「アウシュヴィッツ博物館の写真は、アウシュヴィッツの囚人たちが非人道的な絶滅政策によって餓死に追い込まれたことを明確に示唆している!
よって、弁護人の長々とした説明はすべて机上の空論だ!」
「写真ねぇ……
写真には証拠能力はないことがまだわかってねぇようだな」
「それはどういう意味だ!」
「こういうことだよ」
「……何これ?」
「1945年1月27日にソ連軍が撮影した写真だ。
見てのとおり、囚人は飢えていない」
「……」
「だから言ったろう?
写真には証拠能力はないって。
あんなものはいくらでも捏造することが可能だから、資料としては何の役にも立たないんだよ」
「つまり、戦後にラーソン博士がダハウで検死したように、ドイツ領内のユダヤ人収容所で大量死体があったことは間違いない。
しかし、アウシュヴィッツではダハウのようなユダヤ人の大量死はなかった。
そーいうことですか?」
「そのとおりです。
アウシュヴィッツ博物館のガイドは死亡者数の記録は残っていないと説明していますが、それは嘘です。
実際は、アウシュヴィッツを占領した赤軍がモスクワに持ち帰ったため、冷戦末期まで公開されなかっただけです。
冷戦末期の1989年8月8日、ツンデル裁判で赤十字代表に対する反対尋問からソ連がアウシュヴィッツの死亡記録を所有していることが明らかになりました。
ツンデルの要請で、一ヵ月後にソ連のゴルバチョフがアウシュヴィッツI、ビルケナウ、モノヴィツの3収容所で死んだ人間のリストを公開しました。
その記録は、アウシュヴィッツで何百万人の人間が殺されたという話が連合軍のプロパガンダだということを物語っています。
弁護側はその資料を『アウシュヴィッツでユダヤ人の大量死があったという立証がなされていない』という証拠として提出します」
参考資料:試訳:第二ロイヒター報告(ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム調査報告書、フォーリソンの序文つき)著フレッド・ロイヒター、ロベール・フォーリソン
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/leuchter_02.htm)
[注:1989年8月8日、ツンデルはソ連の指導者ゴルバチョフに手紙を送って、赤十字代表Charles Biedermannに対する反対尋問から、ソ連がアウシュヴィッツの死亡者記録を捕獲したとの確証を得ていることを伝えた。ツンデルはこの記録へのアクセスを求め、もし記録が公開されれば、善意の証となるであろうと述べた。幸運な偶然の一致かもしれないが、ソ連は1ヵ月半後に記録を公開した。]
参考資料: アウシュヴィッツ死亡者記録月別合計
著者ジョン・ボール『航空写真と矛盾している12の「目撃証言」』(John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos) 歴史的修正主義研究会試訳 より
開始
終了
判明
死亡者数推定
死亡者数合計
死亡者数日数
1日の
死亡者1年
合計1940年 1940/5/1/
1940/12/31
2,000人
2,000人
245日
8人/日
2,000人
1941年 1941/1/1
1941/8/3
4,000人
4,000人
215日
19人/日
1941/8/4
1941/9/10
1,498人
1,498人
38日
39人/日
1941/9/11
1941/10/20
1,500人
1,500人
40日
38人/日
1941/10/21
1941/11/22
1,490人
1,490人
33日
45人
1941/11/23
1941/12/31
1,500人
1,500人
39日
38人
9,988人
1942年 1941/1/1
1942/1/2
69人
69人
2日
35人/日
1942/1/3
1942/2/23
1,500人
1,500人
52日
29人/日
1942/2/24
1942/3/21
1,496人
1,496人
26日
58人/日
1942/3/22
1942/4/7
1,490人
1,490人
17日
88人/日
1942/4/8
1942/4/30
1429人
14,29人
23日
62人/日
1942/5/1
1942/5/15
1,500人
1,500人
15日
100人/日
1942/5/16
1942/5/29
1,473人
1,473人
14日
105人/日
1942/5/30
1942/6/13
1,500人
1,500人
15日
100人/日
1942/6/14
1942/6/25
1,500人
1,500人
12日
125人/日
1942/6/26
1942/7/6
1,499人
1,499人
11日
136人/日
1942/7/7
1942/7/15
1,498人
1,498人
9日
166人/日
1942/7/16
1942/7/27
1,460人
1,460人
12日
122人/日
1942/7/28
1942/8/5
1,498人
1,498人
9日
166人/日
1942/8/6
1942/8/16
1,472人
1,472人
11日
134人/日
1942/8/17
1942/8/21
1,489人
1,489人
5日
298人/日
1942/8/22
1942/8/27
1,498人
1,498人
6日
50人/日
1942/8/28
1942/9/1
1,492人
1,492人
5日
298人/日
1942/9/2
1942/9/6
1,498人
1,498人
5日
300人/日
1942/9/7
1942/9/10
1,498人
1,498人
4日
375人/日
1942/9/11
1942/9/15
1,492人
1,492人
5日
298人/日
1942/9/16
1942/9/21
1,404人
1,404人
6日
234人/日
1942/9/22
1942/9/27
1,488人
1,488人
6日
248日/日
1942/9/28
1942/10/1
1,442人
1,442人
4日
361人/日
1942/10/2
1942/10/11
1,438人
1,438人
10日
144人/日
1942/10/12
1942/10/21
1,482人
1,482人
10日
148人/日
1942/10/22
1942/11/2
1,484人
1,484人
12日
124人/日
1942/11/3
1942/11/12
1,490人
1,490人
10日
149人/日
1942/11/13
1942/12/4
3,000人
3,000人
22日
136人/日
1942/12/5
1942/12/14
1,230人
1,230人
10日
123人/日
1942/12/15
1942/12/31
1,500人
1,500人
17日
88人/日
44,309人
1943年 1943/1/1
1943/1/15
1,492人
1,492人
15日
99人/日
1943/1/16
1943/1/28
1,484人
1,484人
13日
114人/日
1943/1/29
1943/2/7
1,486人
1,486人
10日
149人/日
1943/2/8
1943/2/15
1,500人
1,500人
8日
188人/日
1943/2/16
1943/2/22
1,442人
1,442人
7日
206人/日
1943/2/23
1943/3/1
1,442人
1,442人
7日
206人/日
1943/3/2
1943/3/6
1,488人
1,488人
5日
298人/日
1943/3/7
1943/3/12
1,498人
1,498人
6日
250人/日
1943/3/13
1943/3/17
1,492人
1,492人
5日
298人/日
1943/3/18
1943/3/23
1,460人
1,460人
6日
243人/日
1943/3/24
1943/4/1
1,428人
1,428人
9日
159人/日
1943/4/2
1943/4/13
1,500人
1,500人
12日
125人/日
1943/4/14
1943/5/13
1,480人
1,480人
30日
49人/日
1943/5/14
1943/6/16
3,000人
3,000人
34日
88人/日
1943/6/17
1943/7/1
1,465人
1,465人
15日
98人/日
1943/7/2
1943/7/28
1,480人
1,480人
27日
55人/日
1943/7/29
1943/8/29
1,494人
1,494人
32日
47人/日
1943/8/30
1943/10/12
3,000人
3,000人
44日
68人/日
1943/10/13
1943/11/11
1,490人
1,490人
30日
50人/日
1943/11/12
1943/12/10
1,414人
1,414人
29日
49人/日
1943/12/11
1943/12/28
1,500人
1,500人
18日
83人/日
1943/12/29
1943/12/30
1,494人
1,494人
2日
747人/日
1943/12/31
1943/12/31
970人
970人
1日
970人/日
36,499人
1944年 1944/1/1
1944/12/31
36,000人
36,000人
366日
98人/日
36,000人
1945年 1945/1/1
1945/1/18
1,500人
1,500人
18日
83人/日
1,500人
合計 合計
67,227人
63,069人
130,296人
1,724日
76人/日
130,296人
「『ソフィア先生の逆転裁判』では、7万4千人というニューヨーク・タイムスの数字が引用されてましたが、あれは間違いでした。
ツンデル裁判によって、極秘とされていたアウシュヴィッツの死亡登録簿が復元されたのですが、そのときの公開範囲は1941年7月27日から1943年12月31日までの期間までで、43日間分が紛失されてます。
ただし、アウシュヴィッツの開設は1940年5月20日でありドイツ人が撤退したのは1945年1月18日ですから、死亡登録簿が復元された期間は、収容所の存在期間の半分強ということになります。
ニューヨークタイムスの記者はこの半分強の数字を間違えて新聞に記述したんです。
実際には67227名で、ニューヨークタイムスの数字より7000名ほど少ない」
「ではもう半分は?」
「実は1941年と1944年の部分は非公開になっていてわかりません。
ですが、幸いにして死亡者数の合計の数字は赤十字の資料から公表されてます。
上の表を見てのとおり、130,296(約13万)人。
よって、1941年、1944年、そして1942年から43年の記録で紛失した43日間に63069(約6万3千人)が死亡したと推定されます。
死因の多くはチフスでしたが、その他の病気、心臓発作、癌、老衰もありました。
アウシュヴィッツ・ビルケナウの死亡率は他の収容所に比べてかなり高いです。
しかしこれはそもそもビルケナウは労働ができない病人を隔離するための収容所だったので、異常な死亡率の高さは当然とも言えます。
しかし、これらの一次資料では絶滅用ガス室の毒ガスで殺された人間は一人も確認されていない」
参考資料:「アウシュヴィッツ 神話と事実」著マーク・ウェーバー
(アドレス:ttp://www.nsjap.com/v_b/07.html)
多くのユダヤ人・囚人は働くことができなかった
例えば,アウシュヴィッツのユダヤ人のうち「働けない者は全て即座に処刑された」としばしば主張される.年を取り過ぎている者,若過ぎて働けない者,病人,虚弱者は到着後すぐにガス室送りとなったと言われている.そして働くことのできた者のみが,死ぬまでの短期間,生存できたことになっている.しかし実際の証拠によれば,ユダヤ人のかなり高い割合の人々が,実は働けない状態であり,なおかつ殺されることはなかったのである.例えば,1943年9月4日のドイツ国内テレックス・メッセージが残っている.これはSS経済・管理主局の労働部(WVHA)の部長が出したメッセージである.それによれば,アウシュヴィッツの2万5000人の囚人のうち,3581人だけが労働可能であり,残りの囚人は全て(そのうちユダヤ人は約86パーセントの2万1500人)働くことができなかったのである.多くの囚人が働くことができなかったという事実は,1944年4月5日に出された「アウシュヴィッツ安全対策」という秘密報告書によっても確認される.この報告書は収容所責任者オスヴァルト・パウルから,SS長官ハインリヒ・ヒムラーに送られた.パウルはこの中で,アウシュヴィッツ収用所には全体で6万7000人の囚人が存在し,そのうちの1万8000人は病人か不具者であると述べている.第2アウシュヴィッツ(ビルケナウ) は絶滅収容所と見做されているが,3万6000人が収容されていた.そのうちの大部分は女性であり,約1万5000人は働くことができなかったのである.この2つの文書からも,アウシュヴィッツの絶滅物語は成立しないことが分かる.実はビルケナウ収容所は,主に働くことのできないユダヤ人のために建設された収容所であった.そこには病人や老人,あるいは他の収容所への移送を待つ人々が収容された.これはノースウェスタン大学のアーサー・バッツ博士の見解である.バッツ博士は「ビルケナウでの死亡率が異常に高かったのも,もともと病人や老人が送り込まれたからである」と述べている.プリンストン大学の歴史家アーノ・メイヤー(ユダヤ人) は,最近の本の中で「絶滅計画」について述べている.それによれば,アウシュヴィッツでは処刑されて死んだユダヤ人よりも,チフス,あるいは他の「自然死」により死亡したユダヤ人の方が多かったのである.
「ふむ、続けてください」
「1942年、病気や老齢で毎日100名ほどが死亡していましたが、その数は、5月10月のチフスの流行によって、数ヶ月後には毎日280名ほどにまで増えました。
チフスは伝染するから、チフスの蔓延を防ぐために、病死した死体を焼却しなくてはならなかった。
ところが従来の焼却炉ではそれほどの能力はない。
そこで増大する死体を処理するために、1942年9月、2つの焼却棟と地下の死体安置室の建設が始まりました。
これがビルケナウの焼却棟II、焼却棟IIIです。
以前に弁護側が提出した焼却棟II、IIIの設計図を見れば、クレマ2、3が死体安置室として作られたことがわかります」
「要するに、死体が増えたから新しい焼却場が必要になったってこと?」
「そういうことだ。
とにかくチフスは昔から欧州人の恐怖の的となっていた。
たとえば、フランス皇帝ナポレオンの軍隊がロシアで敗北したのは、実は冬将軍のせいじゃなかった。
当時の東部戦線でもチフスが大流行し、ナポレオンがモスクワに到着した1812年9月には30万人の兵士がチフスによって8万人に減少した。
10月には撤退を余儀なくされ、11月中旬の大寒波で止めを刺されたんだ。
ナポレオンの軍隊をも撃退したチフスを防ごうとして、ナチス・ドイツは必死だったんだよ」
参考資料: ゲコゲコ健康マガジン NO,1 2000.5.24
★コロモジラミ★
人間の衣類に住み宿主と離れても長時間生存できる。頭ジラミよりはるかに多産で生涯に300以上の卵を産める。刺されると強いかゆみを伴い腫れて発疹が出来る。
一番怖いのは、シラミが媒介する発疹チフス。発病すると高熱、ひどい頭痛、精神障害が現れ、死亡率10〜100%で患者の年齢が上がると共に高くなる。従軍中や服役中など人々が密集した状態で多く発生するため戦争熱などと言われる。
(略)
1812年ナポレオンは60万もの兵を従えロシア征服へ向かうが、チフス発症によりその数は激減。モスクワに到達時8万人、帰還時には3000人しか生き残っておらず、その生き残った兵士も大多数が発症チフスに冒されていた。ナポレオンの軍隊は、冬の天候に対する準備をしていなかったため暖を保とうと倒れた仲間の衣類をはいで身につけたため感染が広まったと思われる。1813年ナポレオンは、さらに50万の兵を補充しポーランドとの戦いに挑んだが、さらに21万9000人が発疹チフスで死亡してしまった。その後も各戦争で感染者は増えていった。
ここであの ナイチンゲールが登場(^O^)
病院実務模範として基本的な衛生管理を導入し、死亡者を大幅にへらした。
彼女はシラミが感染に関係しているとは知らなかったが、その厳格な衛生管理のおかげでシラミの個体数がへったのである。(^o^)
(略)
∞参考図書:昆虫大全(メイ・R・ベーレンバウム)、昆虫博物館(安富和男)∞
「発疹チフスの存在を知っていれば、アウシュヴィッツ博物館に展示してある『裸にされたユダヤ人の列』の写真や、『切られた髪の毛』の現物が、発疹チフスの予防をした証拠ということに気づく。
軍隊の兵士が丸坊主ばかりなのはチフス対策がその理由の一つでもあるからだ」
「アッハッハッハ!
何を言っているのですかヴォルフ・フォン・シュナイダー。
あれは発疹チフスの予防ではなく、『日本軍の慰安婦に対する蛮行』の証拠写真なのですよ!」
「で、その証拠写真には裸の西洋人が写っているわけか? なるほど、大した証拠写真だ」
「……」
「……」
「うう、白人が虐めるよぉ……」
「ふっ、勝ったな」
「だからやめろよコリアンネタは」
参考資料:コリアンジェノサイダーnayuki
(アドレス:ttp://homepage3.nifty.com/khf11063/ss/key/KGnayu5.htm)
韓国の反日siteは全てこのレベルだ。どこからか不明なスプラッタ画像を拾ってきて「日帝の蛮行」と勝手に決め付ける。本当に日本か、という検証はいっさいしない。とにかく大声で叫んだ方の勝ちとなる韓国の病である。この低レベルは民間だけではない。韓国の有力新聞にも反日siteを開いているところがあって、掲示されている写真の中には、なんと、ナチスのユダヤ人虐待の現場に『日本軍の慰安婦に対する蛮行』と堂々とキャプションを付けていたものまであった(韓国日報site・上から2番目の写真)。写っている女性はどう見ても西洋人だしナチスの行いとして有名な写真であるのに、韓国人はそれすら気付かなかった。『日本軍の蛮行』と銘打てば何でも疑問無く通過するのが彼らである。
「とにかく、有名な裸にされた『ユダヤ人の列の写真』だが、あれは残酷な写真ではなく、アウシュヴィッツのSSが人道的だったという証拠写真に他ならない。
ユダヤ人の中にはシラミを殺虫することを『ユダヤ教の狭義に反する』ということで受け入れないものもいた。
ドイツはこのような熱心な信者をときには銃で脅して無理矢理にでも清潔な環境を整えさせたが、そのおかげでチフス患者の数が減ったことはたしかなんだ。
なんだが、それを言うと逮捕されるってのはどうしたらいいものか……
ドイツでは、勇者は檻(おり)の中にいる。
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムで苦しんでいるのは日本だけじゃないんだよ。
違うのは日本の自虐史観は努力次第で回復できるが、ドイツのそれは努力することが法律で禁止されていることだな」
「うーん、ネオナチの中の人も大変なのね」
「同情はありがたいが、俺はナチじゃなくて国防軍ね。
あともう一つ、中の人などいない」
「お約束のボケと突っ込みですね」
「というわけで、提出した死亡者数の記録は、『アウシュヴィッツが絶滅刑務所だった』という立証がなされていないという証拠です」
「ふむふむ」
「アウシュヴィッツは絶滅刑務所ではないことは、赤十字がよく知っています。
彼らは収容所に自由に出入りができたのですから」
参考資料:ごくあたりまえの修正主義――ロシア人ジャーナリストとグラーフとの対話
Обыкновенный ревизионизм" интервью с Юргеном Графом
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/graf_06.htm)
K:対談者カパーエフ
G:ユルゲン・グラーフ
赤十字と収容所。「私に殺人ガス車を見せてください」
K:赤十字は1944年に強制収容所を視察したとき、殺戮の痕跡を発見することができなかったのでしたね。その年、赤十字代表ベルナドット伯がヒムラーと折衝したときのことでしたね?
G:はい、ベルナドットは「ユダヤ人がヒムラーと話している」という記事を書いています。彼はのちにパレスチナでシオニストに殺されました。
K:1944年、西側諸国が、ベルナドットを含み、彼を介して、ドイツの指導部と交渉したときに、絶滅は中止されたのではないのですか?
G:1944年9月、スイスの赤十字代表団がアウシュヴィッツを視察して、ガス室が存在するとの「噂が広まっているが」、そのような証拠はまったく存在しないとの報告書を公表しています。ホロコースト正史によると、ドイツ人は1944年11月までユダヤ人をガス処刑したことになっています。ドイツ人が赤十字のアウシュヴィッツその他の収容所の視察を許したという事実は、「定説」と矛盾しています。赤十字の代表団は、絶滅の証拠を発見することができたでしょうから。
K:しかし、代表団の視察の前に、証拠、ガス室の証拠は消し去られたのではないですか?
G:正史派の歴史家たちは、1944年夏に、ドイツ人は多くのユダヤ人を殺したと述べています。同じ頃、ドイツ人は、そこに半年も収容されていたポーランド人の囚人と、軽い犯罪人を釈放しています。彼らはユダヤ人ではありませんでした。しかし、彼らは絶滅収容所ビルケナウの囚人であり、もしもそこでユダヤ人が殺されているとすれば、すべての囚人がそのことを知っていたことでしょう。焼却棟は遠くからでも見えました。ビルケナウの真ん中にあったのです。
「だから赤十字は調査を妨害されたと……」
「で、調査を妨害されたはずの赤十字がガス殺の死体の検死結果を持ってるとニッコーは言ってるわけだな。
いまだに人間石鹸についての記述があるようなインチキサイトを引用するのは、いい加減止めたほうがいいんじゃないか?」
「ぐ……!」
「また自爆ですか」
「ふっ、男には地雷とわかっていても踏まねばならぬときがあるのだ!
滅びの美学は女にはわからぬ世界よ!」
「……」
「……さて、ちょうど気が抜けたので休憩にしましょう」