「たしかにナチスが赤十字の行動を妨害したことがあるのは事実だ。
もっとも、1944年の段階では妨害はしなかったがな」
「どういうこと?」
「1948年の赤十字国際委員会(ICRC)の3冊の報告書によれば、収容所では当初から赤十字の監督が許可されたわけじゃなかった。
収容所の囚人は危険分子だから、安全保障上の理由から外部の人間と接触させることは、ドイツにとって好ましくない。
当たり前の話だ。
だが、度重なる赤十字の要請にドイツは譲歩して、1942年8月には主な収容所の監督が許可された。
1943年2月には、全ての収容所に赤十字の監督が許可された。
これによって囚人の待遇が全て赤十字によってチェックされるようになった。
赤十字に対するドイツの姿勢は、ドイツ降伏の1945年5月まで中止されることはなかった」
参考資料:『Did Six Million Really Die?』 著Richard E Harwood
9. THE JEWS AND THE CONCENTRATION CAMPS:
A FACTUAL APPRAISAL BY THE RED CROSS
There is one survey of the Jewish question in Europe during World War Two and the conditions of Germany's concentration camps which is almost unique in its honesty and objectivity, the three-volume Report of the International Committee of the Red Cross on its Activities during the Second World War, Geneva, 1948. This comprehensive account from an entirely neutral source incorporated and expanded the findings of two previous works: Documents sur I'activite du CICR en faveur des civils detenus dans les camps de concentration en Allemagne 1939- 1945 (Geneva, 1946), and Inter Arma Caritas: the Work of the ICRC during the Second World War (Geneva, 1947). The team of authors, headed by Frederic Siordet, explained in the opening pages of the Report that their object, in the tradition of the Red Cross, had been strict political neutrality , and herein lies its great value. The ICRC successfully applied the 1929 Geneva military convention in order to gain access to civilian internees held in Central and Western Europe by the Germany authorities. By contrast, the ICRC was unable to gain any access to the Soviet Union, which had failed to ratify the Convention. The millions of civilian and military internees held in the USSR, whose conditions were known to be by far the worst, were completely cut off from any international contact or supervision. The Red Cross Report is of value in that it first clarifies the legitimate circumstances under which Jews were detained in concentration camps, i.e. as enemy aliens. In describing the two categories. of civilian internees, the Report distinguishes the second type as "Civilians deported on administrative grounds (in German, "Schutzhaftlinge"), who were arrested for political or racial motives because their presence was considered a danger to the State or the occupation forces" (Vol. 111, p. 73). These persons, it continues, "were placed on the same footing as persons arrested or imprisoned under common law for security reasons." (P.74). The Report admits that the Germans were at first reluctant to permit supervision by the Red Cross of people detained on grounds relating to security, but by the latter part of 1942, the ICRC obtained important concessions from Germany. They were permitted to distribute food parcels to major concentration camps in Germany from August 1942, and "from February 1943 onwards this concession was extended to all other camps and prisons" (Vol. 111, p. 78). The ICRC soon established contact with camp commandants and launched a food relief programme which continued to function until the last months of 1945, letters of thanks for which came pouring in from Jewish internees.
私家訳:第9章 ユダヤ人と強制収容所:赤十字による事実鑑定
その誠実さと客観性という点に於いてほぼ唯一無二である、第二次世界大戦中の欧州におけるユダヤ人問題とドイツの強制収容所の精査が1つある、1948年にジュネーヴで刊行された「Report of the International Committee of the Red Cross on its Activities during the Second World War」全3巻だ。この完全に中立な出典からの包括的な説明はこれまでの2作品の調査結果を組み入れ、拡張している:「Documents sur I'activité du CICR en faveur des civils detenus dans les camps de concentration en Allemagne 1939- 1945」(ジュネーヴにて1946年に刊行)と「Inter Arma Caritas: the Work of the ICRC during the Second World War」(ジュネーヴにて1947年に刊行)だ。フレドリック・シオルデが率いる著者集団はこの報告のはじめのページで、自分たちの目的は赤十字の伝統に従い政治的に厳密に中立である事であり、そこに大変価値がある、と説明した。ICRCは、ドイツ当局による中欧及び西欧での市民抑留に関与する為に1929年ジュネーヴ軍事条約を成功裡に適用した。それとは対照的に、ICRCはかの条約の批准を拒んでいたソヴィエト連邦への関与が不可能だった。市民と軍事の抑留者数百万人が、そこの環境は最悪の極みであると知られているUSSR内に捕えられ、国際的な接触や監督から断絶された。この赤十字報告は、強制収容所に拘留されたユダヤ人が置かれた正当な状況を最初に明確化している点で価値がある、つまり、敵国人としての状況を。市民抑留者の2つある分類の説明の中で、この報告は2つ目の種類を「彼らの存在は国或いは占領部隊にとって危険と見做されるがため、政治的な或いは人種的な動機を理由として行政基盤の観点で追放された(ドイツ語では「Schutzhäftlinge」)市民」と区分している(III巻、73ページ)。「こうした人物は、」と、報告は続けている、「安全保全の為の慣習法に従って逮捕拘禁されている人物と同じ立場に置かれていました」(74ページ)。ドイツは保安に関する理由によって赤十字による拘禁された人々への監督を渋っていたが、1942年後半にICRCはドイツから重要な権利を得た、とこの報告は認めている。彼らは1942年8月からドイツの主要な強制収容所に食料の小包を分配する事を認められており、「1943年2月以降はこの認可が他の収容所と監獄全てに拡大しました」(III巻、78ページ)。ICRCは即座に諸収容所の所長との連絡体制を確立し、1945年の最後の数ヶ月まで機能し続けることになる食料救援計画を始動させ、送られたものに対するユダヤ抑留者からの感謝の手紙が届いた。
「付け加えるなら、ドイツの収容所は赤十字の監督が許可されたが、ソ連の収容所は赤十字の監督は許可されなかった。
これが共産主義の現実を覆い隠し、共産主義の宣伝を促すことになった。
2003年現在でも、北朝鮮の収容所の囚人には物を送れない。
ソ連と同じで、外部からの援助物資は政府が横取りしてしまうからな。
北朝鮮はソ連の劣化コピーなんだよ」
「赤い国はどこでも同じですね。
中の人も大変です」
「だが、ナチスの収容所では赤十字の妨害をすることはなかった。
赤十字の報告書によれば、収容所へは9,000個の小包みが毎日荷作りされていた。
1943年秋から、1945年5月までに全重量4,500トン、約1,112,000(111万)個の荷物が収容所に運ばれた。
荷物の中身は食べ物だけでなく、衣服や製薬などもあった。
荷物の送り先は、
そしてオーストリア・ウィーンの近くの収容所とドイツ中央・南部各地の収容所。
受取人はベルギー人、オランダ人、フランス人、ギリシア人、イタリア人、ノルウェー人、ポーランド人、無国籍のユダヤ人だった。
ニューヨークのアメリカ共同分配委員会は、世界中からの援助を収容所のユダヤ人に届けるため、ドイツ政府から、ベルリンに事務所を維持することを許可されていた。
そして、国際赤十字委員会は、連合軍が無差別爆撃で援助物資を届けることを妨害していることに不満を訴えていた」
参考資料: 『Did Six Million Really die?』 著Richard E Hawood
RED CROSS RECIPIENTS WERE JEWS
The Report states that "As many as 9,000 parcels were packed daily. From the autumn of 1943 until May 1945, about 1,112,000 parcels with a total weight of 4,500 tons were sent off to the concentration camps" (Vol. III, p. 80). In addition to food, these contained clothing and pharmaceutical supplies. "Parcels were sent to Dachau, Buchenwald, Sangerhausen, Sachsenhausen, Oranienburg, Flossenburg, Landsberg-am-Lech, Floha, Ravensbruck, Hamburg-Neuengamme, Mauthausen, Theresienstadt, Auschwitz, Bergen-Belsen, to camps near Vienna and in Central and Southern Germany. The principal recipients were Belgians, Dutch, French, Greeks, Italians, Norwegians, Poles and stateless Jews" (Vol. III, p. 83). In the course of the war, "The Committee was in a position to transfer and distribute in the form of relief supplies over twenty million Swiss francs collected by Jewish welfare organisations throughout the world, in particular by the American Joint Distribution Committee of New York" (Vol. I, p. 644). This latter organisation was permitted by the German Government to maintain offices in Berlin until the American entry into the war. The ICRC complained that obstruction of their vast relief operation for Jewish internees came not from the Germans but from the tight Allied blockade of Europe. Most of their purchases of relief food were made in Rumania, Hungary and Slovakia. The ICRC had special praise for the liberal conditions which prevailed at Theresienstadt up to the time of their last visits there in April 1945. This camp, "where there were about 40,000 Jews deported from various countries was a relatively privileged ghetto" (Vol. III, p. 75). According to the Report, "'The Committee's delegates were able to visit the camp at Theresienstadt (Terezin) which was used exclusively for Jews and was governed by special conditions. From information gathered by the Committee, this camp had been started as an experiment by certain leaders of the Reich ... These men wished to give the Jews the means of setting up a communal life in a town under their own administration and possessing almost complete autonomy. . . two delegates were able to visit the camp on April 6th, 1945. They confirmed the favourable impression gained on the first visit" (Vol. I, p . 642). The ICRC also had praise for the regime of Ion Antonescu of Fascist Rumania where the Committee was able to extend special relief to 183,000 Rumanian Jews until the time of the Soviet occupation. The aid then ceased, and the ICRC complained bitterly that it never succeeded "in sending anything whatsoever to Russia" (Vol. II, p. 62). The same situation applied to many of the German camps after their "liberation" by the Russians. The ICRC received a voluminous flow of mail from Auschwitz until the period of the Soviet occupation, when many of the internees were evacuated westward. But the efforts of the Red Cross to send relief to internees remaining at Auschwitz under Soviet control were futile. However, food parcels continued to be sent to former Auschwitz inmates transferred west to such camps as Buchenwald and Oranienburg.
赤十字の受取人はユダヤ人だった
この報告は「9,000程の包みが毎日梱包されました。1943年秋から1945年5月まで、合計4,500トンある約1,112,000の包みが強制収容所へと配送されました」(III巻、80ページ)と述べている。食料に加え、包みには衣服と医薬品も含まれていた。「包みはダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザンガーハウゼン、ザクセンハウゼン、オラニエンブルク、フロッセンビュルク、ランツベルク・アム・レヒ、フレーア、ラーフェンスブリュック、ハンブルク=ノイエンガンメ、マウトハウゼン、テレージエンシュタット、アウシュヴィッツ、ベルゲン=ベルゼンに、ウィーン付近のそしてドイツ中央部と南部の諸収容所に送られました。主な受取人はベルギー人、オランダ人、フランス人、ギリシャ人、イタリア人、ノルウェー人、ポーランド人、そして無国籍のユダヤ人でした」(III巻、83ページ)。戦争の最中、「この委員会は世界中のユダヤ系福祉団体によって、特にニュー・ヨークの米国共同配給委員会によって、集められた2000万スイス・フラン分以上の救援物資という形で輸送し分配する立場にありました」(I巻、644ページ)。米国共同配給委員会は米国人が戦争に参戦するまで、ベルリンに職場を維持する事をドイツ政府によって許可されていた。ICRCは、ユダヤ抑留者への大規模な救援作戦がドイツ人によってではなく連合国による厳しい欧州封鎖によって妨害されている事に不満を訴えていた。彼らの食料援助の大半はルーマニア、ハンガリー、そしてスロヴァキア産のものを公に購入していた。ICRCは1945年4月の自分たちによる最後の訪問の時まで継続していた、テレージエンシュタットで普及していた自由な状況に一際の称賛を送っていた。この収容所は「様々な国から追放された約40,000人のユダヤがいるところであり、比較的特権が与えられていたゲットーでした」(III巻、75ページ)。この報告によれば、「委員会の使節は、もっぱらユダヤ人に使用され、特別な状態で統制されているテレージエンシュタット(テレジーン)の収容所を訪れる事ができていました。委員会が集めた情報によれば、この収容所はかの大国の一部の指導者によって実験として開始されました……そうした指導者はユダヤ人に、町での共同生活を手配する手段と、ほぼ完全な自治の過程を与えたがっていました……使節2人は1945年4月6日にこの収容所を訪れました。彼らはその初めての滞在で、良好な印象を確認しました」(I巻、642ページ)。ICRCはまた、ルーマニアファシスト党のイオン・アントネスク政権も称賛していた、その政権下で委員会はソ連による占領の時まで183,000人のルーマニアのユダヤへの特別な救援を延長できたと。占領以降それは停止し、ICRCは「ロシアへは何も送れませんでした」(II巻、62ページ)と苦々しく不満を訴えている。同じ状況はロシア人による「解放」後の多くのドイツの収容所に見られた。ICRCはソ連による占領期間になるまでアウシュヴィッツから大量の手紙を受け取っており、占領される際に抑留者の多くは西方へと避難した。しかし援助をソ連支配下のアウシュヴィッツに残った抑留者に送ろうという赤十字による努力は無駄に終わった。だが、ブーヘンヴァルトやオラニエンブルクといった西に移送された元アウシュヴィッツの収容者には食料包みは送られ続けた。
「妨害? どういうこと?」
「そのまんまだよ。
ドイツはユダヤ人を生かそうと努力していた。
赤十字もそれを手伝っていた。
だが、連合軍がそれを妨害した」
「……」
「……。
赤十字報告書の最も重要なことの一つは、ユダヤ人の大量死の原因が書かれていることだ」
「ユダヤ人の大量死の原因だと?」
「そう。
アウシュヴィッツ博物館に展示されている写真や、モノクロ映像で残っている大量の死体。
収容所のユダヤ人の大量死の原因は、連合軍の調査によって、飢えと病気によるものであることは間違いないとされている。
ホロコースト肯定派は、大戦末期のユダヤ人の大量死は、ドイツがユダヤ人を収容所にぶちこんだことが原因と言う。
しかし、弁護側は赤十字の報告書を証拠として提出し、収容所のユダヤ人の大量死はドイツの過失ではないと主張する」
「何を馬鹿な!
ユダヤ人を収容所にぶち込んだことはさっき弁護人が認めたことではないか!」
「その通り。
たしかに弁護側はドイツがユダヤ人を収容所に入れたことは認める。
しかし、収容所にユダヤ人を入れたことと、収容所のユダヤ人が死んだことはまったくの別問題だ」
「……説明してもらいましょう」
「ドイツの収容所の経営は赤十字の監督のもと、人道的に行われていました。
ユダヤ人は発疹チフスをはじめとする病気で死ぬことはあったが、飢えて死ぬことや、SSに虐待されて死ぬことはほとんどありませんでした。
それはさきほどから提出している資料を見れば、ドイツは、収容所のユダヤ人が快適に暮らせるよう努力していたことは明らかです。
だが、連合軍の爆撃で各地の収容所には食料や物資が途絶えるようになってしまった。
連合軍は道路や橋、鉄道を爆撃し、これによって流通がストップ。
当然、赤十字の援助も届けることが不可能になってしまった。
1944年3月15日、赤十字は当然のことながら連合軍の爆撃作戦に抗議しました。
連合軍の攻撃は、ドイツ軍だけでなく、収容所のユダヤ人も苦しめることは明らかだったからです。
しかし、赤十字の抗議は無視された。
ドイツはユダヤ人を殺そうとせず、助けようとしていた。
それを妨害していたのは他でもない連合軍だった。
1944年6月のノルマンディ上陸作戦以降、連合軍の無差別空爆はドイツの輸送手段を破壊し尽くし、
1944年10月2日までに、赤十字はドイツの至るところで飢餓条件が避けられなくなったことを宣言し、ドイツの外務省にドイツの交通網が崩壊したことを報告しています。
連合軍は赤十字の報告で、自分たちの行動がユダヤ人を殺していることを知っていた。
ユダヤ人が餓えと病気で苦しんでいることを百も承知で爆撃を続けていた。
その結果、餓えと病気で大量のユダヤ人が死んだ。
赤十字の報告書には、ユダヤ人絶滅計画なんてものは影も形もない。
あるのは、ドイツと赤十字の救助活動を連合軍が邪魔していたという事実だけだ。
1948年の赤十字の報告書は、中立の立場である赤十字が、
「ユダヤ人の大量死は連合軍の無差別爆撃が原因である」
という結論を出していたんです」
参考資料: 『Did Six Million Really die?』 著Richard E Hawood
NO EVIDENCE OF GENOCIDE
One of the most important aspects of the Red Cross Report is that it clarifies the true cause of those deaths that undoubtedly occurred in the camps toward the end of the war. Says the Report: "In the chaotic condition of Germany after the invasion during the final months of the war, the camps received no food supplies at all and starvation claimed an increasing number of victims. Itself alarmed by this situation, the German Government at last informed the ICRC on February 1st, 1945 ... In March 1945, discussions between the President of the ICRC and General of the S.S. Kaltenbrunner gave even more decisive results. Relief could henceforth be distributed by the ICRC, and one delegate was authorised to stay in each camp ..." (Vol. III, p. 83). Clearly, the German authorities were at pains to relieve the dire situation as far as they were able. The Red Cross are quite explicit in stating that food supplies ceased at this time due to the Allied bombing of German transportation, and in the interests of interned Jews they had protested on March 15th, 1944 against "the barbarous aerial warfare of the Allies" (Inter Arma Caritas, p.78). By October 2nd, 1944, the ICRC warned the German Foreign Office of the impending collapse of the German transportation system, declaring that starvation conditions for people throughout Germany were becoming inevitable. In dealing with this comprehensive, three-volume Report, it is important to stress that the delegates of the International Red Cross found no evidence whatever at the camps in Axis- occupied Europe of a deliberate policy to exterminate the Jews. In all its 1,600 pages the Report does not even mention such a thing as a gas chamber. It admits that Jews, like many other wartime nationalities, suffered rigours and privations, but its complete silence on the subject of planned extermination is ample refutation of the Six Million legend. Like the Vatican representatives with whom they worked, the Red Cross found itself unable to indulge in the irresponsible charges of genocide which had become the order of the day. So far as the genuine mortality rate is concerned, the Report points out that most of the Jewish doctors from the camps were being used to combat typhus on the eastern front, so that they were unavailable when the typhus epidemics of 1945 broke out in the camps (Vol. I, p. 204 ff)- Incidentally, it is frequently claimed that mass executions were carried out in gas chambers cunningly disguised as shower facilities. Again the Report makes nonsense of this allegation. "Not only the washing places, but installations for baths, showers and laundry were inspected by the delegates. They had often to take action to have fixtures made less primitive, and to get them repaired or enlarged" (Vol.III, p. 594).
大虐殺の証拠なし
この赤十字報告で最重要の箇所の1つは、終戦が近い頃に疑いなく生じた大量死の本当の原因を明らかにしているところだ。報告はこう言っている:「大戦最後の数ヶ月の間、侵略が始まった後のドイツの混沌とした状態の中、収容所は全く食料物資を受け取れず、飢餓によって犠牲者が益々増えていきました。これ自体は状況によって警告されていましたが、ドイツ政府は1945年2月1日にICRCに遂に伝えました……1945年3月のICRCの総裁と親衛隊大将カルテンブルンナーの間での議論がそれより更に重大な結果をもたらしました。援助は以降ICRCによる配給が許され、収容所それぞれに代表1人が滞在する事が認められました……」(III巻、83ページ)。明らかに、ドイツの権力者たちは全力を尽くしてこの過酷な状況を緩和しようと骨を折っていた。赤十字は、食料提供はこの時連合国によるドイツの輸送路爆撃によって停止しており、抑留されているユダヤ人の利益の為に赤十字は1944年3月15日に「連合国の野蛮な空爆」に抗議していた事をはっきりと明言している(「Inter Arma Caritas」、78ページ)。1944年10月2日までに、ICRCはドイツ外務省に切迫したドイツの輸送機構の崩壊を警告しており、ドイツ中の人々の飢餓状態は不可避であると宣言している。この包括的な全3巻の報告に関して、国際赤十字は枢軸国が占領した欧州内の収容所にユダヤ人を絶滅する計画的な政策の証拠を全く見つけられなかったのを強調するのは重要だ。この報告1,600ページ全ての中に、ガス殺室といったものへの言及すらない。報告書は、他の戦時中の諸国と同様にユダヤ人は苦難を受け窮乏した、と認めているが、計画された絶滅という論点についての完全なる沈黙は600万人の伝説を十分に論駁している。共に働いたヴァチカンの代表と同様、赤十字は『自分は、当時関心事となっていた大虐殺への無責任な告発に耽る事は不可能である』と理解していた。正真の死亡率に関して、収容所のユダヤ人医師の多くは東部戦線でチフスと良く戦っていたため、1945年に収容所内でチフスが大流行した時に収容所で活動できなかった、と報告は指摘している(I巻、204ページ)。ついでに、狡猾にもシャワー施設に偽装されたガス殺室で大量処刑が実行されたとは頻繁に主張される。この報告ではこの主張も粉砕している。「洗い場だけでなく、浴槽、シャワー、そして洗濯物用の設備も使節によって検査されています。使節は時折備品の原始的さを減じるために行動を起こさねば、そして修理して大型化させねばなりませんでした」(III巻、594ページ)。
「そ、そんな馬鹿な話があるわけない!」
「あったんだよ。
連合軍が情報操作で隠蔽していただけでな。
連合軍はドイツの工場を爆撃したが、ドイツ人技術者は優秀ですぐに復旧してしまうから、なかなか爆撃の成果が上がらない。
そこで工場限定の爆撃をやめ、大都市への無差別空爆を開始した。
これは民間人を大虐殺した明らかな国際法違反だ。
連合軍はパイロットに対して、ドイツ人はすぐに復旧させてしまうから仕方ないと説明していた。
その結果、建物に閉じ込められた一般のドイツ国民が爆撃による毒ガスで殺された。
これこそガス殺による大量殺人の真の姿だ。
連合軍は鉄道を破壊し、道路を破壊し、ドイツの輸送手段を徹底的に破壊した。
そのため収容所のユダヤ人や連合軍の捕虜に食料や物資が届かず、何百万人もの人々が犠牲になった。
たとえば終戦直後にはガス室の代名詞だったダハウ収容所。
ここは米軍が到着したとき、ユダヤ人の死体の山だった。
それゆえ連合軍はこの収容所で絶滅計画が実行されたと決め付けた。
実験用のガス室、それも結局一度も使われなかった部屋しかなかったために、現在のダハウ博物館はここでガス殺は行われなかったと説明しているが、ガス殺以外のやり方でユダヤ人を虐殺したと説明している。
だが実際はナチスが殺したのではない。
連合軍の調査官が報告しているように、連合軍の無差別爆撃がドイツ国内のインフラを壊滅させたから、餓えと病が広がって大勢が死んだんだ。
ダハウでは1945年1月初頭から4月末までのあいだで、少なくとも15384名が死亡した。
1940年初頭から1944年末までの死亡者は12455名だから、それまでの5年間の戦時中の死亡者よりも多かったことになる。
このような状況がドイツが保有する収容所の多くで起こったんだ。
現存する資料は、ハリウッドが描く連合軍は映画の中の作り話だということを示している」
参考資料:第二次大戦中のドイツの強制収容所における殺人ガス処刑についての目撃証言 著ユルゲン・グラーフ
1944年末、ドイツの崩壊のために、強制収容所の状況はきわめて悪化していた。交通手段が空襲によって破壊されたので食糧不足が起こり、まだ機能していた西部地区の収容所は、東部地区の収容所からの移送者によって、ひどく過密となっていた。疫病が広がり、物資の不足のために、それを抑えることができなかったために、たとえば、ダッハウでは、1945年1月初頭から4月末までのあいだで、少なくとも15384名が死亡した。これはなんと、それまでの5年間の戦時中の死亡者よりも多かった。1940年初頭から1944年末までの死亡者は12455名であった(2)。したがって、上記の写真は、「ホロコースト」正史派の歴史家によると、1944年秋に中止されたガス室での「ホロコースト」とはまったく関係がない。しかし、これらの写真は依然として「ホロコースト」を証明する証拠として提示されており、栄養失調、チフス、赤痢の犠牲者の写真を展示することで、あつかましくも、アウシュヴィッツやトレブリンカには殺人ガス室が実在したことが「立証」されているとなっている。
2. Johann Neuhausler, Wie war das im KZ Dachau?, Kuratorium füur Suhnemal KZ Dachau, Munich 1981, p. 27.
「判事、ここで弁護側はホロコーストの定義の改正を要求します」
「定義の改正?」
「そう。
今までのホロコーストはユダヤ人絶滅計画と定義してきました。
しかし、そんなものは立証不可能。
よって無いと考えます。
そこで、新たにホロコーストを、大戦末期のユダヤ人の大量死と定義します」
「はっ 何を馬鹿なことを」
「許可します」
「判事!?」
「だって、こうでもしないとここで決着がついてしまうでしょう?
集めた資料を無駄にしないために、わたしもいっぱいいっぱいなのですよ」
「ありがたい。
はじめてアンタがいい人に思えた」
「…とりあえず誉め言葉として受け取っておきましょう。
それで弁護人。
ホロコーストの定義を変えてどうするのですか?」
「もちろん立証するんですよ。
ホロコーストの真犯人は誰か?ということをね」
「それで、弁護人が指名する第一級の容疑者は?」
「こいつらですよ、決まってます」
左からチャーチル(英)、ルーズベルト(米)、スターリン(ソ連)
「……こいつらの方がヒトラーより酷いことしてると思うのは俺だけか?」
「まあ、勝てば官軍だからな。原爆もチャラにされてしまったし」
「アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリン。
この、Axis of Commie(アカの枢軸)によってホロコーストは行われた。
大戦末期のユダヤ人の大量死は戦争の結果として起きたわけじゃない。
避けようと思えば避けることができた!
しかし、連合軍はホロコーストの宣伝がただのプロパガンダだということが終戦後にバレることを恐れ、自らの手でそれを実行した!
まさに自作自演テロ!
自分たちの大量殺人の責任をすべてドイツに押し付け、大戦中の証拠書類はすべて封印し、それは現在でも続いている!」
「弁護人! 勝手な想像で責任転嫁するのはやめてもらおう!
それとも弁護人はヤルタ会談の三巨頭が、ユダヤ人が苦しんでいることを知った上で故意に爆撃したと証明できるのか?
できないなら――――」
「できる!」
「な、なんだと!」
「ふっ あせることはない。それは議論が進むにつれて明らかになるだろう」
「というわけで次回へ続くのであった! ちゃんちゃん♪」