ホロコーストという巨視から水晶の夜という微視に進むことは人種的な宣伝戦の機構へと近付く面白い研究の旅路だ。「ポーランドのユダヤによる、パリにいたドイツの外交官の暗殺」が引き起こしたドイツにいるユダヤに対するこの有名な暴動(1938年11月10日)の40周忌の式典を語る新聞の各種報道の中で、AP通信が厳かにこう断言していた:
91人のユダヤが攻撃によって殺され、これは第二次世界大戦中のナチの死の収容所内での600万人のヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅の前兆となった。
巨大な虚偽への小さな脚色は報道機関の職人にとって、あるいはマディソン通りの法螺吹き男爵にとって知らないわけがない技術だ。600万人という大規模な前提が受け入れられている時、誰が91体の死体の追加に異議を唱えられるだろう? 世界の報道機関が今日まで水晶の夜の間毎秒のドイツの残虐物語を聞き回っており、百万語を尽くした言葉が世界中の電話線を通り、電波放送に乗り、便箋で運ばれる中で、民族社会主義者がユダヤを1人でも殺したという信頼できる証拠は一片たりとも提出されていないことを誰が覚えたままでいるだろう、あるいは誰が敢えて思い出すのだろう。
1938年秋まで時計の針を戻し、New York Timesの大元の報道を訪ねてみよう、その記事は他の米国内のどの新聞より、それどころか世界中のどの新聞よりこの出来事に紙面を割いていた。
11月10日―Times紙の匿名の特派員が無線伝送したことによる最初の報道によると、ベルリン最大のシナゴーグは炎上し、破壊者たちが「洒落た繁華街の中で」活動していたという。報道された唯一の身体的な暴力は百貨店の損害に抗議した非ユダヤへの攻撃だ。
11月11日―Times紙の在ベルリンの外国特派員であるオットー・トリシャスによる一面にある3段立ての記事は暴力はなかったと報道したが、匿名の情報筋はユダヤへの暴行を目撃したという物語も続けて述べた。トリシャスは自身の報告の殆どを様々なシナゴーグ及び商会での火災、強奪あるいは破壊の広範な縮小に限定した。そのTimes紙にある別の話は、ヴィエナで書かれたもので、21のシナゴーグのうち18が燃え、「ユダヤたちは攻撃され殴られ」15,000人が逮捕されたと語っている。「恐慌と苦痛(の中)……50人程の男女のユダヤが自殺を試みたと報告されている;20人程が成功した。」この報告は、シナゴーグにいるユダヤ2人がどのようにダイナマイト爆発で負傷したかの描写に続いている。犠牲者たちの名前はなく、どのシナゴーグかも特定されていない。
フランクフルト=アム=マインからの特電によると、「しかし攻撃者は身体への攻撃を控えているように見える。彼らはユダヤを無視し、その資産を打ち壊している。」アメリカのユダヤが保有する店は「営業妨害されていない。」13人の他のドイツの都市からの報告の要約は、店とシナゴーグは破壊されているが、ユダヤ人が攻撃されたという申し立ては1つもない、と指摘している。同じ号の中で、一流紙たるTimesの社説は暗殺者ヘルシェル・グリュンシュパンへの共感を示したが、殺人が行われたとの主張はせず、単にヴィエナで「多数のユダヤが殴られ」そして「自殺の波」が起きたと主張するに留めた。
11月11日―トリシャスによる主要記事の話はユダヤの複数の自殺に言及しているが、ここでもドイツの外交官フォム・ラートが唯一の死者であることを強調した。その新聞の他のどの紙面でも、米国の17の大都市の日報からの社説は再掲されなかった。唯一Washington Post紙のみが水晶の夜と1572年フランスでのサン・バルテルミの虐殺を比較することで殺人を仄めかしていた。実のところ、世界的な新聞社の中で殺人の具体的な申し立て――そしてこれはユダヤ1人のみに限定していた――はあるイギリスの新聞紙にのみ現れた。Times紙の多くの新聞記者も含め、解説者の「企て」の中では、この「ポグロム」は宣伝大臣ゲッベルスによって組織されたことになっていた。Times紙はゲッベルスによる否定を伝え、その中で彼は、もし自分がそのような事態を組織したら路上に70万人は出るだろう、「ほんの1,000〜2,000人」ではなく、と述べた。ゲッベルスはこう主張を続けた、「傷ついたユダヤは本当にいない。」トリシャスはこう書いている、「過剰な反ユダヤは……開始と同じく、意図的に終了したように見える。」Times紙のバイエルンの大管区指導者アドルフ・ワーグナーの演説の報告の中で、ポーランドのユダヤであるヨアヒム・ボスという名前の店主の死が言及された。この事実について混乱が見られる。ある版では、ボス氏が民族社会主義者の暴力的な少年たちの脅威に抗議して自身の店の近くで殺されたことになっている。別の版では、彼は自身の集合住宅の中で銃殺されたことになっている。民族社会党党員が銃殺したという証拠はない、疑いなく犯罪行為であるのに。Times紙は同日に「11月11日にミュンヘンからの数千人の老ユダヤが逮捕された同日に釈放された」というミュンヘンからの特電を伝えた。同じ問題への外国の新聞の要約の中に、殺されたユダヤへの仄めかしはない。ニュー・ヨークでは、州検察官のトーマス・デューイ及び元政治家のアル・スミスによるヒトラーに対する公式の抗議があった。ドイツ人への暴力的な攻撃が行われ、Times紙はその演説の全文を掲載した。しかしスミスもデューイもユダヤの死のほんの1つも主張しなかった。
11月13日―ユダヤ複数が殺されたという最初の公の非難は、アメリカ平和民主同盟の70人の党員がニュー・ヨークでドイツ領事館の外側で抗議の行進を行った際に現れた(当時スターリンによるトロツキー派及び他のユダヤ知識層への数万人規模の粛清が継続していた)。Times紙内でのその残虐物語の大半はドイツでなくチェコスロヴァキアから発された。しかしそれらでさえ依然として殴打と恥辱を強調しており、死には言及していなかった。Times紙の中で、ドイツ人は「ユダヤの命を狙った」という教育的な暗示的な意見がなされたが、断定はしなかった。Times紙は民族社会主義者のユダヤに対する行動を非難する様々なアメリカのユダヤ団体による連名による表明を印刷したが、暴力には言及しなかった。
11月15日―Times紙はドイツからオランダのホラント地方への避難民を乗せたオランダの航空便がアムステルダム付近で衝突し、乗員6人及びユダヤの乗客8人が死んだことを報告した。他のユダヤ乗客12人は負傷した。全員がベルリンから逃げていた。
11月19日―ベルリンからTimes紙への特電は、『ドイツにある外国領地の、名前を出していない「外交官の執務室」内にある「書類鞄」はユダヤ複数が水晶の夜の間に殺されたと断言している』と主張した。その書類鞄には『殺されたユダヤの名前が書かれており、ドイツに幅広く点在する4つの小さな町でその死が発生したと思われる』と。一方で、そのTimes紙によれば、複数のイギリスの新聞紙は200人のユダヤがブーヘンヴァルトにて処刑されたと主張したという。この話は他の出典によって「馬鹿げている」として否定されている。
12月1日―Times紙は民族社会党内での内部粛清を報告する一方で、ドイツ警察はユダヤの資産を盗む者たちを罰することを好んでいると述べた。12人のドイツ人が強制収容所内で6ヶ月禁固されるという。
12月2日―ユダヤ内での更なる「自殺の波」が報告された。今回はヴィエナではなくベルリンだった。Times紙は「ラビは長時間葬送を取り仕切った」というAP報告を刊行した。Times紙お抱えの記者は「グリュンシュパンは自身のフランスの裁判の予審にて、自分にフォム・ラートを殺す意図はなかった、単にドイツにいるポーランドのユダヤの苦境を知ってもらう為に自傷したかっただけだ」と証言したと書いた。グリュンシュパンは、「自身の両親から受け取った、査証の期限切れによるドイツからポーランドへの退去を伝える葉書」は彼を捨て鉢の行動に駆り立てた、と主張した。(ヒトラーが権力を得てから5年経ってもポーランドのユダヤは故郷のポーランドに戻ろうとせず、未だドイツに留まろうとしていたというのは興味深い。)
12月24日―Times紙は、ユダヤは毎日数百人規模で強制収容所から故郷に送還されているというAP通信からの特電を印刷した。ある日には、6週間前に逮捕されたダッハウのユダヤ900人が1日にダッハウから解放された。別の話は、米国の全キリスト宗派の高位聖職者たちによって署名されたドイツ人への轟き渡る有罪判決に関するものだ。これは、「世界の関心」である話題に対しての形式張った宣言の中で初めてキリストの全教会が連合したのだと信じられた。その声明は資産への損害、シナゴーグへの放火、そして大量の有罪判決を要約していたが、ユダヤ1人の殺害さえ几帳面に言及を避けていた。
12月30日―Times紙はパリから、「グリュンシュパンの叔父及び叔母は彼らの姪を匿っていたが、彼らは不法滞在者を匿っていた罪で禁固4ケ月を宣告された」と報告した。2人とも犯罪の咎で被告席に姪と共に立つよう命じられた、と。
同じ期間に機関間で提供し合っていた話を確認すると、Times紙内で登場したその報告の要約版が明らかになる。水晶の夜以降、AP通信も国際通信社も、ユダヤ複数人の死を直接咎めてはいなかった。1〜2の報告のみが攻撃を受けたあるいは苦しめられたユダヤに言及している。しかしそこには、ドイツ人及び他の外国のユダヤによって、特に英国のユダヤによって齎された資産への損害として挙げられた、カッセルにあるユダヤの店複数の窓が叩き壊されたこと、そしてゲーリングによってユダヤに罰金刑が課されたことへの言及があった。AP通信の外国特派員ルイス・ロホナーによる第一面の話は、ユダヤへの新しい罰と強制収容所送りを論じているが、ユダヤたった1人の殺害さえどこにも一言一句たりとも言及がない。12月14日付のAP通信の話は、普通大学と総合大学からユダヤたちがどのように追放されたかを明かしていた、彼らはそれらの大学の1935年以来の定員制度に浴していた。ある話によれば、グリュンシュパンは謎めいたブリトン人らによってミュンヘン居住地域とチェンバレン政府を蝕むよう雇われた殺し屋であるという朧気な手がかりがあるという。このAP紙はまた、今年の11月でパレスチナでのアラブとユダヤの衝突が31ヶ月目になり、直近の4ケ月で2,458人の死傷者が出たと指摘した。水晶の夜が起きた頃、その聖地で2万人の英国の軍人が1週間も続く反乱を忙しなく鎮圧しようとしていた。
その新聞紙の報告と社説が記憶から薄れ去った後、水晶の夜に関する記事、書籍、評論が現れ始めた。その最初の物のうちの1冊、Governments of Europe(マクミラン著、1940年刊)は後に米軍の教科書EM254となった。その第一巻の、「Government and Politics in Germany」と題する件(506〜507ページ)では、ミュンヘンからの難民であり後のアマースト町の政治学教授であるカール・レーヴェンシュタインがこう著している:
1938年4月、四ヶ年計画に基づいた承認に基づき、ドイツ国内のユダヤの資産は当局に登録されなければならなくなった。この巨大な目録の目的は、1938年11月にドイツから排除される両親に絶望した若いポーランドのユダヤが在パリのドイツ公使館の職員を殺した時に明らかになった。11月9〜10日の宵の口に、ドイツとオーストリア全土で「人民の怒りの突発的暴発」が起きた。国民社会主義ドイツ労働者党、ゲシュタポ、そして宣伝省によって組織されたヒトラー青年団は突撃隊と親衛隊、あるいは学校の教師らによって率いられ、それぞれの町と村にあるユダヤの店々1つづつを機構的に破壊し、ドイツとオーストリアにあるあらゆるシナゴーグ――合計528――を焼き、ダイナマイトで爆破し、宗教学校を冒涜し、ラビを虐待した。ユダヤの家々は機構的に略奪され、叩き壊された。30年戦争での征服した都市の放火と略奪以来、公式の類似した破壊活動は記録されていない。あらゆる年齢の約7万人のユダヤは強制収容所送りにされ、そこで以降何ヶ月も前例のない死亡率が示された。
レーヴェンシュタインの扇動する告発にもかかわらず、彼は、公式には11月10日の午前3時から午後5時の間まで継続したとされているこの「ポグロム」の間のユダヤの死を断言していない。
1972年にLa Nuit de Crystalという表題の元々のフランス語のものが登場した後、2人のフランスのユダヤ、リタ・ソールマンとエマニュエル・ファイナーマンが著したCrystal Nightという書が英語で出版された(Coward, McCann and Geoghegan社が1974年に刊行)。ユダヤ組織は、この書はかの出来事の「唯一の完全な報告」だと太鼓判を押した。著者らは様々なユダヤが殺されたと言っているが、その断言を支持する確実なあるいは信頼できる証拠を何ら齎さなかった。ユダヤの自殺が複数あったと彼らは言う。彼らはまた、国民社会主義党の最高裁判は3件の殺人事件で複数の人を告訴し、有罪判決を下したと言っている。この筆者らはライプツィヒとシュトゥットガルトにある米国領事館2棟からの報告を引用し、その報告では資産への相当な被害及びユダヤへのかなりの暴力を記述しているが、その報告書には死は何も含まれていない。グリュンシュパンに関して、この著者らはフランスでの彼の裁判は何度も延期されており、1940年5月にドイツ人がフランスを侵略した時点では未だ開廷していなかったと我々に告げている。最終的に、同じ年の7月18日に、フランス当局は自国の囚人をドイツ人に引き渡していた。彼はそれから「ゲシュタポから比較的穏当な尋問」を受け、それからザクセンハウゼンに移送され、そこで「優遇された扱い」を受け、その後ベルリン収容所に送られた。1942年の2月から5月までの日付で予定されたが、彼の裁判は実のところ全く開かれなかった。ジェイムス・J・マーティン教授がこう記している通りだ、
グリュンシュパンに起きたことは明白ではない。彼の家族の一員と一部の賛同者は、彼はドイツで殺されたと断言しているが、彼は偽りの個人情報と戦後の欧州への雑踏への失踪によって戦争を生き延びたのだ、「処刑済み」の一覧に載ることになる重要人物たちに選ばれる経路によって他国に移住したのだ、あるいは様々な要因によって非業の死を遂げたのだ、と主張する者もいる(1977年刊行The Saga of Hog Islandの206ページ参照)。
ジョン・トーランドは自著Hitler(1976年)の中で、36人のユダヤが水晶の夜の間に殺されたと主張したが、何らの出典も引用しなかった。この話題に関心を持つ他の大抵の著者と同様、彼はほぼ資産への被害と強制収容所に送られるユダヤのみを論じた。トーランドはレーヴェンシュタインによるシナゴーグの破壊総数528から91にまで減らし、壊されたユダヤの店舗数を814と定め、破壊されたユダヤの家の数を171ということにした。彼は70,000人ではなく、たった20,000人のユダヤが収容所送りにされたと断言した。
チャールズ・C・タンシルはその自著Back Door to War(1952年刊行)の中で水晶の夜を論じている(436〜437ページ)が、資産への被害とシナゴーグへの放火のみに言及している。彼は物理的な暴行には何も言っていない。これはこの時期の極めてありのままの歴史の典型だ。彼らは一様に殺人が行われたと咎めることに失敗している。
ウィリアム・シャイラーは自著Rise and Fall of the Third Reichの中で、水晶の夜の乱闘の中で多くのユダヤが殺されたことを報告している。しかしシャイラーはこれをほとんど真面目に扱っていない。シャイラーは、チェコスロヴァキアの民族社会主義者の指導者であるハイドリヒの1942年暗殺以降、あるプラハの教会の地下で殺された陰謀家の数を7から127に上昇させている。
水晶の夜の宣伝戦を総括すると、かの出来事の前後で命を失った彷徨えるユダヤ人が仮に1人か2人いるとして、『それが政治的原因である、つまり民族社会主義の政策の一部あるいは全体が原因である』という証拠はない。この状況を利用しようという普通の暴漢の努力は報告者によっても著者によってもほぼ扱われておらず、極めて曖昧で遅れた告発及び特定の申し立てに付随する誤りがこの事件全体をとても疑わしいものにしている。確認された過去のユダヤらの自殺を「ナチス」による殺害に変換した可能性も極めて有り得る。11月10日以降に増加してさえ、主張されたユダヤの死者の総数は5人だった。これらの死者のうち4人は又聞きの風聞に基づいているが、5人目は強盗行為の間に殺されたのであろう。
我々がここで直面しているものは、『自分たちは批判及び否定の脅威から安全であるという知識によって容認されているユダヤの習慣的な図々しさと歴史への冒涜』に他ならない。「91人のユダヤ」が国民社会主義者によって殺されたと述べているAP特電は、『無責任な報道機関による繰り返しが極めて疑わしい人数を疑う余地ない事実に切り替える』という更なる一例として、恐らく「600万人」に次ぐ地位を得るだろう。
注:ある苛立ったInstauration読者がAP通信に、水晶の夜中とそれ以降のこれまで記事になっている報告の中に登場していなかった「91人の死」という数字をどこで得たのかと訊いた。彼は慎重な返信を社長にして総責任者であるキース・フラー氏から受け取り、そこにはこう書かれていた:
ドイツにいる社員と共に確認をしており、在独社員らは私に人数の出典は西ベルリンのユダヤ共同体の議長ハインツ・ガリンスキーだと教えてくれた。
これは、アメリカの報道機関を歴史上最も巨大な欺瞞の工場にしている、そうした汚染された証拠への暗黙で無批判の肯定だ。
出典:Instauration誌、1979年6月号