逆転ニュルンベルク裁判
〜ユダヤの嘘を暴いてドイツの無罪を勝ち取れ〜


Subject4: 絶滅計画で死んだユダヤ人は何人か?

 「ゼロ

そんな計画など存在しないのだから当然だ」

 「正確な数はわからない。

わからないほど多いんだ。

死体の山、絶滅刑務所、毒も見つかっている。

どこの国の教科書にも、酷い目にあったユダヤ人の写真は載っているはずだ。

何百万人が毒ガスで死んだことは揺るぎようの無い事実だ」

 「その写真がなぜユダヤ人だと断定できるのだ?

ホロコーストの証拠として採用されている写真の中には、ドイツ人の死体をユダヤ人だと偽ったもののある。

それがユダヤ人だったとしても、空爆で死んだのではないのか?

誰が、いつ、何の目的でその写真を取ったのかを明らかにするべきだな。

絶滅刑務所が残っていると言っても、それが絶滅刑務所だとなぜ断定できるのだ?

ここは絶滅刑務所でした、と言っているだけで、確たる証拠は何もない。

毒ガスで殺された死体が一体でも確認されているのか?

米軍と共に収容所に入り、囚人たちの遺体を検死した法医学者チャールズ・ラーソン博士は、毒ガスで殺された死体は一体も見つからなかったと言っているぞ」

 参考資料 The Liberation of the Camps: Facts vs. Lies by Theodore J. O'Keefe

「収容所の解放」事実と嘘 著セオドア・オキーフ

 「Dr. Larson's findings? In an 1980 newspaper interview he said: "What we've heard is that six million Jews were exterminated. Part of that is a hoax." (note 2) And what part was the hoax? Dr. Larson, who told his biographer that to his knowledge he "was the only forensic pathologist on duty in the entire European Theater" of Allied military operations, (note 3) confirmed that "never was a case of poison gas uncovered." (note 4)」

2. Jane Floerchinger, "Concentration Camp Conditions Killed Most Inmates,

Doctor Says,"The Wichita Eagle, April 1, 1980, p. 4C.

3. J. D. McCallum, Crime Doctor (1978), p. 46.

4. The Wichita Eagle, April 1, 1980, p. 4C.

訳:「ラーソン医師は何を発見したのだろうか? ラーソンは1980年,彼の伝記を書こうとしていたアメリカ人ジャーナリスト,ヤン・フローキンガー(ウィチタ・イーグル所属)とのインタビューに答え,次のように述べている.『私たちは600万人のユダヤ人が殺戮されたと聞きましたが,その一部は嘘でした.』『ではどのように嘘だったのですか?』と聞き手が尋ねると,彼はこう答えた.『私は全欧を舞台とした劇の中で,ただ解剖学者の役割を演じただけです.しかし毒ガスが使用された形跡を見つけることはできませんでした.』ラーソン医師だけでなく,他のどんな専門家も,チクロンB,あるいはその他のガスによって人が殺された例を,一件も立証することができなかった.たとえホロコースト歴史家が,彼らをしばしば引用しているとしてもである.」

 参考資料:木村愛二著 『アウシュヴィッツの争点』

(その51)現代史研究所長が「ドイツではガス室殺害なし」と新聞投書

 リーフレット『収容所の解放/事実と嘘』および雑誌記事「ダッハウのガス室神話/収容所解放50周年の隠された歴史」によれば、アメリカ軍とともにドイツのダッハウなど約二〇の収容所にはいり、発見した死体を不眠不休で「約三〇〇から一〇〇〇体ほど」検死した「唯一の法医学者」、チャールズ・ラーソンは、「毒物および毒ガスによる死亡例は一件もない」と報告していた。つまり、公式ないしは非公式を問わず、当時の唯一の専門的な法医学鑑定では、事前に流れていた噂のような「注射」や「ガス室」による「ホロコースト」の実例は、まったく発見されていなかったのである。原資料としては、ラーソンの伝記『犯罪検死医師』(CrimeDoctor)や本人の談話の新聞記事が挙げられている。ラーソンの検死結果によれば、「死因の大部分はチフス、結核、栄養失調」であった。ラーソンは、以上の検死作業について公式報告を提出しただけではない。「アメリカ軍の検察官から三日間にわたる質問」まで受けている。しかし、このラーソンの公式報告は、長らく埋もれたままになっていた。アメリカ軍や、ニュルンベルク裁判の検察局が秘密にしたからだけではなく、大手メディアが実地検分作業を無視しつづけたからだと考えられる。それでもすでに一九六〇年までには、西側占領地域にあった収容所には「ガス室はなかった」というのが、「事実上の定説」になってしまった。西側では、ラッシニエ以来の批判もあったし、それなりの地道な学術的調査がおこなわれたからである。しかし、この「事実上の定説」が学問の世界で確立した前後の経過は、実に奇怪至極である。

『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』によると、一九六〇年八月一九日付けの西ドイツ(当時)の週刊紙『ディー・ツァイト』に、つぎのような要旨の投書がのった。「ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヒェンヴァルトでも、ユダヤ人ほかの被収容者で、ガス室によって殺されたものはいなかった」投書の主は、ミュンヘンにある西ドイツ(当時)国立現代史研究所の所長[Webにおける訂正:この投書をしたのは所長になる以前だったので研究員とする]で、歴史家のマーティン・ブロサット博士だった。本来なら、西ドイツ政府の「現代史」についての見解を代表する立場の公的な責任者だ。そういう公的な立場の人物が、なぜ、個人名による新聞投書という非公式な便宜的手段を選んだのだろうか。シュテーグリッヒ判事は、この投書を「ラシッシニエの発見に対する回答」だと推測している。そうだとすれば、そのさい、公式決定と公式な回答発表をさまたげたのは、いったいどこのだれなのだろうか。ブロサット博士自身の選択だったのだろうか。それとも、背後の組織の決定だったのだろうか。疑問はふくらむが、ともかく以後、「西側にはガス室はなかった」というのが「事実上の定説」になった。のちにその正体の一部をあばくが、「ナチ・ハンター」として売りだし、『マルコ』廃刊事件で威力を発揮したSWCがその名をいただくユダヤ人、サイモン・ウィゼンタールでさえも、テオドール・オキーフが執筆したリーフレット『収容所の解放・事実と嘘』によれば、一九七五年には「ドイツの土地のうえには絶滅収容所はなかった」としるしている。

『六〇〇万人は本当に死んだか』では、地図(本書一二ページ所収[Web公開では省略])によって視覚的に、この「事実上の定説」の奇妙さを強調している。

 「貴様は本当に『Crime Doctor』を読んだことがあるのか?」

 「なんだと?」

 「日本の否定派は読んでいない文献を『読む』ことにたけている。

我輩の『業界』では、読んでもいない本や論文を読んだと称して引用すると、それが判明した場合、少なくともその後はまともには議論の相手にしてもらえず、当人も多少は恥じ入る。

米国では、もっと厳しい対応がなされ、昇進ができなくなったり、悪質なケースでは、失職ということに成り得る」

 「どういうこと?」

 「読んだこともないのに、毒ガスで死んだ死体が一体もないと断言できる貴殿の脳はとても素晴らしいということだ。

これを見よ!」

 参考資料: 'Crime Doctor,'  McCallum & Larson, p. 61より

(アドレス:ttp://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Points2/Larson.html

"The majority died of natural diseases of one kind or the another. However, we did probe into such questions as, 'What happened to those prisoners who became psychotic at Dachau? What did the Gestapo do with them?' Well, they took those people to the crematorium. First, however, they were taken to a big windowless building next to the crematorium where the ceiling was covered with false shower heads. The victims were then ordered to strip and take a 'shower.' Outside the building, guards dropped in cyanide pellets. Then they'd blow the cyanide gas out and remove the bodies next door to the crematorium ovens. I think this is what happened to most of the truly psychotic prisoners and those they considered unruly and unmanageable and who, in the Gestapo's opinion, were incorrigibles. But, in my opinion, only relatively few of the inmates I personally examined at Dachau were murdered in this manner. Still, medical facilities were totally inadequate. When people fell hopelessly ill and death was imminent, and when they grew so weak they could no longer work or function, they were taken to the cyanide room for disposal. The Nazi called them 'mercy killings' because there was no hope of them getting well. Actually, the Germans considered them a liability, and extermination was the answer."

訳:「大部分はあれこれの自然の病気で死んだ。しかしながら、私たちは『ダッハウで精神を病むようになった囚人たちに、なにが起こったのか? 彼らにゲシュタポはなにをしたのか?』といった質問をした。判ったのは、ゲシュタポがそうした人々を焼却室(crematorium)に連れていったことだった。しかしはじめ、彼らは焼却室のとなりにある大きな窓のない建物に連れていかれた。そこの天井には、偽物のシャワー口がつけられていた。ついで犠牲者たちは、裸になって『シャワー』をあびるように命令された。建物のそとから、護衛たちが青酸の錠剤(cyanide pellets)を落とし込んだ。ついで彼らは、青酸ガスを排除して、となりにあった焼却炉へと死体を移動させた。私が思うに、これが本当に精神を病んだ囚人たち、ゲシュタポが手に負えないとか始末に困ると思った人々、さらには矯正不可能とみなされた人々に起こったことだった。しかし、ダッハウで私が個人的に検死した被収容者のうち、こうしたやり方で殺された被収容者は、かなり少なかったと思う(But, in my opinion, only relatively few of the inmates I personally examined at Dachau were murdered in this manner.)。さらに、医療設備はまったく不充分であった。人々が治療の見込みがない病気になって、労働も生活もできなくなるほど衰弱すると、彼らは青酸室(the cyanide room)に連れていかれて処分された。ナチはこれを『慈悲殺害』と呼んでいた。なぜなら、彼らが治る希望はなかったからだ。実際、ドイツ人たちは彼らを邪魔者とみなしており、絶滅がそれへの答えだったのだ。」

 「あれ? たしか毒ガスで死んだ死体は無いって話だったんじゃ……」

 「ひょっとしてネオナチの偽情報というオチでしょうか?」

 「うーん、これは否定派にとってマイナス材料よねぇ」

 「というわけだ。絶滅刑務所は実在したんだよ」

 「やっぱりそうなのかなぁ……」

 「……ヤツラ、もう勝ったと思ってやがる……」

 「よろしい。

ならば、教育してやろう

 「検察は巧妙なトリックを使っている!

引用された部分に証拠能力はない!

 「む?」

 「どういうことかな?」

 「検察が引用した部分は、ラーソン博士が誰かに聞いた「物語」と、ラーソンの「想像」で構成されている」

 「

 「前半は質問した結果わかった物語であり、後半は私が思うにという想像だ。

つまり、これは検死の結果ではないということだ。

引用された部分でわかることはただ一つ。

ラーソン博士が死体を検死したという事実のみ。

その検死の結果が『毒ガスで死んだ死体は一体も見つからなかった』ということなのに、なぜこんな途中経過を引用するのかな?

さらにこの引用部分に証拠能力がないことは簡単に説明できる。

仮にラーソン博士が、ダハウで毒ガスによる死体を発見していたと仮定しよう。

つまり、ダハウにはガス室が有った事になる」

 「ダッハウ? ……あれ?」

 「思い出したようだな。

前回の授業で私はこう説明した。

ドイツ国内にあるダハウ刑務所は絶滅刑務所ではないとな。

かつて絶滅刑務所として名を馳せたダハウ収容所は、記念館になっていてそのパンフレットには、「このガス室はシャワー室を装って作られていますが、一度も使われたことがありませんでした」と書いてある。

もしもラーソン博士が毒ガスで死んだ死体をダハウで発見していたなら、そのパンフレットはどうなるのかな?

ホロコースト肯定派の学者も、現在、ダハウが絶滅刑務所であったと言うものはいない。

もし、ダハウで毒ガスで死んだ死体が発見されたなら、それは新説となってしまうぞ」

 「……」

 「なかなか巧妙な手口だな。

ニツコーは実際よくやってるよ。

読者の誤読を狙うというトリックは、なかなか考えたものだ」

 「またニッコーかよ」

 「ニッコーはヘブライ語で『忘れない』という意味らしいですよ。

ユダヤ人の作ったWebサイトだから嘘だらけなんでしょうね」

 「ニッコーの引用は予備知識のない一般人が相手ならイチコロだが、相手が悪かったな。

捏造民族韓国人を相手にしていて、この手の捏造には慣れている人間に、そんな使い尽くされた手は通用しない……」

 「遅れてるなぁ、ロシアの喧嘩はよぉ……

 「ロシア?」

 「バキネタ好きだねぇ」

 「はっきり言ってユダヤ人の嘘はレベルが低い。

レベルが低いうえにつまらんのではいかんともし難い。

せめて、脳内世界と現実世界が一致しないと大爆発を起こすくらいの芸を見せて欲しいものだ」

 「ユダヤ人が火病を持ってたら面白いのにね」

 「ホロコースト議論に最高の人材は集まらない、クラリス。

大学の図書館端末からこのスレッドに書きこむ連中を見たまえ。

無線マニアに対人恐怖症。

みな性格的に欠陥のあるものばかりなのだ。

ホロコースト検証は科学ではなく骨相学とおなじ、なんらかの【代償行為】なのだよ」

 「クラリスとは誰だ?」

 「カリオストロの城に出てたあれか?」

 「だから何だ? 羊たちの沈黙を引用してどうだと言うのだ?」

 「やっぱり映画ネタかよ」

 「引用してきたまではいいが、貴様らは『毒ガスで死んだ死体』という殺人事件に必須な証拠を挙げることができないではないか。

さも毒ガスで死んだ死体が発見されたような書き方をしおって……

とんだペテン師だな」

 「ふはははは!

これはこれは中々どうしてどうして、くくく……、なるほどなるほど、相手にとって不足無しというわけか。

今のは諸君を試させてもらっただけだ」

 「はあ?」

 「すんごく うさん臭いんだけど……」

 「だんだんボロが出てきましたね」

 「毒ガスで死んだ死体ならある。

例えばアンネ・フランクの関係者だ。

アンネの父であるオットー・フランクの仕事仲間だったヘルマン・ヴァン・ペルスは、1944年9月6日にアウシュヴィッツ・ビルケナウに到着した集団ごとガスで殺された。

『オランダ赤十字調書 103586号』がそれを裏付けている。

これは『アンネ・フランクの日記』の付録資料で確認できる有名な話だ」

 「またニッコーか……

おい、まじめにホロコーストを証明したいならあんなインチキサイトを引用するのは止めておけ。

アンネの関係者が毒ガスで死んだのは嘘に決まっているだろう。

1985年1月17日のツンデル裁判で、ホロコースト肯定派の親分であるユダヤ人歴史家ラウル・ヒルバーグ、同じく肯定派の親分であるブローニングは検死結果を見たことがないと言っているぞ」

 参考資料: B.Kulaszka(ed.), Did Six Million Really Die ? ,Report of the Evidence in the Canadian “False News” Trial of Ernst Zundel-1988, Toronto(訳:歴史修正主義研究会)より

(アドレス:http://revisionist.jp/holocaust_trial.htm

(C:弁護士クリスティ H:検事側証人ヒルバーグ B:検事側ブローニング)

H:よろしい、ガス処刑されたのちに何が起こるかについての詳しい医学報告をお望みなのならば、それを見たことはありません。

C:私が望んでいるのは、ガス処刑ののちに何が起こるかについての研究ではありません。1939−1945年のあいだに、チクロンBなどを使って人間が殺されたという戦後あるいは戦前あるいは戦時中の報告書です。

H:このような報告書は大量にありますが、医者による科学的な報告書をお望みなのですね。

C:検死報告です。

H:ありません。アウグスト・ヒルトの資料には検死報告のようなものが含まれているかもしれませんが、それを今証言することはできません。

C:どうかお願いします。青酸ガスで死亡したことを証明する資料を見たことがありますか。

H:即座に回答しようとは思いません。見たことがあるかもしれないからです。しかし、私はそのような些細なことに関心を抱いていません。

C:ブローニングさん、同じことを質問しますが、チクロンBによって殺された人間の検死報告を見たことがありますか。

B:そのような検死報告は知りません。

 「ふはははは!

なんだこれは!

ヒルバーグは見たことが無いとは言っていない!

見たことがあるかもしれない』と言っているではないか!

『見たことがない』と言ったのはブローニング(=ブラウニング)だ」

 「同じことだ。

ツンデルの弁護士ダグラス・クリスティの追及に絶えられず、結局自分がインチキであることを暴露してしまったではないか。

毒ガスによる大量殺人事件の第一人者がこんな簡単な質問に即答できないのだ。

こんな大事なことを些細なことと言い張るヒルバーグは頭がおかしいんじゃないか?

通常の殺人事件でも検死結果がないことが些細なことと言うつもりか?

ヒルバーグは毒ガスで死んだ死体を一体も確認していないと見るべきだな」

 「それは貴様の思い込みだ。

見たことがあるかもしれない』と言ったら、それが答えなのだ」

 「そーいうのを詭弁というんだよ。

もしもアンネ・フランクの関係者がガスで殺されたのが事実なら、ヒルバーグが知らぬわけがない。

無論ブラウニングもだ。

だが、答えることができない。

これは毒ガスで死んだ死体など誰も見つけていないということではないのか?」

 「何度も言わせるな。

見たことがあるかもしれない』と言ったら、それが全てなのだ」

 「うさんくさいわねぇ……」

 「ほんとに赤十字に記録なんて残っているのでしょうか?」

 「記録は残っていても検死結果ではないとかいうオチじゃねぇだろうな」

 「大尉」

 「ゲオルグ?」

 「来たか。で、どうだった?」

 「はい。これを見てください」

 参考資料:「アンネの日記 完全版」 著アンネ・フランク 訳深町眞理子

P.488

ヘルマン・ファン・ペルス(アンネの日記ちゅうではファン・ダーン姓)は、オランダ赤十字の調査によると、1944年9月6日までは、なおアウシュヴィッツ収容所で生存していたのが判明しているが、オットー・フランクによれば、その数週間後、すなわち1944年の10月または11月、ガス室へ送られて、殺された。ガス室での集団処理が中止される直前のことであった。

 「おいおい。

ヘルマン・ファン・ペルスのガス殺は赤十字じゃなくて、オットー・フランクの証言がソースかよ。

赤十字は1944年9月6日まで生存を確認しただけで、ガス殺なんて確認してないじゃねぇか。

ニッコーの言っていることと違うぜ」

 「こんなことだろうとは思ったけどね」

 「すまなかったな。調べものを頼んで」

 「いえ。このくらいは大したことはありません。

私がSSに志願したのはヒトラーに仕えるためではない。

命の恩人のあなたに仕えるためです。

ヴァルハラまでお供します大尉」

 「ふん、生意気なことを言う男だ。……まあ嫌いじゃないけどな」

 「へー」

 「何がだ?」

 「別に〜」

 「なるほど。ソフィアさんは年下好みなんですね」

 「ば、馬鹿! 何を言う! わたしは――」

 「? では失礼します」

 「あ、ああ……」

 「ふふふ〜 いいもの見ちゃったわね」

 「ふふ そうですね」

 「ええぃ! 貴様ら、何が言いたい!」

 「何も〜」

 「ないですよ〜」

 「……」

 「話を戻すけどよ。

結局のところ、赤十字はガス殺の検死結果なんてもってるのか?」

 「赤十字にそんな記録があるわけないだろう。

そんなものがあればとっくの昔にホロコースト否定派は絶滅している。

ないから世界中に否定論者がいるんだ」

 参考資料 1997.05.05

「“赤十字はナチの大虐殺見抜けず” 米紙報道」

赤十字国際委員会(ICRC)が第二次世界大戦中,ナチス・ドイツの宣伝にだまされ,600万人以上の死者を出したとされるユダヤ人虐殺を見抜けなかったことが,赤十字の内部資料で明らかになった。2日付の米紙USAトゥデーが,ワシントンのホロコースト博物館で公開が始まった6万ページの解禁資料をもとに報じた。同紙によれば,赤十字は1944年9月,アウシュビッツ強制収容所に視察団を派遣した後,米国務省に報告を送り,「収容者を根絶する装置がある形跡は何も発見できなかった。われわれは他の筋からも,過去数カ月間アウシュビッツで虐殺は行われていないとの情報を得ている」と伝えた。同紙は,多くのユダヤ人が赤十字の救済に期待しながら死んでいったと指摘,「赤十字は究明を怠ったばかりか,連合国側に誤った情報を送っていた」と非難した。

 参考資料: IHR(歴史見直し研究所)のパンフレッド66Q&51Aに対するニッコーの回答

(アドレス:ttp://www.ss.iij4u.or.jp/~mitaka/nizkor/66qa51.txt

 「ガス室の噂は確証することができなかった。なぜなら派遣団は、ガス室と火葬施設が存在したアウシュヴィッツのクレマを訪問することを厳重に禁じられていたからだ。派遣団は、アウシュヴィッツ収容所という巨大な複合施設の中の、絶滅対象とされていない囚人が収容されている箇所にのみ連れていかれた。連合軍の戦時捕虜がアウシュヴィッツに収容されていた。彼らは適切な待遇を受けていた。しかし、彼らはガス殺について知っていて、国際赤十字の派遣団にそのことを示唆した。」

 参考資料: IHR(歴史見直し研究所)のパンフレッド66Q&55Aに対するニッコーの回答

(アドレス:ttp://www.ss.iij4u.or.jp/~mitaka/nizkor/66qa55.txt

*ニツコーの回答

アンネは、2年と30日間隠れ住んでいた8人のオランダ系ユダヤ人の一人に過ぎない。彼らは発見されナチスに逮捕されてアムステルダムからポーランドの死の収容所に移送された。アンネの父の仕事仲間だったヘルマン・ヴァン・ペルスは、1944年9月6日にアウシュヴィッツ・ビルケナウに到着した集団ごとガス殺された(オランダ赤十字調書103586号)。彼の妻は「1945年4月9日から5月8日の間にドイツかチェコスロバキアで」死んだ(オランダ赤十字調書103586号)。彼らの息子ペーターは、アウシュヴィッツからの強制行軍の後、1945年5月5日にオーストリアのマウトハウゼン強制収容所で死んだ(オランダ赤十字調書135177号)。アンネ一家の友人だったフリードリッヒ・プフェフェル博士は、1944年12月20日にノイエンガンメ強制収容所で死んだ(オランダ赤十字調書7500号)。アンネの母は1945年1月6日にアウシュヴィッツ・ビルケナウで死んだ(オランダ赤十字調書117265号)。アンネと姉のマーゴットは1945年3月頃、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で発疹チフスで死んだ(オランダ赤十字調書117266号、117267号)。8人のうちただ一人、アンネの父オットー・フランクのみが生き残った。オットー・フランクの仕事仲間だった二人の非ユダヤ人、ヨハネス・クレイマンとビクトル・グスタフ・クグレルも同様に、フランク一家を助けた件で逮捕された。二人ともドイツでのArbeitseinsatz(労働奉仕)を宣告され、大戦を生き延びた。オランダ赤十字に関するリファレンスはすべて、アンネ・フランクの「アンネ・フランクの日記:校訂版」1989年 pp.49-58に引用されている(引用全文が入手可能)。

 「ニッコーは矛盾だらけだな。

赤十字がホロコーストの存在を知ったのは終戦後だ。

だから赤十字にはホロコーストの存在を裏付ける記録が全くなかった。

そして『赤十字がガス室の噂を確認できなかった』ことはニッコーも上記の通り認めている。

ナチは赤十字にガス室を隠していたそうだからな。

だがニッコーは、ガス室の噂を確認できなかった赤十字が、ガス室で死んだ死体の検死結果を持っていると言っているのだ。

おかしな話だな」

 「たしかに……

ニッコーの言い分をまとめると一方では『ナチスは赤十字に虐殺を隠してた』となり、もう一方では『赤十字が虐殺を確認している』ということになる。

これは明らかに《ムジュン》している」

 「なんでカタカナ?」

 「現在の赤十字の言い分は『戦時中はホロコーストを知らなかった』となっている。

これは赤十字のWebサイトに行けば、『過去の反省』という名目で語られていることだ。

さて検察側に質問したい。

ニッコーの矛盾した言い分はどういうことなんだ?」

 「ふっ

何を馬鹿なことを……

戦後に検死をしたに決まっているであろう。

戦中は知らなかった。そして戦後に知った。

これなら両者が成り立つではないか。

もっと想像力を働かせたらどうだ?」

 「戦後に?

なるほど、1944年9月5日に死んだ死体の検死は、1945年1月27日のソ連アウシュヴィッツ占領後以降に行われたというのか?」

 「その通りだ」

 「その通りぃ?

それこそ不可能な話だ!

アウシュヴィッツはソ連に占領された後、西側諸国による実地検証が許されていなかったんだぞ。

無論、赤十字も入ることは許されていなかった。

だから、仮に数ヶ月死体が放置されていたとしても、戦後に赤十字が検死解剖するのは不可能だ。

やるなら戦中しかない。

だが、戦中の赤十字の調査の結果は、「絶滅計画は確認できなかった」という結論だ。

戦中に記録が無く、戦後に調査が不可能なら、赤十字にガス殺死体の記録があるわけがない。

以上の理由から、検察の使用した証拠は、ニッコーの偽造であると考える」

 参考資料:木村愛二著 『アウシュヴィッツの争点』

第二次世界大戦終了後の一〇年間、ソ連は、アウシュヴィッツへの立ちいりを全面的に禁止していた。これだけ重大な、しかも、人類史はじまって以来ともいうべき一〇〇万人規模の大量殺人事件の告発だというのに、ニュルンベルク裁判では、実地検証なしの判決をくだしていたのだ。証拠は「チクロンB」「自白」「陳述」だけである。シュテーグリッヒ判事は、「西側同盟国がアウシュヴィッツ地域をまったく調査しなかった」理由について、「鉄のカーテン」を基本的な背景事情としてあげながらも、同時に、「部分的にはその理由で、部分的には別の理由で」という微妙な留保的表現をくわえている。「別の理由」をわたしなりにハッキリいえば、本式の調査をする気がなかったということにつきるのではなかろうか。たとえば『二〇世紀の大嘘』によると、当時のダッハウに一七カ月滞在したアメリカ戦争局の弁護士、ステファン・F・ピンターは、一九五九年になって、つぎのような弁解の文章を発表している。「アウシュヴィッツにはガス室があるといわれたが、そこはロシア占領地域のなかだったし、ロシア人が許可しないという理由で、われわれは調査を禁じられていた」シュテーグリッヒ判事も、このピンターの説明を『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』で再引用し、この「ロシア人が許可しない」という状況説明に「かなりの不明確さがある」と指摘している。さらに別の箇所では、「カティンの森」で大量のポーランド将校の死体を発見した際のナチス・ドイツの態度を、ソ連の態度と対比し、その矛盾を鋭く指摘している。「アウシュヴィッツについてのソ連の政策とは対照的に、ドイツ政府は、この犯罪の現場検証を世界中のジャーナリストや専門家がおこなえるようにし、写真撮影をゆるした。なぜソ連は、アウシュヴィッツの事件でおなじようにしなかったのか」

もう一方の西側諸国も決して真剣に、ロシア側に立ちいり調査の許可をもとめたわけではない。アウシュヴィッツ神話の維持は、東西双方が必要とする陰微な共同作業だったからではなかろうか。また、国際軍事法廷という形式から考えれば、担当法廷の裁判長名で実地検証の命令がだされてしかるべきところだったが、その作業どころか議論の形跡もまったくない。

 「ふむ。これは簡単に説明が付く。

ナチスは戦後に絶滅計画を暴かれたくなったのでガス殺死体は確実に燃やして証拠を隠滅していたのだ。

だが! どれほど徹底的にやっていたとしても完璧には隠蔽できなかった。これを見るがいい!」

 参考資料:対抗言論

(アドレス:http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/holocaust/aml15378.htm

第二に、にもかかわらず、実はガス殺死体は発見されています。ソ連軍の進撃が急だったため証拠隠滅が間に合わなかったマイダネクでは、ガス殺された犠牲者の遺体が焼却されずに多数残されていました。マイダネク解放直後にその調査を行ったポーランド-ソ連特命委員会は、これらの遺体が一酸化炭素により中毒死したものであることを報告しています[1]。ガス殺死体が発見されていないなどというのは、西岡さんの無知または嘘を示すものでしかありません。

[1] "COMMUNIQUE OF THE POLISH-SOVIET EXTRAORDINARY COMMISSION FOR INVESTIGATING THE CRIMES COMMITTED BY THE GERMANS IN THE MAJDANEK EXTERMINATION CAMP IN LUBLIN", (MOSCOW 1944) pg 17


http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/holocaust/aml10899.htm

ただし、少数ながら例外もあります。他ならぬこのマイダネクです。ソ連軍の進撃が急だったため、マイダネクでは証拠隠滅が間に合わず、ガス殺犠牲者 (上記のガス室ではなく、1台だけあったガストラックによるもの)の遺体が多数残されていました。これらの遺体は検死され、その死因が一酸化炭素中毒であることが確認されています[3]。

[3] "COMMUNIQUE OF THE POLISH-SOVIET EXTRAORDINARY COMMISSION FOR INVESTIGATING THE CRIMES COMMITTED BY THE GERMANS IN THE MAJDANEK EXTERMINATION CAMP IN LUBLIN", (MOSCOW 1944) pg 17

http://www2.3dresearch.com/%7ejune/Vincent/Camps/MajdanekReport.html

 「これって信頼できるわけ?」

 「できない。

なぜならこれはソ連は『死体を確認した』と言っているだけだからな。

外国メディアは一ヶ月間もマイダネクに入ることができず、現場検証ができなかったのだ。

さらに一酸化炭素中毒によるガス殺といっているが、現場には一酸化炭素のガスボンベは存在しない

現存しているのは二酸化炭素と書かれたボンベと記載が読めない正体不明のボンベだけだ。

マイダネク強制収容所中央建設局の文書には、このガス室は『害虫駆除室』、『殺菌消毒室』と言及されていたし、人間がガス処刑されたという目撃証言がまったくなかった。

ようするに、マイダネクのガス室は偽者だから検死報告は信用できないということだ。

検死報告が本物だと言い張るならガス室が本物で、そこで殺人が行われたことを立証しなければなるまい」

 参考資料:シャーロック・ホームズのガス室

――ホロコーストのガス処刑説の文芸学的分析の試み――

著:サミュエル・クロウェル

(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/crowell_01.htm

ガス処刑伝説の進化において、次の事件は決定的である。ドイツの強制収容所がはじめて連合国に公開されたからである。ソ連の大攻勢が実行され、ドイツ中央軍集団を崩壊させたため、1944年7月末、マイダネクが解放された[153]。ソ連軍は1ヶ月間、そこを訪問することを許さず、8月末に西側のジャーナリストに短期間公開した[154]。その結果、『ニューヨーク・タイムズ』と『クリスチャン・サイエンス・モニター』がルポルタージュを掲載し、続いて、マイダネクに関するポーランドソ連特別委員会の公式報告が発表された[155]。

マイダネクでのガス処刑の連鎖過程は、7月のアウシュヴィッツやその他の収容所についての記述とは異なっている。以前の記述では、犠牲者は服を脱がされ、シャワー室か浴室で死を迎えたと強調されていた。しかし、マイダネクでは、シャワーは、建物の最後の部屋で起こったガス処刑の前段階となっている[156]。大きな相違であり、この理由を検証しなくてはならない。

(中略)

このシナリオにはいくつかの問題点がある。ガス室とされている四つの部屋のうち、チクロンBを投入するための開口部が天井にあるのは一つだけ(部屋A)で、その他の部屋のうち二つにはコンクリートで補強されたところに粗雑にあけられた穴がある[165]。部屋の一つの天井にはまったく開口部はない。三つの部屋の外部にはボイラーがついており(「三つのガス室」という話の起源)、第四の部屋にはドア以外の開口部はない[166]。グラーフとマットーニョは、発見された5つのボンベのうち、残っているのは2つだけであり、しかも、一酸化炭素ではなく、二酸化炭素という標識をつけていると指摘している。二酸化炭素は、害虫駆除ガス(Tガス)発生に必要であるが、絶滅能力を持っていない[167]。こうしたことは、ボイラーの存在とともに、この部屋では、ときによって、チクロンB、Tガス、温風といったさまざまな害虫駆除物質が使われてきたことを示している。

 参考資料:マイダネクのガス室 著:カルロ・マットーニョ

(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/mattogno_03.htm

第一に、残っていたマイダネク強制収容所中央建設局の文書には、このガス室は「害虫駆除室」、「殺菌消毒室」と言及されていたし、第二に、人間がガス処刑されたという目撃証言がまったくなかったからである。

(中略)

しかし、今日横室に見ることのできる二つのボンベのうちの一つ――見学者から見て右側――は二酸化炭素の記載を持っている。これはボンベの表面に良く見ることができる。[40]

[40] 他のボンベの記載を読むことはできなかった。

(中略)

これらの建物を一酸化炭素ガス処刑に使ったということに関するポーランド・ソ連委員会の結論は、実際には、いかなる証拠にももとづいていない。二つの事実はまったく逆のことを示している。

 「ふははははは!

ソースをよく見ろ!

ソースをよく見るのだ!」

 「ああ?」

 「誰がいつ『マイダネクのガス室の死体は確認されている』と言ったのだ?

確認されているのはガス室ではなく、ガストラックの死体のことだ!」

 「え? じゃあ、ガス室でガス殺された死体は一体も確認されてないってわけ?」

 「そういうことだ! ソフィア先生は大嘘つきだな!」

 「いや、それは対抗言論の書き方が悪いと思うわよ。

『ガス室で殺された死体はない』の反論に『ガス殺死体はある』と答えたら誰だって『ガス室で殺された死体はある』と思うでしょ。

まさか反論してるのに『ガス室で殺された死体はない。しかしガストラックの死体はある』なんて思わないでしょ。

それが別のページに書いてあるんだからさ」

 「まあ私としてはガス室でもガストラックでも構わんのだがな。

両方とも否定できるから。

ガストラックについては文書資料も現物も存在しない。

あるというなら現物を見せてみろ、としか言えんな。

あまりに胡散臭い代物だからホロコースト肯定派の重鎮ラウル・ヒルバーグもディーゼル排気ガス殺人を人間石鹸と同レベルの嘘だということで否定しているくらいだぞ」

 参考資料:対抗言論

(アドレス:http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/holocaust/stove204.htm

ガス車(密閉した車両のなかにディーゼルエンジンの排気ガスを送り込んで殺す車です)

 参考資料:ラウル・ヒルバーグ ニューヨークの日刊紙「新しいロシアの言葉(1995年2月28日)」より

(アドレス:http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/revisionist/berg_01.pdf

「ナチスは人間の脂肪から石鹸を製造しなかったし、ディーゼル排気ガスで犠牲者を殺さなかった。これらの噂は1942年に流布していたが、われわれは、これらの噂や偽造を事実と真実から切り離さなくてはならない。ちょっとした嘘が、否定派に馬草を提供し、われわれに敵対する行為になる。

 「ヒルバーグによればガストラックなんて言ってる奴は修正主義者のスパイだそうだな。

ガストラックはホロコーストの信憑性を下げるだけだから。

対抗言論は修正主義者のスパイか?

それともヒルバーグこそスパイなのか?

さて、どっちが裏切り者なのかな?」

 「構わん! 両方とも粛清だ!

スパイは処刑しろ! 栄光ある赤軍の兵士に裏切り者や臆病者はいらないのだ!」

 「おいおい……」

 「で、どうなんだ?

ガス室の死体は一体も確認されてないことに異論はないのか?」

 「ふはははは!

マイダネクの現場を一ヶ月間封鎖したからどうだというのだ?

外国メディアが確認できなかったからどうしたというのだ?

遺体が標本で残ってないから再検証できないなどまったくもってバカバカしい話だ。

現場が公開されなくともソ連が「死体を確認した」と言ったら、それは事実なのだ」

 「一ヶ月も現場を封鎖してる時点で説得力ゼロでしょ」

 「それは貴様の思い込みだ!

まったくもってバカバカしい!

『死体がなければホロコーストがない』など論理的に有り得ない」

 「だって殺人事件に死体がなかったら困るでしょ?」

 「愚かなり! 死体なき殺人事件などいくらでもある!

弁護側の言っていることは西側の人間がガス殺死体を確認できなかっただけの話に過ぎない。

ネオナチの妄言などまったくもって無意味である」

 「じゃあガストラックの現物を見せてみろ。見せれるものならばな」

 「慌てるな。モノには順序というものがある!

それらは審議が進むにつれ、自動的に明らかになるだろう!

というわけで次回では言い逃れのできない証拠を突きつけてやろう。休憩だ」

 「ええ〜 せっかく面白くなって来たのに逃げる気〜?」

 「あなた楽しんでるでしょ?」

 「おほほほ。ま・さ・か♪

あたしは陪審員として、あくまで中立の立場から肯定派の方に意見を求めているだけよ?

で、ガス室で殺された死体は何体確認されたわけ?

 「休憩と言ったら休憩だ! 話が通じないとは愚かなり! 休憩だから我輩はこれで失礼する!」

 「あーあ、逃げちゃった♪ しゃーないわねー」

 (こいつ……絶対遊んでるな……)

 (ルクス……恐ろしい子……)