フランス、ナント大学のアンリ・ロックという学生が、“元親衛隊将校ゲルシュタインの告白”と呼ばれる文を可能な限り資料と照らし合わせ、その内容の信憑性に疑問を呈した博士論文を書いたが認定を取り消され、抗議を試みた研究者セルジュ・ティオンも大学を追放された。
博士論文目次概要
アンリ・ロックは1962年ポール・ラッシニエに出会い、『アイヒマン裁判の真実、又は救いようのない勝者達』を受け取り感銘を受ける。その後1979年ガス室の実在を疑うフォリソンのル・モンド紙記事に対して、歴史家達が唯一ゲルシュタイン証言のみを証拠に挙げたことでこのテクストに興味を持つ。
アンリ・ロックは、ポール・ラッシニエがゲルシュタイン告白の信憑性を常に疑っていたことを思い出した。ラッシニエは実際様々な御用歴史家によるゲルシュタイン告白の“引用文”の数々を照らし合わせ、同じテクストからの引用にもかかわわらずその内容が必ずしも常に一致しないことに気付いていた。
「フォリソンへの返答として歴史家達が引用したゲルシュタイン告白の引用文には“25m2に600〜700人が立たされ扉が閉まった”とある。無論ガス室のことだが(……)多くの読者が、『1m2に28〜30の人間を詰めることはどう考えても物理的に不可能である』とル・モンド紙に書き送った。」
それに対してル・モンド紙は1979年3月8日に、ゲルシュタイン告白文は“その本質においては真実を語っている”という風に解釈しなければいけないとするレオン・ポリアコフとヴィダル・ナケの返答を掲載した。
ようやく1985年6月15年に博論審査が行われ、およそ40名が傍聴する中順調に終了し、最良の評価が与えられた。この論文に対するプレス反応は『リヴァロル紙』に掲載された「真実にまた一歩近づく」という記事だけだった。
アンリ・ロックの博士論文は、ゲルシュタイン告白がガス室実在の証明にはならないことを実証していた。
論文に対する度を外したバッシングは1986年に始まった。例えば左派誌『トリビューン』は“ガス室の存在を否定する論文に最優秀の評価!”とナント大学を罵倒。クロード・ランズマンはTV討論でロックを“ドブねずみ”と呼ばわりし、シラク大統領は“この論文の無能ぶりには怒りを覚える”と発言。
1986年7月、文部省はアンリ・ロックの論文審査が公式の形式に則っていなかったという理由で博士号抹消を決定。ロックは“形式上の不備を理由にした博士号抹消はまさに論旨に対してはまともに反論できない証拠で実に喜ばしい” とこの決定を一笑した。
ロックの指導教官や論文審査にかかわった人々、その後支持を表明した人々への法的社会的弾圧ぶりについても克明に報告してあるのですが、あまりの壮絶さと件数の多さに紹介しきれないくらいです。
正確には、元々アンリ・ロックはナント大学の学生でなく、パリ・ソルボンヌ大学の教授を指導教官にしていたが、論文執筆が終わってもその内容のあまりの危険性に審査を引き受ける教授が見つからないまま指導教官をナント大学の教授に変え、籍をナント大学に移した。