アリ・L・ゴールドマン筆
1988年11月10日 ニュー・ヨーク・タイムズ
水晶の夜の死者数を数えるのに両手が必要かどうかすら怪しいため、この体験談全て、即ちこの記事の信憑性そのものが疑わしい。水晶の夜神話の解体参照。
マンハッタン上町のシナゴーグの地下にある黄金時代倶楽部は、噂話、笑い、そして遊戯札を切る音で騒がしく、御年79になるラビが注目を集める為に金属製の灰皿に匙を叩きつけなければらない程だった。
「水晶の夜について誰か話したいか?」ラビのラルフ・ノイハウスが問うた。誰も身じろぎしなかった。「どうか」彼はドイツ語で言った。「確実に、我々全員には記憶がある。」
更なる沈黙が訪れたが、それも堂々としていて紫色の衣装を纏ったある女性がゆっくりと部屋の中央へと歩み始めるまでだった。
「それは我々には苦痛極まります」ファニー・ジョールソンという女性が強いドイツ語訛りで説明した。「我々は余りに多くのものを見、余りに傷つきました。思い出したくもありません。」それから彼女は話を中断し、一呼吸してから続けた:「とは言え覚えてはいます。どうすれば忘れられましょう。」
水晶の夜から50周年の記念日だった。数千人の人々が米国じゅうのシナゴーグ、教会そして公共広場に追悼の為に集まった。
しかし追悼も、蝋燭の行進も必要としない者たち――ニューヨーク市マンハッタンのブロードウェイ劇場街及び196番通りにあるオハヴ・シャロームシナゴーグ集会場に火曜の遊戯札に興じに集まった100人の老人たちなど――もいた。彼らは生存者であり、生ける記念碑だ;その人生が水晶の夜及び以降の出来事によって形成された男女だ;彼らは決して忘れない、何故なら忘れられないからだ。
涙がジョールソン夫人の頬を伝った。「私は覚えています――し感じられます――昨日のことのように。父はストームトルーパーによって連れ去られました。夫は」彼女は語句を継ぐことに難儀し、頻繁にドイツ語になった。「二度と彼の話を聞くことはありませんでした。二度と。」
「私の町グローセン=ブーゼックでは、シナゴーグとドイツ人が保有する明かとが近過ぎたため、彼らはシナゴーグを焼きませんでた。ナチスはドイツ人の資産を破壊しないよう命じられていました。しかし彼らはシナゴーグからトーラーとテフィリンを奪い去り、路上で着火しました。
「彼らは見せつける為に学校に私たちを連れて行きました。私は友人に言いました、『彼らが私たちを撃っても、泣き叫ばないで。泣き叫ばないで。誇り高く立っていて。』」
しかし彼女もその友人も撃たれなかった。この2人と帆kの女性たちは帰宅して割れた窓ガラス、砕けた扉、壊れた家具を片づけるよう命じられた。
3年後、移住への捨て鉢の試みにもかかわらず、彼女は未だドイツにいて、テレージエンシュタットにある強制収容所に入れられた。彼女は1945年に連合国によって解放されるまで生き延びた。
「これが大筋です。」ジョールソン夫人は言った。「これで十分です。」
彼女がそう話すと、他の者たちはまるで同じ悪夢を見た連れ合いたちであるかのように注意深く近付いて詳細を付言していった。
ギーセンの町から来た80歳のノーバート・ローウェンシュタインは言った:「私は35人の家族を失った。35人だ。私だけが生き残った。」彼は未婚だった。「適切な子が見つからなくてね、」彼は言い、悲しげに笑った。
齢76になるフリッツ・ファルケンシュタインはナチがケルン近郊にあるホックニューカークに建っている自宅へ来て、地元の煙草工場を所有する父を呼び出したことを覚えている。「私は彼らに言った。『父は病気です。代わりに私を連れて行ってください。』彼らはその通りにしたが、彼らがどういう者だったと誰が知っていたのだろう。ラインラントにいた我々は彼らがどのような獣か知らなかった。」
ファルケンシュタイン氏はダッハウに送られたが、父の工場をナチスに提供すると署名することで1〜2ヶ月後に帰宅できた。「私たちの工場は『アーリア化』させられた」彼は言った。「150〜160人雇っていた。最終的に出国し渡米した時、私たちは幸運にもある工場で職を得た。そして我が家の女性たちは床掃除をした。」
82歳の退職した肉屋モリス・ヒューバートもまた、水晶の夜にフランクフルトにある自宅付近で車を運転していると逮捕された。「ナチスは私たち50人を数丁の機関銃の前に並ばせた、」彼は言った。「指揮官が電話を受けるよう呼び出された。我々は待機した。彼が戻ると、我々は帰された。未だに理由は分からない。」
後に、ヒューバート氏はブーヘンヴァルト送りになる。「その収容所には熊1匹と鷲1羽の入った檻があった、」彼は言った。「毎日、彼らはユダヤを1人そこに投げ込んだ。熊は彼を引き裂き、鷲は彼の骨をついばんだ。」「しかし信じられないな、」ある客が囁いた。「信じられないが、」ヒューバート氏が言った、「起きたのだ。」
「誰もが物語を持っている、」自分のことを語ろうとはしないある女性はそう言い、他人が語った話を聞くのに疲れているように見えた。彼女は水晶の夜の話をやめたがっていたため、息子の死について話していた小柄な女性の方を向いて悪意なくこういった、「ポーラ、私たちは貴方を待っているのだけれど。」
この背の低い女性は身を起こし、カード遊びの丸机の彼女の定位置に戻った。
部屋はすぐに普通に戻った。噂話、笑い、そして山札を混ぜる音が空気に満ちた。
1988年11月10日付のニュー・ヨーク・タイムズの記事を和訳しました。
良く話題になる、「ブーヘンヴァルトには熊と鷲の檻があって、毎日1人食わせていた」の出典です。ご笑覧ください。