マーク・ウェーバー
アウシュヴィッツは最も悪名高きナチの絶滅施設と見做されている。第二次世界大戦中、何万人もの囚人――その多くはユダヤだった――が機能的にそこで、特に殺人ガス室で殺されたという。
アウシュヴィッツは、そこで甚だしい状況下で多くの者が非業の死を遂げたという、疑う余地のない恐怖の場所だ。にもかかわらず、その収容所について語られるものの大半は誇張されているか事実ではない。事実を精査すれば、少なくとも機能的な大量絶滅の巨大施設という評判の一部に疑問が湧く。
アウシュヴィッツ複合収容所は現在のポーランド中央南部に1940年に建設され始めた。1942〜1944年半ばの間に多くのユダヤ人がここへ移送された。収容所の中心はアウシュヴィッツIとして知られている。ビルケナウつまりアウシュヴィッツIIは絶滅収容所だったとされており、モノビッツつまりアウシュヴィッツIIIは大規模工業センターであり、そこでは石炭からガソリンが作り出されていた。それに加え、何十もの小さな衛星収容所が戦争経済を支えるために作られていた。
連合国は戦後のニュルンベルク裁判で、ドイツがアウシュヴィッツで400万人を大量殺戮したと嫌疑をかけた。この数字はソ連が言い出したものであり、それがその後何年間も無批判に広められ、アメリカの大手新聞・雑誌にもしばしば掲載された。[1]今日、その人数に同意するような高名な歴史家はいない。
イスラエルのホロコースト歴史家イェフダ・バウアーは1989年、出回っている400万人という数字が意図的な神話であるととうとう認めた。1990年7月、ポーランドの国立アウシュヴィッツ博物館はイスラエルのヤド・バシェム・ホロコースト記念館と共に、死者総数はユダヤ人、非ユダヤ人を合わせて恐らく100万人との推定を発表した。そしてどちらの機関も、殺害された人数、ガスの犠牲となった人数について言及していない。[2]
ホロコーストの卓越した歴史家ジェラルド・ライトリンガーは、「アウシュヴィッツで死んだユダヤ人は恐らく70万人程度」と推定している。[3]フランスのホロコースト歴史家ジャン・クロード・プレサックは1993年に非業の死を遂げた総数を約80万人と推定し、そのうち63万人がユダヤだったと述べている。[4]
尊敬されている外国政策解析学者であり、複数の書籍の著者であり、ドイツの主流の週刊報道雑誌の編集管理をしているフリチョフ・メイヤーは2002年に更に少ない人数を表明した。彼はドイツの学術機関誌Osteurpaで、50万人から51万人――ユダヤ人と非ユダヤ人合わせて――がアウシュヴィッツで非業の死を遂げたと見積もっている。[5]
こうした数字の全てが憶測であるが、これらはアウシュヴィッツ物語が年月を経て劇的に変化したことを示している。
ここ何十年も毎日、アウシュヴィッツを訪れる数万人もの訪問者が「未加工の状態にある」とされる第一収容所にある処刑用「殺人ガス室」を見せられる。1995年1月、L'Expressというフランスの一流の週刊誌が「殺人ガス室」に関する「全て」は「偽物」であり、実のところ戦後の欺瞞の再建築だと認めた。
かつて「ユダヤ人はアウシュヴィッツで組織的に感電死させられた」と大まじめに伝えられたことがあった。アメリカの新聞は1945年2月、最近解放されたアウシュヴィッツのソ連人証言者の話として、次のような話を読者に伝えた。「ユダヤ人は電気コンベヤーの上に乗せられ、何百人もが瞬時に感電死した。死体は火葬炉に運ばれ、すぐに灰となり、それは近くのキャベツ畑の肥料となった。」[7]
ニュルンベルク裁判では、アメリカの検事団長ロバート・ジャクソンが、ドイツ人は「新発明の」装置を使ってアウシュヴィッツ近郊での2万人のユダヤ人を瞬時に「蒸発させた」、「このような方法のため痕跡は何も残らなかった」と責め立てた。[8]現在、まともな歴史家の誰一人として、このような作り話を信じてはいない。
ホロコーストの証拠の重要なひとかけらは、元アウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ヘスの「自白」である。宣誓表明の中で、そして1946年4月15日のニュルンベルク裁判での口述書の中で、彼は自分がこの複合収容所の司令官であった1940年5月から1943年12月までの間、「少なくとも250万人の犠牲者がガス殺と焼却で処刑され絶滅させられた」、その期間だけで「それとは別に少なくとも50万人が飢餓と病に屈し、合計で300満員が死んだ」[9]と宣言した。
この自白は今日でも動かぬ歴史的証拠として広範に引用されているが、実際には拷問によって無理強いされた虚偽の表明である。戦後数年して、イギリス軍事諜報機関に所属していた外科医バーナード・クラークは、この元司令官から自白を得るために、他の5人のイギリス兵士と共にヘスを拷問した状況を描写している。ヘス自身、自分に与えられた苦しみについて私的に次のように述べている:「確かに私は250万人のユダヤ人を殺したとの表明書に署名した。500万人と書かれていても同じことをしていただろう。真実であろうとなかろうと、どんな自白でも得られる確実な方法というものはある。」
ホロコーストの絶滅物語を大筋で認めている歴史家ですら、現在、ヘスの「自白」の多くは単純に事実ではないと認めている。1つ挙げれば、現在、まじめな歴史家なら、アウシュヴィッツで非業の死を遂げた人数が250万人、300万人などとはまず信じていない。
さらにヘスの「自白」によれば、ユダヤ人は既に1941年夏から他の3つの収容所でガス殺によって大量殺戮されたことになっている:ベウジェツ、トレブリンカ、ヴォルゼクで。ヘスが言及するこの「ヴォルゼク」収容所は完全な作り話だ。そのような収容所は実在せず、ホロコースト文学の中で最早その名前が言及されることもない。それ以上に、ホロコースト伝説を現在信じている者は、ユダヤ人のガス殺は1942年のいつの時点かまでアウシュヴィッツ、トレブリンカ、ベウジェツで始まらなかったと主張している。
アウシュヴィッツに関する何千ものドイツ側の秘密戦時文書が戦後、連合国によって押収された。しかしそのうちの一つとして、絶滅政策・絶滅計画について言及したものはなかった。実際、良く知られたアウシュヴィッツ絶滅物語は文書の証拠とは矛盾するのである。
働けないユダヤ人はアウシュヴィッツで全て即座に処刑されたとしばしば主張される。年を取り過ぎている者、若過ぎて働けない者、病人、虚弱者は到着後すぐにガス室送りとなり、そして働くことのできた者のみが、死ぬまでの短期間、生存できたことになっている。
しかし証拠は違うものを示している。実際には、ユダヤ人の囚人のかなり高い割合の人々が働けない状態であり、にもかかわらず殺されることはなかったのである。例えば、これは親衛隊経済・管理主局(WVHA)の労働部の部長が出した1943年9月4日付のドイツ国内テレックス・メッセージは、アウシュヴィッツにいる2万5000人の囚人のうち、3581人だけが労働可能であり、残りの囚人全員――そのうちユダヤ人は約86パーセントの2万1500人――は働くことができなかったことを報告している。[11]
多くの囚人が働くことができなかったという事実は、親衛隊強制収容所機構の部長オズヴァルト・ポールから親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーに送られた1944年4月5日付の「アウシュヴィッツ安全対策」という秘密報告書によっても確認される。ポールはこの中で、アウシュヴィッツ複合収容所には全体で6万7000人の囚人が存在し、そのうちの1万8000人は病人か不具者であると述べている。アウシュヴィッツII(ビルケナウ) は主要な絶滅施設と見做されているが、3万6000人が収容されており、その大部分は女性であり、「約1万5000人は働くことができなかった」のである。[12]
この証拠は、アウシュヴィッツ=ビルケナウは主に、病人老人をふうむ働くことのできないユダヤ人のために、そして他の収容所に割り当てられるのを一時的に待つ者たちの為に建設されたことを示している。これはノースウェスタン大学のアーサー・バッツ博士による熟考の上での見解であり、彼は「ビルケナウでの死亡率が異常に高かったのも、もともと病人や老人が送り込まれたのが重要な理由である」と述べている。[13]
プリンストン大学の歴史学教授アーノ・メイヤー (ユダヤ人) は、1933年の「最終的解決」に関する自著の中でアウシュヴィッツでは処刑されて死んだユダヤ人よりも、チフス、あるいは他の「自然死」により死亡したユダヤ人の方が多かったと認めている。[14]
恐らくアウシュヴィッツで最も知られている囚人は、その有名な日記によって世界中で覚えられているアンネ・フランクだろう。しかし彼女やその父オットー・フランクを含む何千のユダヤ人がアウシュヴィッツ収容所を「生き延びた」ことを知っている人はほとんどいない。
15才のアンネとその父は、1944年9月、オランダからアウシュヴィッツへ送られた。数週間後、ソ連軍の進行に伴い、アンネは他の多くのユダヤ人と共にベルゲン=ベルゼン収容所に送られ、そこで1945年3月、チフスにより亡くなった。父オットーはアウシュヴィッツでチフスにかかり、収容所内の病院に入院していた。彼は、1945年1月にドイツ人がこの収容所を放棄した時に残された数千人の病人・虚弱者の一人であり、間もなくしてアウシュヴィッツはソ連軍に占領された。オットー・フランクは1980年、スイスで死んだ。
もしドイツの政策がアンネ・フランクや彼女の父を殺害するものであったなら、彼らはアウシュヴィッツを出ることはなかっただろう。彼らの命運は劇的なものではあるが、お馴染みの絶滅物語とは一致しない。
アウシュヴィッツのガス殺物語は、その大部分が絶滅の痕跡を自身では何ら見たことはない元ユダヤ人囚人による風聞の証言に基づいている。もっとも彼らがそう信じ込んでいるのも、無理ないことではある。なぜなら「アウシュヴィッツのガス殺」という噂は、当時広く出回っていたからである。連合国の飛行機は、アウシュヴィッツや周辺地域にポーランド語・ドイツ語の一枚紙を多数ばらまいていて、それは、収容所内の人々がガスで殺されていると書かれていた。アウシュヴィッツのガス殺物語は戦時中、連合国の重要なプロパガンダであり、連合国ラジオ局によってもヨーロッパに放送された。[15]
元囚人たちは、自分たちはアウシュヴィッツでの絶滅を示す証拠は何一つ見なかったと認めている。
オーストリア女性、マリア・ヴァンヘアヴァーデンは1988年3月、トロント地方裁判所で自身の収容所経験を証言した。[16]彼女はポーランド人囚人労働者と肉体関係を持った罪で1942年、アウシュヴィッツ=ビルケナウに収容された。収容所へ向かう列車の中で、ジプシー女性が彼女や周囲にいた人々に「アウシュヴィッツでは自分たちは全員ガスで殺される」と言った。到着後、彼女は他の女性たちと一緒に裸になるように言われ、シャワーを浴びるようにと窓のない大きなコンクリートの部屋に入れられた。恐怖した女性たちは、間近に迫った死を覚悟した。しかしそれから、ガスではなく水がシャワーのノズルから出て来たのである。
「アウシュヴィッツは確かに観光地ではありませんでした」とマリアは言った。彼女は多くの囚人の病死を見た。特にチフスが蔓延していた。自殺した者も見た。しかし彼女は、大量殺戮、ガス殺、あるいは絶滅計画の証拠は何一つ見なかったのである。
マリカ・フランクという別のユダヤ人女性は、毎日2万5000人のユダヤ人がガス室で殺され火葬されていたされている時期である1944年7月にハンガリーからアウシュヴィッツ=ビルケナウに移送された。しかし戦後、彼女もまた、収容されている間、「ガス室」については聞いたことも見たこともないと証言した。彼女がガス室の話を聞いたのは、戦後になってからであった。[17]
20万人以上の囚人がアウシュヴィッツから他の収容所への移送され、ソ連軍によって解放された時、約8000人がアウシュヴィッツ収容所にいた。加えて、刑期を終えた約1500人の囚人は故郷へと帰還した。[18]もしアウシュヴィッツが本当に秘密の絶滅施設であったなら、ドイツ当局がそこで起こったことを「知っている」彼らを釈放したと信じるのは難しい。
1944年――絶滅があったとされている期間のうち最高潮の時期――の無作為な複数の日にアウシュヴィッツ=ビルケナウを撮った画質の高い連合軍の空撮偵察写真は、1979年にCIAによって公表された。これらの写真には死体の山の痕跡も、火葬の煙突の煙も、死を待つユダヤ教徒の群衆もない、それらは繰り返し疑惑をかけられているものであり、その全てはアウシュヴィッツが言われている通りに絶滅施設だった場合に見えなければならないものだ。[19]
火葬の専門家たちは、主張されているように、「アウシュヴィッツで1944年の春から夏のあいだ毎日数千体の死体を火葬できた」というのは有りえないと確証している。カナダにある大きな火葬棟の管理人イヴァン・ラガセは、1988年4月に法廷でアウシュヴィッツの火葬物語は技術的に不可能だと証言した。1944年夏のアウシュヴィッツの火葬棟と野外の壕で毎日1万あるいは2万にさえ達する死体が燃やされたという申し立ては単純に「馬鹿げており」、「現実の領域を超えている」、と彼は宣誓のもと主張した。[20]
アメリカの一流の殺人ガス室の専門家であるフレッド・A・ロイヒターはポーランドにある「殺人ガス室」とされるものを精査し、アウシュヴィッツのガス殺物語は馬鹿げており、技術的に不可能であると結論付けた。彼が独自の調査を行った当時、ロイヒターは有罪判決を受けた犯罪者を処刑する為に米国で使用された殺人ガス室の設計と設置の一流の専門家として認められていた。例えば、彼はミズーリ州刑務所の殺人ガス室施設を設計した。
1988年2月、彼はポーランドのアウシュヴィッツ、ビルケナウとマイダネクの、現在も健在であるか部分的にしか倒壊していない「殺人ガス室」の詳細な現地調査を行った。トロント法廷への宣誓証言の中で、そして技術報告書の中で、ロイヒターは自身の調査のあらゆる面を記述している。彼は、殺人ガス設備とされるものが人々を殺すのに使われたなど有りえないと結論付けた。それ以外でも、彼は所謂「殺人ガス室」はドイツ人収容所職員を殺すことなく人を殺すための適切な密閉も通気性もなかったと指摘した。[21]
33年間化学研究者としてデュポン社で勤めているウィリアム・B・リンゼイ博士も同様に、1985年に法廷でアウシュヴィッツのガス殺物語は技術的に不可能だと証言した。アウシュヴィッツ、ビルケナウ、そしてマイダネクでの「殺人ガス室」の入念な現地調査に、そして長年の経験に基づいて、彼はこう宣言した:「チクロンB[シアン化水素]によってこの方法で故意にあるいは意図的に殺された人物はいないと断言いたします。完全に不可能だと判断しております。」[22]
1992年3月、傑出したオーストリア人の技師がドイツの戦時中の殺人ガス室とされるものに関する報告を公開したことが大きく報じられた。ヴィエナで大型の工務店の店長を務めている、法廷の認める専門技師ヴァルター・リュフトルは、戦時中のアウシュヴィッツ及びマウトハウゼンにある殺人ガス室での慣れ親しんだ殺人ガス室でのユダヤの大量絶滅物語は技術的理由により不可能だと結論付けた。リュフトルはアウシュヴィッツに関するロイヒターの発見も取り分けて肯定した。[23]
アウシュヴィッツでは、病気、特にチフスによる死者が相次いだ。そこでドイツの管理当局は、収容所に断固たる対抗措置を取るように命じた。
親衛隊の収容所管理局は1942年12月28日、アウシュヴィッツや他の収容所に指令を出した。そこでは病気による囚人の死亡率が高くなっていることが厳しく批判されている。そして「収容所医師は取り得るあらゆる手段を使って、収容所の死亡率を大きく下げるべきである」と述べられている。そして以下の言葉が続いている。
「収容所医師は囚人の栄養状態に関して、これまで以上に監視すべきである。そして行政府と協力しながら、収容所司令官に待遇改善案を提出すべきである。収容所医師は、さまざまな分野における労働条件をできるだけ改善するよう取り計らねばならない。」
この指令の最後では、「親衛隊国家長官(ハインリヒ・ヒムラー)は、死亡率を劇的に下げるよう命じられた」と念を押している。[24]
命令通りに、アウシュヴィッツにいるドイツ人医師は囚人の死亡率を減少させる為に広範で徹底的な手法を実行した。例えば、1943年2月25日の書簡の中で、収容所の医師ヴィルツは親衛隊の強制収容所機構の責任を負っていた中央親衛隊経済管理本部にこう報告している:
「既に報告した通り、アウシュヴィッツ収容所でのチフスの流行を11月と12月に実質的に終息させた後、アウシュヴィッツの被収容者の中で、そして東方から到着した輸送車によってもたらされた部隊の中で新たなチフスが蔓延しました。即座に取った対抗手段にもかかわらず、チフスの撲滅は未だに達成できておりません。」[25]
これは現在の公式のアウシュヴィッツ絶滅物語と全く相容れるものではない。
過去の憎悪と情熱を維持することは本物の和解と持続している平和を妨げる。アウシュヴィッツの絶滅物語は第二次世界大戦の宣伝戦を起源としている。そしてあらゆる戦時中の宣伝戦は、憎悪と熱意が決定的でない限り、批判的に見なければならない。この歴史の重大な争点をより客観的に観察する時は今である。
#2001号 2009年9月刊
マーク・ウェーバーはイリノイ大学(在シカゴ)、ミュンヘン大学、ポートランド州大学そしてインディアナ大学(修士、1977年)にて歴史を研究していた。1988年3月に5日間、彼はトロント地方裁判所の訴訟で「最終的解決」及びホロコースト問題の世間に認められた専門家として証言した。
“An Official Polish Report on the Auschwitz ‘Gas Chamber’”、The Journal of Historical Review、1991年夏刊(11号、2番)、207〜216ページ。
(https://ihr.org/journal/v11p207_Staff.html)
“Major French Magazine Acknowledges Auschwitz Gas Chamber Fraud”。The Journal of Historical Review、1995年1〜2月号、23〜24ページ。
(https://ihr.org/journal/v15n1p23_Weber.html)
アーサー・R・バッツ著、The Hoax of the Twentieth Century: The Case Against The Presumed Extermination of European Jewry(シカゴ発:T&DP、2003年刊)
ロベール・フォリソン著、“An Orthodox Historian Finally Admits That There is No Evidence for Nazi Gas Chambers”、The Journal of Historical Review、1998年7〜8月号、24〜28ページ。
(https://ihr.org/journal/v17n4p24_Faurisson.html)
R・フォリソン著“How the British Obtained the Confessions of Rudolf Höss”、The Journal of Historical Review、1986〜87年冬号(7号、4番)、389〜403ページ。
(https://ihr.org/journal/v07p389_Faurisson.html)
R・フォリソン著、“Jean-Claude Pressac’s New Auschwitz Book”、The Journal of Historical Review、1994年1〜2月号、(14号、1番)、23〜24ページ。
(https://ihr.org/journal/v14n1p23_Faurisson.html)
R・フォリソン著“The ‘Gas Chamber’ of Auschwitz I”、The Journal of Historical Review、1999年9〜12月、12〜13ページ。
(https://ihr.org/journal/v18n5p12_Faurisson.html)
R・フォリソン著、“The ‘Problem of the Gas Chambers’”、The Journal of Historical Review、1980年夏号、103〜114ページ。
(https://ihr.org/leaflet/gaschambers.shtml)
(https://ihr.org/journal/v01p103_Faurisson.html)
ユルゲン・グラーフ著、The Giant With Feet of Clay: Raul Hilberg and His Standard Work on the ‘Holocaust’(Theses and Dissertations Press、2001年刊)
J・グラーフ著、“What Happened to the Jews Who Were Deported to Auschwitz But Were Not Registered There?”、The Journal of Historical Review、2000年7〜8月号(19号、4番)、4〜18ページ。
(https://ihr.org/journal/v19n4p-4_Graf.html)
バーバラ・クワシュカ編、Did Six Million Really Die?: Report of the Evidence in the Canadian ‘False News’ Trial of Ernst Zündel ― 1988(在トロント:サミズダート社、1992年刊)。
(https://ihr.org/books/kulaszka/falsenews.toc.html)
フレッド・A・ロイヒター・ジュニア著、“The Leuchter Report: The How and the Why”、The Journal of Historical Review、1989年夏号(9号、2番)、133〜139号。
(https://ihr.org/journal/v09p133_Leuchter.html)
フレッド・A・ロイヒター・ジュニア著、The Leuchter Report: An Engineering Report on the Alleged Execution Gas Chambers at Auschwitz, Birkenau and Majdanek(在トロント:サミズダート社、1988年刊)。
(https://ihr.org/books/leuchter/leuchter.toc.html)
ヴァルター・リュフトル著、“The Lüftl Report: An Austrian Engineer’s Report on the ‘Gas Chambers’ of Auschwitz and Mauthausen”、The Journal of Historical Review、1992〜93年冬号、(12号、4番)、391〜420ページ。
(https://ihr.org/journal/v12p391_Luftl.html)
ゲルマール・ルドルフ編、Dissecting the Holocaust(在シカゴ:T&DP、2003年刊[第2版])
ゲルマール・ルドルフ著、Lectures on the Holocaust: Controversial Issues Cross Examined(在シカゴ:T&DP、2005年刊)
マーク・ウェーバー著、“Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers” [Review]、The Journal of Historical Review、1990年夏号(10号、2番)、231〜237ページ。
(https://ihr.org/journal/v10p231_Weber.html)
M・ウェーバー著、“Fred Leuchter: Courageous Defender of Historical Truth”、The Journal of Historical Review、1992〜93年冬号、421〜428ページ。
(https://ihr.org/journal/v12p421_Weber.html)
M・ウェーバー著、“High Frequency Delousing Facilities at Auschwitz”、The Journal of Historical Review、1999年5〜6月号、4〜12ページ。
(https://ihr.org/journal/v18n3p-4_Weber.html)
M・ウェーバー著、“New ‘Official’ Changes in the Auschwitz Story”、The Journal of Historical Review、2002年5〜8月号、24〜28ページ。
(https://ihr.org/journal/v21n3p24_weber.html)
M・ウェーバー著、“Pages from the Auschwitz Death Registry Volumes”、The Journal of Historical Review、1992年秋号、265〜268ページ。
(https://ihr.org/journal/v12p265_Weber.html)
M・ウェーバー著、“Tell-Tale Documents and Photos from Auschwitz”、The Journal of Historical Review 、1991年春号、67〜80ページ。
(https://ihr.org/journal/v11p-67_Weber.html)