マーク・ウェーバー著
ホロコースト物語の中でも最もどぎつく悪質な物語の一つとして、ドイツ人が犠牲者の死体から石鹸を製造したという物語がある。第一次世界大戦中にもドイツ人にかけられた同じような嫌疑はその後すぐに嘘であると判明したが、にもかかわらず第二次世界大戦中、この嫌疑は再び持ち出され、広く信じられた。[1]さらに重要なことに、この嫌疑は1945〜1946年の主ニュルンベルク裁判で「立証」され、以来何十年も多くの歴史家によって事実として伝えられた。ところが近年、「正史の」絶滅物語の最も奇妙な部分からの撤退の一部として、ホロコースト歴史家たちもしぶしぶながら、人間石鹸物語が戦時プロパガンダによる嘘だったことを認め始めている。しかし、その撤退の中で、そうした歴史家は石鹸物語について、戦時の単なる「噂」でしかないと誤魔化しており、この馬鹿げた物語を作り出し、広めたのが国際ユダヤ組織、そして連合国諸政府であったことに彼らは決して言及しようとはしない。
ドイツ人がユダヤ人を殺し、その死体から石鹸を製造しているという戦時の噂は、部分的には、ドイツ政府がユダヤ人ゲットーおよび収容所に配布した石鹸には「RIF」と刻まれていたという事実に由来しており、多くの者はこれを「Rein judisches Fett」つまり「純粋ユダヤ脂肪」と読んだからである(「純粋ユダヤ脂肪」と読むためには「RIF」ではなく「RJF」でなければならないのだが、それは問題とはならなかったらしい。)これらの噂は1941〜1942年に広められ、ポーランドとスロヴァキアにあるドイツ当局はその影響について公式に懸念を表明したほどである。[2]
例えばアメリカの軍事諜報機関の秘密報告から引用しているポーランドによる情報として、ドイツ人は1941年、ポーランドのトゥレクで「人間石鹸工場」を稼働させていたことになっている。「ドイツ人は何千人ものポーランド人教師、牧師、ユダヤ人を連れていき、血液を抜き、その後彼らを大きな鍋に放り込み、油脂から石鹸を製造している。」とその諜報報告は付け加えている。[3]
この非人間的な「人間石鹸」の冗談は、ゲットーや収容所で話題となり、ゲットーや収容所の外にいる非ユダヤの多くも、次第にその物語を信じるようになった。ユダヤ人の被追放者を載せた列車が束の間駅に停車するような時、ポーランド人たちは嬉しそうに「石鹸になるユダヤ人!」と叫んでいたそうである。[4]1944年にアウシュヴィッツで抑留されていたイギリス人の囚人でさえ、ガス殺された死体が石鹸にされるという戦時中の噂について戦後証言した。[5]
この石鹸物語はもともと信じられないほど馬鹿げているのだが、しかしユダヤ人、そして連合国の戦争プロパガンダの重要な要素となった。戦時中、世界ユダヤ会議、そしてアメリカユダヤ会議の議長であったラビ〔ユダヤ教の牧師・訳注〕であるステフェン・S・ワイズは、1942年11月に公に「ユダヤ人の死体はドイツ人によって『処理され石鹸・油脂・肥料といった戦時重要物資へと変えられている』と批難している。彼は更に、ドイツ人は「死体の利用価値が高いため、わざわざ死体を掘り出し、それぞれの死体につき50マルク支給しているほどである。」と発表した。[6]
1942年の終わり、米ユダヤ会議が発行している『議会ウィークリー』誌は次のような記事を掲載した。ドイツ人はユダヤ人を「科学的方法を使って分解し肥料・石鹸・接着剤へと変えている」。この記事は、フランス及びオランダからの被追放ユダヤ人は、ドイツに少なくとも二つある特別工場で、「石鹸・接着剤・列車燃料」へと処理されている、とも報告している。[7]アメリカの典型的な他の雑誌の多くもこれに同調し、有力な〈ニュー・パブリック〉誌も1943年初頭、ドイツ人は「シドルツェにある工場でユダヤ人犠牲者の死体を石鹸・肥料に変えている」と記している。[8]
1943年6〜7月、モスクワに本部を置く「ユダヤ反ファシスト委員会」の二人の著名な代表者が渡米し、大規模な集会を何度も開き、それによってソ連の戦争資金として200万ドル以上を集めた。こうした集会それぞれで、ソ連のユダヤ人指導者ソロモン・ミコエルは群衆に石鹸を見せ、「これはユダヤ人の死体から作られたものです」と言った。[9]
戦後、石鹸物語は主ニュルンベルク裁判でも重要なテーマとなった。ソ連法務大臣L・N・スミルノフは裁判で次のように宣言した:
「……同様に、殺人ガス室や殺人ガス輸送車を作り出した、合理化された親衛隊の技術者は、人体を完全に消滅させる方法を考案した。それは彼らの犯罪を隠すだけでなく、ある製品を製造するためでもあった。ダンツィヒの解剖研究所では、人間の死体から石鹸を製造し、工業用に人間の皮膚をなめす半ば産業用の実験が行われた。」
スミルノフはダンツィヒ研究所の研究員ジークムント・マズールの自白調書を長々と引用した。この自白調書は、ニュルンベルク裁判でソ連側証拠197として受け入れられた。この自白調書は、ダンツィヒ研究所の所長、ルドルフ・シュパーナー博士は1943年、死体から石鹸を製造することを命じた、と、証拠を付すこともなしに断言している。マズールの自白調書によれば、シュパーナー博士の任務は、ドイツ政府の首脳の関心の対象であった。教育大臣ベルンハルト・ルスト、厚生大臣レオナルド・コンティ博士、そして医学研究所に勤務する他の教授たちも、シュパーナーの成果について証言するようになった。マズールはまた、自分の身体を洗い、衣類を洗濯するために「人間石鹸」を使ったとも言った。[10]
シュパーナー博士によって考案されたとされる人間石鹸の「製造法」(ニュルンベルク文書USSR-196)も存在する。最終的には「人間石鹸」の欠片とされるものの標本がニュルンベルク裁判に証拠USSR-393として提出された。
イギリス検事団長ハートレー・ショークロス卿はこの裁判の最終弁論で、ソ連側の主張に同調した:「時折、犠牲者の死体すら、戦時中の石鹸不足を補うために使われた。」[11]最終判決においても、ニュルンベルク裁判の裁判官たちは「商業用の石鹸の製造のために、犠牲者の死体の脂肪を利用する試みがあった」との判断を下した。[12]
ここで強調しておかねばならないが、この馬鹿げた石鹸物語の「証拠」としてニュルンベルク裁判に提出されたものは、「殺人ガス室」での大量殺戮の主張の為に提示された「証拠」よりはまだ具体性があったことである。なぜなら石鹸物語の場合、少なくとも死体から作られたとされる実際の石鹸の標本が証拠として提出されたのだから。
戦後、ホロコーストの犠牲者たちとされるものが石鹸の形で、ユダヤ墓地に荘厳に埋葬された。例えばイスラエルのハイファ墓地では1948年、葬儀かたびらで包まれた四本の石鹸が、ユダヤ宗教儀式に従って埋葬された。[13]他の「ユダヤ石鹸」は、ワルシャワのユダヤ歴史研究所、ダンツィヒ (ポーランド名はグダンスク) のシュトゥットホーフ博物館、ニューヨークのイーヴォ研究所、フィラデルフィアのホロコースト博物館、メルボルン (オーストラリア) のユダヤ・ホロコースト・センター、そしてイスラエルのさまざまな場所でホロコーストの忌まわしい遺物として展示されている。[14]
戦時中ドイツのゲットーと収容所で生活した多くのユダヤ人たちも、長年石鹸物語の存続に貢献した。例えばベン・エーデルバウムは1980年、自身の回顧録Growing Up in the Holocaustの中で次のように記している:[15]
「ドイツ人はしばしば、ゲットーへの需品の中に『RJF』という頭文字の石鹸を含めていたが、この石鹸は『RIF』石鹸として知られるようになった。私たちは戦争が終わるまで、この石鹸のぞっとするような真実について知らなかった。もし私たちがゲットーでその真実に気づいていたら、全ての『RIF石鹸』に対して、マリシンにある墓地でユダヤの聖なる葬儀を行っていただろう。しかし実際は、私たちはその起源を全く知らず、殺された愛すべき同胞の骨や肉で身体を洗っていたのである。」
ネッセ・ゴディンは1944年の春に、リトアニアのゲットーからシュトゥットホーフの強制収容所に移送された。彼女も1983年のインタビューで収容所到着の模様について、次のように回想している:[16]
「到着した日、ドイツ人は私たちに石鹸を渡し、シャワーを浴びるように言いました。戦後、私たちはその石鹸がユダヤ人純粋脂肪(Rein Juden Fett)で製造されていたことを知りました。身体を洗った石鹸に頭文字が彫られていたのです。私は自分が使った石鹸に、私の父の脂肪も少しは含まれていたのだということを知っています。それについて考える時、私がどんな気持ちになるとお思いですか?」
元アウシュヴィッツの被収容者メル・マーメルシュタインは、1991年4月のセンセーショナルなケーブルテレビ番組『Never Forget』で特集された人物であり (そして彼は歴史見直し研究所、その他3人の被告人に1100万ドルの訴訟を起こしている)、1981年の宣誓証言で、「私や他の収容者被収容者たちは人間脂肪で製造された石鹸を使いました」と述べた。彼はまた「私が使った石鹸が、ユダヤ人の死体から製造されていたことは明白な事実です」とも主張した。[17]
有名な「ナチ・ハンター」サイモン・ヴィーゼンタールも1946年、墺ユダヤ共同体の機関紙『Der Neue Weg』内で彼が掲載した連作記事の中で石鹸の話を繰り返している。連作の第1回で彼はこう書いている。[18]
「三月下旬、ルーマニア報道機関が奇妙な報道を行った:ルーマニアの小さな街、ファルティチェニでは、20箱の石鹸が盛大で完全な葬送の儀式と共にユダヤ墓地に埋葬された。この石鹸はドイツ軍の元貯蔵庫で最近発見された。この箱にはRIFという頭文字が書かれており、『純粋ユダヤ脂肪』という意味であった。これらの箱は武装親衛隊向けのものであった。この包装紙は、石鹸をユダヤ人の死体から作った完全に皮肉な目的を明らかにしている。驚くべきことに、ドイツ人は石鹸を老若男女どれから製造したかの記載を完全に忘れていた。」
ヴィーゼンタールはこう続けた:
1942年以降、[ポーランド]総督府はRIF石鹸が何を意味するかについて、充分に知っていた。文明世界の人々は、ナチスの喜びや総督府にいる女性たちによる石鹸への考えを信じられないだろう。それぞれの石鹸には、第二のフロイト、エーリヒ、アインシュタインになったであろうユダヤ人たちが、魔法のように詰め込まれていたのである。」
ヴィーゼンタールは別の記事でも次のような言葉を残している:「人間脂肪から石鹸を製造するという話は、あまりに信じ難いものであり、強制収容所の中にいた人々ですら、なかなか理解できないほどであった。」[19]
戦後何年も、高名とされる無数の歴史家はこの息の長い石鹸物語を広めた。[20]例えばユダヤ人歴史家ウィリアム・L・シャイラーは、ベストセラー『The Rise and Fall of the Third Reich』の中で、やはり石鹸物語を繰り返している。[21]
ソ連の戦争プロパガンダを率先して担当したイリヤ・エーレンブルクは、戦後の回想記でこう記している:「私の手元には伝説の『純粋ユダヤ脂肪』と刻まれている一個の石鹸があり、これは、殺された人々の死体から作られている。しかしこれ以上は言うまい:これについては何千もの本が書かれているのだから。」[22]
カナダの中学校で使われている標準的な歴史教科書『Canada: The Twentieth Century』は、生徒にドイツ人は『石鹸を製造するために』ユダヤ犠牲者の死体を『ゆでた』と伝えている。[23]ブナイ・ブリス 〔訳注:ユダヤ人フリーメーソンの組織〕 のシオニストが結成している「ユダヤ名誉毀損防止連盟」が発行し、配布している「The Anatomy of Nazism」というパンフレットはこう述べている:「野蛮の工程は、ただ大量殺戮だけにとどまらなかった。それは殺された人々の死体から大量の石鹸を製造することにまで及んだのである。」[24]
1981年には『Hitler’s Death Camps』という詳しい本が出版されたが、ここでも石鹸物語がどぎつい詳しさで繰り返されている。著者のコニライン・ファイグは、「学者の中には、ナチスが人間脂肪から石鹸を製造したというのは単なる恐ろしい噂と主張している人もいる」と認めながらも、石鹸物語を受け入れている。その理由として、彼女は次のように述べている。「東ヨーロッパの収容所を研究している学者のほとんどは……石鹸の話を認めており、なおかつ人間から製造された石鹸は東ヨーロッパに陳列されている――私はこれまでそれをいくつも見てきた。」[25]
ニューヨークのラビ、アーサー・シュナイヤーは、史上最大のホロコースト会合の開会式で、やはり石鹸物語を繰り返した。1983年4月、ワシントンで開かれた「ユダヤホロコースト生存者アメリカ集会」への訴えの中で、このラビは厳かに宣言した:「私たちは頭文字RJF――Pure Jewish Fat――を彫られた石鹸は愛すべき同胞の身体から製造された石鹸であることを覚えています。」[26]
こうした一見もっともらしいあらゆる証拠にもかかわらず、ドイツ人が人間から石鹸を製造したという嫌疑は誤りである。それは今やホロコースト歴史家たちが遅ればせながら認めている通りだ。「Pure Jewish Fat」と勘違いされている、石鹸の「RIF」の頭文字は、実は「大国・産業脂肪供給センター」(“Reichsstelle fur Industrielle Fettversorgung”)を超える邪悪さを有していなかったことを示している。このセンターは戦時、石鹸・洗剤の製造・配給を取り仕切っていたドイツ官庁である。またRIF石鹸は質の悪い代用品で、実は人間脂肪どころか、いかなる脂肪も含まれてはいなかったのである。[27]
終戦直後、ドイツのフレンスブルク公共検事局は、彼がダンツィヒ研究所での人間石鹸製造で何らかの役割を果たしたという嫌疑でルドルフ・シュパーナー博士に法手続きを開始した。しかし調査後、この手続きは人知れず取り下げられた。公共検事局は1968年1月の書簡で、「戦時中、人間の死体からの石鹸はダンツィヒ研究所で製造されていなかった」という調査結果を出した。[28]
より最近では、ユダヤ人歴史家ワルター・ラカーは、1980年の著書『The Terrible Secret』の中で人間石鹸の話には実際には根拠がないと認めることで、「確立された歴史を否定」した。[29]同じくユダヤ人歴史家ギッタ・セレニーも、著書『Into That Darkness』の中でこう記している:「死体が石鹸・肥料を製造するために使われたという世界的に受け入れられていた話は、一般に極めて信頼されている機関『ルートヴィヒスブルクナチ犯罪調査中央局』によって最終的に否定された。」[30]近代ユダヤ史教授デボラ・リップシュタットも1981年に以下のように認めた時に同じように「歴史の書き換え」をした:「実はナチスは決して、石鹸製造、その他の目的でユダヤ人あるいはそれ以外の死体を利用したことはありませんでした。」[31]
イスラエルのヘブライ大学のイェフダ・バウアー教授は、ヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館の館長シュムエル・クラコウスキーと同じく、第一線のホロコースト歴史家と見做されているが、このバウアー教授も1990年4月、人間石鹸物語は真実ではないことを認めた。収容所の被収容者は「自身への迫害者について、どんな恐ろしい物語でも信じ込んでしまう状況だった」と彼は記している。しかし同時に、彼は厚かましくもその伝説で「ナチス」に対して批難している。[32]
実のところ、石鹸物語の嘘に対する非難は、サイモン・ヴィーゼンタールやスティーヴン・ワイズのような個々人、あるいは世界ユダヤ人会議といった組織や勝者連合国勢力に浴びせるべきものであるが、しかし彼らの誰一人として、悪質な虚偽を流したことについて謝罪表明を行ってはいない。
しかしなぜバウアーやクラコウスキーは、石鹸物語を公に否定すべき時が来たと判断したのだろうか? クラコウスキー自身が、『この「戦術的退却」は余りに明白な嘘を捨て去る事で沈みつつあるホロコースト船に残っているものを救い出す為だ』と、その動機の大部分を仄めかしている。大きくなりつつある見直し論者からの反論に直面して、石鹸物語のようなあまりに明らかな嘘はホロコースト伝説全体への疑いを惹起する危険な厄介者となっているのだ。クラコウスキーが言う通りだ:「歴史家たちは、石鹸が人間脂肪から製造されることはなかったと結論付けている。多くの人々がホロコーストそのものを否定している今、なぜそうした人々に、わざわざ攻撃材料を与える必要があろうか?」[33]
真実に対するこの計算された遅ればせの譲歩を行った者たちの不誠実さは、「石鹸神話がニュルンベルク裁判で『立証』されたこと」を彼らが全く言い落としている点から、そしてその裁判や、ホロコースト物語の他のより根本的な面の確立に於いて信じる価値があるとされている権威への信頼性の確証に対する言及への忌避からも明らかである。
第一次世界大戦の悪名高き「人間石鹸」の嘘を英国政府が戦後すぐに否定したこととは正反対に、第二次世界大戦では同じく根拠のないプロパガンダ物語が勝者である連合国によって公式に承認され、西洋歴史家の多くの落胆させる程の高潔さの欠如が際立つだけでなくこの世紀の間の西洋の倫理基準の全般的な衰微が協調される程に、戦後も長年権威づけられた。
「人間石鹸」物語は、『有力な個人や組織によって広められたプロパガンダであれば特に、戦時の噂はどれほど馬鹿げていようと一旦作り出されたなら巨大なインパクトを持ち得ること』を改めて示した例である。これほど多くの知識人、あるいはそれ以外の思慮深い人々が、こぞって「ドイツ人が厚かましくもラベルにユダヤ人の死体から製造されたことを示す文字を刻印した石鹸を配り」という物語を真剣に信じたことから、どんなに馬鹿げたホロコースト寓話さえも事実として受け入れられ得ること――そして受け入れられていること――が見て取れる。