「とにかくはアウシュヴィッツだ!
この食事を見て欲しい。
これはアウシュヴィッツ博物館で展示されている囚人の一日分の食事の再現モデル。
そしてこれがアウシュヴィッツ博物館で販売している24ページのパンフレット(約90円)だ。
『アウシュヴィッツ』というのはドイツ語の表現で、ポーランド語では『オシフィエンチム』という。
写真を見る限りパンフレットには両方が書かれているようだ」
「ポーランドの博物館なのに日本語なのね」
「アウシュヴィッツ収容所の入り口に売店があって、そこのガイドブックは各国語版があるのよ。
世界中から観光客が来るからね。
日本語だけじゃないわ」
「ふーん」
「アウシュヴィッツ博物館の説明によれば、囚人の一日分の食事は、朝食はコーヒーと呼ばれた500ccの茶色の液体(写真手前)、
昼食は1リットルのほとんど水のような腐った野菜で作られたスープ、黄土色でほんの少しだけ具が入っている(写真では左奥)、
夕食は、300〜350gの黒パンと3gのマーガリン(写真では右奥)、それと薬草の飲み物だけだった。
一日の食事のカロリーは1300〜1700kcalカロリーで、体力がなくなり、労働不能になった時点でガス室行きだった。
あまりに酷い……
人間性の欠片もない残酷極まる話だ」
「それはアウシュヴィッツ博物館が言っているだけだ。
模型のような食事が本当だったという確たる根拠は何もない」
「言っているだけとはどういう意味ですかな?」
「文字通りですよ。
アウシュヴィッツの囚人たちは博物館の模型のようなわけの分からない食事などしていなかった。
アウシュヴィッツの囚人たちは収容所外のドイツ国民や、前線の兵隊よりもよっぽどいいものを食べていたんです」
「その根拠は?」
「いくつかありますが、まずはこれを見ていただきたい」
参考資料 : 著木村愛二
電子手紙の送信日付け順・注釈付き一般公開文書館
6.15.(金)「歴史見直し論は今やイスラエルの最重要の敵」と題するアメリカのシオニスト機構電網腐庫研究
送信日時:2001年 6月 15日 金曜日 10:36 PMより
アラファトの公式の出版物は、長年、ホロコーストを否定してきた。
たとえば、アラファトのパレスチナ政権の赤十字が出版する『バルサム』の1990年7月号は、以下のように主張している記事を掲載した。
「ガス室に関する嘘は、ユダヤ人がイスラエル国家を確立するのを可能にした」
「ユダヤ人は全人類に対して彼ら自身を主人と考えている」
「ニュルンベルク法廷は主にユダヤ人と彼らの友人によって占領されていた」
これと同様に、キプロスに本拠地を置くPLOの新聞『エル・イスティグラル』は、1989年12月23日と30日、「ナチ・ガス室でユダヤ人が燃やされたと称するのは、新しいナチズムを合法化するための20世紀の嘘」という見出しの記事を連載した。その記事では、以下のように主張していた。
「ユダヤ人は、ゲシュタポに対して彼らの処遇についての不満を述べているが、現地で確認された食堂設備が証明するように、彼らは健康的な食物を提供されていたのであって、ナチスの収容所はイスラエルの刑務所よりも文化的だった」
「PLO(パレスチナ解放機構)の新聞は『ナチスの収容所はイスラエルの刑務所よりも文化的だった』と伝えています」
「ふん。こんなものがソースになると思っているのか?
たしかにパレスチナがイスラエルにされていることを考えれば、彼らに同情の余地はある。
しかし、これは戦争には付きものの戦場プロパガンダの一種と考えるべきだろう」
「今、検察側は、『戦争には付きものの戦場プロパガンダ』と言ったな。
つまり、戦争には根も葉もない噂が流れることは常識と考えていいんだな?」
「そうだ。
パレスチナは国際社会の同情を買おうとして、ホロコースト否定論でイスラエルを攻撃している。
ただそれだけのことだ」
「なるほど。
では、連合軍が国際社会の同情を買おうとしてホロコースト肯定論をでっち上げた、という可能性は否定できないということだな?」
「可能性の話だ。それよりこれはソースにならないぞ。
これでわかるのはPLO(パレスチナ解放機構)がそーいう記事の新聞を書いているということだけだ」
「たしかにこのソースだけではあまりに信用度が低い。
だが、このソースは『ナチスの収容所はイスラエルの刑務所よりも文化的だった』という主張をしている勢力が存在するという証拠になる。
ホロコースト否定論は奇説でも、悪質なプロパガンダでもない。
実際に無視できない有力な説だということだ」
「なるほど。
しかし、ホロコースト否定論が存在することと、それが正しいことは別問題です。
弁護人、PLO(パレスチナ解放機構)の新聞『エル・イスティグラル』の内容が正しいと立証できるのですか?」
「もちろんです。
弁護側はこの資料を提出します」
「これは『John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos』より引用した1998年オーストリアのマウトハウゼン収容所で発見された食糧配給資料です。
当時、ドイツ占領下の収容所では、囚人の食事の量は決められていました。
食事の量の基準はどこの収容所でも共通で、アウシュヴィッツも例外ではなかった」
「John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos」より
食品 1940年8月1日〜
1942年5月14日1942年5月15日〜
1944年4月27日1944年4月28日〜
1945年2月28日1945年3月1日〜 肉/肉製品 400グラム
=14オンス
=毎日2オンス(1)280グラム
=10オンス
=毎日1.5オンス(2)200グラム
=8オンス
=毎日1オンス250グラム
=9オンス
=毎日1.2オンス脂肪合計:
バターかマーガリン
脂肪か油脂汁200グラム=7オンス
150グラム
=1/2カップ
=毎日1大匙
50グラム
=2大匙
=毎日1小匙170グラム=6オンス
130グラム
=2/5カップ
=毎日1大匙
30グラム
=1.3大匙
=毎日2/3小匙182.5グラム
=7オンス
---------
---------83.33グラム
=3オンス
---------
---------チーズ/
チーズ・ミックス
低脂肪チーズ50グラム
=1/8カップ
=毎日1/4大匙
50グラム
=1枚
=毎日1/7枚50グラム
=1/8カップ
=毎日1/4大匙
50グラム
=1枚
=1/7枚100グラム
=1/4カップ
=毎日1/2大匙
---------41.66グラム
=1/8カップ
=毎日1/4大匙
---------ライ麦パン 2740グラム
=3斤
=毎日1/2斤2450グラム
=3斤
=毎日1/2斤2600グラム
=3斤
=毎日1/2斤1750グラム
=2斤
=毎日1/3斤砂糖 80グラム
=1/3カップ
=毎日1大匙80グラム
=1/3カップ
=毎日1大匙80グラム
=1/3カップ
=毎日1大匙---------
マーマレード 100グラム
=1/4カップ
=毎日1大匙100グラム
=1/4カップ
=毎日1大匙100グラム
=1/4カップ
=毎日1大匙260グラム
=2/3カップ
=毎日2.5大匙ビタミン 150グラム 150グラム 255グラム(3) --------- 小麦粉か混合小麦粉 225グラム
=1/2カップ
=毎日1大匙125グラム
=1/4カップ
=毎日1/2大匙125グラム
=1/4カップ
=毎日1/2大匙---------
低脂肪ミルク ---------
---------
1.7リットル
=7カップ
=毎日1カップ1.7リットル
=7カップ
=毎日1カップまがい物コーヒー (4) 84グラム
=14カップ
=毎日2カップ63グラム
=11カップ
=毎日2カップ62.5グラム
=11カップ
=毎日2カップ33.33グラム
=6カップ
=毎日1カップジャガイモ 3500グラム
=7ポンド
=毎日1ポンド5000グラム
=11ポンド
=毎日1.5ポンド2800グラム
=6ポンド
=毎日1ポンド3500グラム
=8ポンド
=毎日1ポンド新鮮野菜 2800グラム
=6ポンド
=毎日1ポンド2600グラム
=6ポンド
=毎日1ポンド4000グラム
=8ポンド
=毎日1ポンド375グラム
=3/4ポンド
=毎日2オンス
- 1941年10月1日から、第2級の肉すなわち馬肉は、320gに減らされた。
1942年1月1日から、さらに280gに減らされた。- 1943年5月31日から、この量は200gに減らされた。
同時に、ライ麦パンは75g、脂肪は12.5g増やされた。- 175gのインゲン豆かえんどう豆がここに含まれていた。
- 囚人が「ドイツ茶」を選択すると、まがい物のコーヒーは9gから4gに減らされた。
- 1941年10月1日から、第2級の肉すなわち馬肉は、320gに減らされた。
1942年1月1日から、さらに280gに減らされた。- 合計か少量
「肉製品は種類によってかなりカロリーに差があります。
計算に馬肉を使ったのは低カロリーだからです。
実際には牛とか豚を使った料理も出ただろうから、この計算よりもカロリーは高かったと思われます」
「ふむ、中世ヨーロッパのカトリックの教えでは馬肉は食べてはいけなかったらしいですが、この頃は食材として普通に食べられていたようですね」
「旧約聖書で『最高の御馳走』は、イナゴの蜂蜜漬けだそうで……
相変わらず西洋人の神様はわけがわかりませんね」
「紀元前に作られた書物に出てくる神様の文句を俺に言われても困るんだが……
ごほん、そして上記の食事に加えて、重労働者には食事が追加された。
この量もちゃんと決まっている」
参考資料: 武器工場、石切り場、鉱山で働いている囚人には支給された毎週の特別配給
「John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos」より
食品 1940年8月1日〜
1942年5月14日1942年5月15日〜
1944年4月27日1944年4月28日〜
1945年2月28日1945年3月1日〜 肉/肉製品 400グラム
=14オンス
=毎日2オンス(5)280グラム
=10オンス
=毎日1.5オンス280グラム
=10オンス
=毎日1.5オンス350グラム
=12オンス
=毎日1.6オンス脂肪 100グラム
=1/3カップ
=毎日1大匙100グラム
=1/3カップ
=毎日1大匙100グラム
=1/3カップ
=毎日1大匙57グラム
=1/6カップ
=毎日1/2大匙ライ麦パン 1400グラム
=2斤
=毎日1/3斤1400グラム
=2斤
=毎日1/3斤(6)1400グラム
=2斤
=毎日1/3斤1100グラム
=1.5斤
=毎日1/4斤
「別の収容所に移送される囚人には、旅行1日につき、ライ麦パン500g、ソーセージ50g、マーガリン60gが配給された。
これらの資料から囚人の食事のカロリーを計算してみるとこうなる」
参考資料:@『すべての強制収容所の囚人のための毎週の食糧配給』からのカロリー計算結果
食品 kcal/g 1941/8/1〜
1942/5/141942/5/15〜
1944/4/271944/4/28〜
1945/2/281945/3/1〜 肉・肉製品
(馬肉と仮定)110kcal/100g 440kcal 308kcal 220kcal 275kcal 脂肪
74.5kcal/10g 1490kcal 1266kcal 1360kal 620kcal チーズ/
チーズ・ミックス
低脂肪チーズ358kcal/100g 358kcal 358kcal 358kcal 147kcal ライ麦パン 265kcal/100g 7287kcal 6492kcal 6980kcal 4637kcal 砂糖 384kcal/100g 307kcal 307kcal 307kcal 0kcal マーマレード 18kcal/20g 90kcal 90kcal 90kcal 234kcal 小麦粉or
混合小麦粉370kcal/100g 832kcal 462kcal 462kcal 0kcal 低脂肪ミルク 102kcal/200g 0kcal 0kcal 867kcal 867kcal まがい物コーヒー 0kcal 0kcal 0kcal 0kcal 0kcal ジャガイモ 99kcal/100g 3465kcal 4950kcal 2772kcal 3465kcal 新鮮野菜
(キャベツと仮定)10 kcal/50g 560kcal 520kcal 800kcal 75kcal 一週間の合計kcal 14823kcal 14753kcal 14216kcal 10045kcal 一日の平均kcal 2117kcal 2107kcal 2030kcal 1435kcal
参考資料:A特別手当分のカロリー計算結果
食品 kcal/g 1941/8/1〜
1942/5/141942/5/15〜
1944/4/2744/4/28〜
45/2/2845/3/1〜 肉 /肉製品 110kcal/100g 1600kcal 308kacl 308kcal 385kcal 脂肪 74.5kcal/10g 745kcal 745kcal 745kcal 425kcal ライ麦パン 265kcal/100g 3700kcal 3700kcal 3700kcal 2915kcal 一週間の合計kcal 6045kcal 4753kcal 4753kcal 3725kcal 一日の平均kcal 864kcal 679kcal 679kcal 532kcal
参考資料:B別の収容所に移される囚人に与えられた特別手当て分のカロリー計算結果
食品 kcal/g 1941/8/1〜
1942/5/141942/5/15〜
1944/4/271944/4/28〜
45/2/281945/3/1〜 ソーセージ(馬肉) 110kcal/100g 55kcal 55kacl 55kcal 55kcal 脂肪(マーガリン) 74.5kcal/10g 447kcal 447kcal 447kcal 447kcal ライ麦パン 265kcal/100g 1325kcal 1325kcal 1325kcal 1325kcal 一週間の合計kcal 1827kcal 1827kcal 1827kcal 1827kcal 一日の平均kcal 261kcal 261kcal 261kcal 261kcal
参考資料:C重労働者の食事のカロリー計算結果(@+A)
食品 kcal/g 41/8/1〜
42/5/1442/5/15〜
44/4/2744/4/28〜
45/2/2845/3/1〜 一日の平均kcal 2981kcal 2786kcal 2291kcal 1967kcal
参考資料:D別の収容所に移される囚人の食事のカロリー計算結果(@+B)
食品 kcal/g 1941/8/1〜
1942/5/141942/5/15〜
1944/4/271944/4/28〜
1945/2/281945/3/1〜 一日の平均kcal 2378kcal 2368kcal 2378kcal 1696kcal
「人間が一日に必要なカロリーは、当然の話だが個人によって差がある。
適切なカロリーの計算の方法の一つとして、まず身長から標準体重を計算し、その体重に応じてカロリーを計算するやり方がある。
まず、身長から体重の出し方は身長(m)×身長(m)×22となる。
これが身長に対する標準体重だ。
俺の場合、175センチだから、1.75×1.75×22≒67.4kgとなる。
日本医師会のWebサイト(www.med.or.jp/forest/health/eat/01.html)によると、体重1kgに対して必要なカロリーは……
ということらしい。
これらを考慮すると、175センチの人間が中程度の活動の場合、一日に必要なカロリーは2022kcal〜2359kcalとなり、
重労働の場合、一日に必要なカロリーは2359kcal〜2696kcalとなる。
以上のカロリー計算より、時期によって与えられた食事の量は変化しているが、1945年3月〜終戦までの2ヶ月を除けば、必要なカロリーは十分摂取していたと考えられる」
「終戦二ヶ月前の1400kcalってのは、ドイツの国家体制そのものが崩壊してたからしょうがないとして……
それでも1400kcalかぁ…
逆に言うと、東部戦線が崩壊しても2000kcal以上は配付してたわけなのよね」
「こんな素人が計算したようなデータが、信頼に値すると本気で思っているのか?」
「多少の間違いはあるだろうな。
現在の食品と、大戦中の食品のカロリーが同じという保証は無いし。
そもそも現在の日本の基準と、ナチス・ドイツの基準が同じかどうかもわからない」
「ふっ やはりな。つまり上の計算結果など何の役にも立たんということだ」
「そいつはどうかな?
上の計算結果がそれほど間違っていないという証拠ならあるぜ」
「何だと? どこにそんな証拠が……」
「毎度お馴染みの『600万人は本当に死んだか?』だよ。
ツンデル裁判で徹底的に検証された本だから、この本の内容は全面的に信用できる。
証拠となるのは、赤十字の報告書についての記述部分だ」
参考資料:『Did Six Million Really Die?』著Richard E Harwood
That several thousand camp inmates did die in the chaotic final months of the war brings us to the question of their war-time conditions. These have been deliberately falsified in innumerable books of an extremely lurid and unpleasant kind. The Red Cross Report, examined below, demonstrates conclusively that throughout the war the camps were well administered. The working inmates received a daily ration even throughout 1943 and 1944 of not less than 2,750 calories, which was more than double the average civilian ration in occupied Germany in the years after 1945. The internees were under regular medical care, and those who became seriously ill were transferred to hospital. All internees, unlike those in Soviet camps, could receive parcels of food, clothing and pharmaceutical supplies from the Special Relief Division of the Red Cross.
私家訳:大戦の最後の混沌とした数ヶ月のうちの収容所の収容者数千人の死は、我々に戦時中の状態についての疑問を抱かせる。これは、赤々と眩く輝く不愉快な種類の数え切れない程の書物の中で念入りに歪曲されている。赤十字報告は以下のように精査し、戦争の間中収容所はよく管理されていたと決定的に示している。労働する収容者は1943と1944年を通してさえ毎日2,750カロリーを下らない食事を受け取っており、これは1945年以降の占領下ドイツの市民の平均的な食事の2倍以上である。抑留者は定期的な医療手当を受けており、重病を患った者は病院へ輸送された。ソ連の収容所にいた者とは異なり、全ての抑留者は赤十字の特別厚生課から食料、衣服、そして薬品の補給を受けられた。
「赤十字の報告書には、1943年から1944年の間ですら、重労働者は最低でも一日に2750カロリーを摂取していたとある。
上の計算結果では、1942/5/15〜1944/4/27までの重労働者に与えられたカロリーが、2786カロリーだったから、上の計算結果と赤十字の計算結果はほぼ一致していると考えていいだろう。
これは、上の計算結果はそれほど間違っていないということを意味している。
また、2750カロリーというのは、1945年から数年間のドイツ人の平均摂取カロリーの2倍に相当する。
終戦直後のドイツでは日本とは違って連合国による経済封鎖が行われ、食糧の流通がまともに機能していなかったために非常に多くの餓死者が出た。
……その事実が明るみになったのは戦後数十年経ってからのことだったがな。
さて、お前さんの言う『アウシュヴィッツの囚人の食事のカロリーは1300〜1700カロリー』というのは何の資料を元にしてるのかな?
アウシュヴィッツ博物館のパンフレットが何を参考にして数字を言っているのかを教えてもらおう。
それともやっぱり、毎度お馴染みの裏づけの無い証言だけか?」
「ぬぐぐぐっっっ!」
「うーん、上の計算結果を見る限り、ユダヤ人をわざと飢えさせるということは無かったように見えますね」
「実際、『ユダヤ人をわざと飢えさせろ』という命令は出ていないしな。
餓死命令が立証できないことは、連合軍の調査でも確認されている」
参考資料: 『「収容所の解放」事実と嘘』 著セオドア・オキーフ
このゴードン博士の言葉は,ラッセル・バートン医師の言葉とも符合する.バートン医師は現在,世界的に知られた心理学者である.彼は1945年,若き医学生としてイギリス軍と共にベルゲン・ベルゼン収容所入りし,病にかかった生存者の看護を自ら買って出た.彼は1985年,トロント裁判所で証言台に立ち,次のように述べた.「第二次世界大戦中,ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死んだ何千もの囚人は,故意に餓死させられたのではなく,病に倒れたのです.私は収容所に入るとすぐ,故意の餓死の可能性について考えました.しかし設備の行き届いた台所,注意深く管理された食卓などを調査した結果,そのような可能性がないことに気づきました.1942年以降,きちんと整備された台所・食卓で,毎日調理が行われ,食事が提供されていたのです.」広く出回っている主張として,ドイツ収容所では餓死による殺戮政策が取られていたという主張がある.しかし,それを示すいかなる文書も見つかってはいない.
「収容所ってのはある意味安全地帯なんだよ。
第二次世界大戦中の日本でも、一般人でもっとも食事が安定して食べられたのは刑務所の囚人たちだった。
刑務所の外が食料不足でも、定められた量の食事が囚人には与えられていたんだ」
「ホント、お役所仕事よねぇ」
「それと同じで、収容所の中の方が、前線の兵士や外界の一般人のよりもよっぽどいい食事が与えられていた。
収容所の囚人たちは、外部世界よりも収容所内のほうが生活水準が高いことを知っていた。
外部では差別されるし、ゲシュタポがスパイ狩りやゲリラ狩りに忙しく、いつ連合軍の爆撃に遭うかもわからない。
共産主義者の爆弾テロに巻き込まれたり、ドイツ軍のゲリラ掃討作戦に巻き込まれるかもしれないことを考えれば、収容所の中の方が平和で豊かな生活が保障されていた。
共産主義者の十八番である味方殺しの自作自演テロは、一般のユダヤ人にはドイツ軍以上に恐れられていたため、ユダヤ人たちはユダヤ・ボリシェビキの引渡しに進んで協力した。
外部がこんな状態だったから多くのユダヤ人は収容所から出ることを望まなかった。
収容所の管理は武装親衛隊が行っていたが、1944年の武装親衛隊の半分近くが外人部隊だったことからも常に人手不足だった。
国防軍から召集がかかれば、ドイツ人の親衛隊は徴兵されてしまうからな。
だから収容所の経営は、ユダヤ人自身に任されることが多かった」
「だから暴動が起こることがあったのね。
自治を任せられたユダヤ人が暴動を起こすのは簡単だから」
「そうだ。
収容所の武装親衛隊は基本的に警棒を持つことは許されなかった。
これは、警棒によって暴力事件が起きてしまうことを防止するためだ。
機関銃で武装していたのは、収容所を外部から守る警備隊だけで、収容所内の武装親衛隊は護身用のリボルバーを持っている程度だった。
囚人の中には収容所のやり方に服従する模範生がいた。
だが、こいつらは共産主義者が多かった」
「何を馬鹿なことを……
ナチは狂信的な反共主義者の集団だぞ。
共産主義者を模範生にするわけがない。
第一、共産主義者が模範生になれば何をし出すか―――、あ……」
「そう、何をするかわからない。
例えば暴動とかな。
親衛隊はユダヤ人の模範生に収容所の運営を任せた。
しかし、その模範生の多くは共産主義者で、親衛隊の信頼を勝ち取り、他の囚人をまとめる権限を得た。
その権限の拡大の仕方はスターリン式の逆らう者は皆殺しという残虐なやり方だった。
だが、それらの虐待はドイツ人看守には届かなかった。
模範生の共産主義者が情報を親衛隊へ伝えなかったからな。
結局、見事に裏切られたが、その事実は米軍によって確認されたのに、今日では無かったことになっている」
参考資料:ベルゼン裁判 第19日―1945年10月8日月曜日
弁護人ウィンウッド少佐による被告ヨーゼフ・クラマー(アウシュヴィッツ収容所副所長)への尋問
Trial of Josef Kramer and forty-four others (The Belsen Trial), edited by R. Phillips, 1949.より
Q:所長が親衛隊隊員と女性隊員に武器の携帯を認めることがありましたか。
A:アウシュヴィッツでは親衛隊隊員は回転式拳銃か小銃を携帯しており、女性監視員は、おそらく、私の前任者かヘスの許可で、回転式拳銃を携帯することを許されていました。それ以外の武器の携帯は許されていませんでした。移送者が到着したとき、棒を持っている親衛隊隊員がいるのを目撃しましたが、体罰のために使われることを恐れて、持っていてはならないと命じました。もしも、棒や認められていない武器を携帯している親衛隊隊員がいたとすれば、彼らは私の命令に反していたのです。
Q:アウシュヴィッツでは体罰は認められていましたか。
A:事例ごとに相談を受けたオラニエンブルクの当局から許可されていました。各所長がオラニエンブルクに許可を求めました。私も、35から40回の許可を得ました。囚人はテーブルに身を横たえ、ラーゲル・フューラーと医師の立会いのもとで、他の囚人が体罰を加えました。
参考資料: 『「収容所の解放」事実と嘘』 著セオドア・オキーフ
(原題 「The Liberation of the Camps: Facts vs. Lies」by Theodore J. O'Keefe)
原文アドレス http://litek.ws/k0nsl/detox/LiberationCamps.html
収容所司令官が身体的罰則を命じる場合も,実際にあった.しかしそのような場合,その罰則はベルリン政府の承認を得ねばならず,なおかつ収容所医師がまず囚人の健康状態を検査しなければならなかった.それは,その囚人が罰則に耐えうるかどうかを調べるためであり,その後に囚人は殴打された.結局,収容所は戦争中ほとんどの期間,重要な産業センターだった.囚人の良好な健康状態,モラルの維持は,ドイツの戦争遂行にとって重要なものであった.親衛隊に所属し,収容所管理局の責任者でもあったリヒャルト・グリュックが1942年に出した命令も,それを裏付けている.その中には「収容所司令官は,囚人の健康を保持するためにあらゆる手段を講じなければならない」と記されている.
(中略)
ブーヘンヴァルトなどの収容所に入った米軍調査官は,長いこと収容所にいる囚人たちが語る話を聞いた.そうした囚人たちは,収容所で最もひどい悪人,最も残忍だった人々は,実は護衛ではなく囚人自身だったと語った.今日,アメリカの刑務所には囚人が溢れ,残虐行為が繰り返されているが,それと同じことがドイツ収容所でも起こっていたのである.特定の囚人が権力を与えられ,特にそのような時,残虐行為がまかり通った.例えば狂信的な共産主義者は緻密な組織を作り上げ,囚人の中にいた多くの政敵を排除した.共産主義者はスターリン式に敵を容赦なく排除したのである.ブーヘンヴァルトには,2人の米軍調査官が派遣された.エゴン・W・フレックとエドワード・A・テネンバウムである.彼らは解放直前の収容所の状況について詳しく調査し,その報告書には二人の上司アルフレッド・トゥームの緒言が載せられている.そこには「囚人たちはナチのテロ行為に劣らぬほどの残虐行為を収容所で行っていた」という言葉がある.フレックとテネンバウムは,共産主義者の囚人が握っていた権力についてこう述べている.
「模範囚はやがて共産主義者ばかりで占められるようになった.彼らは囚人全員の生命を握った.彼らは特定の人物,集団にほとんど死刑宣告を下すこともできた.ブーヘンヴァルトで行われた残虐行為の大部分は共産主義者の仕業だった.」
(中略)
解放された囚人は,ヒトラー政権下の聖者,殉教者であったという描き方も真実からほど遠い.実際,収容所内の残虐行為のほとんどは囚人自身によるものであり,ドイツ政府はそれをやめさせる政策・命令を下していたのである.
「ホロコースト関係の映画では、とにかく親衛隊が悪魔のように描かれ、自由気ままにユダヤ人を虐殺しまくった描写が永延と続く。
まるであの映像が事実を元にしているかのようにだ。
だが、実際の親衛隊はむやみにユダヤ人を虐待しなかった。
なぜなら、親衛隊がユダヤ人を虐待することは犯罪だったからだ。
たしかに虐待の存在がなかったわけじゃない。
しかし、それはあくまで個人レベルの話で、ナチスそのものはユダヤ人を労働力と見なしていたから虐待を禁止していた。
だから親衛隊がユダヤ人を虐待しないように、看守の親衛隊を見張る機関が存在してたし、ユダヤ人を虐待して死刑になったドイツ人もいる。
例えばブーヘンヴァルト収容所司令官のカール・コッホはユダヤ人を虐待したため、1943年、親衛隊判事コンラート・モルゲン博士に死刑を宣告された。
普通に考えれば、親衛隊高官がユダヤ人を虐待したことで死刑というのはあり得ないと思われるだろうが、親衛隊は厳格なドイツ軍の中でも、とりわけ規則に厳しい連中の集まりで、頑固な石頭の持ち主が多い。
言うなれば、人語を解さない猛獣というより、融通のかけらもない戦闘ロボット!
血も涙もないターミネーターのような連中なんだ!」
「勢いに任せて言いたい放題だな」
「……」
「どうした千鳥?」
「べ、別に! なんでもないわよ。あ、あははは!」
「……?」
「……」
「どったの?」
「……とりあえずヴォルフが普段私をどういう目で見ているかがよくわかった」
「………!」
「ふふふ…… 先ほどの言葉、覚えておくぞ」
「………忘れてください」
「弱ぇ!」
「え〜〜…… ごほん、とにかくカール・コッホは死刑になった。
このときのカール・コッホの裁判は、ドイツの一般人が傍聴することも許され、親衛隊経済管理本部長のオズヴァルト・ポール はコッホの死刑に賛成している。
実はカール・コッホの判決は、『ロシア戦線へ従軍する』という選択肢も与えられていたんだが、親衛隊はそーいうのにうるさくて、結局、地区の親衛隊指導者だったプリンス・ヴァルデックが死刑を執行してしまった」
「どうしてドイツ人はそこまで融通が利かないんでしょうか?」
「どうしてと言われても……
そーいう国民性だからとしか言いようが無い。
そんなこんだで、『ユダヤ人を虐待して死刑になった親衛隊がいる』という事実もまた連合軍によって確認されたことだが、今日ではまったく無視されているのが現状だ」
参考資料: 文・西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー ナチ「ガス室」はなかった」 マルコポーロ1995年2月号より
例えば、ドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出してすらいる。例えば、一九四二年十二月二十八日の日付けで強制収容所の統括司令部がアウシュヴィッツ収容所に送った命令書には、こう書かれている。「収容所の医師達は、これまで以上に被収容者の栄養状態を観察し、関係者と連携して改善策を収容所司令官に提出しなければならない」これは、ヒムラー自身の言葉ではないが、この命令書はヒムラーの次のような言葉を引用しているのだ。
「死亡率は、絶対に低下させなければならない」
この命令は、言われているような「民族皆殺し」と両立する命令であろうか?
しかし、こうした生の資料(一次資料)から気付くことは、ナチスの政策自体は非道であったにせよ、我々が『シンドラーのリスト』などから与えられてきた強制収容所のイメージは、歴史的事実とは懸け離れたものだということである。一例を挙げるなら、『シンドラーのリスト』の中で、ゲートという収容所の司令官が、朝、ベランダから面白半分にユダヤ人を銃で撃ち殺すショッキングな場面があるが、これは絶対にウソである。何故なら、当時の強制収容所では、確かにユダヤ人等の被収容者が体罰を加えられることはあったが、それには事前に書類を提出して許可を得ることが義務づけられていたからである。その書類は、ベルリンにまで送らなければならなかったし、もし、この手続きを無視すれば、そのドイツ兵は、軍紀違反で厳罰に処せられたのである。このことは、戦後西ドイツで法務官吏を勤めたヴィルヘルム・シュテークリッヒ(Wilhelm Staglich)が自著 'AUSCHWITZ:A Jude Looks at the Evidence'の中で述べているし、アメリカの歴史家セオドア・オキーフェ(Theodore O'keefe)なども述べている。中には、死刑に処せられたドイツ人すらいる。お分かりだろうか?ナチスの政策そのものは不当であったにせよ、そのドイツにおいて、ユダヤ人などを虐待したという理由で死刑に処せられたドイツ人がいたのである。「ユダヤ民族の絶滅」がドイツの目標であったなら、何故そんな厳罰に処する必要があったのだろうか?
※ 『囚人の体罰にベルリンの許可がいる』という説のソース(「収容所の解放」事実と嘘」 著セオドア・オキーフ(原題 「The Liberation of the Camps: Facts vs. Lies」by Theodore J. O'Keefe)原文アドレス http://litek.ws/k0nsl/detox/LiberationCamps.html)
While German camp commandants in certain cases did inflict physical punishment, such acts had to be approved by authorities in Berlin, and it was required that a camp physician first certify the good health of the prisoner to be disciplined, and then be on hand at the actual beating. (note 10) After all, throughout most of the war the camps were important centers of industrial activity. The good health and morale of the prisoners was critical to the German war effort, as is evidenced in a January 1943 order issued by SS General Richard Glücks, chief of the office that supervised the concentration camps. It held the camp commanders "personally responsible for exhausting every possibility to preserve the physical strength of the detainees." (note 11)
note11. Nuremberg document NO-1523. Published in Trials of War Criminals Before the Nuernberg Military Tribunal (NMT "green series"), Vol. 4, pp. 372-373.
訳:収容所司令官が身体的罰則を命じる場合も、実際にあった。しかしそのような場合、その罰則はベルリン政府の承認を得ねばならず、なおかつ収容所医師がまず囚人の健康状態を検査しなければならなかった。それは、その囚人が罰則に耐えうるかどうかを調べるためであり、その後に囚人は殴打された。結局、収容所は戦争中ほとんどの期間、重要な産業センターだった。囚人の良好な健康状態、モラルの維持は、ドイツの戦争遂行にとって重要なものであった。親衛隊に所属し、収容所管理局の責任者でもあったリヒャルト・グリュックが1943年1月に出した命令も、それを裏付けている。その中には「収容所司令官は、囚人の健康を保持するためにあらゆる手段を講じなければならない」と記されている。
参考資料: 「「収容所の解放」事実と嘘」 著セオドア・オキーフ
(原題 「The Liberation of the Camps: Facts vs. Lies」by Theodore J. O'Keefe)
原文アドレス http://litek.ws/k0nsl/detox/LiberationCamps.html
原文:It would be tedious to itemize and refute the thousands of bizarre claims as to Nazi atrocities. That there were instances of German cruelty, however, is clear from the testimony of Dr. Konrad Morgen, a legal investigator attached to the Reich Criminal Police, whose statements on the witness stand at Nuremberg have never been challenged by proponents of the Jewish Holocaust story. Dr. Morgen informed the court that he had been given full authority by Heinrich Himmler, commander of Hitler's SS and the dread Gestapo, to enter any German concentration camp and investigate instances of cruelty and corruption on the part of camp personnel.As he explained in sworn testimony at Nuremberg, Dr. Morgen investigated 800 such cases, resulting in more than 200 convictions. (note 9) Punishments included the death penalty for the worst offenders, including Hermann Florstedt, commandant of Lublin (Majdanek), and Karl Koch (Ilse's husband), commandant of Buchenwald.
note9. International Military Tribunal (IMT), Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal (Nuremberg: 1947-1949 ["blue series"]), Vol. 20, pp. 489, 438.
note10. Eugen Kogon The Theory and Practice of Hell (New York: Berkley Books [pb.], 1984), pp. 108-109. See also: "Punishment for Mistreating SS Camp Prisoners," The Journal of Historical Review, Jan.-Feb. 1995, p. 33.
日本語訳:
ナチの残虐行為として主張されている多くの事柄について,それをいちいち取り上げ,否定しても,読者には退屈なだけだろう.もちろんドイツ人の残虐行為を明らかに示す証言もある.例えばコンラート・モルゲン博士の証言がある.彼はドイツ帝国犯罪警察に所属していた法的調査官であり,ニュルンベルク裁判でも証言台に立った.そして彼の証言は,ユダヤ人ホロコーストを信じている人々から一度も反駁されていない.モルゲン博士は戦時中,ハインリッヒ・ヒムラー(ヒトラー親衛隊《親衛隊》,そして秘密警察《ゲシュタポ》の長官)から全面的権力を委託され,ドイツの強制収容所に入り,収容所職員の残虐行為,汚職について調査を行っていたのである.このモルゲン博士の証言によって800件の事例が浮上し,200件の罪が確定した.最も重い罪は死刑にまで及び,死刑宣告を受けた者としてはヘルマン・フローシュテット(ルブリン収容所司令官),カール・コッホ(イルゼ・コッホの夫でブーヘンヴァルト収容所司令官)らがいた.
参考資料: 『Did Six Million Really Die?』 著Richard E Harwood
The Office of the Public Prosecutor conducted thorough investigations into each case of criminal arrest, and those found innocent were released; those found guilty, as well as those deportees convicted of major crimes within the camp, were sentenced by military courts and executed. In the Federal Archives of Koblenz there is a directive of January 1943 from Himmler regarding such executions, stressing that "no brutality. is to be allowed" (Manvell and Frankl), ibid, p. 312). Occasionally there was brutality, but such cases were immediately scrutinised by S.S. Judge Dr. Konrad Morgen of the Reich Criminal Police Office, whose job was to investigate irregularities at the various camps. Morgen himself prosecuted commander Koch of Buchenwald in 1943 for excesses at his camp, a trial to which the German public were invited. It is significant that Oswald Pohl, the administrator of the concentration camp system who was dealt with so harshly at Nuremberg, was in favour of the death penalty for Koch. In fact, the S.S. court did sentence Koch to death, but he was given the option of serving on the Russian front. Before he could do this, however, Prince Waldeck, the leader of the S.S. in the district, carried out his execution. This case is ample proof of the seriousness with which the S.S. regarded unnecessary brutality.
検察庁は犯罪者逮捕の事例それぞれで徹底的な調査を指揮し、無罪だと分かった者は釈放された。有罪と分かった者は、収容所内で重罪を犯し有罪と決せられた抑留者と同様、軍事法廷によって判決を受け処刑された。コブレンツにある連邦公文書館には、1943年1月付けのそうした処刑に関するヒムラーからの指示書があり、「残虐行為は許されない」と念を押していた(マンヴェルとフランクル著、前掲書「Heinrich Himmler」、312ページ)。時に暴力行為があったが、そうした事例は、様々な収容所の不正事件を調査するのが仕事である大国の連邦刑事庁の親衛隊親衛隊判事コンラート・モルゲン博士によって即座に精査された。モルゲン自身は1943年に、自身の収容所で過度の行為を行ったブーヘンヴァルトの所長コッホを起訴し、その裁判ではドイツ国民も招待された。ニュルンベルクで甚だしい扱いを受けた、強制収容所制度の管理者であるオズヴァルト・ポールがコッホへの死刑を支持したというのは意味深長だ。実のところ、親衛隊の法廷はコッホに死刑を宣告したが、彼にはロシア戦線に従事する選択肢を与えられた。しかしこれができるようになる前に、その地区の親衛隊の指導者であるヴァルデック侯が処刑を執行した。この一件は、親衛隊は不要な暴力を重く判断していた事への十分な証明である。
↑ 親衛隊の組織図。
ヒトラーはユダヤ人問題に関しては放置プレイを決め込み、無駄に東部戦線に口出しをしては前線の邪魔ばかりしていた。
従って強制収容所の最高責任者は親衛隊長官のヒムラーであった。
そのヒムラーが「(ユダヤ人の)死亡率は、絶対に低下させなければならない」と命令していたのである。
「こうしてみると、『絶滅刑務所』という言葉は、ナチス・ドイツには当てはまらず、むしろソ連や北朝鮮のような共産主義国家に当てはまることがわかる。
ソ連の収容所には多くの枢軸国の兵士たちが収容されたが、彼らは例外なく飢餓状態に置かれた。
極限状態のために仲間の死体を食べて生き延びたという兵士の証言も存在する。
アウシュヴィッツ博物館では、囚人は一日に1300〜1700Kcalを与えられたと主張しているが、ソ連の収容所はアウシュヴィッツ博物館の説明をはるかに凌駕している。
だが、これらの情報が社会の表に出てきたのは戦後数十年経ってからの話だった」
参考資料:「シベリア捕虜収容所 ソ連人と日本人 上」 若槻泰雄著(玉川大学教授)P,133〜134
ドイツとイタリアの例
飢餓状態は日本人捕虜のみでなく、ドイツ、イタリアなどすべての捕虜の上におこった。ソ連自体が存亡の淵に立たされていた戦時中はよけいひどかったようである。たとえば1943年1月から4月まで、例のスターリングラードの激戦の頃であるが、「この3ヶ月の間に100万人以上の諸々の国籍の捕虜が寒さや飢え、伝染病その他の病気で死んだ」とさえいわれる(ソ連には、ドイツに強制されたドイツ占領下の各国軍隊が攻めこんでいた)。
ドイツ捕虜のソ連における死亡数は、第3部2にかかげてあるが、ソ連からの帰国者は、心身ともに衰弱して、文字通り”使いもの”にならない者が多かった。ドイツ向け抑留者送還が開始された当初、駅頭に出迎えた家族たちは、過労と栄養失調でふらふらになっている彼らのために、例外なく、担架を持って行かなければならなかったのである。具体的な例をあげれば、1946年8月23日の間、釈放収容所Friendlandを通ったソ連からの戦争捕虜2万4216人のうち、1万2260名は医師によって精密検査をうけたところ、戦争が終って一年3ヶ月もたち、真夏のことであるから、季節的にも最も恵まれていたわけであるのに、彼らの63〜68%は栄養失調からおこる飢餓のために浮腫ができるということは、痩せ細るという段階をこえて、危険な状態に達しているということはすでに述べたとおりだ。
イタリアの資料によると、80%から90%の捕虜が死亡した収容所はめずらしくなく、一例をあげると、クリノバヤ収容所では、「将校には一日百グラムのパンと油なしの野菜スープを飯盒(はんごう)いっぱい支給された。一方兵士は一ヶ月に3度50グラムのパンと数回スープを与えるだけであった。薬は一切なく、毎日500人が死亡し、彼らは共同溝にうめられた……」
そしてこの収容所では、「捕虜の将校たちは隔離病棟の警備を命ぜられた。この隔離病棟は重症者のみを収容したものだが、捕虜たちがこれら働けなくなった患者を殺して、その血を飲んだり、肉や肝臓、脳みそを食べたりすることのないよう監視」させられたのである。その他の収容所でも人肉喰いがかなり広く行われていたようだ。「死体から切り取った人肉を売っていたこと。また、彼自身何度かそれを食べたと語っている」抑留者も存在するのである。
「『囚人が働かないと、見せしめに殺して労働力を上げる』という共産主義国家のやり方をドイツは選ばなかった。
実際はその逆で、ナチスは、囚人の待遇に不平不満があれば、囚人はそれを記録して親衛隊に提出するように命令していた。
生産力を高めるため、にユダヤ人の不平不満を可能な限り取り除くことは、ユダヤ人問題の最高責任者であるハインリヒ・ヒムラー親衛隊長官 の命令だから、どの収容所もこの命令に従った。
もちろんアウシュヴィッツ収容所所長のルドルフ・ホェッスも例外じゃない。
ドイツは囚人の労働力をあげるために、収容所に多くのサービス施設を作った。
より働いたもの、より頑張ったものにはそれ相応の恩恵が与えられ、それによって労働意欲をあげ、結果として全体の生産力をあげる。
労働者がよく働き、給料がもらえ、消費が増える。
需要が増えることで、仕事が増え、また働くと給料が上がり、生活が豊かになる。
ARBEIT MACHT FREI(労働は自由にする)
この考え方は、アメリカの自動車王ヘンリー・フォードの思想(フォーディズム)がその原型で、日本式経営と呼ばれるものに近いものだ。
もともとナチズムの原型はフォーディズムだから、収容所の運営方針がフォーディズムなのはある意味当然とも言える」
参考資料: 1920年出版 ヘンリー・フォード著 「国際ユダヤ人」より
「ユダヤ人の考えは、営業とはすなわち金であるというものだ。
やつらが金儲けあったものではない。
ただ儲ければよいのである。
ゆえに、金儲けの邪魔になるような理想家のたわごとなどには耳を貸さない。
ユダヤ人以外は自発的に労働者の待遇改善に努力するが、
ユダヤ人は自発的改革によって、決してびた一文たりとも支払うようなことはない」
参考資料:ヘンリー・フォード
「かつて、企業はその所有者のためにのみ存在する、と常にみなされてきた。現在では、企業はそこで働く人々のために存在する、という意見もでている。しかしこれは、はなはだしい思い違いである。産業の第一の責任は大衆に対するものである。工場は、広く社会のために 有益であるかどうかによって評価される。」
「遺産はドルで評価されるが、実際、それだけの現金のあることはめったにない。たいていの相続人が今日相続するものといえば、仕事であり、維持すべき企業であり、負わねばならない責任である。…… わが国や他の国の人々を誤った方向に導いてきた『企業は金であり 大企業は巨額の金である』という考えが、さまざまな誤りを生むのである。」
「なんかヘンリー・フォードのイメージが狂うわ……」
「ヒトラー総統の『我が闘争』はヘンリー・フォードの著作『国際ユダヤ人』のパロディ本だったりする。
本文の内容は本人のオリジナルではなく、いろんな論説の寄せ集めに過ぎない。
このコンテンツと同じだな」
参考資料:アドルフ・ヒトラー[1] 著ジョン・トーランド
P.439
ヒトラー自身もこの本の全体を再考して、のちにフランクに向かって結局自分は物書きではなかったと打ち明けている。「思想は書くことによってわたしから逃げだしてしまった」『わが闘争』は《フェルキッシャー・ベオバハター》の論説の寄せ集めでしかなかったことを認めた。
「一つだけ確かなことがある。もしもわたしが1924年にやがて首相になることを知っていたら、あの本は書かなかっただろう」
参考資料:「「第三帝国の神殿にて(上)ナチス軍需相の証言」アルベルト・シュペーア著 中央公論新社より
P.223
政治はヒトラーにとって目的のための手段であった。彼の告白の書『わが闘争』ですら、彼は例外としなかった。あれはもう大部分古くさくなっている。自分はあんなに早くから先の先までものごとをきめてしまっていはいけなかったのだと。これは、この本を読む機会を私から掴みとってしまった言葉である。
「まぁ所詮は、同人誌だからな。
ナチズムの聖典とかほざく連中がいるが、それは連合軍の悪質なプロパガンダに踊らされているに過ぎない。
もし読むなら、話半分に読むべきだな」
「同人誌って、をい……」
「アウシュヴィッツの施設は人道的配慮がされたものだった。
アウシュヴィッツの設備や運営システムは、絶滅政策を真っ向から否定するものばかりだ」
参考資料: 『Greetings From Auschwitz』 著Historical Review Press
Auschwitz, the supposed "death camp", had many facilities amongst which were;
- A camp hospital to which expert surgeons even from the famous Berlin "Charité Surgical Clinic were dispatched to deal with difficult cases -
- Camp sick barracks, attended by camp inmate doctors and nurses to deal with the inmates' health problems - much like the now common walk-in clinics in modern US communities -
- A Camp diet kitchen, one of the largest service buildings in Auschwitz, with state-of-the-art cooking facilities. (This building had 12 chimneys and can be visited today...)
- The caloric content of the diet was carefully monitored by camp and Red Cross delegates. It only deteriorated in Auschwitz and other camps towards the end of the war when German railroads and the entire transport system collapsed under constant aerial attacks -
- Up to 16 Camp orchestras, with every conceivable instrument available -
- Camp Post Office with twice weekly pick-ups and deliveries.
- A Camp theater, where live plays could be performed by camp inmate actors -
- Camp sculpture classes conducted for interested, talented inmates by professional sculptors
- Camp art classes for inmates
- Camp University with lectures on every topic under the sun, from health, the arts, philosophy, science, economic issues etc.
- A Camp cinema - where every week different, mainly cultural and non-political films were shown -
- A Camp Brothel, in which 12-15 women were paid between RM 2.- to RM 4.- for their services, The Women and customers were given a medical checks BEFORE each visit.
- Camp religious facilities made available on a rotating basis to every denomination for religious services -
- A Camp library, where inmates could borrow books from Fourty -five thousand volumes available -
- A Camp swimming pool for use by the inmates on Birkenallee, where there were walkways with comfortable benches for inmates to relax in the shade of the trees -
- Camp sports facilities, like soccer fields, handball areas, fencing classes and other exercise facilities -
- A Camp coupon incentive system, where through extra work inmates could obtain coupons redeemable for cake or ice cream in the Camp Cantina, which also had extra toiletries etc.
- A Camp Complaints Office, where inmates could register complaints or make suggestions. Camp Commander Hoess had a standing order that any inmate could approach him personally to register a complaint about other inmates such as "Kapos" and even guards.
- A system of strict discipline for guards and also for inmates, with severe punishment being handed out against those found guilty (for even slapping an inmate)
- An Auschwitz "In-Camp COURT & Jail". (!) Since the camp was a large, open facility, transgressors could be arrested, tried and jailed right in Auschwitz. (This jail was opposite the gynecological facility.)
- An Auschwitz Maternity Ward - Over 3,000 live births were registered there, with not a single infant death while Auschwitz was in operation under German rule -
- Child day care center where working mothers could leave their children.
- Auschwitz crematoria - These structures were hastily built by inmate labor after the first typhus epidemic caused thousands of deaths. (Burial of epidemic victims had caused the ground water to be contaminated causing infections among the German staff. Amongst the victims was an early camp commandant's wife. Polish peasants from the surrounding district were also cremated here.)
- Auschwitz pregnancies took place because of the open nature of the facility. Auschwitz marriages took place because worker inmates fell in love and married their inmate partners.
参考資料:親衛隊の収容所管理局は1942年12月28日,アウシュヴィッツや他の収容所への指令
著マーク・ウェーバー 『アウシュヴィッツ:神話と事実』より
「収容所医師は取り得るあらゆる手段を使って,収容所の死亡率を大きく下げるべきである」
「収容所医師は囚人の栄養状態に関して,これまで以上に監視すべきである.そして行政府と協力しながら収容所司令官に待遇改善案を提出すべきである.収容所医師は,さまざまな分野における労働条件をできるだけ改善するよう取り計らねばならない.」
「親衛隊国家長官(ハインリヒ・ヒムラー)は,死亡率を劇的に下げるよう命じられた」
参考資料:ドイツの公的収容所の規則
著マーク・ウェーバー 『アウシュヴィッツ:神話と事実』より
「収容所に新しく入ってきた人々は,完全な医学検査を受けねばならない.そしてもし彼らの健康状態に疑問がある場合,観察のために隔離場所に送られねばならない.病人であると申告した囚人は即日,収容所医師によって検査を受けねばならない.必要であれば,医師は囚人を病院,または特別治療室へと移送しなければならない.収容所医師は食事準備,あるいは供給される食料の質に関して,定期的に検査しなければならない.そして欠陥があれば収容所司令官に報告しなければならない.事故が起きた場合,囚人の治療には特別な配慮が加えられねばならない.それは囚人の生産性を十分に保っておくためである.釈放される囚人,あるいは他の収容所へ移送される囚人は,医学検査のために,まず収容所医師の所へ行かねばならない.」
参考資料:第二次大戦中のドイツの強制収容所における殺人ガス処刑についての目撃証言 著ユルゲン・グラーフ
第二の事例では、目撃証言が文書資料によって反駁されている。目撃証人によると、小さな子供たちは労働不適格者であるがゆえに、アウシュヴィッツで殺されたことになっている。しかし、2000年4月初頭、マットーニョと私は、モスクワの文書館で、あるリストを発見した。それは、アウシュヴィッツ解放直後に、ソ連側の要請で、4名のユダヤ人囚人医師が作成したものであった。それは、ドイツ人が労働不適格者とみなして入院措置を取るべきであると考えた1000名以上のユダヤ人囚人の名簿である。そこには、生後数ヶ月から15歳までの97名のユダヤ人少年と83名のユダヤ人少女が含まれていた(15)。目撃証言が信用できるとすれば、これらの子供たちは、無駄飯食いとして殺され、入院措置の対象とはならなかったであろう。
15. Gossudarstvenni Archiv Rossiskoj Federatsii, 7021-108-23.
「収容所の親衛隊は、常にユダヤ人の労働条件を改善するよう努めていた。
その目的が生産力をあげるためだったとしても、人道的に運営していたという事実は変わらない。
そして、人道的な運営は収容所の親衛隊が特別な人格者だったわけじゃない。
ヒムラー親衛隊長官の命令に従っただけの話だ」
「なるほど。たしかに命令書があるのならば筋は通ってますね」
「ナチスは優れた人種のみが生き残ればいいと主張していたことは確かだ。
だが、それは規則というよりは心得のようなもので、実際アウシュヴィッツの囚人は入院が必要な場合はそのまま入院するができたし、ナチスは入院が必要な人間のリストまで作っていた。
目撃証言は労働不適合の人間はガス室行きのはずだ。
入院措置が必要な囚人のリストはこれらの裏付けのない目撃証言が捏造であることを示している」
「ところで、留置場と拘置所ってどう違うの?」
「留置場は、逮捕された人(被疑者)を取り調べるために留め置くための施設。
日本の場合、警視庁などの都道府県警察が管理、運営してるわ。
拘置所は、主に起訴された人(被告人)を刑事裁判が終わるまでの間収容するための施設で、刑務所は、裁判により刑が確定した人(受刑者)を収容する施設。
拘置所と刑務所は、日本の場合は法務省が管理、運営してるわね」
「それじゃ産婦人科と産科と婦人科ってどう違うの?」
「産婦人科(obstetrics and gynecological)は『産科(obstetrics)』と『婦人科(gynecological)』を併せた診療科。
『産科』とはお産つまり妊娠や分娩に関係した診療科。
したがって妊婦さんを診る科ね。
妊娠中の母親のいろいろなできごとを診察し、治療するだけでなく、お腹の中の胎児も診て、時には治療する科。
一方『婦人科』とは妊娠以外の女性特有の病気、たとえば子宮や卵巣の病気を治療したり、女性特有のホルモンの病気、月経異常などを治療する科。
だから『婦人科』には妊婦さんはいないってことになるわ。
さっきの説明だと、拘置所の反対側の施設は産科だから、妊婦さんはいないってことになるわね」
「へぇ」
「おいおい、論点はそこじゃねぇだろ。
アウシュヴィッツは絶滅刑務所なんだぜ。
それなのに、赤ん坊が3000人も産まれているってのは一体どういうことだよ?」
「アウシュヴィッツは絶滅刑務所ではないということだろう。
偽情報の発信源がソ連だとすれば、いつものことの一言で片付けられる話だな」
「いつものことって……」
「だってソ連よ?
他の国ならいざ知らず、いまさらあの赤い大国が何を言ったって驚くことなんて一つもないわ。
北朝鮮が地上の楽園とか、中国経済はいずれ世界一になるとか、今でもトチ狂ったことを平気で言う連中の親玉だし、これくらいはするだろう
この程度の捏造でガタガタ言う奴はレッドゾーンね。
朝鮮半島の捏造に比べれば赤子の遊戯同然よ」
「……」
「実際のアウシュヴィッツと、連合国の偽情報の中にのみ存在するアウシュヴィッツは恐ろしいほど異なっている。
連合国では、ドイツの収容所ではユダヤ人が毒ガスで殺されているというラジオ放送が流れていた。
しかし!
そのときのドイツの収容所では、ユダヤ人は絶滅計画で殺されていたのではなく、ハァハァ(;´Д`) していたのだ!」
「ハァハァ(;´Д`)って、をい……」
「なぜアウシュヴィッツの生き残りのユダヤ人は本当のことを言わないんだ!
自分たちはガス殺などされていない!
連合軍がラジオで偽情報を流していた頃、自分たちはハァハァ(;´Д`)してましたとなぜ言えないんだ!」
「そりゃ売春宿があるくらいだからハァハァ(;´Д`)してたってのは間違ってないだろうが……
そればっかじゃないだろ」
「しかし、ならなぜ裁判でその事実を言ってくれない!
一言言ってくれればそれでいいじゃないか!
絶滅刑務所でハァハァ(;´Д`)してました、と!」
「裁判でそんなことを言うわけないでしょうが……」
「ちょっと待ってくださいヴォルフさん!」
「何?」
「ハァハァ(;´Д`)はいけないと思います!」
「……」
「それがやりたかったんかい」
「まったく記憶にございせん」
「またそのネタか」
「しかし、その資料が本当に信用できるかどうかが問題ですね。
先ほどの資料が信用性を証明する資料はありますか?」
「あります。
ここにハァハァ(;´Д`)していたという証拠が」
「その表現なんとかならないのかしら……」
参考資料:1944/3/18 フリーメル(Friemel)夫妻の新婚を祝う写真
"Die Hochzeit von Auschwitz" von Erich Hackl. Diogenes Verlag Zurich 16, 90.- Euro. より
「これは囚人同士のカップルの新婚を祝う写真です。
見てのとおり写真の花嫁には花束が与えられており、写真の右部には二人が結婚したことが書かれている。
この写真は1944年3月18日にアウシュヴィッツ収容所内を循環されてました」
「ふむ。
ところでこの服は囚人服ではありませんね」
「おそらく、結婚式を挙げるために一生懸命働いて手に入れたのでしょう。
親衛隊にとっては、このような明るいニュースは他の囚人の労働意欲を高めることにも繋がるから、結果的に収容所の生産増加になる。
そうすることはむしろ望むところというわけです。
ここまでで、事実を並べるとこうなります」
「となれば、当然?@と?Aの間で子作りがされたことは言うまでもありません。
以上のことから、アウシュヴィッツのユダヤ人は、絶滅刑務所でハァハァ(;´Д`)していたということは確実だと思われます!」
「別にそこにこだわらんでもいいでしょうに……」
「今更という気がするが、弁護側はこう主張します。
アウシュヴィッツは絶滅刑務所ではない!
ラブラブ状態で子作りできるような場所が絶滅刑務所であるわけがない!」
「なんつーか、1970年代の日本の高校の方がよっぽど規則が厳しいような気がするな。
70年代ってーと、校内でキスしたら停学だろ?」
「むぅ……なぜ人工呼吸したら停学なのだ? 相変わらず日本はおかしな国だ」
「おかしいのはアンタの方よ……!」
「ともかく、アウシュヴィッツが絶滅刑務所である可能性は皆無と化してしまったようだな」
「エッチな絶滅収容所はいけないと思います!」
「……」
「言い方には問題はあるが実際そうだよな。
ヴォルフが言ったことを並べると、
ナチスの収容所を最もリアルに再現してるのはイタリアの変態ポルノ映画
ってことになっちまう。
死人は少ないし、ハァハァ(;´Д`)してるし。
これがホントのな、なんだってーーーー!?(AA略)って奴だよな」
「どうしていつもいつも身もフタもない表現しか使わないのかしら?」
「ボウヤだからさ」
「あっそ」
「ソ連軍が1945年1月27日にアウシュヴィッツに到着した時、ソ連の新聞はコンベア・ベルトの上で同時に電気処刑されたと書いた。
ガス室とされている建物の位置も間違っていた。
だがこれらの間違いは戦後になって消えてしまった。
このことは、ソ連軍がユダヤ人絶滅計画の証拠をまったく掴めなかったことを意味している」
参考資料:第二次大戦中のドイツの強制収容所における殺人ガス処刑についての目撃証言 著ユルゲン・グラーフ
戦争の初期には、アウシュヴィッツでの殺戮手段については、たがいに矛盾した話が語られていた。しかし、ポーランドのレジスタンスが戦争宣伝として広めた話のなかには、チクロンBは登場していなかった。証人たちが凶器としてあげたのは、毒ガス、電気浴室、空気圧縮ハンマーであった(21)。アウシュヴィッツ収容所が解放された6日後の1945年2月2日、ユダヤ系の記者ボリス・ポレヴォイは、アウシュヴィッツでは数百の囚人がコンベア・ベルトの上で同時に電気処刑されたと『プラウダ』紙に書いた。また、『プラウダ』はアウシュヴィッツでガス室を発見したが、それは、ビルケナウの西側ではなく、東側という間違った地点においてであった。まもなく、電気式コンベア・ベルトと東側のガス室は歴史のごみための中に永遠に消え去っていき、その後の報告書では、まったく新しい話が登場してきた。すなわち、ビルケナウでは、焼却棟および二つの農家の中で、殺虫剤のチクロンBを使った大量殺戮が行なわれたというのである。
21. Enrique Aynat, Estudios sobre el "Holocausto", Graficas Hurtado, Burjassot/Valencia 1994.
「アウシュヴィッツ博物館の写真は、アウシュヴィッツの囚人たちが非人道的な絶滅政策によって餓死に追い込まれたことを明確に示唆している!
よって、弁護人の長々とした説明はすべて机上の空論だ!」
「写真ねぇ……
写真には証拠能力はないことがまだわかってねぇようだな」
「それはどういう意味だ!」
「こういうことだよ」
「そこまで。長いので一旦休憩しましょう。まったく、ファイルが重い重い……」
「……」