セオドア・J・オキーフ
ホロコーストの存在をアメリカ人の心に確実に根付かせた最も効果的な方法は、アメリカ兵が発見した惨いシーンを流すことであった。それは、彼らが第二次世界大戦末期、ドイツの強制収容所を解放した時のことである。
ダッハウ、ブーヘンヴァルト、ドーラ、マウトハウゼンなどの収容所でアメリカ兵は、痩せ衰え、病んで死んだ囚人、死に瀕している囚人を目の前にして呆然とした。生存者はアメリカ兵に身の毛のよだつような拷問・虐殺について語り、そして火葬炉や処刑用ガス室とされるもの、拷問器具とおぼしきもの、更には萎びた首と囚人の皮膚をはいで作ったと噂されるランプシェード、手袋、手提げ袋も見せてその主張を裏付けた。
ほとんどのアメリカ人は、第一次世界大戦中に何度も聞かされた残酷物語に食傷しており、ヒトラー政権への連合国のプロパガンダについても疑っていた。そのことに気づいたアメリカ政府は、アメリカ兵が収容所で発見したことを「文書化」する決定を下した。有名なメディア人、政治家たちは、痛ましい証拠を見るようドイツへと飛ばされ、米軍メディア班は後の世代のために動画や写真を撮影したのである。有名なジャーナリスト、エドワード・R・マーロウは恐怖の口調で、そして事実を確信しながら、自身が聞き、見たものを報告した。ダッハウ、ブーヘンヴァルトという名は、歴史上比類なき悲しい血にまみれた残虐行為の場として、アメリカ人の心に刻み込まれたのである。
アメリカ人にとって、収容所で「発見」されたもの、つまり死人や病人、囚人たちの語る残酷な話、あらゆる拷問器具、これらは単なる儚いプロパガンダ戦略にはなく、確信の基盤となった。「そう、それは真実だった。」ドイツ人は600万人のユダヤ人を殺戮し、その大部分は命取りのガス室で死んだのだ、という。
アメリカ兵が撮影した動画は、敗戦したドイツ国民への高圧的コメントが付けられた後、映画となった。そしてそれが、ドイツ人の「再教育」に使用された。ドイツ人の民族的誇りは潰され、統一した独立民族国家を作ろうという意志も阻害された。ドイツ人は大きな集団罪悪感を背負い、政治的不能となった。ニュルンベルク裁判では証言・判決が出され、アメリカ兵がダッハウ、ブーヘンヴァルト、その他の占領地域で聞いた残酷な話が繰り返された。ホロコーストはこれで、最も文書化され、最も権威づけられ、歴史上最も立証されたエピソードの一つとなった。
しかし、今日ではよく知られているものの、アメリカ政府は収容所の解放直後、本当の状況は全く違っていたことに気づいていた。にもかかわらず、彼らは軍事情報局員、政府スポークスマン、政治家、ジャーナリストを使って虚偽の情報を流し続けた。
1945年春、米英軍がドイツ中西部を侵攻していた時、ドイツの戦争犯罪の証拠を発見し、確定させる部隊が軍に配属されていた。その中にはアメリカの有名な解剖学者、チャールズ・ラーソン医師がいた。彼は当時、総司令部に所属し、ダッハウをはじめ約20のドイツ収容所で解剖を担当し、100体以上の解剖を行った。ダッハウでの気の滅入る作業の後、彼はアメリカ軍検事団から三日間にわたり訊問を受けた。[1]
ラーソン医師は何を発見したのだろうか? ラーソンは1980年、彼の伝記を書こうとしていたアメリカ人ジャーナリスト、ヤン・フローキンガー(ウィキータ・イーグル所属)とのインタビューに答え、次のように述べている。「私たちは600万人のユダヤ人が殺戮されたと聞きましたが、その一部は嘘でした。[2]」「ではどのように嘘だったのですか?」と聞き手が尋ねると、彼はこう答えた。「私は全欧を舞台とした劇の中で、ただ解剖学者の役割を演じただけです。[3]しかし毒ガスが使用された形跡を見つけることはできませんでした。」[4]
もしガスによるのでないのなら、ダッハウ、ブーヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼンの不幸な犠牲者たちは、どのようにして死んだのだろうか? 拷問で死んだのか? 意図的に餓死させられたのか? これらの問いに対する答も、明らかとなっている。
ダッハウ、ベルゲン=ベルゼンなどの収容所で囚人が死んだ最大原因は、病気、特にチフスだったことを、ラーソン医師を始めとする連合国の医師は発見した。チフスは、古代から最近まで人類に猛威をふるってきた病気である。チフスは公共医療設備が知られていない、あるいは行き届かない場所へ、多くの人々が詰め込まる場合に発生する。戦争末期のドイツ収容所は、まさにそのような状況だった。確かに収容所内ではシラミが駆除され、病人は隔離され、死体は火葬された。しかし食料輸送が寸断され、公共医療設備が崩壊するにおよび、収容所は修羅場と化した。
収容所内の死亡率が高かったのは、チフスが原因だった。それについて最も明確な報告を行ったのは、恐らくジョン・E・ゴードン博士であろう。彼はハーバード大学医学部で、予防医学・疫病学の教授を務めていた。彼は1945年、アメリカ軍のドイツ侵攻に同行し、1948年には「ドイツの強制収容所・牢獄ではチフスが広がっていた」という報告書を提出した。チフスが広がった原因について、彼は次のように述べている:[5]
[1945年の]春、4月と5月頃、ドイツは驚くべき土地だった。様々な人がやって来て、時に飢えチフスの媒体となっていた乞食たちが……
ドイツは混乱状態にあった。都市は全て破壊され、軍の侵攻に伴い、生活状況は壊滅した。それにより、病気が蔓延した。衛生状態は悪く、公共設備は大きく崩壊し、食料の供給・分配量は少なく、住宅事情は悪化し、あらゆる場所で秩序・規律が失われていた。さらに重要なことに、どの時代のどんな国も経験したことのないような人口変動が起こりつつあった。
このゴードン博士の発見は、ラッセル・バートン医師の言葉とも符合する。バートン医師は現在、世界的に知られた心理学者である。彼は1945年、若き医学生としてイギリス軍と共にベルゲン・ベルゼン収容所入りし、病にかかった生存者の看護を自ら買って出た。彼は1985年、トロント裁判所で証言台に立ち、宣誓して次のように述べた。「第二次世界大戦中、ベルゲン=ベルゼン強制収容所で死んだ何千もの囚人は、故意に餓死させられたのではなく、病に倒れたのです。」[6]
バートン医師は更にこう述べた、「私は収容所に入るとすぐ、故意の餓死の可能性について考えました。しかし設備の行き届いた台所、注意深く管理された食卓などを調査した結果、そのような可能性がないことに気づきました。1942年以降、きちんと整備された台所・食卓で、毎日調理が行われ、食事が提供されていたのです。」
この国に対して喧しく宣伝され、広く出回っている観念として、ドイツ収容所では餓死による殺戮政策が取られていたという主張がある。しかし、どのような研究者もそれを示すいかなる文書を提示できていない。
それでは、強制収容所の他の残酷物語はどうであろうか? 囚人たちが入れ墨をされた後、皮膚をはがれたり、ランプシェードやハンドバックといった工芸品を作るために彼らの皮膚が使われたという物語は? あるいは無数の「拷問台」、「肉かけ」、鞭打ち台、絞首台などの拷問・処刑用具が、ドイツ収容所でたくさん発見されたという報告は? こうした申し立てはニュルンベルク裁判に端を発しており、そこではさらに残酷な例がソ連検事団によって報告された。
ランプシェード、あるいは入れ墨の皮膚の告発は、イルゼ・コッホ、報道関係者称するところの「ブーヘンヴァルトの売女」に対して行われた。彼女は運のない囚人の皮膚をなめし、それを材料にして工芸品を作り、家に陳列していたと言われている。
しかし、戦後ドイツのアメリカ軍占領地区総督のルシウス・クレイ将軍は1948年、コッホ裁判を閲覧し、ワシントンに次のように書き送っている。「コッホが、入れ墨用の皮膚を確保するために特定の囚人を殺したこと、あるいは人間の皮膚でできた製品を所持していたことを示す確たる証拠など、一つもありません。」[7]後に行われたインタビューでも、悪名高いランプシェードの素材について、クレイはこう述べている。「そうですね、あのランプシェードの素材は実はヤギだったのです。しかし判決では、素材は人間という主張のままでした。コッホが公正な裁判を受けることなど、ほとんど不可能でした。」[8]イルゼ・コッホは1967年、西ドイツの刑務所で首を吊って死んだ。
ナチの残虐行為として主張されている多くの奇妙な主張について、それをいちいち取り上げ、否定しても、読者には退屈なだけだろう。もちろんドイツ人の残虐行為を明らかに示す証言もある。例えばコンラート・モルゲン博士の証言がある。彼はドイツ大国犯罪警察に所属していた法的調査官であり、ニュルンベルク裁判でも証言台に立った。そして彼の証言は、ユダヤ人ホロコーストを信じている人々から一度も反駁されていない。モルゲン博士は戦時中、ハインリヒ・ヒムラー (ヒトラー親衛隊及び戦慄すべき秘密警察の長官) から全権を委任され、ドイツの強制収容所に入り、収容所職員の残虐行為、汚職について調査を行っていた、と法廷で表明した。
このモルゲン博士の証言によって800件の事例が浮上し、200件の罪が確定した。[9]最も重い罪は死刑にまで及び、死刑宣告を受けた者としてはヘルマン・フローシュテット (ルブリン収容所司令官)、カール・コッホ (イルゼ・コッホの夫でブーヘンヴァルト収容所司令官) らがいた。
収容所司令官が身体的罰則を命じる場合も、実際にあった。しかしそのような場合、その罰則はベルリン政府の承認を得ねばならず、なおかつ収容所医師がまず囚人の健康状態を検査しなければならなかった。それは、その囚人が罰則に耐えうるかどうかを調べるためであり、その後に囚人は殴打された。[10]結局、収容所は戦争中ほとんどの期間、重要な産業センターだった。囚人の良好な健康状態、モラルの維持は、ドイツの戦争遂行にとって重要なものであった。親衛隊に所属し、収容所管理局の責任者でもあったリヒャルト・グリュックが1943年1月に出した命令も、それを裏付けている。その中には「収容所司令官は、囚人の健康を保持するためにあらゆる手段を講じなければならない」と記されている。[11]
ブーヘンヴァルトなどの収容所に入った米軍調査官は、長いこと収容所にいる囚人たちが語る話を聞いた。そうした囚人たちは、収容所で最もひどい悪人、最も残忍だった人々は、実は護衛ではなく囚人自身だったと語った。今日、アメリカの刑務所には囚人が溢れ、残虐行為が繰り返されているが、それと同じことがドイツ収容所でも起こっていたのである。特定の囚人が権力を与えられ、特にそのような時、残虐行為がまかり通った。例えば狂信的な共産主義者は緻密な組織を作り上げ、囚人の中にいた多くの政敵を排除した。共産主義者はスターリン式に敵を容赦なく排除したのである。
ブーヘンヴァルトには、2人の米軍調査官が派遣された。エゴン・W・フレックとエドワード・A・テネンバウムである。彼らは解放直前の収容所の状況について詳しく調査し、その報告書には二人の上司アルフレッド・トゥームの緒言が載せられている。そこには「囚人たちはナチのテロ行為に劣らぬほどの残虐行為を収容所で行っていた」という言葉がある。[12]
フレックとテネンバウムは、共産主義者の囚人が握っていた権力についてこう述べている。
「模範囚はやがて共産主義者ばかりで占められるようになった。彼らは囚人全員の生命を握った。彼らは特定の人物、集団にほとんど死刑宣告を下すこともできた。ブーヘンヴァルトで行われた残虐行為の大部分は共産主義者の仕業だった。」
ドナルド・B・ロビンソン大佐は、戦後ドイツの米軍政府を専門とする歴史家である。彼は戦争直後、フレック、テネンバウム報告書の要約を〈アメリカン・マーキュリー〉に掲載した。そこで彼が記している言葉も、フレック、テネンバウムらの言葉とぴたりと符号する。「共産主義者に同意した囚人は食事を与えられ、同意しない囚人は餓死させられた。」[13]
囚人による残虐行為はエリス・E・スパックマンによっても報告されている。彼はアメリカ第七部隊の諜報局長で、ダッハウ解放作戦に参加し、後にカリフォルニアのサン・ベルナルディノ・バレー大学の歴史学教授となった。スパックマンは1966年、「ダッハウでは、特定の囚人が他の囚人に残虐行為を行う権限を持っていた」と記している。[14]
ポール・キルク大佐、エドワード・J・ガリー中佐は1944年12月9日、アルザスにあるシュトルートホフ=ナッツワイラーのドイツ強制収容所を調査し、その報告書を第6部隊・司令部に提出した。これはその後、米国戦争犯罪局に送られた。重要なこととしてこの報告書の全文は出版されていないが 、あるホロコーストを支持する歴史家によって公開されており、この調査官両名はフランス人情報提供者から「所謂殺人ガス室」「殺人ガス室として使われたとされる部屋」として見せられた施設の特徴を慎重に述べていた。[15](強調は記事執筆者による)
このナッツワイラー報告の注意深い言葉選びとその実質的な隠蔽は、ダッハウの殺人ガス室とされるものの公式な報告書が帯びている、「騙されやすい者の書いた、混乱していて、喧しい宣伝」とは完全に対照的だ。最初は、骸骨と交差した骨が描かれ、ドイツ語で「注意! ガス! 生命の危険! 開放厳禁!」と書かれている鉄の扉を米兵が凝視しているのを撮影した米軍の写真は、殺人武器を映しているものとして扱われた。[16]
しかし後になって、この部屋は単に、衣服のシラミ駆除の部屋だったことが判明した。もう一つ、巧妙にシャワー室を装ったガス室の例も報告された。このシャワー室は何千人もの人が息を引き取った場所として、アメリカ人議員、ジャーナリストに紹介された。こうした「ガス室」はメディアでも大きく報道された。しかし軍調査官による報告書には、シャワー室がそのような目的で使われたことを示す例が一つもない。これらのシャワー室は模造品なのか、それとも本当にシアンガスを撒き散らしていたのだろうか?(どちらの立場を取っても、報道作品の中にも史学的作品の中にもそれを支える根拠は十分ある。)
ダッハウと同様、ブーヘンヴァルトも、ベルゲン=ベルゼンもそれ以外も、西ドイツの連合国によって解放された。「殺人ガス室」や「ガス・オーヴン」といったものに関するプロパガンダは後を絶たないが、現在のところ、そのような殺人兵器とその機能についての詳細な描写は1つもなく、当時も今も、米国内で成功裏の暴行処刑あるいは殺人を命じる類の報告は1枚たりとも明らかになっていない。
さらに、多くのホロコーストの権威が現在、ドイツ国内には結、ガス室もなければ絶滅収容所もなかったのだと公に認めている。(「ガス殺」や「絶滅」収容所は現在のポーランドにあったのだと、彼らは述べる。こうした地域はソ連赤軍が占領したのであり、それゆえ、西側の調査官は接近することができなった。)
マルチン・ブロシャートは現在、ミュンヘン現代史研究所 (西ドイツ政府の援助を受けており、それゆえ、ホロコースト・ストーリーを支持している) の所長を務めている。彼は1960年、ドイツ週刊誌〈ディー・ツァイト〉誌に記事を掲載し、その中でこう断言している。「ダッハウでも、ベルゲン=ベルゼンでも、ブーヘンヴァルトでも、ユダヤ人や他の囚人がガス室で殺されることはなかった。」[17]プロの「ナチ・ハンター」であるサイモン・ヴィーゼンタールも1975年及び1993年に「ドイツ国内に絶滅収容所はなかった」と述べている。[18]
ダッハウの第二「ガス室」はかつて、何十万人の生命を奪った場所として世界に紹介された。その話を聞き、世界は息を呑み、悲しみにくれた。しかしこの部屋は今、旅行者向けのダッハウ「記念館」パンフレットには次のように記されている。「このガス室はシャワー室を装って作られていますが、一度も使われたことがありませんでした。」[19]
アメリカ軍がダッハウ、ブーヘンヴァルトなどのドイツ収容所を解放して40年以上になる。解放時、アメリカ軍調査官は収容所の状況について事実を調べあげた。にもかかわらず、その後、アメリカ政府、ハリウッド映画産業、ニューヨーク出版産業は毎年、収容所の恐怖とホロコーストの残虐さについて多くの言葉・映像を流し続けている。南北戦争の際、南部連合軍は大敗北を喫した。その時以来、1945年のドイツほどアメリカに徹底的に叩きのめされた敵はなかった。しかしメディア、政治家、官僚たちは、ヒトラーやドイツ軍、強制収容所が現在も永遠に存在し続けているかのような言動を繰り返している。そして政策立案者たちも、無知あるいは悪意から、収容所に関する事実を歪め続けている。
ダッハウ、ブーヘンヴァルトなどの収容所について、政府や歴史家は事実を明かすべき時である。囚人がいかにして死んでいったのか、そしてどのように死ななかったのかを、アメリカ人に公に知らせるべき時である。ガス室での大量殺戮という主張を他の殺人の主張に対して行うのと同じ手法で客観的に取り扱い、調査すべき時である。反論を受けることのないホロコーストの主張の結果として、ある集団の人々が大きな利益を上げている現状を打破する時である。なおかつドイツ人、東ヨーロッパ人、ローマ・カトリック教会、米英の戦争指導者たちに責任をなすりつけるのをやめるべき時である。彼らはホロコーストに加担した、あるいはホロコーストを止められなかったとして嫌疑を受けている。
何よりも、この偉大なドイツ連邦共和国民主共和国の市民が収容所に関する事実を知るべき時である、彼らは知る権利を持っており、その権利とは自国政府内での自らの権限と意思を行使する根幹である。あらゆる民族的背景と信仰を持つ、市民でもあり納税者でもある米国民は、「地位のある者たちによって米国の外交政策と教育政策の決定に於いて重要であるべきと見做されている出来事の事実の判断」に対し、そしてまた「我々の市民生活の中で記憶すべき過去の出来事の選択」に対し基本的権利と最大限の関心を持っている。
ホロコースト問題は現在、あらゆる文明国、ドイツ、フランス、イタリア、イギリス、オランダ、ベルギー、スカンジナビア諸国、日本、カナダ、アメリカにとって重要問題である。真実を見極めるためには事実を調査せざるを得ず、それは公の場で行われるべきである。事実を隠し、真実を否定し、現実を拒否したりしてはならない。真実は明らかになるだろう。そしてアメリカ政府を含む世界各国政府は、1933〜45年、ドイツの強制収容所で実際に何が起きていたかを公にし、証拠を提示しなければならない。それは、私たちが恐れや利益なしに嘘を拒絶するためであり、過去との和解、再生の作業を実行していくためである。そうした作業こそ、民族間の相互許容、そして公正に基づいた平和への堅固な礎、つまり銃や鉄条網、毒、嘘によらない礎となるに違いない。
今日、ホロコーストの事実とされるものは文明化された世界じゅうにおいて係争中である。真実は事実の出典によって公の議論でのみ決定されなければならない:事実の隠蔽や真実の否定、現実の否定によってではなく。真実は明らかになり、その時にはこの国の政府及び世界中の政府と国際機関は1933〜1945年のドイツの強制収容所内で実際に何が起こっていたかの証拠を公開し、我々は公平に嘘に片をつけ、「人々の間の相互の忍耐の、そして正義に基づいた平和の、堅固な基盤となるに違いない和解とやり直し」の作業を遂行することになる。
戦争時のドイツ強制収容所の実態について、アメリカ軍が戦争直後に行った調査は、その後の調査とも一致し、以下のように要約することができる。
セオドア・J・オキーフェは、歴史的そして政治的な問題に関する無数の出版された記事、小論、そして批評文の著者である。数年間、彼はIHRのJournal of Historical Reviewの編集者を務めている。
2007年著
ここで僅かに編集している小論はThe Journal of Historical Review1995年7〜8月(第15巻4番)18〜23ページから採ったものである。