究は法の熟考についてではなく、存在する証拠の評価についてであるため、法の面はこれ以上論じないことにする。

「殺人ガス輸送車」で犯されたと言われている殺害の多くは「最終的解決」と呼ばれるものの範囲内で起きたと主張されているが、その語もその歴史的解釈も論じるつもりはない、論じてしまえば実際の論点から遥か彼方へと彷徨ってしまうし、「最終的解決」に関する正史派と歴史見直し論者の文学はその話題でいっぱいだからだ。

こうした「殺人ガス輸送車」の中で、ドイツ人はその自動車の排気ガスを殺人に使い、その有毒成分の大半は一酸化炭素(CO、時に酸化炭素とも言及される)だったと言われている。このガスはガソリンやディーゼル燃料といった炭化水素で構成されている燃料の炭化物の不完全燃焼の結果である。完全燃焼では二酸化炭素(CO2)が生成され、これはCOより遥かに毒性が低い。1.3.章でもう少しこれを丁寧に語ろう。ここでは、『主張される凶器は狭義には標準的な貨物自動車あるいは輸送車の内燃機関だった、それが何ら手を加えられることなく製造業者によって自動車に搭載されたのだ』と言われている、と言うだけで十分だ。しかし貨物自動車そのものは、実際の殺人ができるように特定の追加装備を備える改造を受けていた、と言われている。一連の貨物自動車と輸送車へのそうした変更の詳細は今している研究ではっきりさせるべき中核たる質問の1つであり、その次が使用された内燃機関と貨物自動車そのものの製造と型の判断だ。

6 付録4にある「一件書類R 58/871 f° 1」参照。

1942年以降のドイツ文書は、ディーゼル機関を誇示するオーストリアのザウラーの貨物自動車に備え付ける30個の特別な荷台の注文書を証明している。6そのような装備の自動車は、ドイツ軍の東部戦線の手前で公式にパルチザンとの戦闘の任を負っていたドイツの軍勢、所謂アインザッツグルッペンによって「殺人ガス輸送車」として特別に使用されたと主張されている。だから、反撃に遭ってそうした自動車が1台以上ソ連に鹵獲されたと考えてしまうかもしれないが、それは明確に的外れだ。実のところ、そうした殺人ガス輸送車の残骸を調査できるような場所についての情報は存在せず、それどころか殺人目的のそうした自動車の運用に確実に要求される特別な追加装備の何らかの有益な痕跡すら存在しない。しかしソ連は殺人ガス輸送車内での殺人の責任を負っていた者を何人か捕えたと言われており、そうした人物は1943年の裁判(3.2.と3.3.章参照)に出廷している。この貨物自動車を操縦していた者をいくらか捕えたがその自動車そのものはただ消え失せてしまったという事態を彼らはどのように説明しているのだろう?

マシアス・ベーアのような正史派の歴史家は、このつかみどころのない輸送車の物的痕跡の一際目を引く欠如に対し、紛い物の説明(ベーアからP・マラスへの手紙参照、365ページ)を持ってくる事で返答を控える:

「戦後に殺人ガス輸送車が見つからないとしても驚くことではないでしょう、殺人ガス輸送車は、人々の絶滅によって残ったあらゆる痕跡と同様、大急ぎで可能な限り破壊されたのですから。」

しかしこれはベーアの立ち位置を更に悪くしてしまっている、この主張も支えとなる証拠を――今度はナチスは本当にそうした痕跡を全て消し去ることができたのか、そしてどうやってそれが可能だったのかという証明を――要求しているのだから。結局のところ、証拠の欠如はその主張が正しいことを証明しはせず、ベーアがここで論じようとしていることでもそれは同様だ。どちらかと言えば、証拠の欠如はその主張への論駁である。

19ページ

7 上述した手紙の中で、ベーアは殺人ガス輸送車はポーランドは元ヘウムノ収容所近くにあるコニンの町に記念碑として実際に壊れた殺人ガス輸送車が存在していると主張している。しかしその町の当局も伴ったP・マラスの精査によって、その主張は嘘だと暴露されている;370ページ、付録10参照。

我々が将来見る通り、内側に閉じ込めた人間を窒息死させる貨物自動車の操作は些か簡単だ。その製造は難しくなく、その量産は帰納的に全く容易であることは疑いようがない。そうした試みがこれまで行われなかったことは、この話全体を更にずっと謎めいたものにしている。

『「ナチの野蛮さ」の鮮烈な例として使われている、大量ガス殺の為の追加装備を備える30台の自動車は、跡形もなく消え失せてしまいました』という主張は、その存在そのものへのはっきりとした疑いを必然的に生じさせる。新たな情報が浮上しない限り、悪名高き「殺人ガス輸送車」という形の「凶器」は今日まで生産されたことがないと結論付けざるを得ない。有形の物品は全く存在しない:貨物自動車はないし、貨物自動車の一部もないし、貨物自動車の絵も青写真もない。7存在する文書の解析の間に見るように、そうしたうわべ上のガス殺自動車の技術的研究が存在しないだけでなく、相当する技術的な図画もなくそうした輸送車がどのように製造できたのかも不可解なままである。

20ページ

8 主張されるソ連の法医学的な調査には別の例もある:殺人ガス輸送車の中で殺されたと言われている精神病の子供たち214体が暴かれたと。同じく1943年の日付をしているこの法医学的な報告書は、1972年に起訴の証拠として西ドイツの法廷に持ち込まれた(3.7.5.3.章参照)。私はこれまで、その専門的報告の写し、あるいは概要さえ入手できるようになったことがない。恐らく画像1に示されている暴かれた子供たちは、その出典からだろう。

1.2.犠牲者の物質的痕跡 Material Traces of the Victim

セルビア人もソ連人も、「殺人ガス輸送車」大量ガス殺の犠牲者がいるとされている大規模墓地を暴くことで法医学的な調査を行ってきた。

ソ連人は1943年初期、領土をドイツ人から再征服してすぐに調査を行った。発見したものの概要は、1943年に開かれた2つの裁判の概要を含む小冊子という形で戦時中に出版されており、それらの裁判では他のものに混じって「殺人輸送車」によってソ連市民の大量殺人に携わったとして被告人たちが告訴されていた。8ソ連の戦時中の見世物裁判の恐ろしい状況は3.2.章3.3.章で解析しよう。ここではソ連の調査委員会の法医学的発見にのみ触れよう、それは小冊子The People’s Verdict(1944年刊、13ページ;同様のものが32ページ)でこう引用されている:

[……]623体[の暴かれた死体]は医学の専門家たちによって検死を受けた[……]。

行われた通り一遍の医学的、化学的、そして分光法的な調査の基礎に基づいて、V・I・Prolorovsky[……]を含む専門家委員会は523体の死因は一酸化炭素毒殺によるものだと結論を下した。[……]報告の中で、専門家委員会はディーゼル機関からの排ガスが閉鎖された輸送車を通り抜けたなら一酸化炭素は疑いなく致命的な効果を持つだろうと述べた。

委員会はこう述べている:

『一酸化炭素(排ガスも含む)の出口が屋内であったのであれば、その屋内で一酸化炭素の密度は急速に増し、ほんの数分(5〜10分)でも死を引き起こすでしょう』

[……]『殺人輸送車』の中で窒息死したソ連市民の総数は7,000人になる。」

gas-van-photo1.png

画像1: ソ連の委員会が撮影した、クラスノダール付近の墓所から1943年に暴いた死体の写真。9脚注にはこう書いてある:

「クラスノダールに於けるドイツの結束主義の侵略者の残虐行為。写真は、ドイツの侵略者による一酸化炭素ガスで毒殺された子供の死体を写している。死体は法医学的な検査の為に大穴から掘り起こされたものだ。」

しかし、仮にいたとして、これらの犠牲者が誰であるか、いつ死んだのか、そして誰が殺したのかは全く不明である。

9 http://collections.yadvashem.org/photosarchive/en-us/11290.html;似ているがそこまで明瞭ではない:…/69350.html…/69926.html;ヤド・ヴァシェムはそうした写真の公文書的出典を提供していない。

10 ソ連の医学専門家の報告はモスクワにあるロシア連邦保安庁(元KGB)の中央図書館で閲覧可能である、資料H−16708(クラスノダール裁判)、1巻、第1部、32ページ;ボートマン著、2008年発表、254ページより引用。

カチン事件の一例が示す通り、ソ連の戦時専門委員会は見つけたと称するものに関して嘘と騙しで悪名高い(サンフォード著、2005年発表)。酷く腐敗した死体の中から一酸化炭素を発見するのは、1940年代で使用されていた粗雑な分光器による手法に遥かに優る現代の一新された法医学的手法でさえ不可能であるという事実からして、この「専門家の報告」についても極めて疑わしいものがある。2010年にやっとガスの色層分析に基づいた手法が確立して、腐敗の激しい体組織と血液の試料から信頼できる一酸化炭素の水準が検出できるようになった(ワルヒ著、2010年発表、23ページ)。そのため、初めから適していない手法を使用して、もし1年を超えていないとしたら何か月も墓の中で腐っていた死体の中にある一酸化炭素毒をソ連の専門家たちが証明する可能性がどのようにありうるのだろうか? 死体がどの程度腐敗していたかはそうした報告の1つに加えられた写真から窺い知れる、画像1参照。10

この委員会がほぼ確実にその主張について専門的でない事を示す別の標識は、彼らは「ディーゼル機関」の排気ガスが荷台に注がれ、「その屋内で一酸化炭素の密度は急速に増し、ほんの数分(5〜10分)でも死を引き起こすでしょう」と述べたという事実のためだ。次の章で示すように、ディーゼル排気ガスでそれは単純に不可能だ。

ソ連に加え、ユーゴスラヴィアにいる忠実なる共産主義者の同胞らも、セルビア解放後に戦争犯罪委員会に2つの集団墓地を暴かせる事によって調査を行った。彼らは1945年3月にその結果を発表した。正史派の歴史家バイフォードはこれについて書いている(2010年発表、25ページ):

「実のところ、[委員会の]証拠への取り組みは主に政治的関心によって決定されていました。[……]例えば、1944/1945年の冬、戦争犯罪委員会は信頼できる証拠に基づいて行動し、ゼムン[11] Anhaltelagerの犠牲者が埋葬されたと言われる土地2つでおおよそ11,000の死体を暴きました。にもかかわらず1年後に出版されたその報告書は、死者の合計は40,000人もいたと述べています。この人数は比較的少人数の目撃者と元囚人によって提供された様々な検証不可能の見積を加えられて出されたもので、彼らの証言は調査の過程で集められました。同様に、バニツァの事例では、戦後に発見された日誌が囚人の合計数を23,637人と、そのうち4,286人が処刑されたと示唆しているのに、戦争犯罪委員会はどちらの人数も少なすぎると却下して実際の死者数を80,000と多く数えていました。」

11 セルビアでの名称:Sajmište。

ここでも宣伝戦と政治的目的が取り返しのつかないほど記録を腐敗させている問題に突き当たる。委員会が本当に11,000の死体を見つけた――我々にこの人数は誇張されていないとまさか保証してくれる者はいるのか?――がその数11,000について嘘を吐いている場合、どのようにすれば我々はこの報告の中で見られる何かを信じられるのだ?

1942年前半、ゼムンAnhaltelagerは抑留されていたほぼ全員がユダヤ教徒だったためユーデンラーガー(ユダヤ用収容所)と呼ばれたが、それも1942年の春に殺人ガス輸送車で殺されたとされるまでだった。殺人ガス輸送車で殺されたユダヤ教徒の数は7,000〜7,500人ほどだったと思われている(バイフォード著、2010年発表、6ページ;マノシェク著、1998年発表、229ページから;ブラウニング著、1983年発表、61ページから)。1942年5月までにこの収容所からユダヤ教徒全ては出所し、この収容所は機能を変えAnhaltelagerへと名称を変更した。バイフォードはこの収容所のその時期についてこう著している(同著):

[……]ゼムンは政治犯の囚人、パルチザン、そして強制労働者用の一時的拘禁収容所Anhaltelagerとなり、収容される者の多くは続いてドイツとノルウェイの様々な労働収容所に輸送されました。1942年5月から1944年7月の間、32,000人の囚人(主にセルビア人)がこの収容所を通過し、その10,600人が飢餓か、雨風に晒されるか病気に罹ることで殺されました。」

そのためユーゴスラヴィア人の調査委員会によって見つかったとされる11,000の犠牲者は、大半が収容所の後期の段階、ユダヤ教徒が中にもういなかった時期のものであるように見える。だから殺人ガス輸送車で死んだ人物は1人でもいるという法医学的な証拠はないようだ。もし殺人ガス輸送車で死んだなら、飢餓か、雨風に晒されるか病気に罹ることで殺された10,600人の死体はどこにあるのだ?

クリストファー・ブラウニングはその質問に以下のように答えている(1983年、85ページ):

「1943年11月、ロシアでアインザッツグルッペンによって残された大規模墓地から死体を掘り出して焼く任を負っていたポール・ブローベルのコマンドー1005がユーゴスラヴィアに到着し、取り分けアヴァラ近くの大規模墓地[ガス殺された死体が埋葬されたと言われている場所]を浄化しました。」

その話は前にも聞いた事がある:邪悪なドイツ人は7,000以上の犠牲者の遺体全てとそれに伴う元大規模墓地の痕跡を跡形もなく消え失せさせました、と。言わせてもらうが、それは不可能な御業ではないか? だがもし私が間違っているなら、何故同じ奇跡を再び収容所後期の段階の11,000の犠牲者にも起こさなかったのか不思議でならない。

1.3.法医学的かつ技術的検討 Forensic and Technical Considerations

1.3.1.ディーゼル排気ガスの毒性 The Toxicity of Diesel Exhaust Gas

12 www.flambino.ch/truck/uebersaurer/geschichte_saurer/geschichte_saurer.htm参照。

13 www.saureroldtimer.ch/5000geschichte/5200chronosaurer/index.html

14 http://de.wikipedia.org/wiki/Adolph_Saurer_AGhttp://en.wikipedia.org/wiki/Diesel_engine参照;ウィプフ/ケーニヒ/クノップフリ2003年引照。

この研究の間に我々は、「殺人ガス輸送車」での大量殺人とされるものは自動車(ザウラー)が使用したディーゼル機関の排気ガスであり、あからさまにあるいはこっそりと行われた、という主張に何度も何度も遭遇することになる。1930年半ばまでにディーゼル機関は欧州の大変実利的な自動車市場の中でガソリン機関にほぼ完全に取って代わっていた12と知る事は重要だ。これはスイス=オーストラリアのトラック製造会社ザウラーでは特に真実であり、その貨物自動車にはディーゼル機関しか備えさせていなかった13――実のところ、ザウラーはそこ何十年もの間ディーゼル機関の先駆者だった。14これは重要な観測だ、戦時中の文書から我々は、ザウラーは殺人ガス輸送車として使われていたとされる自動車、就中マシアス・ベーアが「完全化された」「第二世代の」殺人ガス輸送車と呼んでいるもの(ベーア著、2011年発表、159ページ)のほぼ全てだったと言われている、30台注文された殺人ガス輸送車の足回り部分と内燃機関の注文を受けていたと知る事になるからだ。

ディーゼル機関の排気で主張される時間内に殺害を犯せるかは法医学的な質問だ。U.S.の技師フレドリック・P・ベルグはこれについて徹底的な調査をしており、最初に1984年にそれを出版し、最新の復刻版にして拡張版は2003年である(ルドルフ著、2003年、435〜469ページ)。ベルグはまた、一酸化炭素と他のディーゼル機関の排気ガスの成分の毒の効果について詳細に書き上げている。くどくなるし余りに脱線してしまうので、ここでそれを繰り返しはしない。関心を持つ読者はベルグの論文あるいは図書館から直接毒物学の手引書を当たってみると良いだろう。

15 排気ガスに含まれるCOは酸欠によって生じた不完全燃焼物質である事は留意しなければならない。

ガソリン機関は僅少の酸素に影響を及ぼしそのため有毒な一酸化炭素をかなり多量に発生させるが、ディーゼル機関は常に大量の酸素に影響を及ぼし、その結果としてその排気ガスに含まれる、内燃機関排気ガス内の致命的な成分である一酸化炭素は皆無である。15ディーゼル排気ガス内の一酸化炭素の量を増やすのは不可能ではないが、かなり難しい。ディーゼル機関が暖機運転をしているあるいは些細な負荷しかかかっていない場合、ここで関心を持たれている時間内(最大で半時間)に平均的な健康状態の人間を著しく危険にする成分の排気ガスを発生させることさえ不可能だと考えられる。

これとは対照的にガソリン機関の排気ガスはこれより劇的に多い一酸化炭素成分を有し、気化器の遊転用混合気調整螺子を閉じるなど、遥かに容易に様々な形でそれを倍加させられる、この理由のためガソリン機関は「殺人ガス輸送車」の製造に於いて自明の選択である(動かない「ガス殺室」の一酸化炭素生成機としても同様)。

16 四工程ガソリン機関は1860年10月26日にドイツの時計職人クリスティアン・リースマンによって初めて特許が取られた(http://de.wikipedia.org/wiki/Christian_Reithmann);内燃機関製造の技術監督としてゴットリープ・ダイムラー(後のダイムラー=ベンツ)とヴィルヘルム・マイバッハを雇用した、ケルンにあるドゥーツ内燃機関工場のニコラウス・オットーによって造られた最初の車の内燃機関であるため、今日これらの内燃機関はよくオットー・エンジンと呼ばれている;ディーゼル機関は1893年にドイツの技師ルドルフ・ディーゼルが特許を取っている(http://en.wikipedia.org/wiki/Diesel_engine

ドイツ人はディーゼル機関とガソリン機関の間の排気の違いについて知っていたのだろうか? どちらの内燃機関もドイツで発明され、16記録はドイツの技師と科学者は第二次世界大戦よりずっと前からその違いを熟知していたことを示している。ディーゼル機関の排気ガスは比較的無害であり、ドイツの炭鉱でのディーゼル機関の早期の使用を正確に文書で証明したのもベルグだ(ルドルフ、2003年発表、452ページから)。マットーニョとグラーフは、ドイツの科学者たちが様々なガソリン機関の排気ガスの成分構成解析を徹底的に行っていた事を次々と提示しており、例えば1930年に出版された本はガソリン機関の排気ガスの毒物学に尽くしていた(マットーニョ/グラーフ著、2005年発表、123〜125ページ;キーザー/フレベーゼ/トゥルノフ著、1930年発表引照)。

1994年ベルグは英国の科学者たちが行った法医学的な研究に注目した、その科学者たちはディーゼル機関の排気ガスで兎とモルモットをガス殺する試験を実施していた。彼らはその内燃機関の限界に到達させてから3時間以上曝させてやっと動物たち全員を殺す事に「成功」していた(パトル著、1957年発表)。その環境の中で、ディーゼル排気ガスは考慮すべき少量の一酸化炭素を齎す以外の要素を有している事は強調する価値がある。特に、古い内燃機関は大量の煙を発し(特別な問題だ;ベルグ、ルドルフ著2003年発表内、451ページから参照)、これは煤煙を含むだけでなく大変刺激的な臭う化学物質を含んでいる。そしてあらゆる排気ガスと同様、ディーゼル排気ガスは排気管を通っている間熱い:大体摂氏100度(華氏200度)を超える。ディーゼル排気ガスの毒効果は最悪の場合でも穏やかなものであり、刺激する化学物質、煙、熱、有毒ガスと酸素欠乏の複合的な効果がガスが、充満した密閉された空間に閉じ込められた人々の多くを長い時間の後に殺すことだろう。しかし上記の実験が示している通り、それには何時間もの恐ろしい窒息を要する。

これは、ディーゼル機関での大量ガス殺の試みは一番良く言っても大失敗だ。

フレドリック・ポール・ベルグは、WWIIの間の石油の欠乏に苦しんでいたドイツは戦時中トラック隊ほぼ全てにガス発生装置と呼ばれるものを装着させていた事を考慮すれば、大量殺人の為のディーゼル機関の排気ガスの使用は馬鹿げているだけでなく、何であれ排気ガスの使用が馬鹿げている、と指摘した。この技術に関する現存する文書は主にあの時代に基づいているため、戦時中の文書を論じる2.4.章でこれについて更に熟考しよう。

驚くべきことに、迅速で有効的な大量殺人の為のディーゼル機関の全体的な不適切さのこの発見は、最近ホロコースト正史派の論文集によって確証され、そこでは毒物学者アヒム・トルンクが「The lethal gases」と題する論文にこう書いている(モルシュ/ペレス/レイ著、2011年発表、35ページから):

「動物実験から、ディーゼル機関での人間殺しは――多数を同時にでさえ――原理としては可能です。しかし最長でも20分以内に殺せる程高濃度の有毒な排気ガスを発生させるには、ガス殺人設備としてのディーゼル機関には酷く負荷をかけなければならず、即ち、減速させなければなりません。そのような減速させる動力消費の激しい装置(動力計のような)は、破壊された自動車の残骸からの大型の内燃機関よりもずっと複雑で得るのにお金がかかります。ガス殺設備の内側にある強力なディーゼルを減速させることはそれ以上に、内燃機関に大変大きな騒音を生じさせ、振動を遥かに強くしてしまうことを意味します。その排気ガスは大量の煤煙を含んでいる事でしょう。そうした要素が観察されているか(あるいは動力消費装置が存在する手掛かりがあるか)は最早毒物学への質問ではなく、出典及びその批判への質問となるものです。この著者の知識によれば、そうした示唆の手掛かりは存在しません。

よりありそうな別の説明は、その説明に従えば凶器は全てガソリン機関だったというものです。[……]信頼できる出典から、このガソリン機関は実のところ「ラインハルト作戦」の絶滅収容所に配備されていました。例えばベウジェツ絶滅収容所のほんの一握りの生存者の1人ルドルフ・レーダーは、ガス殺室の隣にある小部屋にあるガソリンが満たされた内燃機関を話していました。毎日80から100リットルのガソリンが消費されたと言われています。ベウジェツから得た経験を適用できたそれより後の絶滅収容所ソビボルは 殺人装置はガソリン機関だったという正に加害者による証言が存在しています;[……]「ラインハルト作戦」の絶滅収容所で最後に建てられた(そして最大の)トレブリンカの事例では、科学はこれまでディーゼル機関が使用されたと想定しています。殺人制度の観点からはこれは何故だという疑問を生じさせます、成功している手法が、異なる、技術的に遥かに困難なものに変えられているということになっているからです。」

17 これに関してはローキによる1985年発表の医学の学術論文、第2巻参照、加えて:ローキ著、1986年発表、シェラン著、1989年発表。

この文脈において、レーダーはベウジェツに関する自身の証言の中でその内燃機関の排気ガスは犠牲者の殺人に使われたのではないと、はっきりとかつ様々な形で述べていることには注目する価値がある。ベウジェツにおける排気ガスによる大量殺人とされるものの正史派の歴史学の中で他の花形の証人である鉱山技師クルト・ゲルシュタインはディーゼル機関が毒ガスを提供したと繰り返し話している。17鉱山技師である彼は確実にディーゼル機関とガソリン機関を区別できた。しかし、トルンクが私たちに信じて欲しがった事とは対照的に、レーダーもゲルシュタインも信頼できる証人ではない、どちらの証言も不条理と不可能さで穴だらけだからだ(詳細はマットーニョ著、2004年a発表参照)。ちなみに固定されているガソリン機関を運転するのは全く簡単ではない、それらは――ディーゼル機関とは対照的に――すぐに熱を持ちすぎてしまう傾向があるからだ。それらは操作しづけるのに特別な冷却装置を要求する。

上記で引用したトルンクの、不完全な手法への時代錯誤な反転に関する最後の文は確実に妥当だ。これは殺人ガス輸送車の問題にも適用できる。『製造会社』も、『型』も、『通常は漠然とした内燃機関の種類、その一部はガソリン機関であったかもしれない装備』も、ごちゃごちゃな混成であった殺人ガス輸送車の第一世代は、より精巧な輸送車の「第二世代」――ディーゼル機関――に取って代わられたと言われている。この事実は以下のように誤って、あるいは騙す意図を以て書いているトルンクによって糊塗されている(モルシュ/ペレス/レイ著、2011年発表、37ページ):

「殺人ガス輸送車での殺害に関する報告は、致命ガスの発生源としてはっきりとガソリン機関を提示しています。」

トルンクは以下のように書く時確実に隠し事をしていた(同書、37ページ):

「ディーゼル機関で大量殺人を犯すのは原則として不可能だ、という歴史見直し論者の主張は間違っています。」

フリッツ・ベルグの1984年のディーゼル機関に関する論文を引用し、そのためベルグの作品について知っていた(彼の注釈27、33ページ)トルンクは、ベルグの様々な論文から出典と議論の多くに慣れていたが、ベルグの主張はディーゼル機関での大量殺人は不可能だというのではなく、それは極めて厄介で馬鹿げており、利用可能な代替品を考えるとそれは著しい――ちょうどトルンクが結論付けている通りに――というものだと認識することに彼は失敗している。

1.3.2.完全密閉のガス殺区画 Hermetically Sealed Gassing Boxes

続く章で「殺人ガス輸送車」に関する適切な文書と目撃証言を研究する時、犠牲者を殺すのに使われたガス殺荷台は完全密閉されていたという主張に頻繁に遭遇することになるだろう、そのためその内側に注入される排気ガスには出口がなく、荷台の内側に蓄積される事になる。それについては法医学的かつ技術的な問題を論じている間に熟考しよう。

この主張によって生じる問題は以下の通り:

1.完全密閉されたガス殺荷台とされるものの内側のガス圧力はどれだけ早く上昇するか?

2.ガス殺荷台内と内燃機関内の圧力のこの着実な上昇の効果は?

問題2は基本的に2つの回答が有り得る:

2.a)内圧に耐えられなくなってガス殺荷台が破裂するか、

2.b)排気ガスを加圧されたガス殺荷台へともう送り込めなくなり、内燃機関が停止する。

どちらになるかはガス殺荷台の安定性と、要求される排気ガス背圧である、内圧を克服する内燃機関の容量に依存する。次でその両方を調査しよう。

18 http://www.aa1car.com/library/exhaust_backpressure.htm.

過給機と三元触媒の登場によって、排気ガスの背圧は燃焼機関において重要な要素となった。そのためそれに関する情報蓄積は過剰にあるが、そのうちどれも内燃機関が停止するのに迫る背圧まで至っていない。通常の操縦状況に於いて、高い回転毎分(rpm)で運転している内燃機関は停止の兆候なく極限でも最大1気圧まで背圧を発生できる。18そのため内燃機関を停止させるのに要求させる排気の背圧は相当高いだろうが、勿論その内燃機関の圧力よりは著しく低いだろう。実際の値は主に内燃機関の圧力に依存し、その圧力は今日よりも1940年代の間の内燃機関の方が幾分低いだろうが、ディーゼル機関は自発点火する箇所へと燃料/空気の混合物の圧縮をしなければならないため、ディーゼル機関は常にガソリン機関よりも高い圧力である。だからガソリン機関よりもディーゼル機関の方が停止は遅いだろう。

運転している内燃機関の排気管が完全密閉している貨物箱に接続されている場合、完全密閉している貨物箱のガス圧力は内燃機関が停止するか貨物箱が内圧によって割れるか破裂するまで高まり続けるだろう。貨物箱が高まり続ける圧力に耐える場合、内燃機関は排気ガスの背圧がその内燃機関の閾値に達するや否や停止するだろう。

この議論の為に、戦時中のディーゼル機関は2気圧(約2バール)までの排気背圧で操作できたと仮定しよう。これからそうした内燃機関によって発生したガスの量を計算する。

19 最初は殺人ガス輸送車として使われていたのではないかと疑われた戦後に発見された輸送車の1台は7.4リットルのディーゼル機関を備えていた;http://dss.ucsd.edu/~lzamosc/chelm00.htm参照。しかしこの議論の為にその大きさを小さくしている。

これを超える蓄積情報を欠いているため、中型貨物自動車の5リットル19量の内燃機関と暖機運転より僅かばかり上の内燃機関速度を想定しよう――つまり1分間に1,000回転だ。四工程機関は排気ガスを毎秒の回転の後にのみ排気ガスを吐き出すため、1分間に5リットルの排気ガスが500回発生し、それは2.5m3の排気ガスに等しい。排気ガスは気筒にある間僅かに圧縮されているというのは事実だが、その後著しく冷却し、そのため縮小する。我々の雑な計算の誤りの誤差の中に、お互いを埋め合わせる効果があると考えられるかもしれないため、ここではそれを無視する。

20 ザウラー社の貨物自動車用に製造された貨物区画は長さ5.8m、高さ1.7(この文書の306ページ参照)であり恐らく幅は2.3mほど(この文書には幅への言及がないが、貨物自動車の幅は通常2.30mから2.50mの間だ。今日の標準的な収納容器は幅2.44mだ)。これは22.7m3程に達し、そこから犠牲者たちの死体の容積を控除しなくてはならない。おおよそ50から130人の犠牲者が主張されており(4.2.4.章参照)、平均的な体重を60kg=(60リットル)とすると空間を占めるのは3から8m3程になる。そのため15から20m3程だと計算している。

21 これはザウラー社の貨物自動車において有効だ。ダイアモンド社/ルノー社/オペル社/メルセデス社/……からの他に主張される貨物自動車の貨物区画の型の容積は不明だが、「小さな輸送車」と頻繁に言及されているため、それよりかなり小さいに違いない。これは、勿論、表面の平方メートル毎に働く圧力には影響を与えない。

使用されたとされる直方体の貨物区画は15〜20m3ほどの容積だったと言われている。20これは、そうした貨物区画内の圧力は6〜8分以内に倍になることを意味する。ディーゼル機関は高い圧縮水準で運動するため、そうした過剰な圧力が内燃機関を停止させるとは考えにくいが、貨物区画の壁に作用するこの圧力は圧倒的だ:1気圧(≒1バール)の過剰圧力は定義上1平方センチメートルにつき1キログラムの荷重と、即ち1平方メートルにつき10トン同じ効果を持つ。直方体の貨物区画の長い壁は厳密には長さ5.8メートル、高さ1.7メートルであるため21、表面を約10平方メートルとする場合、過剰圧力1気圧ぶんは100英トンの過重に等しくなる! 貨物区画にはそのような力に耐える術はない。その量の10分の1で――そしてその時間の10分の1(1分未満)で――もう、本当に完全密閉されていたのだとしたら貨物区画は破裂するか爆発さえしてしまうだろう。

この理由によって、あらゆる種類の圧力に耐えられるよう設計された貨物自動車の貨物箱は、凸面のあるいは半球形の基礎をした円筒の形をしており、それは貯水車や、円形は圧力によって働いている力を構造物全体に等しく分散させるという理由によって圧力をかけられた液体やガスを蓄えた貨物容器を概して備えている車から理解できる。

そのため、内燃機関の排気ガスを流し込んだと言われている殺人ガス輸送車は完全密閉された貨物区画を備えていたというのは不可能である。その貨物区画は車体のどこかに過剰圧力逃し弁あるいは開口部を備えていなければならない。ガス殺区画には機能する為に完全密閉が必要だったが、同時に「97,000」人が「処理された」のに「車に傷ができたとは明らかにならなかった」という事実とされるものを主張している、所謂ジュスト文書(2.2.4.章)を議論する時、これはとても重要な点になる。これは技術的に見て明確に単純に不可能だ。

2.文書 Documents

2.1.写真 Photographs

信頼できる情報が欠けているがために、ある人が《殺人ガス輸送車もそれの特徴的な部品も戦後を生き延びられなかったのだろう》と想定する場合、次に訊かれるべき質問はそうした輸送車が使用されたとされている期間の写真は存在するかどうかだろう。実のところ、「殺人ガス輸送車」として使われていたと主張される輸送車の写真は数枚存在している。

そうした写真の中で最も知られているのはゲラルド・フレミングによってこう脚注が付けられ複製された写真(1984年、92ページの後)だろう:

「クルムホーフ(ヘウムノ)絶滅収容所及びコニッツ近郊でユダヤ教徒の浄化に使用された殺人ガス輸送車。」

クリストファー・ブラウニングはこれと、これに似た自動車の写真を同じような脚注を付けて複製した(1985年):

「殺人ガス輸送車(写真2枚)、解放後のポーランドの写真家による撮影――ヤド・ヴァシェム所蔵。」

22 有線のhttp://collections.yadvashem.org/photosarchive/en-us/search.html上を捜索する事。

こうした写真(全部で4枚)の大元はポーランドのドイツ犯罪調査委員会によって撮られたもので、現在はワルシャワにあるその委員会の所蔵庫にある(47396〜47399葉目)。これらの写真の大元の写しはアウシュヴィッツ公式博物館及びイェルサレムにあるヤド・ヴァシェム研究所の所蔵庫にあり、そこから誰でも容易にその写しを入手できる。221988年、ヤド・ヴァシェムは歴史見直し研究者への手紙の中で、当時フレミングとブラウニングによって出版された写真が唯一殺人ガス輸送車を写したものであると述べ、機会があったならそうした更なる写真を送ってくれと頼んでおり、そこから1988年当時ヤド・ヴァシェムは他の写真を持っていなかったと推測できる(付録10参照)。これらの写真は付録1で複製されている(275ページから)。そこで我々が見るのは何だろうか?

23 貨物自動車製造会社のマギルス及び内燃機関製造会社のフンボルト=ドゥーツの合同会社として1936年に結成され1938年に製鉄会社クレックナー=ウェルケAG社も加わった、ドイツのウルムにあるクレックナー=フンボルト=ドゥーツAG社は自身の意匠文字を1939年終盤までしか自社の貨物自動車に使っていなかったため、写真に写っている貨物自動車はその時より確実に古い。1940年初頭に「クレックナー=ドゥーツ」という言葉付きの環が意匠文字として使用された;http://de.wikipedia.org/wiki/Magirus-Deutz参照。

最初の写真(図画12)は正面やや左側から撮影された貨物自動車を写しているため、左側が見れる。3人の男がその貨物自動車を見ている。図画13の写真は、その貨物自動車は背面の両開きの扉で閉じられた貨物区画を有しており、その左扉は1枚目の写真では大きく開かれているものである事を示している。その貨物区画は、運転室である事が引っ越し用貨物自動車では一般的なところまで侵食している。その冷却器はドイツの製造会社の意匠文字を誇示している:マギルス社の。23この2枚目の画像から分かるように、この貨物自動車の車輪は紛失しており、車体番号の板は見えない。背面から撮られた写真は、その荷台区画は多くの垂直の木板でできている事を示している(図画15、277ページ)。貨物自動車の貨物区画の内装から撮られた写真は、ぼやけてはいるが、木板は示されていないため、つまり明らかに単一の板金で裏打ちされている。この写真はまた、目的不明の推定木枠を幾らか示してもいる(図画16、277ページ参照)。後に見ることになるように、そのような木枠は証人から全く言及されていない。

ゲラルド・フレミングとクリストファー・ブラウニング両名は、これは殺人「ガス車」であると主張したが、偏見を持たない観察者は容易にこの自動車にはその主張を支えるものを見て取ることが出来ないと認識できる。とは言え、ブラウニングやフレミングのような正史派たちは、何故これを殺人目的のガス車の描写だと提示したのだろう? 彼らはこのごくありふれた、明らかに退役した自動車の――恐らくは他に数千枚は見つかるであろう内の1枚に――写真に注釈を加える前に、自らの出典を調査し検査したのだろうか?

24 1つ変則的な例外がある:西ドイツ法廷の1974年の評決は、USSRで造られたフォード社の貨物自動車が1944年の晩夏にその場しのぎのやり方で殺人ガス輸送車へと換装されたと主張している、3.7.5.5.章参照。

25 ここで論じている写真に示されているこの貨物自動車を殺人ガス輸送車だと誤って識別したポーランド人の証人が2人いる:B・ファルボルスキ(3.6.2.3.章)とS・スレブルニク(3.6.3.1.章)だ。

別の詳述は注意深い読者の目を引く:「殺人ガス輸送車」を主張している文学中で引用されるあらゆる証言は、様々な法廷の記録簿にある証言と同様に、「殺人ガス輸送車」は独占的にザウエル社、ダイアモンド社、オペル社、ルノー社、そしてダイムラー・ベンツ社で構成される5社に属していたのだ。(4.2.2.章参照);24マギルスは一度も言及されていない。25後に詳しく論じる2つの重要文書も同様に単に、ザウエル社とダイアモンド社に造られた「殺人ガス輸送車」に言及している。

フレミングの写真の起源は1995年、当時ワシントンDCにある合州国ホロコースト記念博物館のポーランド企画の監督者であったイェジー・ハルバーシュタッドが以下の文章をホロコースト部門に投稿した時に明かされたのみである:26

26 http://dss.ucsd.edu/~lzamosc/chelm00.htm;1995年10月11日のサン・ディエゴにあるカリフォルニア大学のレオン・ザモシチによる問い合わせへの応答:議題:ヘウムノの殺人ガス輸送車;www.deathcamps.org/gas_chambers/gas_chambers_vans.htmlで図画による補強がされている;1996年以降、ハルバーシュタッドはポーランドのユダヤ教徒の歴史博物館の館長をしている。

「委員会は、コウォの町(ヘウムノから約12km離れている)のオストロフスキー社の元工場のあるところには自動車があり、その車は目撃者によればヘウムノの死の施設で使われていたものだ、という情報を受け取りました。その自動車は見つかり、写真が撮られ調査されました。

撮られた写真は以降ワルシャワにある委員会本部の所蔵庫で閲覧可能になっています(47398、47396、47397、47399葉目;最良の1枚は47398葉目)。これらの写真の脚注は今日もあります:『ヘウムノで排煙によって人々を殺していた車』。これらの写真の1枚はフレミングの著書『Hitler and the Final Solution』で複製され、これはヘウムノで使用された「ガス殺車」の写真だという情報が付与されました。

その脚注にもかかわらず、それらの写真はヘウムノ死の収容所で使用された殺人ガス輸送車を提示してはいません。委員会本部の同じ所蔵庫に入っていたポーランド人目撃者の証言からそれは明らかです(所蔵品『Ob』、資料271他)。コウォで撮影されたその輸送車を見せられた証人は、これは人々を殺すのにヘウムノで使用されたものの1台ですとは確証しませんでした。その一部は、彼ら自身の証言内での描写と写真の車は似ているけれど同じではないと言うのみでした。一番一般的な答えはこうでした:『私はこれを見てはいません』。

オストロフスキー社の工場にあるその輸送車は1945年11月13日に裁判官J・ブロノフスキーによって精査されましたが、輸送車の閉鎖系のガス殺機構の要素の存在は確証されませんでした。証人たちはこの輸送車を『家具運搬車』(家具を運搬する為の輸送車)と呼んでいました。この車は『マギルス=ウェルケ社』によって製造され、『ドゥーツ社』のディーゼル種の内燃機関を有していました。その銘板にはこう書かれていました:《フンボルト=ドゥーツA.G社『マギルス=ウェルケ社』Ulm (Donau) Baujahr 1939 Lieferdat 739 Abn-Stempel. Fahrgestell Nr. 9282/38 Nutzlast kg 2700 Fah[r]gestell-Baumuster 023. Ei[ge]ngewicht 4980 kg. Motor Baumuster FoM 513 zul. Gesamtgew. 7900 Leistung P.S. 105 cm3 7412. Zulaessige Achsendruecke vorn kg 2400 hinten 5500.》この車の木製の車体の厚さは7cmで、扉は8cmでした。壁、扉、天井そして床は内側が厚さ2mmの鉄板で覆われていました。この車は鉛色に塗られていました。運転手台の扉のその塗装の下にはこう銘刻されているのが見えました:『Otto Koehn Spedition[27] Ruf 516 Zeulen.....da i.TH』。

私はそうした詳細全てを引き合いに出す事で、この輸送車の物語に対し可能な論評を更に行いましょう。この物語には不明瞭な点がいくつかあると感じます。この輸送車を使用した目的が何かは誰も説明していません。その扉は浸み込んだ帆で補強されていました。何の為でしょう? 一部の目撃者はこの車をヘウムノの森林地帯で1942年の春からこの車を見始めています。この車はクルムホーフの親衛隊(SS)ゾンダーコマンドのものだったというのも有り得る話です。この輸送車は犠牲者の衣服の害虫駆除の為に使われていたという説も有り得ると思いますが、その根拠はありません。

1945年に検察官たちはこの輸送車はヘウムノの殺人ガス輸送車ではないと結論を付けました。この輸送車は不完全なままであり、少なくとも1950年までオストロフスキー社の工場の中で役に立たないままでした。1950年4月に出された、最後の既知の文書(コウォの『ZBoWiD』戦闘部隊と委員会本部との間の往復書簡)は、アウシュヴィッツあるいはマイダネク内の博物館へとこの輸送車を移動させようという考えがあると伝えるものでした(1990年までヘウムノの森には博物館がありませんでした;最初の碑がそこに立てられたのは1964年です)。そうした計画は実行されず、恐らくあの輸送車は解体処分されました。

つまり、ヘウムノで使用された殺人ガス輸送車の信頼できる画像は存在しません。」

27 Möbelspeditionはドイツ語で運送会社を意味する語だ。

この意見は自明の理だ。衣服の害虫駆除あるいは害虫駆除の話題には2.3.章で触れよう。

今日、ヘウムノ博物館は上記で論じられている写真の1枚を掲示しており、こう真実の脚注を添えている:「戦後コウォのオストロフスキー社の工場の敷地で発見された輸送車」。殺人ガス輸送車との関連性は明確にされていないが、これが示している単なる事実は、訪問者に間違いなくこれはそのような自動車に違いないと思わせるだろう。この陰険な姦計はこの種の博物館で典型的なやり口だ。

28 www.deathcamps.org/gas_chambers/gas_chambers_vans.html

29 例えばhttp://strangevehicles.greyfalcon.us/NAZI%20GAS%20VANS.htm

インターネットの出現により、殺人ガス輸送車とされるものの「フォトショップされた」画像は多くのウェブサイトで見つけられる。ウェブサイトwww.deathcamps.orgは複数の画像を作成(!)しており、独自の解説も併記してハルバーシュタッドの上記で言及した文章の再掲載を引き立てるのに使用している。28ポーランド委員会が撮影したその引っ越し用貨物自動車の画像1枚には「コウォのオストロフスキー社の工場で見つかった殺人ガス輸送車」と、明確に誤った名札が貼られている。それらの、より大きく「作成された」画像群に貼られた脚注は、それらは単に写真に「基づいている」か、「創造」さえされている、と述べている。このページの末尾の注記には明確に「これらの、ダイアモンド社の車の、オペル社の車の、ザウエル社の車の、そしてガス運搬車の写真は、出典そのままではありません。それらは単に有り得そうな外見を示しているだけで、」と書いてはいるが、他のウェブサイトは単純にそれらの画像を、それらは写真ではなく芸術作品であると説明する事もなく複製している。29そうした「芸術作品」の一部を付録1で複製している。

殺人ガス輸送車とされるものの別の写真はドイツの報道雑誌「Der Spiegel」の複数の記事(1963年、1966年、1967年a)で、主張されるそうした自動車での大量殺人に参加したと告訴される被告人に関する記事の挿絵として登場している。この絵も付録1で複製している。この写真は、自動車は背面に大きな十字架――疑う余地なく救急車の赤十字――を帯びている事を示しており、その隣に立っている人間と比較すればその巨大さが分かる。この詳細さを欠いたこの写真にも、付与されたこの注釈を正当化する要素は全くない:「移動式ガス殺室」(1963年)、「親衛隊(SS)殺人ガス輸送車:『人々は叫び声を上げなかった』」(1966年)、「NS殺人ガス輸送車、『1m2あたりに9から10人』」(1967年a)。後で、当時の文書を論じる時に、我々は「1m2に9から10人」という驚くべき言葉を認識するだろう。Der Spiegel誌はこの写真の来歴について何ら情報を提供していない。この信憑性皆無の写真群の中で、恐らく何らかの悪意のない、明かしていない出典から引いてきたため、好奇心旺盛な読者はこの欺瞞を認識できない。この最後の画像の属している記事の最初の段落には以下のように書かれている:

「煙を放っている排気管を備えている2台の箱型輸送車が、ベルリンの刑事警察局(RKPA)の中庭周辺を漂浪していました。[30]しかし空気は綺麗なままでした:この車の排気ガスは管を通ってこの輸送車の内側に流されていたからです。」

30 大国警察犯罪調査部。

読者は困惑する:どのようにすれば排気管は煙を放つと同時に空気を綺麗なままにしておけるのだ? だがまだマシだ:ベルリンの比較的小さな規模の町の区画を想定してみるとして:利用可能な毒ガスの出処をほんの1つ挙げればベルリンは本通りから来る命取りの都市ガスでいっぱいであるというのに、どこの狂人が排ガスを出す為だけにそのような限定的な範囲でぐるぐると輸送車を走らせるというのだ?

最後に読者の注意を1983年5月24日にフランスのTVチャンネル「アンテンヌ2」でクルト・ゲルシュタインへと捧げられた記録映像作品内でアラン・ドゥコーによって提示された1枚の合成写真に引こうと思う、これはピエール・マラスが最初に粗雑な偽造だと暴露したものだ。その中で2台の輸送車の一部を見れ、1台は単純な貨物自動車に見えるものの後部のごく一部であり、もう1台は車の後ろ半分で、そこからゴム管が背景にある壁へと放出している。この合成写真は明らかに組み合わされた工程――輸送車の内燃機関が一酸化炭素を静止した部屋へと吹き込み、その中で犠牲者が出られないでいる――を仄めかそうとしているが、この絵は殺人ガス輸送車の特別な装備が何も判別できるようになっていない。この合成写真は1961年という早期にゲルシュタイン「自供」の信憑性を増す為に使用されたペテンである。これも付録1に再提示する。

全てを考慮したが、「殺人ガス輸送車」の写真の証拠は存在しない。そうした写真が存在するなら、その所有者はまず間違いなくすぐにでも出版するだろう。しかしこの問題ではそうなっていないため、有り得る唯一の結論は、あの「殺人武器」は現実の写真にほぼ見られないが、殺人ガス輸送車を疑う余地のない歴史的事実だと示す報告は大量にある、というものだ。

2.2.ドイツの当代文書 German Contemporary Documents

2.2.1.導入 Introduction

もし殺人ガス輸送車が実在したのなら、次に我々が発見すべきは製造され使用された状況だろう。それでも尚特定の歴史家たちによって組織的に提起されている、『この作戦は入念に迷彩され、あらゆる痕跡は消去されたのです』という起こり得そうにない命題を受け入れない限りは、徹底さとドイツ人の組織能力の才能を見るに、何らかの文書の痕跡は残っているに違いない。

輸送の間に乗員を窒息させる輸送車の製造は比較的容易だが、その構造物には特定の工場での作業が要求され、自発的に実行された、というのは想像できない。そうした輸送車を製造しろという決定は権力構造の頂点から厳然と降りてきたものでなければならず、一段階づつ決定が降りていって必要な実験の遂行の責任を負った者たちとこの輸送車の運用の責任を負った者たちへと至らなければならない。

これに関して勿論私は実験はしていないが――妥当な理由によって――輸送の間内側に人々を閉じ込めて殺す事を意図された輸送車の構造には、どのような状況であろうと3つの技術的な改造が含まれていなければならないと私には思える:

  1. 大人数の中での恐慌によって人々は極限状態に入るため、こうした貨物区画は極めて頑丈でなければならない。したがって、がっしりとした貨物区画の構造は車台へと雄ねじで固定され、内側には動物園の大猫の檻に似た檻を嵌め、それによって運転によるものと内側で閉じ込められた者たちの逃亡の試みによるもの両方による衝撃に耐えられるようにしなければならない。これは扉については特に真実で、恐慌状態に陥った犠牲者たちを、全員が扉に群がってさえ確実に内側に閉じ込め続ける為に特別に補強しなければならない。この文脈の中で、恐慌状態に陥った群衆は群がって扉を押し、囲いや扉さえ倒壊しうる、という点を読者に思い出させたい。通常の輸送車の標準的な後部扉はこの出来事に耐えられまい。言うまでもないがそうした構造は我々が精査しようとしている文書の中に見受けられない。
  2. 排気ガスが犠牲者の窒息に使用される場合、その内燃機関の種類は1〜2分で殺せる一酸化炭素を十分に発生させる排気ガスのものが使用されなければならない。正確に言えば:その貨物自動車はガソリン機関を備えていなければならない。代わりに、そしてより助かることに、固形燃料動力機を備えた輸送車は二者択一的に木ガスがその内燃機関へとあるいは貨物区画へと流入するよう切り替えられる手段を伴っているものとして使用できるが、それをすればガス殺任務の間その輸送車は行動不可能になってしまうだろう。
  3. 排気ガスが使用された場合、そしてその貨物自動車の貨物区画は時折通常の輸送装置としても使われた場合、その機構は二者択一的に排気ガスを通常通り外部へと出すか穴を抜けて貨物区画内へと入れるかを選択できるようになっていると推測できる。排気管に脱着自在な取り付けが可能な、柔軟な金属可撓管あるいは伸縮自在の延長管が思いつく。
  4. 同様に、貨物区画内にある、有毒ガスを放つ流入口は、乗客や、偶然に落ちてきた物品や、液体が、それを破壊したり塞いだりできないように設計する必要がある。
  5. 更に、少なくとも圧力逃し弁あるいは過剰ガスを噴出する為の穴が最低1つは必要だ。後者の点は大変重要であり、私の考えでは殺人ガス輸送車の機能に於いてconditio sine qua nonである。

もしそのような自動車が主張される通りに30台も存在するのであれば、これらの設計の変更はその自動車30台全てに適用されるであろう。こうした状況下で、私たちは適切な文書少なくとも1部を記録保管所の中に期待しなければならない、つまり:作戦実行の容易性や要求される財政的資源を割り当てる決定に関する最高水準の書状、技術的な助言を得る為の企業との往復書簡、製造の青写真も含む費用の見積書、命令書、納品書、等を。

31 Le Monde juif107号、1982年7月、11月刊行、109ページからを参照。カルロ・マットーニョはその様々な著作の中でこの点について数多くの例を挙げている、例えば2010年等。

自動車の製造に要求されるであろう文書の量について当て推量をするには、例えばアウシュヴィッツの鍵屋は大変に些細な補修にさえ詳細な書面による指示を受け取っていた事を想像するだけで十分だ。31では殺人ガス輸送車製造の文書証拠についての実際の状況を見てみよう。

徹底的に解析する、そして後で説明する理由によって疑わしいと考えている、最初の文書は、ニュルンベルクの国際軍事裁判で集められた文書集の26巻にある501−PS(国際軍事裁判(IMT)、26巻、103〜110ページ)書類一式の中枢を成している。これは1942年5月16日の日付が入れられている手紙で、以降「ベッカー文書」と言及しよう。これの後に1942年6月の9日、15日、そして22日の電報3通にも触れよう、これらは先の関係書類の一部であり、「排気可撓管」の必要性と「S自動車」に言及している。

国家保安部(RSHA)によって使用された特別自動車についての議論の余地なく信憑性のある文書はあるが、それは殺人の目的でされたと想定させるような僅かな理由も提供していない。誰でもこれらの文書をコブレンツの連邦公文書館(Bundesarchiv)で確認でき、そこではR 58/871 fo 1との繋がりがある関連文書に収められている。この書の付録4で再提示しており、それには続けて翻訳と妥当な独自の寸評を添えている。そうした文書の中に、その次に精査して後に説明する理由によって疑わしいと判断する覚書がある。それは1942年5月5日の日付で、その時代の多くの軍事文書と同様に“Geheime Reichssache”(国家機密)とゴム印が押されている。親衛隊中尉ウィリー・ジュストの署名のお陰で、これは通常「ジュスト文書」と言及される。

それに含まれる文書は明らかに、関係ない諸事の見境のないごたまぜであり、誇示の目的の為に様々な出典から恣意的に拾ってきたという印象を持たせるものだ。めいめいの趣旨を査定するにはそれぞれの大元を知る必要があるため、その大元は取り上げる文中に入れることにする。

その次は、戦時中セルビアでの軍政の指揮を執っていた親衛隊中将法務博士ハラルド・ターナーによって1942年4月11日に書かれたとされる手紙だ。これには「虱駆除輸送車」という言葉が含まれているだけだが、この言葉は正史派の歴史家によって「殺人ガス輸送車」の婉曲語あるいはそれを「迷彩する言葉」と見做されており、それがためこの極めて疑わしい文書にも言及しよう。

それから1942年3月1日のアインザッツグルッペBによる「活動報告」にも言及しよう、これはアインザッツグルッペが彼らの官用車の内にある殺人ガス輸送車に言い及んでいる今まで知られている限りで唯一の文書だ。

最後に、ニュルンベルク文書365番の1941年10月25日のエアハルト・ウエッツェル博士による手紙も軽く扱おう、これは時に「殺人ガス輸送車」の文書だと言われるが、それも、それに関連する語句も含まれていない。

我々は、殺人ガス輸送車の設計、製造、そして運用を扱っている大量の文書と出会う事を想定しなければならなかったが、私の知識においては上記で触れた諸文書のみ――稚拙な偽装をされている1つ目の集合、完全に無統制なやり方の2つ目の集合、そして残りは信者の心の内にのみあるもの――がそのような自動車の存在を仄めかしている。これからそれらの文書全てを完全に解析しよう。それによってこれらの文書の一部の奇妙な特徴と同様に、警戒している読者の注意から逃れる事のできない有り得なさが大量に暴露されるだろう。私の意見では、これらの文書は「殺人ガス輸送車」の現実性の証明に失敗しているだけではなく、全く対照的にドイツの部隊は殺人目的の「殺人ガス輸送車」を持っていたという題目に反論する由々しき論拠となる。

そうした序文の観察の結果を言うと、殺人目的の殺人ガス輸送車の歴史的現実性を疑いの余地なく証明している物的痕跡はなく、写真はなく、文書はない。

2.2.2.ベッカー文書(501−PS)、1942年5月16日付 The Becker Document (501-PS), 16 May 1942

2.2.2.1.起源 Origin

この手紙はニュルンベルク文書501−PSの最重要な部分であり、最も頻繁に引用される(国際軍事裁判(IMT)26巻、102〜105ページ)。この文書の他の部分は3つの電報であり、2.2.3.章で解析しよう。

ポール・ラッシニエはこの文書に対し初めて批判的な評価を下した人物であろう(1950年発表、175〜178ページ)。それに続いたのは1985年でのドイツ人歴史見直し論者イングリッド・ヴェッカート(18ページから)で、9年後により徹底的な版(1994年発表、193〜218ページ)を出し、それは数年後に英訳復刻版で僅かに登場した(ルドルフによって、2003年発表、215〜241ページ)。この中で彼女はこの文書の起源に関して著している(224ページから):

「著者はUSAのワシントンDCにある国立公文書記録管理局から2通の手紙を所有していますが、それぞれはニュルンベルク検察文書501−PSの異なる起源を述べています。

1945年4月26日付のUS第12部隊の司令部からの覚書は、第12部隊はこの文書を「バート・ズルツァにあるRSHAの営舎地区」で発見されたと述べています。この覚書が述べるその大元は、パリにある文書管理局に輸送されたとしています。

ニュルンベルク軍事裁判で提示される文書には通常伴っている明細書には1945年9月7日の日付があります。この紙は、この文書が見つかった場所は、その出処と同じく不明であり、OCCロンドン(英国検察)から受け取ったのだと述べています。

このような出所証明のない文書は、言い換えれば、「出典も出処も不明」と付されるような文書は、僅かな証拠の価値も欠いています。もしも弁護側が同じく胡散臭い紙を提示したなら、法廷は即座にそれを排除したでしょう。」

2.2.2.2.書式の解析 Analysis of the Form

ヴェッカート夫人はこの文書を詳細な本式の批評に当て(ルドルフより、2003年、226ページから)、その後こう結論付けている:

「今に至るまでに筆者はベッカーからラウフへと送られた手紙の3種類の異なる『写し』を所有していますが、原本の手紙の写しは未だに所有していません。明らかにそのような『原本の写し』は存在していません。」

彼女の結論は、原本の手紙と本当に接していうる1つの版とは原本のもののカーボン複写のみであり、つまり、彼女が断定するに、ベルリンに行きついたものではなく送り主が持ち続けているものであるべきだ、という想定に基づいている。この想定は、この手紙は極めて薄い紙の上で書かれたという過程に基づいている。この手紙が薄いカーボン・コピー紙の上で書かれているかどうかは示されるべき課題だろう、ヴェッカート夫人は原本の写しにしか接触できなかったのだから。しかし課題だとしてさえ、不明であることは原本の手紙はそのような紙の上でタイプ打ちされなかった事を証明しているわけではない。

実のところ、U.S.国立公文書記録管理局に所蔵されている501−PS資料にはこの手紙に2つの版がある。

1つは、A版と呼ぶが、原本と主張されるものの黒紙の上の白文字で構成されるフォトスタット複写3ページ分だ。かの年に使用されていた写真的なフォトスタット複写工程は白黒反転させた写しを作成し、その文書を準備するのに使用された原本は通常通りの白紙に黒文字の文書でなければならない。

もう1つ、B版は2ページの白紙に黒文字の全タイプ打ちの写しで、その一部はタイプ打ちのアングロ=サクソン系の背景を明らかにしている。手紙の終わりにある署名の代わりに「(Sgd)」という注記が付いており、これは英語で言う「Signed」の省略語だ。そのためこの版はアングロ=サクソンによってタイプ打ちされたことは明白だ。これには適切なSSのルーン文字が含まれているため、ドイツの公式な戦時中のタイプライターで書かれたことは明白だ。この版もA版と同じ手書きの印と語句全てを有していて、どれも版Aと位置も書式も極めて似ている――ベッカーの署名を除いては。この全ては全く不可解である、B版の文書は版Aを再タイプした写しだと想定するとして、そのタイプ打ちは可能な限り版Aに似せた見た目にしようとしたことになる。

32 この局は証拠の為にニュルンベルクに齎されたあらゆる文書の安全管理と登録を統括しており、文書録へと集めていた。

合州国立公文書記録管理局の資料501−PSには戦争犯罪協議局文書管理部証拠課32の長フレッド・ニーバーガルによって1948年7月19日に作成され署名された別の文書があり、そこで彼は「付属しているフォトスタット複写が、本紙の真実且つ正確な写しです」と保証している。フォトスタット紙は文書のネガ複製であるため、これは版Aにしか言及していない。

このフォトスタットの複写元であるに違いない白紙に黒文字(ポジティブ)版は、U.S. 国立公文書記録管理局の所蔵する501−PSには含まれていないが、公文書記録管理局そのものはいつかの時点でこの文書の白紙に黒文字版の最初のページを所有し展示棚に飾っており、それは写真に撮られている、版C参照。この版は折り畳まれた紙であること、そしてリングバインダー用の穴周辺が補強されていることを示しており、つまりこれは単なる版Aの単なる複写物でないことを意味している。手書きの印は版Aのものと同一であるため、これは原本の1枚であると想定可能だ。

33 www.cwporter.com/501ps.htm

カルロス・ポーターは、「この白紙の文書[版B]は黒紙のもの[版A]の初稿であり、即ち:版Bは草稿で、何らかのより洗練された文書『作成者』が『原本』[版C]を捏造する為の書式として使用し、そこから版Aがフォトスタット紙として作成されたのです。」33と意見を述べている。今すぐにこの仮説を証明する方法はない。

どうして版BがまずU.S.国立公文書記録管理局に所蔵されたのかは謎である、何故ならそれに証拠的な価値はなく、公的な保証を受けた事がなく、法廷によって証拠として使用されたこともないのだから。

そのため国立公文書記録管理局が自分はポジティブ紙の原本を持っていないと主張するのであれば、今どこにその原本があるのだろう? ポーターはそれを追求し、この結論に至った(同書):

「ワシントンの国立公文書記録管理局は[……]原本の文書はハーグにあると主張しています。ハーグは、原本の文書はワシントンの国立公文書記録管理局にあると主張しています。

ニュルンベルク公文書館もドイツ連邦公文書館も原本の文書を持っておらず、どちらも原本の文書はワシントンにあると言っています。」

別のベッカー文書、版Dもあり、それは版Aとほぼ同じであるに違いない文書から作られたフォトスタット紙である。それはラウフに提示され、彼は左の余白にこう書くことでそれの信憑性を保証した、「私はこの手紙を1942年5月に受け取りました。1945年10月18日、ラウフ」(ニュルンベルク文書2348−PS)。ほぼ同一と言ったのは、ラウフに提示されたこのフォトスタット紙には版AとCにあるのと同じ手書きの段落記号がなく、つまりラウフのフォトスタット複製(版D)が作られた後だがU.S.国立公文書記録管理局内で見つかるフォトスタット紙(版A)の準備の前に「本紙」にその段落記号が加えられたに違いない。より早期の写しであるラウフに提示された版D(A092586からA092588)は版B(A090025、A090027、A090028;A090026は飛ばされているようだ;付録2にあるページ夫々の下半分参照)よりもニュルンベルク文書番号も若かった。版Dはニュルンベルクに登録できるようになるまでに長い旅を経てきたという事実にもかかわらずだ(ラウフは当時イタリアで投獄されていた、3.5.2章参照)。

これについて私を疑り深くさせる唯一の要素は、ニュルンベルク検察がラウフへとこのいち文書の信憑性を保証させにいった期間の長さだ。これを成し遂げる為に、彼らは短い文章と、この紙の上への署名と、支持するが些か簡潔な自白調書を得ようと、この一文書を戦禍に見舞われた欧州を跨いで送ったのだ。これは完全に異常な手続きに見える、他のニュルンベルク文書でこのようなことは聞いたことがない。明らかにそこにラウフにニュルンベルクでこれを証言させようという意図はなかった、そうさせるのであれば彼らは文書をラウフへと送るのではなく、彼をニュルンベルクへと移動させるであろうからだ。

おおよそに於いて、現存している各版の差異全てに於いて妥当な説明があるように見える。そのため、この件で私は偽造を疑わせる正式な理由を見つける事が出来ない。勿論これは、この文書は本物であることを必然的に意味しているというわけではない。ドイツによる無条件降伏の後勝者がドイツ官憲の諸局を占領した後のように原本の文房具、局の備品、大量の原本の手書きと署名が思うままに使えるのであれば、文書の偽造は容易である。だから論より証拠と諺にもある通り、次で解析しよう。

2.2.2.3.翻訳された内容 Translated Content

2.2.4.章で解析するジュスト文書とは対照的に、ベッカー書簡には番号が振られた段落で小分けされていない。解析を容易にする為に、ピエール・マラスは1984年の彼の研究の中で段落夫々と文章夫々両方に番号を振っており、私もここでこの手法を適用しよう、以降にあるこの文書の内容の手順を踏んだ解析を容易にするであろうから。この解析はマラスの論陣に従うところ大である。

ここでニュルンベルク裁判の公式英訳を複製しない、あれは誤訳でいっぱいであり、ドイツ語の原本のところどころ馬鹿馬鹿しい内容を覆い隠しているからだ。

「野戦郵便番号32704

キエフにて、1942年5月16日

B. No. 40/42 ―

極秘!

宛先

ベルリン、

プリンツ・アルブレヒト通り8

親衛隊中佐ラウフ


第1段落:

―第1文:集合DとCの自動車の整備点検は完了しました。

―第2文:1つ目の集合の輸送車複数はそんなに悪くない天候においても使用できますが、2つ目の集合に属する車両複数(ザウラー)は雨の日にはまったく動かすことができません。

―第3文:例えば、ほんの半時間でも雨が降りますと、これらの自動車は滑ってしまうので、使うことができません。

―第4文:全く乾燥した天気のもとでのみ使うことができます。

―第5文:これらの車両を使用させることができるかどうかは静止している間の処刑地点にのみかかっているのかという疑問が現在浮上しています。

―第6文:第一に、この自動車をその場所に持って来なくてはならず、それは天気が良い場合に限ります。

―第7文:しかし多くの場合処刑地点は主要道路から10〜15キロほど離れたところにあり、その場所がため既に行き来は難しいというのに、湿度の高いあるいは雨天では全く不可能です。

―第8文:処刑される人々がこの場所へと輸送されるか連行されてくるならば、彼らはすぐに事態に気づき、可能な限り回避すべき半狂乱の状態となってしまいます。

―第9文:残された方法は1つしかありません:彼らを集合地点で詰め込み、それから出発するのです。


第2段落:

―第10文:集合Dの自動車については、小さな輸送車の両側面に1つの、大きな輸送車の両側面に2つの、鎧戸の窓をつけることで、田舎の農家に見られるような居住貨車に偽装させました。

―第11文:この自動車は良く知られているので、姿を現すと当局だけでなく民間人もすぐに「死の車」と呼んでいます。

―第12文:この偽装をされてさえ秘密を保つことができるのは短期間だけでしょう。

34 Sonderkommando=特務部隊。

35 Heeres-Kraftfahrzeug-Park=軍駐車場。


第3段落:

―第13文:シンフェローポリからタガンロークに向かう途中で、私の輸送していたザウラー車の制動装置が故障しました。

―第14文:マリウポリのS.K.34では、複合空気圧制動装置の制動軸鞘[「Manchete」]が何箇所かで壊れていると判断されました。

―第15文:私はH.K.P.35で説得と賄賂を使って、鋳型を変更させ、その後制動軸鞘2本が鋳造されました。

―第16文:数日後に、スタリノとゴルロフカに着くと、あれらの車の運転手らは同一の欠陥について不平を言いました。

―第17文:これらの行動部隊の司令官たちと話をしてから、これらの自動車の為に作られた更なる制動軸鞘を入手しようと私はマリウポリに戻りました。

―第18文:2本の制動軸鞘が、これらの輸送車それぞれの為に鋳造されるでしょうと合意が取れております;6本をこの集合の予備としてマリウポリに残し、6本の制動軸鞘は集合Cの自動車群の為に親衛隊少尉エルンストのいるキエフへと送られる事になっています。

―第19文:マリウポリから北方の輸送は余りに不便ですし時間がかかりすぎるので、集合BとA用に、この制動軸鞘はベルリン経由で確保されるでしょう。

―第20文:これらの自動車のより小規模な欠陥は行動部隊の技術者あるいは工場の集団によって対処される事でしょう。


第4段落:

―第21文:不均一な地面で、殆ど区別できない道と道路の状態によって、封や鋲はそのうち緩んでしまいます。

―第22文:そのような場合、修理のため自動車をベルリンに持ってこなくてはならないと要請されました。

―第23文:ベルリンへの移送は非常に高価で、大量の燃料を必要とするでしょう。

―第24文:このような費用を節約するために、私は、彼らに自分で小さな漏洩箇所をはんだ付けするように、そしてもし限界が来たなら、ベルリンに無線で使えなくなった自動車の番号を即座に伝えるよう命じました。

―第25文:さらに、私はガス殺のあいだ、漏れるかもしれないガスから被害を受けないように、全員にできるだけ輸送車から離れているように命じました。

―第26文:これに関し、以下について注意を引きたいと思います:ガス殺の後複数の行動部隊は部下に荷下ろしをさせていました。

―第27文:私は、この作業の精神的・肉体的な甚大な悪影響が、すぐでないとしたら後々に部下たちを酷く害しないかとS.K.の指揮官たちに警戒させています。

―第28文:隊員たちは、積荷を降ろすたびに頭痛を経験したと私に不満を述べました。

―第29文:それでもこの作業を課されている囚人たちが逃亡する好機を利用する可能性を恐れているため、この命令から外れたがっている者はいません。

―第30文:隊員たちをそうした被害から守るため、対応する命令を出すよう頼んでいます。


第5段落:

―第31文:あらゆる場合においてガス殺は適切なやり方でなされてはいません。

―第32文:作業をできるだけ早く終わらせるために、運転手は全力噴射しています。

―第33文:この方法によって、処刑される人々は、意図されたように眠るように死ぬのではなく、窒息によって死亡しています。

―第34文:私の指示は、複数の操作棒に適切な調整をする時には、死がすみやかに訪れ、囚人たちは穏やかに眠ることを明かしています。

―第35文:以前にはゆがんだ表情や糞尿が見られたのですが、今では見ることはありません。

第6段落:

―第36文:本日集合Bへと向かっているところで、そこで更なる話が聞けることでしょう。

(署名)ベッカー

―親衛隊少尉」

2.2.2.4.内容の解析 Analysis of the Content

―第2〜4、6、7文:後の2文は、最初の3文の要領を得ない繰り返しである。貨物自動車がたった半時間の雨の後全く使い物にならなくなるかもしれないと、誰が信じられるのだろう?

これらの行の著者は東部に立ち向かっているドイツ軍の困難さを仄めかしているのかもしれないが、滑ってしまう貨物自動車はほぼ無関係だ。ソヴィエト連邦の道路の状態は戦時中概して壊滅的だった。大都市の外では舗装された道は皆無だった。加えて、ドイツ軍はロシアの冬に備えていなかったため、彼らの駐車場はその他全てと同様1941年11月に凍り付き休止してしまった。ディーゼル自動車は特に、特別な冬季仕様ディーゼルあるいは代わりに加熱されたディーゼル燃料槽、送油経路そして噴射喞筒を備えていない場合(通常は備えていない)、燃料がしっかりと凍ってしまって動かなくなる。冬がやっと終わると凍った土壌の上層は雪解けするが、下層は何週間も凍ったままだ。その結果として溶けた水と雨は引かないため、ソヴィエト連邦の未舗装の道路網は巨大な沼地に変じ、その中でドイツ軍は文字通り行き詰った。我々が話している地域に於いて、天候と地面状況によってドイツ軍が独自の自動車を再び幾許かの信頼性を伴って運用できるようになるのは1942年4月や5月より前ではない。

壊滅的な最初のロシアの冬が初期のドイツ軍の侵攻を止め、それがソヴィエト連邦が1941年晩期/1942年早期に崩壊しなかった大きな理由の1つになっていることと同様、勿論この戦争に関わった全員がこのことを知っていた。

ベッカー文書がこれを僅かなりとも仄めかしさえしなかったのは大変に奇妙だ。その代わりに、あらゆるドイツの自動車には泥が大問題として立ちはだかっていたという事実がある時に、単なる湿潤な天候状態が貨物自動車を滑らせて使い物にならなくしているのだと主張しているのだ。ベッカー文書がここで遠回しに言っているものが戦時中のドイツ軍の標準なのだとしたら、彼らはその種の装備を携えてワルシャワより先に進めなかっただろう!

―第8文:この手紙の著者によれば、時折処刑される者は処刑地点まで歩かなければならなかったというが、別の時には自動車によって運搬されたのだという。そこから、処刑される者と殺人ガス輸送車は時々その地点へと別々に到着したのだと結論付けられる。その理由が殺人ガス輸送車が運転不可能であるからであるとするなら、殺人ガス輸送車はどうやって処刑地点へと到着したというのだ? 夜を越えてそこにあった? そしてその殺人ガス輸送車が動けないというなら、処刑人を運ぶ別の「通常の」貨物自動車はどうやってそこまで辿り着いたというのだ? 論理的に滅茶苦茶だ! 因みに、犠牲者は殺人ガス輸送車の処刑地点へと歩かなければならなかったという目撃証言も裁判評決も1つもないという点にも言及しておく(3章参照)。

加えて、処刑地点へと歩く時に処刑される人が不安になる理由も、それを防ぐのに不可欠になるものの理由も提供されていない。

―第9文:文脈と噛み合っていないため、この文は不明瞭である。この文の2節目を理解するには、処刑される人は建物あるいは柵で仕切られた場所に集められたと想定しなければならない。しかしいずれにせよそうした処刑されるべき者を集合地点で車に乗せるのが不可避の実践でさえ、それは一般的ではなかったのではないか?

―第10と12文:貨物自動車の両側への単なる窓の鎧戸の設置だけで居住貨車に見せかけるのは十分だというのは馬鹿げている。その上、あの時代居住貨車は馬が引く車両であったのだから、動力付きで貨物自動車大の居住貨車は控えめに言ってもあの時期ロシアでは全く一般的ではなかった! そのため記述のような装飾をされた貨物自動車は迷彩する代わりに鎧戸の付いている貨物自動車として一層注意を引くが、実のところ関連する窓がないというのは異常な光景だ! この手紙の著者は直後の第12文で「偽装をされてさえ」こうした貨物自動車が「秘密を保つことができるのは短期間だけ」と述べていてさえ、そうした幼稚な偽装の試みがまず実施されたというのは不可思議に感じる;結局のところ、この手紙の著者はその効果に対する命令に言及していない。

3章で我々は殺人ガス輸送車は(偽装とされるものと同じ)嵌め込み窓とカーテンさえ伴う装飾をされていたと主張する多数の裁判評決と遭遇するが、ただ幼稚で無駄であり、迷彩する代わりに鎧戸の付いている貨物自動車として一層注意を引くものである。そのような主張の開始は1943年のソ連の見世物裁判(116ページ参照)からであり、それぞれの主張は後に、1943年のソ連の見世物裁判(116、231、233、236ページ)の焼き直しのお芝居の類であったミュンヘン地方裁判所での評決複数で鸚鵡のように繰り返された。ベッカー文書の著者は、この1943年のソ連の主張に触発されたと推測できるが、彼は窓から鎧戸へとその主題を変更している。そうだとしたら、それはベッカー書簡は1943年のソ連の裁判よりも後に書かれている証明となる。

―第13文:黒海のタガンロークはドン河に接するロシアの都市ロストフから50km程西にある;1941年10月にはドイツの部隊に占領されていた。彼らは更に東方にあるドン河のロストフへと進軍したが、不利な天候状態のため1週間しかその都市を保持できなかった。それから彼らはタガンロークまで押し戻された。以降数ヶ月ドイツ人たちは主に「冬将軍」との抗争をしなければならず、春季は駐車場ほぼ全てを埋め尽くしていた泥の道を形成した雪解けと戦わなければならなかった。ドイツ人たちが「Fall Blau」(ブラウ作戦)の攻勢を再開した1942年7月遅くまで、タガンロークはロシア南部のドイツ占領下の中で最東端の戦線の町だった。戦線にある町であったそこは、ほぼ確実に市民を殺しに走り回る殺人ガス輸送車を使って住民数を我慢して変更させたわけではないドイツ軍の前線部隊の直接的な支配下にあった。赤軍が目前にいるこのような状況下にあって、RSHAが「殺人ガス輸送車」をソ連の反撃によって鹵獲される危険のある場所に送るという命令を下したという事態も想像を超えているように思える。

―第14〜19文:複数形では「Mancheten」になる「Manchete」(chと、tを1つ伴う)という言葉はドイツの日常語でもなければ技術的な外国語でもない。辞書は単にこの語を「sch」とtを重ねて載せていて、「Manschette」としている。これには複数の意味があり、その唯一技術的な1つはここで妥当なものであり、通常は柔軟性と弾性を持つ、保護、安定化、あるいは密封/分離用の鞘への言及である:袖、管、ギプスといった。ベッカー文書の中で7回も誤記して登場しているこの語は、少なくともその文脈の中では、この文書は本当の問題について語っており、それはこの文書の信頼性を補強しうる事を示している。

この品が何かを知る為に、ピエール・マラスは1959年にザウラー社のオーストリア支社を合併吸収したウィーンの会社シュタイア・ダイムラー・プフ(S.D.P.)に問い合わせた。彼らは以下の情報を差し出してきた(マラスへの手紙、376ページ参照):

「戦時中ザウラー自動車は、今日の自動四輪車や小型の貨物自動車でも同じ原理で使用されている、真空機構で補助された油圧制動設備を備えておりました。

言及されている『Manchete』は頻繁に切れてしまう真空サーヴォ装置装置のゴム膜であり、切れればこの装置の力の補助が失われ、貨物自動車は脚力のみでしか制動をかけられなくなってしまいます。そのため完全にというわけではありませんが、制動の有効性は減衰してしまいます。

手紙で言及されている鋳型は鋳造に使うものではなく、ゴム膜の加硫36に使うものです。」

36 加硫:ゴムに硫黄を加えて個々の重合体を分子間結合させることで硬化させること。

37 www.saureroldtimer.ch/5000geschichte/5200chronosaurer/index.html

第1点:ザウラー貨物自動車は真空機構で補助された油圧制動装置を有していた事は他の出典によっても確証されており、それによれば1935年に導入され1955年まで生産されたザウラーC級貨物自動車は全てディーゼル機関を装備しており、「サーヴォ補助の油圧制動装置;最大荷重11トン」を有していたという。37

しかしベッカー文書内で使用されている「複合空気圧制動装置」(Öl-Luftdruckbremse;文字通り:油圧/気圧制動装置)という語が示しているのは、圧縮された空気(Luftdruck)を生成する為の圧縮機に要求される機構である。圧縮空気制動機構は一部の自動車で採用されていたかもしれないが、技術的には圧縮空気機構と油圧機構を組み合わせるのは荒唐無稽であり、私の知識の限りにおいてそのような複合は前例がない。しかし我々はこれらの貨物自動車は真空補助の油圧制動装置を備えていたと知っているのだから、この点は断定しづらい。ベッカー文書の著者は明らかに適切な語について門外漢であるだけでなく、知識をひけらかす為に存在しない技術的語句をでっち上げているようだ。ベッカー本人が、恐らく自分は最高級の部署から「これらの輸送車の機械的機能に特別な注意を払っている」と選ばれ、制動機構の修理を手配する為に独自に行動したと主張していることを考えるとこれは驚くべき話だ。

第2点:Mancheteという語の定義はこの文書の文脈に合致している:結果として生じた効果とその頻度と共に損傷した軸鞘への言及は事実に従っており、つまりこれ以上付言する理由はない。

第3点:これは、ゴム片はこの文書で記述されているような状況では鋳造不可能である事を確証するものであるが、どうやってゴム片をそのまま加硫しているかは未だ分からないままだ。これには製造会社が加硫していない予備の軸鞘の一部を送ることが要求されるだろうが、ありそうにないように思える;そのためこの点は不明瞭だ。膜の裂け目が加硫されていないゴムの継ぎ接ぎによってその場凌ぎのやり方で繕われ、それからを適用されることで加硫され、穴のあいたゴム管ではなくなったのだと想定する者もいるかもしれないが、それに鋳型は要求されない。

鋳型の変更と軸鞘の鋳造に関してベッカー文書で使用されているこの筋の通らない表現は、そのため目を引く。よりありそうなのは、この文書の著者はザウラー貨物自動車は損傷した軸鞘によって頻繁に機能停止していた――それは秘密にはしようがなかった事実だ――という事だけ知っていたが、そうした品が実際にはどういうものか分からなかったというものだ。これは2つの選択肢を残す:件の著者と署名者は技術的に無知で極めて世間知らずであったか、そうでなければ現実的な内容を与える為に当時運転手たちには良く知られていた戦時中のザウラー社の貨物自動車の特徴をぎこちなく使用している粗雑な偽造文書を我々は扱っているか。この文書の奇妙さ全てを考えるに、2つ目の選択肢だと断定する方に傾いている。

―第15文:この手紙の著者は記述された状況の為に賄賂を握らせて環境を緩和したと主張できるが、親衛隊(SS)高官がより高位の上官への手紙の中でそのような真似をしたと認めるのは大変に奇妙であり、何よりそうすることによって筆者自身よりも遥かに利己的ではない動機の為に行動している、工場の責任ある人物に罪を負わせてもいる。

―第20文:この著者は恐らく、欠陥でなく修理が実行されるでしょう、と言いたかったのだろう。

―第21文:この封が意味している種類は何なのかは特定されていない。鋲に関して、鋲は「不均一な地面」と「殆ど区別できない道と道路の状態」の結果として緩む事は極めてありそうにない事には注意すべきである:雄ねじでの接続は緩みうる――これは頻繁に起こる――が、鋲がそうなる事は殆どない。しかし鋲が緩む場合、緩んだ鋲は修理できないが交換しなければならず、そして緩んでいる間鋲はこれまで嵌められていた穴を広げてしまう事がままあるため、その損害は時に甚大になる。これは、著者は自分の空想を、自身の主張の可能性について頭を悩ませずにお披露目してしまったという印象を与える。

この文脈の中で、多くの目撃証言と続く多くの法廷の評決が、その貨物区画には内側に金属の板が並んでいた、つまりもし貨物区画が金属製の場合、並んでいる金属板は余分になってしまうため、貨物区画そのものは木製であると主張している事には注目する価値がある。そのため、裏付けに乏しい証拠の大多数に従えば、内側に並んでいるのは金属板であり、ベッカー文書に従えば、それは気密性がなく気密性を保つのにはんだ付けが必要だという。

―第22、23、24文:板金の亀裂はははんだ付けではなく溶接で封がされる。溶接のような修繕は直ちにできるため、何故それらの自動車がそうした修繕のためベルリンへと送られるのか不可解である。

ガス殺区画への封の問題での著者の主張に伴っている忍耐は、殺人ガス作業に使用された殺人ガス輸送車は密閉式の扉――目撃証言は何度も何度もこれを強調している――を誇示している密閉式の貨物区画が過剰な排気ガスを逃がせるような開口部を有している場合にのみ稼働すると考える際に注目に値する、つまり:貨物区画は密閉できないし、密閉してはならない!

―第25文:「ガスが逃げる可能性」という語は、ガス操作という通常の状況下では輸送車付近にガスは逃げないという印象を与えるため、「ガスが逃げる可能性」に言及することで、この著者はもう一度自身の根底にある、殺人ガス輸送車の正確な操作には密閉された貨物区画が要求されるという前提を確証している。しかし1.3.2.章で既に記述したように、排気管が密閉された貨物区画に接続されている内燃機関は貨物区画を歪ませ、最終的には吹き飛ばしてしまうだろう。そのため我々はここで物理的にかつ機構的に不可能な主張を見ている。

「ガスが逃げる可能性」という事実に言及しない事が、都市の道路での、静止している自動車の暖機運転中の内燃機関からの排気ガスの避けられない吸入と比べ、この自動車の操作を危険にする事はあり得ない。

―第26〜29文:この著者は、実行者に「この作業の精神的・肉体的な甚大な悪影響」を及ぼすガス殺の犠牲者の荷下ろしを時に自分の部下に行わせ、そして囚人にこの作業を与える命令が下されている事を示唆している。しかし正史の歴史観によれば、「殺人ガス輸送車」の殺人方法は以下の理由によって正確に開発された事になっている:

「しかし、ユダヤ教徒、ジプシー、そして他のソ連市民の大量射殺は、前線より手前で処刑を実行したアインザッツグルッペン(作戦部隊)の士気に影響を与えました。」(コーゴン著、1993年発表、52ページ)

同じ論文集の中でヴァルター・ラウフが以下のように引用されている:

「当時私にとって最重要の懸念は射殺に関わった男たちが感じた精神的な圧迫でした。この問題は殺人ガス輸送車の使用によって克服されました。」同書、53ページ;3.5.2.章参照)

ラウフによるものとされている上記の引用の最後の一文は、今の問題についてラウフへと正に伝えているこの手紙の27文目を露骨に否定している!

1980年にミュンヘン地方裁判所はこう述べている

[……]後の、1942年初夏頃に、帝国安全保全本省からの命令に基づいて、弾薬節約目的として、そしてコマンドの隊員が処刑の悍ましい光景を見ずに済むよう、殺人ガス輸送車と呼ばれるものが殺害に使用されました。」(ロイター著、1968年以降刊行、44刊、250ページ)

ここから我々は、戦時中に一般的だった行いであるこれまでに使用されていた処刑手段――銃殺――は、その責を負っていた者にとって精神的そして肉体的に遥かに有害だったと結論付けざるを得ない。

これ以降の様々な法廷での事例を扱う際に見るであろうが、実際には状況は正反対であり、混乱させるものだ;一部の目撃者と判決は、ガス殺は処刑人にとって精神負担が少ないため殺人ガス輸送車は銃殺から取って代わられたと述べているが、別の目撃者と判決では殺人ガス輸送車処刑はこの殺害方法は銃殺よりもはるかに悪いと思われるため最終的に破棄されたと(あるいは開始された事もなかったと)述べている(例えば3.7.3.1.章と3.7.5.2.章参照)。しかし、親衛隊(SS)の男たちによってその荷下ろしが行われたと言われる事例を私は1つも見つけられていない。

彼らの身体的健康を危うくするものに関して、それぞれの男は扉を開けた時に些細な量の排気ガスしか吸い込まず、そして作業は屋外で行われたため、いずれにせよ危険は最小限だった。

―第32文:この一文は、ガス殺は貨物自動車が停まっている間に行われたと含蓄している、何故なら貨物自動車の運転はあらゆる状況で、あるいはほぼあらゆる状況で「全力噴射」では操縦できないからだ。これは順番に、その貨物自動車の内燃機関は負荷なしに運用されていることも含蓄している。ディーゼル機関を積んだザウラー社の貨物自動車の場合、そうした状況下ではその排気ガスは一酸化炭素の毒の量を持たないだろう;そのためこれは窒息による殺人に適していないだろう(1.3.1.章参照)。このやり方では犠牲者は熱いガスによって極めてゆっくりと窒息死する事しかできない。

―第33&34文:これらの文は完全に荒唐無稽である、死因は状況がどうであれ窒息なのだから。毒ガスという手段によって「眠らせる」というのは単に窒息死の婉曲表現だ。記述された状況での窒息は犠牲者が起きていようと眠っていようと発生しうるということには議論の余地がないが、「操作棒に適切な調整をし」たなら犠牲者の眠気に影響を与える事ができるという理由は分からない。

当時のディーゼルの排気ガスはどのような状況であろうと必ず煙と刺激でいっぱいであり、それによって人々は眠るようあやされるのではなく逆に目を覚まされるという事に注意しなければならない。だから、そのようなやり方で件の内燃機関を調整する事で、生じた排気ガスを平和的に眠りに就かせられるようにするという事は技術的に不可能だ。

筆者が語っている「複数の操作棒」が何かさえ不明瞭だ。貨物自動車には加速踏板が1つしかなく、それはドイツ語で「Gaspedal」あるいは「Pedal」と呼ばれており、Hebelとは呼ばれていない。ある法廷の評決では、停止している自動車の暖機運転速度(Standgas)の調整に、恐らくは絞り弁制御手動制御棒あるいは絞り装置という手段によるものに言及しているが、その証拠としてその評決ではベッカー文書を引用している(ロイター著、1968年以降、33巻、284ページ)ため、堂々巡りになってしまう。

絞り装置を引くことで暖機運転中その内燃機関の回転毎分(rpm)を、そしてそのため発生するガスの量も上昇させてさえ、排気ガスの成分に大した影響はないだろう。ベッカー文書が言及している通りに停まっている貨物自動車の運転手が「全力噴射」した場合も同じことが言える(これについてはルドルフ著2003年発表、447ページにあるベルグ著参照)。その効果は、ガス殺区画に熱いが有毒でないディーゼル排気ガスがより早く充満する事だけだろう。しかし加速装置あるいは絞り装置の見解から発生するガスの量は、起きる窒息死にかかる時間にも死が起きる状況にも影響を与えない、つまり犠牲者が眠りに就くか起き続けるか、顔を歪めるか歪めないか、彼らが内臓の動きの制御を失うか失わないかにも影響を与えない。

尚、この文脈上で、国家社会主義者の階級制度はそうした人道的な考えに頭を悩ませており、犠牲者を平和的に永遠に眠らせることを達成させようとしていたとされている、あるいはそうベッカー文書は示唆している。しかしどうやろうと的確な操作棒の調整は効果を持たないため、この物語は単純に事実ではない。この筆者がこの有り得ない話を含めた本当の理由は、恐らく自分は本当の出来事について語っているという印象を与える為だろう。だがこの主張は荒唐無稽であるため、これは筆者が嘘吐きである事を暴露している。

「操作棒」への言及は恐らく、後の文で見る事になる、貨物区画への排気ガスの流入を開始するのに使用された定義されていない操作棒に関して漫談している、後に登場する「目撃証言」で想起されている。

第35文:1.3.1.章で言及している通り、ディーゼル排気ガスは熱いだけでなく刺激があるため、それで窒息させるどのような方法を試そうと――成功しようとしまいと――それは拷問になる。そのため、ベッカー文書の筆者の主張とは全く対照的に、素早く死が生じる程に、より犠牲者が苦しみ恐慌状態になる時間が減るのであると論じなければならない;然るに、それで工程の高速化が完全にできるようになるのであれば「全力噴射」は実のところ最善の助言である、実際には高速化は不可能であるが。


この手紙の解析は、その内容は不格好であるという印象を抱かせる。この印象は、私がそれぞれに関して表明してきた批判と同じく、この手紙の信憑性について疑いを持たせるものだ。

これから501−PSの一部を構成する別の文書に移ろう。

2.2.3.501−PSの電報 The Telegrams of 501-PS

2.2.3.1.2つの版 Two Versions

1942年6月6日と15日の電報の文章には2つの版があり、それらは国際軍事裁判(IMT)26巻で連続して複製されている(106〜109ページ)。国際軍事裁判(IMT)の書物内で複製されているその文書は写真の複製ではなく改めて活字印刷したものであるため、U.S.国立公文書記録管理局に所蔵されているそうした文書の原点とされているものに続けて言及することにする。

電報それぞれのどちらの版にも手書きの印があり、それはどちらの版もベルリンのRSHAの執務室で準備されたという印象を与える。1942年6月9日の電報の版A――国際軍事裁判(IMT)の書物で最初に複製されたものだ――は紙面の下半分に活字印刷されており、1942年6月15日の電報の版Bは上半分に活字印刷されている;そのためそれらは明らかに逆の年代順に活字印刷されている。これら2通の電報の領収の間には6日空いているが、そしてその間にRSHA宛に7749通の他の手紙が来ている(違うとしても、通し番号はそう示唆している;版A144,702、版B152,452)が、誰かがわざわざこれら2通の電報を引き抜いて、逆の時系列順にして別紙に活字印刷し直している。1942年6月9日の再活字印刷された電報の上部左端に手書きの端書き「戻り次第修理せよ――完成を報告せよ」が加えられてさえいるが、表面上は原本の版とされているものであるもう片方とは明らかに別の書き手によるものだ。この版には、住所に赤い下線も引いてある(MT26巻、106ページの脚注)一方、この電報の版Bには赤く囲われた住所記入行の下には秘密厳守の注がある(同書、108ページ、脚注)。

2.2.3.2.ベルグラードからの1942年6月9日の手紙 9 June 1942 from Belgrade

2.2.7.章で私が論じるターナー書簡は別にして、これはセルビアでの特別自動車(Spezialwagen――ザウラー社製)の使用を仄めかしている唯一の文書証拠であるが、この電報の内容には何について特別なのかを正確に示しているものはない。

以降の英訳の中では大文字書式を除去し、幾つかの誤字を修正する事で読みやすくしている(ドイツ語原文は付録3参照):

「R.S.H.A.局Roem 2 D 3 KL. A宛――to att. of Major Pradl――ベルリン。――

返信:特別車−ザウラー社製。――

件名:なし。――

運転手の親衛隊(SS)――シャーフ・ゲッツとマイヤーが特別注文に応えたため、[彼ら]は上記で言及されている自動車と共に戻れるよう[戻るよう]命令されました。車輪軸の後輪半分の罅割れた車輪軸のため、車輪軸ごとの交換[は実行不可能です]。――

そのため私はあの自動車を線路に[乗せて]ベルリンへと輸送する命令を受けています。

42年6月12日〜13日の間に運転手ゲッツとマイヤーが自動車を伴って到着する見込みです。――

SIPOとSD38の委員会――ベルグラード――Roem 1――BNR.――3985/42 42

署名SS−Oberstubafシェーファー博士」

38 SDはSicherheitsdienst――保安庁――を表す。

この電報にも左上部の端にこう手書きの注釈が書いてある:

「返却後素早く修理せよ。完了は報告せよ。」

39 印字機のグーグルの画像検索では、一部の古い印字機は読点/?の組み合わせを持っていたと示しているが、そうでない古い印字機は今日の配置を持っていた。その組み合わせが現在の標準へと変化した時期を私は分からない。

1枚紙の分かれた下半分に印字されている、この電報の版A――上半分に1942年6月15日の電報という文章を伴っている――の文章は版Bには含まれていない誤字を誇っている。これは、再印字された版の大元である事を明かしている:二度目に登場する「Fahrzeuge」(自動車)という言葉は「Fahryeug」と誤印字されている。これは英語の印字機でドイツ人が印字をする際に、あるいはその逆の際に一般的な誤りである、何故ならドイツの印字機はZとYの位置は英語の印字機の位置と比べて逆になっているからだ。2つ目の誤字も版Aに含まれているが版Bにはないものであり、2単語前に位置しており、読点の代わりに疑問符を誇っている。この電報は大文字で印字されているため、これは、その印字打ちは偶然にも大文字の鍵を離すのを(あるいはキャップス・ロックを解除するのを)忘れてしまっていた事を意味している。そして実のところ、古いドイツの機械式印字機には読点の代わりの大文字として疑問符があった。これは当時の英語の印字機全てに当てはまっているというわけではないが、一部はドイツの印字機と同じく読点/?の組み合わせを持っていた。39

40 既に言及している赤い下線の引かれた住所記入行に加えて上部右側にはこうある:「II D 3a Major Pradel Niederhausen(Kop)」;点の打たれたページ下の右の空白にはこういう行がある:「Nach Rückkehr sofort wieder instandsetzen- Fertigstellung melden(Kop)」=返却後素早く修理せよ――完了は報告せよ(Kop)。」

そのため、確信を以てとまでは言えないが、まず間違いなくここの筋書きはアングロ=サクソンの印字打ちがドイツの機械でこの電報を打ったものだ。ドイツの印字打ちが比較的珍しい英語の印字機で印字したという筋書きはよりありそうにない。ドイツの印字打ちがドイツの機械で印字した、あるいは英国の印字打ちが英国の機械で印字した、というのはほぼ有り得ない筋書きである、偶然にYとZを打ち間違えたというのは起こらないだろうからだ。そのため、再印字された版はこの再印字された版は普段は英国の印字機で打っているがこの時はドイツの型を使用した人物によってか、ドイツの印字機を使っていたがこの時は比較的珍しい英国の印字機を使用した人物によって作成されたと想定する事は妥当だ。これは平たく言えば、2通の電報の版Aは恐らく戦後にドイツ人とアングロ=サクソンが、そしてドイツと英国の印字機が集まった打ち合わせの中で(再?)印字されたものである事を意味する。もしこの紙面に、この文書は1942年に作成された原本であるという印象を与える記されているドイツ語の手書きの数字がなかったのであれば、これが問題になる事はなかったのだが。40そのためこれは、原本の複製を作成する無能なやり方である――しかし何故これらは後に「原本」の文書一式の一部となったのだ?――か、これらの手書きの印は本物に見せかけることを意図しており、つまり偽書であるかのどちらかだ。そのため、一番ありそうな筋書きは英国の印字機に慣れている人物が鹵獲したドイツの印字機で印字したというものだ。だからこの要約した紙は疑わしい。

この電報には信憑性がないという別の示唆は、2人の運転手の名前に言及している点だ:ゲッツとマイヤーに。今日まで、RSHAによって運転手として雇われていたそのような個々人は識別されていない。これは、殺人ガス輸送車の運転手としてあらゆる文書で全く言及されていないが、にもかかわらずそうした車を運転していたとどうにかして識別され、処刑された他の個々人とは完全に対照的だ(3.6.4.章、3.7.4.1.章、3.7.4.10章以降参照)。これは、この電報で言及されている運転手たちは恐らく存在さえしなかった事を示している。ブラウニングはこの重要な事実を注釈の中で隠している(ブラウニング著、1083年発表、79ページ、注釈75番):

「運転手ゲッツとマイヤーの痕跡を辿るあらゆる試みは成功しなかった。殺人ガス輸送車の識別された僅かな運転手は常時Sipo−SDの運転手であり、続けて殺人ガス輸送車の業務に割り当てられていた。」

この電報(版B、見かけ上は原本)の裏面には以下の手書きの文章がある:

「II D 3a(2)

ベルリン、42年6月11日

サッケル教授宛に、更なる行動と修理の即座の開始をするよう。件の車が到着したら伝えるよう依頼します。

ジュストの代理

II D 3a(9)

ベルリン、42年6月16日

注:

件の車は42年6月16日13:00頃にここに到着しました。修理は完全な洗浄の後即座に実行される予定です。

[署名判読不能]の代理

II D 3a 9

ベルリン、42年6月13日

1.注:登録番号71463のS車は完了し運転手と共にリガへと送られました。

2.)自動車駐車場の管理人へと注意と更なる行動を要求するようT・J・ニーダーハウゼンを送っています。

[署名判読不能]の代理

2.2.3.3.リガから1942年6月15日付 15 June 1942 from Riga

「RSHA宛。――ROEM. 2 D 3 A――ベルリン。――

国家機密事項。――

S.車への返信。――

SIPO及びSDの指揮官にて。ベラルーシで特別措置の対象としてユダヤ教徒の輸送が毎週到着します。――

そこに存在するS車3台ではこの目的に於いて不十分です。更にS車(5トン)の配備を要望します。それ以上に、既存のS車3台(ダイアモンド社製2台、ザウラー社製1台)用の排気可撓管20本をすぐに送るよう要望します、利用可能な排気可撓管は既に漏出するようになってしまっているからです。==

=SIPOとSDオストラントの指揮官

Roem. 1 T − 126/42 GRS. [国家機密事項]

そして署名:Truehess. HStuf。[訂正:Truehe, SS HStuf。]

課題:[手書き:]

1)更なるS車の配置はいつになりそうですか?

2)利用可能な予備の排気可撓管は注文中ですか、もしくはいつ配送可能になりますか?

3)回答用の草稿を提示ください」

この文書から上がったのは、ドイツ人はU.S.の会社ダイアモンド社によって製造された貨物自動車を殺人ガス輸送車として使用したという主張である。ダイアモンド社は1930年代と戦時中においてU.S.の貨物自動車市場で大手だったが、U.S.の貨物自動車会社が欧州の市場へと相当な規模で貨物自動車を輸送したことはない。ドイツに少数の選ばれたダイアモンド社の貨物自動車はあったかもしれないが、あったとして、それらは恐らく伝統的な貨物自動車ではなく異様な設計のされた車であるが、その一部が最終的に殺人ガス輸送車として使用されたという可能性は僅少だ。加えて、ドイツは1941年の終わりにU.S.が参戦した後は予備の部品を確保できなくなったため、それらの車は恐らく修理の信頼性のため使用されなかった。そのため、最も知られている貨物自動車の型――彼が一番良く知っている型――の1つを使用するのが賢いやり方だと考えた筆者が、ダイアモンドという名前をこの「電報」に入れたという方がずっとありそうである。ザウラーならドイツ内ではディーゼルとガス発生炉で良く知られた名前であったため、その名前をこの電報内で見ても驚くには当たらず、何より戦時中ソ連の見世物裁判の間、「ザウラー」という名前がUSSRの中で殺人ガス輸送車の型式として使用されていた、と既に言及されている。(それには3.5.1.章129ページで立ち戻ろう。)

そのため、1つ目の電報の要約版でZをYと打ち間違えた事とは別に、これらの文書の作成の裏にいる黒幕は恐らくドイツ人ではなく本質的にアングロ=サクソン(例えば、U.S.アメリカ人)である事をこれは示している。

既存の3台の貨物自動車は将来の週ごとの輸送の「工程」に不十分であるというこの電報の主張は筋が通っていない事にも注目すべきだ。それらの輸送それぞれでは約1,000人が入れられ(マットーニョ/グラーフ著、2005年発表、200ページから;ロイター著、1968年以降、19刊目、195ページ)ているため、1週間に5日働くと想定する場合、輸送車それぞれは毎日1回ガス殺する人数である(1,000÷5÷3=)67人を扱わなければならない。そのため「そこに存在する[既存の]S車3台ではこの目的に於いて不十分[だった]。」というのは完全に荒唐無稽だ。これは、この電報は、「継続している大量殺人という主張を、輸送された個々人全員が実際にガス殺されたとした場合に理論的に有り得る以上にさえ大きく見せよう」として作成されている事を示している。これは、この電報は現実に即しておらず宣伝工作者の創造に即している事を指摘する更に別の示唆である。

2.2.3.4.ベルリンより1942年6月22日付 22 June 1942 from Berlin

これは、更なる貨物自動車の要求への返事としてリガへと送りに出されたとされる電報の草稿である:

「Reichssicherheitshauptamt

ベルリンより、1942年6月22日

I1 D 3 a B. 240142番 s[ecret] S[tate]M[atter]

国家機密事項!

1.)T[ele]G[ram]

リガの保安警察及びSDオストラントの司令官

件名:S車

ザウラー5トン車1台の輸送は来月半ばになるかと思います。この自動車は現在、修理と僅かな変更のため帝国安全保全本省にあります。100mの可撓管も付属してお送りします。

以下の代理

(長としての署名)

2.)II D 3 a(9)にて即座にF[ollow-]u[p].

以下の代理

ラウフ

[2ページ]

課題:

1)追加のS車の配備はいつならできそうですか?

2)利用可能な(?)の排気可撓管は注文中ですか、もしくはいつ配送可能になりますか?

3)回答用の草稿の作成」

この2ページに印字された文章はリガ電報の下部の手書きのものの写しであるが、打ち手は「予備」(ドイツ語:Reserve)という語を判別できなかった。

この文書は前述で論じた電報2通の間の鎹である、その原書とされているものの1ページの手書きの注記にはこう書いてあるからだ:

いいえ。T・J・ニーダーハウゼンは更なる行動を起こしているので、ベルグラードからの電報の背景にある42年7月13日付の意見への注意をお願いします。技術的理由によりそれぞれ10mの輪っか5巻きのみが輸送可能です。」

1942年7月13日の意見では、セルビアから送り戻される貨物自動車は修理が終わっており、返却される予定ですと言及している――正確にはどこに? 輸送車を要求する電報は、どこかへ送らなければならないと示すことなくリガから来ているため、ベルリンは「その輸送車はリガへと送らなければならない」と想定しなければならない。実際にこれに先んじているのは、ベルグラード電報(2.2.3.2.章参照)の背景の手書きの意見に示されているものだ。実際には言及されている追放輸送のうち1回を除いた全てがリガではなくミンスクへと運輸「実施」されており、つまりその場所がかの輸送車が必要となったところとなろう。これが、その一文のその箇所が線引きされた理由なのだろう。とは言え、件の輸送車を送るのに必要である最重要の情報――目的地――がどこにも言及されていないというのは衝撃的である。

同じく奇妙なのは、その1ページにリガからの電報への回答そのものを既に含んでいてさえ、この文書の2ページの♯3の下にある回答用の草稿を作成してくれという注文だ。

41 今日の排気管の一部は耐熱仕様の合成樹脂製あるいは鉱物繊維製でさえあるが、そうした材質は第二次世界大戦中はまだ存在しなかった。

42 しかし今日の可撓管は極めて柔軟で、通常は密閉されてもいる、www.flextraction.co.uk/pdfs/hoses/metal-hoses/Metal-Hose-375-Special-Fibre-Seal.pdf参照。

2.2.3.5.漏出するようになってしまっている排気可撓管 Leaky Exhaust Hoses

排気可撓管、換気可撓管、あるいは吸引可撓管として広く言及される可塑性の金属管は、通常、薄く、時に亜鉛張りされている、螺旋のようにぐるぐる巻きにされた鋼鉄製の帯である。41それらは端で重ね巻かれ、そこで溝の中で結合する。これによって幾らか柔らかくなるが、こうした可撓管は(特別に密閉しない限り)気密性ではなく、耐圧性もない。ガス注入以外では、こうした可撓管は無形の物体(穀粒、粉末、顆粒剤、砂粒等)を転送するのにも使用され、そうした場合にはゴム管あるいは合成樹脂管が余りにも早く損耗してしまう。当時のこうした金属管の特徴として、比較的柔軟性がない事が挙げられた。42今の場合だと、水平な排気管から貨物区画の床までの、可撓管が90度の曲がりを持つと言われる箇所では、この柔軟性の低さによって装着が困難となり、金属管を排気管からまず下へと曲げ、それから弧を描いて床の開口部へと上げ戻しては路面に当たる危険が生じる(図画26、378ページ参照)。考える頭を持つ技術者は、そのため可撓管を曲げるのを避けようと床にL字型の管を装着させるか、それより良いやり方として、貨物区画の壁の低い方(格子の下)に空けた穴に通した排気管で接続する、そうすれば物がその管へと落下する、あるいは液体がその管へと流れ込むという危険性を排除できるからだ。そうした可撓管が全く必要不可欠であった場合には、そのような接続は金属可撓管の中の平たい形のように曲がった形のみを要求するだろう。

これは次の論点に通じる:通常の排気管の構造が可撓管を要求することはなく、通常可撓管を有していることはないし、輸送車を「殺人ガス輸送車」に転向する為に金属可撓管を使用する完全な必要性があるという理由は見られない。排気管は硬質の管で貨物区画に接続できる、硬質の管は十分熱膨張に耐えられるのだから。しかし、37ページで説明しているように時折貨物自動車が通常の輸送装置として使われる場合には、貨物自動車への排気管の逆にできる接続は要求される事になるだろう。そして実のところ、多数の法廷の評決の主張は「殺人ガス輸送車はまず貨物区画の内側に施錠した犠牲者たちを乗せて処刑地へと走るが、ガス殺そのものは到着後にのみ起こり、そうなる際は自動車がまた停車する」(4.2.7.章参照)というものだ。こうした工程が合理的で有効的かどうかは、ここで私が論じようとしている疑問ではない。

可撓金属管が必要不可欠になるのは、貨物区画が「その空間へと繋がり、そして動かせる排気系」を要求する特別な設計である場合のみだ。しかし、移動可能な貨物区画という主張は私が出会った目撃証言全ての中でたった1つしかなく、そこでは積荷を下せるよう貨物区画が持ち上げられるようになっていた(コーゴン著、1993年発表、70ページ)。しかしそれは、貨物区画から排気系を取り外した後なら実行できる。加えて、この証言には他のあらゆる目撃証言との、そして現存の文書類との甚だしい矛盾があるため、問題なくこの文書は無視できる。

熱せられたガス用の金属可撓管は亜鉛鍍金されているため、比較的腐食に耐性がある。排気管及び排気可撓管への危険は主に、排気ガスそのものに含まれている亜酸化窒素や硫黄酸化物のような酸性物質であり、これらは水に溶けたなら極めて有害な酸になる。操作してから最初の数分以内に、排気系統が冷え、その内側で排気ガス内の水が凝結する時に排気管と排気可撓管内に水が形成される。他の理由で管の内側で生じた液体の大半は、内燃機関が始動してすぐに噴出されるだろう。

43 鋼鉄への様々な化学物質の腐食効果はwww.engineeringtoolbox.com/metal-corrosion-resistance-d_491.html参照。

この「電報」は可撓管が漏れる理由を提供していないが、次章で解析されるジュスト文書は「生じた液体」がその原因であると示唆している。それで意味されているのは体液だと仮定できるが、そうした液体――糞尿、血、唾――はいずれにせよ腐食性ではない。実のところ、仮定されている大量殺人筋書きの中で想定されている体液の主成分である唾から生じるアンモニアは僅かに塩基性であり、そのため部分的に中和する事によって賛成の排気ガスの腐食を僅かに減じるだろう。43

だから金属可撓管あるいは金属管が錆尽くしてしまう迄には何年もかかり、それは亜鉛鍍金された場合には延長される。ではリガは何故3台の貨物自動車用に20本(!)の新たな排気可撓管を要求し、ベルリンは100m(個々の長さは5mである可撓管なので)を送る準備をしたが、「技術的理由によって」その量をたった5m×10mへと減らさなければならなかったのだ。これは、これらの可撓管はまたほんの1〜2ヶ月後には漏れてしまうと予想している事を意味していると言えるだろう。誰かが斧や包丁で切ってしまうのか? まさか地面に当たって擦り切れてしまう程低く垂れ下がっていたのか?

それ以上に指摘したいのが、ベルリンがリガから受け取った電報には排気可撓管を供給する為に本当に必要な情報が含まれていないという事だ:その直径が、排気管の太さは様々だというのに。異常なダイアモンド社貨物自動車2台に装着させなければならなかった事を考えるに、この情報は容易に分かるものではなく、ベルリンにいる事務員らに分かるものと判断する事は不可能だろう。

2.2.4.ジュスト文書、1942年6月5日 The Just Document, 5 June 1942

44 ドイツ語の原本は付録4参照。

この書類の覚書はコブレンツにあるドイツ連邦公文書館本館の調査書類R 58/871 fo 1に含まれている文書の1つであり、全部で22ページからなる。この調査書類には「特別自動車」に関連するものが含まれている。44以下で引用するこの文書はコーゴンのドイツ語版内で完全に複製されている(1983年発表、333〜337ページ)。その仏語及び英語版には1ページの複製と、その完全な文章の翻訳のみを含めている(英語版:1993年発表、228〜231ページ)。

イングリッド・ヴェッカートはこの文書をその著書2冊の中でも同じくこの文書を解析している(1985年発表、23〜28ページ;2003年、231〜236ページ)。私の以降の解析は、大部分でマラスの観察に基づいている。

45 この文書の複数の版で異なる節に下線が引かれていて、恐らく後世の追加であるため、ここでは下線はどれも省略している。

2.2.4.1.翻訳45 Translation
II D 3 a (9) No. 214/42 g. Rs. Berlin、1942年6月5日 Onliest Copy. Top Secret!

I.覚 書 :

表題:運用されている、そして製造工程の内にある特別自動車への技術的修正。

例えば1941年12月以降、97,000個が、自動車の不具合が確認される事もなく運用されている自動車3台で処理されています。クルムホーフ[=ヘウムノ]での既知の爆発は単なる事故と評価されています。その原因は操作の誤りによるものでしょう。そうした事故を避ける為に、特別な達が関連する部局へと発されています。その命令は守られているため、安全性が大変高まっています。

他の経験によって以下の技術的修正が得策であると分かりました:

1.)過剰圧力を避けながら一酸化炭素の急速な流入を可能にするため10cm×1cm[4×0.4]の切れ目2つを背面の壁上部に空けるべきです。外側から容易に動かせる蝶番付きの金属蓋で覆うことで、過剰圧力の可能性を自己制御できるようにします。

2.)輸送車の許容人数は通常1m2[10sqft]につき9〜10人です。広々としたザウラー特別自動車では過積載にはなっていませんが、未舗装道路での積載容量はこれによって非常に減少してしまうため、この形での活用は不可能です。積み込み区域の削減は必要不可欠であることが分かりました。これは凡そ1m[39]ほど車体を縮める事で達成できるでしょう。個数を減少させても、上記の困難さは全然解決できないでしょう。それは、空き空間にも一酸化炭素を充満させなければならないため、個数の減少によって作戦時間が延長してしまうからです。それとは対照的に、貨物空間を縮めて貨物空間を立錐の余地もなくする場合には、余分な空間はないのですから、作戦時間を十分に減少できます。

製造業者との打ち合わせの中で、貨物区画の短縮は車体重量に不利益な結果を齎すという指摘を先方から受けました。前車軸の超荷重が起こる事を強調していました。しかし実のところ、作戦中には常に後方の扉に圧倒的に重量がかかっているため、好ましからざる重量配分は今でも起こっています。そのため前車軸への追加の加重は起きません。

3.)内部で生じる液体による腐食によって、排気管と自動車を接続する可撓管はあちこち頻繁に錆びてしまいます。これを避けるため、上にある下り坂から伸びる入口に液体注入用の太管を装着します。こうすれば液体の殺到を防げるでしょう。

4.)自動車の清掃を容易にするため、しっかりと閉じられる排水口が床の中央にあります。直径200〜300mm[8〜12”]程の排水口の蓋には、作戦の間に液体がほぼ漏れないようU字水溜め管を装着させます。詰まりを防ぐため、U字水溜め管にはその上に漉し器を付けます。大きなゴミは自動車の洗浄の間、大きな排水口を抜けて漱がれます。この自動車の床は排水口へと僅かに傾斜させます。これによって液体全てが迅速に中央へと流れるようにします。これによって液体が件の管に入るのをおおよそ防げます。

5.)装着していた監視窓は殆ど使用しないため、もう撤去します。自動車の製造中、この窓の省略によって難しい装着と密封に関する労働時間実績が減少します。

6.)電灯設備は通常以上に破壊から守るようにします。照明器具の窓がこれ以上損傷しないように照明器具を鉄格子で覆います。実践経験から、照明器具は恐らく全く使われていないため、どれも省くべきです。しかし、後方の扉が閉じられている時、即ち、暗い時、過重は毎回素早く後方の扉へと向かいます。それは、闇の間、過重は光へと群がるからです。これによって扉に掛金を降ろすのは難しくなります。扉が閉じられた時点で騒音がいつも発生します、恐らく闇の不気味な性質の為でしょう。この理由のため、事前に、そして作戦の最初の数分の間、明かりを灯しておくのは得策です。明かりは夜間の作戦の間にも、自動車の内装の清掃の間にも有益です。

7.)より早く簡素に自動車の荷下ろしを達成する為に、取り外し可能な格子を装着します。U字水溜め管の軌条に乗った小型の車輪でそれを移動できるようにします。摘出と引き込みは、自動車の下に設置された索条巻き上げ機によって行われます。この装置の注文を受けている企業は、この設計は人的物資的欠乏によって現在実行不可能であると見做しています。その実施は別の企業に提示されます。

上記で言及した技術的修正は、別の大規模な修理を1台が受けなくならなくなった場合には、稼働中の自動車のみに対して実施されます。前述の修正はザウラー社の注文中の車台10台に対し可能な限り考慮されます。製造者が技術的修正は現在不可能あるいは些細な修正のみだと会議の際に強調したため、その10台のうち最低でも1台に対してこれまでの実戦的経験に由来する全ての改良と修正を装着させるのに、異なる会社を使って挑戦しなければなりません。ホーヘンモースにある企業に対し、1つは実施するよう注文しろと指示します。

状況に鑑みるに、この自動車の直近の完成は予期しなければなりません。その自動車は規範としてでなく予備の自動車としても利用可能であり続けるか、運用されなければなりません。それが信頼できると証明されたなら、他の自動車は実働隊から1台1台引き揚げて模範の自動車の後を追うよう転換します。

II.II D隊の隊長

ラウフSS-親衛隊中佐

貴殿の注意と裁定の為に提示しました。

p.p. Su 4/6
Just wa”
2.2.4.2.解析 Analysis
2.2.4.2.1.書式 Form

イングリッド・ヴェッカートはこの文書を徹底的に批判した最初の人物であり、関心を持つ読者に対してはそれを言及する事にする(ヴェッカート著、1985年発表、2003年発表)。ヴェッカートの最新の論文の何節かの概要を下記で提示しよう。しかし、この文書内にある異様さや誤りを見つけるにはドイツ語の幾つか基礎的な知識を持てばそれで十分だ。

まず第一に、書簡上部には存在しない最上級「onliest」(「einzigste」)が使用されている(これはドイツ語の日常会話においては極めて一般的な誤りではあるが)。かなり変なのは手紙の最初の単語に「例えば」という表現が使われている点だ。イングリッド・ヴェッカートが適切に指摘している通りだ(2003年発表、233ページ):

「手紙が『例えば』から始まるのは荒唐無稽です。『例えば』という語は、前述に何かを描写していたあるいは主張していた時にのみ意味を持つものであり、それの為に続いて例示が続きます。この事例での『例えば』は『表題:』行への言及をすることさえ不可能です;『表題:』行は、必要不可欠な技術的修正の話をしていますが、こちらの文の方では即座に自動車内に不具合は生じていないと述べているのです。そしてそれは、技術的修正の為の必要性を示す例では全くありません!」

荒唐無稽な手紙の出だし以外では、一語目に「例えば」を使用しているということは処理された97,000個というのは数ある中のほんの一例だということを含意している。しかしこれの筆者はこの「数ある」が何でありうるのかについて読者に対し藪の中に入れている。

コーゴンが、何かを省略したという事実への仄めかしも全くなしに「例えば」という実情暴露の語句を省くことで著書内で2度捏造を犯している事(1995年発表、55ページ、228ページ)に注目してみるのは興味深い。

その上、「Siphon」という語には誤字で「y」がついており(ところでこれは英語での書き方だ);「weitgehendst」という語は実際には「weitestgehend」であるべきだが、この誤りはドイツが母国語の者がするものであるため、これ自体はこの手紙への疑いとはなり得ない。

「照明器具の窓」(「Lampenfenster」、6段落目)という語はドイツ語でも、技術的専門用語でも、妥当な言葉でもない。これは「Lampenglass」(照明器具のガラス)あるいは「Lampenschirm」(照明器具の傘)と書くべきである。

Syphonkrümmer」(水道曲管)という語は冗長だ、「Siphon」は既にU字水溜め管に言及しているため、「Krümmer」(文字通り:曲げるもの、曲管の意味)をそれに加える必要はないのだから。

これらの行の筆者がドイツ語が母国語の話者かどうか、そして技術者かどうかという疑問がまず湧いてくる。それに劣らないのがこの疑問だ:ここでは誰宛に誰が書いたのだ? この手紙の一行目には、この覚書を作成した組織の略語が含まれているように見える:II D 3が。受取人は明確に言及されており、名指しだ:II D隊の隊長だ。ウーヴェ・ディードリヒ・アダムによれば(1985年発表、241ページ)、II D 3は「自動車輸送部[……]、技術問題担当課」のことだそうだ。署名者ジュストは、そのため自分の上司の1人に送られる手紙に署名したが、この覚書の調子はこの仮説を確証してはいない:筆者は説明から始めているが、彼は「命令を受ける者」から「命令を与える者」の役割へと変わっていっている。

与えられている指示の中に、この覚書には同封があったかを示すものはない(この場合には、「(複数の)同封」[Anlage(n)]という語句あるいはそれぞれの要約[Anlg.]が文書内に含まれなければならなかった)が、これの内容を研究していく間に、それに関する疑問は複数の絵と図画を要求する事になるだろう。この覚書には大まかな指示の要素はない――微に入り細を穿っている:水管の直径、狭間さまの位置と大きさ;蓋の在り方:格子の摘出と引き込み等。

こうした準備段階での観察は、多数の表面的な奇異さを示しているこの文書の内容の以降の研究の間、読み手に最高の警戒心を抱かせるものである。

2.2.4.2.2.内容 Content

この文書のまさに一句目をまず見てみよう:「例えば1941年12月以降、97,000個が、自動車の不具合が確認される事もなく運用されている自動車3台で処理されています。」ベッカーの手紙の私の解析(48ページ)の間で、1941と42年の間の冬にドイツ軍がロシアと関わらなければならなかった壊滅的な状況については既に説明している。そのため、ロシアの冬の間ドイツ軍の装備の大半は極限の寒気によって運用不可能になっており、続く春での壊滅的な路面状況はドイツ軍の大部分の作戦を許可しなかった事を考えれば、そうした状況下での97,000人(あるいはそれに近い数でさえ)の処理は恐らく些細なものでは全くない。そのため「1941年12月以降」という節は、この時点でこの一文を歴史的に有り得なさそうなものにしてしまっている。

問題になっているこの覚書の物品は技術的に疑問がある;既存の自動車への6つの修正は、将来製造されるものと同じくこう示されている:

1)狭間さまと蓋の追加;

2)貨物区画の短縮;

3)排気ガス通過管を太いものに取り換える;

4)床に排水口を追加し、床をそこへと傾斜させる;

5)(将来の自動車から)監視窓を取り除く;

6)防護された照明器具を改良する;

7)引き込み可能な格子を追加する。

示されている変更を論じる前に、97,000個が処理されたという第一文への注意にまた目を向けよう。

Nazi Mass Murderの、「A Code Language」という表題を関している第2章では、「絶滅」を隠す為に「ナチス」が使用したと称する暗号を扱っている。これに留意する限り、この覚書の著者は、その前置きとなる文の中で「個」という種類が意味するものである97,000人には述べていない。しかし留意すべきこの手法は極めて原始的で無駄に終わっている、以降で、そうした「処理される」ものが意味するのは人間だけであるという事が余りに明らかだからだ。(ここで、この導入となる段落は人数の証言として機能しており、上司に向けられているものである点に注目してみよう。)

46 戦時中のザウラー社の重積載自動車は最大で5メートル・トンの積載容量を持つが、1942年4月27日のRSHAの手紙では4.5メートル・トンに言及している(付録4参照、そこではそれぞれ75kgの人々60人、あるいはそれぞれ60kgの人々75人に相当させている)。

47 このような大規模な作戦で無傷というのは、コーゴンによる執筆書籍の中で「『S車』の中で、そして諸絶滅収容所の最初のガス殺室の中で、意図的に調整不良にされた内燃機関で生成された一酸化炭素でいっぱいの排気ガスが使用されました」と著したジョルジュ・ウェラーズが主張するのとは正反対に、内燃機関は通常通り操作された事を示している。意図的に調整不良にされた内燃機関がこの長い期間無傷で機能したというのはありそうにない;そのような調整不良の内燃機関は熱暴走と、排気音消音器内での爆発性の燃料/空気の混交で爆発を起こす傾向がある。そのような内燃機関はまた、燃料を途轍もない量消費する間に生じる力を大幅に減少させてしまう。それ以上に、特にディーゼル機関の場合、過剰な量の燃料で内燃機関を氾濫させた場合、微粒子(ディーゼルの排煙)によって内燃機関が過剰に傷んでしまう。しかしそのような状況下でさえ、ディーゼル機関の排気ガスでの処刑は依然として数時間続いてしまう;1.3.1.章とパトル著1957年発表の書籍参照。

3台の輸送車内で6か月(180日)間で97,000「個が処理されました」というのは、貨物自動車それぞれは(97,000÷3÷180)毎日180個を処理した事を意味しており、これは1回60人を乗せる貨物自動車は毎日3回「載せた」事に相当する。46この作戦の責任者の目には極めて満足いくものであるに違いないこの結果を考えると、これらの「自動車の不具合が確認される事もなく[……]」「成果」を出した自動車に多数のそして確実に重要な修正を要求した事には驚くしかない。47その第一文内で筆者が主張している通りに傷一つなく効率的に運用されたのだとしたら、何故変更するのだ? 思い出そう:壊れていないものを直すな!

これから要求されている修正それぞれへの精査と寸評をしよう。

1.狭間さまと蓋の追加

10cm×1cmの狭間さま2つを貨物区画の後ろの壁に追加して過剰なガスが逃げられるようになるという要求は、この覚書がしたためられた当時そのような狭間さまは存在せず、ガスは出る術がなかった事を意味する――そうでなくては追加する狭間さまが不要になってしまう。そのため貨物区画は完全密閉されており、扉が開かれるまでガス圧は内側で高まったのだろう;これまでに解析した多くの「目撃証言」もこれをはっきりと確証している。にもかかわらずおおよそ100,000人がその区画内でガス殺されたのだと言われている。思うにこれは全く有り得ない。

排気管を密閉した貨物区画へと接続する事は、即座且つ急激なガス圧の増加を齎し、必然的に貨物区画を圧迫し、最終的には破裂させてしまうだろう(1.3.2.章参照)。その区画が結果として生じる高い内圧に耐えるというのは極めてありそうにないが、その場合でさえ、逆圧が特定の圧力に達するとすぐに内燃機関が死んでしまうだろう。

そうした事実を考えるに、どのようにすれば記述されている状況下でひと一人でさえガス殺できる可能性があるのだ? 「クルムホーフでの爆発」への言及は答えになっていない、何故なら第一にこれは1つの事件だったと述べており、第二に欠陥のある設計によってではなく操作の誤りによって起きたのだと言っているからだ。

しかしもし排気孔が貨物区画に追加された場合には、状況は即座に改善するだろう;接続している可撓管は簡単に排気管へと付けられ、その場合貨物区画は内側を排気ガスが流れる巨大な消音器として機能する。

この覚書の筆者は、狭間さまには「過剰圧力の可能性を自己制御できるように」蓋を付けると明示している。これが単純に拙い言葉選びの事例でない限り、我々はここで理由に関する誤りに関わることになる。勿論これは過剰圧力を防ぐ狭間さまであって、蓋ではない;それとは正反対に、後者はその重みと特定の狭間さまの一部を覆うことにもよって、蓋の開く度合いに基づいて既存の厳密な過剰圧力を作り出す。内燃機関の生成するガスの量を考えるに、仮説上のガス殺任務の間これらの蓋は実際には過剰圧力を防ぐため常時開く位置にしておかなければならない。なら蓋は何の為にあるのだ? そのような蓋の追加の唯一技術的に尤もらしい理由は、過剰圧力が成立してしまう事と、排気ガスが貨物区画に流し込まれていない間に自由に空気が循環してしまう事の両方を防ぐことだ。だがこの輸送車が人々のガス殺以外の目的では使われていない場合、何故それが必要なのだ? こうしたRSHAの特別自動車の本当の目的としてありそうなものを論じる2.2.6.章でこの論点に戻ろう。いずれにせよ、仮説上の殺人ガス輸送車にこれらの蓋の不要性な事は、この筆者の注意から外れているように見える。

後の1942年6月23日の、恐らく信頼性のあるRSHAの文書の中で、RSHAに齎されたザウラー社の最初の貨物自動車20台は後方の扉に「滑り板付きの開口部」を有していたという事実への言及があり、つまり本物のザウラー社の貨物自動車の貨物区画は完全気密性では全くないが、そのような滑り板はその設計にもよるが過剰なガスが出るのに大変邪魔だった可能性がある。そのRSHAの文書はジュスト文書で記述されているものと同じ種類の狭間さまと共にそうした滑り板を取り替かえることに言及しており(323ページにあるこの文書の7点目参照)、一方でジュスト文書ではそうした狭間さまは取り換える物品ではなく新要素であるという印象を与える。

2.貨物区画の短縮

この要求をしている2段落目は、抽象的で知的な構造物の結果であるように見える。

−第一に、この覚書の筆者は件のザウラー社の貨物自動車は「未舗装道路での積載容量はこれによって非常に減少してしまうため、」「過積載にはなっていませんが」1m2につき9〜10人は乗せられないと述べている。

1.意見:ザウラー社の車台の上に装着された貨物区画が(5.8m×2.3 m≒)2013.3m2の表面積を有していたと考える場合、1m2につき9〜10人の密度で乗せると120〜133人の間を乗せることになるだろう。

まず初めに、この量は証人たちがこれらの自動車について証言したもののうち上の方で、一方で一番頻繁に出た主張は50〜60人ほどだ(4.2.4.章参照)。

48 通常なら平均体重75kgが成人では想定されるが、子供のより小さな体重も想定しなければならないため、平均体重を60kgへと減少させている。

次に、人の平均体重を60kgと想定すると48、この密度では合計荷重が7〜8メートル・トンの間にもなってしまい、これはザウラー社の5トン貨物自動車46の最大許容荷重を2〜3トン(40〜60%相当)超えている。そのため、「過積載にはなっていませんが」という主張は明確に偽りだ。

最後に、主張される状況でその密度で人々を詰めるのは、訓練された協力なしには心理的に不可能だ。法廷評決に従えば加害者が行ったと言われているように彼らを打ち据え、脅せば、協力ではなく恐慌が起こる可能性の方が高い。この文脈でマラスは新聞の報告を引用しており、それによると東京の地下鉄での日本人の移動では、全員が一所懸命に協力し挑戦しているというのに1m2につき7人ちょっとを超えて詰める事に成功していないそうだ(Le Monde、1985年1月20/21日刊行)。

そのため1m2につき9〜10人をそうした貨物自動車に乗せられた、そして普段そうしていた、という主張は単純に嘘っぱちだ。

2.意見:自動車の未舗装道路での積載容量は、その大半がその設計に依存しており、荷重にではない。これは、複数の同軸――その中には前車軸もある――と、減速機と、そして恐らくは差動制限装置の存在によって主に確証される。(未舗装での貨物自動車の運転の理由でも同様だ:複数の法廷評決によれば、その貨物自動車は犠牲者たちが埋葬されたとされる未舗装の大規模墓地あるいは対戦車壕へと運転されたと言われている事が分かっている。)

−この覚書の筆者は無条件にこう述べている:「積み込み区域の削減は必要不可欠であることが分かりました。」

3.意見:この文の表現の仕方は、積み込み区域の削減は未舗装道路での積載容量を埋め合わせるだろうと仄めかすものだが、これは大変に奇妙だ。しかし読み続けると、大きさの縮減は別の理由による需要である事が明らかになる。

−この手紙の筆者が次に主張しているのは、邪魔のある未舗装道路での積載容量は「個数を減少させても」直らないというものだ。

4.意見:貨物区画内のそうした閉じ込められた者の数の減少は実のところこの困難さを解決するだろう――超過荷重がそもそもの理由であるのであればの話だが。しかしそうした試みは適していないと主張されている、何故なら……

−この文書の筆者は、貨物内の人数の単なる減少は「空き空間にもCOを充満させなければならないため」殺人に必要な時間を上昇するだろう事を立証すると主張している。

5.意見:由来不明の殺人ガス輸送車の2メートル程の天井の高さ(例えばロイター著、1968年以降刊行、XXI巻、230ページ)――これくらいないと犠牲者は輸送車内で直立できない――を想定すると床面1平方メートルそれぞれの容積は2m3になるだろう。高さが1.7mしかない貨物区画を有するザウラー社の貨物自動車1.7mの場合なら、それは1.7m3になるだろう。更に平均容積がそれぞれ60リットル(≒60kg)を持つ9.5人が1平方メートルに実際に詰め込む事を想定すると、彼らは0.57m3程を占有し、これは(高さ2mの天井で)総容積の28.5%の量と(高さ1.7mmの天井で)33.5%の量になり、つまりそれでさえ71.5%と66.5%をガスで充満させなければならない。劇的に密度を減少させて1m2につき5人――協調していない犠牲者たちでも遥かに達成しやすい密度――にした時でさえ、ガスで充満させなければならない百分率は71.5%から85%へと(2mなら;+19%)上昇し、同様に66.5%から82%(1.7mなら;+23%)へと上昇する。そのため、犠牲者の密度を劇的に減少させてさえ、この空き空間はほんの僅かしか上昇しない。貨物区画全体に一気に排気ガスを流し込むのにはほんの1〜2分しかかからなかった(1.3.2.章参照)ことを考えるに、20%程のこの時間の延長は大量殺人者が心配するようなものでは全くない。これは、この筆者の心配は最良に見ても不適切である事を証明している。

gas-van-photo2.png

図画2:ザウラー社の大型ディーゼル貨物自動車、シリーズC、1930年代半ばから1950年代まで生産された。49

49 http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Saurer1038.jpg&filetimestamp=20041127172501

−この文書の筆者は自身の論理展開を続け、貨物区画(つまり、ガス殺区画)を1メートル短縮を短縮させれば「作戦時間を十分に減少できます」と主張している。

5.意見:ザウラー社の貨物区画の奥行を5.8mから1メートル分減少させるということは奥行が17%程減るということであるため、積載容量もそれに従って減少する。区画の横幅を2.3メートルと、そして1平方メートル毎に10人の密度を乗せていると想定する場合、積荷は133人から111人へと、22人程減少するだろう。関連する空き空間の計算は上記と同じような見た目になるだろう。このようにして見ると、そうした変更が「作戦時間を十分に減少でき」ると想定する理由はない。それとは別に:ガス殺装置が適切に製造され流れるガスの量が十分だった場合――これは開口部が完全に存在する場合のみになるだろう――空き空間の存在は基本的に窒息が発生する速度に基本的に影響を与えない。だから「ザウラー社の特別自動車」は、未舗装道路の許容荷重を維持する事が要求される(これは全く明らかではないが)場合に、必要なガス殺時間を著しく上昇させる事無く1平方メートルあたり9〜10人よりかなり少ない人数を乗せて良い事が確かめられる。そのため、貨物区画を短縮する要求の明らかな理由は存在しない。

−考え直したかのように、この覚書の筆者は貨物区画の短縮は「車体重量に不利益な結果を齎す」と、そして「前車軸の超荷重が起こる」と指摘している。”

6.意見:これは事実ではない。後方部分の短縮は実のところ荷重の重心――均等に分配されたと仮定して――を前方へと移動させてしまうが、総重量が減少するため(これはつまり、最初の仮説だ)、単純計算で前車軸への著しい荷重は生じない。勿論、これはこの車に概して超荷重をさせないという条件での話であり、その超荷重とは恐らく1m2につき9〜10人の密度で乗せるという場合であるが、その場合には前車軸ではなく主要な加重のかかる後車軸に主に影響を与えるだろう。

−この文書の筆者は、にもかかわらずそのような超荷重が発生すると確信しているが、対症療法を発見している:「常に後方の扉に圧倒的に重量がかかっている!」

7.意見:1平方メートルそれぞれにつき押し込められた9〜10人が、それより更に自分たちを押し付け、そのようにして総体としての重心を移動できるなどとどうすれば真剣に信じられるのだ? そしてそれとは別に:移動しながらのガス殺作戦中に、つまり、自動車が未舗装道路を走り、積荷を前後に、左右に押している間に、どうやって犠牲者は移動できたのだ? 車軸への超荷重の危険があるとすれば、それは未舗装道路の移動中に起こるだろう。この文が何かを証明しているとするなら、それは1平方メートルにつき10人近くの人々が貨物区画に押し込められたことはないという事実だ、何故なら一方向へとまとめて動き貨物区画の特定の部分へと大部分が行くという事態は、人々がぎゅうぎゅう詰めでは有り得ないという事を前提としているからだ。

纏めると:貨物区画を僅かに縮めるのは前車軸への超荷重を引き起こすというのは有り得ず、引き起こしたとしてさえ、それはまず間違いなく貨物自動車の後方へと雪崩込んだ犠牲者たちによって相殺されるものではない。車軸の過重に耐える能力は概して余裕をもって設計されているため、圧倒的な超荷重のみが車軸の寿命を縮めるか破壊さえする可能性があるという点にも留意すべきだろう。

3.排気ガス通過管を太いものに取り換える

この覚書の筆者はこう著している:

「内部で生じる液体による腐食によって、排気管と自動車を接続する可撓管はあちこち頻繁に錆びてしまいます。」

2.2.3.5.章で、既にほんの1〜2ヶ月で可撓排気管があちこち錆びてしまう事の不可能性を論じている。そのような金属製可撓管があちこち錆びるには数年かかるだろう。

続けて述べられているガス注入口(単数形)の変更の要請は、当時のガスは貨物区画床面にあるたった1つの開口部を通って貨物区画へと流し込まれていた事を暗示している。

ウド・ヴァレンディは、可撓管を繋げる事でガスが貨物区画の床へと導かれ、最初からすぐ、ガス殺の工程の間か貨物区画を清掃している間に液体がそこへと入っていったと想定すべきである、と主張している(ヴァレンディ著、1979年発表、30ページ)。私はこれには同意しない、どのような技師だろうと、その可撓管へと流れるであろう液体は熱い排気ガスによって吹き散らかされるか乾かされるだろうと正しく想定するだろうから、この液体の問題はガス殺の間問題として見做されないであろうからだ。しかし穴を他の物で塞がれていたというのはあるかもしれない、物が犠牲者によって偶然にせよ意図的にせよ穴に落とされたかもしれない。そのような穴塞ぎはすぐさま原動機を壊すだろう、そうなればガス殺作戦はそこで終わってしまうだろう。そしてもしそのような管塞ぎが偶然に起こりうるのだとしたら、犠牲者が故意にこの注入穴を物で防ぐ行為をどうやって防げるのだ? そのような状況下で97,000人をどうやってガス殺できるのだ?

接続可撓管の頻繁な腐食による破壊への言及は、この手紙の最初の主張、これまで「自動車の不具合が確認され」ていないを否定しているという点も指摘できる。

4.床に排水口を追加し、床をそこへと傾斜させる

排水口を床の中央に加えることは難しくないが、床をその口へと傾斜させて「液体全てが迅速に中央へと流れるように」設計するというのは全く容易ではない。利用されている自動車の床は概して水平であるため、この要求された変更は特別に窪んだ床の構造あるいは本来の床を覆うこの形をした2つ目の床を必要とする。どちらの解決法にも包括的な努力が要求される。

そのような床なら「液体が件の管(これは、ガスの流入に使う管への言及に違いない)に入るのを」防ぐであろうという続く一文に関して、この手紙の筆者は直前の段落で自分が流入管を床から離すよう要求している事を忘れているように見える、もし認識していたのであれば、――ガス注入口の移動という自分の提案はまず受け入れられないだろうとすぐに想定しない限りは――これは完全に貨物区画の洗浄の問題を完全に解決するろう。しかし彼の上司が排気口を床から外すというそのような小さな変更を実施しない場合、彼はどうすれば窪んだ床の敷設の問題の突破を真剣に想定できるのだ?

5.と6.監視窓を取り除き、防護された照明器具を改良する

監視窓の撤去は実のところ自動車の製造を容易にするだろう、ウド・ヴァレンディが指摘している通りにその設置は技術的問題を抱えていないとしてもだ。

照明器具の更なる保護の要求も妥当であるが、「闇の不気味な性質の為」恐慌状態に陥るのであれば、犠牲者たちが何故光源の損傷に関心を持つのかには同意できない。暗いなら、彼らはどうやって最初の場所にある照明器具を見つけたのだ? 照明器具が点いているなら暗くはない、そうだろう?

犠牲者が監視窓を壊そうとするという方がよりありそうだ、もしその窓が防弾仕様でないのなら、犠牲者が貨物自動車に入る直前に握った単なる石で破壊されてしまうかもしれない。そのため、監視窓の保護あるいは撤去の指示はここで完全に想定されているべきである。

扉が閉じられた後に犠牲者が「扉に群がる」傾向を持っていたというのは同意できるが、天井の照明器具が点いた時に「過重」が「光に群がる」ため扉へと移動するという筆者の説明は荒唐無稽だ。扉は「完全密閉」されていたとされているため、明かりがそこから漏れているというのは有り得ない。それとは別に、扉が閉められた後に貨物区画に入る自然の光は監視窓を抜けるものだけだろう。そのため、犠牲者が本当に光に群がったというのであれば、彼らはその窓へと、特にガス殺の開始後に、新鮮な空気を得ようとガラスを破壊したいというだけの為でも移動したのだろう。彼らが扉へと向かったというのであれば、それは扉がそこにあると知っており施錠されているにせよ突破しようとしたからだろう。このような反応は実のところ自然であり、実際に集団が自分たちの終焉を恐怖する状況ではその反応は強まって最高に頑丈な施錠された扉でさえ壊せるかもしれない(不運な仲間が死んでしまうまで密集して突き押すのは確実だろうが)。

7.引き込み可能な格子を追加する

そのような装置は設計が簡単そうに見えるが、その装着と運用は大変な困難さを引き起こす、この格子は重荷重を運搬できるようにする必要があり、この重量は格子を引き抜く際に梃子の力を発生させてしまうからだ。


纏めると、この文書は直前のものと同じ印象を与える:その技術的な不可能性の多さは先の文書のものに劣るものではない。特に、1つ目で要求した変更は元々の設計ではこの自動車は元来機能できなかったという事実を要求している;これは、この手紙の筆者への強烈な疑いを齎すものだ。後に見るように、イングリッド・ヴェッカートが見方を共有している。彼女の観察の概要の一部を次で要約しよう。

2.2.4.3.ジュスト文書でのイングリッド・ヴェッカート Ingrid Weckert on the Just Document

イングリッド・ヴェッカートのこの文書への元々のドイツ語の解析(1985年発表、23〜28ページ)は英語版で復刻されたものが出版された(2003年発表)。それを長く引用する代わりに、彼女の解析の要所をここで提供し、より完全に読むなら読者には彼女の全文を参照してもらうことにする。

出来事の首尾一貫した連続を反映している連邦公文書館の書類R 58/871の中身は以下の通り:

1942年4月:RSHAは荷下ろしを加速する装置を特別自動車に装着させる事を考えている。

1942年4月23日と24日:RSHAとガウプシャト社の代表が会い、可能な解決3つを議論し、その3つ目のみ、つまり引き込み可能な格子の製造が検討されることとなった。

1942年4月27日:RSHAは引き込み可能な格子の製造の為の正確な指示の書かれた覚書を所有している。

(1942年4月30日:ガウプシャト社宛の手紙の中で、RSHAは上記で言及している覚書に関する同意済みの設計変更を要求している。この文書はこの書類の一部というわけではないが、ガウプシャト社の返事である次の文書で言及されている。)

1942年5月14日:RSHA宛の手紙の中で、ガウプシャト社は1942年4月30日付のRSHAによる手紙の中で要求された変更の実施は人員不足のため不可能だと宣言している。

1942年6月23日:プラーデルによる内向けの記述。機密が保証されないからと、チェコ社によって製造された傑出した自動車の所有の不可能性を第一に論じている。その覚書の第二点は、RSHAによるガウプシャト社宛の手紙の草稿で、その中で1942年6月15日に行われたRSHAの職員とガウプシャト社の労働者の間の会合への言及があり、元々要求していた大規模な自動車の設計変更は破棄され、代わりに7つの小規模な修正になっている。

1942年9月18日:ガウプシャト社はRSHAに、返事として、要求されている設計変更は実行されるだろうが最初は1台のみにだと伝えている。

1942年9月24日:ガウプシャト社はRSHAに、残る9台の自動車も製造すると伝えている。

51 更に低いかもしれない、86ページにある私の考察参照。

これらの文書全てはRSHAの単一の書類参照番号を備えている:「II D 3 a (9) Nr. 668/42。」そのためこれらの文書は未分類だ。これらの文書は付録4で複製され、適当な場所に翻訳と寸評も付けている。

この書類R 58/871の中には更に2つの文書があり、書類R 58/871はこれらの文書とは関係がない:

この一覧にある1つ目は恐らく誤りによって(あるいは悪意ある意図によって)その書類綴じに偶然にも入れられ、一方で最後の1つはジュスト文書であり、これは異なる書類参照番号を帯びている:「II D 3 a(9)Nr. 214/42 g. Rs.」と、ここの「g. Rs.」は、この文書は「機密事項」に分類されることを示している。

書類R 58/871の疑わしくないこれらの文書は、種類を指定していない貨物の輸送が目的である特定の特別自動車に対して要求された修正に関する、RSHAとガウプシャト社の間の往復書簡の論理的順序を形成している。これらの文書の中に、犯罪的なものを取り扱うと示しているものはない。単一の書類参照番号を持っており、機密とも印されていないこれら全ての文書は、それぞれに枚数(ページ数ではなく)を持っており、時系列順に続いている。それらは専ら将来の、新しく製造される、特別自動車を意味する普通のドイツ語である「Sonderfahrzeuge」になされる変更を取り扱っている。

これらの手紙の中身から、確実にこれらの自動車は生きている人間の輸送の為に使用する事は不可能だったと導ける。

50 もっと低かった可能性さえある、86ページにある私の検証参照。

第一に、示唆されている会話の後のこの自動車の高さはせいぜい162.5cm(5’4”)50にしかならず、これは直立する人間の輸送には不十分である。次に、傾けられる機能を持つ床と天井の間の最小限の空間はほんの1メートル(3’4”)にしかなれないだろう、そうでなければ積荷が潰れてしまうからだ。そのためその積荷は何であれ人々というのは有り得ない、その大半でないとしたらその一部は、輸送車が人々でぎゅうぎゅう詰めだとしたら予想される死の後さえも直立していたと想定しなければならないからだ。

1つでは、高さ30〜40cm(おおよそ12”〜16”)だけ「傾斜している格子桁」を「貨物が最後の格子から運転区画の後部側へと落ちないように」将来の床格子の終わりに追加するという変更要求が示されている。しかしそのような低い格子では生きている立っている人々が乗り越えて落ちてしまうのを全く防げないだろう。

そのためヴェッカートは、これらの手紙の中で論じられている特別自動車はジュスト文書の中で論じられているものと同じでは有り得ないと結論付けている。

これとは対照的に、異なる書類参照番号を有するジュスト文書は、そのため明らかにこの往復書簡の線に属していないジュスト文書は唯一全ページにページ番号が振られ、「極秘」というゴム印が押されているものでもある。加えて、ジュスト文書は未来のそして古い「Spezialwagen」(特別車)への変更について述べており、この語は他の文書では全く使用されていない。この文書と他の文書の間の矛盾の概要は表1から拾える。

表1:書類R 58/871内の文書の比較
項目 往復文書 ジュスト書簡
送信元 記載有り* 記載無し
書類参照番号 II D 3 a (9) Nr. 668/42-121 II D 3 a (9) Nr. 214/42 g.Rs.
話題 新しい自動車への変更 新旧両方の自動車への変更
用語 Sonderfahrzeuge Spezialwagen
機密 無し 最高機密
ページ番号振り 枚数毎 ページ毎
※4月27日には“Reichssicherheitshauptamt”、それ以外には“Der Chef der Sicherheitspolizei und des SD。”
2.2.4.4.ジュスト文書と1942年6月42日の手紙 The Just Document and the Letter of 23 June 1942

見ている通り、ジュスト文書には無数の変則があり、またそれ自体が異例である事が、この文書への信憑性についての疑念を惹起する。書類R 58/871内の他の文書の1つである、内的な論理と時系列的な一貫性によってその信憑性は疑いようがない1942年6月23日付の手紙と比較し、ジュスト文書は実際には1942年6月23日のRSHAの手紙の書き直した剽窃であるとイングリッド・ヴェッカートは示すことができた。

どちらの文書にも7箇条あるが、RSHAの手紙の中身は常に無害である一方、ジュスト書簡は悪意を抱くよう調整されている(ヴェッカートの2003年発表、234ページからにある表にした並置参照、この書にも328ページ以降に複製を載せている)。どちらの書簡にもある7箇条の間に直接的な関連性はないため、これ単体ではその偽造を主張する強固な論拠にはならないだろう。しかしながら偽造の最も明らかな証拠は、6月5日付のジュスト書簡が2箇条目の中でなんとRSHAとガウプシャト社の間での協議に言及していることだ、その協議は、11日後にやっとなされていた事を1942年6月23日付の手紙が示している:1942年6月16日に!

このような異例が純粋に偶然の一致であり、日付が前であるのは意図的な行いではないと想像するのは困難である。

51 公文書館にある版は付録4(318ページ)参照。書物に出版されている2つの版は334ページに開始する付録5参照。

2.2.4.5.ジュスト文書の3つある版の比較 Comparison of the Three Versions of the Just Document

大変に興味深いことは、ジュスト文書は「最も唯一の」複製であると主張されているにもかかわらず、実際には少なくとも3つの「最も唯一の原典」形式が存在しているという事だ。そのうち2つに当たるのは容易である、それらは入手可能な様々な書物に再印刷されているからだ、その一方で第3の版は連邦公文書館の書類R 58/871にあるDIN A4の大きさ(21cm×29.7cm)の複写だ。3つの版の間の違いはここで要約しており、表2の中で更に詳細にしてもいる:51

表2:3つあるジュスト書簡の版の差異
ページ 連邦公文書館 NS-Massentötungen… NS-Prozesse
1 下線無し 日付の行に下線有り;「Seit」から「auftreten」までの3行に下線有り 下線無し
3 下線無し Es wurde」から「starkes」までの3行に下線有り 下線無し
4 下線無し Drängen」から「erfolgte」までの1行に下線有り 下線無し
5 下線無し SS-Obersturmbannfuhrer Rauff”の行に下線が引かれている 下線無し
5 右の余白に印と「ja」(然り)という言葉、加えて現在日時付きの頭文字:「R10/6」有り 印無し、言葉無し、頭文字無し、日付無し 印無し、言葉無し、頭文字無し、日付無し

52 リュッケルル著、1971年発表、209〜213ページ;リュッケルルは「Nazi Mass Murder」(1993年刊)という本の編集者たちの1人であたことは指摘しておかなければならない。

ヴェッカートはまた、連邦公文書館内の版の最後のページにある、ラウフによるものとされている頭文字は501-PSにあるものと酷似しているが、他の文書にあるラウフの署名や頭文字とは決定的に異なる、とも指摘している。そうであっても、何者がその頭文字を書いたか知れないので、それは大して証明していない。

こうした差異は印字の文には属していないため、3つの版は全て同一であるように見える。そのため、それらは全て単一の文書から派生したものだと想定できる。

「最も唯一の」写しであると主張されているにもかかわらずジュスト書簡には3つの版があるため、その「原典」は後の添削によって変更したと想定しなければならない。その原典はどのようなものだったのだ? 最小の変更を示している、NS-Prozesseで複製された版がそれか? あるいは頭文字と日付――受取人(ラウフ)と受取日(6月10日)を表していると解釈されている――を帯びている連邦公文書館にあるものか? それとも、Nationalsozialistische Massentötungen…内で複製された、無数の下線が引かれているものか?

論理的には、その原典は連邦公文書館内にあるものに違いない、その文書に信憑性があればの話だが。その場合、言及している2冊の本の筆者たちはその版を複製したが、余白にある数行と、末尾にある頭文字に加えて日付を切除したことになる。「然り」という言葉は単純にその本の為の複製の間に刈り取られたのかもしれないが、本文の領域にまで走っている、余白にある数行と日付を伴う頭文字は手作業で消し去られたに違いない(1971年にフォトショップのようなものはまだなかった)。しかしヴェッカートが正に指摘しているように、もし最後のページにあるラウフによる(?)署名と日付が彼らの命題を支えているのだとしたら、彼らは何故その署名と日付を削除したのだ? そして、この文書の写しを使用している検察官あるいは検事の誰かがこの文書の最も有罪にするような語句に下線を引いた――コーゴンの版で下線が引かれた理由がこれだ――事が有り得たとしてさえ、何故その人物は1ページにある日付に、そして最後のページにあるラウフの名前と階級に下線を引いたのだ?

こうした憶測から筋の通った結論に至るのは不可能であるため、この疑問には回答しないまま保留する事にする。

2.2.5.ベッカー文書とジュスト文書の比較 Comparison of the Becker and Just Document

1942年5月16日のベッカー文書と1942年6月5日のジュスト文書は共に、同時期に運用されていた試作機だったとされている同種の自動車に関するものだが、両文書の間にはかなり違いがある。実のところ、殺人ガス輸送車とされるものについて彼らが述べている内容は時折率直に対照的であり、両筆者は同じ物について書いてはいないのではという印象を与える。主な食い違いの要約は表3にある。これらは、2つの文書のうちどちらか片方のみが正真でありうると示すものである、昇進があるとすればの話だが。

その様式に関しても、1つの違いが際立っている:ジュスト文書は無傷の文字打ち機で作られ誤字や訂正がない(付録4参照)一方、ベッカー文書のB版(改行時1行分の空行有)はあらゆる種類の誤字と手書きの修正だらけである(付録2参照);版A、C、そしてD(改行時2行分の空行有)はより注意して書かれているが、現存している複製――写真――から判断する限りこの版はジュスト文書を作成するのに用いた注意深さには達していない。

表3:ベッカー文書とジュスト文書の並置
ベッカー文書 ジュスト文書
多数の欠陥への言及。ガス放出用の開口部への言及無し。 「自動車の不具合が確認される事もな」しの97,000人の処刑の報告。
無数の欠陥にもかかわらず自動車への変更の要求は無し。 不具合は生じていないにもかかわらず、7つの変更が要求されている(内的矛盾)。
輸送車の移動の困難さへの言及:湿った雨天の間、輸送車は運用不可能になる。 満載の間の未舗装路面上での大幅な容量減少と、貨物を減少させる必要性への言及。
貨物区画の完全密閉の維持の重要性の強調;この目的の為にベルリンへと件の輸送車を輸送する事すら検討されている。 要求された変更の1つ目は、過度の内圧を避ける為の1cm×10cmの狭間さま2つに関するものだ。
迷彩の目的に纏わる恒久的な欺瞞を獲得する事なしにこの輸送車を迷彩する。 迷彩に関して実施の試みはない。
ガスを吸入してしまう操作する兵隊への危険に徹底的に触れている――貨物区画は完全密閉されているというにもかかわらず。 そのような危険への言及はない。
筆者は、犠牲者は窒息によって死ぬのではなく、眠りに就く事による人道的な死を遂んている事を確かなものにしたがっている。 犠牲者の安らかな死を起こすような努力は実行されていない。

纏めると:その全てが単一の機械印字に基づいていて、特定の目的を達成しようと戦後に仕立てられていることが明らかな申し分のない文書であるジュスト文書の3つある版よりも、ベッカー文書の版A、C、そしてDは信憑性についてマシな印象を与える。この事は、ベッカー文書の様々な版の信憑性は歴史的に非の打ち所がないと意味しているというわけではない事は言うまでもない!

2.2.6.RSHAの特別自動車の本当の目的 The Real Purpose of the RSHA Special Vehicles

RSHAの特別自動車の貨物区画に関して書類R 58/871にある情報は、意図している貨物の正体について開示していない。確かなことはその物資は特段壊れやすいものではないということだけだ、荷下ろしは「素早く」かつ「機械的に」起こすべきものなのだから;この理由によっ「貨物区画全体あるいは2階部分は傾斜可能にする」のだと検討された。

以下が、意図された貨物の正体についてのピエール・マラスの仮説だ:

素早く機械的に荷下ろしが出来るようになっている記述された貨物区画を有するRSHAの特別自動車は、死体の輸送を意図していました。

下記の点が、マラスの仮説を支持している:

53 ガウプシャト社の技師M・バウアーの1961年3月21日ハノーヴァー告発の証言、2 Js 299/60参照;ベーア著、1987年発表、410ページに従った引用。

  1. こうした輸送車の換装の責任を負っていた組織は安全性と警察事案の責任も負っており、これらは第三者にこの貨物に気付かれないようにすることを示している。この貨物は、火葬場へと、野焼き場所へと、あるいは集合墓地へと一纏めに輸送されるべき、――処刑された者の、「自然」死の、あるいは戦争の犠牲者の――死体かも知れない。
  2. その貨物は明らかに壊れやすいものであったり繊細に扱うべきものであったりはしない(あるいは、最早そういうものではない)。
  3. 貨物重量4,500kgは大凡60〜75体の死体に相当し、これは平均して1平方メートルに6体の死体が乗っていた事になり、尤もらしく聞こえる。
  4. 要求された衛生上の手法:
    1. 全体を苦労なく清掃できるよう、輸送車の内側を滑らかな金属の薄板で覆うこと。背面の壁からの突起部には鉄の薄板で傾斜を付けなければならない。大きな開口部を貨物区画の床に付けなければならない。
    2. 輸送車の出口から放たれる悪臭を制限するため、貨物区画は密閉されていたが、明らかに気密性も耐圧性もない。側面上部の開口部で内部でできた過剰な圧力が逃げられるようになっているが、空気の入れ替えの方は防いでいる。
    マラスの支持する点に加え、私が独自に追加する:
  5. RSHAに命令され貨物区画設計と製造に協力したガウプシャト社の技師であるM・バウアーは1961年に「RSHAの雇用者であるプラーデルとウェントリットは訪問中、私に『自分たちにはチフスによる死者を輸送する自動車が必要になるだろう』と告げました」と証言している。53バウアーは自身が貨物区画を製造するがためにその貨物が何になるのかは知っていなければならなかったため、確かにその犠牲者の死因が何かは問題にはならない。そのためプラーデルとウェントリットは恐らくバウアーにその貨物について真実を告げているが、その存在の理由については真実を告げる必要はないだろうと私は考える。
  6. ニュルンベルクの口述書の大元の版では、オットー・オーレンドルフは一貫して「トーテンワーゲン」=死体自動車(あるいは死者用車)という語を使用していた。「トーテン」は後に削除され、「ガス」に置き換えられた(国際軍事裁判(IMT)、31巻、41ページ;3.5.3.章参照)。彼がこれをした理由は、彼はこうした自動車をそのように呼んでいたという癖によるものかもしれないし、将来の読者用の彼の自白調書に何とかして伝言を滑り込ませるためだったかもしれないとも想定できる。
  7. その死体の起源がなんであれ、ドイツの権力者たちは目撃者の数を最低限にすることに関心を持っていたに違いない、戦時中の目撃者は根や葉があろうとなかろうとあらゆる種類のうわさを流しがちだからだ。迅速な荷下ろしの機構はその目的を果たす手作業の労働者の必要性を減少させる。

こうした考察は、要求された迅速な荷下ろしの機構と最終的に実現した迅速な荷下ろしの機構の種類とは無関係に有効である。

この構造に対する主たる考察は、傾斜付きの30〜40cmの格子の高さは「積荷が最後の格子を超えて運転手区画の背面の壁へと落ちないよう」にするのは不十分だと言うことだ。1平米につき6体の死体を置けば山積みになるというのは事実だろうが、それは単に積荷の平均密度に過ぎないだろう。積荷は通常貨物区画の背面で特に高くなるのと同様、中程でも高くなる――迅速な荷下ろしにも言えることだろうが――ため、死体は最大でも2体しか貨物区画の前方部終端で折り重なって横たわらないと想定できる。その場合この格子は主目的――最終的に選ばれた荷下ろしの機構とは完全に独立している――と同様に脱着可能な格子での荷下ろしという補助的な目的に使われるだろう:荷重の排出の促進に。「荷物が床の格子の端と貨物区画の前方側の壁との間に落ちないように設計された」格子の低さは、単なる私の仮説の対象だけには留まらない。それは、『こうしたRSHAの特別車は、無数の生者を殺すのに使われた悪名高き「殺人ガス輸送車」と同一である』という正史に対する、より重大な異議にすらなる、正史はこう伝えている:排気ガスを込められる貨物区画の中で、人々は立錐の余地なく立っていた、と。ガス殺任務の後に貨物区画の前方側にみっしりと詰まった死体の多くは荷下ろしの間この小さな格子から落ちており、つまり荷下ろしの機構がどのようなものであろうと死体が自動的に取り除かれるのを防いでいたというのは明白だ。立っていた人々を柵のような構造物でぐらつかせないようにするには少なくともここで要求されている高さの3倍(1メートル以上)は必要だ。

「殺人ガス輸送車」に対する別の議論は貨物区画が1.70mと高さが低いことだ(1942年4月27日の走り書き)。引き込み可能な床の格子を装着したあと、この高さは7.5cm減少し、つまりたった162.5cmしかなくなっている(同書、1942年4月30日の指令でも同様)。自由に使える高さのより劇的な更なる別の減少が、U字型の軌条に巻かれる格子の床が付いた要求された新版(6月23日♯3の書簡)で発生している、これは床の格子を更に高く押し上げる事によってのみ達成されるからだ(311ページにあるマラスの図画参照)。

床の格子は車輪を収容する箇所の上――これは通常貨物区画の床面のたった7.5cm上より遙かに高いところにある――に設置しなければならないため、そして側面のU字の軌条は車輪を収容する箇所から言及された延長上に位置しているであろうため、主張される7.5cmよりも遙かに高さが失われる。実のところ、1平米につき恐慌状態の人々最大10人の重さに耐えられるようにしているとしたら、床の格子自体は既に5cm程の高さはあるだろう。そのため私は少なくとも30〜50cmは高さが減少しており、これは格子の上の自由に使える高さを1.20〜1.40m程度にまで減少させただろうと想定する。これから影響を受ける最大貨物容量の減少とは全く別に、、成人した個人がその貨物区画直立できないというのは言うまでもない:「乗客たち」はこの輸送車に入るのに屈むあるいは這いさえしなければならないだろう。

殺人ガス輸送車の仮説に対する別の議論は選ばれた自動車の型だ。戦時中、ドイツ国防軍はオペル社のブリッツ型の中型の貨物自動車(3トン)約100,000台を得ており、これは3,600cm3のガソリン機関を有していた。54適切な貨物区画を備えているこの自動車は「殺人ガス輸送車」として使用できた。しかしRSHAは代わりにザウラー社の重貨物自動車の購入を決心した、これはディーゼル機関を備え、つまり死の犠牲者を意図されていた者たちをゆっくりと苛むことしかできない車だ。RSHAは貨物区画を縮めようとさえ欲していた(323ページ以降にある付録4の1942年6月23日付の書簡参照)事を考えるに、それなら何故より短く、より適した貨物自動車が恐らくは遙かに低価格で其処彼処の道路脇にある時に不適切な貨物自動車で始めようと購入したというのだろう? そのため、こうした自動車の目的は排気ガスで殺すためではなかった、と想定しなければならない。

54 www.cokebottle-design.de/dokuwiki/doku.php?id=typenspezifisches:opel_blitz_3_to_3_6-36参照。

2.2.7.ターナー書簡、1942年4月11日付 The Turner Letter, 11 April 1942

この書簡は、当時セルビアでドイツの軍政の総監を務めていたSS-Gruppenführer(陸軍少将)ハラルド・ターナー博士によって1942年4月11日に書かれたと主張される。これはヒムラーの専属幕僚の長だったカール・ウォルフ将軍宛てだという。ミュンヘンでの1964年の彼自身の裁判で、ウォルフは――ヒムラーの副官として――ユダヤ教徒に何が起きたのかの知識を持たないと主張した(ギース著、1964年発表)。ウォルフがこの書簡を受け取ったか否かは不明だ。

ハラルド・ターナーは法的に博士号を取得しているため、高い教養を持つと考えられる。にもかかわらず、彼の書簡は綴りの誤り、台無しのドイツ語、そして荒唐無稽な内容でいっぱいであり、それは以降で私が論じよう。この書簡の筆者は、当時公式のタイプライターに含まれていたルーンの形をしたSSのタイピング文字を、横棒の上に二重に斜め線を引き、3/4低い行に更に二重の斜め線を追加することで模倣しようと試みた:/-/ /-/(下付き文字のように半行下げるだけでは不十分であろうことから、そうした正確性はこの4つの斜め線の事例全てに於いてどのようにして達成できていたか私は知らない)。

55 http://www.fpp.co.uk/Legal/Penguin/Reply/3.html及び私的な往復書簡。

セルビアの戦時中の軍政の総監であったターナーあるいはその事務官は、ルーンのようなSS打鍵を備えた適切なタイプライターを使用できたに違いない。しかし彼がそのようなタイプライターを持っていなかったとしてさえ、代替としての単純なSSの仕様は一般的であり、容認されていた。あの時代の公式な書簡の中にあのような無理矢理なSSルーンを私は見たことはなく、聞いたこともない。ターナーの私的な書簡冒頭ゴム印部も無様であり、書簡のその部分はこれは判子ではなくタイピングされたものであるという印象を与え、彼のSSの階級が含まれていないため、筆者は即席ででっち上げた/-/ /-/を使用することで冒頭ゴム印という印象を付与している。デイヴィッド・アーヴィングは、ベルリン文書会館のターナーの伝記欄に収められていたこの書簡の大本はドイツの標準的な書式(DIN A4、210mm×297mm)を保っておらず、代わりに米国の書簡書式を保っており、その紙の大きさは戦時中では利用できなかったと見解を述べている。55

その文書の複製(フリードランダー/ミルトン共著、1992年発表、第2部、284〜286ページ参照)とその和訳は付録6で見つかる。

2.2.7.1.問題のある内容 Problematic Content
2.2.7.2.問題のある言語 Problematic Language

56 1992年発表、第1部、356〜362ページ(NO-5810);11/2巻、282ページ以降(NO-3404);書式が似た無数にあるターナーの他の文書への言及はブラウニング著、2004年発表、521ページ以降の注記106、117以降、そして132;ブラウニング著、1986年発表。

ドイツ語の劣悪な使い方を考えると、これはターナーの普段通りの書き方なのか疑問が浮かんでくる。フリードランダー/ミルトンは追加で2通のターナーの書簡を複製している。56どちらの書簡も完璧に普通通りのドイツ語の用法を示していた。ターナーは時折複雑な語句を用いる傾向があったが、それらは文法的に正しく、一貫性があり、意味が通り、ここで問題となっている書簡とは正反対だった。

2.2.7.3.綴りと句読点 Spelling and Punctuation

多くの「ß」字を要求するドイツ語の単語は「ss」字で書き損じられている(誤った綴り:dass, weiss, erschiessen, Grüssen)が、極少数は正しい綴りだ。読点は不規則に配置され、文字、句点、読点、括弧、そして引用符の間の間隔は一貫していない。「Canada」は英国式の綴り方で、ドイツ式の“Kanada”とは異なる。

上で言及した他の2通の書簡はそうした不規則を示していない。1通目(1941年10月17日付、リヒャルト・ヒルデブランド宛て)は明らかに「ß」を押すことなく機械でタイピングしており、一方で2通目(秘書によってタイピングされた、1942年3月1日付ヒムラー宛ての書簡の写し)は一貫して「daß」という言葉では「ß」の代わりにsを2回使っているが、それ以外では正しく「ß」を使用している。この書簡ではまたルーンSSを使用しており、このことは当時ターナーはそのような装置を自由に使用できたことを証明している。

57 www.holocaust-history.org/19420411-turner-wolff/参照。

2.2.7.4.査定 Assessment

正史派の歴史家たちはこの文書を、「虱駆除」という語は実際には殺人ガスの「暗号語句」として使われていたことを「示す」重要な鎖の環だと見做している。57それは以下の文に基づいている:

「既に数ヶ月前に私はこの国で自らの手で可能な限りのユダヤ教徒を、特にある収容所にいた全てのユダヤ教徒の女子供を射殺しており、そして「虱駆除車」を得ている親衛隊保安局(SD)の助けがあればすぐにでも、その車によって約14日から4週間以内にその収容所からの決定的な排除が果たされるでしょう、しかしその排除は過去にマイスナーが到着し収容所のそうした諸事項を取り仕切って以来彼によって続けられています。」

58 NG-3354、またケンプナー著1961年発表、293ページで複写されている。

「ユダヤ教徒」は明らかに男性のユダヤ教徒のみを指している。1941年秋にゼムン収容所に囚われているユダヤ友人の命運に関連する様々なドイツの士官たちの往来があった。一方でパルチザン活動が拡大する中での捕虜としての男性を銃殺することが決定されており、ドイツの外務大臣リッベントロップは1941年10月2日の電報内で女性、子供、そして老人への敬意と共にこう決定している:58

ユダヤ教徒問題の完全解決用の技術的な手段ができ次第、ユダヤ教徒は川沿い[即ち、ドナウ川]に東方にある受け入れ収容所まで輸送される。

しかし正史派の歴史家たちはこれを単なる奸計と見做している:

[……]ナチスは精巧な虚偽を用いました:犠牲者は異なるより良い中継収容所へと移送されると告げられるだけでなく、目的地に到着する前に知る必要があるという嘘の『収容所規則』を与えられます。」(バイフォード著、2010年発表、19ページ;ブラウニング著、1985年発表、80ページに基づいている;ブラウニング著1983年発表、75ページ以降も参照)

しかし、これまでユダヤ教徒の移送先目的地を変更する文書は知られていない。そうした文書が見つからない限り、我々は収容所の「掃除」は大量殺人に相当するものではないが、追放に相当すると想定しなければならない。1942年1月20日のヴァンゼー会議の後、この「完全解決」を実行する為の官僚的な手法が確立したとしたら、道はそうしたユダヤ教徒の追放の為に用意されていた。

この文脈の中で、ターナーが当時ベルグラード外務全権大使だったフェリックス・ベンズラーに、最後の1,500人の男性ユダヤ教徒虜囚の処刑を、代わりに追放させようと試みることで妨害しようと介入したことに関するブラウニングの報告に注目するのは興味深い(ブラウニング著、1978年発表、61ページ;2004年発表、343ページ)。

つまり、本当の人生の中でターナーは比較的セルビア人及びセルビア系ユダヤ教徒に対して概して「温和」で、処刑に関心を持っていなかった。ここで解析している書簡は反対の印象を与えるものだ。

正史派の歴史家たちは上記で提起した問題のある要素は1つも言及しておらず、無視している。

十分な教育を受けたターナー博士があのような内容が次々に変わる米国定住の頭の弱い書簡を書き、その一方でSSルーンの芸術的な描写を一部構成させる為に自身のタイプライターをすぐに弄くり回す――あるいは秘書にそうさせる――ということが有り得るだろうか?

2.2.8.アインザッツグルッペBによる活動報告 Activity Report by Einsatzgruppe B

59 Der Bundesbeauftragte fur die Unterlagen des Staatssicherheitsdienstes der ehemaligen DDR、ZUV 9、31巻、159ページ。

1942年3月1日付の「アインザッツグルッペBの活動状況報告」は1942年2月16日〜28日までの期間を包括しており59(ゲルラッハ著、1997年発表、68ページ参照)、余談としてこの集団は2台の大きな「ガス・ヴァン」(Gaswagen)受け取り、既に2台の小さなガス・ヴァンを所有していたことに言及している。ゲルラッハによれば、この文書は1990年代に1990年まで東ドイツ共産国家の秘密警察であったシュタージの文書群の中で発見されたという。言うまでもないが、これは正確には信頼できる出典とは言えない。

付録7にこの報告の7ページと8ページを複写している。関連するくだりにはこのように書いてある:

42年2月23日にスモレンスクに到着した下記のガス・ヴァンは以下のように分配された:

EK8:¶ザウラー社製貨物自動車Pol 71 462

EK9:¶ザウラー社製貨物自動車Pol 71457¶どちらの自動車もスモレスクの不良を持ちながらスモレスクに到着し、不良が修理された後にアインザッツコマンド―に割り当てられた。EK8での運用の完了の後、小さなガス・ヴァン2台はSK7aとSK7Bに輸送される。

失われた自動車を差し引いた後の現在の在庫は以下の通り:¶[……]

職員駐車場:[……]¶車19台、貨物自動車4台、特殊自動車3台[……]

EK8:¶車35台、貨物自動車3台、救急車1台、ガス・ヴァン1台

EK9:¶車36台(うち1台は無線局にある)、貨物自動車5台、ガス・ヴァン1台¶[……]

加えて、改良の間大型の自動車――貨物自動車、乗り合い自動車、ガス・ヴァン及び燃料輸送車――全ての配置と2人の運転手が必要だ。」

知る限り、これがドイツの戦時文書で唯一“Gaswagen”という語が登場する文書だ。ここで読者はアインザッツグルッペンによる無慈悲な詳細を列記した文書は文字通り数千存在し、その中には誰を何時何処で何故処刑したか述べられているということに留意する必要がある。しかしガス殺は1回も言及されておらず、ガス・ヴァンは嘘と偽造で悪名高い共産党の秘密警察の書庫出典であるこの1文書でのみ出てくる。

問題の自動車はこの文書内でザウラー社の貨物自動車だと詳述されている;そのためディーゼル機関を備えており、これは殺人目的では不適切だ。更に、「特殊自動車」は501-PS電報とジュスト文書内で殺人「ガス・ヴァン」用に使われていた語だというのにガス・ヴァンは明確に「特殊自動車」であるとは見做されていなかった、アインザッツグルッペ報告の職員の自動車駐車場内で「特殊自動車3台」と別個に書かれているからだ。そうした貨物自動車はガウプシャト社の貨物区画を備えており、それ以上に、これまで見て生きているように、その限定的な高さのため用途の中では立っている人々の輸送には適していないようだ(2.2.6章参照)。

60 しかし文書内で燃料での区別がされることは有り得る。例えば、アウシュヴィッツの自動車駐車場の活動報告は使用された燃料ごとに運転される自動車の走行キロメートルを集計して並べていた:ディーゼル&ガソリン、木炭車、そして恐らく天然ガスへの言及である「推進剤ガス」(Treibgas):出典Rossiiskii Gosudarstvennii Vojennii Archiv(ロシア国立記録庫)、在モスクワ、参照番号502-1-181、246ページ;付録7参照。

こうした貨物自動車が木炭ガス発生器を備えていたというのは有り得る話だ。しかし、この報告書は燃料源で自動車を列記しておらず、一般的な車種で列記しているため、その場合「ガス・ヴァン」という語がそうしたガス発生器の潜在性に言及しているとは考えづらい。ザウラー社の貨物自動車が単に燃料として木炭を使用する通常の貨物自動車である場合、それは通常の貨物自動車に含めるのではないかと推測する。60

しかしこの文書内で「小さなガス・ヴァン2台」は現在EK8に属していると言及されているのは奇妙であるが、後にSK7a/bへと割り当て直されたものは様々な集団に割り当てられた自動車の一覧の中にはそのようなものとして含まれていない。そのためガス・ヴァンはEK8の3台の貨物自動車の一部であると推測されるが、その場合、これは3台の「ガス・ヴァン」は結局のところ「特別自動車」ではなく通常の貨物自動車として列記されていることを意味する。

だからこれらの自動車が何か特別だったというのは有り得るが、確実ではない。その推測される設計から殺人目的には適していないので、3つの可能性が残っているように思える:a)これらの自動車は木炭ガス発生器を備えていた;b)害虫駆除自動車だった;c)この文書の信憑性に疑問がある。

第4の可能性は結局のところこれらの自動車は殺人輸送車というものになろうが、それには目撃者による証言とガウプシャトの往復書簡意外の何らかの構成を使わなければならない。

この文脈の中で注目しなければならないのは1966年の西ドイツの裁判の間にアインザッツコマンドー8を運用していたドイツ人たちは以前の部隊で殺人ガス車について何の知識も持っていなかったと主張したことで(3.7.4.4.章参照)、これはそうした他の裁判の大半とは完全に対称的で、その大半では少なくともドイツの被告人と証人の一部は頻繁にその存在と使用を自白していた。面白いことに、1966年の時点でアインザッツコマンドー8の殺人ガス輸送車はそれを使用したとされたドイツ人にとって未知であったというのに、それより後の西ドイツのそれに関する裁判では関係者の記憶がゆっくりと「活性化され」どんどんと「事実」が確立されていった(3.7.4.9.章3.7.4.11.章参照)。尋問され証言をしない限り裁判を受けなければならないドイツ人の数が多くなればなる程に、その「知識」は増えていくようだった。

2.2.9.文書NO-365に関する意見 Remarks about Document NO-365

ニュルンベルク文書NO-365はまだ扱っていなかったが、これは時折殺人ガス輸送車関連で言及される。この文書は東部占領地域ドイツ大国局のエアハルト・ウエッツェル博士によって編纂されたとされている。1941年10月25日付でリガにいる東部地域の大国委員ハインリヒ・ローゼに宛てられたものだ。その書簡は[アドルフ・]アイヒマン、[ヴィクトール・]ブラック、[ヘルムート・]カルメイヤーといった名前に言及している。書簡内で殺人ガス輸送車は言及されていないが、詳細を提供することなく「ガス装置」(Vergasungsapparate)に言及している。時に判読不能な署名がこの書簡の終わりで見つかると主張されるが、これは正確ではない、この書簡(あるいは下書き)に署名は全くないため、送付されていないと思われるためだ。有罪とされる件りにはこう書いてある(ニュルンベルク裁判(NMT)、1巻、870ページ):

「1941年10月18日の私の書簡に言及にて、総統官房幹事長ブラックはガス装置と同様に、必要な住居施設(shelter)の建造に協力する準備はできていると宣言したと貴殿は伝えられております。現在問題になっているこの装置は十分な数我らが大国の手元にありません;まず製造しなければなりません。ブラックの意見では大国にあるその装置の構造は現地で製造する場合更なる困難を引き起こすであろう事から、リガに直接人員を、特に彼の地で全てを更に行ってくれるであろう人物化学者カルメイヤー博士を送るのが一番得策であると見做しています。幹事長ブラックは、件の工程に危険がないとは言えないため、特別な保護手段が必要であると指摘しています。そうした状況下で、貴殿には総統官房幹事長ブラックに、貴殿のより高いSSにして警察長官という立場を通して化学者カルメイヤー博士及び更なる補佐の特派をお願いして頂きたいのです。国家保安部(RSHA)内のユダヤ教徒問題に関係のある親衛隊少佐アイヒマンはこの工程に同意しています。親衛隊少佐アイヒマンからの情報では、リガとミンスクで配備される予定のユダヤ教徒用の収容所へと古い大国の領地からユダヤ教徒が送られる可能性があります。現在、旧大国から追放されたユダヤ教徒たちはリッツマンシュタット[ウッチ]へと送られることになっていますが、他の収容所へも送られ、労働できる限り東方で労働者として後に使われる予定でもあります。」

そのため、これの筆者はユダヤ教徒用の住居施設の建造と「ガス装置」の設置について同時に語っている。これらのガス装置は大国内で製造されているそうだが、数はまだ不十分だったので、一部のみリガへ送れるという。そのため一部は必要な場所で構築されなければならない。そうした装置が殺人ガス室ということは有り得るだろうか?私は以下の理由で有り得ないと考えている:

a)殺人ガス室が、大国内のどこかで中央的に製造され特定の場所へと輸送できる「装置」だったと主張している者はいない。殺人ガス室とされるもの全てはその場限りのやり方で現地で造られたと言われている。

b)リガで殺人ガス室が配備された、あるいは操作されたと主張する者はいない。

c)「ガス装置」は殺人「ガス輸送車」であるということも有り得ない、殺人ガス輸送車は「現地で」製造することは不可能だからだ。加えて、貨物自動車を「殺人ガス輸送車」に改造するのに化学者は必要されず、機械工が必要とされるだろうし、そうした自動車の排気ガスが主張されるように殺人に使用される場合には、その手続きは操作者にとっては通常の排気管を超えて危険なものにはならないだろう(例えば、ガス発生車のガス発生炉とは対称的に)。

私は以下の理由から、この装置は害虫駆除室ではないかと仮定する:

a)それらは追放されるユダヤ教徒用の生活用建物の隣にあるものであるため、ユダヤ教徒たちは生きたままであることが想定され、生きたままということは昆虫が産む病気との闘う手段も想定される。これは、人口過密状態に於いて極めて衛生的な基準を維持する為の必要性を踏まえている。(クローウェル著、2000年発表、65ページ参照)。

b)1940年後半に、チクロンBを配布していたドイツの会社の化学者代表はこの殺虫剤を使用した新しい害虫駆除室機構を説明した。この「装置」は以降、昆虫が産む病気と闘う為にドイツじゅう、占領地域じゅうで集中的に大量の数が生産され、輸送され、設置された(ペータース/ウスティンガー著、1940年発表)。しかし戦時中鉄の割り当てが制限され、十分な量の装置の生産が不可能になった。

c)製造済みのチクロンBの虱駆除装置を使う代わりに、その場しのぎのチクロンB虱駆除室を現地で簡単に建造でき、建造は多くの強制収容所で行われたが、そうしたその場しのぎの解決は代わりに実のところ「危険がないわけではな」かった。

この文書は実際のところ偽造かも知れないとも論じられている。しかしこの「ガス装置」はこの研究では対象ではないため、これ以上この要素には触れないでおこう。

2.3.ドイツの特別自動車 German Special Vehicles

第三大国に関する正史派の歴史家は、第三大国の職員によって広範な文書内で使われた「暗号語句」と呼ばれるものの本当の意味についての推論を山ほどしている。「殺人ガス輸送車」もその規則の例外ではない。後で見るとおり、幾つかのドイツ文書が「殺人ガス輸送車」と呼ばれるものの文脈内で頻繁に引用されており、それには「Sonderwagen、」「Sonderfahrzeuge、」あるいは「Spezialwagen、」といった語句が含まれ、全て「特別自動車」と翻訳できる。2.2.8.章で論じられるアインザッツグルッペ報告という報告を除いて、「ガス・ヴァン」という語を用いているドイツの戦時文書は知られていない。「Spezialwagen」といった語が現れるだけで、ドイツの歴史家マシアス・ベーアは彼のドイツ戦時下の「殺人ガス輸送車」とされるものを述べる論文内でこう主張した(1987年発表、403ページ、補注5):

[Spezialwagenといった語と]迷彩されたSonderbehandlung[特別措置]、即ち殺人という言葉との関連は、明白である。」

61 http://en.wikipedia.org/wiki/Sonderkraftfahrzeughttp://en.wikipedia.org/wiki/List_of_SdKfz_designationsも参照のこと。

一見明白に見えるかも知れないが、それはそのような結び付きが存在しないとしてさえ、現代の歴史家たちがその結び付きを見出す条件付けをされてしまっているという理由のためだけだ。ドイツ国防軍自動車の命名法を一瞥するだけで、ベーアはそのような結論に飛びつく事はやめるであろう、何故なら民間に大量生産された単なる再塗装された自動車ではなく、武装部隊によって改造されたドイツの武装部隊の自動車それぞれは「Sonder(kraft)fahrzeug」(特別[原動機付]自動車)と呼ばれたからだ。そのためドイツ国防軍は何百台もの「Sd. Kfz 1」から「Sd. Kfz 250」やそれ以上で知られるそうした「Sonderkraftfahrzeuge」を保有しており(デイヴィス著、1973年発表;ミルソム著、1975年発表;オズヴァルト著、1990年発表;フランク著、1992年発表)、そうした自動車はまた、公式にPanzerと呼ばれることのないあらゆるドイツ軍の自動車(戦車)を包括していた。61

異なる問題は「S-Wagen」という語で、これは「殺人ガス輸送車」とされるものと関連があるドイツの戦時文書内で見られる。ベーアはこの語を「spezialあるいはsonderの短縮形」(同上)と信じているが、これも真実ではない。「S」は駆動の種類に言及している(オズヴァルト著、1990年発表、177ページ;類似のものはシュピールベルガー著、1977年発表、153ページから):

「標準的(standard)な自動車はS-typesとして知られる一方、A-typesは全輪駆動(all-wheel drive)で、あらゆる点で同一だ。」

ジョン・ミルソムの1975年の文書German Military Transport of World War IIには、表題がBildermappe. Eingeführte Waffen und Geräte(写真集。武器と装置紹介)であるその時代(WWII)のドイツの秘密文書に明らかに基づく写真が何枚も含まれていた。興味深いことに、並んでいる自動車の一部は毒ガス検知の為に、熱水、蒸気、熱気を用いて人、衣服、そして防毒面具を汚染除去する為に使われていた。それらはガス戦での使用の為に設計されたが、幸運なことに使用されなかった。これらの自動車は完全密閉できる貨物区画を有しており、かなり奇妙な見かけだった。これは、殺人ガス輸送車の物語の創造に貢献しているかも知れない――この自動車の純粋に衛生的な機能にもかかわらず。そうした自動車の一部の画像は付録8で見つかる。

別の重要な面は害虫駆除で、即ち:蚤や虱といった蟲の殺害だ。蚤や虱は人間に、チフスや黒死病といった重症を引き起こす病原体を運ぶ。武器ではないチフスや黒死病の過感染は常に、衛生状態の悪化と崩壊によって引き起こされる戦時中の主要な死因であり続けている。そのため過感染との戦いは病気を広める昆虫との戦いを意味する。ドイツは東方戦線で戦ったが、病気抑制の問題は常に発生した。兵士の衣服と装備の害虫駆除――あるいは日常語で:虱駆除――は重要であったが、兵士は絶えず移動しなければならなかったため、害虫駆除部隊も移動しなければならなかった。

ドイツの敵でさえそうした部隊を報告した、例えば1941年12月30日のBritish Timesの3ページ目だ(ルドルフ著、2010年発表、258ページも参照):

「東欧でのチフスの拡散は『剣呑な状態』

特派員より
12月29日、ストックホルムにて

ポーランド、ウクライナ、バルト諸国、そして特にリトアニア内でドイツ人はチフスあるいは単に『過感染』がこれまで以上に起こっているとに言及するが、警告されているように蔓延が本当に深刻か、拡散しているのかどうかが分かる詳細は検閲をほぼ突破できていない。ドイツ人は特別輸送車を有する移動虱駆除部隊を導入しており、その部隊はロシアと国境を接する諸地域で既に忙しく働いていて、そこでドイツ人は東部戦線から兵士が冬営できるように編成している。」

こうした移動虱駆除部隊はチクロンB(シアン化水素)といった何らかの種類の有毒物質、あるいは単純に熱気あるいは蒸気を用いて害虫を殺していた。同時期のイギリスの害虫駆除専門書で、我々は熱気の手段について読める(ブスヴィーヌ著、1951年発表、85ページから):

「昆虫は高温に高い耐性があるというわけではない;その身体が5〜10分も摂氏60度(華氏140度)程になれば死ぬだろう[……]。熱による昆虫の駆除は物品(例えば、衣服、寝具、木製の品物、そして食料)の害虫駆除でも構内の害虫駆除でも極めて広範に行われていた。熱気の使用には特別な経験は求められなかった。そうした存在する危険(火傷、火)は最も単純な労働者にとっても明白であった。[……]熱気は害虫の駆除で最も満足させる、熱による害虫駆除の手法だ。[……]移動に適していて、そのため必要な装備として採用された最も有効な熱気の害虫駆除は[1940年の]ミルバンク装置で、これは押し込み通風の原理を用いていた。」

有効的になるよう、害虫駆除輸送車の貨物区画は密閉できるようになっており、熱気あるいは蒸気の害虫駆除は断熱隔離された。有毒物質が使われる場合、そうした自動車は恐らく操作人員及び部外者宛に、警告の文言と内部の潜在的な危険に関する印も帯びているだろう。

ドイツ部隊による東部戦線での害虫駆除手法の使用に関して、ベルグはこう指摘している(1987年発表、77ページ):

「高熱の試みは、それが蒸気であろうと熱気であろうと、ドイツ軍が占領していた東部地域ではより頻繁に使われていた。それは、チクロンBでの作業の際に必要な訓練を受けた専門家が枯渇していたからだった。」

ドイツの戦時中の専門書は、信頼できなかったり害虫駆除される品々を痛めてしまったりする古い機構に取り変わる事を意図していた、虱駆除/害虫駆除輸送車のある種類で使われた技術を詳述している(Dötzer著、1944年発表、29ページ):

熱気――蒸気――熱気の組み合わせ手法は[……]武装親衛隊ゴウデッカーの衛生研究所の機構は、移動部隊用の以下の新しい原理に従って活動していた:

害虫駆除されるべき物品は自動車の上に設置された密室で緩く吊るされた。物品はまず、前処理として摂氏80〜90度ほどの熱気で20分ほど煽られる。熱気は移動式均衡熱交換器(熱源:蒸気)によって生成され、強力な送風機で害虫駆除されるべき物品に吹かされる。続いてその小部屋は20〜30分ほど、摂氏110度、0.5気圧が保たれた蒸気の風が送られる。その後蒸気は摂氏80〜90度の熱気を煽ることによって除去され、加えて15分ほど熱気を煽ることで物品は事後処理され乾燥される。この工程で、害虫駆除される物品の形状を変更することなく繊維に悪影響を与えずに、害虫駆除の申し分のない水準が達成される。」

現代の装置は東部戦線に必ず来たというわけではないため、時折即席の解決をしなければならなかった。これに関して、熱「気」害虫駆除装置に関する1942年のHeeresdienstvorschrift(ドイツ軍役務規定)195/6は間に合わせの解決に関して以下の権限を与えている:

“III.害虫駆除

[……]

c)排気ガスでの害虫駆除

燃焼機関からの[熱い]排気ガスでの害虫駆除は即席で良いが以下の予備的部品を要求し、ディーゼル機関が望ましい(一酸化炭素増加の危険性があるため、オットー[ガソリン]機関ではいけない):

  1. 分配じょうご1つ、
  2. 曲げられる金属可撓管1本、
  3. 厚さ3mm、4mm、そして5mmの石綿平ひもそれぞれ長さ3メートルを計3巻き。

E-Baracke 42[害虫駆除小屋42]排気ガスでの害虫駆除は100馬力で十分である。内燃機関はその小屋付近に設置され、排気ガスは排気管から引かれ石綿の平ら紐で封がされた柔軟な可撓管という手段によってその小屋の中へと流される。可撓管から小屋への開口部は防火のため石綿で保護すること。分配じょうごは小屋の中央の天井から高さ3/4程で吊るされ先端は下に垂らされる。金属可撓管の出口はその漏斗の中央の下に固定され排気ガスが小屋内に均等に広まるようにする。扉は固く閉めること。内燃機関は60%程の負荷をかける。害虫駆除の手続きはそれ以外では熱気の手続きと同じである。

害虫駆除の時間の終了後、その小屋は両方の扉を開くことで換気し、取り出しの為にほんの15分後には入れるようになる。

害虫駆除された物品は換気し続けること、煤の沈殿は必要に応じてはたくか磨くかすること。極めて非経済的であるため、この手続きは他の手段がない場合にのみ適用される。」

石綿の平紐

この役務規定は害虫駆除小屋について話してはいるが、類似の設備が移動部隊で使われたかもしれないというのは有り得ないわけではない、つまり:金属可撓管を使用しているディーゼル機関動力の貨物自動車はその排気ガスを、物品を入れた閉じた貨物区画に流入させて害虫駆除していた、という。そうした設備は大量殺人には極めて不適切であろうが、熱気での害虫駆除の小技には確実に使えた。

証人の口述書を精査すると、害虫駆除輸送車は実のところ知られており、にもかかわらず誤解されていた事が分かる。例えばヘウムノの生存者ミェチスワフ・ジュラフスキは1945年に、2台の殺人ガス輸送車はこの収容所で操作され、加えて3台目は「害虫駆除貨物自動車」だった、と証言している(ベドナーシュ著、1946年発表c、72ページ;3.6.2.6.章参照)。

因みに、戦争を通して恐らく技術的に最も発達した特殊自動車に言及したい:1943年から親衛隊(SS)はアウシュヴィッツとマイダネクの強制収容所内で被収容者の衣服を害虫駆除する為にマイクロ波虱駆除貨物自動車を運用していたのだ(ノーワーク/ラーデマッハー著、320〜322ページ)。しかしそれらは被収容者の命を救う為の極めて高値にして効果の高い装置であるため、正史派の歴史観ではその存在に関して一言半句も触れられない。

2.4.ガス発生自動車 Producer Gas Vehicles

1.3.1.章で言及した通り、ディーゼル機関の排気ガスには低濃度の一酸化炭素しかないため、それを用いて大量殺人を犯そうとするというのは非合理である。それとは対照的に、ガソリン機関は迅速に致死量の一酸化炭素を容易く生成し、マットーニョとグラーフが示している通り(2005年発表、123〜125ページ)、この差異は1930年代以降ドイツの技師や毒物学者の間で良く知られていた。

しかしガソリン機関でさえ大量殺人候補の選択肢には選ばれなかっただろう、何故ならドイツは、自由に使える、遥かに安く、より簡素で、より有効な手法を有していたからだ:木炭自動車あるいはガス発生炉を。

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図画3:戦中ドイツのザウラー社からのガス発生貨物自動車(車種5BHw、1935年まで生産;ルドルフ著、2003年発表、461ページ)

62 それが実のところ如何に容易かは、映像記録「ホロコーストの1/3」www.holocaustdenialvideos.com/videos/04_engine_exhaust.wmvの第4編、2分20秒から見られる。

1984年という早期にフレドリック・ポール・ベルグは「大量殺人の為のディーゼル機関の排気は馬鹿げているだけでなく、WWIIの間石油の枯渇に苦しんでいたドイツ人は戦争の間貨物自動車のほぼ全車両をガス発生車と呼ばれるものに改装していた事を考えれば、何らかの排気ガスの使用という理論も馬鹿げている」と指摘した。その構築に必要なものは鋼の容器とと僅かな配管だけであるため、ガス発生車は技術的にかなり原始的であった。酸素供給を制限して可燃性の有機物質(薪、木炭、骸炭)をいぶることで、そうしたガス発生車は混合ガスを生成し、それには一酸化炭素が30%以上という高濃度で含まれる。62そうした発生器を備えた自動車はこのガスを内燃機関の燃料としていた。しかし発生するガスのエネルギー量はガソリンあるいはディーゼル燃料と比べればかなり低いため、内燃機関は極めて減少した力しか持たない。

しかし間違えないで欲しい:発生ガスが致命的なのは内燃機関に入るだけだ! 内燃機関は一酸化炭素を燃焼するため、ディーゼル機関の場合は特に排気管に入るものは実際には極めて無害である。そのためそうしたガス発生車の排気ガスを仮定上のガス殺区画に流すのは荒唐無稽だ。そのため発生したガスそのものを使っていたのかもしれないが、そうすると当然そのガスは輸送車の運転にも活用することはできない。そのため殺人ガス目的の発生ガスの使用は移送の間極めて困難である。ガスは、内燃機関への燃料か人々のガス殺のどちらかにのみ使用できた。どちらの作戦にも同時にガスを使用することはつまり、内燃機関貨物区画両方に分割するという事であり、それは内燃機関の力を更に減少させ、それは致命的な域に迄至るだろう。そのためこの「殺人ガス輸送車」を救うための潜在的ersatz理論は、後で見るように移送の間に貨物区画に流し込まれた排気ガスという話の目撃証言全ての視点を倒壊させる。(そうした発生ガス殺人輸送車の仮説上の設計については379ページの図画27参照。)

ベルグはドイツの貨物自動車と輸送車50万台は戦時中そうした発生器を備えていたと示しただけではなく、そのガスは極めて危険であるため貨物自動車と輸送車の運転手それぞれはそうした発生器を使用する為に特別な訓練を受けなければならなかったとも示した。そのためドイツの貨物自動車であれば大量殺人用の安価な毒ガスを素早く入手するやり方を知っていたであろう。そして貨物自動車の運転手だけでなく、石油の極限の欠乏に直面しながら快速車を走らせ続けるというドイツの絶望的な試みの中でこの技術を推進する為の活動に関わっていた第三大国(ライヒ)の上層部全体も同じであった(ルドルフ著、2003年発表、459〜467ページ)。

そのため、発生ガスの代わりにディーゼル機関排気ガスが大量殺人に使われたという滑稽な主張を人はどう思いつけるというのだ? ああと、ガス発生器の技術は当時はできて間もないドイツの発明で、恐らくこの物語を広めた者たちの意識には入っていなかった。ディーゼル機関は反対に、19世紀終盤のドイツの発明であり、そのため第二次世界大戦中は良く知られていた。ディーゼル機関の使用の主張は単にドイツを、そして第二次世界大戦中と後の「ドイツ」の何かを悪と結びつけるものであろう。

gas-van-illus4.png

図画4:ガス発生器を備えたザウラーBT4500。この車種に似たザウラー社の貨物自動車はクルムホーフ/ヘウムノで――発生ガスではなく、信じられない事に排気ガスを用いて――大量殺人に使用されたとされている(ルドルフ著、2003年発表、461ページ目)。

3.戦中戦後期の裁判所書類 Court Files of the War and Postwar Period

63 Daily Telegraph紙、1916年3月22日7面:「セルビアでの残虐行為:700,000の犠牲者。[……]連合軍の諸政府は証拠と文書を確保しており[……]それによればオーストリアとブルガリアがセルビアの恐ろしい犯罪の犯人であり[……]。女性、子供、そして老人が教会内でオーストリア人によって射殺されるか、銃剣で突かれるか、窒息ガスという手段によって窒息死させられている。ベルグラードにある教会の1つで、3,000人の女、子供、老人が窒息死させられた。[……]」;エイトキン著、1991年発表参照;最初にこの記事に言及した正史派の歴史家はワルター・ラカーで、1980年発表、9ページにある。

3.1.初期の報道報告 Early Media Reports

裁判所書類に目を向ける前に、大量殺戮目的の移動ガス装置の存在を仄めかす英国の大規模報道の幾つかの報告からこの章を開始したい。どちらの報告も連合国の心理戦の製品の手触りと香りがするものであるため、宣伝戦を超えるものではないかもしれない。

1つ目は同時期に広められた、ドイツによるユダヤ教徒の虐殺とされるものに関する報道機関の報告の1つだ。それは悪名高き反ドイツ新聞であるロンドンのDaily Telegraph紙に登場した、その新聞は第一次世界大戦の間既に(偽の)ガス殺の噂を広めていた。631942年6月25日、以下の記事がこの新聞の5ページ目に現れた:

「ドイツ人はポーランドで700,000人のユダヤ教徒を殺害している

毎日移動するガス殺室

TELEGRAPH紙の報道者

700,000人以上のポーランドのユダヤ教徒がドイツ人によって史上最大の虐殺の中で殺戮を受けている[……]

64 主張されるヘウムノの死者総数は実のところ筆者によって34,000人から1,300,000人の間まで幅広い;マットーニョ著、2011年発表a、11章参照。

これらの弾劾は極めて包括的で、連続しているが、立証されていないものだった。今日の正史の歴史観では、ポーランド内の殺人ガス輸送車は主にヘウムノ収容所内で運用されていたと想定しているが、主張される最大の死者総数はDaily Telegraph紙が1942年に主張した値のほんの半分しかない。64

恐らくは英国の同じ「インテリジェンス(諜報)」(心理戦)を出典とした、一部より詳細な記事が、3週間後の1942年7月16日に英国の週刊誌News Reviewに「Death refined」という表題で出され、それにはマイダネク収容所(ルブリン)の固定型ガス殺室と共にパルチザンを殺す為にロシアで用いられた殺人ガス輸送車への言及も含まれていた(シャーフ著、1963年発表、186ページから):

「技術的刷新の趣味を市民殺害の静かな芸術に齎すドイツ人は、移動式ガス殺室を用いて前線よりも手前で処刑しており、それは親衛隊(SS)とゲシュタポが用いている。

治療不可の人々を排除する為にゲシュタポによって最初に用いられたガスは、負傷した兵士用に病床を空け続ける為に患者たちが睡眠薬を一服飲んだ後に特別な病室に注がれる。

戦争が始まると、ドイツからルブリン地区[=マイダネク]へと放逐されたユダヤ教徒を、そしてそこで暮らしていたポーランドのユダヤ教徒を殺す為に大きな給油所がポーランド内に配置された。

彼らには睡眠薬が使われなかった。彼らは単に縛り付けられ、とどめを刺された。先の冬、殺人ガス運搬車がゲリラを浄化する為に東部戦線より奥で用いられた。」

次に、ドイツ人は移動装置内での大量殺人を行ったと、1933年に米国に移住したドイツの筆者トーマス・マンが行ったラジオでの演説の中で仄めかされ、彼の反独の宣伝戦の演説は戦時中に英国によって放送された(マン著、1945年発表)。マンの演説は、トーマス・クエスが自身の解析の中で示している通り、明確に連合国の残虐行為宣伝戦を広めた(クエス著、2010年発表)。挙げると、例えば彼の極悪な宣伝戦の嘘のほんの1つで、マンはドイツはフランス人を絶滅させており、内2000万人を殺す計画を持っていたと主張していた! その「殺人ガス輸送車」は1942年9月27日に放送された演説の中で発生した(マン著、1945年発表、73ページ):

「パリでは16,000人のユダヤ教徒が1〜2日以内に集められ、家畜車に詰められ送り出されました。何処へ? それを知る1人はドイツの列車技師で、彼はスイスに関する報告を受けていました。彼は数回ユダヤ教徒でいっぱいの車列を運転してからそのスイスへ逃げたのですが、その車列は拓けた長い轍の途中で停止し、気密密閉され、それからガスを流し込まれていたのでした。この彼はそれ以上耐えられなかったのです。しかし彼の経験は並外れているというわけではありません。11,000人をくだらないポーランドのユダヤ教徒の殺害が毒ガスで殺されたという正確で信憑性のある報告は入手可能な状態にあります。彼らはワルシャワ圏内のKonim[正しくは:コニン]付近の特別な処刑場に運ばれ、その中の気密性のある車に乗せられ、それから15分以内に死体に変えられました。私たちは工程全体の、犠牲者たちの叫びと嘆願の、そして楽しみながら自らの仕事をこなす親衛隊(SS)のホッテントットの楽しそうな笑い声の詳細な記述を保持してます。」

マンの演説は嘘と歪曲だらけである事を考えれば、1〜2行すら何らかの証明として見て取ることは難しい。フランスのユダヤ教徒は家畜車に乗車している間にガス殺されたというマンの最初の主張は正史の歴史観の目からしてさえ事実ではないが、にもかかわらず世故長けた見直し派フレドリック・P・ベルグは長年こうした手続きは実のところ実現可能であるが実際に起きたことはなかったと長年主張し続けている事からこの話は興味深い(ベルグ著、1993年発表)。

こうした英国の報道機関の報告は最初の出版された「殺人ガス輸送車」での殺人への言及であり、そうした主張の起源は実際には以下の章が示しているようなソヴィエトにあるものでは概ねないかもしれない。ソヴィエト人は単に英国からこの発想を採用し、それを更に磨き上げたように見える。

3.2.クラスノダール裁判

3.2.1.経緯:ソ連の殺人ガス輸送車

「殺人ガス輸送車」に関する概略論文においてドイツ人歴史家マシアス・ベーアは以下を仮定している(1987年発表、403ページから):

「『殺人ガス輸送車』という語は第三大国の特別製、つまり排気ガスを注入する事で内部の人々を殺す密閉式の車体を載せる車台を持つ車を指します。」

65 ソ連の収容者輸送車。

1991年初頭にドイツ人政治学者ウド・ヴァレンディは、正史の主張が仮に真実だとしてさえ、第三大国はこのような悪の装置の開発者だと主張できないと指摘した(ヴァレンディ著、1991年発表、35ページから)――少なくとも、ソ連の反体制派ピョートル・グリゴレンコの出版した噂話を信じるようになったなら。彼の回顧録で、彼はかつての友、ヴァシリー・イヴァノヴィッチ・テスリヤが彼に告げた事を語っている(グリゴレンコ著、1982年発表、208ページから):

「かつて、結束主義の犯罪を議論している時に私はこう言いました、『彼らはなんたる畜生か、ガス殺車を考えつくなんて完全に腐っている。』

それにテスリヤはこう応えました、『ピョートル・グリゴレンコ、貴方所謂クラーク用に私たちがガス殺車を開発した事に気付いてる?

『オムスクの監獄で、ある日親しい囚人が私を呼び寄せて内庭に開いた窓を指した。窓には鎧戸が下ろされていたけど、隙間から別の監獄棟に通じる扉が見えた。

『すぐにブラック・マリア65がやって来た。その建物のその扉が開き、看守が人々をその監獄車の開いた扉に押し入れた。30を優に越える囚人が停まったブラック・マリアに押し込まれた。扉が看守によって力一杯閉められ車は出発した。私は窓から離れるつもりだったけど同房者が言った:“少し待って。あの人たちはすぐに戻って来るだろうから。”その通りだった。車の扉が黒い煙を吐き出し、複数の死体が地面に転げ落ちた。それらは自然に落ちたのではなく、看守によって鉤付き棒で引きずり出された。死体全ては、下水口の出口付近に転げ出た。数週間のあいだ毎日、私たちは毎日これが起こるのを観察した。そこの囚人区画は“クラーク”区画として知られていた。』」

66 www.youtube.com/watch?v=itPPRxy_AQ4&feature=related;問題の場面は3分21秒から始まる。

又聞きしたこの話の信憑性が些か低いのは言うまでもない。しかしソ連の広範に渡る毒ガスと他の物質を使っての、良く文書化された殺害方法と実験の体系(Bobrenjow/Rjasanzwe著、1993年発表、43と171ページ参照;Baldajewa著、1993年発表;ヴォロダルスキー著、2009年発表参照)に押し込むとしたら、戦前のソ連の秘密警察の内に「殺人ガス輸送車」を思いつく異常な思考を見出す事が出来るように見える。1993年に米国で放送された、ソヴィエト連邦の崩壊を扱った「Monster: A Portrait of Stalin in Blood」という題名の4話構成のTV記録映像作品について、技師フレドリック・P・ベルグが1994年に米国で報告している(ガウス著、1994年発表、342ページ)。「Stalin's Secret Police」という副題であるその第二話の第1節は特に興味深い、我々の疑いを確証しているからだ。その一ヶ所でKGB将校アレクサンドル・ミハイロフが以下のように証言している:66

「ヒトラーの殺人ガス輸送車が形を成すずっと前に、イサイ・ダヴィドヴィチ・ベルクがモスクワで秘密のガス殺車を開発した証拠に我々は触れたことがあります。それは単純な密閉式の車で、中の囚人を輸送して、必要に応じて、車内に一酸化炭素の排気を管路を通じて流し込むものです。」

排気の煙が内部に入れられると言うならば、その車は厳密な意味で密閉式ではありえない、とは言うまでもない。使用された内燃機関の種類について、F・P・ベルグはこう書いている(2003年発表、ルドルフ著、456ページ):

「ディーゼル機関は[この映像記録作品の中で]触れられていない。ソヴィエト連邦の戦前の貨物自動車はガソリン機関のみを使っていたという事実は、これを説明する。あの国にディーゼル機関はなかった、USSR内の輸送構造全体は、初期の、フォード・モーター社といった西側の内燃機関の種類に基づいていたからだ。十中八九、ソ連による[ドイツの]ガス殺貨物自動車の申し立ては実際にはソ連の保有する大量殺戮技術に基づいており、彼らは自身の技術に単純にディーゼル機関を追加する事で、より邪悪に、そして何よりも、よりドイツ風に見えるようにしたのだ。」

ソ連の殺人ガス輸送車に関するこの暴露は、その2年後に、ニュルンベルク裁判でロシア語の通訳を行ったが後に反体制派だとして国外追放されたロシア人作家ミハイル・S・ヴォスレンスキーによって確証される。ソヴィエト連邦崩壊後、彼はかつてのソヴィエト連邦秘密警察NKVDの元秘密文書の閲覧権を得た。そこで見つけた他の残虐な行為に混じって、彼は以下のように報告している(1995年発表、28ページから):

「そして最後の詳細。第二次世界大戦中ソヴィエト連邦の人々は、ドイツの保安警察が排気ガスで人々を殺す為に改造した輸送車を使っていると知った時憤りました。ソ連の報道ではそうしたガス殺自動車は『霊魂販売車』と呼ばれていました。それは本当に悪魔的な発明で、開発者は罪人でした。

それはドイツだけでなくソ連の発明でもありました。USSR内でその貨物自動車が造られ、その排気ガスは管路を伝って閉じられた貨物用の車体に入ります。その開発者は疑いなくモスクワ及びその周辺部担当のNKVDの経済産業省の頭、ベルクでした。第二次世界大戦よりずっと前――1936年――にベルクの発明が使われ始めました。彼自身は『連邦の指導者に対するNKVD隊員の共謀』と疑われるものに参加したため1939年に処刑されています。勿論この密議はでっちあげです。読み手がベルクに対し憐憫の念を殆ど持てないであろう事とは無関係に。」

そうして1941年の6月に独ソ戦の火蓋が切られた時に舞台は整い、ドイツ人は目前から迫るものが何かを分かっていなかった。

3.2.2.背景と状況

1943年夏に開かれたクラスノダール裁判の裁判資料の参照はできないため、我々はロシア人歴史家イリア・ボートマンが2008年に出版したこの裁判の分析及びモスクワ海外出版会社が1943年に出版した、ソ連のPravda新聞内で掲載された記事を英訳した英語小冊子(『The Trial』、1943年発表)を取り扱わなければならない。1944年に『The People's Verdict』(1944年発表)という題名でその英語の小冊子の続報が刊行され、それは前身となった小冊子の内容(7〜44ページ)に加えハリコフ裁判の概要、被告への尋問と複数の重要な目撃証言の抜粋を含んでいた。こちらの裁判については3.3章で議論する予定だ。クラスノダール裁判そのものは1943年の7月14日から17日までの間開かれた。明らかに宣伝戦じみた理由のためにこの裁判に関して出版されたこの新聞記事は「ドイツ人高官が裁判を受けた」かのような印象的を与えるが、その印象は正しくない。そうではなく、11人のソ連人民が主に「逮捕されたソ連人民を収容していたゲシュタポの建物を守り、逮捕者を処刑し、農民と平和的なソ連人民を組織的に探し回り、[それから]絞殺、銃殺、そしてガス殺でソ連人民を殺していた」(ボートマン著、2008年発表、251ページ)ドイツ人ゾンダーコマンド10aアインザッツグルッペDに所属していた)に協力したとして告訴されていた。こちらが最近私たちが関心を持っている面だ。判決が下ってからたった1日で被告の8人がクラスノダール大広場で公開処刑される事でこの裁判の重要人物が強調され、残る3人には長期間の囚人生活が課された。ボートマンはこの裁判について書いている(同上の250ページ;特記ない限り、この副章のあらゆるページ数はこの書からのものだ):

「謝罪し自己批判する被告人から始まり、不合理な弁護士、情け容赦ない検察官に至るまで、役者それぞれが劇での役割を果たしていた。(もし裁判以上ではないとして)裁判そのもの程に重要なのは、その裁判が報道された範囲だ。処刑見物に来た人々の多数はソ連の戦争犯罪裁判のいや増す精神的衝撃を強調した。クラスノダールでは、人民の処刑には三千人の観衆が附いた。ソ連の新聞(子供新聞含め)は検察官が発した一言一句を報告した;動画記録班は裁判を記録し、編集された部分部分はソ連じゅうの映画館で上映された。」

この裁判とその同種のものは、カチンの集団墓地の発見を誇るドイツの宣伝戦の「仕返し」としてソヴィエト連邦の舞台にされたと仄めかされているが、それは全く真実ではない、被告人へのこの起訴は実際には1943年2月13日(同上)から始まっており、つまりカチンの集団墓地の発見よりであり、そのためその進行はカチンの影響を受けていないが、恐らくドイツの宣伝戦的な広報(260ページ)の影響は受けている。実のところ少なくともソヴィエト連邦の人民が、スターリン主義者の抑圧からの解放者だと彼らに見做されていたドイツ人と協力するのを妨げる為、同様の重要性は必要だった、あるいはボートマンはそう指摘している(同上):

「そこに、ソ連指導者の目は《『国家間の友好』への関心という思想的な仮定に曇っており、ドイツの占領部隊に協力し援助するソ連人民の意思》を想定していた、と信じる理由がある。戦時中に開かれた裁判の広範な報道は、未だに占領されているソ連領内で継続している協力を最小化し、未来の協力主義者の活動を妨害する効果を持つだろう、と高官は期待していた。ソ連の権力者たちは、国境付近の人民の一部はドイツの占領者を解放者だと歓迎している事を知っていた;そうした者たち及び他の『連邦の敵』の根絶はソ連政府の権威の再確認に重要だった。ソ連内の協力者への裁判は、ソヴィエト連邦の力を削ごうとする国家的な動きに参加する者には苛烈な扱いをするという明瞭な伝言を送った。」

これらの裁判は実際にはそれ以外では宣伝戦の見世物だったと、状況から集められる。例えば、クラスノダール裁判の間に被告人から自白を引き出す為に使われた手法についてボートマンはこう書いている(253ページから):

「ホステトラーを含む歴史家の一部は、ソ連の尋問官は自供を引き出すのに強要的な手段を用いた事を書いている:『尋問月間の間に使われた方法には動けない程に小さな懲罰房での監禁、尋問官部隊での数時間そして数日立て続けの耐えられない程の圧迫、荒々しい殴打、長引く睡眠妨害、そして協力するなら見返りに情けを約束あるいはその暗示が含まれている。』Prusinは更に一歩踏み込んで、少なくともより年上の個人に対しては、『彼らの道徳の力を甚だ蝕む、無防備な囚人の地位から称号に至るまでの没落』をさせたと示した。クラスノダールでの裁判の文書は、被告人は厳しい尋問と絶望の結果のみによって潔白の主張を撤回した事を示している。例えば、1943年の3月25日の最初の尋問の間に、ティシチェンコは尋問官に自分が提訴されている犯罪の潔白についてを告げた;そのたった3ヶ月間の尋問の後に彼は全てへの罪を認めた。しかしソ連の権力者にとって、全てはずっと単純だった:罪が自供されただけだ。」(引用部は該当箇所参照。)

「教育的な」理由に加えて、ボートマンが記す通り、諸裁判は他の政治的な目的も持ち合わせており、こうした裁判の間に役者全員が果たした演劇的な役割についても彼は適切に記述している(255ページから):

「つまり、[……]この問題は戦中戦後の連邦の暴力の判断において重要な役割を果たし続けていた。ソ連は軍事裁判所を[……]ソ連社会から信心の足らないと見做される分子を掃除する道具に使っていた。

軍事裁判所において、裁判官の役割は検察の補助であり、介入するのは恐ろしい出来事を要約する為だけにだった。クラスノダールの裁判官3人はこの役割を正確に果たした。何よりも、裁判官は被告人に対し、被告人が犯した[と伝えられる67残虐行為の詳細を強要した。例えば、裁判官は被告人ニコライ・プシュカレフに容赦なく質問し、ソ連人民の大量逮捕と処刑[と伝えられるもの]を引き出した。裁判の間中裁判官は被告人の協力行為のぞっとするような本性を強調するように言葉を差し挟んだ。

膝を屈する弁護士とは正反対に、連邦の検察官は軍事裁判の間圧倒的な権力を恣にしていた。彼の役割は演出家だ;概して演劇的で威圧的な彼は、裁判用の口調を設定しそれを指導していた。彼は犯した[とされる]犯罪の被告の役割を妥協を許さず脚色したが、同時にドイツの政府と最高司令部、そして特定の地域を担当していたドイツ高官を念入りに巻き込んだ。[……連邦の検察官である]Yacheninは概して大袈裟な言葉で被告人の起訴の重要性を描写した:『今日、ソ連の法は、今監獄にいる裏切り者、結束主義の尖兵、靴舐め屋に裁きを下す。明日、歴史の法廷、自由を愛する諸国の法廷は、血に飢えた支配者ヒトラーのドイツとその仲間たち――世界を現在の戦争の渦に引き入れた人類の敵――に冷酷な判決を下す。誰もこの断固たる報いからは逃れられない! 血には血を、死には死を!』

[……]クラスノダールの裁判は続く数千の裁判の判例を確立した。[……]そしてまた、ソヴィエト政府にとって、これらの法廷の主要な重要性は、数千人の協力者とドイツのPOWを罰するところではなく、そこから導き出される宣伝戦の価値の方にあった。[……]

ソヴィエト連邦国内外でのクラスノダール裁判の報道は、高度に連携した国家間での短期政策の域に至っている。スターリン本人も含むソ連政権の最上級階層は、これらの諸裁判の進捗報告を毎日受け取っていた[……]。しかし、彼ら[ソ連指導者]が裁判を宣伝戦の道具――ソ連領内で犯されたドイツ人の犯罪[とされるもの]を広める手段――と見做していたのは明白だ。」

67 ボートマンの記述するこれらの裁判の恐ろしき状態にもかかわらず、起訴で主張された犯罪はでっちあげだあるいは酷く誇張されたという可能性について、彼は一言半句たりとも疑問の声を上げなかった。

この見方は、恐らくこうした裁判の首唱者であり、間違いなく裁判の宣伝戦的な在り方について最も知っていた人物であるヨシフ・スターリンにさえ確証されている。ある出典によれば、スターリンは会話相手に対し私的に、この裁判は自分の宣伝戦に大変有益だが、された自供は「誇張されたものだ」と打ち明けたそうだ(ビショップ著、33ページ)。

3.2.3.クラスノダール裁判の間の殺人ガス輸送車の主張

だが話を殺人ガス輸送車に戻そう。ボートマンは、クラスノダールの被告人のうち誰も何らかの形で大量殺人に関わった罪で告訴されていないと述べているため、この裁判の間の殺人ガス輸送車に関する陳述は完全に朗読的な性質を持っており、極めて曖昧だ。そうした陳述は明確に宣伝戦の目的に適っている(258ページ):

「子供新聞でもこの裁判を扱っていた。子供の為に出版された記事の中で頻繁に登場する1枚の写真は、地域占領期間の内に約6,280人のソ連人民をガス殺した[とされる]『殺人ガス輸送車』(と新聞が称している)のものだった。ソ連人民の多くにとって、殺人輸送車はドイツの冷酷な効率性と非人道性の象徴に見えた。事ある毎に、検察官Yacheninはその輸送車の写真を掲げ、その注力は裁判を奉じる数十の新聞報道に反映された。1943年7月21日、8歳から14歳の子供向けの週刊誌Pionerskaia Pravdaは『ヒトラーの殺人輸送車』という題の記事を掲載した。」

私はまだソ連の報道機関が当時出版していた殺人ガス輸送車とされるものの写真を見た事がないため、現在これについて意見は言えない。代わりに『The People's Verdict』から少し引用しよう:

「最後に、『殺人輸送車』として知られる特別な装置を備えた原動機付き四輪車の車内の一酸化炭素によって、数千人のソ連人民が窒息し、殺された事が調査によって明らかになった。

1942年の秋68、人民が殺人輸送車と呼ぶ、特別な装置を備えた原動機付き自動車を、ソ連人民の追放の為にドイツ人は活用し始めた。

こうした殺人輸送車は5トンあるいは7トンの、灰色に塗られたディーゼル機関で動く原動機付き貨物自動車に偽装している。そうした輸送車の内部には亜鉛の膜のある板金が張られている。その後部には密閉できる両開きの扉がある。床には格子が張られており、その下には内燃機関からの排気管に繋がっている管が1本通っている。高濃度の一酸化炭素を含むディーゼル機関からの排気ガスは輸送車の内側を通り、中にいっぱいに入っている囚人を毒で急速に窒息死させた。

[……]この空間に引きずり入れられる前に囚人たちは衣服を脱がされる;それから彼らは殺人輸送車に一度に60から80人詰め込まれる。輸送車の扉は完全密閉され内燃機関が起動する。数分間内燃機関を駆動させた状態で停止した後、輸送車はクラスノダール郊外にある測定機器工場外縁部で掘られていた対戦車壕まで走ったのだろう。通常通り、殺人輸送車はゾンダーコマンドSS-10-aの護送隊に先導された。輸送車が対戦車壕に到着する頃には、人々はガスによって窒息している。死体は塹壕に投げ入れられ埋葬された。老若男女の区別なく人民は輸送車に詰め込まれた。」(8ページから;この節の以降のページ番号全てはここから)

68 正史史観では1941年秋をこうしたガス殺の始まりと見做している事に注意。

後部扉を完全密閉して荷台のそれ以外を密閉しないのは無意味であるため、他の報告や目撃証言と同様、ここでも、「処分される」人物の入れられる荷台は完全密閉されると主張している。何度も指摘している通り、この機構はこの状況下では働かない(1.3.2.章参照)。更に、「ディーゼル機関からの排気ガス」「高濃度の一酸化炭素を含む」「中にいっぱいに入っている囚人を毒で急速に窒息死させた」という主張は単純に嘘だ。窒息死は、一ヶ所に85人詰め込まれる事によって遅かれ早かれ発生する酸欠によって、犠牲者がディーゼル排気ガスを吸入する必要さえなく起こると私は断言する――技術的に極めて疑わしい状況が描写されている。

「エヴドキア・ヒョードロヴナ・ガジクは、ある日逮捕された女性と5歳の娘を無理矢理『殺人輸送車』に入れるところを目撃し、こう証言した:

『この“原動機付き大型車”に、ゲシュタポの男たちは無理矢理三十路前後の女性を引きずり入れました。女性は輸送車に行くのを断り、抵抗し、そして常にこう叫ぶ4〜5歳の少女を自分の後ろに行かせようとしていました:“お母さん、お母さん、一緒に乗りたい。”逮捕された女性を屈服できないゲシュタポの1人はその少女を掴んで口と鼻に真っ黒な液体を塗りつけました。その子供は即座に気絶しました。ゲシュタポの男たちは彼女を持ち上げて輸送車へと投げ入れました。それを見た母は荒々しい声を上げそのゲシュタポの男に詰め寄りました。数秒間女性と揉み合った後、そのゲシュタポの男は彼女を圧倒し輸送車に引きずり入れました。』」(9ページから)

この陳述は、「人々を毒する謎の黒い/暗い物質の使用を主張もした人物であるソ連の目撃者アレクサンドル・ペチェルスキーによって証言された、ソビボル収容所で使われたとされる殺人手段に関する主張」に似ているという点で興味深い(グラーフ/クエス/マットーニョ著、2010年発表、70ページ)。このような急速に作用する有毒の黒い物質が判別された事はないため、彼のその主張は今日では全く根拠がないとして正史派の歴史家によって却下されているか無視されている。そのためこの目撃証言は「無関係な」証人たちの「交雑受精」した事例だろう――あるいは単に人類による黒と悪の関連付けの派生かもしれない。

『The People's Verdict』の13と32ページでは「殺人ガス輸送車」という手段による殺人ガスの犠牲者が含まれているとされている大規模墓地の法医学的な調査を扱っている。私が言及した1.2.章にある、それらの主張を解析しよう。

「ティシチェンコは、自身がその仕事全体に極めて精通している事を示しながら詳細に答えました。これらは5トンあるいは7トンの原動機付貨物自動車である、と彼は言いました、車体がその上にある、と。車体には二重の壁[恐らく扉か]と原動機付乗り合い自動車の外見に見えるよう偽りの窓を備えています。輸送車それぞれの背面は密閉できる扉です。床は、輸送車を動かすディーゼル機関からの排気管が下に走っている格子で構成されています。排気ガスは輸送車の内側を貫きます。内燃機関を駆動させたまま停止している時、死が7分以内に起きます;車が動いている時、死は10分以内に起きます。[……]ティシチェンコは、67人の大人と18人の子供が『殺人輸送車』に詰め込まれる時に居合わせた日もあると証言しました。」(16ページから)

前述の通り、完全密閉された荷台に、荷台から空気を何らかの方法で出す事もなく1〜2分を超えて排気ガスを流し込むのは不可能だ。「装置が機能するようになる何らかの技術的な調整(荷台の中の超過したガスを逃がす穴のような)」及び「窒息は酸欠により発生した事」を想定するとしたら、生じるガスの量は(その中身である一酸化炭素も)ディーゼル機関に負荷がかかっている(つまり、輸送車が動いている)間の方が暖機運転している間よりも明らかに多いため、車が停止している時よりも動いている間の方が犠牲者は早く死ぬだろう。そのため、目撃者の証言はこれに関して非論理的だ。

「次に精査すべき証人はコトフだ、[……]

[……]数分後、気分が悪くなり意識が朦朧としてきました。以前に毒ガス散布に対抗する講習を一通り受けていたため、すぐに何が起きているかが分かりました――我々は何らかの種類の毒ガスに曝されているのだと。私は肌着を破き、唾で湿らせて鼻と口に押し付けました。呼吸が楽になり始めましたが、私も同様に意識を失いました。気が付いた時、私は数十人の死体の横たわる穴の中にいました。なんとか穴から這い出て、どうにか家まで這い進みました。』」(28ページから、似たものが11ページにも)

一酸化炭素は水に対し不溶性を持つため、唾で湿らせた肌着は彼を少しも助けなかっただろう。しかしこの証言は、この時代に欧州中に蔓延っていた第一次世界大戦の塹壕戦の心的外傷に依拠するガス戦への病的興奮はまだ彼らの心に残っており、その傷痕に対し宣伝工作者が曲を奏でていた事を示している(クローウェル著、2000年発表参照)。

目撃者Inozemtsevaはこう証言している:

「9月23日に役務を行なっていると、中庭に、備え付けの輸送車か何かに見える大きな暗色の車を見ました。」(29ページ)

この証言は、殺人ガス輸送車だと疑われて戦後ポーランドの専門委員会にその理由で調査された事のある唯一の貨物自動車は実際には単なる引っ越し用貨物自動車であると判明した事実に従っている(33ページ以降参照)。そのため、この目撃者は図らずも知らず識らずのうちにこの証言の勘所を押さえている。勿論、先に引用した、原動機付乗り合い自動車に見えるよう両側に窓を塗られた貨物自動車という主張と、彼の証言は矛盾する。

「ユダヤ教徒」は殺人ガス輸送車でもそれ以外でも主張された殺人の犠牲者と全く言及されていないのは注目に値する。寧ろ、絶滅手法は主に病院の子供、病人、そして不具者を標的にしており、負傷したドイツ兵を抹殺していた(8、10〜13、27〜30、35ページ)。ただ1文書のみでたった6ヶ月の間に97,000人の犠牲者を主張している事を考えれば、調査委員会が7,000人「しか」犠牲者を数えなかったのは馬鹿馬鹿しい程に少ないようにも思える。恐らくどちらの数も同じ出典を基にしている:戦後、数百数千そして数万の犠牲者がありとあらゆるドイツ人殺害場所とされるところで求められ、クラスノダール裁判の7,000人という数は最早十分な恐怖をもたらすとは言えなくなり、そのため9を加える事で改正されたのだろう:97,000人に。

要約する:この裁判と提示された証拠に関して分かった事は殺人ガス輸送車の存在について新たな証拠を何ら提示していない。それとは正反対に、裁判と証言の状況は疑惑を増すだけの代物である。

3.3.ハリコフ裁判

ハリコフ裁判の状況もクラスノダール裁判と同様であり、そのため前章で述べたものに言及する。

『The People's Verdict』のハリコフの章はクラスノダールのそれよりもずっと長いが、それは主に被告人による自供と目撃者による証言の長い引用のためだ。続けてその多くを引用するつもりだが、殺人ガス輸送車とされるものに関する情報を含むくだりと他の理由で付言が求められるくだりに限定しよう。引用それぞれの後に妥当な所見を挿入する。

「類似の『ガス殺運搬車』の調査によって確立したとおり、『殺人輸送車』と渾名されるものは平和を愛するソ連人民を殺害する為、クラスノダールだけでなくハリコフでもドイツ人によって使われました。

これらの輸送車は、この事件におけるドイツ人の被告自身とそうしたドイツ人が犯した罪を目撃した証人の証言通り、ディーゼル機関で駆動する鈍色をした大きな密閉式の貨物自動車です。こうした輸送車の内側には亜鉛鍍金された鉄が並んでおり、気密式の折り戸が後部にあります。床には木製の格子があり、その下には孔が複数空いた1本の配管が通っています。この配管は内燃機関からの排気管に繋がっています。一酸化炭素を高濃度で含むディーゼル機関の排気ガスが輸送車の車体に入り、輸送車に閉じ込められた人々を急速に毒殺します。」(49ページ)

ディーゼル排気ガスが「一酸化炭素を高濃度で含む」事は決してないというのは単純な事実だ。この引用は、恐らく初めて、現存する書物のどれにも言及されていない装置である、格子の下を走る水平の「孔が複数空いた1本の配管」に言及している。床あるいは壁に空いた単なる1つの穴でも、犠牲者が動けばそれで均等に拡散されるであろうガスを入れるのに十分であるため、これは完全に不必要だ。床を水平に這う管は、こうした輸送車の製造費を上げ、構造を複雑にし、掃除を難しくし、損傷を受けやすくする効果しか持たない。後に西ドイツの裁判でこの話は頻繁に聞く事になる。

「目撃者にして親衛隊中佐のハイニシュは証言しています:

『S.D.(親衛隊保安部)では“ガス殺運搬車”と呼ばれる物が造られていました。外見上は普通の囚人輸送車と殆ど区別がつかないのですが、車体は密閉でき、内燃機関からの排気ガスが特別な配管を通ってその車体を通過します。この輸送車は数十人の囚人を収容しました。彼らは通常別の監獄あるいは収容所に行かされると告げられました。輸送車が動き出す時、ガスは車の中を貫き、人々は窒息します。』」(50ページ)

「この調査はまた、ドイツの侵略者は『殺害輸送車』でソヴィエト人民を殺害した後、その死体をハリコフの外縁部の空っぽの兵舎あるいは他の半損した建物に捨て、ガソリンを注ぎ、着火した事も確証しています。」(51ページ、同様のものが86、105ページにも)

この裁判の間に目撃者がもたらしたこれや他の物語は完全に作り話だとは問題なく想定できる。ドイツの武装部隊がより大きなロシアの都市に入った時、建物の一部は戦闘により損傷を受け、一部は焦土作戦に従うソ連部隊によって意図的に破壊された。そのためドイツの占領部隊は自分達用のそして地元民用の十分な庇を探すのに大きな問題を抱えていた。その状況下で、意図的に残る建物の一部を焼却するというのは間違いなく起こっておらず、そして何よりも大量殺人とされるものの痕跡を焼き付くす方法として極めて不適切である。

[……]ヒトラーは、何らかの方法で『ガス殺運搬車』の存在について知った人物の口の軽さに悩んでいました。その口の軽さの結果としてフォン・アルフェンスレーベンが漏らし、そして一部のS.D.とゲシュタポの上官の不注意さの結果として『ガス殺運搬車』に関する書類がロシア人の手に落ちました。」(53ページ)

そのような書類がソ連から示された事はない。そのためこの物語も同様に作り話だと想定できる。

「裁判長:『殺人ガス輸送車』がどのようなものか描写して下さい。

[ウィルヘルム]ラングヘルト:記憶している限りでは、『殺人ガス輸送車』は鈍色の車で、後部の両扉を完全密閉すれば完璧な気密性を持ちます。

裁判長:輸送車には何人入れられましたか?

ラングヘルト:約60から70名です。

裁判長:ハリコフではどのような状況でその輸送車を見ましたか?

ラングヘルト:S.D.の本部のあるCherniskevsky通り76番地で、外から恐ろしい騒音と絶叫を聞きました。

裁判長:それから何が起こりましたか?

ラングヘルト:その時殺人ガス輸送車はこの建物の表玄関の前を通っているところでした、どのように人々が無理矢理その中に入れられているかを見れる人もいたかも知れませんが、その間ドイツ兵たちが輸送車の両扉の脇に立っていました。」(65ページ)

被告人ハンス・リッツは証言した:

「それは密閉式の車体を持つだけの普通の気密性のある軍輸送運搬車でした。ヤコビ中尉はその機械の扉を開け中を見させました。機械の中には鉄の板が貼られており、床は格子になっていてそこから発動機の排気ガスが入り、輸送車内部の人々を毒殺するのです。[……]60人ほどいた事も付け加えなければなりません。」(69ページから)

[ラインハルト]「レッツラフ:1942年3月、ハリコフの監獄の中庭に入った時、鈍色に塗られた大きな輸送車を見ました。」(77ページ)

「検察官:殺人ガス輸送車によって絶滅させられたソ連人民は何人になりますか?

レッツラフ:S.D.の男カミンスキーが私に言いましたが、3月だけで5,000人以上の人が殺されました。その事と殺人ガス輸送車は毎日命取りの巡回を続けていた事実を併せて、ハリコフでの死者はおよそ総計30,000人だと考えられます。」(78ページから)

その時の間に押し売りされた他の数字と比較すればクラスノダール裁判の間に主張された7,000人の犠牲者は全く印象的でないとソ連人は分かっている。そのため、数値が相当引き上げられている。

「検察官:法廷にその輸送車はどのようなものだったか、どのように設計されたか、そして中で人々がどのように殺されたかを詳細に教えて下さい。

[ミハイル]ブラノフ:この機械は二輪駆動の貨物自動車で、おおよそ5トンから7トンの容量がありました。灰色に塗られており、6気筒機関を有していました。この機械の車体には密閉できる扉が付いていました。扉に沿って並んでいるゴムによって明確に気密性を持つようになっていました。

検察官:扉に沿って並んでいる、ですか?

ブラノフ:はい、格子が囚人の立つ床を構成しておりました。この貨物自動車の下部には内燃機関からの排気管が通っており、そこから排ガスが車内に入るようになっていました。この貨物自動車に人々が入れられた後、扉が閉まり、内燃機関が起動し貨物自動車は荷下ろし地点まで走ります。その間に人々は死に至ります。」(85ページ)

ここでは荷台は実際に完全密閉だったと強く断言している――これは、この目撃証言は単なる嘘だという証明になる。だがこの証人は嘘を吐いていると自覚していたに違いない、彼はそうした輸送車で働いていた、あるいはそう証言していたのだから(87ページ)。

「検察官:殺人ガス輸送車について知っている事全てを法廷に告げて下さい。

[ジョージ]ハイニシュ:殺人ガス輸送車は囚人輸送車の一種で、気密性を持つ密閉式の扉を備え、内燃機関から排気ガスが特別管を通って輸送車の車体に入り、そうして中の全員を窒息死させます。

検察官:殺人ガス輸送車は知っている限りではどの程度の期間存在していましたか?

ハイニシュ:今年の1月、親衛隊陸軍警察中将フォン・アルフェンスレーベンがいた頃のコミッサール地区での会議で耳にしました。

検察官:その会議についてと、そこで学んだ殺人ガス輸送車に関する事を法廷に告げて下さい。

ハイニシュ:フォン・アルフェンスレーベンは殺人ガス輸送車に関する情報がロシア人の手に渡ったと罵っていました。親衛隊陸軍警察中将フォン・アルフェンスレーベンによると、総統閣下――つまり、ヒトラー――はこれ以上殺人ガス輸送車について大っぴらに話せば親衛隊(S.S.)の特別な法廷の裁判送りにすると命じたそうです。

検察官:あなた自身は殺人ガス輸送車を見た事がありますか?

ハイニシュ:はい、ロヴノの町で見ましたが、動いているところではありません。

検察官:殺人ガス輸送車という手段による市民の抹殺に参加した事はありますか?

ハイニシュ:いいえ、ありません。

検察官:ゾーマンとの会話について詳しく法廷に告げて下さい。

ハイニシュ:ゾーマンは、毒ガスによる死は苦痛を伴わず、より人道的だと告げました。彼は、殺人ガス輸送車内での死は極めて素早いと言いましたが、実際には死は12秒以内には訪れず、もっとずっとゆっくりであり、多大な苦痛を伴います。

ゾーマンはドイツにあるアウシュヴィッツ内の収容所では、囚人への毒殺も行われていると告げました。人々は別の場所へと輸送すると告げられ、外国人労働者は送還すると告げられてからその口実で浴場に送られました。処刑される人はまず「防疫」という看板の置かれた場所に入り、男性は女性子供とは別に脱衣しました。人々は「浴室」という看板のある別の部屋に進むよう命令されます。彼らが身体を洗っている間に特別な弁が開き、そこからガスが通って死をもたらします。死者は、200体ほどを同時に焼ける特別な炉で燃やされました。

検察官:ゾーマンは、誰の指示でガス殺処刑を導入したと言っていましたか?

ハイニシュ:ヒトラー、ヒムラー、S.D.高級指導者カルテンブルンナーの間で1942年の秋に会議が開かれ、毒ガスによる処刑が決定された、とゾーマンは言っていました。」(89ページから)

この陳述は、嘘は吐く程に不安定になる事を証明している。この証言は滑稽な主張に充ち満ちているため、どの歴史家も赤面するに違いない。ソ連は自らの手に渡ったという殺人ガス輸送車の証拠を何も提示した事がないのみならず、ヒトラーの命令書も完全なでっちあげだ、同様に何の痕跡もないのだから。

69 ガス殺手順とされるものについてはマットーニョ著の2005年&2010年発表参照。

排気ガスによる処刑は数秒しかかからないと誰かが言ったというのは理解を超えている。しかし最高に傑作なのは1941年の秋からポーランドでの秘密工作によって広められていたアウシュヴィッツでのガス殺という悪評宣伝戦についてハイニシュが言った内容だ。ハイニシュによると、アウシュヴィッツでの犠牲者は本物のシャワーを浴びている間にガス殺されたという――突然弁にガスを入れられる事によって。陳述は断定が多いにもかかわらず全く以て荒唐無稽69であり、被告人は口に詰め込まれた言葉を吐き出している事の証明にしかなっていない。しかし良い面を見ると、この陳述からドイツの権力者はアウシュヴィッツの囚人の命を救う為に防疫に多大な努力をしていた事を間接的に確かめられる。この宣伝戦は、単純にその話を自らの目的に沿うようねじ曲げている。

「ハイニシュ:ガス殺による人々の絶滅は強制収容所で発生しました。

裁判長:ドイツの占領した地域のですか?

ハイニシュ:占領地域に強制収容所はありません。

裁判長:つまり、ドイツ国内ですか?

ハイニシュ:その通りです。」(92ページ)

今日では正反対の主張がされている:絶滅はドイツ国外の収容所で、正確にはベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、そしてアウシュヴィッツで起こったと(戦時中にドイツによってアウシュヴィッツとチェウムノ/ヘウムノ周辺のポーランド領は一時的に併合されたが)。繰り返すが、神話の初期の時点では話の整合性がそこまで練られていなかった事をこの証言は示している。

[目撃者の]証言はドイツ人によるハリコフ占領後に負傷した赤軍の男たちを手当てしていた病院で起きた凄まじい悲劇を詳らかにしている。

『人間の精神は、ドイツの占領期間の間に私が見、暮らしてきたものをとても把握できるものではありません、』と、目撃者Djinchviladzeは述べた。『その病院の第8区画には緊急手術を必要とする400人の重傷者がいました。鈍い爆発音がした時、彼らは手術室にいたか、手術の準備をされている最中でした。看護婦たちが叫びながら私の方へと駆けて来ました。親衛隊(S.S.)の男たちがこの病院へと押し寄せ、全ての入口を封鎖して焼夷弾を2発屋内へと投じました。1階はすぐに炎に包まれました。火はすぐに怪我人の寝台にまで延びました。彼らの衣服に火が着き、彼らは窓へと這い進みました。その多くはほんの数歩分這ってから死んでしまう程に衰弱していました。窓に辿り着いて桟に手をかけた者は建物を取り囲む親衛隊(S.S.)の部隊によってトミーガンで撃たれました。』」(102ページ、同様に103ページから)

ドイツの武装部隊は自身の負傷兵を手当てする為の医療空間と設備を切望していた事を念頭に置けば、ハリコフを占領した時に真っ先にそこの病院に火を点ける事を決心したと誰が真剣に信じられるだろう? 病院が占領の初期に最初に焼かれたとしたら、ずっとありそうな事は、ドイツの占領部隊を擾乱する為に赤軍が多くの大都市に配置しておいたソ連の工作部隊の犠牲になったのであろう。

「被告人と目撃者の宣誓証言が、ソヴィエト連邦(U.S.S.R.)が一時的に占領した様々な地域でドイツの結束主義の侵略者が特別な細工を備えた大型の輸送車を使い、その車内で一酸化炭素の含まれる排気ガスによって殺された事を述べています。法医学の専門家は、クラスノダールの町と郊外から掘り返された死体を調査した時に初めてこれは疑う余地がないと証明しました。同時に、一酸化炭素の存在も死体の組織と内蔵の生理学的、化学的、そして分光の試験の組み合わせによって疑いなく確証されました。クラスノダールで使用されたのと同じく、一酸化炭素での毒殺という手法は、ハリコフで暴いた死体の一部の法医学的な検死でも証明されています。

排気ガスによって密閉式の車内にいる人々を絶滅するように設計された、『殺人ガス輸送車』あるいは『殺人輸送車』として知られるようになってきている運搬車は、大規模な集団を同時に毒殺する為の機械的な手段であると見做すべきです。」(109ページから)

分光の試験とされるものはクラスノダール裁判の為に行われたとされるものと同様の批判に値する。

まとめると、ソ連の2つの見世物裁判に関して、詳細不明の造りと型を持つ殺人ガス輸送車とされるものは灰色で(8、22、29、29、49、50、65、77、85、105ページ)、ディーゼル機関(8、9、13、17、49、49ページ)を持ち、5から7トン(8、16、85ページ) の重量で、二輪駆動かつ6気筒(85ページ)で、最も重要な事として:完全密閉式の扉(9、17、50、65、85、90ページ)を持つ、と要約できる。しかし、この最後の点に主張されるディーゼル機関を加えると、主張される期間(7から10分、17ページ)での大量ガス殺は技術的に不可能になる。ちなみに、一部の証言者は、その輸送車は原動機付乗り合い自動車(9、17ページ)、引っ越し用貨物自動車(29ページ)、あるいは普通の囚人輸送車(50ページ)に似ていたと証言していた。

1943年後期という初期にソ連が「殺人ガス輸送車」に極めて詳しいとされる囚人を複数手中に収められたが、アインザッツグルッペンによって敵の前線を超えて頻繁に運用されたと主張されていた(1942年5月16日のベッカー文書と1942年6月5日のそれ参照)にもかかわらず輸送車はどれも入手できなかったというのは驚くべき事だ。こうした囚人たちがそうまでこの輸送車に詳しいのなら、彼らの描いた絵がないのはどうした事だろう?

もう一度書くが、殺人ガス輸送車による殺人とされるものの主な動機の1つには病院の排除があったと裁判の謄本は繰り返し主張している(54、56〜58、74、84、96、100、102〜108ページ)。どちらの裁判でも、こうした殺人ガス輸送車の犠牲者としてユダヤ教徒が言及された事はないと意識してみるのは興味深い。ユダヤ教徒がこの物語に追加されたのは、ユダヤ教徒をドイツの犯罪行為それぞれの唯一の犠牲者と描写するのが大流行りになった戦後のみである。

後の1943年12月にワシントンDCのソ連大使館によって出版刊行された『German-Fascist Occupation Troops in the Stavropol Area: Soviet War Documents』という題名の本の172ページに、殺人ガス輸送車の記述がある。その記述によれば、その内燃機関は「ザウアー[ザウラー]」機関で、つまり確実にディーゼル機関だ。ザウラーと呼ばれる会社とのここでされた結び付きは重要だ、何故ならばニュルンベルク資料501−PSにあるベッカーからラウフへの悪名高き手紙で再度登場するからだ。

3.4.戦後の自白の心理的骨組み

「終戦直後とそれに続く数十年の間に開廷されたドイツ国内の戦争犯罪とされるものに対する裁判」で蔓延っていた凄まじい状況については数多く言われ書かれており、嘘のあるいは不正確な自白と証言についての多数の理由に関しても同様だ。それを繰り返すあるいは要約する代わりに、読み手にはマンフレッド・ケーラーによる紙面(2003年発表)の、そしてルドルフによるLectures on the Holocaust(2010年発表、292〜358ページ)の適切な章を呈示しよう。後で、目撃者の陳述を扱う時(4章)に、この問題に戻ろう。今は、被告人の持つ根底にある法の基礎「推定無罪」が冒されているという、今日でさえ法による支配の下にある諸州の中でさえ起こる絶望的な状況に焦点を当てたい。扱っている問題を明確化する為、1997年にU.S.で展開した法的な案件をここで1つだけ指摘しよう。すぐに分かるだろう通りこの本の話題とは関係がないという理由がために、この事例は極めて強力だ。

1997年、アメリカ合州国の若き海軍兵は、近所の女性に対し強姦殺人を犯したとして告訴された。彼は関与を否定し嘘発見試験を通過したが、尋問官は彼を信じず彼に圧力をかけ続け、自白を要求した。休むことなき何時間もの尋問の後、男は遂に自白した。DNA試験が、被告人のDNAは強姦犯のDNAとは合致しないと示した時、尋問官は彼を解放する代わりに集団強姦を考え出し、他の関係者と思われる者の名前を吐くよう要求した。何日もかけての尋問の後、被告人は最終的に彼の知っている他の兵士の名前を吐いた。彼らもまた逮捕され、同じ試練を受けた。彼らは全員、最初あらゆる関与を否定した;全員嘘発見試験を通過した;だが何時間も何日もの休みなき尋問の後、全員が自白した。誰のDNAも強姦犯のそれとは合致しなかったため、尋問官は更なる名前を尋ねた。最終的に7人の兵士が逮捕された。全くの偶然に、近所の女性2人を強姦し、そのDNAが記録さえされていた本物の強姦魔がそのすぐ後に見つかった。しかし誰も警察の電子情報庫にあるDNAと合致するかを気にしなかった。

悲劇は、この事件が裁判所行きになった時、検察官も裁判官も陪審員も、「この完全無実な男が犯してもいない恐ろしい罪を自白した」とは信じられなかった事にある。全員が最初は、そしてその一部は裁判の途中にすら、潔白を主張したとしてさえ;DNAが潔白を示していたとしてさえ;検察当局の聞きたい内容に沿うよう、何度も話を変えていてさえ;起きたとされるものについて彼らがでっち上げた最終的な話は所々不合理で、物証と矛盾していたとしてさえ;そして本物の強姦犯が単独で行ったと主張してさえ――法廷と陪審員は未だ4人の無辜の男たちを集団強姦と殺人の罪を持つと見做していた。

70 http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/the-confessionsと、この現象に関する記事のある彼らのウェブサイトhttp://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/theconfessions/false-confessions-and-interrogationsを参照すること。

この裁きの失敗の醜聞的な事件は完全に文書化(ウェルズ/レオ著、2008年発表)され、2010年11月9日にU.S.の公共放送PBSチャンネルで映像記録化70された。トム・ウェルズは、この4人の無実の男たちに降りかかった死刑という脅威は、中世の魔女裁判の間に拷問装置の存在が持っていたものと同じ効果を持っていたと詳述した。

そのため、ほぼあらゆる人にほぼあらゆる犯罪を自白させるのに必要なのは、目に見える出口が1つしかない絶望的な状況にその人を追いやる事だけだ:拷問官の願いを叶えるしかない状況に。時間をかければ、誰でも自白するだろう。身体的虐待は必須ではない。終わる事なき疲労させる尋問と数週間あるいは数ヵ月にも及ぶ監禁の後、幽閉されたままこれが更なる月日、年月、いや、何十年も続くという展望――あるいは死刑という展望さえ――は、ほぼあらゆる被告人に尋問官が聞きたい事を望んで何でも言わせる――危機の迫っている唯一の罰を回避可能あるいは軽減可能だとしても:

俺たちはあなたの罪を知っている。自白も協力もしないのであれば、余生を監獄の中で過ごさせる事になるだろう――電気椅子に乗せさえするかもな。

ここでは高度に発展し洗練された法制度の中での「毎日の」犯罪の進捗を扱っているのだという事を心に留めておくこと。

被告人は有効的な防衛の為の資源を何ら持たず、そして拷問が一般的に行われ、また死刑が数百人に執行された終戦直後の裁判の間、それはドイツの被告人にとってどれ程に悪かったことだろう? そして、起訴内容の主張への反論は、「それは後悔と悔恨の欠如である」と更なる重罪の危険にさえなる、それ以降の西ドイツでの裁判におけるドイツ人の被告にとって、どれ程酷いものだったのだろう?

それでもやはり、このような自白の基本的に無価値な性質をそう何度も繰り返す事なく、「殺人ガス輸送車」に関してされた様々な「自白」と目撃者の証言にこれから戻ろう。

3.5.国際軍事裁判(IMT)ニュルンベルク諸裁判(NMTs)での殺人ガス輸送車

3.5.1.ソ連の背景

殺人ガス輸送車の主張は戦後の国際軍事裁判(IMT)とニュルンベルク諸裁判(NMTs)において些細な役割しか果たしていない。この車の主張に限らず、これらの裁判はこれまで論じてきたソ連の戦時の見世物裁判の延長である。それは、国際軍事裁判(IMT)の中での、「クラスノダールとハリコフで開かれたソ連の見世物裁判の間にされた主張」に間接的な言及をしている起訴の中にあった「殺人ガス輸送車」への1回目の言及(国際軍事裁判(IMT)1巻、49ページ;間もなくしてソ連の検察官オゾルが繰り返している、2巻、63ページ)だけによって証明されるわけではない:

「クラスノダールでは6,700人ほどの市民が殺人ガス輸送車の中で毒ガスで殺され、[……]

ハリコフでは約195,000人が拷問の末殺されたか、銃殺されたか、殺人ガス輸送車の中でガス殺されました。」

これらの見世物裁判に加えて、ソ連の検察官スミルノフは1944年10月29日に開かれたソ連の軍法会議――よりによって――の議事録に「殺人ガス輸送車の中での一酸化炭素による窒息死という手段によって1943年5月にスモレンスクで起きたソ連市民の抹消」という主張を記している。ソ連の軍法会議の集めたこの「情報」(7巻、465ページ)はほぼ確実に上記で論じたソ連の見世物裁判の間に集めたものより些か劣る信頼性しかない。しかし、国際軍事裁判(IMT)の規則を定義したロンドン憲章の第21条で、勝者の作り出したあらゆる証拠は額面通りに受け入れなければならないと明確に述べている(1巻、15ページ)ため、あるいは法廷の裁判長ジェフリー・ローレンス卿が法的に以下のように表明した(7巻、453ページ)ため、クルト・カウフマン弁護士によるこのあからさまな宣伝戦の資料を排除しようという試みは失敗した:

「第21条はこれ以上なく明確であり、そしてこの裁判に呈示された様々な文書を公知の事実として採用するよう指示しており、またはっきりと連合国による軍事のそしてそれ以外の裁判における記録や調査結果に言及しています。」

71 大使館発行、1943年発表、171ページ;捕虜フェンチェル(フェニチェルではなく)の同じ目撃証言は「スタヴロポリ地区で犯されたとされるドイツ人の犯罪に関する、ソ連の特別国家委員会による報告」の日付不明のドイツ訳でも引用されている:ロシア国立公文書館の7445-293の24ページ参照。

「殺人ガス輸送車」に関するソ連の他の主張も同じくソヴィエト連邦共産党中央委員会が行った検分の「調査結果」に基づいている(7巻、503、544、556、571〜575ページ)。それの文中で、ソ連の起訴はUSSRのPoWだと言われているE・M・フェンチェルという名前のドイツ兵によってなされたとされている宣誓証言から引用している。この宣誓証言は、既に言及した強烈な反ドイツ的な残虐行為の宣伝戦で構成される小冊子の一部として、1943年にU.S.でソ連大使館によって刊行されている。この小冊子ではフェニチェルと綴られているこの人物が、果たして存在した事があるかどうかは分からない。71存在したとしたら、その人物は戦後の裁判の間証人として登場したことはない。その文書はそうした輸送車の技術的な装備に関して興味深い主張に言及している(国際軍事裁判(IMT)、7巻、572ページから):

「自動車技師として働いている間、排気ガスによる窒息と絶滅を特別に採用した輸送車の構造を詳細に調べる機会がありました。スタヴロポリの町には、ゲシュタポが好きに使えるそうした輸送車が数台ありました。

その構造は以下の通りです:車体の長さは5メートル程で幅は2と1/2メートル程、高さはおおよそ2と1/2メートル。貨物列車の窓のない車両のような形をしていました。その内側には亜鉛鍍金された鉄が貼られていました;床も亜鉛鍍金された鉄で覆われており、その上に木の格子が張られていました。車体の扉はゴムで裏打ちされており、自動施錠でしっかりと閉まりました。輸送車の床、格子の下には、2本の金属管がありました。[……]

これらの管は、同じ直径の横断する管1本と繋がっていました。[……]

これらの管には直径半センチメートルの穴が多数空いていました。1本の横断する管から、亜鉛鍍金された鉄の床に空いた穴を通って、先端に六角ネジの付いたゴムの管1本が伸び、内燃機関の排気管の終端の径に嵌まるように通されていました。このゴム管は排気管にネジ止めされ、内燃機関が稼働する時、排気ガス全てがこの完全密閉式の輸送車の車体に入ります。このガスが充満する事で、輸送車の中の人は短時間で死にました。その機械は大体70から80人を収容できました。その機械の発動機は通常商標の『ザウアー[ザウラー]』を帯びていました。」

ザウラーの内燃機関は必ずディーゼル機関であるため、そのような内燃機関の排気ガスで短時間で死ぬ事はありえない。熱い排気管と繋がったなら、ゴム管はそう長いこと持たないだろう。完全密閉式の車体も長期間保たない。輸送車の車体の高さは、立っている人を輸送するのに求められるにもかかわらず、たった1.7メートルの高さしかなかったという文書と食い違う。ゴム貼りの扉(何の為に? ゴムの封を言いたいのか?)と自動扉(何故、そしてどうやって?)が他の証人から言及された事はない。前述の通り(118ページ)、2本の平行の管が1本の横断する管と繋がっており無数の穴が空いているというのは、高価にし装備を複雑にし車体の掃除を難しくし機構全体を損傷に弱くする以外では全く無意味だ。一般的な排気管は薄すぎるため、ゴム管は通常それに食い込ませられない。加えて排気管の極端な温度差のため、酷い熱膨張と熱収縮が起こり、ネジ止めは難しいものになるだろう。どのような技師もこのような解決法に頼るまい。

ここの2.2.2.2.2.3.で論じた501−PSにあるベッカー書簡と電報への裁判で繰り返される言及は、ソ連の事件を補強する意図があった(2巻、126ページ;3巻:559〜561ページ;4巻:213、251、253、323ページから;7巻:172ページ;19巻:511ページ;20巻:177ページ)。電報の1通はニュルンベルク諸裁判(NMTs)のアインザッツグルッペン事件の間に再び言及された(4巻、514ページ)。

3.5.2.ヴァルター・ラウフの自白調書

ヴァルター・ラウフは終戦時イタリア戦線で従軍しており、そこで1945年の春にU.S.の部隊によって捕虜になった。虜囚の間彼は、当時係争中であったニュルンベルク軍事裁判の間の被告人に対する有罪の証拠として使われていたベッカー文書の信憑性を認めるよう二度頼まれた。1945年10月18日彼はこの文書の左の余白にその信憑性を「確認」したと手書きで書いた。翌日、彼はこの確認を繰り返す英語の簡潔な自白調書に署名した(国際軍事裁判(IMT)、30巻、256〜258ページ)。裁判の前に囚人に文書の信憑性を認めさせるのは必要不可欠な一般的なやり方ではないが、ベッカー文書の起源は「不明」と記されていた事実を考えれば、U.S.の権力者がラウフに熱心にその信憑性を確認させた理由は理解できるだろう。

ヴェッカートが現在認めている通り、(ヴェッカート著、2003年発表、228ページから)ラウフの自白調書には多数の事実の誤りが含まれている、例えばザウラー社は実際にはウィーンにあるのにベルリンに位置すると間違えている:

「輸送車は、ドイツの、確か、ベルリンにあるザウエル・ワークスで組み立てられました。」

彼は、ザウエル社とそうした輸送車の車体を組み立てていたBerlin Gaubschat社を混同していたのかもしれない。そうした些細な誤りは、そのため、ラウフの自白調書の真実性に疑問を投げかけはしないだろう。稼働して以来「殺人ガス輸送車」の配備をラウフは担当していたと正史のホロコースト文学は主張している(コーゴン著、1993年発表、53ページから)。何より驚くべきは、ラウフは明らかにこうした輸送車について詳しくないように読めるということだ、それは例えば彼がこう言っている時に明白である:

「私が証言できる限りでは、これらの輸送車は恐らく1941年時点で稼働していました。」

しかし「殺人ガス輸送車」は独ソ戦の火蓋が切られる前は「開発」されていなかったと言われている――コーゴンは1941年の終わりの時点では計画しかされていなかったと言い続けており(1993年発表、53ページ)、この文書のみに拠れば1941年の12月に配備され始めた。そのためラウフの陳述は余り筋が通っていない。

ベッカー文書を読んだ後、ベッカーはプラーデルに「この複数の手紙で不満が述べられている技術的問題を直すように」と頼みました、ともラウフは主張した。「手紙」が複数形なのに注目! そのため、彼はベッカー文書のみを証明し他の文書に言及していないにもかかわらず、ベッカーは手紙を1通見せられたわけではない。実のところベッカー文書には技術的問題は何も入っていない。ラウフの陳述はこの文書のみの文脈の中では筋が通っているが、それは無数の技術的変更があった事を示唆している。これは、ラウフはその文書も見せられた事を疑わせる。何故彼はこの文書のみの信憑性を確認するよう頼まれたのかも謎である。こうした2つの、表面的には互いを裏付けているように思える文書を示された事は、ラウフに影響を残したに違いない。しかしこの一文書は国際軍事裁判(IMT)にも、以降のニュルンベルク諸裁判(NMTs)にも持ち込まれていないため、確認された信憑性の問題は恐らくそれ以降起こっていない。

72 http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Rauff

ベッカー文書は、「殺人ガス輸送車」の配備の主犯の1人はラウフであると暗示しており、そのような「第二次世界大戦中の10,000人近い死の責任」72のためU.S.の部隊は起訴の間彼をドイツへと移さなかった。少ししてラウフは実際にU.S.の抑留収容所からの逃避にさえ成功し、以降国を転々と移動した。彼は最終的にチリへと移民し、そこで最低2回取材を受けた、一度は報道関係者から、一度はドイツの公式な検察官から。

最初の取材はU.S.の報道関係者ジョージー・アンネ・ゲイヤーによって行われ、彼女は1966年にチリ南部でラウフに会った。ここに、ラウフが彼女に語ったと彼女が主張している関連するくだりを記そう(ゲイヤー著、1966年発表、109ページから)。

「そして、一瞬の間に変わり続ける会話の中で、私は切り出そうと決めました――彼に、実際にされた起訴は何だったのかを聞いたのです。彼の顔は強張りました:

『彼らは、お前は96,000人のユダヤ教徒を殺したのだと言いました、』彼は感情を込めずに言いました。『彼らは、私は1人も殺していないと、そして私たちはあそこで1人のユダヤ教徒も殺していないと知っていました。』彼は一拍置きました。『あれは紳士の戦争で[はありませんで]した。』

『全てを分かりやすく説明する方法はない、』チリ産の葡萄酒を私たちが飲むと彼はそう言いました。『ドイツで何が起こったかを簡潔に説明できる者はいません。20年代と30年代にドイツが何をくぐり抜けたかを知らなければなりません。誇り高き国でしたが、辱めを受けました。誰も耐えられないものです。恐ろしい行為がなされ、続きました――恐ろしい事がなかったとは私は言いません。私は、自分の知らない事を言う者ではありません……』(今思うに、彼は、『知る』『簡単な』方法を採らない事に奇妙なまでの誇りを持っているように見えました。)『知っていました。ですが私は兵士でした――良かれ悪しかれ、我が国の。兵士は従うものです。そういうものです。』

その時私はまだ彼の事件の詳細を知らなかったため、彼に聞き直しました、『あなたは正確には何で起訴されたのですか?』

『彼らは、お前は技術的な諸々を受け持っていたのだと言いました、』彼の声は低く沈んでいました。『技術的な諸々を知っていた? 私は管理職でしたよ。組織こそが――私の力でした。』[……]

太った仲居の妻がティエラ・デル・フエゴからの子羊の配膳をしている間に、私は訊ねました、『戻れるとしても、また同じ事をしますか?』

『はい、』彼はゆっくりと言いました、『同じ事をするだろうと言わなければなりません。それ以外にすべき事はありません。』

これらの不十分な証言から推論できるのは、ラウフは明らかに悪心を持っておらず、彼はあの一文書に書かれていた(そしてラウフが誤って証言した96,000ではない)97,000という人数の殺人の起訴について潔白であると感じているということだ。第二次世界大戦は「紳士の戦いであった」と主張するのは非現実的であり、直後の彼の「恐ろしい行為がなされ」たと認めたことと矛盾している。そのため、ここはゲイヤーの著作の誤りだと推測する。不幸にもゲイヤーはラウフが持っていたと思われる諸々の知識を掘り下げなかった。

73 www2.ca.nizkor.org/ftp.cgi/people/r/rauff.walter/Rauff-deposition-translation;ページ番号はこの翻訳で与えられた通りの尋問記録のページ番号。

ラウフは1972年6月28日にドイツの検察官に彼が自発的に買って出た取材の間に、彼が知っている事についてより詳しく語った。73その時の証言の多くはRSHAにあるかつての職場での技量の問題に関するものだった――彼はここでも自分を単なる「動員された管理職」と描写している(8ページ)――が、「最終的解決」の履行に深く関わったと思われていた男からのそれに関する圧倒的な証言が多少ある:

「わたしが知っていたロシアにおけるユダヤ教徒に対するやり方は最初から正しいものでした。しかしユダヤ教徒殺害命令が何に基づいているのかを公式に知った事はありません。人種的理由によるユダヤ教徒の浄化を含む総統の命令があったと戦後に聞きましたが、戦中にそのような命令を言われた記憶はありません。そのような命令が存在したなら私がチュニスで活動している間に報されていたに違いありません、そこには多くのユダヤ教徒がおり、私たちのために何事もなく自発的に働いてくれさえしていたのですから。

ポーランドでの作戦の間で既にユダヤ教徒に対する浄化の方法を耳にした事がありますが、今日でさえ、会議の間にあるいは会話の中から公式に知ったと言うことはできません。(8ページ)

我々はユダヤ殺し組織に深く関わっていたとされる人物を知っているが、彼はユダヤ教徒を殺害する命令を何も知らない。実のところ、彼の証言全体は疑いだらけであり、「私はこれ以上は知らない。」ラウフは、当時知っていた事とそれ以降で「知った」事をこれ以上区別できないことは強調しておく。しかし事実として、彼がユダヤ教徒を殺していた代わりに、そこでユダヤ教徒が彼の為に「何事もなく自発的に」働いていた。

「殺人ガス輸送車」についてより詳細に訊かれた時、ラウフは答えた:

「ロシアでのユダヤ教徒抹消に関して、私は殺人ガス輸送車がこの目的で使われたと知っています。しかし、それが起きた期間の始まりと終わりは言えません。私が海軍にいた頃に殺人ガス輸送車に関する諸々は始まったのだと思っていました。今はこれについて疑っており、海軍から帰還した後にやっとこの問題が始まったということも有り得ると考えるようになっています。いずれにせよ帰還してからいつかの時点でこうした殺人ガス輸送車のうち2台が庭で停車しているのをプラーデルが見せてくれました。それから私は何らかの方法で殺人ガス輸送車は刑の執行とユダヤ教徒の殺害に使われている事を知りました。

プラーデルが主導権を握りながら殺人ガス輸送車の改良を行うのは不可能だと思います。彼は、私か、私より上司からの命令を受けなければならなかったからです。

当時殺人ガス輸送車の使用を疑っていたかどうかは言うことが出来ません。当時私にとって重要な要素は、銃殺は実行者にとってその責任を負うため大変負担となり、殺人ガス輸送車を使えばその負担がなくなるという事です。

当時シーガート医師がこの問題に関わっていたとは思いませんが、恐らく知ってはおりました。

私がベッカーから殺人ガス輸送車の使用に関する何かを受け取っていたのは確かです。私自身ベッカーに、関連する報告を送るよう告げた事があります。」(12ページ)

良いだろうか? この中心人物たる責任者はどのように殺人ガス輸送車がどのように使われるようになったかを覚えられないのか? そして彼は「何らかの方法で」――偶然に?――「殺人ガス輸送車は[……]刑の執行とユダヤ教徒の殺害に使われている事を知りました」? アインザッツグルッペンの「動員」と彼らを輸送車に配備した責任者であり「殺人ガス輸送車」の設計の定義と改良に携わっていたとされる人物が、どうしてついでに一度だけこのような恐るべき車を見せられたのだ?

ピノチェト将軍が頑なに彼の送還を拒んでいるため、ラウフには恐れることはなかった;そのため彼は自発的にドイツの検察官の前での証言に同意した。だからラウフの証言は誠実であり、彼の知識の限りを尽くしていると私は考えている。しかしこれが証明しているのは、彼は当時自分が知っていた事と以降に知った事を区別できないという事だけだ。しかし、もし彼が本当に上官からの絶滅命令に従ってこれらの輸送車の運用の責任を負っていた場合、彼はまず間違いなく覚えているものだろう、私はそう考えている。

ラウフは1984年5月14日にチリで、彼が犯したと言われている犯罪に関する知識を持っていない事に対しての起訴を受ける事なく亡くなっている。

3.5.3.オットー・オーレンドルフと口述書

オーレンドルフは1939から1945年まで親衛隊(SS)のRSHAにある保安庁の長官だった。続けて1945年11月5日と日付がある自白調書の3ページから引用する(ニュルンベルク諸裁判(NMTs)、31巻、41ページ):

「1942年の春、私たちはベルリンで秘密警察及びSDの長官から死体ガス殺輸送車を受けとりました。これらの車はRSHAの2課に使われるように作られました。私のアインザッツグルッペの車の責任を負っていた男はベッカーです。女子供の殺害の為にこの車を使うよう命じられました。十分な犠牲者を集めたなら、車は彼らを除去する為に送り出されます。私たちは、そうした死体ガス殺自動車を、犠牲者が送られてくる中継(transit)[74]収容所の隣に停めていました。犠牲者たちは、自分たちは再定住する事になり、その為にこの自動車に乗らなければならないと告げられました。その後、両扉が閉じられ、ガスが起動します自動車が動き出してガスが中に吹き込みました。犠牲者は10から15分で死にました。車は埋葬地に移動し、そこで死体が取り出され埋葬されました。[……]

私は、ベッカーが2課の技術部長ラウフに綴った、これらの死体ガス殺輸送車に関する手紙を見せられました。私はどちらの男も私的に知っており、この手紙は保証できると考えています。」

74 「ニュルンベルク裁判(NMT)、1950年発表、4巻、206ページから」にある公式の英語翻訳には「transient」(短期滞在)という語がある。これは些細な誤訳では全くなく、欺瞞の漏洩である。英単語は混同しやすい(transient←→transit)が、元々のドイツ語はそうではなく(Durchgangslager←→vorübergehende Lager)、翻訳者が誤った方を選択したとは考えづらいが、訳者が一般的でない語(transient)を一般的で正しい語の代わりに思いがけず使ったのは、オーレンドルフがここで使った望ましくない語が、「絶滅収容所」とされるものは実際には単なる中継収容所だという歴史見直し論者の定説を支持しているからだ。

オーレンドルフの元々の口述書は極めて興味深い、繰り返し「トーテンワーゲン」=死体輸送車(あるいは死者用車)という語を使っているからだ。「トーテン」は後に取り消し線が引かれ、「ガス殺」に取って代わられた。彼の口述書の英訳には元々の語句の痕跡はない。

同様に、オーレンドルフは元々ガスは管理されていたと描写していた事も明らかだ(「das Gas [wurde] angedreht」=ガスが起動します)。これは勿論車体を通る排気ガスという正史に沿っておらず、そのためこの節も続けて変更されている。

それ以外で、我々はオーレンドルフの宣言から殺人ガス輸送車の開発について新たな何かは知れない。この証言は、先に引用した目撃者の口述書を確証している、その輸送車は10から15分で動作を完了するという点に関して。我々は技術的に不可能な行いを取り扱っている、という主張を繰り返そう:もし車体が完全密閉なら、車体が破裂するかエンジン・ストールするかのどちらかだろう。

殺人ガス輸送車に関する、国際軍事裁判(IMT)の間のオーレンドルフの証言は、基本的に彼が既に自白調書で証言した内容を繰り返しているが、「どのようにしてガスは起動されたのですか?」と訊かれた時、彼は、その要素について自分は知識を欠いている事を明らかにした:「私は技術的詳細について詳しくありません」(4巻、322ページ)。これは、オーレンドルフの宣言供述書の元々のドイツ語版は恐らく彼の考えを伝えたものであり、他者によって(あるいは他者の命令によって)訂正が為された事を確証するものである。また、一度に処刑された人数についての彼の証言(15から25人、同書、323ページ)は通常主張されるその3倍の乗員数と食い違っている。オーレンドルフへの尋問の間、彼はベッカー文書の信憑性を保証するよう頼まれ、彼はそれを持って回ったやり方でのみ行った、また何故殺人ガス輸送車が運用されたかの理由を語り直すよう頼まれた、それは正しき法廷では禁止されている誘導尋問であるが、今回の場合ではそれはオーレンドルフの証言は念入りに演出されていた事を暗示している(同書、323ページから)。

オーレンドルフはニュルンベルク軍事裁判のアインザッツグルッペン訴訟の間でも再び証言した。そこで彼は異なる2つの大きさの殺人ガス輸送車があったと詳述している、1つは15人用であり、もう1つは30人用だと。驚くべき事に、車体に窓があったかを訊かれた時、彼は「あったかもしれません」(ニュルンベルク裁判(NMT)、4巻、301ページ)と応えており、これはまたもやオーレンドルフは証言するよう頼まれた要素を忘れている事を証明している。

3.5.4.エルンスト・ビーバーシュタインの自白調書

1942年9月から1943年6月の間、ビーバーシュタインはアインザッツコマンド6の司令官だった。彼の自白調書で、彼は殺人ガス輸送車の配備に関し記述している(書類番号4314、ニュルンベルク裁判(NMT)、4巻、210ページの翻訳):

「私は直接、ガス殺貨物自動車によって行っていたロストフ内での処刑を監督していました。死すべき定めの人々は[……]50から60人ガス殺貨物自動車に乗せられました。[……]私自身死体を降ろすところを見ており、その顔には歪みが全くなく、外面に痙攣の痕なく人々に死が訪れました。そのガス殺貨物自動車は、ガス殺貨物自動車の操縦に入念な指導を受け、特別な連続講習を経たニュルンベルクの運転手Sackenreuterによって運転されていました。」

75 1960年にも、アウグスト・ベッカーはそのような連続講義に言及した(ベーア著、1987年発表、112ページ)。

そのような部隊の司令官がこの作戦中にそのような輸送車の助手席に座る事で時間を無駄にするとは考えにくいが、確実に可能ではある。だが殺人ガス輸送車の運転手用の連続講習? 殺人ガス輸送車での大量殺戮の教育用の特別な連続講義をドイツが行っていたと、我々は本当に信じるのだろうか?75 あるいはここのビーバーシュタインは、運転手はガス発生自動車の操縦の指導に言及しているのだろうか?

これは、こうした殺人ガス輸送車の操縦者はその使い方にどのような指導を受けていたのかという問題を提起する。恐らく、運転業を学ぶ為の何らかの秘密の連続講義は実際に存在しただろう。だがそれ用の証拠を見つけない限り、私はin dubio pro reoを決める。

3.5.5.カール・ブラウネの口述書

1941年10月から1924年10月までアインザッツコマンド11bの長であったブラウネは、その自白調書で以下を述べた(文書番号4234、ニュルンベルク裁判(NMT)、4巻、214ページの翻訳):

「1942年春、ガス殺貨物自動車が私の部隊に使えるよう配備されましたが、私の部隊はそれを処刑に使いませんでした。私の考えによると、射殺はガス殺貨物自動車による殺害よりもどちらにとっても名誉あるものです。そのため私はガス殺貨物自動車の使用を断りました。」

内部抵抗者の勇敢で名誉ある行動だ、拍手! して、殺人の為の貨物自動車が常に不足していたと思われる彼の上司は、殺人ガス輸送車をただ置物にして錆びるに任せている彼を放置していたのだろうか?

3.5.6.様々な口述書

今、国際軍事裁判(IMT)の被告人による多数の証言とその弁護人の証言も振り返ろう。まずは、戦争中ヒトラー・ユーゲントの長及びヴィエナの帝国州知事であったバルドゥール・フォン・シーラッハだ(14巻、431ページ):

「コリン・ロス医師が1944年にヴィエナに来て、外国の出版社から情報を受け取ったと私に告げました、東部でユダヤ教徒の大量殺戮が大規模に行われているというのです。それから私は自分に出来る限り知ろうとしました。分かったのは、ヴァルテガウでのユダヤ教徒の処刑は殺人ガス輸送車で行われていたということです。」

不幸にもその裁判で誰も、どのように、そしてどんな手段でフォン・シーラッハがそれを知ったのかの理解に関心がなく、この時彼は口を挟まれなかったため、その問題はこれ以上分からない。ヘウムノ収容所は、殺人ガス輸送車による大量殺戮が起こったと主張されているそのヴァルテガウ地方にある。この話題についてはドイツの戦後裁判を扱う時にまた言及しよう。

終戦時にドイツの武装部隊の最高司令部の総長だったアルフレート・ヨードルは以下のように証言した(15巻、333ページ):

「私は一語たりとも拷問、国外追放された人物あるいは捕虜、火葬場あるいは殺人ガス輸送車、残留する尋問の苦悶、そして医療実験について聞いた事がありません。」

これらのうち一部については本当に彼は聞いた事がなかったかもしれないが、捕虜について聞いた事がないと主張するのは確実に度が過ぎている。

ドイツ情報局「Deutsches Nachrichten-Büro」の編集長でありヨーゼフ・ゲッベルスの右腕だったハンス・フリッチェは自分の弁護でこう証言した(17巻、181ページ):

「その期間働いていた記者である私は、ドイツ人はユダヤ教徒の大量殺戮に認識しておらず、それの主張は噂と見做されていたと強く確信しています;そして外部からドイツ人に届いた報告は公式に何度も何度も否定されています。そうした文書は私の所有物ではないため、個々の否定の事例を記憶から引用できません;しかし1つの事例は格別はっきりと覚えております。それは、ロシア人がハリコフを奪還した後、初めてガス殺が言及されている間に訴訟手続きを開始した時です。

私はそうした報告を抱えてゲッベルス博士へと駆け寄って、事実について聴きました。彼は、その問題を調査し、これについてヒムラー長官とヒトラー総統と議論しますと述べました。翌日、彼は私に否定の通知書を送りました。この否定は公式には為されませんでした;述べられた理由は、ドイツでの訴訟手続きは説明が要求されるもっと明確な手法での証言が不可欠だからだというものでした。しかし、ゲッベルス博士は私に、ロシアの訴訟手続きで言及されている殺人ガス輸送車は純然たるでっち上げであり、それを支える本物の証拠は何もないと明確に教えてくれました。」

裁判の将軍たちの被告側弁護士ハンス・ラテルンザーは最後の嘆願で審議した(21巻、402ページ):

「1943年の秋、195,000人がキエフで殺人ガス輸送車に入れられ大量殺戮されたとされています。その反証に私は、私はドイツ国防軍は殺人ガス輸送車を所有した事実はない事を示す自白調書1116-a、1116-b、そして1116-cに言及します。」

誰かそうした自白調書について聞いた事がある者はいるだろうか? これまでのところ私はそれらを見つけられていない。それらは疑いを晴らすものであるため、恐らく正統的歴史観から的外れと見做されているのだろう。

同じ事は親衛隊(SS)保安局(SD)の被告人の被告人弁護士Hans Gawlikが言及した60以上のそうした文書についても言える(22巻、24ページ):

「この起訴は殺人ガス輸送車使用の文書番号501−PSも提出しています。Ehlich先生という証人が証言した通り、国家保安本部第III局が殺人ガス輸送車を使用するよう指示を発した事はないと私は指摘しなければなりません[42巻、106ページ]。起訴が提示した文書501−PSは、その参照番号IIで殺人ガス輸送車はRSHAの第II局の案件だったと示しています。その文書内で言及される親衛隊(SS)の親衛隊中佐であるラウフは、第III局の者でも第VIの者でもありませんでしたが、RSHAの第II局の局長でした。彼は当時車両輸送の責任者でした。これに関して私は証人オーレンドルフとホエップナーの口述書(1946年の1月3日の法廷)と、大国全体と1941年から1945年までの間に占領した領地からの60の自白調書に言及しますが、これらによれば、SDは殺人ガス輸送車の使用との関係がありませんでした。」

国際軍事裁判(IMT)の間殺人ガス輸送車への言及はこれ以外では僅かで些細なものだ、例えばポール・ブローベルによる自白調書がある(3824番、ニュルンベルク裁判(NMT)、4巻、213ページ)。それらには殺人ガス輸送車に関する何らかの情報があり、私はそれらを4.2章の適切な項に並べている。

3.5.7.フランツ・ツィライスの「自白」

1946年4月8日、マウトハウゼン強制収容所の元囚人ハンス・マルサレクはニュルンベルク裁判の為に宣誓証言をし、以下のように主張した(国際軍事裁判(IMT)、33巻、279〜286ページ):

「1945年5月22日、マウトハウゼン強制収容所の所長フランツ・ツィライスは逃亡の間米国兵に撃たれグーセン支所に搬送されました。フランツ・ツィライスは第11分隊(米国の分隊)の司令官セイベル;元囚人にして医者のコスツェインスキ先生;そして名前は知りませんが別のポーランド市民1人の監視下で6から8時間私の尋問を受けました。尋問は1945年5月22日の夜から23日にかけて行いました。フランツ・ツィライスは重傷でした――彼の肉体には銃弾が3発貫通していました――そして己の死を悟り、私に以下を告げました:」(280ページ)

マルサレクが「ツィライスが自分に告げた」と主張しているものの抜粋にあたる前に、一度立ち止まって状況を考えなければならない:ドイツ収容所の元所長ツィライスは撃たれ、出血によってゆっくりと死へと向かっていた。しかし彼の命を救おうとする代わりに、彼らは緩慢に死ぬに任せた。加えて、その衰弱した死に逝くツィライスは死ぬまで夜を徹して何時間も尋問された。その尋問は不偏不党の調査官によってではなく、腹に何物も持っていたに違いない元囚人によって為された。

そこにはツィライスによる署名も、「自白」という誓約もない。ツィライスが言ったとしているマルサレクによる言葉しか我々にはなく、その中には例えばこういうものが見つけられる:

「グーセンのチェミエルスキーとサイドラーは、刺青の彫られている特別に鞣された人間の肌を持っていました。その皮で彼らは本を綴じ、ランプシェードと革の容れ物を作りました。」(281ページ)

ブーヘンヴァルト収容所で殺された囚人の皮から作ったランプシェードと「革製の」品々に関する残虐行為の物語をU.S.の部隊が広めた後、マルサレクはツィライスの口に、証拠がひと欠片もないがために同様に荒唐無稽な話を詰め込む事で「自分の」収容所をそれと比べうるものになるようにした。

「ヒムラーからの命令によれば、私には親衛隊大将カルテンブルンナー先生の為に囚人全員を浄化する義務がありました;囚人たちはBergkristallの工場の隧道へ連れていかれ、出入り口は1つしか開けない事になっていました。そしてその出入り口は爆発物の使用によって爆破され、そうして囚人たちに死が訪れる事になっていました。私はこの命令の実行を断りました。」(同書)

つまり結局のところツィライスは人道的な司令官だったということか? だが恐らくこの話全体がでっち上げだろう。

「ガス殺場は、元守備隊の医者クレブスバッハの命令によってマウトハウゼン強制収容所に造られ、浴室に偽装されました。囚人たちはこの浴室に偽装された部屋で殺されました。」(同書)

私がこの文を引用したのは、決定的なくだりを省いたという言いがかりを避ける為だ。ガス殺室はこの本の主題ではないため、オーストリアの正史歴史家たちは1995年にマウトハウゼン強制収容所には殺害装置の痕跡が全くないと確立していると指摘するに留めよう。彼らはまた、その収容所で来訪客に公開されているガス殺室は現実に即するところが全くない戦後の作り物であるとも表明している(フロイント/ペルツ/Stuhlpfarrer著、1995年発表)。

その直後に以下の証言を見つけられる:

「それとは別に、マウトハウゼンとグーセンの間を運行していた特別製の自動車の中で移動中に囚人がガス殺されました。この自動車の構造の発想は親衛隊少尉にして薬剤師のWasiczki先生によるものです。私自身はこの自動車の中にガスを送り込んだ事はなく、運転しただけですが、囚人たちがガス殺されている事は知っておりました。」(同書)

これもまたでっち上げだ。仮に「殺人ガス輸送車」があったとして、それはRSHAの階級構造のより上位の人々、ヴァルター・ラウフのような者の産物であった。一方、1942年3月26日のラウフの手紙(付録4参照)が「殺人ガス輸送車」を扱っていたとするなら、その手紙は「マウトハウゼン収容所はそのような輸送車をベルリンにある犯罪技術研究所に要求していた」事を示しているだろう。そのため「殺人ガス輸送車」はツィライスが個人的に知っていたような親衛隊少尉の小者によって開発されてはいない。

輸送車を本人が運転したというツィライスの主張は全く信じられるものではない。50,000人以上からなる――無数の「衛星移住労働者」もまたツィライスの管理下にあった――複数の収容所を束ねる長は、まず間違いなく2つの収容所間の輸送車の運行に貴重な時間を費やしていない

更に表現「私自身はこの自動車の中にガスを送り込んだ事はなく」、はこれらの輸送車は排気ガスを使わず他の何らかのガスの追加が要求された事を示している。これが恐らくこうした輸送車の一部は実際には人々を殺すのにチクロンBを使っていたという神話の起源となっている。この主張には5.1.章で戻るが、そこで私はフランスの正史派歴史家ピエール=セルジュ・シュモフによってなされたマウトハウゼンに関する主張について論じる。

その「自白」の終わりに、ツィライスは以下を主張した事になっている:

「親衛隊中将グリュックスは弱った囚人を精神異常者と分類しろ、そしてリンツの近くにあるアルトハイム城内に存在したガス殺工場で殺せという命令を下しました。そこで約1,500,000人が殺されました。」(282ページ)

正史派の歴史家でさえこのような膨大な犠牲者人数は荒唐無稽だと明確に簡潔に認めている。もしツィライスがそんな事を言ったのだとしたら、それはこの証言を引き出すのに使われた手法を証明するだけだろう。マルサレク自身はこの信じられないほどの犠牲者数に気付いていたに違いない、そのため彼は自身の口述書の終わりでこう証言する事で補強を試みていた:

「しかし彼[ツィライス]はこの人数を主張し、実際にはこの精神異常者の大多数はドイツ南部全体から輸送され浄化されたのだと説明しました。これがこの凄まじい人数の理由になります。」(285ページ)

なるほど。

イングリッド・ヴェッカートは、マルサレクは著書の2版でマウトハウゼン収容所の歴史に関する物語を変更した(2003年発表、220ページ)と指摘した。ツィライスの死について、彼はそこでこう書いている(1980年発表、200ページ、注釈15):

「1945年5月23日、ツィライスはピルン(オーバーエスターライヒ州)で米国兵に狩猟小屋に捕らえられ、逃走を試みた時に2発の弾丸で傷をつけられました。それらの傷の結果としてツィライスは1945年の5月25日にグーセンの第131アメリカ後送病院で死にました。」

この書でマルサレクは、自身の1946年の自白調書によればツィライスの発見と逮捕よりの夜に発生したというツィライスへの尋問に全く言及していない。マルサレクは序文で何故この自白調書を省いたのかを説明さえしている:

「更に、文書化できなかったあらゆる証言は[……]削除しています。」

3.5.8.特別殺人自動車

76 ドイツ語の「Kohlenoxid」=(一)酸化炭素が英訳の中で二酸化炭素と誤訳されている。

殺人自動車の特別な案件は、4048−PSとしてニュルンベルク文書に収録されている2冊のドイツ語の書類の中で記載されている(国際軍事裁判(IMT)、34巻、125〜128ページ;20巻、151ページ以降も参照)。76それらは、1944年末にPoWとして捕らえているフランスの将軍Deboisseを暗殺するドイツの計画を記述している。カルテンブルンナーによって書かれヒムラーに送られた、これらの書類の2つ目は、手短に述べている:

「一酸化炭素が運転手によって閉じられた車の後部に解放されます。この装置はごく簡単な方法で装着でき、即座に取り外せます。大きな困難がありましたが、現在は適した自動車は利用可能となっております。」

進める事でDeboisseが実際に暗殺された事は情報収集できる(21巻、501ページ)が、これらの文書で複数の選択肢(毒殺、射殺)が展開されているため手段は不明瞭である。暗殺を検討していたドイツの権力者は排気ガスを乗員室に流す計画はしていなかったが、別の装置、恐らくは密閉された純粋な無臭のCOガスを使う計画をしていた事を強調する為にこの文書を引用する。それ以外は技術的に難しすぎ、加えて意図した犠牲者への疑念を抱かせ問題を引き起こすであろうものだ。

ヒムラーは勿論、欧州東部での「殺人ガス輸送車」大量殺戮の奥にある推進力でもあったのだろう。これらの大量殺戮がそれまでの年に起こっていたのだとしたら、この犯罪の首謀者は同じ考えを持って、至難な毒よりも適した何かを用いずに苛つかせるようなディーゼルの煙を用いるだろうか?

3.6.ドイツ外での殺人ガス輸送車戦後裁判

3.6.1.ユーゴスラヴィア

2010年にバイフォードは、戦後にユーゴスラヴィアの裁判官たちによってなされた殺人ガス輸送車の主張に関する批判的な研究を発表した。目撃証言の査定という彼の批判手法は今日の研究に於いて核心的に重要であるため、車輪の再発明は控え、読者には4.1章でのそれに関する私の意見と同様にベイフォードによる紙面への注目も推奨しよう。

しかし、ベオグラード付近にあるゼムン収容所についての証言はそこであらゆる手段で殺されたユダヤ教徒を述べており、その中には殺人ガス輸送車はなくガス殺室があったことはここで指摘しておきたい。この証言はエルサレムのアイヒマン裁判の間でも言及された(「State of Israel 1993」、開廷46期、第6部;1961年5月19日):

「私は、[……ユダヤ教徒]の一部はガス殺室の中で窒息死したことを知っています。」

検察官Bar-Orがこのぼろぼろの証言を、私たちは「他の証拠から、殺人ガス輸送車はセルビアへと送られた事を知っている」のだからこの証言「はガス殺室の参考文献ではありません」と述べる事によって繕おうと試みているが、そのことは、この証言を以てしても殺人ガス輸送車とされるものを説明する目撃証言の相違は――動かしようもなく――空想上のものであるように思えるという事実を変えはしない。

3.6.2.ポーランド

3.6.2.1.概論

終戦直後のドイツ人へのポーランドの裁判はスターリン主義者の個性が良く出ているがため悪名高い。この諸裁判はポーランドが赤軍の占領によってスターリン主義者の国へと無理矢理転向させられてはいない時期に準備され行われたが、赤軍に加えてそこ数年の狂気じみた反ドイツ主義に占められ、集団殺人へと変わり、史上最大の民族浄化(デ・ゼイヤスが1993年に発言)が、そしてドイツ市民を押し込めて数千人の収容者の死を導いた冷酷な管理の対象とした絶滅収容所(サックが1993年に発言)が、顕現した。そうした年、ポーランドは大虐殺の展開を「正当化」する理由を、そして将来にこれがあればドイツの領土の20%の奪取を確保できるような道具を、熱心に必要としていた。戦後を舞台としたスターリン主義者の見世物裁判はその目的を達成する為の乗り物だった。諸裁判はポーランドの土の上でドイツ人が行った前代未聞の大虐殺の証拠を捏造するよう課され、それは戦後の反ドイツの理解不能な手法を正当化した、あるいは少なくとも、その手法を実行した。国際軍事裁判(IMT)ニュルンベルク諸裁判(NMTs)は、主に戦時中にドイツ人が犯したとされる大虐殺についてされた具体的でない主張からうわべを撫でただけだが、ポーランドの裁判官はその後に連合国の諸法廷によって与えられた枠組みの中を埋めるよう出発した。

これらの裁判で最も重要なのは、アウシュヴィッツにあった元ドイツの収容所の看守に対するクラクフ裁判だ。マットーニョは、現存するドイツの戦時中の文書が、偽りの目撃証言と強要された自白の助けもあって法廷によって〔今日までドイツの(そしてオーストリアの)自己認識を絞める世界の拘束でないとすればポーランドの自己認識を絞める世界の拘束となっている絶滅収容所〕の伝説を打ち立てる土台とする為にどのように捻じ曲げられ、悪意の篭った誤った説明をされたかを完全に文書化した(2010)。

同じ手法は、勿論、ドイツ人に対する他の諸裁判の間でもポーランドの戦後の裁判官によって採られている。マットーニョの著作はドイツ人はポーランドで戦時中犯罪を犯してはいないと言っているわけではないが、これらの法廷の案件を見る際にこの著作を心に留めておく必要はある。

3.6.2.2.ピラーとギーローの案件

私の知識によれば、戦後すぐに開かれた2つの裁判の中で殺人ガス輸送車が役割を果たしている。現在までで私が手に入れられている情報は、コーゴンのクルムホーフ/ヘウムノ収容所の章の中に見られるものだけであり、その著者らは頻繁にそれらの裁判の裁判記録かに含まれる目撃証言から引用しており、そうした諸裁判の1つはロッチで開かれ、別の1つはカリシュで開かれた(それぞれ1947年と1948年の法廷記録より;コーゴン著、補足説明6、10、13、17〜19、35、37、39、41〜43番目、262ページから)。その章の残る引用は大抵がヘウムノの看守に対するボン裁判の法廷記録への言及であり、それには3.7.4.1で触れよう。

コーゴンは、戦後ポーランドでウォールター・バーマイスターによってなされたヘウムノの殺人ガス輸送車の運用についての「自白」を引用している。ウォールターは、自らの自白をRSHAとガウプシャト社の間の現存する信憑性のある往復文書の中に登場しているものそのままだと述べているが、床に空いた、単純なガスが通り抜ける穴の代わりに彼は、義務のように木製の床の格子の下には「穴を抜けて正面へと通じている1本の管がある」という標準的な版から逸脱し、車の貨物区画へと排気ガスを流し込む為に「金属製の螺旋の管」が取り付けられていたと主張していた。しかしバーマイスターは、その輸送車は「火花点火機関を持つルノー社の中型貨物自動車」であり、「操縦は難しかった」と確信していた(コーゴン著、1993年発表、77ページ)。しかしながら、ルノー社の貨物自動車がRSHAに使われた事があったという文書のあるいは間接的な証拠は全くなく、バーマイスターによる描写の通りの殺人ガス輸送車の調度は類例がない。殺人ガス輸送車は全てダイアモンド社のあるいはザウラー社の貨物自動車だとされている。これは、バーマイスターは単純にポーランド人が彼の音盤に乗せたものを機械的に繰り返している事、そして彼は独自の作り話を追加している事を示しており、それは彼の主張は無価値であることを明かしてしまっている。

15年程後の1961年1月24日にドイツでの質問中、バーマイスターは管の装置を異なって描写しており、その時はベッカーとジュストの手紙によって主張されている版に厳密に従っている(クレー/ドレッセン/リース著、1988年発表、202ページ):

「殺人ガス輸送車は長さおよそ4〜5メートルで、幅2.20メートル、そして高さ2メートルの貨物区画を有する大きな貨物自動車でした。内側には金属薄板が裏打ちされていました。床には木製の格子がありました。貨物区画の床には穴が1つ空いており、それは柔軟な金属の管で排気管に取り付けられていました。」

バーマイスターの知識は年月を経て伝統的な「真実」に沿うように「効率化」していた。

ポーランドの資料による別の「自白」はヘウムノ収容所の元副司令ワルター・ピラーに基づいている。1945年5月にこの文書を書き下ろした時、彼はソヴィエト連邦の監督下にあるPoWだった。そのため我々はソヴィエト連邦内でのスターリン主義者の戦時中の見世物裁判と戦後のポーランドでのその物真似版の間の文書的な繋がりを見て取れる。コーゴンはソ連の戦時中の宣伝戦の断片の大部分を再現している(同書、95〜99ページ)。マットーニョはピラーの「自白」を詳しく扱っているため(2011a、7.1章)、殺人ガス輸送車を扱っているくだりに限定して語ることにしよう(同書、98ページ):

「その坂道の終わりには、ユダヤ教徒が入らなければならない閉じられた貨物自動車が1台ありました。70か80人ほどの人が内側に入ると、扉は閉じられ輸送車は200メートル余りを進み火葬場まで行きます。道中、運転手のラァブスは弁を開け、そこからガスが流入します。乗員は2〜3分以内に死にました。使用されたガスはガソリン機関によって発生したものでした。」

収容所の副司令が知らなかったのであれば、誰が知っていたというのだろう? 操縦室にある弁と2〜3分以内での迅速な処刑についての話は多量の目撃証言の中において悪目立ちしている。私が言っている通り、ソ連の戦時宣伝戦だ。面白い面はガソリン機関であり、その排気ガスは殺人に適しているが、「弁」を開いてから3分以内に殺すのはまず無理だ。国際軍事裁判(IMT)の間もソ連人は排気ガスの発生源としてディーゼル機関を主張していた事を考えると、この版はソ連方面から来ていたとは考えづらい。反対に、ガソリンのドイツ語(ベンジン)は、何らかの種類の内燃運動機関の為の燃料を描写する為の技術的な問題に詳しくない人々に頻繁に使用されている。

これらの裁判の準備中に集められた様々な目撃者による自白調書は次の4副章の中で詳しく論じられるだろう。

3.6.2.3.ブロニスラフ・ファルボルスキへの尋問

77 写しとドイツ語翻訳はZStL ref. 203 AR-Z 69/59の特別綴りAにある;ベドナーシュの1946c年、28ページ以降にも。

付記9には1945年6月11日にコウォ(ポーランド内)で発生した「証人への尋問議定書」の翻訳と共にその原書の複写を含めている。77その中でファルボルスキは、彼が「殺人ガス輸送車」だと見做していた貨物自動車を修理したと主張した。彼はその車を、直方体の貨物区画を有する黒い貨物自動車だったと、全く詳細ではない描写をしている。彼は、ヘウムノ城と森の間を行き来した貨物自動車複数は「2台だけしかないという印象を受けました」と述べており、その森には、他の目撃者に拠れば、ガス殺犠牲者の集合墓地があったのだという。

この証言の直後にファルボルスキはこう言っている:

「私は3回、元は『オストロフスキー』社だった中庭に今はある、換装された移動中の貨物自動車を目撃したことがあります。一度目は森の中で、二度目は路上で、三度目はヘウムノ城の中庭から出てきたばかりの時にその自動車を見たことがありました。」

ここでこのファルボルスキは、『このオストロフスキー・マギルスの車は【城から森へと往復していると彼自身によって言及されている、1台か2台ある貨物自動車】と同一車である』と示唆しているか、あるいは『この移動中の貨物自動車は同じ経路を何度も行き来している3台目の自動車である』と暗示している。いづれにせよ、この証言はこの自動車とこの証人の眼前でのガス殺とを結びつけている。

ポーランドの調査委員会は、この貨物自動車は実際には単なる無害な引っ越し用貨物自動車であると結論付けた(2.1.章参照)のだから、つまり調査委員会は、証人ブロニスラフ・ファルボルスキは害のない引っ越し用貨物自動車が走っているのを見たに過ぎないと、そして続けて、同じ経路を走行していた他の貨物自動車も同様に無害な任務を帯びていたと、確信を持って述べている。

であれば、貨物自動車の排気機構に明確に殺人の要素を備えさせていたと彼が主張する修理の描写を、我々はどのように評価すれば良いのだ? この質問への答えはこの証人の口述書の中に隠されている。排気機構に関して彼が我々に告げているものを入念に解析すれば、これは荒唐無稽であることが分かる:

a)大型の貨物自動車は、貨物区画の終端まで到達するような排気管を有していない。大型の貨物自動車の排気管は運転室の頭上が、あるいは運転室の後方横が出口となっている。その理由は、こうした貨物自動車の機関は常に運転手の運転室の正面あるいは直下に据えられているためであり、貨物自動車の終端まで達する無用な5メートルもの排気管の付与は物資の狂気じみた無駄遣いであって問題を生じさせることになるだろう。

b)ここに記載している系の複雑な在り方を裏付けする目撃証言は存在しない(しかし他の荒唐無稽な配備を主張する証言は存在しているので、そちらは後述する)。

c)この証人は自己矛盾を起こしている。まず、彼は殺人遂行に使われたと主張するこの排気系統は3つの部位で構成されていたと言っている:排気管の固定された前方部分と、貨物区画に通じる固定された部分と、その2つを接続する可撓性の部分だ(「排気管は[……]3つの部位で構成されて[編集……]いた」)。これは論理的だ。しかし彼は可撓管と貨物区画の床を貫通する管の間にある更なる4つ目の部品を主張している:「この管の中間部分は自動車の内部へと接続されていましたが、その接続部は脆くなっていました。」これがまさに彼が交換したと主張する部品だ。そのような部品は荒唐無稽であり、彼の話の他の部分が真実であったとしてさえ、ほぼ確実に存在すらしたことがない。この目撃者は交換すべき何かの為に、つまり、でまかせをでっち上げられるようにする為にこの話をでっち上げた。

bronislaw-falborski.jpg

図画5:ランズマンのShoar(1985)内のブロニスラフ・ファルボルスキ

この目撃者が加えた絵は我々の印象を保証するものだ;それらは極めて質が低く幼稚であり、物事を明瞭化するのではなく不明瞭にしている。上の絵は貨物自動車を表現しているとされている。下の落書きは2つの絵からなる:左には1つの鍔に接続されている2本の管に似たものがあり、右側には点が4つある四角形があり、明らかにその鍔の平面図を示しているが、面白いことにその管用の中央の開口部が含まれていない。そのためこのポーランドの機械技師は極めて劣悪な製図者だ。

硬管に柔軟な可撓管を接続するのに留め鋏を付ける代わりに鍔を使用するのは驚くべき解決法だ、「ガス殺」と通常の任務を切り替えるのには鍔の開口が必要となり、それには労働工程がかなり要るからだ。

この口述書の別の驚くべき一面は、極秘の処刑任務を実行していたとされているドイツ人たちがこのポーランド人の機械技師にガス殺の些細な修理をさせて、その殺人の正体の認識を許可――何より手が入る際この排気機構は依然として「殺人」の位置にあった――し、彼の同胞にこの情報を齎す事を予期できたに違いないことだ。ファルボルスキ本人とは別に、7人の人々がこの修理が行われたのと同じ工場で働いたと言われており、ファルボルスキによって提示された彼らの名前は、彼らもポーランド人だったことを示している。この証言者は「ドイツの警察はこの自動車の設計の調査を許可しませんでした」と主張しているが、貨物区画にまっすぐ伸びる排気管という事実だけでこの自動車は殺人目的に使われている事を意図しているという証明には十分であり、この事実はファルボルスキや彼の同僚の注意を避けられなくするため、これは馬鹿げた主張である。

纏めると、この目撃証言は、ポーランド調査委員会による『ポーランドのコウォの元「オストロフスキー」社の中庭にあった、彼らが見つけた引っ越し用貨物自動車は殺人「ガス輸送車」だった』と意図された主張と協調しなければならなかったことは明白だ。最終的にこの委員会と、ポーランドの検察官さえもが正直にこの貨物自動車が毒殺目的で存在したことはないと認めているというのは幸いなことだ。しかし、この是認によって彼らはスターリン主義者が統べる戦後のポーランド内の裁判官や検察官の目前で提供された目撃口述書群は、知った話を述べていたとは限らず、知るように言われていた話を述べていることもあると証明してしまっている。

78 www.youtube.com/watch?v=ZPQ9jYe_7HY_lfFAH3BA04R6nvodrL7Qo

ファルボルスキはまたクロード・ランズマンの映画「Shoah」(1985年上映)でも特集されている。終戦直後殺人ガス輸送車に関して彼が持っていると知識はその1台を修理している間に目撃したと主張するものに加え時折路上にあるそうした輸送車を目撃したことから来ただけだったが、ランズマンの映画の中で彼は突然その任務について、そしてその地域のユダヤ教徒の絶滅計画全体についてさえ詳細な知識を披露した:78

「『コウォには沢山のユダヤ教徒がいましたか?』

『山ほどいました。ポーランド人より多くいました。』

『それでコウォのユダヤ教徒には何が起きましたか? 目撃しましたか?』

『はい。恐ろしいものでした。目にするのも恐ろしかった。ドイツ人すら隠れたので、彼らはそれを見れませんでした。ユダヤ教徒は駅に集められた際、そこで殴られ、一部は殺されさえしました。護送の後に続いた荷車にその死体は詰め込まれました。』

『歩けなくなった者は殺されたのですか?』

『はい、倒れそうな者は殺されました。』

『それはどこで起きましたか?』

『ユダヤ教徒はコウォのシナゴーグに集められました。それから彼らは、ヘウムノ行の狭軌の線路があるそこの駅に押し込まれました。』

『コウォ内に限らず地域内のユダヤ教徒全員にそれは起きたのですか?』

『その通りです。どこででもでした。ユダヤ教徒たちはここから遠くないカリシュ付近の森でも殺されました。」[……]

『ヘウムノとその村と墓穴がある森までの道路は現在のようにアスファルトで覆われていましたか?』

『道は当時は狭かったですが、舗装はされていました。』’

『道路からその墓穴まで何フィートくらい離れていましたか?』

『1,600フィートくらい、恐らく1,900〜2,000フィート離れていました。そのため路上からでも墓穴は見れませんでした。』

『輸送車はどのくらい早く進みましたか?』

『中程度で、比較的遅いものでした。彼らは道中で内部の人々を殺さなければならなかったので、これは計算された速度でした。早く進み過ぎた時には、人々は森に到着する頃にはまだ物言わぬ死体にはなっていませんでした。ゆっくり進むことで、内側の人々を殺す時間ができたのです。一度輸送車は曲がり角で横滑りしました。半時間後、私はセンヤクという名前の森の管理人の小屋に着きました。79彼は私に言いました:【遅いぞ。輸送車を横滑りさせたようだな。輸送車の後部が開いていて、ユダヤ教徒が路上に落ちたぞ。】彼らは生きていました。そうしたユダヤ教徒が這いずっているのを見ていると、ゲシュタポの男が回転式拳銃を取り出して彼らを銃殺していきました。彼は全員のとどめを刺しました。それから2人は森で働いているユダヤ教徒たちを連れてきました。彼らは輸送車を立て直し、死体を中に入れ直しました。』」

79 1945年の時点では彼の名前はマジだった、付録9参照。

ファルボルスキは終戦から三十数年の間に明らかに耳にした内容で自身の記憶を補強している。ファルボルスキは「殺人ガス輸送車は横滑りする」と述べているベッカー文書に関する知識をその間に得たのではないか、と思える。

80 http://de.wikipedia.org/wiki/Walther_P38

あったと主張される出来事からの四十数年後に関して、風聞からの物語は全く以て信用できない。そのことを証明するために、ファルボルスキが上記の引用の終わりで詳述している光景を想像してみよう。正史史観によれば、貨物自動車に50〜100人が鮨詰めにされたのだという。その貨物自動車は1人か2人の男に操縦され、1人か2人のドイツ人士官が乗車する車が随伴する事は稀だったという。そのため「たった」50人に加え先導の車1台の場合を想定してみよう。貨物自動車は横滑りし、横転してしまった。両開きの扉が開かれ、50人のユダヤ教徒が生きたまま転がり出てきた。ドイツ人士官4人で現在森のどこかにいる50人のユダヤ教徒に対処することになる。ドイツ人の1人が全員の射殺を決心した。そのためそのドイツ人はドイツの標準的な軍用拳銃であるワルサーP38を引き抜いた――その銃は士官だけが携行でき、一般兵卒は携行できない。この武器は装弾数8発だ。80ドイツ軍はほぼ確実にこのガス殺小旅行に4人も士官を送り出していないため、ピストルを持つ者は他のドイツ人の弾薬を当てにはできない。だから、このドイツ軍の士官犠牲者それぞれに銃弾1発のみを要した――控え目な見積もりだが――と想定しても、このドイツの悪魔は7回(50/8)自身のピストルを再装填しなければならなかった。彼が衣嚢に7回分のカートリッジを忍ばせていたというのも考え辛いし、銃弾をバラで42発持っていたというのも同様だ。なら彼はどうやって必要な弾薬を入手したのだ? そして最初のユダヤ教徒を銃殺する間、残りの49人のユダヤ教徒の反応はなんだったのだ? 辛抱強く自分の番が回ってくるのを待っていたのか? そして最初のカートリッジが空になりピストルを再装填しようとするあるいは本部に支援や追加の弾薬を要請しようとする間、残りの42人のユダヤ教徒は何をしていたのだ? 座って待っていたのか?

なので我々はファルボルスキは2回嘘を吐いたのを確認できる。彼が「殺人ガス輸送車」について語る度、彼は嘘を吐くようだ。

81 3.6.2.7.章に更なる詳細がある。

82 ハルバーシュタッドによれば、脚注26参照。

その自動車修理工場でファルボルスキと共に働いていた他のポーランド人もファルボルスキ本人が言及しているのと同じことを述べている点に注目するのは興味深い。81彼ら全員は自分たちが見て作業した自動車1台以上の様々な面を描写し、程度の差はあれ自分たちが見たと主張するものに関して同意した。証人ジョゼフ・ピャスカフスキーとブロニスフワ・マンコウスキは不自然で荒唐無稽な排気機構とされるものの配置を確証さえしたという。82しかしここ以降では読者の為に更なる詳細を述べることは控え、代わりにそうした証言に言及しよう。上記で発展させた批判的能力を備えた意思のある読者たちは、そうした流れを見通して私の助言の必要なしに協調した証言を見抜けるだろう。

この証人から離れて同じポーランド人判事の前で証言した次の証人に移る前に、約16年後に作成された、その人物が目撃したと主張する排気機構の詳細な描写を含むドイツの証人の口述書に注目を向けたい。以下は、自分は「殺人ガス輸送車」を運転していた、と述べたヨハン・ハスラーだ(コール著、2003年発表、69ページから):

「内燃機関の直後にある排気管には、ネジ山付きの接続部品がありました。ネジ山で金属可撓管はネジ留めできるようになっており、これは貨物区画の内装につながっていました。接続部品の裏には滑動部があり、それによって背面部へと開く排気管を閉じられるようになっていたため、ガスを貨物区画の内側へと流すことができました。両側へと枝分かれした2本の中空管は貨物区画の床面の両側を走りました。貨物区画の床自体は木製の格子で覆われていたため、中空管は見れませんでした。中空管は4cm毎に直径1cm程の穴を持っていました。内燃機関が稼働している時、排気ガスがそうした穴から流れました。

この自動車はアメリカ製ダイアモンド社の3トン貨物自動車でした。しかし車台と内燃機関のみがその会社製でした。3.5×2.5×2mの車体に似た木製の貨物区画を有していました。内側は金属板で裏打ちされていました。自動車は黒橡色でした。窓はなく、後方に両開きの扉がありました。

親衛隊伍長ハンス・マイヤーホーフが同乗する運転手でした。殺人ガス輸送車の運用の後半の間、彼は私が運転だけをしている最中にガス殺装置を操作しました。ガス殺装置の操作は極めて簡単でした:可撓管を接続部品へと接続してから排気管の滑動部を閉じなければなりませんでした。

これがミンスクでのユダヤ教徒のガス殺についてです[……]。殺人ガス輸送車それぞれは25人ほどを収容できました。[……]このように、内燃機関を稼働させよという命令が出される時、壕の縁から2メートル程離れたところに殺人ガス輸送車は並んで停車していました。その直前にその同乗運転手が金属可撓管を接続し接続部品の裏にある滑動部を閉じました。[……]内燃機関は10分間程稼働しました。10分強待った後、同乗運転手は両開きの扉を開け、ロシア人の虜囚たち[POWs]は死んだユダヤ教徒を自動車から引きずり出して壕に投げ入れなければなりませんでした。」

ここで描写される排気機構はファルボルスキが描写したものとは完全に異なる。ファルボルスキは明らかに真実を告げない傾向にあったあるいはどちらの証人も単に異なる車種を見たのだと言うことで説明を試みる事は試みても良いが。

しかし問題は更に深刻だ。排気管は、『「そこに可撓管をネジ締めできるように枝分かれした、ネジ頭付きの厚い管」を溶接する事で容易に追加が可能である、厚い管』ではない。溶接をして排気管に与えられる損傷は、機能的に得られるものよりも恐らく大きくなるだろう――しかし機能的に全く得はしなかったのか?

排気管の背面に閉じられる滑動部を追加することは簡単そうに聞こえるだろうが、それは真実とはかけ離れている。滑動部をどうにかして、ある場所に固定しなければならず、即座に完全に管を閉じられるようにしなければならない。そのためこれには排気管から部品を切断し、その滑動部に合致できる何らかの装置を挿入する必要があるだろう。金属可撓管を貨物区画の内側に常時接続させ続けていたと主張する場合にのみこれは筋が通っているだろう。証人が主張しているようにガス殺の間にのみ追加される場合、同じく排気管の終端部へと固定されている(あるいはネジ締めされている)だけなのだろう。そのためそうした乱雑で複雑な排気管の改造は本当に完全な無駄である。この証人がでっち上げたのだとは危なげなく想定できる。

この証人によって証言された別の重要な要素は、貨物区画内部で両側へと枝分かれした2本の中空管は「貨物区画の床面の両側を走」ったというものだ。そうした洗練された詳細さを持つ丁寧な描写はこの口述書を読者の目からしてより信頼できるものにするが、より精査すれば真実とは反対であると明らかにする。

『証人は、これらの管は輸送車内部の(ガス・ストーヴの燃焼部分と比較して)床面近くでのガスの均等な分配の為にあると仄めかしている』と想定できる。そうした機構は一見妥当そうに見えるが、前述した通り(118ページ130ページ)、それは真実からかけ離れている。繰り返しに見えるとしてさえ、もう少しこれを詳述しよう。排気ガスは貨物区画内に驚くべき速度で流入するため、犠牲者は体の動きと呼吸を通して輸送車内の空気を十分に動かしガスを更に分配し混合する以上、洗練されたガス分配の配管は完全に不要だ。それはこれらのくだんの輸送車の構造と整備を複雑にすることにしかならない。実際のところ、このような管を備えた輸送車の洗浄は困難になり、絶えず洗浄隊員によって損傷を受ける深刻な危険に晒されることになるだろう。このような配管の存在はそれ以上にジュスト文書と矛盾(ジュスト文書を重要視する傾向にある人にとっては)している、その第三文では液体が開口部に入らないよう、(ガスの)取り入れ管の上方への移転を意見しているのだ。そもそも開口部が存在していたのであれば、そのことからガス取り入れ口は単なる床にある開口部1つであると結論付けられるだろう。

そのため、常識を持ち道理を弁えた技師や機械工であれば装着を真剣に検討しない詳細な記述は、単に証人の幻想が育っている事を証明している。

因みに、1961年の口述書の中でエリック・Gは、自分もミンスク地方でそうした殺人ガス輸送車とされるものを運転したが、彼によればその輸送車は50〜60人を収容できたと述べ、想像力に富むが使えない奇妙な仕掛けに言及することなく単に「可撓管を排気管に接続した」と話した。(ベンツ/ディステル著、2009年発表、575ページから)

83 State of Israel 1993、III巻、1194ページ、証人ジュラフスキが退出した直後;有線:…/Session-065-06.html、文末;コーゴン著、1983年発表、145ページで引用。

3.6.2.4.サイモン・スレブルニクへの尋問

尋問の時はほんの15歳だったこの証人は、死の収容所ヘウムノで何が起こったかについて証言したたった3人の生存者の1人であると言われている83。1945年6月29日に捜査判事ウワディスワフ・ベドナーシュの前で以下のように証言した(スレブルニク発言、1945年):

「そこには3台の輸送車がありました:大きめの1台と、小さめの2台です。大きめの輸送車は170人まで収容でき、小さめの輸送車は100〜120人収容できました。」

この大きさによって証人は記録に輸送車の容量を記し、そしてそれは大型のザウラー社の貨物自動車でさえ物理的に可能な範囲の遥か彼方にある。証人はこう続けている:

「輸送車の両扉は閂と施錠されました。それから内燃機関が起動しました。排気の煙霧が輸送車の内部に入り、内側の人たちは窒息しました。内燃機関からの排気管は車台沿いに続いて輸送車の内側に入り、車の『貫かれた金属板で覆われた床』に空いた穴を通りました。

穴は車台の中央あたりに位置していました。輸送車の床も浴場にあるもののような木の格子で覆われていました。これは囚人が排気管を詰まらせないようにするためのものでした。

自動車は特別に誂えられた輸送車でした。その1台は塗装が塗りたてで、商品名を目視出来ました。名前を憶えていませんが、「オットー」という語で始まったことを覚えています。

内燃機関の会社は知りません。専属運転手はバースティンガー[バーマイスター?]、ラァブス、そしてギーロフでした。叫び声と扉を叩きつける音は10分程続きました。輸送車はその間動いていませんでした。

叫び声が聞こえなくなってから、自動車は火葬棟へと移動を始めます。輸送車が目的地に到着すると、扉が解錠され、煙霧が吐き出されます。それから2人のユダヤ教徒が中に入り、死体を外に投げ出します。

排出されるガスは排気の煙霧の特性を全て有しており(色も臭いも)、それは間違えようもありません。探し出された死体は炉にくべられました。[……]

ガソリン機関からの排気ガスには際立った明快な特性はないため、この証言はディーゼル機関の使用を示している。「商品名」は「オットー」に言及している点に関して、彼は後にもう少し特定している:

「(ここでは、証人はコウォにあるオストロフスキーの向上で発見された輸送車を見せられている)。これはヘウムノでガス殺に使われは輸送車です。これは私の口述書の中で扉に『オットー』という言葉があったと述べた自動車です。」

2.1.章で述べているように、コウォで見つかった引っ越し用貨物自動車は元は「オットー・コーヘン運送」という運送会社が所有していたものだ。ファルボルスキと同じく、この証人も実際には殺人ガス輸送車ではないものを「殺人ガス輸送車」と同一であると断言している。これは、彼の証言もまた不正に組織化されたものである事を示している。この証人はでっち上げの荒唐無稽な話を話しているということは、以下の証言からも見て取れる:

「意図しない焼身自殺の実例は僅かしかありませんでした:死体の山に火を点けようとしたユダヤ教徒1人が、その火そのものによって死にました。」

あたかも人間は炎に触れると即座に着火し、その中で死ぬかのようだ。

証言の終わり、自身の逃避の長話を述べている頃に、この証人は再び荒唐無稽な話を語った:

「レンズは私たちに、地面に伏せるよう命じました。彼はそれぞれの後頭部を撃っていきました。私は意識を失い、誰もいなくなってから意識を取り戻しました。

親衛隊(SS)全員は穀倉内で銃殺していました。私はそこを照らしていた車まで這い進み、左右の光源を前照灯を壊しました。闇の帳が降ろされ、私はどうにか逃げ出せました。私の傷は致命的なものではありませんでした。銃弾は首と口を通り、鼻を貫いて抜けていったのです。」

実のところこれは奇跡だ! ベドナーシュの尋問を受けたこの証人の証言がどれだけ交雑受精によって合理化されたかは、ヘウムノ収容所近郊で生活していた農夫アンジェイ・ミジュタックがスレブルニクの奇跡の生存物語を正確に語り直せたという事実に由来しているかもしれない(ベドナーシュ著、1946年発表c、52ページ以降):

「ジュラフスキとは別に、恐らくユダヤ教徒のサイモン・スレブルニクは救助されました、彼はドイツ人によって後頭部を撃たれたため、彼らは彼を殺したか、殺したと思い込んだかしたのです。しかしその傷は致命的なものではなく、スレブルニクは生き延びました。」

そしてここにスレブルニクが語る更なる劇的な残虐行為の物語があり、私は信じることを拒否するが、読者は私の意見には同意しないかもしれない:

「口述書の中で既に言及してありますフィンケルシュタインは、彼の1人の姉妹を炎に投げ込まなければなりませんでした。彼女は意識を取り戻して叫びました、『人殺し、どうして貴方は私を炉に投げ込んだの? まだ生きているのに。』」

3.6.2.5.ミヒャワ・ポドフレブニクへの尋問 The Interrogation of Michał Podchlebnik

この証人は、ヘウムノ死の収容所の3人の生存者の2人目だと言われている。1945年6月9日の捜査判事ベドナーシュの前での尋問で、ポドフレブニクはヘウムノ内でのガス殺手順がどのように行われたかは聞いた事があるだけだと主張している(ポドフレブニクによる、1945年):

「突然貨物自動車の扉が叩きつけられる音を聞き、それに大音量の叫び声と貨物自動車の壁の強打音が続きました。それから私は内燃機関が起動する音を聞き、それから6〜7分の後叫び声が弱まり死んだ頃に、貨物自動車は宮殿跡地を離れました。次に私たちは大きな階段部屋に行くよう命じられました。」

ガス輸送車に詰められた人たちが扉が閉じられた後に何故突然叫び始めたのかは謎だ。ここでも、ガス殺は貨物自動車が停車している間に行われたと言われており、その手順はガソリン機関を有する自動車向けのみが資するものであった。

この証人の次の証言は、輸送車から荷下ろしをしたとされる他の被収容者から聞いた話であるため、これも又聞きだ:

「彼らは死体を黒塗りの大型輸送車から死体を除去しましたが、その車の中では彼らの話によれば、ユダヤ教徒が排煙で毒殺されているそうでした。

その死体は下着を着ており、輸送車の中には手拭と石鹸の欠片がありました[……]。」

その後この証人は、彼はガス殺の後「手拭と石鹸の欠片」を輸送車から再利用する為に除去しなければならなかったと述べた。この工程は犠牲者にシャワーを浴びせるのだと信じるよう騙す事を意味していたと言われている。しかし自らの命の為に足掻いた人々は手拭と石鹸の両方を台無しにしただろうため、そのような工程は起こりそうもないように聞こえる。84

84 元ヘウムノの被収容者であるブルーノ・イスラエルはポーランドの判事の前での口述書の中で、ヘウムノ内で殺人ガス輸送車に連れて行かれた犠牲者たちは持参していない限り石鹸を与えられたとも主張していた。言われている手拭は、風呂場での要素だろう(ベドナーシュ、1946年発表c、70ページ)。

「その翌日私は森での労働を引き受けました。

離れている時、大きな輸送車が宮殿に後部を向けているのを見ました。扉は開いていました。足掛けによってその自動車に入りやすくなっていました。興味を引いたのは輸送車床面にあった、風呂場にあるような木枠でした。[……]

午前8時頃にヘウムノから1台目が到着しました。輸送車の扉が開く時、白みがかった暗い煙が内側から噴き出ました。その時輸送車に近付くことは許されず、開いた扉の方向を見る事さえ出来ませんでした。」

それなら彼はどうやって煙を見ることができたのだ? 面白いことに、致命的なガソリン機関は濃密な煙を発生せず、濃煙なディーゼル機関は殆ど致命的ではなく、ほぼ確実にこの開かれた扉向きではない。

「その扉を開けたドイツ人たちは自動車から逃げ出したことに私は気付きました。内側から来たガスが排気ガスなのかそれ以外のガスなのかは私には分かりません。私はいつもそのガスの臭いがしなくなるまで長い時間待たなければなりませんでした。防毒面具は使われませんでした。

3〜4分経過後、3人のユダヤ教徒が輸送車の中に入りました。」

大変劇的な場面だが、完全に捏造だ。その輸送車がどのような内燃機関が有していようと、逃げる理由は全くない。それとは別に、ドイツ人が自分は逃げなければならないと思っていたとしたら、そもそも何故彼らは近付いたのだ、そして逃げ出したのだとしたら、何故ユダヤ教徒は彼らと共に逃げ出して逃げ続けなかったのだ? つまるところ、逃げるドイツ人は極めて無防備だ……

「死体の外見は概して悪くありませんでした。口から舌が飛び出ていたり異常な痣がついた者には気付きませんでした。」

これは他の証人の多くの筋書きには沿っていないが、これは本当に何も暗示していない。

「ガスの臭いは嗅げませんでした。」

輸送車がはっきりと目視できる煙でいっぱいだったとしたら、輸送車からの排気ガスの放散1〜2分後でも未だ煙には気付けるだろう。もしかしたらその証人は自発的にそうした死体はガス殺の結果ではないと間接的にここで伝えたかったのか?

「死体を出し切った後、輸送車はヘウムノへと帰還しました。2人のユダヤ教徒は死体を、名前は知りませんが『ウクライナ人たち』へと放りました。彼らはポーランド語を話し、平服を着ていました。

もう1人『ウクライナ人』がいましたが、うっかり他のユダヤ教徒たちと共に輸送車に囚われガス殺されてしまいました。彼らは人工呼吸で彼を助けようとしましたが、その試みは成功しませんでした。私はそこにいて、私自身が目撃しました。」

これもまた芝居がかった場面だが、これには『愚かなウクライナ人の仲間がヘウムノで荷下ろししている間にユダヤ教徒たちと共に輸送車に入ること』が要求される。どうすればうっかりガス殺されるというのかは、かの尋問判事にさえ明らかに理解できないもので、証人はこう強調することとなった:

「私自身がそこで目撃したのです。」

ここでもまた前述の、近辺の住人だったポーランド農夫アンジェイ・ミジュタック(156ページ)は我々に「裏付けとなる証拠」を齎してくれた――この出来事の現実性に必要なものではないが、単に終戦直後のポーランド内で尋問された証人たちの間での交雑受精に求められるものを(ベドナーシュ著、1946年発表c、49ページ):

[ヘウムノのガス殺ゾンダーコマンドの]8番目のポーランド人は『マリアン』で、彼はうっかり自動車に入り毒を受けました。それは1月の最初の数日の頃でした。」

1942年、彼は城の地面に離れて埋葬されました。」

邪悪なウクライナ人たち、つまりドイツ人の悪魔的な従僕たちは犠牲者を冒涜し略奪する為のあらゆる種類の邪悪な仕事に使われた。ここに幾つかの完全に性的な場面がある:

「『ウクライナ人たち』は死体の口から金歯を引き抜き、首から巾着袋を切り取り、結婚指輪、時計等を抜き取りました。死体はとても入念に全身を漁られました。『ウクライナ人』は金と価値ある物を探しており、それには女性の生殖器官や肛門さえ含まれました。彼らはゴム手袋を使用しませんでした。」

殺人ガス輸送車に関して、ポドフレブニクは以下のようにのみ述べている:

「中で犠牲者がガス殺される輸送車は一度に80〜90人が乗れました。ヘウムノで私が滞在している間、2台の車が同じように使われていました。加えて別の輸送車があり、3台のうちで最大のものでしたが、それは指揮の外にありヘウムノ内の庭の中に停められていました(車輪の1つが取り外されているのを見ました)。

[……]死体を輸送車から運んだユダヤ教徒は自動車から床の木枠を除去し、全体を掃除しなければなりませんでした。」

ヘウムノの最初の証人スレブルニクと同様、この人物も輸送車の許容量上限とされる数値を述べており、それは正史の歴史観が主張する輸送車の車種では物理的に不可能であろう。この内なる虚偽の一貫性は、どちらの証人も個別に証言しているわけではないという事を示している。

左側前輪が消えているのが見える有名なコウォの引っ越し用貨物自動車の写真の1枚に注目するのは興味深い(275ページの図画12参照)。証言ではそれに言及されていないが、恐らくポドフレブニクにもその貨物自動車の写真が見せられ、廃止されたその3台目の車輪が失われた「大きな」貨物自動車についての話は正にこの写真に基づいているのだろう。

スレブルニクによれば、ヘウムノの体制は無慈悲だったが、逃走の段になって彼はその大きな主題を忘れ、被収容者1人と最後のタバコを共有するつもりのある仲間としての親衛隊(SS)の男を描写した(留意すること:中央欧州では煙草の草が育たないため、戦時下のドイツでは煙草は希少且つ高価だった!):

「貨物自動車が森にある時、私は先導する親衛隊(SS)の男に煙草を頼みました。彼が私に望む物を渡した時、私は後ずさり、仲間が彼を囲んで自分にも煙草をくれと頼みました。

突然動き出した私は自前のナイフで運転主席側にある防水布を切り裂き、車から飛び出しました。」

ナイフを持っていた? そう、どの被収容者もナイフを持っていた。つまるところ、これが被収容者たちの持っていたものだ……

3.6.2.6.ミェチスワフ・ジュラフスキへの尋問 The Interrogation of Mieczysław Żurawski

この証人は1945年7月31日に捜査判事ベドナーシュによる尋問を受けている(ベドナーシュ著、1946年c発表、60〜66ページ)。彼の証言には他の証人ほどの情報は含まれていない。彼は輸送車を黒く、密閉式で、内側から金属板で裏打ちされていて、床に浴場式の木製の格子があると描写している。排気管は貨物区画へと床に空いた網目付きの穴を通って入る。彼は輸送車の種類と、ガスを外へと逃がすのではなく貨物区画内へと流すよう切り替える装置をはっきりと覚えていた。彼は、2台の輸送車がヘウムノで操縦されていたと主張した:大きい方は130人の容量を持ち、小さい方は最大で80〜90人だったという(全て62ページ)。

ガス殺工程の時間に関して、彼はあらゆる証人の中で2番目に短い――そして非現実的なまでに短い――時間を主張している:

「4分後、[犠牲者たちが]呻くのをやめる時――車は火葬棟の方向へと移動しています。」(60ページ)

荷下ろしの工程に関して、ジュラフスキはこう書いている:

「車の扉を開けた後、内側に入れるようになるまでに5〜6分経過させなければなりません。[……]私は、排気管の隣で見つけたいくつもの死体は焼けていたため、その皮膚は剥がれていましたとも言及できます。」(62ページ)

繰り返すが、この輸送車によって作り出される排気ガスは遍在する空気と混合することによってほぼ即座に比較的無害なものになるため――暑いあるいは熱くてさえあるという理由によって、素早く充満するだろう――、荷下ろしの工程で待つ理由はない。

2文目は、熱い排気ガスが高熱の効果を犠牲者の一部に与えた事を示す私が見た限りで唯一の言及である。流入する排気ガスは150°を超えられず、木の格子によって死体はそれに触れられない事を考えると、「火の中のみで発生するような熱が要求される、皮膚が剥がれる程の強力な火傷」を引き起こす事を知覚できない。

この証人の信頼性はヘウムノの野焼きでの火葬の速度に関して彼が話す際にはっきりと分かり、それにかんしてこう記されている:

「死体は迅速に燃焼しました。おおよそ15分後には死体はもう燃え尽きていました。」(63ページ)

しかし、野焼きで器具内での死体の火葬には数分でなく数時間かかる(マットーニョ著、2011年発表a、9章参照)。

証人たちの間での交雑受精があることが、フィンケルシュタインの不幸な姉妹に関するジュラフスキの口述書から見て取れる:

「作業員フィンケルシュタインは生きたままの自分の姉妹をかまどへと押さなければならなかったと聞きました。私の到着前に起きたので、これについての更なる詳細は私は知りません。」(64ページ)

これがジュラフスキが先述の3文内で発展させた話題の唯一の最高潮になる:

「守衛のハンネスがユダヤ教徒の労働者を生きたまま燃える炉に投げ込んだ時に事件が起こりました。そのユダヤ教徒の名前は思い出せません。[……]輸送車から投げ出した人々はまだ生きていたという事例がありました。にもかかわらず炉に投げ込まれました。余りに大きく呻いていた場合、回転式拳銃からの銃弾で絶命させられました。」(同上)

ええと、分かる事は……事件が起きた。

ジュラフスキの逃走の話は同じく勇気を与えるものだ。彼は、如何にしてナイフで戦ったか(他の被収容者たちもナイフを持っていた)と、撃たれてさえ逃げようとしたことを告げる。しかしその証言には問題がある:ジュラフスキと他の証人全員は、「ヘウムノでの滞在の間ずっと自分たちの両踵は枷と短い鎖によって互いと繋がれており、早歩きができず、況してや走るなんてありえない」と証言しているのだ。鎖があるのにどうやって逃げられたのか説明するよう判事にはっきりと訊かれ、彼は説明した:

「そうした鎖に言及するなら、私には枷が嵌められていたため、逃げ出す前に穀物倉に篭りました。理髪師の大ばさみを隠しており、それを使って鎖を切断しました。」(65ページ)

そう、彼は鋏で素早く鋼鉄製の鎖を切断し、それが彼が追跡され銃撃される間に起きた事の全てだ。

その口述書の終わりに最後のうっかりがあったが、それは判事ベドナーシュが有名なオストロフスキー社の貨物自動車の写真をジュラフスキにも同様に見せ、これまでの他の3人の証人がそうしたのと同じく彼ベドナーシュもそれを殺人ガス輸送車だと識別していると示した時だった。しかし何らかの不可解な理由によってジュラフスキはその物語に沿う事を拒否し、代わりにこう述べた:

「私は輸送車(この証人に示した輸送車は、オストロフスキー社の元工場にあったものだ)を見せられましたが、これは衣服の害虫駆除に使われていたものだと述べました。それは宮殿の庭で停車していました(車輪は取り除かれていました)。」(66ページ)

わお! 別のヘウムノの証人、被告人ブルーノ・イスラエルはその害虫駆除の貨物自動車の詳細について告げる事さえ出来た(72ページ):

[2台の殺人ガス輸送車に]加えて衣服の害虫駆除用の3台目の自動車がありました。この自動車の車輪は外されていました。それが人々のガス殺に使われていたかは知りません。

衣服と下着は輸送車の中に吊るされるか、特別な長椅子に置かれました。それから燃える硫黄のたらいが内側に置かれ、一晩中自動車が封鎖されました。私に見せられた写真(この被告人は情報一式の紙片397と398にある絵を見せられている)は私が描写したその自動車です。」

85 ブルーノ・イスラエルは1945年10月にヘウムノ収容所のドイツ人守衛として働いていたとして有罪判決を受けたが、かなり早く監禁から解放されたと言われている(クラコウスキー著、2007年発表、177ページ)。

これらの数字はオストロフスキー社の工場で遺棄されていた移動自動車の写真のものだ(33ページで引用されているハルバーシュタットの論文参照)。燃える硫黄の生成物である二酸化硫黄は実のところWWIの間に既にドイツ人によって使用されていた害虫駆除成分(通常乾燥した熱気と組み合わされており、その熱気には自動車の排気ガスによるものでさえあったかもしれない;ソンプソン著、1920年発表)であるため、これらの証人の話は実のところ真実であるかもしれない――そして衣服へのガス燻蒸を人のガス殺だと推定するよう彼らに想起させたのかもしれない。85

3.6.2.7.捜査判事ウワディスワフ・ベドナーシュ Investigative Judge Władysław Bednarz

86 国際軍事裁判(IMT)、8巻、330ページから。そこのベドナーシュの名前は誤字でWladislav Bengashとなっており、収容所がHelmnoになっている。

戦後ポーランドにヘウムノ収容所関連で無数の証人を尋問したこの捜査判事に関して相応の言葉は数少ない。判事ウワディスワフ・ベドナーシュは誠実にコウォのオストロフスキー工場の敷地内で見つかった壊れかけの引っ越し用貨物自動車は殺人ガス輸送車ではなかったと認めていると、私は2.1.章で既に言及している。ベドナーシュは無数に時期に関する自身の発見を要約している。最初の要約は1946年1月7日に書かれ、ニュルンベルク国際軍事裁判の間に文書USSR-340として提出された(ベドナーシュ著、1946年発表a)。国際軍事裁判(IMT)写本に書き入れられているその抄録には殺人ガス輸送車に関する詳細は含まれておらず、単にロシアの検事スミルノフによって「殺人輸送車」と言及されている。86その年内の後に、ベドナーシュの要約はポーランド語と英語で出版されたポーランド中央ポーランド内ドイツ犯罪調査委員会の成果集内で出版されており(ベドナーシュ著、1946年発表b)、同じく1946年にベドナーシュはヘウムノについての自身の発見を扱った本を出版し、そこから私は証人の供述の上記の引用の一部を引いている(1946年発表c)。

USSR-340の中で、ベドナーシュは殺人ガス輸送車について書いている(1946年発表a、5ページ):

「収容所のゾンダーコマンドは自動車修理工場を持っていなかったため、修理が要求される自動車はコウォにある会社Kraft- und-Reichsstrassenbauamtの作業工場へと迅速に運ぶ必要がある。その作業工場の8人のポーランド機械工はそうした自動車の技術的設計を以下のように描写した:その自動車は幅2.5〜3メートルで、長さ6メートル;最小のものなら幅2.3〜2.5メートルで、長さ4.5〜5メートル。貨物区画は両側から螺子留めされた狭い板でできている。自動車の内側は金属板で覆われている。その扉は気密性があるため、外部からの気体流入は全くない。自動車は黒橡色だ。その排気管は自動車の下を通り、全長の中程まで伸ばされていた。自動車内部にある排気管開口部には、中空管が塞がれることを妨げる穴の空いた板が嵌められていた。この自動車の床には木製の格子がある。内燃機関は恐らくザウアー社のものだった。運転手の区画には「Baujahr 1940 ― Berlin」(1940年建造)という銘刻がある。運転座席の近くには防毒面具がある。」

ここでもまた技術的に不可能な、完全気密性の貨物区画という主張に遭遇する。しかし最も興味深いのは、自動車の内燃機関についての主張である:「ザウアー社製」だと。この名前はオストロフスキー工場の敷地で見つかった貨物自動車から来たと言うことは有り得ない、何故ならその貨物自動車は、フンボルト=ドゥーツ社の内燃機関を有するマギルスの貨物自動車だったからだ。(誤字の)「ザウアー」という発想はどこから来たのだ?

129ページで、私はドイツ人の被告人フェンチェル[フェニチェル]によるソ連の見世物裁判の文脈の中で作られた供述書から引用した。この供述書は1943年という早期に、ソ連政府によって出版されて(大使館著、1943年発表、171ページ以降)おり、国際軍事裁判(IMT)の間にも紹介された(第7巻、572ページ以降)。その中で、フェンチェル[フェニチェル]は殺人ガス輸送車の内燃機関は「ザウアー社」のものだと証言していた――同じ誤字で、ザウラー社は実際には貨物自動車の製造会社であるというのに他の貨物自動車用の内燃機関を建造しているという同じ誤りの主張をしている。ここにソ連の見世物裁判からポーランドの調査を経由して国際軍事裁判(IMT)に流入しているという交雑受精の更なる証拠がある。更にフェンチェルの描写「完全密閉式の輸送車」という面白い要素はベドナーシュの描写とそっくり同じだ:

[貨物自動車]の内側には亜鉛鍍金された鉄が貼られていました;床も亜鉛鍍金された鉄で覆われており、その上に木の格子が張られていました。」

ヘウムノ収容所に関する著書の中で、ベドナーシュはある時点で殺人ガス輸送車を修理したと主張する8人のポーランド人機械工による主張を要約しており、その1人は上で引用したブロニスラフ・ファルボルスキだった。しかし、ベドナーシュが描写する要素は輸送車の推測の大きさと過積載容量という点で制限がある。それから彼は証人の一部は害虫駆除の貨物自動車に関する報告をしていたという事実を齎し、こう詳述する(ベドナーシュ著、1946年発表c、23ページから):

「3台の自動車はヘウムノで運用されていた。[……]一部の証人は4台目についても話した。同じ形状の4台目(それは現在コウォの元オストロフスキー工場にある)があり、そしてそれは衣服の害虫駆除に使われたあるいはユダヤ教と労働者を森へと輸送するのに使われた密閉型の自動車であった可能性があるため、上述の理由による誤りの可能性がある以上4台目のガス殺自動車があったとされているという声明にはある程度の猜疑の目を向けるべきである。」

ベドナーシュが尊大であったなら、一部の証人がオストロフスキー・マギルスの車を「殺人ガス輸送車」と誤って識別する一方で残る証人が単なる害虫駆除の車だと理解したという事実は、彼にオストロフスキー・マギルス社の車の目的についてだけでなく、殺人ガス輸送車であると主張されるあらゆる貨物自動車について彼に警戒を促したに違いない。つまるところ、一部の証人がオストロフスキー社の貨物自動車について誤ったのであれば、残り証人もその主張が誤っているだけかもしれない。ここでの唯一の差違は、4台の殺人ガス輸送車という主張は他の貨物自動車の痕跡の欠如という理由によってでは退けられようがなかったという点だ。しかし証拠の欠如が主張を支える為に召喚されることはありえない。

無害なオストロフスキー社の貨物自動車が実際にはヘウムノ内と周辺で何らかの目的で使用されていたとは確実視できるだろう。しかしその場合、証人による類似の貨物自動車への目撃例は単なる無害なオストロフスキー社の貨物自動車を見ただけではなかったと我々はどのように確信できるのだ? あらゆる目撃例は実際にはその貨物自動車についてのものではなかったのか?

ベドナーシュは以下のように思考の演繹を続けている(同上、24ページから):

[ガス殺]自動車は時に損傷し、ゾンダーコマンドは独自の修理工場を持たないという誤りを犯していた。そのためガス殺自動車は[……]コウォの作業工場へと齎され[……]、そこの職員たちはほぼ全員ポーランド人で構成されていた。これによってピャスカフスキー―名刺16、87ファルボルスキ―名刺28、ロッサ―名刺43、マンコウスキ―名刺30、フィチク―名刺222、ユンカート―名刺320、レヴァンドフスキ―名刺189、ジャンコウスキー―名刺117、といった単純な機械工たちがその自動車の構造を知れるようになった。そうした証人全員は異なる時期にそして異なる場所でさえ精査を受けた。彼らそれぞれは手書きで排気管や、自動車内部に通じる排気管口を素描した。

尋問を受けた運転手と機械工の供述はお互いと完全に互換性があり、ガス殺自動車の設計の詳細を論じる事にも使用できる。排気管は車の下を通り、車体の半ばほどで貨物自動車の床にある管の一角へと(そうした中空管同士がどう組み合わされているかの技術的詳細に従って)接続される。「Sonderwagen」を内側から見た少数の者(ジュラフスキ、スレブルニク、グラボスキー―名刺279)は、この自動車の内装にある排気管の入り口はある種の金属網によって保護されていたと結論づけた。自動車の床の上には市街電車や風呂場にあるような木製の2つ目の床があった。それによって内側で排気管が詰まるのを防げた。」

87 「名刺」とはベドナーシュが調査の間使用した書類制度の名刺番号への言及だ(“karta sledztwa III 13/45 NT”);ベドナーシュ著、1946年発表c、12ページ、補記);まだそうした他の目撃声明の批評ができない場合ならではあるが。

では、その事実は、複数の証人が排気管と貨物区画の間の何らかの種類の接続に同意した事を証明しているのか? 1945年以来排気ガスを使って人々を殺していたというドイツの殺人ガス輸送車の主張は30年ほど言いふらされており、ガス殺機構の素描を描くよう頼まれた者は排気管から貨物区画内装との何らかの接続を描いてきただろう。その事を理解するのはそう難しいことではない。しかしそうした素描の品質は明確にそれ自体が無意味な走り書きであることを明かしてしまっている(353ページにあるファルボルスキの素描参照)。

ベドナーシュの描写にある次の3文は完全に新しい要素に関するものだ:より毒性を増すために殺人ガス輸送車のガソリンに混ぜられた謎の添加物の使用とされるものだ(同書、25ページから):

「自動車の排気ガスのみが毒殺のみに使われたのか、毒の進行を加速するために他の何らかの物質が油あるいはガソリンに加えられたのかは立証できなかった。それに関して、信頼できる十分な情報はない。未知の化学物質の入った何らかの風船と瓶が絶えずゾンダーコマンド内へと入れられるのが目撃されただけだ(証人ボジンスキー―名刺432)。

親衛隊(SS)のラルフ・ケーニヒ博士の運転手であるグラボスキーは、自分はゾンダーコマンドから借りたガソリンを使っていたと証言した。その内燃機関――車庫にある通常のものだ――を点火する時、彼は意識を失うような心地がした(『私は意識が混濁し、僅かに唇に甘い味を感じました』―名刺279)。この証人は更に供述した:『ケーニヒ博士にそれについて告げたら、彼はゾンダーコマンドからのガソリンの場合車庫にある内燃機関を起動させることを完全に禁止しました。』

運転手のPiaskowski(名刺17)は1台を修理している間密室の車庫の中でその『Sonderwagen』の内燃機関を起動させたと主張した。その結果は運転手のグラボスキーが描写したものと似ていた※)。」88

88 脚注の中でベドナーシュは、中央ユダヤ歴史調査委員会は「Spezialbenzin」――特殊ガソリン――に関するドイツの文書を保有していると述べている。

これに関して、カジミエシュ・グラボスキーはアウシュヴィッツ収容所の元所長ルドルフ・ヘスに対する裁判の間に、殺人ガス輸送車の内燃機関はメタノールが燃料だったと証言した(「Höß Trial」、26巻、32ページから)。しかし同じ証人なのか私には確定できない。

言うまでもなく、ガス生成加速の為のガソリンへの化学物質の添加混合は荒唐無稽であろう、そうした添加物は排気管を通る前に内燃機関内で燃え尽きるであろうから。この項は単に、証人たちの間で噂がどれだけ育ち広まっていったか、そして証人たちは甘い排気ガスの味や馬鹿げた助言を与える博士に関する純粋なでっち上げの物語で補強するつもりになるかを証明するだけだ。(どんな博士も、特定の発生源からのガソリンが来た時のみに作動させるなではなく、閉鎖空間で内燃機関を作動させるなと助言するだろう。)

ベドナーシュの、ヘウムノで運用されたガス殺貨物自動車とされるものへの記述の最後の一文にある情報は、USSR-340で彼が記述したものより多少詳細だ(同書、25ページから):

「証人は、自動車の寸法を以下のように断言している:大きな自動車なら幅2.5〜3メートル、長さ6メートルほど、小さな自動車に関しては幅2.3〜2.5メートル、長さ4.5〜5メートル。貨物区画は狭く、堅く、しっかりと接続された板で造られているため、この車は内側から板を嵌められたものだという印象を与えるかもしれなかった。内側は金属板で裏打ちされており密閉式の扉を有していた。車全ては黒橡色で、ほぼ真っ黒だった。内燃機関は恐らく『ザウラー』社製だった(レヴァンドフスキ、ロッサ)。」

ここでベドナーシュは誤字のザウラーの名前を修正しているが、依然としてこう述べている:自動車全体がザウラーのものであるか、もしそうでないとしたら、内燃機関はザウラーではなかった。加えて、ザウラーの内燃機関を有するザウラー社貨物自動車である場合、証人によって描写された殺人が不可能であろうディーゼル機関を持っていたことになるだろう。加えて、無害なオストロフスキーの引っ越し用貨物自動車の貨物区画も、内側から金属板が裏打ちされた、しっかりと接続された木板でできていた(図画15以降参照)。そのためこの「殺人ガス輸送車」とされる要素は誤っているあるいは嘘を吐いている証人たちの間での交雑受精が起源である可能性がある。

3.6.3.イスラエル Israel

3.6.3.1.サイモン・スレブルニク Szymon Srebrnik

89 State of Israel 1993、III巻、1190〜1201ページ;続けてインターネット版から引用する、…/Session-066-01.htmlから…/Session-066-03.html.

ポーランド人判事の前で行ったその宣誓証言を直近の3つの副章で解析している3人の証人――スレブルニク、ポトフレブニク、そしてジュラフスキ――は、エルサレムで1961年5月、6月に開かれたアイヒマン裁判の第65回、66回の法廷の間でも証言している。89

批判的観点から見たスレブルニクの証言の1つ目の興味深いくだりは以下の通りだ:

「私が[ヘウムノに]到着した時、その建物は爆破されており、私たちは[……]掃除しろと言われました。[……]石と全てを掃除し始めました。骨を、そしてその種のもの全てをそこで見つけました――頭蓋骨、手、足を。それが何だったのかは知りませんでした。[……]私には、そこには壮麗なる郊外住宅、美しい建築物があり、その中にユダヤ教徒がいたと説明されました。彼らは何らかの不調を有していたと。ユダヤ教徒たちを中に積込み、ユダヤ教徒ごとその建物を爆破したと。」

病人の大量殺人の為に大きな建物を破壊するというのは大虐殺の実行としても病気との戦いとしても全く理性的な手法ではないことは言うまでもなく、それ以上にドイツ人たちは連合軍の空爆作戦によって住居を欠いていたため、そうした錯乱と見做されるような行為をしないだろう。この話には6年ほど後のドイツの裁判の間に被告人がした話と類似点があり、そのドイツの方は3.7.4.6章で見る事になるだろう。

アイヒマン裁判の興味深い特徴は、証人への尋問の長い期間に亘って、特定の主張を確証する、あるいは自明であると想定されている出来事に関しての要素を明示するのは、話を語る証人ではなく、証人に質問するだけの人物である検事だったことだ。例えば、スレブルニクへの尋問の間に殺人ガス輸送車が最初に言及されたのは、突如話題を変えて証人に質問した検事によってであった:

「質問:いつ殺人ガス貨物自動車が到着しましたか?」

法治下にある国内の適切な法廷でなら、こうした質問は決して許されないであろう。これはこう訊ねるようなものだ:「いつ妻を強姦しましたか?」このことから、アイヒマン裁判は諸々を確立させる類の裁判ではなく、単に諸々を確認し、僅かに詳細なもので満たす為のものであることは明らかだ。

スレブルニクの1945年の輸送車の容量に関する証言の最大限採用派とは対照的に、彼はアイヒマン裁判の間容量を「80〜100人」へと減少させている。これが、我々が彼の口述のから殺人ガス輸送車について学ぶことができる全てだ。

1945年のフィンケルシュタインの生きたまま焼かれた姉妹に関する法螺話は改修を受け、彼は最早炎の中で息を吹き返したとは主張しなくなったが、首を撃たれて如何に生き延びたかという奇跡は繰り返し、まるで鼻の傷がガラスの破片でつけられたかのように法廷にその出来事に基づくものとされる傷を見せた。

イェルサレムの検事たちと判事たちは概して極めて騙されやすいが、裁判の間にスレブルニクに完全に追従してはいない時はあった。そうした機会の1つでは1944年にスレブルニクがいる間のその収容所の総死者数とされるものに関する話をしていた。1945年の終戦直後、彼はこう述べた(スレブルニク言、1945年):

「1944年のみで15,000人のユダヤ教徒がヘウムノに送られたと見積もります。しかし、数えることはできません――私の推測は憲兵が、輸送が到着する前に口にしたものに基づいています。そのため私は1944年にヘウムノで15,000人のユダヤ教徒が殺されたと主張したのです。」

しかし1961年のイェルサレム裁判の間、彼は『ドイツ人は9か月間毎日1,200人前後のユダヤ教徒を殺した』と率直に主張した:

「質問:何人が到着した後の絶滅の為にヘウムノに送られましたか?

回答:1,000〜1,200程です。

質問:毎日ですか?

回答:はい。[……]

質問:貴方がそこにいた間9か月ほど絶滅があったと理解しておりますが?

回答:はい、[……]

裁判長:たった1日ごとに1,200人を殺したのですか?

証人スレブルニク:人数は変動しますが、毎日でした。」

この裁判長は信じることができなかったため、証人に最後の質問をした:

「貴方より前の証人の1人[ミェチスワフ・ジュラフスキ]はそれより遥かに低い人数を言っていますが。」

しかし、これは(9ヶ月×30日×日毎1,200人=)32,4000人の犠牲者(スレブルニクが自らの身の毛もよだつ話を装飾しているように、骨を砕く為の時折の「休息日」は引く)という馬鹿げている程の大人数に相当すると数学的に話しているかのように、スレブルニクは自らの人数を主張し続けた。この後、スレブルニクの話に明らかにうんざりしていた裁判長によってこの証人は退場させられた。

更に時間が経つと、スレブルニクの推定人数は更に膨らんでいった。ランズマンの映画ショアーの最初の数分で、スレブルニクはこうすら主張した(ランズマン発言、1985年):

「ここと同じくらいいつも平和でした。いつもです。2,000人の――ユダヤ教徒が――毎日焼かれていた頃、そこは平和でした。」

90 ボンの陪審法廷がこの収容所の第1期に「最低でも145,000人」、第2期に「最低7,100人」と決定したため、合計で最低152,000人となる(ロイター著、1968年以降、21巻、235、241、263、286ページ)。

そのため1945年の15,000という人数から始まって、1970年代の彼のショアーの取材の間に(9か月×30日×毎日2,000人=)540,000という人数に到達したことになる。そしてこの人数は収容所の第二期(1944)の間のみであって、最初に主張された値と収容所の遥かに長い絶滅期間(1941から1943年)を考えればより多い人数になる。正史派の歴史家でさえそのような極端な人数を主張していない。90スレブルニクの嘘については私が他でより丹念に詳述しており(アルヴァレス著、2011年発表)、マットーニョは更に論じている(マットーニョ著、2011年発表a、7.2.2章)。

3.6.3.2.ミヒャワ・ポドフレブニク Michał Podchlebnik

検事が証人ポドフレブニクに、1945年の自白調書の中で彼が描写した出来事を1つづつ順番に、寛大な親衛隊員(SS)のお陰による奇跡的な逃走も含めて確認していったため、アイヒマン裁判の間のポドフレブニクの口述は明らかに1945年のポーランドでの口述の指導された語り直しだ。しかし、例えば走るドイツ人、性的な空想の産物、そしてガス殺されたウクライナ人など、私が3.6.2.5.章で批判した少数の信じられないような(くだり)は省かれた。証人が戦後のスターリン主義者による文書記録を読んでそれをただ無批判に確証したことから、アイヒマン裁判が実際には茶番劇であったことは明らかだ(State of Israel 1993;…/Session-065-05.htmlから06.html)。

3.6.3.3.ミェチスワフ・ジュラフスキ Mieczysław Żurawski

イェルサレムでのジュラフスキの証言では3.6.2.5.章で列記した1945年の彼の証言の信憑性のないものが1つを除いて浄化されていたが、今回検事はポドフレブニクの事例と同程度の厳格さで1945年の自白調書に追従しなかった(State of Israel 1993、…/Session-065-06.html)。しかしジュラフスキは、1945年には言及しなかった新しい突飛な話を携えてきた;

「彼ら[ドイツ人]は頭に瓶を乗せた私たちを並ばせて、射撃訓練の的にしました。瓶に当たった者は生き延びましたが、頭に当たった者は――倒れ、倒れなかった者たちが彼らを埋葬しました。」

この話は技術的にも物理的にも有り得るということは言うまでもないが、これを信じるかどうかは可能性や個人的気質の問題である、つまり:第二次世界大戦中のドイツ人は悪魔の人種であり、イェルサレムで証言する証人たちは事実を告げる傾向にあり、つまりこの出来事は十分にありうるだろう。

ジュラフスキの口述の別の興味深い一面は、ヘウムノ収容所の崩壊後に殺人ガス輸送車に何が起きたかという質問への彼の応答だ:

「質問:殺人ガス輸送車に何が起きましたか?

回答:殺人ガス輸送車もコウォの方向へと運ばれました。」

そこは勿論オストロフスキー社の敷地で有名な移動輸送車が見つかった場所であるため、この些細な話は、「そこで見つかった、害虫駆除に使われていたものだった貨物自動車に関するジュラフスキの1945年の口述」のうっかりを矯正する為の試みだと見做すことができる。

イェルサレムで再度起きた、有り得なさそうなことの1つは、ジュラフスキによる彼の逃走の話だ。その時質問者はジュラフスキがどうやって鎖を取り除いたのかという問題を提起する「愚かしい」質問を単純に訊いたわけではなかったため、馬鹿馬鹿しさは情報を知らない読者/聞き手には目立たない。

3.6.4.オーストリア Austria

ここでも、1960年代初頭にヴィエナのLandesgericht(地方裁判所)で行われた裁判に関してコーゴン(1993年刊、78ページから)に依拠する。彼らによるこの裁判への唯一の言及は、その名字の頭文字のみが与えられている2人の被告への尋問の要約からの引用で構成されている。その中で殺人ガス輸送車はついでとしてこう言及されている:「人々は内燃機関の排煙を流し込まれることで殺されました」(同書、79ページ)。1969年4月11日のキール地方裁判所(LG)の評決39ページはオーストリア内で棚上げしている、そこで「We」とだけ呼ばれている殺人ガス輸送車とされる車の運転手に対する犯罪調査に言及している。これまでこの判決について私は情報を得ることができていない。

1967年にオーストリアで、主張されるセルビア内のゼムン収容所の中に囚われたユダヤ教徒の大量殺人に関与していたとして、ハーバート・アンドルファーに対して別の裁判が準備されていた(Landesgericht Wien(ウィーン地方裁判所)、27e、Vr 2260/67)。戦後アンドルファーはヴェネズエラに移住しており、そこで市民権を得ていたため、オーストリアは最終的に彼はもはやオーストリア国民ではないと決定を下した。アンドルファーはそれからドイツに引き渡され、そこで彼は上で言及した咎で裁判を受けた(3.7.4.8.章参照)。

3.7.西ドイツ裁判での殺人ガス輸送車 Gas Vans during West-German Trials

3.7.1.導入 Introduction

1989〜1990年に東ドイツが崩壊し西ドイツに再統合されるまで共産東ドイツで行われた裁判は西ドイツで行われた裁判とは全く違うため、共産主義者たちによる裁判は3.8.章で扱おう。

91 その一部は単なる勝訴の再審であるため、固有の判決の数は実のところ24しかない。

ドイツ連邦共和国(西ドイツ)で、合計で27の殺人ガス輸送車で行われた大量殺人とされるものをどうにか扱う裁判がドイツ法廷によって執り行われた。91評決情報の要約は表4にある。そうした裁判全てを詳細に包括することは不可能であるが、それぞれの概要を提供し私たちの話題に属する問題を論じることは可能だ。特記ない限り、この節の副章内で振られているページ数は表4にあるそれぞれの巻に言及している。

表4:殺人ガス輸送車に触れる西ドイツの判例
巻* #(法廷、評決年月日)**
VII 231(シュトゥットガルト地方裁判所、1949年11月8日;1950年8月15日)
IX 298(カールスルーエ地方裁判所、1949年12月15日;151年11月7日)、310(ヴィースバーデン地方裁判所、1952年3月24日)
XI 362(ケルン地方裁判所、1953年6月20日)
XVIII 526(カールスルーエ地方裁判所、1961年12月20日)
XIX 552(コブレンツ地方裁判所、1963年5月21日)、560(カールスルーエ地方裁判所、1963年12月13日)
XXI 594 (ボン地方裁判所、1963年3月30日、1965年7月23日)
XXII 601(コブレンツ地方裁判所、1965年11月10日)、603(キール地方裁判所、1965年11月26日)、606(ヴッパータール地方裁判所、1961年12月30日;1967年12月13日)
XXIII 624(フランクフルト・アム・マイン地方裁判所、1966年3月12日)、632(ハノーヴァー地方裁判所、1966年6月7日)
XXVI 658(シュトゥットガルト地方裁判所、1967年9月15日)
XXIX 679(シュトゥットガルト地方裁判所、1968年6月11日)
XXXI 700 (ドルトムント地方裁判所、1969年1月16日)
XXXII 702(キ−ル地方裁判所、1969年4月11日)、703 (ダルムシュタット地方裁判所、1969年4月18日)
XXXIII 720(キール地方裁判所、1969年11月28日)
XXXV 750(フランクフルト・アム・マイン地方裁判所、1971年3月19日)
XXXVI 765(ダルムシュタット地方裁判所、1971年12月23日)
XXXVII 769(ミュンヘン地方裁判所I、1972年3月22日)、777(ミュンヘン地方裁判所I、1972年7月14日)
XXXIX 807(ミュンヘン地方裁判所I、1974年3月29日)、809(キール地方裁判所、1974年6月14日)†
XL 816(ミュンヘン地方裁判所I、1974年11月15日)
XLIV 864(ミュンヘン地方裁判所I、1980年12月19日)
*ロイターの巻 1968年以降;**ロイターの報告による事件番号;
†この巻の事件795(ハンブルク地方裁判所、1973年6月5日)は、ロイターのウェブページwww1.jur.uva.nl/junsv/brd/files/brd795.htmにある偽りの主張とは対照的に、殺人ガス輸送車を扱っていない

92 そうした蔵書の使用申請は事前に提出しなければならず、その文書を使用する企画に関する情報及び個人情報を含めなければならない、www.bundesarchiv.de/imperia/md/content/bundesarchiv_de/benutzung/vordruck_neu.pdf参照。

法廷の評決はその評決を正当化する証拠に主に言及する傾向があるため、その評決のみからこの判例を判断すると偏った見方になってしまう。そのため、それぞれの判決を判断するには、調査開始から裁判の直前までの間に検察当局によって綴じられた事件簿全体を読まなければならないだろう。そうした裁判において検察当局は頻繁に歴史的記録を調査する代わりに単純に容疑者の犯罪は明々白々であると判断する傾向にあるため、そうした事件簿も偏っているであろう事は言うまでもない。とは言え、検察当局の計画に合致しない、多くを明かす証人の証言は、静かに払い落され、それから「科学的」文脈においても引用されないことは経験から示されている。今日そうした調査記録簿は連邦公文書館ルートヴィヒスブルク支所内に納められている。それらへの接触は悪名高い歴史見直し論者には不可能である、歴史見直し論者によるそうした蔵書の使用申請は恐らく、そうした文書への接触ではなく、最善で拒否、最悪で即座の逮捕という結果に終わるであろうからだ。92

公判の逐語記録の調査も助けとなる事だろう。ここで取り扱う公判全ては犯罪とされるものの凶悪さに基づき、最初から数えて2段階目から開廷されている(Landgericht=LG=地方裁判所)。ドイツの刑事手続きではこうした事例の場合事実問題の上訴を許可しないため、裁判内の審判によって評価され「確立された」事実を確認しようとする法廷は存在しないであろう事から、逐語記録は使い物にならない。結果として、この種の法廷の裁判記録は実のところ1970年代にドイツで破棄さえされた一方で、そうした記録はそれ以前の逐語的な記録ではなく単なる不十分な概要へと既に変わってしまっていった。

そのため現在のところ我々は、紙屑で、つまり、裁判官が重要だと見做したもので、対処しなければならない。批判的研究者の後の世代はより良い仕事ができるかもしれない、この証拠資料の核を得ることができればだが。

大きな塊を口に入れやすくする為にだけではなく 民族社会主義者(NS)の犯罪とされるものに対する裁判のおおよその傾向を反映しているこれらの裁判の間に合わせの集合群についての印象を与えられるようにする為、西ドイツの裁判を4つの分類に分けることにする、ドイツ連邦共和国の樹立直後、西ドイツ法廷はこれらの裁判を連合国の様々な法廷の遺産として凡そ継続した。しかし冷戦が起こり、ドイツの古参兵を告訴せよという圧力は西側の連合諸国は共産主義に対する防塁として新しいドイツ軍の創設にそうした退役軍人の支えを必要としたため即座に減少した。加えて、ドイツの司法はLänder(連邦州)によって組織されるため、国家規模のものでも国際規模のものでも民族社会主義者(NS)が犯したとされる犯罪への中央権力の調査はなくなった。

関心を持つ陳情団体による政治的圧力の後、そうした主体が1958年に構成された:Zentrale Stelle der Landesjustizverwaltungen zur Aufklärung nationalsozialistischer Verbrechen(民族社会主義犯罪調査国家司法本庁)で、基本的に公式のドイツのナチ狩り組織だ(最初は西ドイツで行われたもの限定)。この局の活動は、殺人の時効によって容疑者への告訴はすぐに不可能になるという恐怖とも相俟って、特に1960年代後半の訴訟の増加を引き起こした。しかしこの恐怖は間違っていると証明された、西ドイツのナチ狩り組織を創設するよう圧力をかけた圧力団体自体はまた、殺人の時効を繰り返し延長させ、最終的には廃止させるよう陳情し、達成したからだ。それ以来そうした裁判の量は、単純に大半の事例は既に扱ったことがあり、被告人はもう生きておらず、専ら通常は事実上裏付けに乏しい新事実は時間が経過するにつれ現れにくくなるという事実によって、着実に減少している。

Zentrale Stelle(本庁)内で働いていた人物の心持ちは、彼らが引用する出典によって判断できるコーゴンによるその本(1993年発表)は教本の例であるからだ。この大著の主たる編集者の1人であるアダルベルト・リュッケルルは1966年から1984年の間Zentrale Stelle(本庁)の庁長だった。彼の職場は彼が共著したその本にある証拠の山をもたらし、それは主に被告人や戦後の口述で構成されている。殺人ガス輸送車について、コーゴンがハリコフ裁判とクラスノダール裁判の間に集めた「証拠」にも言及しているという事は驚きだ(同書、66ページ、67ページ;注釈50、261ページ)。ソ連の残虐行為に関する宣伝戦家イリヤ・エーレンブルグによる宣伝戦の著書The Black Book同書、64ページ;脚注45、261ページ)に加え、戦時中のソ連の宣伝戦の小冊子(3.5.1.章参照、129ページ)にあるフェニチェル氏も同じく引用されている(同書、ページ[訳注:原文に何ページか記載なし];脚注58、261ページ)。これは明らかに、そうした犯罪とされるものへの西ドイツの犯罪調査は単なるソ連の戦時見世物裁判の更なる延長に過ぎないものであることを指し示している。

殺人ガス輸送車での殺人者への刑期
西ドイツの評決 人数
終身刑: 2
15年以上: 1
10〜15年: 6
5〜10年: 14
5年未満: 25
無罪放免あるいは刑罰なし: 21
被告人の総数: 69
歴史見直し論者への刑期
被告
ホルスト・マーラー 11*‡
エルンスト・ツンデル 7
ギュンター・デッカート 5
ゲルマー・ルドルフ 3と2/3
シルヴィア・シュトルツ 3と1/2*
ウド・ヴァレンディ 2と1/2
オットー・E・レーマー 1と5/6
フレドリック・トーベン 5/6
ジークフリード・フェルベケ 3/4
* 歴史的そして政治的な主張の組み合わせのため。
 ドイツの法廷が認めることを拒んだ、カナダでの2年を含む。
 複数の刑期の累積。

個々の判例を振り返る前に、これから批評しようとしているそうした裁判内で比較人に対して下された罰を少し解析していきたい、右の表を参照のこと。9469人の被告人は全員がこうした西ドイツの判決で裁判を受けたが、その全員が殺人ガス輸送車での殺害に関与したとされていたわけではなかった。被告人が罰せられる場合、過失致死か、殺人補助及び殺人教唆のためだった。1人の被告も殺人では罰せられていない、全員が主たる悪人(ヒトラー、ヒムラー、ハイドリヒ等)を単に補助したと想定されていたからだ。示した表で見れるように、被告人のうち21人は無罪放免になるか刑罰なしになっており、それは法廷が罪と罰を与えるのを控えたか、その裁判事例が棚上げされたかしたためだった。25人の被告人は5年未満の禁固刑を受けた。5年の禁固は被告人の人生に災厄をもたらし始める刑期の閾値だと見做される。そのため69人のうち46人、つまり全員のうち2/3はかなり軽い罰で出所した。

94 寿命+15年;寿命+8年、15年、3人×13年、12年 (責任能力なしにより上訴は審査未了)、2人×10年、3人×8年、4人×7年、2人×6年半、5年半、4人×5年、8人×4年半、6人×4年(強制されなかった人物)、3年半、2人×3年、2人×2年半、2人×3年、4年×1年+6週、21人×釈放あるいは無罪(責任能力なしのベッカーを含む;パルチザンのガス殺とされるものについてはハインツ・G・リー)。

これと、西ドイツの法廷のそうした評決によってなされた宣言を疑うか異議を唱えたことで西ドイツで割り振られた刑期――つまり:ホロコースト見直し論者への刑罰――を並べてみよう、最も著名な事例の一部を並べている、直前で言及した表の直下にある表を参照すること。その1人シルヴィア・シュトルツは実のところエルンスト・ツンデルのために弁護活動を行ったとして罰せられた弁護士である。

ここから、我々は今日の西ドイツでは司法組織はユダヤ教徒1人あるいは大多数さえをも殺した被告を、ユダヤ教徒1人に(あるいはその問題でのドイツ人の判事1人に)同意しない被告を罰するのと同じくらいの厳しさで罰するという事が見て取れる。

3.7.2.1949年〜1959年(裁判4件) From 1949 to 1959 (4 trials)

3.7.2.1.シュトゥットガルト地方裁判所、1949年11月8日及び1950年8月15日の評決 LG Stuttgart, Verdict of 8 Nov. 1949 & 15 Aug. 1950

この裁判の間、ある被告人は起訴され、終戦以来投獄され、以降死ぬまでお天道様の下に戻る事はなかった:フェルディナンド・ゲーラーは。1941年、彼はカーリッシュの市政で雇われており、そこで彼はボーンハーゲン(ポーランド語:コジミネク)収容所に関心を持った、その収容所はポーランドのユダヤ教徒が収容されているところだった。元々の1949年4月25日の起訴状では1941年11月後わりにユダヤ教徒の再定住に関与し、その間数百人が「殺人ガス輸送車」という手段によって殺されたと言われているとして彼を告訴した(190ページ、217ページ)が、最初の裁判の法廷はこの事件はこの法廷の司法権を超えていると宣言した。この判決が控訴審で確定すると、この問題は1950年のこの事件の再審の間最早詳細に扱われなかったため、これに関する評決は全く下されていない(191ページ)。にもかかわらず法廷はこれに関して僅かな宣言しかしておらず、それを引用する:

「この除去は引っ越し用貨物自動車の計上をしており後部から入れるようになっている特殊自動車で行われた。その暗色の塗装のため、それは『黒塗りの輸送車』と呼ばれていた。ユダヤ教徒の証人の意見によれば、ガス殺装置がその内側に備え付けられており、移送の間に起動したという。誰もこれについての詳細な証言はできなかった[……]。」(200ページ)

「黒塗りの自動車と呼ばれるものは大型の貨物自動車で、引っ越し用移動貨物自動車のような見た目をしており、その内側は金属板で裏打ちされていた。運転区画から操作できるようになっている見えない装置がその内側に設置されており、それを通って致命的なガスが閉鎖された自動車の内部へと解放され、貨物自動車が発車してすぐにその装置は動き出して自動車内のユダヤ教徒は移送の間に殺された。」(231ページ)

「その立場のため[被告人は]それから1941年11月25日のガス殺行動に参加した。そうして、割り当てられたユダヤ教徒の被収容者をボルンハーゲンのシナゴーグの前の広場にある『黒塗りの自動車』と呼ばれる特別自動車に略奪部隊の眼前で乗せることが実施された:自動車は引っ越し用移動貨物自動車に似せて造られており、その内部は気密密閉式で、管が複数布かれ、乗員を移送中に殺せるようになっていた。」(239ページ)

戦前にソヴィエト秘密諜報部によって用いられた殺人ガス輸送車は黒い囚人輸送車(「ブラック・マリア」、3.2.1.章参照)を元にしているように見えるが、ドイツの「殺人ガス輸送車」とされるものの証人のうちごく少数のみが車は黒だったと述べている(4.2.章参照)一方、大半の証人は、色はドイツの軍用車に通常適用されるもの(灰色で、時に茶色がかっているあるいは緑色がかっている)に似ていたと証言していることは注目に値する。多数のドイツの法廷評決の中で遭遇する「引っ越し用移動貨物自動車」の主題は恐らく、初期のソ連の見世物裁判の主張の発露であるか、ファルボルスキが「殺人ガス輸送車」だと偽りの判断をしたコウォのマギルス移動貨物車(3.6.2.3.章以降参照)の発露である。貨物車内にあり、貨物車と一体型ではなく、移送中に運転区画から起動できるようになっているガス殺装置という主張は他の証人の主張の大半とも矛盾しており(4.2.6章参照)、その大半の主張では内燃機関の排気ガスが使用され、その手順は貨物自動車が停車中の間に行わなければならないというものだった。気密性のガス殺区画とされるものの問題にここで再度触れる必要はないだろう。

それ以上に、ボルンハーゲン収容所では1941年11月の終わりの時点で「殺人ガス輸送車」が使い放題だったという主張は信用できない。正史派の話(ベーア著、1987年発表、412ページ、ベーアはこの評決に言及していない)を信じるのであれば、ドイツ人によって運用されたと主張されるまさに最初の殺人ガス輸送車は、1941年11月末〜12月初期にのみもたらされたと言われているのだ。恐らくボルンハーゲンの重要でない小さな収容所が最初にその1台を受領したということも明白でないし、そのような主張は何によっても裏付けられない。

これら2つの評決を合わせた長さや関連する上訴にもかかわらず、今話題にしている技術的目的に関してこれを超えて拾い上げられるものは皆無である。法廷自体は「多くの口述は本法廷に文書という形でのみ提出されている、証人の多くはこの裁判の間にドイツから移住しており、そのため直接証言することができなかったからだ」と述べている。被告人が犯したとされる犯罪は矛盾、不可能、そして「真実でない証言」でいっぱいであるため、法廷はそれ以上にこう述べた:

「出来事の描写に関するこうした矛盾は余りに大きく、この重大な出来事に影響を与える程であるため、有罪判決を決めるには十分な発見をすることはできなかった。」(205ページ)

そうした数多い「真実でない証言」は法廷によって看破される事さえなかった。例えば、ある証人は殺人ガス輸送車での大量殺人は1940年という早期に起こった(228ページ)と述べたが、これは被収容者を乗せていた輸送車あるいは貨物自動車が、一部の証人によって「殺人ガス輸送車」と名付けられているものの標的となっていたことを示していることにしかなっていない。

それでは法廷は殺人ガス輸送車での大量殺人とされるものが起こった事をそもそもどうやって確信できたというのだろうか? 引用しよう:

「最終的に、無数のユダヤ教徒がそうした方法で絶滅させられたことが戦争犯罪法廷によって凡そ認知される事となった。」(234ページ)

この裁判のまさに発端で石に刻まれたその歴史的「真実」はまた、マンハイム上区裁判所(Oberlandesgericht)の評決によっても仄めかされている。最初の評決が1949年11月8日にシュトゥットガルト地方裁判所によって下された後、その被告がマンハイム上区裁判所に対し異議申し立ての上訴をし、そこでその被告が要求したものの中に、「シュトゥットガルト地方裁判諸が殺人ガス輸送車での大量殺人とされるものに関しても判決を下した件」への申し立てがあった。マンハイムは決定の中でこの申し立てを退け、理由を他のものの中に混ぜてこう述べた(244ページ):

「既に無罪放免は法的に有り得ない、軍事政権によるそれへの認可は、人道に反する罪の側面を持つこの事件の判決まで拡張されていないからだ。」

これは、こうした事件に於けるドイツの戦後裁判は、実のところ連合国の戦後裁判の延長と変わらないということを示している。

3.7.2.2.カールスルーエ地方裁判所、1949年12月15日及び1951年10月15日の評決 LG Karlsruhe, Verdicts of 15 Dec. 1949 & 7. Oct. 1951

この裁判の間、アドルフ・リューベは審理され殺人と26件の故殺罪で15年の禁固刑を宣告された、その故殺罪を、彼は1942年末から1943年夏までの間、保安局(Sicherheitsdienst)で公務をこなす中で犯したのだという。この評決は国際軍事裁判(IMT)に大きく依拠しており、国際軍事裁判(IMT)の裁決では民族社会主義者によるユダヤ教徒の物理的絶滅の手法とされるものに関しては「法廷にとっては悪名高い」事実である(13ページ)と、あるいは言い換えればこう見做されていた:議論の余地がないと。

このドイツの裁判に目を向ける前に、ニュルンベルク裁判におけるリューベの役割を少しばかり論じたい。終戦直後にリューベは連合軍に逮捕され、自白調書を書くこととなり、その調書の中で彼は他の話に混じって以下のような残虐な話を論じている(ニュルンベルク諸裁判(NMTs)、4巻、473ページ):

「『1943年11月のミンスクでの死体発掘の事例に於いて、親衛隊中尉ハウザーはラトヴィア人のコマンドーと共に現れた。彼らは8人のユダヤ教徒男女を伴っていた。ラトヴィア人たちがユダヤ教徒を護衛する間、ハーターとハウザーは火葬用の焚火を手ずから熾した。ユダヤ教徒たちは縛られ、生きたまま積まれ、ガソリンを撒かれ焼かれた。』(NO-5498.)」

物証を破壊する試みの中で、ドイツがあらゆる前線から撤退している当時に、そしてもし数千に達していないとしたらロシア内の大量墓地数百を掘り返す工程の中で大量殺人の遺体を火葬する為にこれは起きた、と言われている。このことは、彼らユダヤ教徒8人が単純に銃殺される代わりに焼かれたとされる理由の背景にもなっている。しかし、1人の火葬成功につき200kgの木材が必要であることを考えれば、8人用に考えられる火葬には1.5メートル・トン程の木材が含まれていなければならず、ラトヴィア人のお手伝いがただ立って観察している間ドイツの士官が自力で全部行ったという事態はありそうなことだろうか? 連合国による収監の脅迫下で行われたリューベの証言の信憑性についての明白な指標となる。彼の証言は明らかに彼の上司を有罪にし、自身の追訴からの解放を買う助けとなっていただけである。

ニュルンベルク諸裁判(NMTs)での証言の中で、リューベは1943年の2月に1,800人のユダヤ教徒を大量銃殺したとされる出来事を詳述した(同書、564ページから)。証言の終わりに、彼はその当時の上司であり、ニュルンベルク裁判(NMT)の被告の1人であった親衛隊中佐シュトラーホに言及した。他の調書に紛れているリューベの自白調書はシュトラーホの命運を決定づけた。

リューベは自身の自白調書への署名後に連合国による拘留から解放されたが、短期間しか彼に自由は齎されなかった。ドイツ連邦共和国の創設前に彼は「ドイツ」当局によって逮捕され、裁判にかけられたのだ。彼への評決では、上述した、スルツク・ゲットーから来たユダヤ教徒の処刑とされるものへの関与(12ページ、36ページ)も言及されているが、リューベはその出来事の単なる傍観者であると主張することに成功したため、それはこの裁判の焦点ではなかった。このドイツの裁判の焦点は、ミンスク・ゲットーでの消去にリューベが関与したという疑惑であった。多数の証人が、そこで彼は残酷な行為を行い、ゲットーの被収容者の一部を殺害した、と証言していたのだ。

リューベは自らの自白調書でニュルンベルク裁判(NMT)がその正式版を石に刻むことに協力していたため、自身の裁判の間防衛線を持てなかった。ここでも、この法廷も風聞からの証言を十分に活用し、裁判に一度も現れなかった証人による書面での証言を提示していたことに注目することは重要である。それらの自白調書はこの所謂「Spruchkammer」諸裁判(23ページ以降)――法的根拠も適正手続きもない、連合国の戦後の非ナチ化裁判――のずっと前に、あるいは時には裁判中にさえ取得されたものだった。殺人ガス輸送車に言及されたのはそのような経緯の中でだ(同書)。この自動車に乗るよう強制されたとされる人々の数(50〜80人、24ページ)を除いて、その詳細はない。

この経緯の中でのリューベの弁護は極めて興味深い。彼はそのような輸送車1台の存在を認めたが、「ガス配管は欠陥があり、その結果この輸送車は使用されたことがありませんでした」と主張している(27ページ)。法廷が、リューベがそうした輸送車の使用に関与していたと結論付けられなくなって以来、彼はそれに準じる咎を免じられた。

この判例から分かることは、連合軍の戦後裁判と以降の(西)ドイツの裁判では、歴史にそして法的連続性に制限がかけられており、そこでは制約はより人道的であったが、殺人ガス輸送車(とそれ以外)に関連する被告人の主張は歴史の正史版の主流を認めた時だけ可能だった」ということだけだ。

3.7.2.3.ヴィースバーデン地方裁判所1952年3月24日の評決 LG Wiesbaden, Verdict of 24 Mar. 1952

この裁判は、『一般的な監獄から強制収容所へと故意に輸送することによって無数の死者を生み出した』として訴えられていた5人の被告全員が最終的に無罪判決を勝ち取ったがため、興味深い。しかしその無罪判決は弁護士たちが「彼らは収容所内で何が起こっていたかを知らなかったのだ」と法廷を納得させることに成功したからだ。

殺人ガス輸送車はこの裁判の焦点ではなかった。殺人ガス輸送車が言及されたのは2回だけだが、どちらの事例もどのように噂が広まり倍加していったかが分かるもので興味深い。1つ目の事例は無名の証人によって証言された:

「アウシュヴィッツに属していたモノヴィッツ収容所に彼がいた頃、彼の健康状態は酷く悪化していたため、ガス殺させられそうになっていた。彼は殺人ガス輸送車へと引きずり入れられた。その車中で被収容者は火葬棟への途上でガス殺させられていた。」(325ページ)

彼は奇跡のように自らのガス殺から逃れたことは言うまでもない、医者が「今日は職員の代表派遣団が訪れるため、収容所を奇麗に清掃しなければならない」と主張して止めさせたからだという。これの問題は、正史派の歴史家でさえ、アウシュヴィッツ内でのこの主張される殺人ガス輸送車の運用を事実ではないとして退けている点だ。しかしヴィースバーデン法廷はこの証人を信じており、このことは元被収容者が述べることについて信じるかどうかの問題になった際にドイツ法廷が如何に信じやすくなるかを示している。

2つ目の事例は戦時中オーストリアのリンツで働いていた検察官によって証言された(354ページ):

「この証人は確実に個々の収容所での絶滅方法について知っていました。しかし彼は法長官の職場で活動していたためそれについて発見しなかったのに、バイロイト郡ハークのドイツ地歩裁判所で働いているときに偶然にも発見したというのは示唆的です。[……]証人のホランドも1943年3月より以前にベルリンの警察官の発明について耳にしたことがありました。それによれば、被収容者を殺すために排気ガスが気密性のある自動車に流し込まれたとのことです。」

ホランドが連合国の宣伝戦の努力なのか殺人ガスの主張なのかの論争の焦点となっていた(クエス著、2010年刊)ことを考えると、この「知識」がどこから来たかが理解できる。

3.7.2.4.ケルン地方裁判所1953年6月20日の評決 LG Köln, Verdict of 20 June 1953

この裁判の被告は元親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)にして警察大佐エマニュエル・シェッフル博士であり、セルビア共和国のベオグラード近郊にあるゼムンのユーデンラーガー(ユダヤ収容所)の責任者だった。この評決の大半は2人の人質の処刑に関する考察を扱っており、それは現在の文脈とは無関係だ。ゼムン収容所の7,000人以上の被収容者が、ガス殺の目的の為に特別に移送されたザウラー社の貨物自動車を使ってガス殺され(1.2.章、2.2.7.章、そして4.1.章参照)、シェッフルは自身が不快な立ち位置にいることに気が付いた。この文脈の中で法廷は501-PS文書を持ち出し、シェッフルに足掻きの余地をなくした。評決はこう述べている:

「1942年春のある日、確か1942年3月上旬に、ベルリンから「極秘」と押印された国家保安本部(RSHA)の電報が到着し、それからその被告に即座に見せられた。最早存在しないその電報[なんと都合の良いことか!]は、被告自身の証言によれば以下のような内容だった:

「セルビアでのユダヤ行動に関して、

ザウラーの特別自動車を有するアインザッツコマンドーが特別指令を携えて移動中。」

被告は即座にその電報の意味に気付いた。彼は、これはベルグラードの収容所に未だいる、その全員が女子供であるユダヤの殺害についてのものだと知った。」(152ページから)

実のところ、この被告自身がこの裁判中に「すぐにこの電報の意味に気付いた」と主張している。法廷は以下のように彼の証言を要約した:

「特別なザウラー社の自動車の到着を報せるこの電報が彼の職場に届き、彼の手元に来た時、彼はすぐにこれが意味するもの全てを理解した。ゼムン収容所のユダヤ被収容者に対して行うよう通知された行動は、明白で、狡猾で、卑劣な殺人であると彼は即座に理解した。彼は吐き気を催した。しかし彼は、それについて何もできなかったと主張した。それは不可避の総統の命令だった。[……抵抗組織]は命の危機に瀕していた。いずれにせよ通知された手段を破壊することは、あるいは彼らに抵抗することは完全に不可能なことだっただろう。彼には通知された手段を打ち明ける以外に選択肢はなかった。」(164ページ)

ああ

これを読んだ者は、むかつきを覚えて良い。最も無慈悲で明らかに違法な命令に媚び諂って従ったこうした被告は我々からの最大の嫌悪を受けるに値する。

しかしシェッフルはどうやってこの電報が意味するものを知る事ができたのだ?  その電報が主張するとされる文書の中に犯罪を仄めかすものは何もない。このことは、彼が法廷に語ったことは良くても後知恵であると示唆している。加えて、彼が語る総統の命令とはどれのことだ? そうした命令はこれまで見つかっていない! そのため恐らく存在したことすらなかった! その命令書は、シェッフルのような被告人たちによる、その裏にあるものを隠す為の試みの為のでっち上げだ。

それ以上に、ザウラー社のディーゼル機関はシェッフルと評決が主張する通り(15分以内での殺害)には動作できず、そのため彼の証言は事実ではないのに、彼は何故そのようなことを言ったのだ?

その答えは、3.4.章の中でドイツの被告が戦後の裁判で自身が有り得ない状況に置かれていた――現代でも置かれているが――ことについて述べた内容と同じだ。シェッフルは法廷が正確に確立した通り、その収容所で起きたことの責任者だった:

「ゼムンのユーデンラーガーは被告の監督下にあった。つまり、彼の許可と協力なしにこの収容所内で命令を遂行できた者は誰もいないということだ。」(166ページ)

95 シェッフルに対する更に別の評決の中では、1954年7月9日のケルン地方裁判所の判決403でケルンのユダヤの追放に於ける彼の役割を述べていた、ロイター執筆、1968ページ以降、403巻、575〜572ページ。この裁判中にシェッフルは、『ユダヤは単に「赤肌のインディアンがどこかの特別居留地に行くように」再定住するのだろう』と自分は心から考えていた、と主張していた。

もしある「真実」は嘘であるというのに記録に残っているとしたら、それぞれの文書の末尾に署名をしている者はどうすれば自己を弁護できるのだ? ここでシェッフルによる証言を再度読んでみよう。彼は自分に開かれている唯一の道を選んだ。戦時中彼は大抵、正しく必要であると考えた行為を行っていると想定できるため、彼の証言は嘘そのものだ。届いた電報を読んだときに彼が催した吐き気は、それ自体が別の虚偽――抵抗しようとしたができなかった――に伴う虚偽である。唯一信用できる解釈は、「当時彼は抵抗する理由を見出せなかった」というものだ。そして抵抗しなかった理由は彼が怪物だったからではない――法廷そのものが、彼は上品な男であることを8回述べている(159、161、163、168(2回)、169(2回)、171ページ)95――が彼は怪物的な出来事を経験しなかったから起きた。

法廷は、これらの「殺人ガス輸送車」の運用に関する申し立ては一部「被告本人の証言に基づいて」いると主張しているが、『文書によって裏付けの取れていない法廷の筋書きの別の一部は特定していない証人の貢献によるものだ』という主張と同様、この被告によってどの部分が確証されたのかはこの評決の中で不明瞭であり、この評決から誰の証言かについて我々が学べることはない。

「殺人ガス輸送車」そのものについては法廷はこう述べている:

「この特殊自動車ザウラーはこの目的の為に特別に製造されたもので、特別な装置(操作棒1本と可撓菅複数)という手段によって起動する内燃機関の排気ガスを閉鎖された自動車の内部に流し込めるようになっているため、内部の人間は一酸化炭素の毒によって眠り死ぬ。」(153ページ)

なるほど、操作棒1本と複数の可撓菅を同時に備えているという特殊な装置。操作棒はガス殺の「起動」に使用されたという認識は、恐らくベッカー文書から着想を得たものである、ベッカー文書では、文脈から起動・停止するのではなく操作を微調整するのに使用されたであろうことは明白であったとしてさえ、操作棒が具体的に何だったのかには触れずにその操作棒に言及していた(53ページ参照)。

この評決の中に、そうした描写をした者がいたということを示すような内容はないが、十中八九自分の想像をその装置ということにでっち上げた被告に基づいているのであろう。再び法廷がこう述べている:

「3日後、親衛隊(SS)軍曹のゲッツとマイヤーからなるゾンダーコマンドがベルリンからザウラー社の特別自動車1台を伴ってベルグラードに登場した。[……]その過程で、ゼムンにいたユダヤの男女と子供は『殺人ガス輸送車』という手段によって除去する為に彼らに渡された。別のより良い収容所に移送されるのだ、とユダヤは騙されていた。この欺瞞をより尤もらしくするため、ユダヤは持ち物を全て持って入るべしと命じられていた。そのため犠牲者は騙され、信じられないことにより良い生活環境を望んで自ずから25人の集団で死の輸送車に入っていった。その自動車は閉じられ、移動を始めた。移送の間に運転手が操作棹という手段によって内燃機関の排気ガスを可撓菅を通して自動車の内側に向けることで、内部の者たちは上述の手法の間に眠りに就いた[……]。」(同書

そう今や我々は確実に知った:ガスの作動・停止を切り替える操作棹は運転席区画にあり、移送中に運転手が操作できるようになっていると! 実のところ極めて空想的だ。

しかし別の出典によれば、操作棹は貨物自動車の外側にあったと言われている(マノシェク著、1998年刊行、230ページ、ウィーン地方裁判所27e、Vr 2260/67への言及):

「ヴィルヘルム・ゲッツとエルヴィン・メイヤーという運転手2人のうち片方が車から出て貨物自動車の操作棹を傾けると、排気ガスが自動車の内側に流れ込んだ。」

ザウラー自動車は一度に最大で100人の犠牲者を載せることができたとされていることを考えると、法廷の主張する積載量は異常だが、彼ら全員は荷物を持っていたという事実によってそれは説明でき、96この主張は8年後の次の評決にて類似の手法で言い渡されるところを再度見ることになる。

次に同じ法廷では実際の既存の文書である、「行動」の結末を報告している1942年6月9日の電報(154ページ;2.2.3.2.章参照)に言及しており、そこには被告人の名前が書かれている。本物であるとしたら、その報告書は確実に罪に陥れるような記述を有していないだろう。

被告人は最終的に殺人2件と約7,000人の殺害を教唆し幇助した咎で(この2つの担保は冒頭で言及している)禁固6年半の判決を受けた。 So his strategy panned out at least partially: He blamed it all on the rotten corpse of the Führer.

3.7.3.3.アウグスト・ベッカーへの尋問 Interrogations of August Becker

100ベーア(1987年発表)から日付は得られているが、1960年4月4/5日と1959年1月28日のものは除き、それらはhttp://www.landesarchiv-bw.de/stal/grafeneck/index.htmに基づいている;これらの尋問は殺人ガス輸送車を扱わなかったため、ベーアはそれらを一覧に載せなかった。

101http://en.wikipedia.org/wiki/August_Becker

102明確に;ドイツ語のウィキペディアのウェブページのこの証言からの抄録の引用はこうした移動について最後のものを除いて何も引用していない、http://de.wikipedia.org/wiki/August_Becker_(Chemiker)参照。

1959年、西ドイツ当局は国際軍事裁判(IMT)の間501-PSの一部として悪名高い書簡の著者である化学者アウグスト・ベッカーの追跡にとうとう成功した。ベッカーは戦争以来明らかに雲隠れしており、ニュルンベルクや他の裁判で彼の書簡を確証するよう頼まれたことはなかった。少なくとも5つをくだらないドイツの検察当局が次々とベッカーを尋問した:ギーセン(1959年1月28日;1960年3月26日)、デュッセルドルフ(1960年1月11日)、ハノーヴァー(1960年1月28日)、ヴィースバーデン(1960年4月4/5日、入院中に)、そしてシュトゥットガルト(1960年6月20日)。100インターネットの百科事典ウィキペディアは、ベッカーは最終的に10年の刑期を宣告されたと主張している101が、彼の名前は当時のどの評決にも出てきてないため、それを支える証拠はない。ウィキペディアはまた、1960年7月15日に彼は発作によって刑務所から釈放されたとも主張しているが、後年彼は更に発作を起こしているため、推測であるように思われる。しかし当時彼は恐らく調査拘留中であるだけだった。ベッカーは後の裁判で第三大国の安楽死作戦に参加したとして告訴された被告人に対する証人として召喚された時、「妥当な宣告を共に受けることが困難である」として彼の精神的健康さは証人として証言する能力すらない程に悪化していた、とドイツの報道雑誌Der Spiegelが報道していた(1967年b号)。

ベッカーの1960年の声明の特性は1960年3月26日のベッカーへの尋問の折に設えられた尋問計画から得られたもので、その抄録はクレー/ドレッセン/リースによって出版されており(1991年発表)、そこから続けて私がいくつかの判決を引用し、それに続けて私の意見も載せよう(69〜71ページ):102

「そうした輸送車の機械的な機能に私は特に注意を払っていました。運用された殺人ガス輸送車には2種類あると言及したいと思います:オペル・ブリッツの3.5トン車と大型のザウラーワーゲンで、後者は私が知る限り7トン車でした。」(69ページ)

正しいとしたら、この声明は殺人ガス輸送車として使用されたダイアモンド社の貨物自動車とされるものについての記録を修正している。これによれば、ベッカーはこうした殺人ガス輸送車の技術的詳細全てを知っていたに違いない。不幸にも、何度も遭った尋問の間殺人ガス輸送車に関する詳細を明かすよう頼まれたことは全くなかった。

「そのため1942年1月5日か6日に列車でクラクフとファストフを抜けてニコラーエフへと移動しました。そこから全国指導者(Reichsführer)の飛行機でクリミア内のシンフェローポリへと飛びました。[……]私はアインザッツグルッペDの隊長オットー・オーレンドルフに1月のいつかに報告しました。1942年4月の初期まで私はこの集団と共にいて、それからアインザッツグルッペそれぞれを訪れました。」(70ページ)

そう、小者ベッカーは偶然にも世界的な巨大都市ニコラ―エフにて彼を待ち構えていたハインリヒ・ヒムラーの個人用飛行機を取ってきて、そこからロシア戦線の手前を飛び回って様々なアインザッツグルッペンの殺人ガス輸送車を精査した。

「当時私はポーツェルトから、ミンスクにはユダヤ教徒絶滅収容所があったことも学びました。アインザッツグルッペの物であるヘリコプターのフィーゼラー・シュトルヒ[軽量級飛行機]でミンスクへと飛びました。同行したのはミンスクの絶滅収容所所長であるルール大尉で、彼と私はリガでの職務を論じました。[……]

ミンスクで何が起こっているかを、つまり男女どちらも塊となって絶滅させられているのを見た時――私はそれ以上理解できませんでした[……]。」(71ページ)

彼の移動方法に触れるに際し、ヘリコプターを召喚する時にベッカーの幻想は再び隠れ潜む。「ミンスクの絶滅収容所」とは恐らくミンスク南東12kmにあるマリィ・トロステネツ収容所への言及だ。正史派の歴史家たちはドイツ、チェコ、ポーランドからミンスクへ追放された40,000〜60,000人のユダヤ教徒がそこで一纏めに殺されたと主張している。103しかし追放は1942年5月初期にのみ始まったと言われているため、ベッカーの時期は外れている以上、彼は何も目撃しようがなかった。

ベッカーの声明の別の問題は収容所所長ルール大尉とされる人物だ。この人物は恐らくフェリックス・ルール親衛隊大尉と同一人物だ。104しかし、ルールはウクライナとコーカサスで任務遂行していたアインザッツグルッペDの一員であり、キエフがあったオストラント国家行政区では活動していなかった。ルール大尉がその地域に駐屯していたことがあるという証拠を、あるいはミンスクやマリィ・トロステネツの何かと関連があったという証拠を私は何も見つけていない。それ以上に、マリィ・トロステネツは保安警察と親衛隊保安局(SD)ミンスクの司令官によって運営されていたのであって、アインザッツグルッペによってではない。

ベッカーは続けている:

1時間ほども続いた私的な会話の中で、私はプラーデルに、殺人ガス輸送車の作動の仕方と、操作者が不正確に内燃機関を操作するがため犯罪者はガス殺される代わりに窒息するという事実に関して上げられた批判の声を描写した。私は彼に、人々は吐瀉し排泄したと告げた。」(同上)

190ページ

103http://de.wikipedia.org/wiki/Maly_Trostinec

104http://de.wikipedia.org/wiki/Felix_R%C3%BChl

「犯罪者」――ベッカーは、ガスは死刑執行の為に運用されたと自分は考えていたと仄めかしているのだろうか? 「ガス殺」あるいは「眠りに就く」と、「窒息」の区別に関する荒唐無稽さ、また特定の手法で内燃機関を操作することで犠牲者を殺す操縦方法が可能かに関する荒唐無稽さについては既に論じている。この声明は、ベッカーがこの文書内容を心の内から学んだだけだと言うことを確証させる――彼は恐らく尋問の間無数にこの内容に直面したため、段々と自分は何を期待されているかを学び、愚鈍に応じたのだ。

こうした抄録から、ベッカーが本当に精神的に混乱していたことは明らかだ。しかしマシアス・ベーアは1987年の自身の論文内で7回ベッカーの様々な宣誓供述書を引用しており、1回たりともその問題のある性質については仄めかさなかった。

3.7.4.1.1.技術的詳細

最初の裁判の評決にはジュスト文書の文章全体が含まれている(273〜275ページ;書簡の第一文は285ページに引用されている)。これは、「事実」が法廷によって確立されるかの厳格な大枠を規定している。

「殺人ガス輸送車は灰色に塗装された外国製の大型貨物自動車で[……](230ページ、277ページ)

107ヘウムノの殺人ガス輸送車3台のうち1台はザウラー社製だったと時折主張されるが、マットーニョは「ヘウムノで運用されたとされる殺人ガス輸送車の車種と台数に関する証人の声明は一貫していない」と指摘している(マットーニョ著、2011年発表a)。

「外国製」への言及は外国製に言及している他の出典で構成されている(ダイアモンド社、ルノー社、4.2.2.章参照)。こうした輸送車の最もありそうな候補であるドイツ製のザウラー社とオペル社(オペル・ブリッツ)(ベッカーの声明参照、189ページ)はそのためクルムホーフ/ヘウムノ収容所に姿を現さなかったとされ、その収容所では最大でも3台の輸送車しか任務に就いていなかったと言われている107

その輸送車は「[……]閉鎖される貨物区画は運転手区画とは切り分けられ、大凡幅2メートル、高さ2メートル、長さ4メートル」を誇っていた。(同上)

目撃証言とジュスト文書に依れば、1平米につき「9〜10」人が貨物区画内へと鮨詰めにされたという。1平米に10人の密度を想定し、平均体重60kg(大凡1kg/リットルの密度)を想定する場合、そうした80人は4.8メートル・トンの重さであり、利用可能な空間16立米のうち4.8立米の体積を占める。そうした状況下では人員それぞれは(11.2÷80)0.14立米(=140リットル)しか自由に使える空気を持たない。そうした状況下では犠牲者は排気ガスを内部に流し込む必要もなくすぐに酸欠によって窒息するだろう。

「貨物区画の」内装には亜鉛塗装した鉄板が嵌められていた。木製の格子が床に横たわり、その下には管が何本かあった。」(同上)

この殺人ガス輸送車の荒唐無稽な内部配管の記述はミンスクの殺人ガス輸送車に関するヨハン・ハスラーによるそれに似た口述書、あるいは上で論じた(118ページ130ページ153ページ)他の描写に基づいており、それを読者に伝えよう。

評決はこう続いている:

「輸送車の床の可撓管複数にある管の開口部複数は、円錐形の先端を有する物1つに接続されていた。」(同書)

この一文は荒唐無稽だ。可撓管はどうやれば円錐形の先端を持てるのだ? そして何故接続する可撓管には開口部が複数あったのだ? これは、貨物区画内には複数の独立した管があり、それぞれは独自のガス供出口を有していたことを仄めかしているが、それは本当に馬鹿げた設計である。この文は、そうした可撓管はそうした開口部にどう接続されているかを説明してもいない。理屈は(配管の)「管複数」が床のたった一点の開口部で終わり、その開口部は何らかの(円錐形の?)接合装置を備えていて、それに可撓管を接続できるようになっていた事を要求している。

「可撓管の端には排気管を挿入でき、袋ナットでしっかりとネジ締めできました。」(同上)

108www.esska.de/esska_de_s/schlaeuche-schellen.html参照。

その可撓管を排気管に挿入できるのだとしたら、袋ナットでしっかりとネジ締めすることは不可能だ。袋ナットは終端部品を備えた可撓管の終端部を(封があろうとなかろうと)管の端に押さえつける。反対に、排気可撓管は通常袋ナットではなく可撓管留め金を使って管へと取り付けられる。108この声明は、評決を著した判事たちはこのような技術的要素に全く不慣れであり、証人は好きなようにものを言えた――そして言った――事を再度示している。

この可撓管が袋ナット付きの排気管に取り付けられていたとしたら、排気管は外部にネジ山を有していなければならないことになるが、排気管は通常ネジ山を取り付けるには薄すぎるため、それは極めて異常な事態である。そのためその排気管は特別に厚い終端部を備えていなければならない。排気ガスの高温は、特別なステンレス鋼を使用しない限り急速な腐食によってそのネジ山を操作可能な状態にし続けることを困難にするであろうことも、注目する価値がある。

それ以上に驚くべきは、可撓管の2つの終端部は同じ技術で取り付けられているわけではないという点だ:一方は排気管へと「挿入」され袋ナットで固定されている一方、もう一方には不気味な「円錐形の先端」が付いており、これによって貨物区画の管に取り付けられる。何故このように複雑にするのだ? 恐らく貨物区画との接続は永久的である一方、排気管との接続はそうではなく、可撓管を取り外し、巻き上げ、貨物区画の下にどうにか積み込めるようにするためということか?判事たちは明らかに可撓管が管の口にどう取り付けられていたかを知ることに余り気を配っていない。

評決はこう続く:

「貨物区画後方の両開きの扉2枚は外開きであり、気密性を確保するゴム密閉を備えていた。」(230ページ以降、277ページ)

貨物区画は過剰な排気ガスを逃がせるようにする開口部を備えていたことを示す語は存在しない(例えばジュスト文書の第一文にはその種のものが言及されている:1cm×10cmの狭間さま)。実のところ、わざわざ貨物区画に気密性を持たせる為にゴム密閉を使用しているということは、開口部という選択肢を排除している。これは、犠牲者が閉じ込められていたと言われている貨物区画は完全密閉されていたということを再度確証させ、これは排気ガスは貨物区画内部の圧力を上昇させ続けたことを意味する。可撓管の開いた管との繋がり方あるいは貨物区画との繋がり方に関しての描写は、その接続も完全密閉でなければならなかったことを示している。そうした状況下で、排気ガスが11立米ほどの体積の密閉空間へと流されるため、貨物区画が屈する程に気圧が高まるまでほんの1〜2分しかかからないだろう。しかしその操作は最大で15分かかったと我々は言われている(様々な操作時間とされているものについては4.2.5.章参照)。

3.7.4.4.フランクフルト地方裁判所/M.、1996年3月12日の評決

この裁判は元アインザッツコマンドー8(アインザッツグルッペBの一部)の隊員であったアドルフ・ジョセフ・ハー[?]に対して行われた、この部隊はベラルーシ人系の町であるマヒリョウ近郊で活動しており、最初彼は4年間の刑期で終わったが、これは後に高等裁判所で取り消された。高等裁判所による再裁判の指令は全く起きなかった。

この被告人が単に自身の部隊の居住設備の監督官をしただけであったとしてさえ、彼は複数回にわたる市民への大量銃殺(346ページ以降)に参加し、また「殺人ガス輸送車」内で被収容者600人ほどをガス殺したとして告訴された(349ページ)。ゾンダーコマンド8によって使用されたとされる殺人ガス輸送車については評決文に書いてある:

「引っ越し用移動貨物自動車に似た車体を持つこの貨物自動車は気密性を有しており、その内部に内燃機関の排気ガスがこの車の排気機構に接続された可撓管から流された。[……]50〜55人ほどを収容できた殺人ガス輸送車は主に監獄の一掃に使用された。その監獄の傾斜にて、犠牲者はこの車の貨物区画へと登らなければならなかった。当時『特殊自動車』と呼ばれていたそれは、続いてマヒリョウ外縁部の対戦車壕へと進んだ。そこで車の貨物区画へと通じる可撓管は内燃機関の排気機構と接続され、内燃機関は1,200〜1,500回転毎分(rpm)へと調整される。8分程経過すると内燃機関は停止され、貨物区画が開けられる。」(344ページ)

被告人は、複数の大量銃殺に参加したことは認める一方で、検察が主張する彼の関与の延長は即座に否定した。彼はまた、パルチザンあるいは破壊工作者と見做した犠牲者の宗教的背景は知らなかったとも主張したが、その主張を法廷は事実ではないと退けている(355ページ)。評決文によれば、殺人ガス輸送車への被告人の反応は以下のようなものだった:(349ページ)

「彼はまた監獄の掃除と呼ばれるものを監督していたことを、掃除なんて全く知らないなどと否定した。彼は殺人ガス輸送車について何も知らないと主張し、マヒリョウ内でそうした車を見たこともないと述べた。」

知らないという点に於いて被告人には仲間がいた。この法廷は殺人ガス輸送車の存在と運用を無謬の事実であると見做したが、それに関して無数の証人の完全な無知について驚きを表さざるを得なかった:(356ページから)

「多くの証人が殺人ガス輸送車の存在について何も知らなかったというのは衝撃的だった。証人リヒ[ター]アインザッツコマンドー8の指揮官であった頃でさえ殺人ガス輸送車は運用されていたが、尋問の間に彼の文体には殺人ガス輸送車が1台あると知っていたと証言したのみだ。証人スチュも、それ以外では詳細な証言をしたが、殺人ガス輸送車については何も知らなかった。」

彼への反論になる証拠は他の目撃証言しかないのだと、評決文は被告人の主張を論駁する法廷の困難さを詳細に論じている。こうした裁判案件を扱う判事たちの中では稀である健全な猜疑主義を十分に備えていたこの法廷は、何故そうした目撃証言多数に頼ることが出来ないかを論じた:

「証人への尋問の間、主に証人の記憶が次第に薄れていくという事実によって困難さが生じてきた――彼らが報告すべき出来事はもう24年も前のものだ。[……]

別の困難さは、法廷が聴取した証人の大多数は複数の調査と刑法案件で過去何年もの間で繰り返し繰り返し尋問を受けているということだ――ある例では30回された者がいる。それは証人はそうした尋問の間に主張をぶつけられているという性質上、時間の経過の中にいる証人は最早自身の経験に基づく知識と後に学んだものに基づく知識を区別できない。」

言うまでもなく、裁判の大多数は戦後に開かれたというのは真実である――それ以上に、かなり後に開かれた。

113高等裁判所による評決文の取り消しは解釈に基づく:判決文は「被告人は、自分は法的拘束力があるものとして処刑命令を受け取っていたと考えていた」と言及していたため、法廷は「禁止令の誤解」だとして被告人を無罪放免するか、彼の主張を退けなければならなかった。

それら及び他の「克服できない困難さ」によって、被告人の主張の多くは確実に退けられはしなかった。113

この文脈の中で、殺人ガス輸送車数台の存在がゾンダーコマンド8向けに文書化されていないことに注目するのは興味深い、2.2.8.章参照(その文書が信憑性があるとしたなら)。しかし上記で描写している通り、これらの車が大量殺人目的で使われていたかは明瞭では全くない。それらは単純にガス発生車であるかもしれない。

3.7.4.9.キール地方裁判所、1969年4月11日の評決

この裁判は2人の被告に対して開かれた:アインザッツグルッペB内にある1942年夏の間マヒリョウの外縁部で活動していたアインザッツコマンドー8の隊長ハインツ・R・H・リヒターと、そのアインザッツコマンドーの外部機関の隊長であるハンス・カール・A・Ha[?]だ。2人は大量銃殺とユダヤ教徒の殺人ガス輸送車内での大量ガス殺とされるもので有罪判決を受けた。リヒターは7年の刑期を宣告され、Haは5年半を宣告された。

面白いことに、法廷は他の多くの文書の中に、その裁判に全く姿を現さなかった無数の証人による記された主張だけでなく、この裁判の為の調査より遙か前に死去さえしている証人の供述調書さえ含まれており、アングロ=サクソン法で違法だと見做されるものの実践だった。

この裁判の異常な要素は、どちらの被告も戦前から、そして戦争開始時も親ユダヤ主義として長い歴史を持っていたことだ。リヒターはユダヤ教徒の女性と関係を持っており、彼女の逃避を助け、様々な方法で他の無数のユダヤ教徒を助けた(11ページ、14ページ)。更に、ドイツ占領期のフランス内の検察官であったリヒターは、ユダヤ教徒に対して不法行為を犯した上司や他の高位のドイツ人への告訴に躊躇うことがなかった(13ページから)。後者の被告人はそれに劣らずゲシュタポによるユダヤ教徒への逮捕回避の支援や投獄後の境遇改善に熱心であった(19ページから)。

これは、2人がどれだけ親ユダヤ主義であろうとロシア内で東ドイツ戦線の先で一度任務遂行をすれば大量殺人の自動人形へと容易く転向させられうるのだろうかという疑問を呈する。

119この時系列は、2.2.8.章で解析されている戦時文書の情報と矛盾していることに注意。

評決文によれば、1942年5月か6月にアインザッツコマンドー8は「殺人ガス輸送車」を受け取っていたと言われており、その年の9月まで使用していたと言われているという(25ページ、33ページ以降)。119この車についての評決の記述は簡素なものだ(33ページ):

「この車は引っ越し用移動貨物自動車に似た箱状の自動車で、内側から金属板で裏打ちされている。この輸送車の排気管に接続された可撓管は内燃機関の排気ガスを気密性の輸送車に流し込み[……]

殺人ガス輸送車に充満する時、両開きの扉は閉じられており、運転手シュロ某は同行者及び監視下に置かれている者たちと共に対戦車壕まで輸送車を運転した。一方でその内部では犠牲者たちが積荷部分の上で立錐の余地なく立たされ[……]。10〜15分の運転の後、殺人ガス輸送車は対戦車壕に到着した。そこで実際の殺人作戦が始まる。可撓管が接続され、内燃機関は一定の速度まで上げられ、そうして犠牲者たちは10〜15分以内に輸送車から流れる排気ガスという手段によって殺された。」

この描写の出典は不明瞭だが、評決文内に記載があるベッカー文書及びジュスト文書(7ページ)が大きな重要性を占めていたと想定可能であり、何より評決そのものがこう述べている(34ページ):

「殺人ガス輸送車の運用について、より詳細な証言をした証人は著しく少なかった。概して証言を行う事に前向きでなかったにもかかわらず銃殺行為について比較して遙かに供述した証人でさえ、殺人ガス輸送車行動についての質問に向き合う時には即座に口が重くなった。」

法廷は殺人ガス輸送車運用の恐ろしい本性を口数が減った主要な理由であると見做しているが、技術的な詳細あるいは任務上の詳細に関する知識の欠如がその証人を無口にしたのだと私は主張する。銃殺はつまるところあらゆる戦争で起こり、実際にそれが起こっていようとでっち上げであろうとそれについての報告で幻想や捏造は不必要である。しかしこうした捉えどころのない殺人ガス輸送車は明らかに完全な別問題だ。加えて、そうした自動車に関する、証人が持っていると主張する乏しい「知識」とは、アインザッツグルッペ8の同じ活動に関与した別のドイツ人被告に対して3年前に開かれた裁判内での証言(3.7.4.4.章参照)と同じく、以前の尋問や裁判に実際に基づいているかもしれない。

裁判中の被告人の態度について評決はこう述べている(41ページ):

「被告人Ha.はマヒリョウから命令されたユダヤ教徒に対する絶滅行動にこの――自身の――参加をしていたことを認め、被告人リヒ[ター]からこの命令を受け取っていたのだと主張する一方で、リヒはあらゆるユダヤ教徒に対するアインザッツコマンドー8の絶滅手法への関与をあらゆる形で否定した。」

しかしリヒターの絶対的な関与の否定には、絶滅が発生したかの議論は含まれていない。彼は単に、一度殺人ガス輸送車での処刑に参加させられた後、上司から命令を受け取った際に、絶滅に関するそれに従うことを固く断ったと主張しただけだ(同上)。大量銃殺に関しては、彼はただパルチザンの銃殺に1回だけ参加したと主張している(42ページ)。彼は、別の被告人が彼に「対ユダヤ行動」がその翌日に発生したのだろうと時折告げていたという理由のみによって、ユダヤ教徒に対する行動を知っていたとさえ主張していた(44ページ)。

リヒターは前述の裁判の間に「戦後の尋問の間に自身の分隊内に殺人ガス輸送車があったことだけ分かった」と主張していたことは思い出す価値がある(3.7.4.4.章参照)。

言うまでもなく、『こうした大量処刑、真逆の無数の目撃証言、ベルリンへと送られたアインザッツグルッペン報告、アインザッツコマンドー8内でのリヒターの指導的立場、そしてリヒターの様々な裁判及び裁判前の証言の中での内的矛盾』の予め決められた「自明」性質の見方の中で、法廷は彼を信じることは出来なかった。実のところ、この評決の大部分はリヒの主張の反論に割かれている(43〜62ページ)。

その長い反論の中に、証人の証言の潜在的な不正確さについての簡素だが不完全な理由の一覧が見つけられる(57ページ)。この理由が不完全というのは、3.4.章で記述している通り、多くの証人が大規模な検察行為の対象となっており、その重圧に屈する為に極めて詳細で表面的に尤もらしい物語をでっち上げることは全くありうるという点が可能性に入っていないためだ。

この裁判案件で可能性となっている点は、評決文で単に「シュロ某(Schl.)」とのみ言及されている証人だ。彼は、彼自身がアインザッツコマンドー8の運用で殺人ガス輸送車運用の運転手として行ったとされる活動について拡張して証言したがため、「殺人ガス輸送車」大量殺人の重要な証人だ。シュロ某の詳細な自白は、今いる法廷で少し後に裁判を開かせる(3.7.4.11.章参照)事になり、自身を大罪人にするような内容であったため、法廷は彼の自白を信頼できるものと解釈した(34ページ)。その自白の事実を一度脇に置いて、証人グラールフスによれば、シュロ某の別の裁判の間にシュロ某は、法廷内での証言で自分が言っているのが「真実なのか詩なのか」分からなかった事を、そしてその時点でその問題から距離を取ろうとした事を認めたという(58ページ)。

この裁判で証言する証人ほぼ全員が、何らかの形でドイツ人の武装部隊の一員であるということは法廷にとって便利であった、自己負罪の場合にのみ、ドイツの司法組織や大衆の目にはどうにか彼らの声明は信頼できるように見えるからだ。そのため判事たちは信憑性があろうとなかろうとあれこれの声明を、予想される政治的に正しい評決に達する為の必要性に応じて思いのままに宣言できた。

証人「プリ某」の事例もこの認識を補強する。プリ某は、マヒリョウ監獄の被収容者全員はある時点で、その一部がチフスに罹患していると診断されたがために銃殺されたと主張した。明らかにこの主張はまだ十分に広まっていなかったため、被告人も他の証人もそのような出来事を誰も「覚えて」おらず、それが理由に法廷はこれに関して被告人を無罪とした(74ページ)。しかし、プリ某は恐らく出来事をでっち上げたため、あるいは最早事実と噂の区別をつける能力もないため、信頼できない証人として排除されなければならない、と結論づけられる代わりに、法廷はプリ某の第2の「精神病院の被収容者の排気ガスでの処刑の要約」に関する粗雑な物語に従った、従順な被告人ハ某が自分はその出来事に関与したと認めたというだけの理由でだ(74ページから)。

3.7.4.10.ダルムシュタット地方裁判所、1969年4月18日及び1971年12月23日の評決 LG Darmstadt, Verdict of 18 Apr. 1969 & 23 Dec. 1971

この裁判は3人の被告に対して開かれ、そのうちの2人は大量銃殺に参加したという理由のみで起訴された(セオドア・L・クリ[?]・[?]、カール・エルンスト・R・クレ[?])が、現在の調査には関連性がない。この2人の被告は1969年に無罪を言い渡された一方で、3人目のウィルヘルム・フィンダイセンはキエフでのアインザツグルッペC及びハリコフでのゾンダーコマンド4aの司令部で勤めている間「殺人ガス輸送車」の運転手として大量ガス殺に関与したとして再審を受け37ヶ月の禁固刑の判決を受けた。

1941年11月に被告人がベルリンからキエフへと運転したといわれる殺人ガス輸送車は評決文で以下のように描写されている(1969年記録、93ページから;1971年記録、469ページから):

「この自動車は外国製の大型貨物自動車で、灰色に塗装されており、引っ越し用貨物自動車に似た見た目をしていた。それは運転手区画とは別に気密性の貨物区画を備えており、直立している人物40〜45人を乗せられた。内側は金属板で裏打ちされ、撤去可能な木製の格子が床に張られ、その下を配管が複数走っていた。金属可撓管が貨物区画の管の開口部へと接続されているが、その開口部はねじ締めされており、それから特別仕様の排気管の床へと繋がっていた。貨物区画の後部には両開きの扉があり、それは外部からほぼ気密性[誤訳ではない]を持つ密閉ができるようになっていた。内燃機関の排気ガスは可撓管を通って中へ入り、内側に閉じ込められた者たちの死を引き起こした。」

この判決の中で、処刑は貨物自動車が埋葬地へと移動する間に行われ、15〜30分持続したと言われた(1969年、94ページから;1971年、470ページから)。

被告はおおよそ半年間全て自力で貨物自動車を操縦していたため、そしてまた被告人は――法廷によれば――排気管へとの可撓管の接続方法を指導していたことを強調していたため(1969年記録、94ページ;1971年記録、470ページ、475ページ)、特別設計の排気管にネジ留めできる可撓管及び「木枠」の下内部にある複数の「配管」の彼の描写は深刻に受け取らなければならない。しかし彼の描写は依然として技術的に言って荒唐無稽であり、時に似ているか、更に荒唐無稽な方法で可撓管と排気管を接続していた、と別の描写をする他の多くの証人と矛盾している。

法廷は――つまり恐らくは被告も――貨物自動車の実際の車種は特定しなかったというのも奇妙だ。被告人は大変記憶に残る出来事の中――本当に起こったとしたらの話だが――半年間その車を使っていたのだから、その自動車の車種を覚えていないというのは信じ難い。それは伝説の、だが捉えなれなかったダイアモンド社の貨物自動車の1台だったのか?

被告の中に1つあるかなり奇妙な証言は読者の目から隠すべきではない。これはロシアの冬の間の極寒にも関連する(1969年記録、95ページ;1971年記録、471ページ):

「殺人ガス貨物車を操作し続けられるよう、その車は凍結から守る為に自動車の下で火を灯すことで数多の昼夜の間極寒から守られた。」

それが真実なら、この法廷がこれまで判決の中で述べてきたような貨物自動車の頻繁な欠陥ができた本当の理由はそれなのだとしても驚かない。ゴム製あるいは木製の部品は火が近くにあることを全く好まず、潤滑剤、燃料、作動液などにも言及していない。

訳注……ネジ山の原文はthreatであり、threatにネジ山という意味はないが、引用終了直後にthreadへの言及があったため、threatはthreadの誤字だと判断しこう訳した。

3.7.4.11.キール地方裁判所、1969年11月28日の評決

この裁判は、自己負罪の被告であり、直前の別の裁判にて「直接」その法廷に殺人ガス輸送車の運用に関する知識を齎すことで重要な役割を果たしたハインツ・ヨアヒム・シュロ[?]に対して開かれた(即ち3.7.4.9.章参照)。ここで彼は、1942年8月からのマヒリョウ内とその周辺でゾンダーコマンド8用の殺人ガス輸送車の運転手として彼が行ったという活動に関する咎に直面する。しかし彼らは被告人の「大量ガス殺の参加命令への反論は彼自身の生命を危険に晒すであろう(「推定できる緊急非難」と呼ばれるもの、301〜307ページ)」という確たる信念を信頼できるものと見做したがため、彼は無罪判決を受けた。

因みに、殺人ガス輸送車はまず文字通り貨物区画を持つ自動車であり、可撓管を通してその貨物区画の内部へと内燃機関の排気ガスが流され、その結果10〜15分で犠牲者が死ぬとのみ描写された。この声明にはベッカー文書とジュスト文書からの引用が続く(284ページ)。その後、出典が不明瞭だが恐らく被告人自身に基づいているどこかより詳細な記述が目に入る(同上):

「この車は、7〜8メートルほどの貨物区画が上に装着されている、貨物用の型枠を有している。この区画は後部から両開きの扉で開けられる。この自動車は灰色の塗装がされた内装を有する。この区画の内部は金属板で裏打ちされている。木製の格子が床にあり、その下に長い管が2本とそれらに交差する管が1本あり、その3本には小さな穴が複数備え付けられており、その穴から内燃機関の排気ガスがその区画の内部へと流された。その排気管は円錐状に先細っていく;その円錐は袋ナット付きのネジ山を誇示し、そこに可撓管が接続され、可撓管のもう1つの終端はガス殺を行えるよう自動車の貨物区画に取り付けられている。努力すれば50〜55人ほどがその自動車の貨物区画に搭乗できる;50人でもう貨物区画はいっぱいではあるが。」

木製の格子の下を十字に走る管の使えなさと、可撓管に固定する為に排気管内でネジ山を使用していたとは考えにくいことに関して、これまでに十分な意見は出しているため読者向けに繰り返す事は避ける。加えて、円錐形に細くした管は、ネジ山の機能を持てない事をわざわざ指摘までする必要はあるだろうか? また、長さ7メートル、幅最低2メートルの貨物区画は床が最低でも14平米ある。1平米につきたった5人を想定しても輸送車全体では既に70人になる。1平米に10人押し込められれば輸送車内に140人入ることになる。検事たちはそうした単純な掛け算もできなかったのか?

被告人によって主張されるこのガス殺手続きに関して新しいのは、ガス殺全ては「地元住民を不安にさせないように」夜に行われたと言われている点だ(285ページ)。しかしそのような主張を支える証拠は存在しない。

様々な評決は、加害者は別の町や収容所へと再定住する為に乗り込む事になる旅を、あるいは何らかの虱駆除の手続きの為に彼らを運ぶ移動を犠牲者に信じさせようと様々な計画を企てたのだ、と主張するが、この評決は輸送車への乗車の前のある時点で犠牲者全員は脱衣せねばなかったと主張しており(285ページ)、このことは犯罪者によって告げられた奸計を信じさせるあらゆる試みを否定するであろう。更に、この評決は、死出の旅とされるものに出る前に犠牲者は「特筆すべき事として金の義歯を砕かれた」と述べてさえいる(286ページ)。しかし、義歯は歯から外す際に砕く必要はなく、金は義歯としては柔らかすぎる金属だ;だが被せ物や詰め物が金を含んだ合金製であることはよくあり、それは歯から取り外さなければならない。しかし被せ物や詰め物を、生きた犠牲者の歯から合意も麻酔もなく取り出すのは控えめに言っても至難の業だ。判事たちは荒唐無稽な被告人と証人が自分に告げた事に関してなら何でも信じたように見えることが、この事から判断できる。

この評決は被告人を「真実を愛する、良識のある人物だが、極めてしなやかな精神を持つというわけではない」と、あるいは和訳して率直にこう描写している:彼は記憶が容易に騙される間抜けだった。それは、様々な口述書や尋問の間のこの被告人の話の荒唐無稽さが原因なのかもしれないし、別の裁判で彼は『私は自分が言っている内容が「真実なのか詩なのか」の判断が最早できない』と叫んでいた(226ページ)という理由なのかもしれない。しかしある1つの真実は確かだ:彼の話それぞれを奉じた判事たちは、ただ硬直した精神を示した。

3.7.5.1970〜1974年(6裁判) From 1970 to 1974 (6 trials)

3.7.5.1.フランクフルト地方裁判所/M.、1971年3月19日の評決 LG Frankfurt/M., Verdict of 19 Mar. 1971

この裁判はマヒリョウと他のソヴィエト連邦占領下の場所でアインザッツコマンドー8に従事する間に大量銃殺と殺人ガス貨物車を使用してのガス殺に関与したとして被告人カール・ストロー某に対して開かれた。ハインツ・ヨアヒム・ハインツ・ヨアヒム・シュロ某(直前の章参照)に対する判決と同様、この被告人も「緊急事態と想定される」ため無罪を宣言された(144〜146ページ)。

この被告人による貨物車とガス殺手順の描写はかなり簡潔(138ページ)で、ドイツの戦後の他の被告によって提供された描写の短い概要のように読める。それによれば、その貨物車は50〜70人の被害者を収容でき、貨物区画後部に両開きの扉を有し、内側が金属板で裏打ちされ、床に木製の格子が貼られ、その下には小さな穴が空いた管複数が伸び、可撓管を介して送られる排気ガスを分配できるようになっているとのことだ。この貨物車は停車しているあいだ内燃機関の回転数を上げることで8〜10分以内に犠牲者を殺せたという。この法廷が描写したその貨物車の1つ特別な点は、「観察用の狭間さま」を後部扉に有していたということだ。監視窓に言及するにしても、他の評決ではガス殺は運転手区画から貨物区画へと通じる窓から監視できたと述べているというのに。その手順自体は、評決によれば彼らが取りやめた銃殺による処刑よりも「無慈悲」で「残酷」だったそうだ(139ページ、143ページ)。

それに加えて、この評決は、「被告人は室内に閉じ込められた精神的に病んだ人々の、可撓管及び壁に空けられたばかりの穴を介して貨物自動車から排気ガスを流し込むことによる殺害に見張りとして間接的に関与した」と主張している(140ページ;3.7.4.9.章参照)。これは、アルバート・ワイルドマン(218ページ参照)が語った話の繰り返しに似ており、その話自体は「真実でないものである必要がある」というわけではない。安楽死殺人はドイツ固有の領土で行われたため、類似の行為はドイツが占領した様々な領地でも同様に行われた可能性がある。

3.7.5.2.ミュンヘン地方裁判所I、1972年3月22日の評決 LG Munchen I, Verdict of 22 Mar. 1972

この裁判には3人の被告がおり、評決の中で彼らの苗字は最初の3文字しか記されていない:カール・フィン[?]、ジークフリート・シュー[ルト]、そしてテオドール・リップ[?]だ。彼らはアインザッツコマンドー10bの一員としてソヴィエト連邦占領下の様々な場所での銃殺及び殺人ガス輸送車内でのガス殺大量による殺人に関与したとしてそれぞれ4年半、5年、そして3年の判決を受けた(63〜66ページ)。

この評決での、使用されたとされる殺人ガス輸送車とガス殺工程の描写は、以下のように極めて短い(75ページ):

「この殺人ガス輸送車は封鎖可能な貨物区画を有する貨物自動車で、引っ越し用貨物自動車に似ており、その後部の両扉は内側からは開けられなかった。排気ガスは移送の間にその内側へと流し込まれ、それによって人間は殺された。」

同じページで、極めて驚くべき証言も見つけられる:

「部隊隊員の不満の結果として、[部隊隊員の]人々にこのような任務を遂行するよう説得することは不可能だという理由で被告人シュー某は後に再び殺人ガス輸送車の使用を断った。」

そのような主張は、こうした殺人への参加を拒否すると罰が下ると脅されるという被告人による主張を蝕むだけでなく、銃殺を頼まれたドイツ兵の精神的圧力を緩和する為にこのような貨物車が導入されたのだという正史派の歴史家の主張さえも蝕んでいる。

3.7.5.3.ミュンヘン地方裁判所 LG Munchen I, Verdict of 14 July 1972

この裁判は被告人3人(クルト・トリ[?]、フリードリヒ・セヴ[?]、ハインリッヒ・ゲー[?])に対して開かれ、彼らはウクライナ南部でアインザッツグルッペDのアインザッツコマンドー10aの隊員である間に表向き行ったとされる大量殺人を罪科に含め、またそれを扇動したとして、それぞれ4年の禁固刑を受けた。今している研究は、ハインリヒ・ゲー某医師の判決のみと関連がある、彼はエイスク(Eysk)(評決内ではJeissk)の小児病院にいた214人の病気の子供たちを殺人ガス貨物車という手段によって1942年10月に窒息死させるよう命令したと告訴されたためだ。

この評決の殺人ガス輸送車の描写はまたかなり短く、それは以下の通りだ(408ページ):

「『殺人ガス輸送車』あるいは――ロシア人が呼ぶように――『殺魂車』は貨物区画を備えた大型の貨物自動車だった。塗装による偽の窓を外装に有しており、大きな両開きの扉が背面にあり、それによって貨物区画が閉じられるようになっていた。この貨物区画は内側から金属板で裏打ちされており、床は木製の格子で覆われていた。可撓管によって排煙が下方から内側に入れられるようになっていた。」

120 ヘウムノ収容所近郊で生活していて殺人ガス輸送車についての「噂」を聞いたことがあったポーランドの農民アンジェイ・ミジュタック(ベドナーシュ著、1946年発表c、47ページ)は、これらの自動車を「地獄自動車」と呼んでいた(同書、23ページ、47ページ以降、52ページ)。

この評決は、これは多数の「基本的に」(それの意味はどうあれ)一致している証人の証言の要約だと主張している(419ページ)にもかかわらず、この自動車のロシアの仇名とされるもの――「殺魂車」――は、クラスノダールでのソ連の見世物裁判によって最初に主張された偽の窓(The People’s Verdict、1944年刊、16ページから)と同じく、証人の証言の中にも法廷の評決の中にも、ここ以外では明らかに存在していない。120このことはこの裁判の主題全体がどこから来ていたかの手がかりを与えてくれる:これは基本的にクラスノダールの見世物裁判の繰り返しであり、新しい被告人と別の小児科病院を備えてはいる(The People’s Verdict1944年刊、27〜31、35ページ引照)が、それ以外は全て古い主張と手法を伴っており、それにはソ連の「証人」による証言の無批判の受容が――素朴に評決が述べている通りだ:「[ソ連の]証人による誘導に注目に値するようなものはない」――含まれ、加えて1943年後半にソ連人が発行した、「一酸化炭素によって殺されたとされる214人の発掘された子供たちに関する法医学的な研究報告」もある(412、419ページ;The People’s Verdict1944年刊、31ページ以降引照;今行っているこの研究の3.2.章参照)。

被告人も証人も、殺されなければならなかったその214人には何故関連性がなかったのかを知らなかった。法廷は知っていた:彼らは負傷したドイツ兵の為に空きを作らなければならなかったのだと(421ページ)。

ところである被告人はそうした子供の殺害について何らかの知識を有していることを否定し、勿論関与も否定している。彼はまた、2回だけ遠くから殺人ガス輸送車を目撃したとも主張した(422ページ)。しかし「遠くから」それが「件の」殺人ガス輸送車であるとどうやって知ることができたのかは謎である。当然判事たちは彼を信じなかった。

3.7.5.4.ミュンヘン地方裁判所I、1974年3月29日の評決 LG München I, Verdict of 29 Mar. 1974

この裁判の終わりに、被告3人――ヨハネス・P・シュ[?]、ハインリヒ・A・ウィン[?]、ルディ・F・エスク[?]――は、主張されるウクライナ南部でアインザッツグルッペDによって犯されたとされるユダヤ教徒の大量殺人に様々な貢献をした咎で4年半、3年、5年の刑期の有罪判決を受けた。被告人のシュ某とエスク某だけ――自白したのだ――が、ウクライナ人の町チェルケスクでアインザッツグルッペ11による「殺人ガス貨物車」の操作に関与していたとして告訴された。

評決での「殺人ガス貨物車」の簡潔な記述は、約20ヶ月前に同じ法廷によって下された評決内に含まれていたもの(ミュンヘン地方裁判所I、1972年7月14日;前章参照)に似ており、「自動車の仇名とされるものと塗装された偽の窓が含まれている(601ページ):

「ロシア人からは『殺魂車』と呼ばれるこの自動車は、貨物区画を備えた大型の貨物自動車だった。外壁に塗装された偽の窓を有し、貨物区画は背部に観音扉を持ち閉鎖できるようになっていた。可撓管によって排煙を下から中へと入れられるようになっていた。」

つまり判事はそこから写し取ったと想定できる。ガス殺自体はその自動車が停車している間に起こったと言われており、停車中に排気ガスが「最低5分」(同書)間内部に流し込まれ、これは短い処刑時間に属する。

我々の研究にとってこの評決から得られるものは他にない。

3.7.5.5.キール地方裁判所1974年6月14日の評決 LG Kiel, Verdict of 14 June 1974

この異常な判決には戦時中にドイツ秘密野戦警察(Geheime Feldpolizei)の570部隊の隊長だったハインツ・G・リー[?]が関係している。彼は1944年6月に、赤軍が再占領する直前の町マヒリョウでソ連のパルチザンを間に合わせの「殺人ガス貨物車」という手段で殺したとして起訴された。パルチザンの処刑には国際法が適用されていたため、被告人は無罪判決を受けた。

「殺人ガス貨物車」は以下のように描写されている(662ページ):

保安局(Sicherheitsdienst)はユダヤ教徒絶滅の為にかなりの程度かつ長期間に亘って殺人ガス貨物車を運用していたと、被告人は知っていた。ある会話から[……]死刑を宣告されたパルチザンの処刑に殺人ガス貨物車を配備し、用いるという考えが彼に生じた。1944年6月末にマヒリョウから彼の部隊が撤退する少なくとも2か月前に、この被告人はガソリン機関を備えたフォード社製のロシア産貨物自動車を用意し、殺人ガス貨物車に換装した。[……]貨物区画を覆う防水布はロスラヴリ内で壊れ、代替品が得られなかったため、被告人はロスラヴリにまだいる間にそれ[その自動車]に板で頑丈な仕切りを備えさせた。マヒリョウ内でこの自動車は最早金属板で密閉され、貨物区画の内装へと排気ガスを流し込めるようにする装置を備えることとなった。運転区画内にある操作棒を操作した後、排気ガスが管を抜けて貨物区画内へと吹き入れられた。」

移送の間のガス殺工程は15〜20分持続したと言う(663ページ)。

ソヴィエト連邦は実のところ、米国のフォード社からの認可のもとガソリン機関を備えたフォード社の貨物自動車を戦前も戦中も製造していた。しかし、1944年の夏には東部戦線での物資は極めて枯渇しており、ドイツの前線はそのほんの1〜2週間後にソ連部隊によって蹂躙されたことを考えるに、ドイツ人がこのような計画に要求される金属板を突き止められたとは疑わしい。とは言え描写されるガス殺機構に関して、『運転区画内から操作できる複雑な制御棒の機構は、ごく少数(法廷はこの方法で間違いなくたった4人[!]のパルチザンの処刑をしたのだと想定していた)のパルチザンを処刑するように設計されていたこのような間に合わせの殺人ガス貨物車の為に設計され製造されたものだ』という可能性は間違いなく排除できるだろうと考える。

この話の出典は不明だ。評決は単に、被告人の話はこの描写と矛盾するものではないと述べているだけであり、つまり恐らく被告人はこれについて全く話さなかったことを意味している。この評決内で言及されている他の証人6人は単にその間に合わせの殺人ガス貨物車について他人から「聞いた」と主張していた。そのためこの話全体は確立した事実というよりも噂のように聞こえる。

殺人ガス貨物車での殺人を扱う他の法廷の評決から外れている点として、一酸化炭素による処刑は残酷ではないという結論にこの法廷は達していることが挙げられる(644ページ以降)。CO毒殺の最中に生じるこの殺し方について証言する専門家の証人は、シアン化水素を用いた米国の殺人ガス室内での毒ガス処刑にさえ言及し、その証人はそれを同じく比較的人道的と見做していた(665ページ)。

3.7.5.6.ミュンヘン地方裁判所I、1974年11月15日の評決 LG Munchen I, Verdict of 15 Nov. 1974

この裁判の被告人2人について、ウォルター・ケー[?]の判決のみが「殺人ガス輸送車」とされるものの運用と結びついている。ウクライナ南部で行動していたアインザッツグルッペD内のアインザッツコマンドー12aの通訳であった彼は、クリミア半島のシンフェロポリ内に詰めている間にユダヤ教徒のガス殺に関与していたという。

この判決全体の馬鹿げた性質は、ドイツ陸軍元帥エーリヒ・フォン・マンシュタインに対する1949年の英国の裁判を考えればはっきりする。戦時中マンシュタインはクリミア半島他で作戦中だったドイツの第11軍の参謀将校であり、「アインザッツグルッペDによる地元のユダヤ教徒の人々の大量殺害と主張されるものを支援した」として英国によって起訴された。しかしマンシュタインの弁護団がどうにか地元のユダヤ教徒の共同体が破壊に脅かされたことはないと証明したため、英国側は敗訴した(パジェット著、1951年発表、170ページから)。

精査されるここのウォルターへの評決は、いずれの評決の中でも遭遇するこうした「殺人ガス輸送車」とされるものの中でも最も描写が乏しい。読める内容は以下が全てだ(287ページ):

「そうした作戦の間、被害者たちは殺人ガス輸送車――完全気密性を有す貨物車を備えた貨物自動車――に入れられ、内燃機関の排煙によって殺された。[……]入れた後に、後部の観音扉は閉じられる。貨物車は内燃機関を稼働させながら5〜10分間停車し、その間に排煙は特殊装置によって貨物区画の内部へと向けられた。[……]犠牲者たちは最終的に酸欠によって脳が麻痺することによって1〜2分後に死んだ。[……]

中から何も聞こえなくなると、貨物車はシンフェローポリ周辺に掘られた塹壕へと向かった。」

この発見には、一般的だが技術的に不可能な完全密閉の貨物区画という様式が続く。ガス殺とされるものはここでは貨物車が停車中に起きたと主張されている。「特殊装置」という手段による排気ガスの導入は不自然な程に不明瞭だ。報告された殺人時間は短い方だ。

被告人の態度に関して評決は詳述している(294ページ):

[……]被告人はあらゆる殺人ガス輸送車の任務に参加したことを強く否定した。彼は、自分は生まれてこの方殺人ガス輸送車を見た事もなく、そのような自動車が存在することも当時聞いた事さえなかったと述べた;[……]。」

それと反対の証拠は、ほぼ排他的にロシア市民による証言と自白調書を起源としており、そうした人々はクラスノダールの見世物裁判の間に現れた証人たちと同じ種類の証人だった。そうした証言のソ連的な結集へのこの被告人の猜疑は、法廷によって無視された(295ページから)。1943年のクラスノダール裁判と、被告に浴びせられる主張の起源としてのクラスノダールの見世物裁判の性質は、評決内で言及されていない。この被告人は4年間の禁固刑を宣告された。121

121 別の被告「マックス・ドレ某」は5年間の禁固刑を宣告された。

3.7.6.1975年から現在まで(1裁判) From 1975 to now (1 trial)

3.7.6.1.ミュンヘン地方裁判所I、1980年12月19日の評決 LG München I, Verdict of 19 Dec. 1980

この裁判はアインザッツグルッペD内のアインザッツコマンドー10aの隊長である被告人クルト・クリスマン博士に対して開かれた。彼はクラスノダールに詰めている間ソ連のパルチザンを大量ガス殺したとして告訴された、被害者の中には子供もいたという。クリスマンは1943年のソ連のクラスノダール見世物裁判の間(不在の)首魁でもあった(People’s Verdict、1944年刊、14ページ、17ページ以降、21ページ)。これもあり、この舞台はクラスノダールの見世物裁判の再演として設えられたが、かの見世物裁判の間、証言した無数のソ連の証人たちは法廷に登場する前にソ連の秘密警察KGBによって「保護」された。ケーラー(2003年発表、114ページ)はそうしたKGBの保護の巧みな特質に焦点を当てている、この「保護」はフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判で広範に悪名を広めた。

被告人は自分の裁判は別の共産主義者の仕込みだと主張した(270ページ)が、『ドイツの証人と同様ソ連の様々な証言も何十年もの期間お互いから「独立して」行われたことがソ連当局が組織的に行ったとは有り得ることではない』と論じることで、法廷はその主張を退けようとした(271〜274ページ)。そうした証言の詳細に関してそれが事実だとして――ほぼ40年が経過した後にこれ程までの合致があるなんて考えられないだろうが――さえ、そうした証言の多くの目につく要素は実のところ概して詳細を欠いている。大半の部分で証人たちは単に戦中戦後の宣伝戦の主張を繰り返しており、そうした証人たちは被告人が抜け出そうとしているものに自分自身を縫い留めている。

この評決は「殺人ガス輸送車」を以下のように描写している(251ページ):

「外側の識別票として、アインザッツグルッペ『10a』の指定に従って貨物自動車にはカードゲームのハートの印が塗られていた。ガソリン機関を搭載し、最低2×4mの可載面積のある閉鎖可能な貨物区画を有する6トンの貨物自動車だった。貨物区画は金属板で内側から裏打ちされており、座席はなく、仕切りの壁もなく、後部の観音扉によって外気から完全密閉できた。地元民に対する、そして貨物自動車内に入らなければならなかった犠牲者に対する迷彩として、偽の窓と閉じられた暗幕が貨物区画の左右の外面に塗られていたが、扉が閉じられると内側は漆黒の闇となった。操作棹という手段によって運転手は可撓管を通して機関の排気ガスを自動車の内部へと流し込め、閉じ込められた犠牲者を殺せた。

[……]それぞれの事件での被害者の数は最低でも30人だった。

[……]その後運転手は観音扉を閉じ、運転手区画で座り、内燃機関を起動させ、停車させながら空吹かしさせ続け、排気ガスを貨物車の内側へと向けさせた。[……]

殺人ガス輸送車は部隊の建物の中庭にあり、内側から音が聞こえなくなるまで内燃機関は稼働した。それからやっと貨物車は中庭を離れた。」

私はカードゲームの赤いハートが実のところアインザッツコマンドー10aの識別印なのかどうかを判断できなかった。たった100人程のかなり小さな部隊(250ページ)だったため、彼らは開始の際に従事の印を付けていたのではないかと疑っている。ここでも、塗装された窓という1943年のソ連の見世物裁判の主題が残っていて、今回は緞帳で装飾されており、運転手区画内の操作桿でガスを稼働させるというのはただ非現実的である。こうした技術的な情報はソー某という証人によって与えられたものだと言われており、様々なソ連の証人(279ページ)によって確証されたとされていて、つまりここで我々は無意味へと収束する証拠を持っていることになる。

この被告人は単に「自分は殺人ガス輸送車の運用に関わりを持たず、管理もしていなかったため、それに関する知識を持たない」と法廷を納得させようとしただけだったため、彼に濡れ衣を着せるソ連の作戦行動の成功によって、彼はこの非難の一部を共有しなければならなくなった。彼は同僚の1人であるハインリヒ・ゴ某博士からのみガス殺の機構について聞いているとさえ主張した(261ページ以降)。この部隊の隊長にとって、このような防衛戦略は始まりから失敗していたことは言うまでもない。判事は彼の知識不足に関する彼の証言からさえ絞首紐を結っている:彼は殺人ガス輸送車について気にしなかったのだから、彼は大量殺人者に無頓着であり、そのため恥を知らない大量殺人者であると(276ページ)。

ところでゴ某博士はこの被告人と話したことはこれまでないと主張し、彼にとっての以前の裁判の間、彼は自分はそうした輸送車についての知識はないと述べていた(3.7.5.3.章参照)。

この裁判の間、ドイツの証人による証言で一般的な要素は、『彼らはまたもや殺人ガス輸送車についての「知識」をもし持っていたとして又聞きのみによって持っていたというものであるか、作戦中でないとしたらいつかの時点でどこかでそうした輸送車が停車しているのを偶然にも見た』というものだった(277〜280ページ)。ここでも、『そうした証人はどうやって当時あたりで停車していたのを見たその輸送車あるいは貨物自動車は実際には毒ガスで大量殺人をする為の自動車という点で「殺人ガス輸送車」であると知れたのか』という疑問が湧き上がる。そのドイツの証人たちはいづれにせよ的外れな証人であったため、概して「真実を語る人物ではないのでは」と疑われており、法廷はその発見に関心を持っていたようには見えない。あるいは、検事がその被告人に、被告人なのだから神妙にすべきだと指摘した時にその被告人が簡潔に表現した通りだ(276ページ):

「ですが、敗戦したという理由しかないではないですか!」

法廷はこの証言を、敗戦したことに後悔しているというだけでなく無辜の人々を殺しもしたという証拠として被告に対し使用した。しかし、ドイツの完全敗北と、以来続く連合諸国が発するあらゆる種類の残虐行為宣伝戦の物語による完全支配によって、第二次世界大戦の間の物議を醸した出来事に関与していたドイツ人の被告にとって偽りの主張に対する有効的な弁護はほぼ不可能になっていたため、被告人によるこの証言は別の一面を明らかにした。ドイツ人が第二次世界大戦中の悪の親玉であることは世界規模で自明となっている。一般国民の、検察当局の、そして通常は判事の目からすると邪悪の化身であるドイツ人の被告それぞれは、疑う余地のない克服不可能な教義に直面していた。

被告人クリスマンは最終的に10年の禁固刑を宣告された。

3.8.共産政権東ドイツ裁判での殺人ガス輸送車 Gas Vans during Communist East German Trials

3.8.1.一般的意見 General Remarks

ここで研究するうち最後の評決(下記の一覧参照)を除いて、それぞれは単なる被告人1人に「1945年8月8日のニュルンベルクの国際軍事裁判で制定された憲章6条(b)、(c)に基づく戦争犯罪及び人道に対する罪」に基づいて宣告された。適用されたまさにその法によって、これらの裁判全てはニュルンベルク諸裁判の法的な延長線上にあった。このことは、共産政権東ドイツの裁判当時、国際軍事裁判(IMT)の、そしてニュルンベルク諸裁判(NMTs)それぞれの評決と同じくIMTとNMTsの諸裁判の間に提示された証拠も証拠として引用された(例えば判決1024、640ページ以降;判決1044、283ページ参照)という事実からさえ示されている。

そのため、犯罪が行われたと言われる当時に既に存在していた刑法が適用された西ドイツの諸裁判とは正反対に、東ドイツの共産主義者の司法は、戦後にのみ制定された、法による支配を受けている諸国の根源的な法基準を甚だしく侵害する諸法を適用していた。

これに加えて、評決そのものは共産主義の政治主張と歴史的修辞で満ちており、当時読んでいられないものにしていた。ここで少しばかり引用をしておく(強調を付与した):

「1941年6月22日、ドイツの結束主義者は1939年に始めた侵略戦争を継続し、最初の社会主義国家であるソヴィエト連邦を破壊する狙いを持ちながらソ連(USSR)に対して邪で、狡猾で、不実な攻勢を仕掛けた。」(判決1018、487ページ)

「結束主義の絶対権もあってドイツの帝国主義者たちは即座に長年温めていた世界支配の計画を実行に移す方法を始めた。」(Case 1024, p. 637)

「1933年にドイツで結束主義者の圧政が始まると、人類史で最も暗い時代が訪れた。ドイツの独占している資本主義者たちの権力組織としてのヒトラー国は[……](判決1082、387ページ)

「結束主義の部隊によるオーストリア強襲後……」(判決1163、471ページ)

「戦争犯罪及び人道に対する罪を犯したため、[……]この労働者及び農民の国の決意が、ドイツの土から戦争が再び始まることがないよう文書化された。

これによってドイツ民主共和国(東ドイツ)ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の、攻撃性の変わっていない支配している規律とは決定的に決別している。西ドイツ人は世界に、ドイツ民主共和国と結束者ドイツの間に連続性はないと信じさせたがっているが[……]内政も外政も西ドイツ民の反動的特徴を証明している。西ドイツにいるそうした新結束主義者たち及び救い難い軍国主義者たちは歴史から何も学んでいない。彼らはソヴィエト連邦への襲撃から30年間『1941年6月22のドイツ進撃は伝統的な予防戦争だった』と広めている。

西ドイツでは指導部の承認もあり、犯罪者親衛隊(SS)部隊はその指揮官と共に肩で風を切っている、例えば彼らは『文化を奨励しており』、ドイツ連邦軍の兵士のお手本として推奨されている。」(判決1033、281ページ以降)

表5:殺人ガス輸送車を扱った東ドイツ法廷の判決
巻* #(法廷、評決年月日)**
I 1018(ベルリン地方裁判所、1978年8月14日)、1024(カール=マルクス=シュタット地方裁判所、1976年6月11日)
II 1044(カール=マルクス=シュタット地方裁判所、1971年12月2日)
III 1082(ノイブランデンブルク地方裁判所、1961年2月22日)
IV 1163(グライフスヴァルト地方裁判所、1952年7月3日)
*ロイターによる巻、2002年以降;**ロイターによる判決番号

一部しかここで引用していないが評決でのこの長い前置きは、「被告人席に座っていたのは例に挙げている被告人でなく西ドイツであり、こうした共産主義裁判は、常に道徳を浸食して西ドイツの合法性を否認するという重要な政治的役割を果たしていた」ことを示している、と読者に考えさせる。全体として、東ドイツの評決はそうした共産主義的な修辞で充ち満ちていたため、その論調・傾向も1943年のクラスノダール及びスターリン主義の見世物裁判のものと極めて類似していた。この印象は、この法廷が時折、これらの裁判用に作られた文書証拠(例えば判決1018、501ページ参照)を使用すると共に当時のソ連の証人の証言をたっぷり活用していたことからも補強される。

この評決はまた、歴史と道徳に関し教義的な断言もしており、その断言は十分に確立された法の根幹の無視の正当化に、第二次世界大戦中に有効だった国際法の無視の正当化に、そしてまたパルチザン闘争の違法な在り方及びパルチザンによる処刑の合法性の正当化に使用された。基本的にソヴィエト連合の従僕であった東ドイツの法廷にとって、ロシアとポーランドのパルチザン闘士は愛国者である一方、ドイツの戦うパルチザンはテロリストにして殺人鬼だった(例えば判決1018、517ページ参照)。そのためこれらの判決の被告全員は、彼らがパルチザン戦に参加したかどうかにかかわらず、彼らが殺した市民それぞれかつ全員分の判決を受けている。 As a consequence, all defendants either received a life term (cases 1018, 1044, 1163) or were even sentenced to death (cases 1024 & 1082).

When it comes to the actual or alleged crimes committed, the verdicts often read like a dizzying staccato of frequently rather brief indictments. In all five cases studied here, all five defendants gave full confessions, as it is traditional custom in communist show trials (1018: p. 502; 1024: p. 649; 1044: p. 294; 1082: p. 394; case 1163: p. 474).

Note also that the first three cases follow in the footsteps of West German cases dealing with the same alleged crimes but trying other defendants. Hence many of these East German trials look to me like communist copy-cat trials of cases previously “established” as fact by West German courts.

Having said all this, I will now briefly summarize and analyze passages of these verdicts strictly pertinent to our topic. (In contrast to the West German trials, the East German trial cases were numbered antichronistically by Rüter et al., so here we start with the latest and proceed to the earliest.)

254ページ

4.2.2.車種 Vehicle Models

通常、証人も評決も件の輸送車の生産国や型について声明を出していない。大抵の場合、そうした主張は恐らく2.2.章で論じられる現存する文書に基づいている。殺人ガス輸送車に使用されたものの生産国や型の議論の際に、ベーアはこの文書内で我々が触れられるものを除いて、情報は乏しく一貫性がないのは事実であると認めている。彼は、「車台を組み立てる際に初めから存在していた困難さ」(1987年発表、414ページ)によってその自動車の寄せ集めは殺人ガス輸送車の運用期間初期にのみ存在していたと主張した。しかし適切に組み立てられるようになり、それは1941年終わりで、「注文全体はザウラー社の自動車に関するものとなった」(同上)そうだ。彼はベッカー書簡の中にそれを支える文書を見つけており、それは第2文で「第一群」の自動車とザウラー社の貨物自動車で構成される「第二群」を区別しているから、とのことだ。

既に2.2.6.章(87ページ)で、排気ガスでの大量殺人自動車での殺害の為の体系だった試みには至る処にあるオペル・ブリッツのようなガソリン機関を装着した自動車の仕様が要求されると指摘している。しかしベーアは、そうした自動車は出鱈目に立てられた計画の開始時のみに使用され、計画のより体系立てられた後の時期の間にそれらの車はディーゼル機関を備えた自動車に取り替えられたという主張を維持している。いづれにせよ、この観察は彼の理論全体を蝕んでいる(1.3.1.章参照)。

4.2.5.ガス手続きの期間


付録4:一件書類R 58/871 fo1、BAK

295ページ

表の参照ページ数の原文の誤りを修正

この書類にはあわせて22枚の用紙が含まれている。最初の重要な21枚は時系列順でここに複製している;22枚目は署名、頭文字と、読めない手書きのドイツ語で何行か書かれているものが含まれているだけであり、この研究とは関係がない。

1942年6月5日の文書――「殺人ガス輸送車」の存在理論の支柱2本の片方であり、もう1本はベッカー文書――の決定的な役割を考えるに、[明確にこの文書の基盤を形成しており、第二次世界大戦中にドイツ人によって使用されたこれらの未知なる特別自動車に関する技術的な情報を提供してくれるこの書類の他の3部を複製する事]も妥当だろう。

文書 ページ
[194]2年3月26日の手紙…… ……296
翻訳&意見…… ……297
1942年4月27日の覚書…… ……299
翻訳&意見…… ……306
1942年4月30日の手紙…… ……312
翻訳&意見…… ……314
1942年5月14日の手紙…… ……316
翻訳…… ……317
1942年6月5日の覚書(ジュスト文書)…… ……316
1942年6月23日の覚書と手紙…… ……323
翻訳&意見…… ……326
2つの文書の並置…… ……328
1942年9月18日の手紙…… ……330
翻訳…… ……331
1942年9月24日の手紙…… ……331
翻訳…… ……333

1942年6月5日の通達(と恐らくは1942年6月23日の1つ)という例外を除いて、この書類の中身には、そして特にガウプシャト社との往復書簡には、これは人々の殺害に関するものであるという疑いを生じさせる明白な証拠が含まれていない。

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[194]2年3月26日の手紙

297ページ

翻訳&意見

2年3月26日。

II D Rf/HB

B. Nr. 167/42g


1.)手紙:

在帝国調査警察署

犯罪技術研究室


ベ ル リ ン 。


マウトハウゼン強制収容所の駐屯内科医の資料を添付して返却します。

我々が製造した特別自動車は保安警察の長官とSDの命令に従って現在全て使用されています。しかし更なる自動車が原動機付自動車の全権委任者[GBK]によって車台の可用性に基づいて命令されています。しかし割当がGBKによってなされる時期はまだ分かっておらず、個々の自動車には割当の後に追加で約8〜14日の議論の為の追加の時間が必要になるに違いありません。その時点以降なら、私は特定の期間マウトハウゼン強制収容所のそうした特別自動車を思うままに配置する準備ができるでしょう。その自動車が運用されるようになったらすぐにあなたに伝えましょう。

マウトハウゼン強制収容所は割当の未確定の時間を待てないだろうと考えているので、この施設の為に酸化炭素あるいは他のこの装置用の作用剤の入った鉄製の瓶の獲得を手ほどきします。

2.)II D 3 A――プラーデル少佐――新しい特別自動車の完成に関する情報と再提出は彼に。

代理人


(ラウフの署名)


意見:堅苦しく見るに、この手紙についてほぼ全てが間違っている:

a)送り側の権力の名前(RSHA)が書かれていない。

b)送り側の部局の名前が不完全である:「II D 3」の代わりに、「II D」のみになっている。

c)書かれている筆者の頭文字(Rf)とその秘書官の頭文字(Hb)はこの書類内の他のRSHAの手紙のどこにもない。

d)この手紙の通し番号「167/42g」は手書きであり、タイプ打ちではない。

e)場所(ベルリン)が書かれていない

f)年が「1942」ではなく「2」のみ打たれている

g)「2.)」から始まる文はタイプ機からこの紙が外された後にタイプ打ちされていて(「I.A.」の行に割り込んでいて)、その結果僅かに回転している。

h)この書類R 58/871 f°1の他の文書の内にこの文書は属していないため、何者かがこれをわざと差し込んだに違いない。

i)フリードリヒ・プラーデルは少佐ではなく、SSハプトストルムフューラー(大尉相当)である。

298ページ


読者に妥当性があるかを判断してもらえるようこれを残す。


この要求はマウトハウゼンの駐屯内科医から来たのだという。ディーゼル機関と低い貨物区画の付属したザウラー特別自動車は移動式殺人ガス室には使えなかった事を考えるに、元々の要求が何のためだったのかを知るのは興味深い――それが存在していたらの話だが。

これらの殺人しない特別自動車の「[一]酸化炭素あるいは他のこの作用剤の入った鉄製の瓶」は、実際には存在しえない2つの品の間の結び付きを強要しているという強固な指標である。

マウトハウゼン収容所の権力者は本当に緊急に一酸化炭素での殺人を欲していたという議論を想定すると、自動車駐車場にある木炭ガス発生車はそれで成果を上げるだろう。何故何らかの珍しい秘密の装置がベルリンにある研究室に要求されるのだ? 彼らはそもそもこの秘密の装置をどうやって知れたのだ? そして何故ラウフは、自分の国家機密が誰かに言いふらされている事に不満を言わないのだ?

私は、「この文書はハンス・マルサレクがした――明らかに偽りの――殺人ガス輸送車の主張(3.5.7.章参照)用に、何らかの文書『証拠』を得ようとニュルンベルク裁判の為に作成されたのだ」と主張する。

1942年4月27日の覚書

memo-of-27-april-1942a.png memo-of-27-april-1942b.png
memo-of-27-april-1942c.png memo-of-27-april-1942d.png
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memo-of-27-april-1942g.png

306ページ

翻訳&意見

帝国安全保安局

ベルリン、1942年4月27日。

II D 3 a(9)Bo. 668/42-121.

1.)記[名]:B下。番号1737/41、意見記入。

2.)注:

返信:特別自動車への荷下ろし装置の迅速な設置。

特別自動車の車体は長さ5800mmで、高さは1700mm。車体の正味重量はそれぞれ1600kgだが、積み込み可能重量は4500kg。

荷下ろしは素早く、可能な限り機械的にするものである。これを達成する為に、車体あるいは2階部分は傾斜可能にする。荷下ろしは取り出し可能な格子という手段によっても達成できるだろう。

下記の荷下ろしの選択肢はその機能から査証されるべきものだ。

a)車体の傾斜機構

車体を荷下ろしするには30〜35°の傾斜が必要となる。容量5〜7トンの油圧傾斜装置が総重量(1600+4500kg)を持ち上げるのに必要である。その傾斜装置は高さ650mmで、900mmだけ高く持ち上げられる。

以下の理由から傾斜装置の敷設は不適切と考えるべきである:

車体の床面は補強する必要があるし、傾斜枠を装備する必要もある(積み込み重量の損失だ)。

製造物の高さを省くには、車台の桁に傾斜装置を2機設置する方がより得策だろう。そのような傾斜機構は現在利用不可能だ。上記で言及した油圧式で柱状の傾斜装置1機は補強された横木のとても高くに設置しなければならないため、振動するカルダン軸に接触することはない。この設置と傾斜装置の枠の追加によって、車体は最低200mm持ち上げられるだろう。しかし、内装の空間の減少[高さ]を減らさない限り、車台の持ち上げは線路の積荷外形を超過してしまうであろうため、容認できない。だが内装は床の補強によって既に上部空間を150mm失っている。

ひと柱の傾斜機構の輸送時間は半年から1年ほどだ。

ガウプシャト社は現在、これまでに決定していた設計からかなり逸する事になるこの設計の実施のための労働力を有していない。

傾斜装置の設置は更に6週間かの自動車の完成を遅らせる。

自動車それぞれは約400kg積み込み可能重量を失う。

自動車それぞれの追加費用は1000〜1200RMライヒスマルクだ。

b)床の格子を傾斜可能にする

格子(2階の床)は4と1/2トンの荷重用に極めて頑丈に製造しなければならない。そのため車体は内側の高さを150mm失う。途切れない格子を製造する時には、外輪も覆わなければならない。これによって上部空間は更に失われる。

307ページ

更に、床を貫通して導入される傾斜装置は設置個所の密閉を困難にするだろう。傾斜装置の柱は均等に持ち上げない事にも注意しなければならない。傾斜装置の柱は、2階部分も傾斜できるようにしなければならない。

それ以上に、積荷を滑らせることは問題だ。床を滑らせるには傾斜が30〜35°ないといけない。絵は、区画の天井まで床を持ち上げたとしてさえ、16°しか角度をつけられない事を描いている。実際には積んでいる表面の上端で積荷が押し潰されてしまうだろうから、この傾斜角度にも至れない。持ち上げられる最大の高さは、上側の壁で測って、恐らく1000mmになる。この高さだと床の傾きは10°にしかならない。

それ以上に積み込み可能質量と(生産の)時間の損失を考えなければならない。

設計a)と同様、追加費用はおよそ1000〜1200RMライヒスマルクだ。

上記の設計は得策ではない。

c)取り外しと引き込みが可能な格子(提言)。

車体は小さな車輪で摘出できる軽量な床の格子を得る。格子は10〜12の横断する区画に小分けする。これによって制御しやすくなる。それに加えて自動車出口でそれぞれの小分け区画を傾けられる。車輪は鉄製のU字型の軌条に沿って進む。それ以上に格子は側面の鉄製のU字の誘導軌条を得なければならない。格子の小分けは対角線に貼った支柱という手段によってひっくり返りを防ぐ。

308ページ

この辺りは大変分かりにくいですが、後にこの論文の著者が「支離滅裂」と書いていることもあり仕方がないです。訳者である私も何を言っているのか分かないので、原文の独逸語や、英訳版を見ると良いです。「何を言っているか分かり、そして訳を改良する提案がある」という方は一報ください。

摘出できる床面を可能な限り大きくするには、格子は外輪を覆うのに十分な高さを確保して設置しなければならない。それによって内部の高さのうちたった75mmほどが失われる(設計a)とb)とは対照的に)。それとは反対に格子を扉と同じ広さに作って良いというのは利点だ。格子(約250mm)に覆われていない狭い側面の縁は格子の高さまで詰め物をし、自動車の中央へと坂を作る。壁と繋がったこの木製の構造物を滑らかな金属板で覆う。背面の壁の突き出た部分はその扉の枠から側面の壁までの金属板で傾斜をつける。この傾斜は積荷による阻害を防ぐことになるだろう。格子の摘出の際には索条巻き上げ機(Spill)を自動車終端の背面の下に設置する。その索条は切断によって運転手の区画の背面の壁にある格子の小分け区画へと取り付ける。索条のもう片方の終端は輪にし、扉付近の内側に取り外し可能なやり方で取り付ける。扉を開けた後、その輪を使って索条を巻き上げ筒へと取り付ける。索条と巻き上げ機の間の独立は、必要な索条の貫通接続によって車体から漏出してしまう事を防ぐために不可欠である。

巻き上げ機を(手動で)巻き上げる際、把持力の強い格子も、側面の縁を覆っている金属板に載っている積荷と共に引かれる。何よりも側面の縁は格子へと坂になっている。積荷が最後の格子[小分け区画]を超えて運転手区画の背面の壁へと落ちないよう、高さ300から400mmの傾いた格子桁を1本備え付ける。

車輪の誘導軌条と側面の誘導軌条も同様に設置し、外輪から自動車の終端への下り坂になるようにする。側面のU字型の鉄製の軌条は、格子の小分け区画の横幅の半分の間その軌条の終端の上部で開いておくようにする。そうする事で自動車の終端を超えて格子の小分け区画が滑り落ちれるようになる。

格子が積荷と共に落ちたり積荷の下で止まったりしないよう、格子の小分け区画は(扉の)蝶番のようなやり方でお互いと接続する。格子全体はつまり無限軌道の一部となる。にもかかわらず、小分け区画は容易に切り離せる。

摘出された格子の小分け区画それぞれは自動車の下で曲げられ、以降の小分け区画が追従できるようにする。積荷が既に摘出された小分け区画の上に載っていた場合、自動車を移動させることで取り除かれる。

最後の小分け区画には側面に旋回軸を備えさせる。この旋回軸は、この小分け区画が自動車から出るとすぐに枝分かれする軌道へと滑る。これによってこの小分け区画が落ちて出ないようにする。索条がこの小分け区画についており、この格子が引き抜かれる時に他の区画を同時に引かなければならないため、落とすわけにはいかないのだ。この捕獲機構を省く場合、この格子を取り外して小分け区画それぞれを軌条に個々に再挿入しなければならなくなる。そうでなくば格子は索条巻き上げ機によって引き抜かれてしまうだろう。

309ページ

この場合索条巻き上げ機は2本の索条を得る。例えば摘出用の索条は時計回りに抜け、後に引かれる索条は巻き上げ筒を反時計に回る。摘出用索条の引き抜きは既に取り扱った。収納用索条は開けた扉を抜けて自動車の床面に沿って巻き上げ筒から、床面のすぐ上にある運転手の区画の背面に取り付けた巻き取り筒へと続く。その巻き取り筒から索条は引き抜き区画へと運ばれ、切断という方法で取り付けられる。扉を閉じる際にも不可欠であるこの索条の取り外しは、スナップ・フックという手段によってでも達成できる。索条夫々はどちらも、引く、あるいは引きずる索条だ。

3.)宛先

II D隊隊長

親衛隊中佐ラウフ―

この建物内

決定の要求を伴う提言


[画像の注釈:]格子[小分け区画]の連結


意見:この文は、技術者によって著されたという印象を与えない。用語は素朴であり、説明はかなり支離滅裂だ。ドイツの文通者は、この馬鹿げた項目を含み珍しい語句を使っている覚書を承認した。c)下に記載されている装置の描写は現実的だというが、不明瞭だ。巻き上げ機は自動車の下にあるため、自動車の背面終端にあるという、装着は不可欠だというガイド・ローラーへの言及は消えている。

私は1942年4月27日の覚書に含まれる情報と1942年4月30日の確認状に基づいてこの装置に関する絵を用意した(311ページの図画21参照)。この絵は、これらの文書に従って最終的に受け入れられた版を表している:引っ込められる床の格子の版を。貨物区画から漏出しないよう、この索条は巻き上げ機から取り外してはいけない、というのは、貨物区画の計画のこの状態でさえ、完全密閉にして車の下の巻き上げ機に索条を永久的に固定する事を達成不可能にするよう設計すると示している。しかしこれは、『1942年6月23日の手紙によれば〈蝶番付きの蓋を備えた、側面の壁に空いている開口部〉へと取り換えられる「引き戸」』で覆われた開口部を当時の貨物区画は既に有していたという事実によって否定される。そのため荷台区画が「漏出」しなかった事などない。

gas-van-illus21.png

図画21:1942年4月27日の覚書の提案c)に従ったRSHA特別自動車用の引っ込められる格子;P・マラス画。

1942年4月30日の手紙

letter-of-30-april-1942a.png letter-of-30-april-1942b.png
翻訳&意見

314ページ

(押印と便箋上部の文章外側の手書きの走り書き省略)

ベルリン、1942年4月30日

保安警察およびSDの長官

II D 3 a(9)番号668/42-121

1.)手紙:

宛先

ガ ウ プ シ ャ ト 社

ベルリン=ノイケルン区

ウィリー・ウォルター通り


件名:ザウラーの車体10台の輸送

参照:[19]42年4月23と24日のクリーガー氏との議論


既に議論している通り、上記で言及した自動車の床の格子の変更は履行される。

全く同じものを生産している間に、設計に関して以下を考慮するべきである:

車体は床の格子を獲得し、それは追加の小さな車輪あるいはコロの上の追加品として造られる。格子を取る時に個々の小分け区画を落とせるよう、それは10〜12の小分け区画に分割される。車輪あるいはコロはU字型の軌条の中で誘導される。それ以上にこの格子は側面のU字型の誘導を得る。格子の小分けは対角線に貼った支柱という手段によってひっくり返りを防ぐ。

移動可能な床面を可能な限り大きくするには、格子は外輪を覆うのに十分な高さを確保して設置しなければならない。それによって内部の高さのうち最大でたった75mmほどが失われるだろう。格子は扉の幅で製造する。格子(約250mm)で覆われていない側面の細い縁は格子の高さまで詰め物がされ、自動車の中央へ向けて下り坂にする。壁と繋がっているこの木製の構造物は滑らかな金属板で覆われている。壁付近の突き出た部分は金属板で壁の外枠から側壁まで斜面にする。格子を摘出し引っこ抜く為に、索条の巻き上げ機(Spill)を自動車の背面の端の下に配置する。この索条は、切断という方法によって運転手の区画の背面に位置している格子の区画へと取り付けられる。索条のもう片方の一端は輪を誇示し、[手書き:自動車の内装の]扉付近、側面に取り外し可能なやり方で取り付ける。扉を開けた後、その索条は輪を使って巻き筒に取り付けられる。索条と巻き上げ機の分離は必要不可欠である、分離しなければ、索条を通り抜けさせる必要性が出てきて車体の気密性を危うくしてしまうからだ。最初の格子[の小分け区画](運転手の区画の背面の壁にある)には傾斜をつけた、高さ300〜400mmの強固な格子桁を備え付ける。巻き上げる時に格子全体が落ちるのを防ぐため、この区画に留め金(旋回軸のようなもの)を設置する。個々の格子の小分け区画は蝶番のような方法でお互いと繋ぎ留める。にもかかわらず、小分け区画は容易な脱着を可能にする。

315ページ

車輪の誘導軌条と側面の誘導は、外輪から自動車の終端へと下りの斜面を描くやり方で設置する。格子の小分け区画が自動車の終端を超えて移動して滑り落ちれるよう、側面のU字型の鉄製の軌条は終点の上部を格子の小分け区画半分の為に開けたままにする

10個の齎されるザウラー社の車体用の摘出可能な格子を製造する命令は、この手紙に添えて既に出されている。

製造の図面を含む申し出は以降提出される。


2.)II D 6:

共署名者宛

3.)1.)の複製をTOSシュミットでの事例1737/41に。

4.)[19]42年6月10日再提出

II D6 II D

代理人

[ラウフの署名]


意見:1942年4月27日の内部覚書に従っているこの命令はほぼ同一であるが、以前の文書(311ページの記述参照)よりも幾らか装置の詳細な記述が減っている。ここでも、この筆者は、貨物区画は漏出してはいけないことから、巻き上げ機から索条を取り外せるようにしなければならないと強調している。

1942年5月14日の手紙

letter-of-14-may-1942.png

317ページ

翻訳

(住所の箇所と事前印刷された固定の文字は省く)

42年4月30日郵便局受領 受領郵便局Verk. Wa/Ka. 配送郵便局ワクスムート 42年5月18日郵便局配送

返信:貴殿の参照:II D 3a (9) 手紙番号668/42―121

我々のCom. 63 424 ― 433


上記の命令でまだ運ばれていない自動車10台の変更について教えてくれた、先月30日の貴殿の手紙確かに受領しました。

我々の所掌は完全にこの問題に関わっています。予想できる将来、我々はこれまで生産されていた格子の種類への要求される設計変更を実行できない事を報せねばなりません。我々には現在これの為に要求される製造任務に必要となる配置可能な人員がいません、我々の技術者の大半は国防軍に召集されているからです。

それ以上に、索条巻き上げ機の入手の問い合わせは、結果としてその輸送に10〜12か月ほどかかるため、残っている自動車は最速でも秋の間の輸送になり、確実に貴殿の意に沿うものにはなりません。

車体の製造は我々によって、遅延が必要となる予測していなかった事故が起きない限り、成果品が翌月後半に送られるよう計画されています。

概して我々は今、これまで送られてきたものと同じ設計の自動車を製造することはできます。

前述の事実に関する通達を受け取ってください。

ヒトラー万歳!

ガウプシャト自動車製造有限社

1942年6月5日の覚書(ジュスト文書)

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翻訳は2.2.4.1章参照。私の意見は2.2.4.2.2.5.章参照。

1942年6月23日の覚書と手紙

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326ページ

翻訳&意見

(押印と文書外部の手書きの覚書は省略)

ベルリン、1942年6月23日

保安警察及びSDの長官宛

II D 3 a(9)手紙番号668/42


1.)覚書:

案件II D 3 a――1737/41番――によれば、運ばれる車台用の30台の特別な車体がガウプシャト社から注文されています。20台は既に完成し、運ばれています。

最後の車台10個は現在輸送中で、車体へと取り付けられる予定です。ガウプシャト社は、経験から必要な変更を考えることは不可能ではありますが、ホーヘンモースにあるソドムカ社(チェコ社)は、考えるに、この機密に適しているようには見えない(純粋にチェコの地域にある技術員を持つチェコの会社です。)ため、集団の長はそれでも車体全てはガウプシャト社が製造しようという意見を出すと決めています。

車体1台内の初期の装備には以下の手紙に並んでいる変更が推奨され、それらを実際に試験する事を勧めます。機密上の理由でそちらで検討できない変更は、こちらの工房内で行うことにします。

2.)手紙:

宛先

自動車工房ガウプシャト


ベルリン市ノイケルン区

Willi Walterstr.


返信:運搬されるザウラー社の車台10個用の車体

参照:[19]42年5月14日のKom. 634290−433のLetter sales Wa/Ka.。


10台の車体の製造を開始する前に、上記の手紙で言及した議論の通りに、そして[19]42年6月16日にエルンスト氏とクルーガー氏と我らの技術部長Pr.[?]Sukkelとの間で行った議論の通りに、車体の変更に関して以下の注意をお願いします:

327ページ

車体の製造は以前の設計におおよそ従わなければなりません。直接議論した通り、以下の変更がなされます:

1.)貨物区画は長さを800mmぶん短くなければなりません。扉の突起は省かれます。欠点として、この短縮は重量の分散にとって不利益になる事が確認されています。ガウプシャト社は、これによる不利な結果に対して安心感を抱いていません。

2.)前方後方にある外輪を前後へと広げ、側壁両方に継ぎ目のない車輪収容区画を作ります。

3.)格子の現在の設計は余りに嵩張って扱いにくいため、格子[の箇所]を長さ700mmだけに作り、現在の設計から逸脱させて、2.)番の継ぎ目のない外輪容器の上に設置します。

4.)両扉の隅の部分には堅固な覆いをします。この覆いは扉の脇柱から1/2mだけ貨物区画の内側へと走るため、貨物区画の内側は扉側の方が次第に細くなります。

5.)後部の扉の滑り板に覆われた穴は省き、後部の壁(扉ではなく)に100×10mの開いた狭間に取り換えます。その狭間は外側から蝶番付きの蓋で覆います。

6.)貨物区画の前部の右側の床に開いた蓋付きの排水口は省き、その代わりに直径約200mmの排水口をその区画の床に割り込ませます。この開口部は堅固かつ頑丈な蝶番付きの蓋で閉じ、その蓋は外部からしっかりとかつ安全に開閉できるようにします。

7.)内部の明かりはこれまでよりもずっと頑丈な、鐘形覆い付きの格子桁で保護します。

可能な限り迅速に自動車を1台生産し、すぐに残りの自動車9台を輸送する日付を通知する事が求められます。

3.)[19]42年7月20日再提出。

代理人名

(手書き署名)


意見:貨物区画を短くする要求の理由が書かれていない。#2下でこの問題に触れているジュスト文書への私の解析(2.2.4.)で、私は、貨物区画の短縮は「好ましからざる重量配分」を導くだろうという主張について論じた。

ここでは「滑り板付きの開口部」のある扉を言われており、それは貨物区画は完全密閉されるものでは全くない事を意味している、滑り板は開口部を覆えるものではあるだろうが、密閉は出来ないのだから。新たな輸送車用に要求された代わりとなる規格である開口部は、単なる蝶番付きの蓋で覆われるのだという。貨物区画内の些細な過剰圧力でもそうした蓋は持ち上がって超過したガスを逃がすだろうため、これらの貨物区画は常時「漏出」するだろう。

この設計の「漏出不可」の明らかな欠如を考慮すると、RSHAがこれより前の書簡で床の格子を動かす為に使われている索条はそのような漏出を回避する為に巻き上げ機から切り離せるようにすると何故主張していたのは謎である(1942年4月27日と1942年4月30日の覚書参照)。

328ページ

2つの文書の並置

以下は、1942年6月23日付ガウプシャト社宛のRSHA書簡の中に並んでいる7箇条の一部と、1942年6月5日の剽窃された「書類覚書」(「ジュスト文書」)のそれらに関連する箇条の並置だ。罪を負わせる件りは太字にしている(ヴェッカート著、2003年発表、234ページより)。

1942年6月23日の書簡 1942年6月5日の「書類覚書」

「1.車体の長さを800mm[31.5インチ]だけ縮めることにします。[……]我々は提起された目的を認めると共に、こうした短縮は重量分配に不利益を引き起こすであろう事も認めます。[先述の文書は、この目的はガウプシャト社によって1942年6月16日に口頭で生じたと示している。]今後生じるあらゆる不利益はガウプシャト社を困らせるものではないでしょう。」

「2.積荷の範囲を減少させるのは不可欠のようです。車体を大凡1m[39インチ]縮める事でこれは達成できるでしょう。試みられている限りでは、積荷である物の数を減少させても上記の問題は解決できません。数量を減少させれば、空っぽの空間もCOで充満させなければならなくなるため、作戦時間を長くする必要が出るからです。[……]

この構造物の議論に於いて、車体の短縮は不利な重量という結果を齎すことになるだろうとこの書簡で指摘されています。しかし実のところ、重量分配の意図しない調整が、作戦中に荷重が後部へと向かって大半は常にそこで終わる事で発生しています。」

「5.背面の両開きの扉に引き戸で覆われた開口部が複数設置され、背面上部の壁(扉ではなく)100×10mm[4インチ× 0.4インチ]の狭間複数に取り替えられました。それらは外部から可動式の蝶番付の金属の蓋で覆えるようになっています。」

「1.過剰な気圧にならないようにしながらCOを迅速に流入できるよう、10×1cm[4インチ×0.4インチ]の大きさの狭間2つを背面の壁上部に設置しました。この狭間は外側から容易に動かせる蝶番付の金属の蓋で覆えるようになっていて、潜在的な過剰な気圧を自動調整できるようになっています。」

「6.四角い部屋の床の右前方にある開閉可能な排水口を外します。代わりに、直径200mm[9インチ]程の排水口を四角い部屋の床面に挿入します。この開口部には強固で気密性が高く蝶番付である蓋を持たせ、外側から安全に開閉できるようにします。」

「4.自動車を容易に清掃できるようにするため[この表現は、ガス殺された人々は排泄物や汚穢で覆われていてそれに従って自動車も汚れてしまうという主張の仄めかしの上に立脚している]、しっかりと閉じられる排水口を部屋の中央に設置します。直径200〜300mm[8インチから12インチ]程の排水口の蓋をU字トラップ配水管と共に設置し、任務中でも多少の液体を排出できるようにします。」[これもまた死に逝く人々からの汚物への言及だ。]

「7.内側の明かりを今日まで使われているものより強固な覆いの鋼線で保護します。」

「6.光源となる器具をこれまでと比べて遙かに強固に破壊から保護します。電灯を覆う鉄格子の保護を、最早電灯のガラスが傷つくことがない程のものにします。実践的な経験から、その明かりは必要になることは恐らくないのでその明かりごと排除すべきであるとは示唆されていました。しかし背面の扉が閉じられた時、即ち内部が暗くなった時、荷重は慌てて扉へと殺到する事が分かりました。何故かというと、闇が訪れれば、荷重は明かりへと向かうからです。[完全に荒唐無稽だ。扉を閉じれば、扉の部分は立方体の車体の他の部分よりも暗くなるだろう。]更に、恐らくは闇の奇妙な性質によって、騒動は扉が閉じられた時点で常に発生します。この理由によって、任務の前と最初の数分の間明かりを点けておくことは都合が良いです。」

1942年9月18日の手紙

letter-of-18-september-1942.png
翻訳

(住所記入欄と事前に印刷された固有の字面は省略)

42年6月23日受領 受領郵便局Verk. Wa/Ka. 配送郵便局ワクスムート 42年9月18日配送

返信:Our Com. 63 424 − 433 / 64 523

Your Ref.: II D 3a(9)B.Nr. 668/42

車体fがザウラー社の車台10台運搬

我々は今月23日付の貴殿の手紙の注文を受け取っており、その手紙の中で貴殿は貴殿の技術的な最上位長官であるサッケル教授とエルンスト氏、クリーガー氏との間での折衝に言及していました。

今月23日の貴殿の手紙にある7点についても考慮しながら、我々は現在特別に残る自動車10台を整備しています。

付け加える事として(8点目)、車体の内側は亜鉛膜の鉄で裏打ちします。

要求されたこの変更によって価格も変わります。

現在価格で

1個あたり4,051.85ライヒスマルク

残り車体10台。

我々が製造可能な限りにおいて可能な限り早く1台完成させます。

残る自動車10台を近日中に運搬できると貴殿に告げられるようになることを願っております。

ヒトラー万歳!

ガウプシャト自動車製造有限会社


付録5:ジュスト文書の出版されている版

私の見解は2.2.4.章2.2.5.章参照。


付録6:ターナー書簡

341ページ

翻訳

枢密顧問官ターナー博士O.U.、1942年4月11日付け

親衛隊少将

F.P.番号18.739

親愛なる同志ウォルフへ!

私に有利な決断が下された今より後に、私の最上級にして心からの感謝を貴方に捧げることを失敗したくはありません――これは特異な事態であり、貴方の影響力と疲れ知らずの活動力に感謝するしかないことを確信していますから。

本日更にそう言うこともできますが、貴方は私を十分に知っているため、もう一度だけこう繰り返しましょう、この問題は私の尊敬する人物――この方は容易に異称を持てます――と関係しなければならないわけではありませんが、国防軍の一方的な関心に対して繰り広げざるを得なかった必要な戦闘を伴ってはおり、その戦闘によって、口の端にのぼらぬ最後の結果の中で、親衛隊の総統とそれに伴い親衛隊と更に加えて公僕団体も影響を受けることになるでしょう。

その最大の証明は、反対に、南東戦闘地域による公式書簡に差し入れられた意見「上位親衛隊(SS)及び警視総監の約束はここでの指示によって発生しなかった」あるいはそうした表現に入れられ、反対に私の利益になる決定が受け入れられた後の南東戦闘地域の参謀本部長の意見は「そのため国防軍は戦闘で敗北するでしょう」でした。

どのような催しでも、この抗戦にどうにか追従している国防軍の全範囲にさえこの地ではこの勝利に関する純粋な喜びが広がっており、私が信じている通りに貴殿は独力でこの喜びをそうした人々に齎しています。それについて感謝いたします。

この機会に1942年1月15日に私から全国指導者に宛てた書簡の写しを送ってもよろしいでしょうか、これは今日まで回答を得ていないものです。思い出させたくありません、何故ならこうしたことには私の知る限り時間がかかり、私には親衛隊全国指導者に対しある問題の精算に関して思い出させる資格はないと感じているからです。つまるところ貴殿はそのような問題に関心を持っている事を私は知っており、何故現在私が貴殿にこれに注目していただいているかについては単純にこの問題はすぐに致命的を超えたものになるという事実が理由にあります。既に数ヶ月前に私はこの国で自らの手で可能な限りのユダヤ教徒を、特にある収容所にいた全てのユダヤ教徒の女子供を射殺しており、そして「虱駆除車」を得ている親衛隊保安局(SD)の助けがあればすぐにでも、その車によって約14日から4週間以内にその収容所からの決定的な排除が果たされるでしょう、しかしその排除は過去にマイスナーが到着し収容所のそうした諸事項を取り仕切って以来彼によって続けられています。ジュネーヴ条約の下にある戦時収容所の囚人の中にいるユダヤ教徒の士官らが、最早――望むと望まざるとにかかわらず――もういない親類縁者の裏に隠れられなくなる時は来ており、このことは結局のところ容易く複雑化を招くでしょう。

そうした影響を受けた者が解放された時、彼らは到着の瞬間に最終的な自由を得るでしょうが、彼らの人種的な同胞と同様に極めて長く続くというわけではなく、これに伴って問題全体をすぐに全て解決すべきです。最も唯一の懸念はカナダ(Canada)にいる我々の囚人たちの反響で、解放された人々がここを自由に歩いていないことに光が当たるようになる場合……私個人としてはそうした懸念を共有いたしません。

貴殿の最大の健康を願うと共に最高の敬具を、そしてヒトラー万歳!

常に貴殿に

忠実に

(ターナーの署名)


343ページ

付録7:1942年2月のアインザッツグルッペ報告

1942年3月1日のアインザッツグルッペBの活動状況報告、1942年2月16日〜28日までの期間を包括している;ここには7ページ以降。

Der Bundesbeauftragte für die Unterlagen des Staatssicherheitsdienstes der ehemaligen DDR, ZUV 9、第31巻、159ページ以降。

345ページ

1942年10月のアウシュヴィッツの自動車駐車場の活動報告;Rossiiskii Gosudarstvennii Vojennii Archiv(ロシア国立記録庫)、在モスクワ、参照番号502-1-181、246ページ。


346ページ

付録8:ドイツ軍の特別自動車

2台の汚染除去自動車の記述的情報は筆者が所有している、Bildermappe. Eingeführte Waffen und Geräte(写真集。武器と装置紹介)という題名のドイツの戦時中の小冊子から取られており、この書には無数のドイツ軍の自動車とその技術的情報の集積が含まれている。

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画像22:Krupp L3H63(写真はミルソム著、1975年発表、104ページ)。ミルソムはこの自動車に割り当てられているSd.-Kfz.番号も、目的や技術的情報についても示していない。この自動車は特殊な装備を備えていないように見えるため、これは単なる閉鎖可能な輸送輸送車なのかも知れない。

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347ページ

画像23:Sd.-Kfz 92、人員除毒自動車、Henschel 33G1(写真はミルソム著、1975年発表、144ページ)。

目的:人員除毒、及び「フォグ・ユニット」[ACC兵器防護隊に似ている]によって使用されていた重装ガス防護服

技術的情報:車台:中型の悪路対応の3トン貨物自動車。重装ガス防護服用の除毒槽1槽を熱する為及びシャワー2基用の温水の為に毎時44,000キロカロリーの性能を持つ内燃機関によって動かされる水圧制動を持つ温水生成。総重量:9.3トン。

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画像24:Sd.-Kfz. 93、衣服除毒自動車、Henschel 33G1(写真はミルソム著、1975年発表、145ページ)

目的:制服、革製の装備、そして防毒面を高温と蒸気で除毒する為に除毒部隊に割り当てられる。

技術的情報:車台:中型の悪路対応の3トン貨物自動車。0.2バールの蒸気、毎時50kg;120°Cの空気、毎時3,600立米;それぞれ2立米、制服30着用の小部屋が2部屋;:除毒時間:制服で1.5時間(蒸気と高熱の高熱の組み合わせ);革製の装備なら30分(高熱の工程)。総重量:9.7トン。

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348ページ

図画25:Opel Blitz、A-Type(全輪駆動)、3トン。S-Type(標準駆動)を有するこの貨物自動車の約100,000台が第二次世界大戦中に国防軍に齎され、一部は許可を得てダイムラー・ベンツ社、クレックナー=ドゥーツ社によって製造された。車体部分と同じ横幅を持つ。そのため、この貨物自動車に関して特別なところは全くない。内燃機関:ガソリン、毎分3,600立方センチメートル、6円柱、68馬力。こうした内燃機関があれば、排気ガスは致命的になる。(写真はミルソム著、1975年発表、174ページ)

付録9:証人ファルボルスキの尋問協定

私の見解は3.6.2.3.にある。

falborski.png falborski2.png

翻訳

本証人への尋問protocol

1945年6月11日、ウッチ地方裁判所第4地区の捜査判事ウワディスワフ・ベドナーシュは宣誓をしなかった下記の証人を調査した。偽証は犯罪行為であると伝えられた後、その証人はこのように宣誓した:

名と姓:ブロニスラフ・ファルボルスキ

年齢:35歳

両親の名:[父]不明、[母]マグダレナ

住居:コウォ

職業:運転手

宗教:カトリック教会

犯罪歴:なし

証人による宣誓

ドイツの占領中、私はドイツの会社「クラフト社」で技師としてコウォのアスニク通りで働いていました。1942年4月から1943年の間その会社で働きました。正確な日付は覚えていません。我が社はクルムホフからの親衛隊ゾンダーコマンドの車を修理しました。当時私はガスで毒殺する為に使われていた自動車を修理するよう命令されました。その時期は正確には思い出せません。1942年の夏だったと思います。その自動車は高さおよそ2.50mでした。長さは6mでしたが、高さ[幅]は恐らく2.50mでした。その自動車の色は黒で、形状は箱形でした。屋根は平たく、壁もあわせて長方形でした。金属板で裏打ちされていたと思いますが、確かだとまでは言えません。その駆動機関は観察しておらず、その自動車の造りには注意を払いませんでした。その自動車の両開きの扉は掛け金と錠で固定できるようになっていました。この自動車は複数の警官で護衛されていたため、私はその構造を調査できませんでした。運転手の座席の横に防毒面が掛けられていたかどうかには注意を払いませんでした。自動車には登録番号が付けられていたかは思い出せません。私は修理を一任されました。排気管の弾性のある部分と自動車の内側に通じる部分の間に付け替え用の部分がありました。その排気管は普通の自動車にあるもののように単一の部品で構成されておらず、3つの部位で構成されており、真ん中の部位は可撓管のように弾性があったことは断言できます。その中間部分はこの自動車の床面に位置する管――その結果として排気ガスはこの自動車内部へと流れ込みます――及び排気管の後方部分に接続可能になっていました;後者の場合排気ガスは通常の自動車のように拓けた空間へと流れ出します。自動車が修理のため稼働停止した際には、この管の中間部分は自動車の内部へと接続されていましたが、その接続部は脆くなっており、私は取り換えを命令されました。4本の螺子で固定された石綿製の新しい部品で固定することで、私はそこを交換しました。排気管と自動車の内部の間の接続部を示している、私自作の排気管の素描を提示します。急ぐよう絶えず急かされ、この絵にはおよそ30分かけました。当時以下の人物がその工場で働いていました:ジークムント・ローザック、ズビグニエフ・ドゥジンスキ――どちらも[今日]従軍しています――、現在クトノで鉄道を製造しているシザブリュースキ・マリアン、名字は思い出せませんがヤンコウスキーとルヴァンドウスキー、そして最後に現在郵便事業に携わっているゼノン・ローザです。この一例を別にすれば親衛隊特別部隊[ク]ルムホーフのガスでの毒殺用の自動車の修理作業はありませんでした。

「クラフト」工場で雇用される直前まで、私は森林官マジのところで運転手をしていました。その伝手もあって私は頻繁にヘウムノにいました。その間私は頻繁にヘウムノの森を行き来する自動車を目にしました。そこには私が後日「クラフト」工場で修理するものと似た自動車がありました。同じ大きさの自動車2台だけが道中でお互いとすれ違っているという印象を受けました。そうした自動車の移動がどれだけの時間続いたのか正確なところはこれ以上言えません。恐らく30分から1時間続きました。私は元「オストロフスキー」社の中庭に現在ある、換装された引っ越し用移動貨物自動車を3回目にしました。1回目は森の中で、2回目は路上で、3回目はヘウムノの中庭からちょうど出るところで見ました。1943年の春でした。この自動車を数日おきに繰り返し見ました。最近その貨物自動車をオストロフスキー工場の中庭で見つけ、それは完全に同一の自動車であると完全に確信しております(大きさも――形も――色も)。

これは尋問協定を締結している。読み終えた後に署名されている。

(署名)ファルボルスキ・ブロニスラフ

ウワディスワフ・ベドナーシュ

ファルボルスキの宣誓供述書に含まれる絵

drawing-falborski

353ページ

注釈の翻訳
ポーランド語 日本語
Elasticzna czesc rury wydechowej 排気管の柔軟な箇所
Czesc satla rury wydechowej 排気管の頑丈な箇所
Rura prowadzaca do wnetrza 外部に通じる管
Lacznik 接続
Pakunek 装置
Rura wydechowa 排気管

付録10:往復書簡

マウトハウゼンの「殺人ガス輸送車」の手紙

letter-on-the-gas-vans-of-mauthausen.png

355ページ


翻訳及びピエール・マラスによる寸評

1987年5月4日

拝啓

「貴殿の頑迷さには困惑させられるばかりです……貴殿は私に、マウトハウゼンの火葬棟の煙突から炎が上がっているのを私が見る事は不可能でしょうと言いました。私が上がっているのを見たと書いたとしたら、それをした理由は実質的に、特筆するなら上院議員にしてシャトーヌフ・シュル・ロワール市の市長クロード・ルメートル、戦前は社会党の副党首であり後に内務大臣を勤めたジャン・ビオンディ、ジーン・ベルニエ……といった我が同胞たちと共に、我々は火葬棟の煙突から上がる、空を切り裂く眩い炎という恐怖を見た夜の消えない記憶を持っているからです。失礼ですが、これが、総合的な真実に対して我々が証言できる事実です。貴殿にはこれに異論を述べる権利があるのですか?

Vernichtungslager絶滅収容所に関して、もし私の書記が「複数の」と付け忘れていたとしてさえ、この表現は公式な収容所の語彙の1つです。ヒムラー自身が諸収容所を4つの分類に分けており、その最後の分類は純粋且つ単純に希望もなく浄化される事が運命づけられているものでした。

殺人ガス輸送車に関して、複数の分類がありました。確かなことは、マウトハウゼンに入った者は単なる死体としてGunsen[原文ママ]Gusen[グーセン]あるいはハルトハイムに現れるということです。

敬具

神父ミシェル・リケ


ピエール・マラスによる寸評

パリの日刊紙Le Mondeに1986年10月5日に記事を寄稿したマウトハウゼン強制収容所の元収容者である牧師リケとの交換書簡[前のページ参照]の間、彼は殺人ガス輸送車の問題に関する出版物を送った。それはパリにあるCentre de documentation juive contemporaine(当代ユダヤ証拠資料会館)の継続的な刊行物Le Monde juif世界のユダヤ123号、124号の特別な再印刷であり、「正当な証拠」として1987年の第一の四半期に現れたものだ。その出版物のIII章は「Assassinats par gaz dans des véhicules spécialement aménagés (Sonderwagen)」(特別な装備を備えた自動車内でのガス殺人)という題名だ。それは一方では作品集Les Chambres a gaz, secret d'EtatNazi Mass Murderのフランス語版)として出版されていた論理の単なる概要だが、もう一方では当時まだ出版されていなかった詳細を含んでおり、それはその著者であり作品集内でのマウトハウゼンの章を著していたピエール=セルジュ・シュモフが獲得できた新たな情報だった。

356ページ

128コーゴン(1984年、79ページ)は文書501-PSを引用する際、「Der S-Wagen」を「Le camion á gaz」(殺人ガス輸送車)と誤訳している。これが偽造でないとしたら、何が偽造なのだ?

まず強調する必要があるのは、シュモフはドイツ語の「Sonderwagen」を誤って「camion spécialement aménagé」(特別な装備を備えた自動車内でのガス殺人)と翻訳しており、これはドイツ語の接頭句「Sonder-」は疑わしい意味の語句であるという印象を与えてしまっている。シュモフによる図画4(40ページ)の脚注では、「Sonderwagen」を恥知らずにも「殺人ガス輸送車」と翻訳している。128

シュモフは「殺人ガス輸送車」として使われたとされる2種類を――「排気ガス自動車」(ママ)と「チクロンBが使われる殺人ガス輸送車」の2種類を――区別している(37ページ)。技術的観点から荒唐無稽なため、そうした定義を熟考しない事にする。

1つ目の分類の自動車を描写する時、筆者は法廷での判決、自供、そして他の目撃証言を引用し、それから以下のそうした「殺人ガス輸送車」の決定的な要素を明示する(35ページ):

「それは完全密閉できる貨物自動車で、その内側には排気ガスが篭もるが、確実に他の種類のガスも流入された。」

どこからともなく登場した「複数種類の殺人ガス輸送車」の存在について言われてしまった! シュモフはこう書いている(同書):

[この殺輸送車は]すぐに[マウトハウゼン]収容所内で運転された[……]、人間という積荷が最早生きていられなくなるまで運転され、全滅してからその積荷を火葬棟へと運びに向かった。」

この手紙の主張は2つの疑問を生じさせる:

a)収容所内で(もしかしたら収容所の外も走っているかもしれないが)輸送車を――おそらくは犠牲者を殺す為に必要な排気ガスを生成しようとして――運転する理由は何だ、(ガソリン機関だとして)停車させた輸送車なら同じガスの量を同じ効率性で――あるいは恐らく超えさえする効率性で――発生でき、貴重な燃料を省けもするのに?

357ページ

129「Aufstellung über die Art der Ermorderung von Häftlingen im K.L. Mauthausen」、元収容事務員エルンスト・マーティン著、1945年5月8日付、マウトハウゼン博物館所蔵庫保管、参照番号DOW2721;クランパー著、1991年発表、33ページにも同様に記載。

シュモフは更に、「特別な装備を備えた輸送車」は犠牲者を「マウトハウゼンからグーセンまでの5kmほどの乗車の間に」ガス殺したと主張している。これは、そうした輸送車は十分な時間安全に操作できた(最低でも時間は5kmの運転だけかかっており、つまり、8分以上だ)一方で、その排気管は完全密閉の貨物区画に接続されていた――これはもう一度強調して論じておこう。その上我々は、この輸送車は実のところ「指導役」だったと――一度ならず――告げられる(37ページ)。

現在の筆者からの寸評:マウトハウゼン殺人ガス輸送車の馬鹿馬鹿しさを強調する為に、シュモフに依拠する代わりに、「根本となる」出典から引用することを許して欲しい。それは、マウトハウゼン収容所の元収容事務員エルンスト・マーティンによって1945年の編纂された一覧だ:129

“Gas auto

収容者輸送車は「チクロンB」も投入[!]できるような装置を備えていた。その車はマウトハウゼンで収容者を乗せ、移送の間にガス殺し、グーセンの火葬棟で荷下ろしし、帰路ではグーセンの収容者を乗せ、移送の間にガス殺してマウトハウゼンの火葬棟まで運んだ。」

そのためそれは、道中で燃料を浪費する真実のガス殺回転木馬だった――マウトハウゼンには初めからチクロンBの固定されたガス殺室があるとされているにもかかわわらず。

現在の研究の中でこれまでに引用した証人は、「殺人ガス輸送車」はザウラー社製か、ダイアモンド社製か、オペル社製か、ルノー社製の貨物自動車だと主張している一方、シュモフはある「証人」は「その自動車は1.5か2トンの[……]メルセデス社製だったと信じている」と提示してくれた(38ページ)。その証人は実のところ輸送部門の長であったという事実を考えるに、彼はメルセデス社製だったと知っていたに違いない。しかし、犠牲者それぞれが平均体重60kgだと仮定して、最大荷重2トンというのは最大で32人の犠牲者(と運転手)しか輸送車に入れず、それはあらゆる目撃証言と矛盾する。

358ページ

いずれにせよ、この新たな車種と型から、我々は使用されたとされる内燃機関と車台には驚くべき多様性があると見て取れる。このことは、まず間違いなく「完全密閉の貨物区画」の仕立をしなければならなかった企業の仕事を、つまり無害な輸送車を「特別な装備を備えた輸送車」に換装する作業を容易にしなかった!

そしてこのシュモフの手紙の結びには、私が読者から隠そうとは思わない宝石が含まれている:

「私は知っている――聞いたことがあるのだから――、殺人ガス輸送車がかつて使用されていたことを、そしてどのように操作されていたかを。」

ここの核心的な点は、そうした「殺人ガス輸送車」を操作していたとされるやり方のシュモフによる描写は余りに初歩的で、それなのにこのような決心と共に即座に表現されるため、その力説を額面通りに受け取るのは不可能であるという点だ。最終的には、シュモフは単に噂を繰り返している:「聞いたことがあるのだから」と、そして恐らくそれは彼の随筆の本質だろう。

「排気ガス自動車」(39ページ)に関する彼の主張に関して、我々は「完全密閉の[……]自動車、排気ガスを分岐できる装置を備えた[……]輸送車に関して」話す「証人の宣言」について学習した。「排気管は一部が囚人がいる輸送車の内側に通っている」と。そしてこれは更に面白いものだ:

殺人ガス輸送車の問題にまず目を向けると、その輸送車の内燃機関がどのように操作されるかを問いたい、その排気ガスが密閉された貨物区画へと流されるとしたらの話だが。この問題はこうした自動車のあらゆる記述を通して運命の赤い糸のようについて回っており、手動でも自動でも、排気ガスの一部を直接外部へと放てるようにする装置が排気機構内にあったと仮定してみる。そのような装置は貨物区画の内部にかかる圧迫を防ぎ、つまり貨物区画から漏出するか貨物区画を破壊するのを防ぐだろうが、そのような状況下で迅速な窒息死を引き起こす程のガスが貨物区画内に入るかどうかは疑問である。これは、「完全密閉」とされる貨物区画は正確には密閉されていなかったがその代わりに開口部が設けられており、貨物区画が「内燃機関の消音器」という役割を満たせるようにその開口部を通ってガスが逃げられるようになっている場合にのみ可能だろう。(この文脈で読者に思い出して欲しいのは、ジュスト文書で要求された最初の変更の基礎となる論理である。)しかし、排気ガスを分岐させるそのような装置が実際にそのような自動車にあったと想定する場合、そして排気ガスの温度と腐食の性質を考える時には、そのような装置の造りは特別な不銹鋼の使用を要求することになり、それは当時のドイツでは希少にして高価であった。

359ページ

関連する文学内で現存している「殺人ガス輸送車」の中にそのような言及は見つからず、出版物の中にそのような装置が見つかった事があると示されたものは存在していない。そうした輸送車の調査はそうした「殺人輸送車」の現実性と同様にその操作方式に関する有り得る結論を導くことだろう。調査に耐えられない曖昧で不正確な宣言に誤魔化される代わりに、そして有り得なさが我々の頭を悩ませざるを得ないごた混ぜの目撃証言にかかわう代わりにだ。

シュモフが言及した自動車の第2の分類である「チクロンBと共に運用される殺人ガス輸送車」については、排気ガスは通常通り排出されるため内燃機関の困難さは適用されない。実際の所、そうした「殺人ガス輸送車」は実のところ確実に実在したと証言できるが、それは2.3.章で記述しているとおり単なる害虫駆除輸送車としてである。

このことは「チクロンBのガス殺室」というより一般的な疑問についても話を導くが、これはこの研究の話題ではない。しかし我々は、シュモフがガスを貨物区画に挿入する為の技術は苦労しないものだったと記述している事を指摘せざるを得ない:

「このガスは[……]輸送の間に運転手の運転区画から輸送車の内装へと投げ込まれました。」(39ページ)

[警察輸送車から殺人ガス輸送車への]換装は主に輸送車の内装の密閉作業だけでした。」(42ページ)

「チクロンBのガスを含む錫の容器が輸送の間に運転手の運転区画から投げ込まれました。」(同上

現在の筆者による寸評:この場面を想像してくれ:親衛隊(SS)2人が貨物自動車の前部の座席に座っている。その片方がチクロンBの缶を開けようと考えるが、その為には鎚で巨大な缶切りを打たなければならない。しかし、自分たちを毒殺しないよう、親衛隊(SS)はどちらもまず防毒の覆面を被らなければならない。運転中それは出来ないため、覆面を被る為に停車しなければならない。ひとたび適切に防護されると、2人は旅を再開する。しかし、防毒面は運転手の視界を著しく妨げる――曇ったガラスには言及しないこと――ため、貨物自動車は事故を起こす高い危険性を有してしまう。それから同乗者が缶を開ける。貨物自動車がのたつき、半ば盲目の運転手によって操縦されながら角を曲がったり窪みを乗り越えたりしている間、その工程で同乗者はどれだけのチクロンBの顆粒を運転区画に零してしまうだろう? それから彼は背後の貨物自動車の窓を開け、毒を注ごうとする。どれだけの量が被収容者たちによって彼に送り戻されるだろう? そして彼らが窓際まで立錐の余地なく立っていた場合はどうだろう:同乗者はどうやって最初にこの区画の彼ら意図している犠牲者たちの隙間にこの小物を入れようとするのだろう? それ以上に、犠牲者たちが命を賭けて戦い始めた場合、彼はどうやって窓を閉じるつもりなのだろう? そして最後に、窓に近いそうした犠牲者の1人が石のような何か固い物を使って窓を壊した場合どうするのだろう?

このちょっとした遠足は、輸送中の運転区画から始めるチクロンBガス殺に関するこの主張の完全なる馬鹿馬鹿しさの曝露には十分であると考える。正気の人物ならこれを試みることなどないだろう。単一回答]

強調する為に、この「グリューナ・ミナ」(ドイツの囚人輸送自動車)と呼ばれるこの自動車「は収容所所長によって大半の時間私的に運用されていました」とも我々は言われている(同書)。

[現在の筆者による寸評:確かに、50,000人から成る事業の長は、人々を殺す為に改造された輸送用監獄輸送車を私的に運転する。その事が、警戒心の強い読者諸兄に、自分たちは純粋な残虐行為の宣伝戦を扱っているのだと認識させないのだとしたら、何であれば認識させられるのだ? 単一回答]

この筆者が一酸化炭素を扱う際に不可欠な安全確保の手法――換気、毒の中和、死体への接触等――について一言も触れていないのは言うまでもない。(関心のある読者は、ひと一人を殺すのがどれだけ困難かを知るのに米国の処刑ガス室の書物に当たると良い[ロイヒター/フォーリソン/ルドルフ、2011年発表])。シュモフに依れば、この操作は簡単だと言われているそうだ。

360ページ

つまりこの作品はこの問題についての我々の知識を全く向上させていない。編集者の紹介文にある誇大な宣言は穴だらけ――「真実の集大成、」「[……]に優るべき勘所に関する真実を助ける。その目的は果たされた、」「事実は詳述され、否定できず、決定的だ、」「これらは真実を語っているだけでなく本物でもある文書である」(誤字)――であり、私の猜疑を宥められるものではない。

我々は、「殺人ガス輸送車」の事例の中でこうしたほぼ叙情的な断言がどれだけ実証されているかを知っている。筆者による、これで優るべき真実を助けようとしているのだという手法の最後の例を引用させて欲しい:

「決定的な異常さが実際に[……]80の死亡事例を証明しています、その死亡事例は『肺結核』によって起こされたと言われていますが、実際には恐らく殺人ガス輸送車での殺人です。」

Any comment is superfluous.

私はリケ神父に、この紙面の筆者にマウトハウゼンで運用されたという「殺人ガス輸送車」の操作方法を説明するよう頼む要求書を送ってくれ、と依頼した。返事は貰えなかった。この聖職者はこれについてどう思ったのだろう? 1987年5月4日付の私への手紙の中で彼はこう書いている:

「殺人ガス輸送車に関して、複数の分類がありました。確かなことは、マウトハウゼンに入った者は単なる死体としてグンセン[誤字]あるいはハルトハイムに現れるということです。」

361ページ

事実は、リケ神父は自身が抑留されていた収容所内で運用されていたとされるこうした殺人輸送車について確実なことは大して知らないというものだ。勿論、シュモフとは対称的に、リケ神父は技術者ではないと想定することは可能だ。

現在の筆者による寸評:最終的に、この事はある疑問を提起する:正史派の歴史家が主張するように、マウトハウゼン収容所で最初から「殺人ガス輸送車」が運用されていたとしたら、何故チクロンBの「ガス殺室」もあったのだ? 単一回答]

マシアス・ベーアからピエール・マラスへの手紙

letter-by-mathias-beer-to-pierre-marais1.png letter-by-mathias-beer-to-pierre-marais2.png

364ページ

翻訳及びピエール・マラスによる寸評

(便箋上部省略)

返信:殺人ガス輸送車について

[……]

敬愛なるマラス氏へ、

殺人ガス輸送車の改良に関する私の労作に、特に私の試みがために明示的には殆どあるいは全く触れなかった問題に、関心を持っていただいている事を示した1987年10月30日付のお手紙誠にありがとうございます。

提示された個々の質問に回答する前に、私の拙文に関して僅かばかり根本的な意見を言わせて下さい。私の意図は、これまで詳細全体が知られていない国家社会主義者たちによる大量殺害の出来事を通して説明する事でした。そうする事で、個々の刑事裁判によって告げられた見識を超えたところに至りました。私の結論は以下を論じています:安楽死と殺人ガス輸送車の間の関連を、殺人ガス輸送車の改良の間の一連の命令、出来事、人物、関係する制度の正確な時間的な連続を、1942年半ばの殺人ガス輸送車の数を、2群の殺人ガス輸送車を、そして安楽死と死の収容所内での毒ガス殺の間の結び付きとしての殺人ガス輸送車を。文書及び目撃証言に基づいた、私が至ったこれらの結論は、強調したいのですが、典拠批判と並列比較――歴史家たちの間で一般的な手続き――の対象になります。

では貴殿の質問につきまして。

1.貴殿の記述は殺人ガス輸送車の「第二群」であるザウラー自動車においてのみ有効です、1941年内には小さな自動車のみが製造されていたと私が確立できたのですから(私の論文413ページ以降参照)。それとは別に、元々のザウラー自動車は全長5,800mmであり、その中でガス殺された人数は「約50人」ではありませんが、80〜100人でした。貴殿は知らない1942年6月5日付けの書類の覚書は、1m2につき9〜10人と言及しています。

貨物区画内の強い圧力という問題は、殺人ガス輸送車の改良と運用に関わる人物たちには知られていたようです。それは管理された寸法の断片から、そして既に言及している1942年7月5日の書類の覚書から読み取れます。そこではこう言っています:「クルムホーフでの既知の破裂は1つの事件として評価する必要がある。その原因は操作の誤りに帰すべきものだ。」この破裂とその結果は複数の目撃者によって確証されています。更に、1542年7月23日[手紙そのまま]の書類の覚書にこう続きがあります:「後部扉の引き戸の開口部は排除され、後方上部の壁(扉ではなく)の100×10mm[4フィート×0.4フィート]の開閉可能な狭間さま複数に取り換えられた。それらは蝶番で固定された留め金で外側から覆うことにする」そのためこの自動車は実践的な経験によって改良されるであろう単純な「圧力解放弁」を有していました。(1942年7月23日の書類の覚書、連邦公文書館、掲示。R 58/871)。

365ページ

2.戦後に殺人ガス輸送車が見つからないとしても驚くことではないでしょう、殺人ガス輸送車は、人々の絶滅によって残ったあらゆる痕跡と同様、大急ぎで可能な限り破壊されたのですから。しかし我々は戦後ポーランドの当局が撮影した殺人ガス輸送車の写真(ワルシャワの公文書館及びJerusamen[手紙そのまま]にあるヤド・ヴァシェム公文書館)を持っているだけでなく、私の情報によればコニンには犠牲者を弔う記念碑として今日まで殺人ガス輸送車があるそうです。

3.及び4.貴殿の言及される2つの文書の用語法の差異は勿論見て取れますが、他の現存する文書が示すものとの比較として、これは『有り得そうにない点』には値しません。

貴殿を満足させる回答ができたのならと、そして最大の敬意を払えたのならと願います

(マシアス・ベーアの署名)


ピエール・マラスによる寸評

ピエール・マラスはマシアス・ベーアに4つの質問を投げかけた。ここにマラスの4つの質問と、続けてベーアによる回答、そしてまたマラスのそれによって生まれた所見を記す:

1.質問:「大まかに一貫している描写をした殺人ガス輸送車は、内燃機関の排気ガスが密閉された貨物区画の壁にかける内圧を考えた際にどのように機能するのですか?」

回答:「貨物区画内の強い圧力という問題は、殺人ガス輸送車の改良と運用に関わる人物たちには知られていたようです。それは管理された寸法の断片から、そして既に言及している1942年7月5日の書類の覚書から読み取れます。[……]更に、1542年[訂正:1942年]7月23日の書類の覚書にこう続きがあります:『後部扉の引き戸の開口部は排除され、後方上部の壁(扉ではなく)の100×10mm[4フィート×0.4フィート]の開閉可能な狭間複数に取り換えられた。』」

所見:既に私が強調しているように、そうした狭間は実際に貨物区画から排気ガスを逃がすことで過剰な内圧を防ぐことだろう。しかしそのことは殺人ガス輸送車が傷ができることもなく狭間なしで操縦され、最初の97,000人の犠牲者がその「3台の自動車で処理された」事の説明にはならない。

2.質問:「任務で使われたと言われている30台の殺人ガス輸送車のうち1台も見つかっていない事は驚くべきではありませんか?」

回答: 「戦後に殺人ガス輸送車が見つからないとしても驚くことではないでしょう、殺人ガス輸送車は、人々の絶滅によって残ったあらゆる痕跡と同様、大急ぎで可能な限り破壊されたのですから。しかし我々は戦後ポーランドの当局が撮影した殺人ガス輸送車の写真(ワルシャワの公文書館及びJerusamen[手紙そのまま]にあるヤド・ヴァシェム公文書館)を持っているだけでなく、私の情報によればコニンには犠牲者を弔う記念碑として今日まで殺人ガス輸送車があるそうです。」

366ページ

所見:人間の絶滅の痕跡がないのは、「ナチス」がその痕跡を破壊したからだというこの論理は、問題を解決してはおらず、代わりに問題を大きくしている。1つの主張――「人間絶滅の為の殺人ガス輸送車は存在した」――の証明をしなければならない代わりに、マシアス・ベーアは現在2つの主張を証明しなければならない状況に置かれた:「人間絶滅の為の殺人ガス輸送車は存在した」及び「あらゆる痕跡は破壊された。」

私の2つ目の質問への対応の中でベーアが提供した適切な情報の断片が示された。殺人ガス輸送車の写真と、そして大変重要なものがあるのだという:ポーランドのコニンの町は殺人ガス輸送車だったものを保有しているのだと(つまりこれはあらゆる痕跡が破壊されたわけではないという事だ)。

写真に関しては、[2.1.章]で私がポーランドの調査委員会が撮影したものは殺人ガス輸送車ではなくただの引っ越し用移動貨物自動車であると示した通りだ。報道機関が示した他の写真には、出典が提示された事がないがため、証拠的価値は全くない。そのためベーアの主張は単純に間違っている。

ベーアの2つ目の表明は更なる調査を惹起し、その結果は間もなく開示しよう。

3.質問:「1942年7月5日の書類の覚書[ジュスト文書]の中の、そして1942年のベッカー報告の中の有り得そうにない点には気付いていますか?」

4.質問:「これら2つの文書での完全に異なる語句はどのように説明するのですか――1つ目は『暗号』を試みており、一方で2つ目はガス殺と死を開けっ広げに話していますよね?」

回答:「貴殿の言及される2つの文書の用語法の差異は勿論見て取れますが、他の現存する文書[どれ?]が示すものとの比較として、これは『有り得そうにない点』には値しません。」

367ページ

所見:ベーアが2つの文書で「使用された語句の違い」しか見ていないのだとしたら、それは批判的な態度を欠いているという証明となる。彼には有り得そうにない点を見つけなかったのだとしたら、それは彼の、手近な、本質的に主に物質的かつ技術的な問題を調査する能力の欠如を明確に示している。

ベーアの中身のない回答はこの往復書簡を継続する保証をしていなかった。彼は、出典をより正確に挙げてくれという私の注文に言及しなかった。

戦後ポーランドの調査委員会によって撮られたとされる写真についてより知る為に、第三者がアウシュヴィッツ博物館とイェルサレムのヤド・ヴァシェム研究所に照会状を送っていた[371ページから参照]。まず、彼がアウシュヴィッツ博物館から受け取った反応の重要な文を引用しよう:

1)「コニンの地方に流れるネル川付近にあるヒトラーのヘウムノ絶滅収容所での排気ガスによる収容所殺害に使用された、ガス室として機能する自動車の写真をお送りします。」

2)「戦後、元絶滅収容所である事に基づいてヘウムノで記念碑が建てられました。」

その起源や、この写真の現在の記録上の位置に関してこれ以上の情報は提供されなかったため、これ以上の調査は当時行いようがなかった。送られた写真はフレミングが出版したものと同じで、放棄されたマギルス製の貨物自動車を写している。しかしこの写真を撮ったポーランドの調査隊は、これは殺人ガス輸送車ではなく単なる引っ越し用移動貨物自動車であると述べている([2.1.章参照])。

ベーアが言及した、コニンにある記念碑は、アウシュヴィッツ博物館が私たちに送った別の写真によって古い輸送車ではなく単なる石だと明らかにされている[375ページの写真参照]。そのためベーアは確実に間違っている。

ヤド・ヴァシェム公文書館の館長による返事は、それより更に驚くべきものだ。ホロコースト聖人伝の砦たるヤド・ヴァシェム公文書館は、私たちに同じ放棄されたマギルス製の引っ越し用移動貨物自動車の写真を送ったが、同時にこれ以外に写真はないとも述べた。しかし何物にも優っているのは、殺人ガス輸送車の別の写真を見つけたら教えてくれ、そしてその複製を送ってくれというこの公文書館の館長による要望だ! これがこの公文書館を運営するやり方だ:誰でもいいから自分らの好むものを文書の形で自分らに送ってくれ、そして自分らの目的に沿う起源を主張してくれ、と。誰が信憑性を気にしているのだ?

368ページ

131公文書の折り記号はそれぞれ5318/232と1007/31;彼らの現在の「殺人ガス輸送車」の図画の手持ちはhttp://collections.yadvashem.org/photosarchive/en-us/search.htmlの画像検索装置を使用している。

現在の筆者による寸評:2010年にインターネットから取った、付録1にある写真15は、ヤド・ヴァシェム公文書館からのものだという脚注を生やしており、ヤド・ヴァシェム公文書館は見返りとしてその原本を保有しているポーランド公文書館からその写真を受け取っているに違いないため、ヤド・ヴァシェムの嘆願は最終的に誰かの耳に入った事は間違いない。実のところ、ヤド・ヴァシェムの有線の蓄積情報基盤は、正史派のホロコースト歴史家ミハエル・トレゲンザ及びドイツのナチ狩りアダルベルト・リュッケルルから写真のうち2枚を受け取っていることを明らかにしている。131オストロフスキー社の引っ越し用移動貨物自動車を写しているヤド・ヴァシェムの「ガス殺車」の画像は、このような、誤解させるあるいは率直に嘘の脚注を帯びている(括弧書きの中に公文書の折り記号):

「ポーランドのコウォで、戦後に見つかったマギルス製の輸送車は、ヘウムノ収容所での殺人に使われた殺人ガス輸送車だと思われる。」(1264/2&1007/31;似たものに1427/84)

「ポーランド、ヘウムノの殺人ガス輸送車」(5318/232)

そうした問い合わせが行われた1980年代晩期及び1990年代初期の頃に戻っても、ヤド・ヴァシェムもアウシュヴィッツ博物館もポーランドの調査委員会のこの結果を知らなかったというのは信じ難い。彼らが知っていたのだとしたら、彼らは私たちに嘘を吐いたのだ。彼らがそれを知らなかったのだとしたら、彼らは甚だ無能だ。SA]

「コニンにある殺人ガス輸送車記念碑」とされるものに関して、私はパリにあるポーランド大使館に、それからコニンの町当局に、そして最後にヘウムノの町当局に問い合わせた。コニンの市当局のみが回答した[次ページ参照]。私はこの研究の正に始まりに彼らの簡素だが明瞭な回答を引用しているし、ここでもそれを繰り返そう:

「我々の町に記念碑としての殺人ガス輸送車はありません。」

369ページ

そのためベーアの研究結果として得られた情報と彼とのやり取りは、この研究内で出した結論への、即ち殺人ガス輸送車の物質的痕跡は存在しないことへの確証を強めるものである。

コニンの町からP・マラスへの手紙

370ページ

翻訳

(便箋上部省略)

ピエール・マラス氏へ

1988年4月26日付の貴殿からコニンの町の町長への手紙に関して、私は誠実に貴殿に、我々の町に記念碑としての殺人ガス輸送車はありませんとお伝えいたします。

広報課長

技術者カジミェシュ・ロバック

372ページ

アウシュヴィッツ博物館(ポーランド)からの手紙

翻訳

親愛なる■■■■夫人へ!

コニンの地方に流れるネル川付近にあるヒトラーのヘウムノ絶滅収容所での排気ガスによる収容所殺害に使用された、ガス室として機能する自動車の写真をお送りします。

これが、貴殿が興味を持たれている写真であると考えます。

戦後、元絶滅収容所である事に基づいてヘウムノで記念碑が建てられました。

貴殿はこの記念碑の写真を写真集「Locations of Jewish Martyrdom and Fighting on Polish Soil 1939-1945」の49〜50ページで見つけられます、それも同封します。

おおよそ330,000人の猶太人、数千人のジプシー、そして約5,000人のソ連人戦争捕虜と同様にリディツェからとポーランドのザモシチからのチェコの子供たちもこの為に特別に製造された自動車の中で排気ガスという手段によって殺されました。

「霊魂販売車」と呼ばれるこの自動車の写真は、アウシュヴィッツ博物館の27区画でも、元アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所でのユダヤ教徒絶滅の展示の一部として見られます。

貴殿の健康を心からお祈り申し上げます

イェルサレムのヤド・ヴァシェムからの手紙2通

■■■■婦人

■■■■■■■

88年1月14日

ミュンヘン2丁目D-8000


親愛なる■■■■婦人へ、


あなたが言及する話題――人々を殺すのに使用された殺人ガス輸送車――において我々の公文書館内で我々が獲得できる唯一の写真を同封しました。


この写真は$5.−します。


敬具

(ジューディス・レヴィン氏の署名)

ジューディス・レヴィン

公文書館

■■■■婦人

■■■■■■■

88年3月16日

西ドイツ国

ミュンヘン2丁目D-8000


親愛なる■■■■婦人へ、


殺人ガス輸送車として貴殿にお送りしたこの写真に関する更なる情報を大変苦しみながら見つけようとしましたが、何も分かりませんでした。


殺人ガス輸送車の写真を他に持っていない事を告げるのは大変心苦しいものがあります。


一方でもし貴殿がこの話題に関する他の写真を得た場合、それについて教えてゼロックス・コピーを送って下されば感謝いたします。


敬具

(ジューディス・レヴィン氏の署名)

ジューディス・レヴィン

公文書館

(訳注。左…1枚目。右…2枚目。)

yad-vashem1.png yad-vashem2.png

ヘウムノ記念碑の写真

chelmno-memorial.png

シュタイア・ダイムラー・プフ社からP・マラス氏への手紙

翻訳

(便箋上部省略;49ページの寸評参照)

返信:ドイツ国防軍の1942年ザウラー貨物自動車の「Mancheten」

親愛なるマラス氏へ!

同封されたあなたの照会に回答できる事を喜ばしく思い、そしてまた第二次世界大戦で最も恐ろしい出来事を思い出させる手紙のぞっとする写しそのものについて感謝いたします。

当時の「ザウラー」自動車は今日でも自動四輪車や、より小さな配達用輸送車の中で同じ原理に従って使用されている、真空機構で補助された油圧制動設備[増力制動設備]を備えておりました。

これに関係する「Manchete」とは真空補助のサーヴォ装置のゴム膜であり、それは頻繁に破れ、そうなると力の補助が減衰する事でその自動車は脚力によってしか制動をかけられなくなってしまいます。つまり完全に壊れてしまうというわけではありませんが、制動の有効性は減じてしまいます。

この手紙の中で言及されている鋳造は「鋳造」には使われておらず、ゴム膜の加硫に使われています。

この情報があなたの役に立ったならと願います

かしこ

シュタイア・ダイムラー・プフ

特別自動車株式会社

顧客対応―乗り合い自動車部門

(署名:ピラーとアウストゥリア)

steyr-daimler.png
―A―
Adam, Uwe Dietrich 68
Aitken, Jesse (=Robert Faurisson) ジェシー・エイトキン 105
Alvarez, Santiago サンティアゴ・アルヴァレス 169
Alvensleben, von フォン・アルフェンスレーベン 119、121
Andorfer, Herbert ハーバート・アンドルファー 171、221から
Angrick, Andrej 266
Apenszlak, Jacob 241
Arajs, Victor 266
―B―
Baldajewa, Dantschik 108
Bar-Or, prosecutor 144
Bauer, M. M・バウアー 85
Baum, of Gaubschat Company 333
Becker, August アウグスト・ベッカー 15から、40から、46、50、125、131、134〜137、174、188〜192、207、214、275
Bednarz, Władysław ウワディスワフ・ベドナーシュ 101、147、154〜166、232、255、259〜263、267、351から
Beer, Mathias マシアス・ベーア 14〜16、19、24、85、97、107、137、176、188、191、204、219、254〜263、362、365〜369
Beim, Aaron 252
Benz, Wolfgang 154、259から、263
Benzler, Felix フェリックス・ベンズラー 92
Berg, Friedrich P. フレドリック・ポール・ベルグ 24〜28、54、99、102から、107〜109、251、271から
Berg, Isai D. イサイ・ダヴィドヴィチ・ベルク 108から
Bernier, Jean ジーン・ベルニエ 355
Biberstein, Ernst エルンスト・ビーバーシュタイン 136から
Biondi, Jean 355
Bishop, James A. 114
Blobel, Paul ポール・ブローベル 23、139
Blumental, Nachman 259
Bobrenjow, Wladimir 108
Bock, Heinrich 191
Bond, James ジェームズ・ボンド 214
Bosiński, witness 証人ボジンスキー 165
Boüard, Michel de: 267
Bourtman, Ilya 22、110〜114
Brack, Viktor ヴィクトール・ブラック 94から
Braune, Karl 137
Bronowski, J. 33
Broszat, Martin 217
Browning, Christopher 23、31から、58、88〜92、222、259
Brünnert, Reinhold 184
Bulanov, Mikhail 121
Burmeister, Walter 145から、154、196、202、214
Büssing Company 211
Busvine, James R. 99
Byford, Jovan 22から、91、143、245〜253、258、267
―C―
Chelain, André アンドリュー・シェラン 27
Choumoff, Pierre-Serge 141、254、256、261、356〜361
Chri., Theodor L., defendant 226
Christmann, Kurt クルト・クリスマン 236、238
Crowell, Samuel 96、117、272
Czyzewski, Kazimierz 255、259
―D―
Daimler Benz company 25、30、32、254、348、357
Davies, William J. L. 97
Deboisse, General 142から
Decaux, Alain 36、280
Deckert, Günter 174
Deutz Klöckner-Humboldt-Deutz company参照
Diamond company ダイアモンド社 30、32、35、58から、63、145、152、187、189、192、211、214、227、254、260、357
Distel, Barbara 154、259から、263
Djinchviladze, witness 123
Dötzer, Walter 99
Dreh., Max, defendant 被告人マックス・ドレ某 235
Dreßen, Willi 145、189、259から
Dudzinski, Zbigniew 352
Dziopek, Jan 262
―E―
Ehlich, witness 139
Ehrenburg, Ilya 174
Ehrlinger, Erich 184
Eichmann, Adolf アドルフ・アイヒマン 94から、143、167〜169
Enge, Edgar 220から
Ernst, of Gaubschat company 326、331
Ernst, SS-Untersturmführer 45
Esc., Rudi F., defendant 232
―F―
Falborski, Bronisław 32、146〜152、155、163〜165、176、254から、258、262、266、349〜353
Faurisson, Robert 272、360
Fen[i]chel, E.M. 128から、163、174
Fin., Karl, defendant 231
Fine, Gary 252
Flatz, G. 278
Fleming, Gerald 31〜33、254、275、367
Fójcik, witness 164
Ford company 30、32、109、233から、254
Frank, Reinhard 97
Frentzel, Georg 242
Freund, Florian 141
Friedlander, Henry 88、90、216から、259
Friedländer, Saul 280
Fritzsche, Hans 138
Froboese, Viktor 25、201
―G―
Gaubschat company ガウプシャト社 78〜81、85、93から、131、145から、212から、218から、222から、257〜260から、263、270、272、295、307、314、317、326〜328、331、333
Gauss, Ernst (= Germar Rudolf) 40、108
Gawlik, Hans 139
Gazhik, Yevdokia Fedorovna 115
Gerchow, Joachim 195
Gerlach, Christian 92
Gerstein, Kurt クルト・ゲルシュタイン 27、36、280
Geyer, Georgie Anne 132から
Gielow, defendant 145、154
Giese, G. 87
Glücks, Richard 141
Gö., Heinrich, defendant 被告人ハインリヒ・ゴ某 231、237
Goebbels, Josef 138
Goercke, Kurt G. 243
Göhler, Ferdinand 175
Goiny-Grabowski, George 256
Götz, Wilhelm 56〜58、183
Grabowski, Kazimierz 166、261
Grabowski, witness 165から
Graf, Jürgen 13、25、59、101、116、201、268、272
Grigorenko, Pjotr 107
―H―
Ha., Hans Karl A., defendant 223、225から
Hackenholt, Lorenz 280
Haefele, Alois 202
Halbersztadt, Jerzy イェジー・ハルバーシュタット 33、35、151、162、275から
Har., Adolf Josef 205
Hartman, Geoffrey 252
Haßler, Johann 152、193、209
Heess, Walter 217、219
Heim, Roger 360
Heinisch, Georg 119〜123
Heinl, Karl 202
Heuser, Obersturmführer 178
Heydrich, Reinhardt 174
Hildebrandt, Richard 90
Himmler, Heinrich 87〜90、122、138、140〜143、174、189、355
Hitler, Adolf アドルフ・ヒトラー 33、108、114、119、122、138、174、239、247、250、317、331、333、342、367、372
Hoffmann, Helmut 213
Höppner, Rolf Heinz 139
Höß, Rudolf ルドルフ・ヘス 166、217
Hostettler, John 111
Humboldt-Deutz Klöckner-Humboldt-Deutz company参照
―I―
Inozemtseva, witness 117
Irving, David 88
Israel, Bruno 157、161から
―J―
Jankowski, witness 164、352
Jodl, Alfred 138
Johnson, Eric A. 255
Junkiert, witness 164、352
Just, Willy 39、58、66、68
―K―
Kallmeyer, Helmut ヘルムート・カルメイヤー 94から
Kaltenbrunner, Ernst 122、140、142
Kauffmann, Kurt 128
Keeser, Eduard 25、201
Keh., Walter, defendant 234
Kempner, Robert M. 91
Kinder, Johannes E. 242
Klamper, Elisabeth 261、357
Klee, Ernst 145、189、254、259から
Klein, Peter 262、266
Klöckner-Humboldt-Deutz company 25、32から、147、163から、176、254、348、367から
Knoepfli, Adrian 24
Kogon, Eugen オイゲン・コーゴン 52、62から、67、69、81から、131、145から、154、170、173から、196、208、216、253〜264、334〜336、356
Kohl, Paul 152、260〜263
Köhler, Manfred 125、236
König, Mario 24
König, Ralf 165
Koszeinski, physician 139
Kotov, witness 117
Kraft- und Reichsstrassenbauamt, company 162
Krakowski, Shmuel 162
Kranz, Tomasz 265
Krausnick, Hans 216
Kre., Karl Ernst R., defendant 226
Krebsbach, physician 140
Krieger, of Gaubschat company 314、326、331
Kues, Thomas 12から、106、116、180、268、272
―L―
Laabs, Gustav 146、154、201〜203
Langheld, Wilhelm 120
Lanzmann, Claude 148から、169、255、263
Laqueur, Walter ワルター・ラカー 105
Laternser, Hans 139
Lawrence, Geoffry 128
Lebailly, Jacques 267
Leiding, Friedrich 213
Lemaître, Claude 355
Leo, Richard A. 127
Leuchter, Fred A. 272、360
Lewandowski, witness 164、166、352
Ley, Astrid 16、26から、261〜265
Lip., Theodor, defendant 231
Loewenstein, Karl 255、260から、266
Lohse, Heinrich ハインリヒ・ローゼ 94
―M―
Magirus Klöckner-Humboldt-Deutz company参照
Mahler, Horst 174
Mańkowski, Bronisław 151、164
Mann, Thomas トーマス・マン 106から
Manoschek, Walter 23、88、183、221、252、255、259〜262
Manstein, Erich von 234から
Marais, Pierre ピエール・マラス 11から、15から、19、36、43、49、63、72、84〜86、191、198、272から、311、355、362〜365、370、376から
Martin, Ernst 357
Maržálek, Hans 139〜142、298
Mattogno, Carlo カルロ・マットーニョ 12〜15、25、27、38、59、101、116、123、144、146、160、169、192、201、218、259、266、268、271から、280
Meier, Kurt 191
Mengele, Josef 252
Meyer, Artur 260
Meyer, Erwin 56〜58、183
Meyerhoff, Hans 152
Meyszner, August 88、91、247、342
Michailov, Alexander 108
Milsom, John 97から、346〜348
Milton, Sybil 88、90、216から、259
Miszczak, Andrzej アンジェイ・ミジュタック 156、158、232
Morsch, Günter 16、26から、261〜265
―N―
Nebe, Arthur 215〜217
Niebergall, Fred 41
Nowak, Hans Jürgen ハンス・ユルゲン・ノーワーク 101
―O―
Ohlendorf, Otto 85、135から、139、189
Opel company 30、32、35、87、189、192、214、218、254、348、357
Österreicher, of Gaubschat company 377
Ostmark company 269
Ostrowski company 33〜35、147、149、155、161〜166、170、352、368
Oswald, Werner 97
Otto Koehn company 34
―P―
Paget, Reginald T. 235
Paland, Herbert H. 241
Pattle, R.E. 25、69
Pechersky, Alexander 116
Perz, Bertrand ベルトラン・ペルツ 16、26から、141、261〜265
Peters, Gerhard 96
Piaskowski, Jozef 151、164から
Piller, of Gaubschat company 377
Piller, Walter 145から、196から、263
Pinochet, General 134
Podchlebnik, Michał ミヒャワ・ポドフレブニク 156〜159、167、169、255、259〜263
Porter, Carlos 42
Pradel, Friedrich 56から、78、85、131、134、190、207〜212、297
Prusin, Alexander V. 111
―R―
Rademacher, Werner 101
Rassinier, Paul 40、355
Rauff, Walther 16、40〜44、52、60、66、81から、125、130〜135、139、141、210から、275、288、297から、309、315
Reder, Rudolf 27
Rediess, Wilhelm 275
Reithmann, Christian クリスティアン・リースマン 25
Remer, Otto E. 174
Renault company 30、32、145、192、214、254、357
Retzlaff, Reinhard 120
Reuband, Karl-Heinz 255
Ribbentrop, Joachim von 91
Richter, Heinz R.H. 206、223、225
Rie., Heinz G., defendant 被告人ハインツ・G・リー 174、233、241
Rieß, Volker 145、189、259から
Riquet, Michel 355、360から
Ritz, Hans 120
Rjasanzwe, Waleri 108
Robak, Kazimierz 370
Robert J., van Pelt 265
Roques, Henri ヘンリー・ローキ 27
Rosa, Zenon 352
Rosenberg, Heinz 255、259〜261
Ross, Colin 137
Rossa, witness 166
Roszak, Zygmunt 352
Rübe, Adolf 178から
Rückerl, Adalbert 82、173、261、336〜338、368
Rudolf, Germar 13、24から、40、54、98、102〜105、109、125、174、210、269〜272、360
Rühl, Felix 190
Rüter, Christiaan F. 53から、59、73、169、182、195、239、241、264
―S―
Sack, John 144
Sackenreuter, driver 137
Sakowska, Ruta 260〜263
Sanford, George 21、111
Sattler, Bruno W. 243
Saurer company ザウラー社 18、24、29〜32、35、44から、49〜53、56〜60、64、66、69〜74、87、92から、102から、125、129〜131、145、154、163、166、180〜183、187、189、192、204、211〜214、219から、254〜261、264、269、272、278、298、314から、326、331、333、357、364、377〜379
Schäfer, Emanuel 56、180〜182、222、244
Schindler, Oskar 252
Schirach, Baldur von 137から
Schl., Heinz Joachim, defendant 被告人ハインツ・ヨアヒム某 224〜230
Schlu., Johannes P., defendant 232
Schuchard, Siegfried 231
Schumacher, Hans 184〜186
Schwindt, Barbara 264、385
Seidler, Franz. W. 17
Sev., Friedrich, defendant 231
Sharf, Andrew アンドリュー・シャーフ 106
Sherman-Zander, Hilde 255、261、265
Siegert, Karl 17
Smirnov, L.N. 128、162
Smoliar, Hersh 255
Sodomka company 326
Spielberger, Walter J. 97
Srebrnik, Szymon サイモン・スレブルニク 32、154、156、159、165〜169、202、254、259、263
Stalin, Joseph 108、113
Steinke, Alexander 196
Steyr-Daimler-Puch company 49、376から
Stolz, Sylvia 174から
Stro., Karl, defendant 被告人カール・ストロー某 230
Stuhlpfarrer, Karl 141
Sukkel 58、326、331
Szablewski, Marian 352
Szlamek, witness 241、262
―T―
Teslya, Vasily I. 107
Thompson, A.G.G. A・G・G・ソンプソン 162
Tishchenko, Vladimir 112、116
Töben, Fredrick 174
Tri., Kurt, defendant 231
Trühe, SS-Hauptsturmführer 58
Trunk, Achim 26〜28
Turnau, Richard 25、201
Turner, Harald 39、87〜92、221、341から
―U―
U., Walter, witness 221
―V―
Verbeke, Siegfried 174
Volodarsky, Boris 108
Voslensky, Michael S. 109
―W―
Walch, Stephan G. 21
Walendy, Udo 75から、107、174
Wasiczki, physician 141
Wecker, Ingrid 16、40から、63、66から、78〜82、130、142、198、328
Wellers, Georges 69
Wells, Tom 127
Wentritt, Harry 85、207〜214
Werner, Paul 219
Wetzel, Erhard 39、94
Widmann, Albert アルバート・ワイルドマン 15、215〜220、230、242から
Wilhelm, Hans-Heinrich 216
Win., Heinrich A., defendant 232
Wipf, Hans Ulrich 24
Wolff, Karl 87、341
Wüstinger, Emil 96
―Z―
Zamosc, Leon 33
Zayas, Alfred de 144
Ziereis, Franz 139〜142
Zündel, Ernst エルンスト・ツンデル 174から
Żurawski, Mieczysław ミェチスワフ・ジュラフスキ 101、154、156、159〜161、165〜170、267