#1289/1770 研究室「パンドラの箱」

★タイトル (QYA33902) 96/12/ 3 21:11 ( 42)

ニツコー>66Q&A55番              三鷹板吉

★内容

55.アンネ・フランクが終戦のほんの数週間前に死んだ、その原因は何か?

*IHRの主張(オリジナル版)

発疹チフスである。

*IHRの主張(改訂版)

アウシュヴィッツでの収容生活を生き延びた後、彼女はベルゲン・ベルゼン収容所で発疹チフスにより倒れた。終戦のほんの数週間前だった。彼女はガス殺されたのではない。

*ニツコーの回答

アンネは、2年と30日間隠れ住んでいた8人のオランダ系ユダヤ人の一人に過ぎない。彼らは発見されナチスに逮捕されてアムステルダムからポーランドの死の収容所に移送された。

正史に於いて赤十字はナチスのホロコーストを全く認知していなかったため、検死できるわけがない。このことはニツコー自身が認めている(国際赤十字が「ホロコースト」の疑問に関して報告しなければならなかったのは、いかなることか?参照)。加えて、ホロコースト正史の第一人者であるラウル・ヒルバーグもクリストファー・ブラウニングもガス殺の検死記録を見たことがない。そのため、ガス殺の検死記録はニツコーの偽証だと思われる。

逆転ニュルンベルク裁判 part4:ナチスの毒ガス処刑で殺されたユダヤ人の死体は何体確認されているか?参照。

アンネの父の仕事仲間だったヘルマン・ヴァン・ペルスは、1944年9月6日にアウシュヴィッツ・ビルケナウに到着した集団ごとガス殺された(オランダ赤十字調書103586号)。彼の妻は「1945年4月9日から5月8日の間にドイツかチェコスロバキアで」死んだ(オランダ赤十字調書103586号)。彼らの息子ペーターは、アウシュヴィッツからの強制行軍の後、1945年5月5日にオーストリアのマウトハウゼン強制収容所で死んだ(オランダ赤十字調書135177号)。

アンネ一家の友人だったフリードリッヒ・プフェフェル博士は、1944年12月20日にノイエンガンメ強制収容所で死んだ(オランダ赤十字調書7500号)。

アンネの母は1945年1月6日にアウシュヴィッツ・ビルケナウで死んだ(オランダ赤十字調書117265号)。アンネと姉のマーゴットは1945年3月頃、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で発疹チフスで死んだ(オランダ赤十字調書117266号、117267号)。8人のうちただ一人、アンネの父オットー・フランクのみが生き残った。

オットー・フランクの仕事仲間だった二人の非ユダヤ人、ヨハネス・クレイマンとビクトル・グスタフ・クグレルも同様に、フランク一家を助けた件で逮捕された。二人ともドイツでのArbeitseinsatz(労働奉仕)を宣告され、大戦を生き延びた。

オランダ赤十字に関するリファレンスはすべて、アンネ・フランクの「アンネ・フランクの日記:校訂版」 1989年 pp.49-58に引用されている(引用全文が入手可能)。