被告
判事
検察
弁護
陪審員
証人
「さて、アルク検事。さっそくですが証人の入廷案内をお願いします」
「了解した。というわけだ。証人は入廷していただきたい」
「今回は誰なのかしらね。証人役をする人は?」
「さあね。
ただ物証のない証言をいくら検証してもあんまり意味がないと思うんだが……」
「ネタを持たざる国の辛いところです。
朝鮮半島は資源の宝庫ですが、こちらはそうもいきません。
かのドイツ軍は戦時中、米軍の捨てた兵器を拾い集めて再利用し、それが現在のリサイクル王国の基礎ともなっているそうではありませんか。
同じようにネタ不足を補うために証言を検証することも必要なのですよ」
「ネタの量で朝鮮半島と渡り合うなんて無理に決まってるじゃないの。
しかも北と南で2倍だし」
「というかネタ扱いなのね」
「まあネタ以外の何物でもないからな」
「あ、来たみたいですよ」
【証人入廷】
「証人、名前と職業を」
「どもー というわけでアルク先生の支那通史講義から来た証人役のアルクェイドでーす。
こんなんだけど一応は吸血鬼なんだよ ぶい♪」
「……また微妙にエロい格好を……」
「ホラ、ホロコーストって言ったら独ソ戦、独ソ戦って言ったら戦車。
つまりホロコースト=戦車でしょう?
言うなればホロコーストがティーガーで、ポグロムがT-34みたいなものじゃない?
というわけで、前線送りになったソ連の女工さんっぽい格好してみました〜♪
オブイェークト!」
「……お、おぶぃーくと?」
「あれ? ソフィアさん そんなところでそんな格好して何やってんの? そこは証言台――――」
「……わたしはここだ……!」
「「ソフィア大尉(さん)がふたり!?」」
「は! もしかして!」
「知っているの雷電!?」
「……聞いたことがあります。
その昔、中国でとある双子が溺れたという悲劇的事実がある泉。
以来、そこで溺れたものはみんな双子の姿になってしまうという恐るべき伝説が……」
「(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル」
「違う違う 母親だよ」
「は、母親!?」
「そんなわけないだろう…… だいたいお前は私の母親の顔を知っているだろうが」
「そ。ソフィアの母でございます」
「ってをい、誰が母だ。誰が」
「このたびはこのようなコンテンツの主役をしてしまって皆様には大変ご迷惑をおかけしております。
深くお詫び申し上げます」
「人の話を聞け!」
「娘は幼い頃に父親を無くし、そのショックで内気な子供になってしまいました。
そのせいか、小・中学校ではいじめにあっていたのです。
ようやく明るくなってきたのに、せっかくできた恋人がイタリア娘に寝取られてしまって以来、どんどん性格は捻じ曲がる一方です」
「そのことは言うな……! ……ぅぅ…… なんでイタ公なんぞと……! ジクルトの浮気者……!」
「このままでは結婚できないと心配してましたが、そんな娘もインターネットを知って以来、娘も少し明るくなったようです」
「今日イソターネットでね、うざいドキュソがさあ……」
「と、とても楽しそうに夕食の時に話してくれるのです。
どうぞ皆様、娘を暖かく迎えてやってくださいまし」
「あえて『自称母親』ネタに突っ込むことはしない!
が、わたしが恋人を寝取られたとか言ったな。
誰に聞いたんだ。そんなことを?」
「あーあれ。 あんたの姉さん 」
「やっぱり奴か! ということは今のセリフを考えたのもティル だな!」
「え? なんでわかったの?」
「あんなセリフを考えるのはティル しかいない。
あいつは人をからかって面白がってる。昔からそーいう女だ。
おのれ、誰にも言わないと言ったくせに……!」
「あ、そうだ! そのティルって人から写真もらったんだけどこれってアンタ?」
「ん? これ―――」
「―――――!!」
「ビンゴ。やっぱり本人みたいね、うふふ」
「さ、さっさとしまえ! そんなもの!」
「えー、だって皆に見せてないしぃ」
「見せんでいい!」
「えー あたしみたいなァ。もしかして元彼との記念写真だったりして」
「……」
「あれ? 図星?」
「と、とにかくだ! このままでは話が前に進まん! さっさと証言しろ!
それに検察も黙ってないで止めたらどうだ」
「ふむ。
ソフィア女史が慌てふためく姿はなかなか面白い見世物だったが、たしかにこのままでは話が前に進まん」
(……こいつ、わざと止めなかったな……)
「そういうわけだ、証人は証言をしてくれ」
「Ja」
(なんでドイツ語なのかしら?)
「ごほん。証人、名前と職業は?」
「えー 名前はソフィア・リトヴィンスカ。
ポーランド・ルブリン出身のユダヤ人女性、1945年当時29歳。
職業……と言っていいかわからないけど、とりあえずはユダヤ人収容所の囚人ね。
1940年5月19日に『ユダヤ人だから』という理由で逮捕されてルブリンに一年間拘束された。
1941年12月頃にアウシュヴィッツに送られて、そこには1944年秋まで収容された。
そのあといくつかの収容所をまわって、1945年4月15日の英軍によるベルゲン・ベルゼン収容所解放の3ヶ月前にそこに収容所されたわ」
「証人ソフィア・リトヴィンスカは1945年9月24日月曜日のベルゼン裁判でアウシュヴィッツのガス殺について証言している。
いわばホロコーストの生き証人というわけだ」
1940年5月19日 | ルブリンで逮捕、一年間拘束 |
1941年12月 | アウシュヴィッツに移送される |
1941年12月24日(?) | ガス室送りに選抜されるが、奇跡的に生き残る |
1944年秋 | アウシュヴィッツから他の収容所に移送される |
1945年1月(?) | ベルゲン・ベルゼンに収容される |
1945年4月15日 | 英軍、ベルゲン・ベルゼンを解放 |
1945年5月8日 | ドイツ降伏、終戦 |
1945年9月17日 | ベルゼン裁判開始 |
1945年9月24日 | ベルゼン裁判にて証言 |
〈ベルゼン裁判〉
イギリスが1945年9月17日から11月11日、ドイツのリュネブルクで開いた戦争犯罪裁判。1945年4月に、ベルゲン・ベルゼン収容所を解放したイギリス軍は、逮捕した所長ヨーゼフ・クラマー(Josef Kramer)たち44名を、「ベルゲン・ベルゼン収容所での虐待行為」、「アウシュヴィッツ収容所での虐待行為」という二つの罪状で告発した。44名の被告の内訳は16名のSS隊員(所長クラマー、収容所医師クラインなど)、16名の女性看守、12名のカポー(囚人長)(うち5名が女性)であった。クラマーなど8名の男性、グレーゼなど3名の女性に死刑判決が下った。
原典:Trial of Josef Kramer and forty-four others (The Belsen Trial), edited by R. Phillips, 1949.
参考資料:ベルゼン裁判 第7日―1945年9月24日月曜日
(アドレス:ttp://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/belsen/belsen_07.htm)
検事バックハウス大佐による証人ソフィア・リトヴィンスカへの尋問)
A:私は29歳で、ポーランドのルブリン出身です。ユダヤ人女性であったために、1940年5月19日に逮捕されました。正式な裁判をまったく受けることなく、最初は1年間ルブリンで拘束され、ついでアウシュヴィッツに送られました。その到着したのは、1941年の秋でした。私の夫はユダヤ人ではなく、ポーランド軍中尉でしたが、やはり逮捕されました。収容所につくと、個人所有物はすべて奪われました。服を脱がなくてはならず、シャワー浴室に連れて行かれました。髪が短く切られてしまったので、凍えないために、頭に巻く布を求めたところ、シャワー浴室の責任者であったカポーが私たちをひどく殴り始めました。私たちに与えられた衣服は、長いコートと袖なしのシルクのブラウスでした。すでに、腕には刺青の番号が入れられていました。丸1日間、シャワー浴室のようなところでまる裸ですごしてから、ブロック25に連れて行かれました。このブロックの3箇所にかごのようなものがあり、そのひとつのかごの中で、私が7名か8名で眠りました。8名に1枚の毛布が支給されました。マットレスやわら布団のようなものはまったくありませんでした。起床は朝3時半が普通でした。
(略)
Q:その後、ベルゼンに移されたのですね。
A:はい。1944年秋にアウシュヴィッツを去って、いくつかの収容所を経てから、イギリス軍による解放の3ヶ月ほど前に、ベルゼンにやってきました。ベルゼンでの最初の2日間は、病院で働きました。その後、ラーゲル長のスタニスラヴァ・スタロツカ(被告48号)が、男性収容所の第二厨房に連れて行って、そこで数日間働かせました。そのあとで、第一厨房に移りました。そこには、二人のSS隊員、一人の監視員、ヒルデというクリスチャン・ネームを持つユダヤ人カポーがいました。
(略)
(弁護人ムンロ少佐の反対尋問)
Q:証人は1941年に12月ごろにアウシュヴィッツにやってきて、1941年12月24日の点呼でガス室送りに選別されたのですね。
A:正確な日付は覚えていません。クリスマスの数日前であったに違いありません。私たちはひどく殴られてたので、正確な日付を思い出すことができないだけです。足に怪我をしていた以外には、この当時はまったく健康でした。
Q:焼却棟に向かう自動車から誰かがおろされたのを見たことがありますか。
A:いいえ。
Q:ガス室にはどのくらいいたのですか。
A:ごく短時間です、1、2分でしょう。
Q:引き出されたとき、ガスのために、ひどい状態だったのですね。
A:ひどい頭痛がして、目の前が真っ暗となり、胸に重しをのせられたようでした。
Q:外に出たとき、証人を連れ出してくれた人物はガスマスクをつけていましたか。
A:わかりません。自分に何が起こったのかさえもわからない状態でした。
Q:ヘスという名のアウシュヴィッツ所長を覚えていますか。
A:名前を耳にしたことはありますが、見たことはありません。
Q:より小さな収容所のうち、どれにいたのですか。
A:ビルケナウにいました。その所長はクラマーでした。ビルケナウは、より小さなラーゲル、A、B、C、B2とジプシー収容所に分かれていました。私が知っている所長はクラマーだけです。その他の人物は知りません。
「はーい。質ー問」
「なんだルクス?」
「ちょっと気になることがあったもんでね。
陪審員からの質問よろしいかしら御嬢様?」
「別にいいけどまだ何も言ってないわよ?」
「言ったじゃないの。
アウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンに送られたって。
おっかしいわねー アウシュヴィッツは絶滅刑務所でしょう?
どうして絶滅刑務所から生きて出ることができたのかしら?」
「あ……」
「あれあれあれ〜?
アウシュヴィッツでは殺されなかったわけなのね?
どうしてかな〜?」
「そ、それはソ連軍が近づいてきたからよ。
1944年秋、ドイツ軍はアウシュヴィッツを放棄せざるを得なかった。
だから囚人だったわたしはベルゲン・ベルゼンに移動させられたのよ。
殺されなかったのは運が良かったから。
もしもソ連軍が来なかったら間違いなく殺されてたわ」
「あらあらあら〜?
あなたが収容されたのは1941年の秋。
ベルゲン・ベルゼンに移動したのは1944年の秋。
絶滅刑務所で3年間も殺されなかったわけ?」
「え、えーと……それは……」
「それは?」
「なんか凄く楽しそうね」
「ありゃSだな。間違いねぇ」
「ルクスさんの性根の腐り具合はソフィアさんといい勝負ですね」
「誰が腐っとるか、誰が」
「で、どうなの?
どうして3年間も殺されなかったのかしら? くすくす……」
「ふふふ……」
「でろぉおおお!!! ガン●ーム」
ぱっちーーーん!
「お呼びですかアルクェイド?」
「アルクェイドがマスター? 無茶苦茶な設定だな」
「ええ、ちょっとそこのネオナチを拉致――――じゃなくて連行してって欲しいのよ」
「連行……ですか?」
「なんだ。そんなことで我々を呼んだのか」
「ちょっと待ってよ。いつからあたしはネオナチになったの……?」
「いやー、ホント。人格攻撃喰らって大変だなルクス。あっはっは」
「あんた面白がってるでしょ……!」
「そんなわけないだろ? 俺のどこが面白がってるって言うんだ。ネオナチのルクスくん?」
「あ、あんた覚えておきなさいよ……!」
「ルクスがネオナチ…… わたしのルクスがネオナチ……」
「だから違うって……」
「そーです! ルクスさんはネオナチではありません!」
「当然よ。あたしは――――」
「ナチです!」
「ちょっと待てぃ! なんであたしがナチなのよ!
あたしはドイツ系だけど、アメリカ国籍を持っているだけの民間人でナチとはまったく関係ないわ!
ドイツ系=ナチっていうのは差別もいいところよ!」
「T-72神が仰られました。
ソ連軍よりもドイツ軍のほうがカッコいいなどとほざく連中はみんなナチです!」
「物凄い分け方だな」
「T-72神は仰られました。目に見えるものに縋ってはならない。
あなた方の心の中に神殿を築きなさい。そしてあなた方が築いた神殿の中に私は住まう、と。
さぁT-72神に祈りなさい。
オブイェークト!」
「またワケのわからんことを……」
「っていうか、あたしはドイツ軍がカッコいいなんて一度も言ってないんだけど……」
「はい、というわけでナチ決定ね」
「アルクェイド、それはかなり横暴ではないかと……。
ナチならそこに2人もいるわけですし」
「だから俺は国防軍だっつーに。
どうしてナチと国防軍の区別がつかねぇのかな……?」
「我々はサーヴァントだ。
だからアルクェイドの命令とあらば従う。
が、これで本当にいいのか?」
「いいのよ別に。こいつは精神異常者なんだから。
ホロコーストに疑問を人間は問答無用で精神異常者なの。
こーいうのはドイツじゃ日常茶飯事でしょ?
現実世界を忠実に再現しただけじゃない」
「事実を書くな、事実を」
「アルクェイド、事実をそのまま述べるのは良くない。それでは実もフタもありません。
だいたいヒトラーは実在しないではないですか。
あれはハリウッド映画の中の人。
それについてあーだこーだと言って何の意味があるのやらわたしにはさっぱり……」
「あんた何言ってるの?
ヒトラーは実在するわよ。
アーサー王じゃあるまいし、なんで架空の存在になってんのよ?」
「そ、そうだったのですか!
わたしはてっきりフィクションかと……」
「うーん、イギリス人の歴史の疎さは深刻な問題よね。
日本人やアメリカ人も酷いけど、イギリス人だって人のこと言えないわ」
参考資料:UK Today 2004年4月5日
(アドレス:ttp://www.japan-journals.co.uk/dailynews/040405/news040405_2.html)
4/5 10人に1人が「ヒトラーは実在せず」――現代英国人の歴史オンチぶりが露呈!
英国人の10人に1人が「ヒトラーは実在しなかった」と信じていることが調査の結果明らかになり、現代英国人が歴史に関する知識に疎い事実が問題視されていることが伝えられた。ウィンストン・チャーチル元英国首相の生家として知られ、観光客に一般公開されているブレナム宮殿で、2,000人を対象に行った調査によると、多くの人が史実とハリウッド映画を混同。「ロビン・フッドは実在した」と信じているのは全体の25%で、アーノルド・シュワルツェネッガーの演じたコミック・ヒーローや、ローワン・アトキンソンのコメディ「ブラックアダー」の主人公も歴史的に実在した人物と信じている人が少なくなかったという。逆に、映画「ブレイブハート」のモデルにもなった、スコットランドの反イングランド運動の指導者で実在の人物、ウィリアム・ウォレスは想像上の人と考えているのは半数近くを数えた。11〜18歳の子供を対象にした同様の調査では、共和制をうちたてたオリヴァー・クロムウェル(1599〜1658)はヘイスティングスの戦い(1066)に参戦したと思っている子供が30%。また、第1次世界大戦が20世紀に起こったかどうか知らないとする子供も同程度いたという。同調査ではさらに、英国史上有名なウォータールーの戦いで英国軍を指揮したのはネルソン提督とするのが半数以上(本当はウェリントン公)で、当のネルソン提督が活躍したトラファルガーの戦いが史実かどうかわからないという人も4分の1にのぼったとされる。真の教育のあり方を考える団体「Real Education」ではこの調査結果を、多くの人が、歴史を人間の営みを学ぶ教科としてではなく、単に年号と事実をつきあわせる暗記科目として学んできた結果とし、学校の教育課程の悲しい顛末と批判している。
「こーいう連中が『ドイツ人は反省しる!』とか言っているわけか。
怒りを通り越して悲しくなるような話だな。
あんな飯のクソ不味い島で育つとこういう人間が増えるわけか」
「ブリテン島の食事はたしかに雑ですが、それは関係ありません。
どちらにせよ、このような横暴な振る舞いは騎士の誓いに反します!」
「細かいことは気にしちゃダメよ。
それにあんたらこーいうところくらいでしか出番ないんだから協力しなさい」
「しかし、彼女は何もやってないではないですか。罪もない人間を連行することはできない……」
「……セイバー、一つ言い忘れていたことがある」
「何ですかアーチャー?」
「その娘だが……
セイバーって人気と胸の大きさが反比例してるわよね〜
と言っていたぞ」
「ちょっと!そんなことは言ってないわよ!
勝手に捏造するのはやめなさい!」
「……」
「マスター、この娘を消せばいいのですね?」
「そ。 んじゃよろしく」
「え? なに?」
「喰らえ獅子の咆哮!
ライトニングプラズマ―――!」
「そ、それライトニングプラズマじゃなlぢあy;ごあ」
「捕獲完了。
ではマスター、これにて失礼します。
いきますよアーチャー」
「騒がせたな。では失礼する」
……
「もぐもぐ……というわけで、ルクス嬢は体調不良のために欠席となったわけです。もぐもぐ……」
「ちょっと待ってよ! 今のは明らかにおかしいでしょ!」
「もぐもぐ……はて? なんのことでしょうか? ……もぐもぐ」
「はい、キースさん。今度はこっちのお菓子はどうです?
京都で有名な高級和菓子ですよ?」
「どれどれ… ふむ。 砂糖ではなく栗で味付けた自然風味の甘味がまた格別ですな。
これこそ職人業というべきでしょうか」
「……もしかして食べ物で買収され―――――」
「失礼な!
いいですかカナメさん?
判事を買収するわけがないでしょう!
ましてや、
判事を脅迫するわけがないのです!
何を根拠にそんなことを言っているのですか!?
もしもホロコースト否定論を容認するようなことをすれば失職する、なんてことは有り得ないのです!」
「……後半は言ってないわよ」
「どーして仮想世界の裁判ごっこなのに、そこまで現実世界をリアルに再現するのかねぇ? 特に後半」
「さて、何のことかしら?」
「それはともかく。
アウシュヴィッツのガス殺の証言を続けてくれないか?
お前は証人なのだろう?」
「それもそうね」
「わたしは1941年12月頃にアウシュヴィッツに移送されました。
それで最初の6週間は検疫を受けていたから何も働かないで済んだけど、ある日食糧を運んでいたときに転んで足に怪我をしてしまった。
そのために収容所の受け入れセンターに連れて行かれ、1941年のクリスマスには病院にいたわ」
「証人、クリスマスの前日には何が起こりましたか?」
「病院ブロックでは大きな選別がありました。
へスラーがこの選別の責任者でしたが、3000名以上のユダヤ人が整列しなくてはなりませんでした。
私たちはすばやくベッドを離れ、ほとんど裸で、へスラー、医師たち、エンナ、ケーニヒの視察を受けるために、立っていなくてはなりませんでした。
ベッドを離れることができなかった者は番号を奪われましたが、それは死を意味するものでした。
体つきの良くない者、やせすぎている者、なんらかの理由で紳士方が嫌っている者も番号を奪われましたが、やはり、それは死を意味していました。
私の番号も奪われました。
私たちは夜のあいだブロック4にとどめおかれ、翌日、ブロック18に連れて行かれました。
夕方の5時半ごろ、トラックがやってきて、私たちは、動物のように裸のままで、積み込まれ、焼却棟に連れて行かれました」
「アウシュヴィッツに送られた囚人で、労働に適した利用価値のあるものは名前を登録して番号をもうらうことになる。
囚人番号のついた囚人服に着替えさせられた。
囚人服には、政治犯には赤、凶悪犯罪者は緑、男色家はピンク、淫売婦は黒、聖職者は紫、ユダヤ人は、ダビデの星(後には、3角の上に黄色の筋をつけたもの)、ポーランド人はP、ロシア人はRの印をつけて、区別された
1943年からは、アウシュヴィッツ限定だが、左腕に番号の刺青を入れられることになる」
「だが、その刺青の話にはまったく根拠がない
誰が、いつ、何のために、誰の命令で、どのような道具で、左腕のどの部分に、どのようなやり方で刺青をしたのかを示す公式書類がまったく存在しない。
何故アウシュヴィッツだけなのか? 何故そんな時間とコストのかかるようなことをしたのか?
わからないことばかりなのに、『番号の刺青をされた』という話だけが事実のように扱われている」
「アウシュヴィッツ博物館元館長カジュミシ・スモーレニ氏のように、実際に刺青を入れられた人間がいる。
それで十分だ」
「それは自分で刺青を入れた自作自演かもしれないけどな。
「ナチに酷いことされました。同情しる! 謝罪しる! 賠償しる!」と言っているだけかもしれない」
「ユダヤ人は朝鮮人とは違う。
そのようなことはしない」
「ユダヤもニダヤも大して変わらん。
どっちも自覚なき嘘つきだから嫌われるのだ」
「ふん、刺青に関しては別項で述べることにしよう。
さて、証人がガス室送り選抜され、焼却棟についたときには何が起こりましたか?」
「トラック全体が、ジャガイモや石炭と積んでいるときのように、ぐらぐらと揺れました。
私たちは、シャワー浴室のような部屋に連れて行かれました。
タオルやシャワー口があり、鏡さえもありました。
ひどくおびえていたので、部屋の中に何人いたのかもお話しすることができませんし、ドアが閉じられていたのかどうかもわかりません。
人々は涙を浮かべていました。
互いに叫びあい、ぶちあっていました。
健康な人々、強壮な人々、衰弱した人々、病人がいました。
そして、突然、天辺の小さな窓から煙が出てくるのが見えました。
ひどく咳き込んで、目からは涙があふれてきました。
窒息してしまうのではないかという喉の感覚がしました。
誰もが自分のことだけに集中していたので、私はほかの人々を様子を見ることができませんでした」
「大尉、今のアルクェイドの証言には、決定的なムジュンがあります。
今のあなたなら、それが指摘出来るはずです」
「わかってる……! この証言がデタラメだということはな!」
「証人、今の証言は1941年12月のアウシュヴィッツIのガス殺についての証言か!?」
「そうよ。
だってビルケナウでガス殺が始まったのは1942年5月のブンカーが最初だし、このときに稼動していたガス室はアウシュヴィッツIのガス室しかないわ」
「それはおかしい。
たしかにアウシュヴィッツの最初の処刑は1941年8月9日のロシア人捕虜の実験的ガス殺と言われている。
しかしアウシュヴィッツ博物館によれば、ユダヤ人の『ガス処刑』も『選別』もこの時期には行われていなかった。
アウシュヴィッツでのユダヤ人の『ガス処刑』が始まったのは1942年1月、
最初の『選別』は1942年5月4日とされている。
それなのにあなたの証言では1941年12月にはその両方がはじまっていることになる。
つまり、あなたの証言はアウシュヴィッツ博物館の発表とムジュンしている」
参考資料:アウシュヴィッツでの最初のガス処刑:神話の誕生 著カルロ・マットーニョ
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/mattogno_02.htm)
アウシュヴィッツのガス室の物語は、約850名を実験的にガス処刑したということからはじまったと言われている。1941年9月3日、中央収容所ブロック11の地下室で行なわれたというのである。
ダヌータ・チェクは『アウシュヴィッツ・カレンダー』( Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau )の中で、次のように記している。
「9月3日、Cyclon B(ママ)ガスを使った大量殺人の実験が、初めてアウシュヴィッツ強制収容所で実行された。SSの命令で、病院関係者は、約250名の病気の収容者を囚人病院からブロック11の地下室に連れてきた。約800名のロシア軍戦争捕虜もそこに連れられてきた(1941年7月17日の行動命令第8号にしたがって、将校と政治人民委員が、捕虜収容所から選別された)。彼らがブンカーの地下室に入れられ、地下の換気口が土で覆われた後に、何人かのSSがチクロンBを投入し、扉が閉められた。
参考資料:ルドルフ報告 アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告 著ゲルマール・ルドルフ
Germar Rudolf, The Rudolf Report. Expert Report on Chemical and Technical Aspects of the "gas Chambers" of Auschwit, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2003
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_report/05auschwitz.htm)
ダヌータ・チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』。これは戦後のポーランドの共産主義者による宣伝のための著作であるが、収容所の歴史についての既存の資料に対して、理論的に明確かつ批判的な検討をまったく行なわないまま、実際の事件、発明された事件を年代誌風に編集したものである。[89]
参考資料:「アウシュヴィッツからの二つの虚偽証言」著カルロ・マットーニョ
Carlo Mattogno, Two false testimonies from Auschwitz, The Journal of Historical Review, vol. 10, no. 1, pp. 25-47
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/mattogno_04.htm)
このことを如実に示しているのは、ベルゼン裁判でのソフィア・リトヴィンスカなる人物がアウシュヴィッツについて述べた陳述である。彼女は、1941年のクリスマス・イブ[10]かその数日前に[11]、アウシュヴィッツの病院で3000名のユダヤ人とともに、ガス室送りに「選別された」と述べたのである。しかし、アウシュヴィッツ博物館の歴史家によれば、この時点ではユダヤ人の「ガス処刑」も「選別」もまだ始まっていなかった[12]。
[10] Trial of Josef Kramer and Forty-Four Others (The Belsen Trial), William Hodge and Company, London-Edinburgh-Glasgow, 1949, p. 79.
[11] The Belsen Trial, p. 79.
[12] アウシュヴィッツでのユダヤ人の「ガス処刑」が始まったのは1942年1月とされている。最初の「選別」は1942年5月4日とされている。(Contribution a l'histoire du KL Auschwitz, Edition du Musee d'Etat a Oswiecim, n d., pp. 178 and 180).
「せ、正確な日時なんて覚えてないわ!
ナチスにとってユダヤ人の囚人は家畜同然だったから、今日がいつなんてことはわからなかったのよ」
「うむ。それだけ悲惨な目にあったということだな」
「そうそう。ひさ〜んな目にあったからあんまり日付は覚えてないのよ。にゃははは」
「でもさっきはクリスマスとか言ってなかったっけ?」
「ふっふっふ……」
ぱっちーーーーん!
「というわけで今度はあなたを連行します。すみません」
「お、おい! 俺が何をしたってんだ!
クリスマスなら日付を覚えているはずだろ!」
「そういう正論を言うからこうなるのだ。
お前はもう少し利口な男だと思ったのだがな」
「そりゃ買いかぶり過ぎよ」
「て、てめぇこのクソアマ! 何言ってやがる!」
「ふむ、やはりそうか」
「そこ! 納得するな!
って……ちょ、ちょっと待った!
話せばわかる!」
「問答無用!」
「がっ……!」
「では行きましょうアーチャー。
はぁ……何故わたしたちがこんなことをしなければ……」
「出番がここしかないのだ。諦めろセイバー」
「……では失礼します。アルクェイド」
「はいお疲れ〜 また呼ぶかもしれないからよろしく〜」
「また呼ぶのかよ……」
「さ〜て、何か質問は?」
「存在しなかった絶滅計画をそれぞれが勝手に証言するから、時系列のズレが生じてしまうのだ。
アウシュヴィッツ博物館の歴史家の年表と矛盾しているようではダメだろ」
「ちょっと待ってください。
証人の言う選別は『病囚の選別』ではないですか? いわゆるユダヤ人の選別とは話が違うと思いますよ。
病囚の選別ならば、件のブロック11の実験的ガス処刑に関するオルトの研究でも知られているように、時期的にはすでに行なわれていたと考えられますよね?」
「その理屈は無理がある。
証言では3000人以上のユダヤ人が立たされて医者による選別を受けたとなっている。
それにソフィア・リトヴィンスカの証言ではガス室に入れられた人間には『健康な人々、強壮な人々、衰弱した人々、病人』がいたと言っている。
健康なユダヤ人をガスで殺すのは『病囚の選別』ではない」
「だから3000人以上の患者がたまたまユダヤ人だったというだけの話ではないのですか?
それに健康に見えただけで実は癌だったという可能性もあるわけでしょう? この人が診察したわけじゃないですし。
話を聞く限り『ユダヤ人選別』であろうと推測されるでしょうが、病囚選別という可能性を完全に否定できるものではありません」
「そんなたまたまがあってたまるか」
「わかりませんよ。これがユダヤ人選別であったという一次資料が存在しないのでは100%確実ということは言い切れません」
「ちょっと待て。一次資料が存在しないからダメ、という理屈ならこの証言がホントだったという検察の主張は崩れるぞ!」
「……あら?」
「証言はそれを裏付ける物証なければ意味がないということを改めて確認させてもらったな。
さて話を戻そう。
証人、先ほどの証言であなたはガス室に入れられたときに『煙が見えた』と言った。
本当にそんなことがあったのですか?」
「当たり前じゃない。
これは小学校の図書館においてある学習漫画にも載ってるくらい有名な話よ」
↑↑集英社版・学習漫画 世界の歴史15 P,138
監修 東京大学教授 木村尚三郎
1987年5月25日第1刷
1989年12年16日第14刷
「あ。これ中学校のときに読んだことがあるわ」
「大抵の小学校・中学校の図書室にはこーいうのがあるわよね。作者は市立図書館で見つけたし」
「ふむ。それだけ有名な話というわけだ」
「証人は嘘をついている! ガス室で煙が見えたのは嘘だ!」
「へぇ。その証拠は?」
「証拠も何も、青酸ガスは目に見えない
青酸ガスであるシアン化水素は無色の気体だ。
これをどうやって肉眼で確認したのだ?」
参考資料:国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書 三省堂提供「大辞林 第二版」より
シアン化水素
水によく溶ける無色の液体(沸点二五・七度)。化学式 HCN 特異臭をもち猛毒で、致死量0.06グラム。水溶液は弱酸性で、シアン化水素酸とも青酸ともいう。反応性が強く、殺虫剤や、アクリル系繊維や樹脂の合成原料となる。
「にゃにゃん♪
透明だから見えないってのは理由にならないにゃ。
水は透明だけど湯気は見えるにゃ。
だからシアン化水素も透明だけど見えた可能性はあるにゃ」
「ちぃ」
「ウェーハッハッハ!」
「では別のつっこみをしよう。
アウシュヴィッツ博物館の説明によれば、アウシュヴィッツIのガス殺はチクロンBを天井の穴から落とし、その錠剤に染み込ませた青酸ガスが気化して毒ガスが発生するというプロセスで行われたことになっている。
つまり『足元』からガスが出るはずなのだ。
だが証言では『天井から』と言っている」
「ぅ……」
「つまり、証人の言っていることは明らかにムジュンしている!」
「それはどうかな?
煙が見えたと言っているが、実際とは違うものが見えたのかもしれないではないか」
「? 何を言っているんだお前は?」
「こういうことだ。
チクロンBの缶の中身のペレットは投下された時点でモクモクと煙を出していたのだ。
ペレットが落ちた後煙が投下口のほうからゆらゆら広がっていくのが見えたらあの証言との矛盾点ない」
「無茶苦茶な言い訳だな。証言ではチクロンBが投下されたなんて言ってないぞ。煙が出たと言っている。
勝手に証言を作るな」
「くっくっく。もっと想像力を働かせるのだ。
このガス室は30m×7m×2.4mのかなり広い部屋だ。投下地点と証人の位置には距離があった可能性もある。
そして人が何百人と詰まった混雑の中でいきなり天井から煙が出すものが落ちてきた。
煙と錯覚しても不思議ではあるまい」
「チクロンBの缶をガス室の外で開けて、ガスが出てくるまで待ってガスが出てきたら投下したのか?
そんな証言聞いたことないぞ」
「うむ。我輩も聞いたことがない」
「……をい」
「しかし可能性がないわけでもあるまい。たまたまこの証人のときはそうしたのだ」
「無理がある話だ。わざわざ外で待つ意味がない。
そんなことをしても危険になるだけだ。もし自分が作業者だったらさっさと穴の中に落とすぞ」
「もっと想像力を働かせるのだ。
なんらかの理由でフタは開けたが投下するのを忘れてたとかいろいろありそうではないか。
手榴弾のピンは抜いたが投げるのを忘れて爆死したという話が韓国軍で実際にあった。ありえん話ではない」
「ない! ない! ない! 外で青酸ガスが出てくるまで放っておいたら風で毒ガスが収容所に拡散してしまう。
絶対やってはいけない行為だ」
「ふぅー。頭の固い女史だな。
100%有り得ないということはないのだ。想像力を駆使すれば見えないことも見えてくる」
「それはただの妄想だ!」
「そもそも煙の証言にそこまでこだわるのはいかがなものか。
証人は常人では経験することができないような恐怖を味わったのだ。
人間の脳はそのような辛い記憶は消してしまうような構造をしている。
証人の言っていることに多少の勘違いがあっても無理はない」
「そうそう。 話がわかる検事でよかったわ」
「『落下するチクロンBの煙だった』という主張には決定的な矛盾がある。
ベルゼン裁判で同じ検察側の証人アダ・ビムコ(女囚)は『ガスボンベ』だとはっきり言っているからだ」
参考資料:ベルゼン裁判 第5日―1945年9月21日金曜日検事バックハウス大佐による証人アダ・ビムコへの尋問)
(アドレス:http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/belsen/belsen_05.htm)
Q:(アウシュヴィッツの)ガス室に入ったことがありますか。
A:はい。1944年8月、私は、収容所で医師として働いていました。ガス室送りに新しく選別された集団がやってきました。病人でしたので、毛布にくるまれていました。二日後、私たちは、これらの毛布をガス室から取ってくるように命じられました。悪名高いガス室を見たいと思っていたので、この機会をつかまえて、中に入りました。そこはレンガの建物で、カモフラージュするために周囲には木が植えられていました。最初の部屋で、私が暮らしていたのと同じ町からやってきた人物を見かけました。一人のSS軍曹もいて、彼は赤十字に属していました。この最初の大きな部屋に人々は服を置き、この部屋から第二の部屋に入るといわれました。数百名が入ることができるほど大きな部屋であるとの印象を受けました。収容所にあるようなシャワー室・浴室に似ていました。天井には多くのシャワーヘッドがあり、並列に並んでいました。この部屋に入った人々全員にタオルと石鹸が渡されたので、彼らは入浴するのだとの印象を持ったはずです。しかし、床を見れば、排水溝がないので、入浴するのではないことは明らかでした。この部屋には小さなドアがあり、それは真っ暗で、廊下のように見える部屋につながっていました。私は、小さな貨車の乗った、数列の線路を目撃しました。その貨車はローリーと呼ばれていました。ガス処刑された囚人はこの貨車に載せられて直接焼却棟に送られたという話です。同じ建物の中に焼却棟があったと思いますが、自分の目で炉を見たことはありません。低い天井を持ったこの部屋よりの数歩高いところに別の部屋がありました。二つのパイプがありましたが、それはガスを供給するパイプであったとのことでした。また、巨大な二つの金属製のガスボンベがありました。
「同じベルゼン裁判で検察側証人同士の証言が矛盾することは有り得ないだろう。
そういうことがないように検事と打ち合わせするのは当然だ。
アダ・ビムコが『ガスボンベがあった』と言っているなら、ソフィア・リトヴィンスカの見た『天井から出た煙』は文字通り『ガスボンベから出てきた煙』と考えるべきだ」
「それは貴様の思い込みだ。実にくだらん、けしからん。アホらしい。
何を根拠に有り得ないと言っているのだ? アダ・ビムコは勘違いをしていたのだ。
ソフィア・リトヴィンスカも同じく。
アウシュヴィッツ博物館の説明と多少内容が異なる証言をしてもそれがどうしたというのだ?」
「判事! 検察側の主張をどう思われますか?
多少の一言で片付けてしまうのであれば証言など何の役にも立たない!」
「もぐもぐ……ふむ、このカステラがまた美味いですな」
「って、をい……」
「まあ今のは考慮しておきましょう。
証人は証言を続けてください」
「了ー解ー」
「考慮で終わりかよ……」
「ふむ、先ほどの証言ではガス室に入れられたと。
で、そのあとに何が起きたのですか?」
「このとき、自分の名前が呼ばれました。
答える力がなかったので、腕を上げました。
そのとき、誰かが私をつかまえて、この部屋から投げ出しました。
へスラーが私に毛布をかけ、オートバイに私を乗せて、病院に運んでくれました。
そして、そこで6週間すごしました。
ガスのために、まだ依然として、頻繁に、頭痛や動悸がしましたが、新鮮な空気のもとに出たときには、目は涙でいっぱいになりました。
その後、政治部に連れて行かれ、ガス室から引き出されました。
ルブリンの刑務所からの囚人であったことが、取り扱いの相違をもたらし、これとは別に、夫がポーランド軍将校であったことが関係していたのでしょう。
ガス殺に関する証言は以上ね。
詳しくはリンク先で全文参照のこと……って」
「……」
「あれ? どうしたの?」
「どうしたも何も……
ちなみに証人は何分くらいガス室の中にいたんだ?」
「ごく短時間よ。1、2分だと思うわ」
「青酸は強力な毒ガスだ。
1m3につき12mgで致命的、濃度が濃ければ即死してしまうこともある。
その毒ガスを使った殺人用ガス室に1、2分いて、ガスが天井から出たのを見た。
実際に毒ガスを吸ったために目が痛くて咳き込んだ。
そしてガス殺の真っ最中に誰かが証人を外に放り投げた。
そんなこんだで絶滅刑務所であるアウシュヴィッツで3年間も生き抜くことができた。
……。
実際にこんなことができると本気で思っているのか?」
「大丈夫よ。
だってわたしは真祖の吸血鬼だもん。
17分割されたって復活したし、青酸くらいじゃ死なないわよ」
「普通の人間ならば確実に死ぬ!
こんな話は精神錯乱の極みではないか!
これはフィクションではない!
現実の世界の話だ」
「ちょっと待ってください。確実に死ぬとは限りません。
ひょっとしたらちょっとしか吸ってなかたったかもしれないですし」
「いや、死ぬだろ常識的に考えて。青酸ガスは強力な毒ガスだぞ」
「ホルホルホル。
なんですかその答えは? 常識的に考えて死ぬとか、確実に死ぬとか言って『100%死ぬ』とは言い切れないのですね!
よろしいですか?
どんな強い毒ガスと言っても致死量というものがあります。
それより少ない量なら死ぬことはないのです。
ガス室にいた人数も判らない、気圧も温度も判らない。
1〜2分というのも体感時間。ソフィア・リトヴィンスカの身長体重等の身体的特徴や部屋での位置ももちろん不明。
そもそも投下されたペレットの量すら判らない。
この条件で『確実に死ぬ』とは言い切れないのですよ」
「素晴らしい理論だ。一見無茶苦茶なようで反論できない完璧な理論だ」
「落ち着いて考えれば生き残れた理由などいくらでも考えられます。
例えば吸ったと錯覚してただけかもしれないという可能性も否定できません」
「……は?」
「そもそも皆さんに聞きたいのですが、このソフィア・リトヴィンスカがどうしてガス殺現場にいたと立証できるんですか?
ガス殺の選別に選ばれたことを記録した書類があるわけでもなければ、青酸ガスを吸ったあとに検査や治療を受けた記録が残ってるわけでもないでしょう。
ガス殺現場にいたと錯覚してただけという可能性は否定できません」
「ちょっと待て! それではガス殺の肯定になってない!」
「何を勘違いしているか知りませんが、わたしは肯定派でも否定派でもありませんよ。
懐疑派であって、役目は両方のあら捜しをすることです」
「……をい」
「すべてはソフィア・リトヴィンスカの勘違いだったというわたしの説が100%有り得ないということを立証してください。
できないでしょう?
ガスを『致死量分吸った』、『致死量より少なくしか吸ってない』の2つの選択肢しかない時点でダメです。
『そもそも全く吸ってない』という点を入れなければなりません。
ガス殺が事実だとしても、ソフィア・リトヴィンスカがその場に立ち会ったかどうかは別問題です。
そもそもこの人は本当にアウシュヴィッツにいたんですか?
まずはソフィア・リトヴィンスカが実際にアウシュヴィッツにいたことを証明すべきです」
「そんなことを言い出したら話がまったく前に進まないだろうが……何がしたいんだお前は?」
「ハッハッハ、建前はあなた方の主張の穴をふさいであげたのです。こうすることでより完璧な結論が出るではないですか。感謝して欲しいくらいですよ!」
「本音は?」
「い・や・が・ら・せ♪」
「をい」
「……物証のない証言を検証している時点で不毛な論争なのかもしれんな。
証言を検証したところで、それだけでは『ガス殺がなかった』とは言い切れないが、あったとも言い切れない」
参考資料:「アウシュヴィッツからの二つの虚偽証言」著カルロ・マットーニョ
Carlo Mattogno, Two false testimonies from Auschwitz, The Journal of Historical Review, vol. 10, no. 1, pp. 25-47
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/mattogno_04.htm)
また、ソフィア・リトヴィンスカは「ガス室」の中で、「煙が天井の小窓から入ってくる」のを見た[13]と述べているが、ユダヤ人の「絶滅」のために使われたとされているチクロンBは密閉された缶に保管された固形物であるから、この話も馬鹿げている[14]。さらに、「目撃者」リトヴィンスカは、「1分か2分」ガスにさらされ[15]、そのあとで、何か特別なことが起こったという。
「そのとき私の名前が呼ばれるのを聞いた。それに答える力はなかったが、腕を上げた。すると、誰かが私を捕まえて、部屋の外に放り投げた。ヘスラーは私を毛布でくるみ、オートバイに乗せて病院まで連れていった。私は病院に6週間とどまった。」[16]
つまり、「ガス処刑」の最中に、誰かがガスマスクもつけずに、「ガス室」のなかに入り、ソフィア・リトヴィンスカを呼んで、彼女を運び出したのだというのである。これは精神錯乱の頂点である。青酸は存在する中でもっとも強力な毒である。人間にとっては、1m3につき12mgで致命的である。さらに、「空気中の青酸の濃度が非常に高ければ、即死してしまう」[17]からである。
[13] The Belsen Trial, p. 80.
[14]チクロンBは、粘土のような物質に吸収された青酸であり、それゆえ、粒状である。そして、密閉された缶に保管されていた。(NI-9098, p. 35 and 38).青酸は摂氏25.7度で気化し、それは空気よりも軽い(Les Chambres a gaz, secret d’Etat, Editions de Minuit, Paris, 1984, p. 258).
[15] The Belsen Trial, p. 81.
※ ソフィア・リトヴィンスカはガスマスクの有無については「わからない」と証言しているため、ガスマスクなしというマットニーニョの説明は正確ではない。
参考資料:ベルゼン裁判 第7日―1945年9月24日月曜日
(アドレス:ttp://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/belsen/belsen_07.htm)
弁護人ムンロ少佐の反対尋問
Q:証人は1941年に12月ごろにアウシュヴィッツにやってきて、1941年12月24日の点呼でガス室送りに選別されたのですね。
A:正確な日付は覚えていません。クリスマスの数日前であったに違いありません。私たちはひどく殴られてたので、正確な日付を思い出すことができないだけです。足に怪我をしていた以外には、この当時はまったく健康でした。
Q:焼却棟に向かう自動車から誰かがおろされたのを見たことがありますか。
A:いいえ。
Q:ガス室にはどのくらいいたのですか。
A:ごく短時間です、1、2分でしょう。
Q:引き出されたとき、ガスのために、ひどい状態だったのですね。
A:ひどい頭痛がして、目の前が真っ暗となり、胸に重しをのせられたようでした。
Q:外に出たとき、証人を連れ出してくれた人物はガスマスクをつけていましたか。
A:わかりません。自分に何が起こったのかさえもわからない状態でした。
「さて、判事はどうお思いか?
検察の言い分は証言の内容を大きく変えてしまっている。これはソフィア・リトヴィンスカの証言がそのままでは到底信じられない話という証拠ではないか」
「ふむ、この抹茶団子の餡子がなんとも……」
「少しは真面目にやれ!」
「たしかにソフィア・リトヴィンスカの証言には多少問題はあります」
「あくまで多少で済ます気か……
煙が天井から出たのは証人の錯覚だった。
ガスを吸ったが致死量より少なかった。
では年代のズレはどう説明するんだ?」
「勘違いだった!」
「……それで証言の矛盾が説明できるなら証言など何の役にも立たんな。
だいたいアウシュヴィッツIのガス室には換気装置がなかったんだぞ。
換気装置がない殺人ガス室なんてあるわけないだろうが。
物的証拠がガス殺を否定しているならガス殺証言は嘘に決まっているじゃないか」
「換気装置や投下穴について言い始めるとSubject7をリピートしなくてはなりません。
証言はこの一つだけではありませんし、あせる必要もないのですからゆっくり行きましょう。
とりあえず休憩です」