逆転ニュルンベルク裁判
〜ユダヤの嘘を暴いてナチスの無罪を勝ち取れ〜

Subject7: アウシュヴィッツ収容所のガス殺についてその2 ルドルフ・ヘス(アウシュヴィッツ所長)の証言


 「証人、名前と職業を」

 「県立北高校1年5組、涼宮ハルヒ。

ただの人間には興味ありません。

この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」

 「……アイコンの使い道がないからって……。もう少しキャスティングを考えろよ」

 「ナチスは超自然現象の宝庫よ。

ヒトラーの末裔達は風水術を使って地球に超異常気象を起こし、飢饉で世界を支配しようとしているし、

ナチス残党たちは、1999年のポールシフトによる大災害を逃れるために、南米の古代ナスカンの人々が地球外知的生命体から得た冷凍保存技術をすでに手に入れているわ。

MMRに載ってたもの」

 「……」

 「ということは、あんたたちみたいなネオナチに付き合っていれば宇宙人に会えるかもしれないじゃない。

宇宙人はどこ? さっさと出しなさい」

 「……残念ながらナチスは宇宙人とは関係ないし、俺たちはネオナチではない。

お前が考えているようなものはここにはない」

 「えー、つまんないのー」

 「ごほん。

はじめてしまったものは仕方ない。最後まで付き合ってもらおう。

今回は彼女にアウシュヴィッツ刑務所初代所長ルドルフ・ヘスの役をやってもらう」

 「しょがないわね」

 「ごほん、まず事件現場であるアウシュヴィッツIについて説明しよう」

 参考資料:航空写真と矛盾している12の「目撃証言」著ジョン・ボール(カナダ人の航空写真の専門家)

John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos

(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/air_photo_evidence/ball_02.htm

  1. 木々。
  2. アウシュヴィッツ収容所周辺の衛星労働キャンプ、抑留収容所のための管理局。
  3. 主要幹線にいたる支線。
  4. 鉄条網のフェンスの外の9つの監視塔の1つ。
  5. 2つの並行した3mの高さの鉄条網のフェンス。
  6. メイン・ゲートにある有名な標語「ARBEIT MACHT FREI」(注a)は抑圧と残酷を示唆しているようであるが、実際には「労働は自由にする」を意味しているにすぎない。
  7. 手術室を持つ病院は、いわゆる「ガス室」の道路向こうであった。
  8. 平屋根の建物には2つの1メートルの煙突が炉の上についているが、いわゆるガス室の上には換気口も穴もない。これは収容所の鉄条網のフェンスの外にあり、作業場と病院の隣にあった。
  9. 村人と囚人が家具を作り、衣服を縫った作業場。(注b)
  10. 24ブロック(注c)。1階は図書館、楽器庫に使われた。(注d)
  11. 80名の交響楽団(注e)の様々なメンバーが軽いクラシック音楽を演奏した場所。(注f)
  12. 13の石炭ストーブを備えた厨房。ここで毎朝パンが焼かれ、温かい食事(注g)が提供された。
  13. 1階の郵便局。(注h)
  14. 暖房装置のある煉瓦づくりの3階の就寝バラック。
  15. 音楽会場と劇場(注i)。ここでは囚人の音楽家がコンサートをおこない、様々な収容所からの演劇やコメディーグループが大きな舞台から囚人を楽しませた。人々は収容所のドア、収容所外の主要ドアから入った。
  16. 2.5m深さの砂と砂利の穴。
  17. 収容所のフェンスの中にある囚人の夏の水泳プール(注j)は、長さ20メートルであり、1.3mの高さの飛び込み台を持っていた。
  18. 囚人たちが「バーチ・アヴェニュー」とよんだ並木。
  19. 収容所長の管理局の1つ。
  20. 所長の3階の邸宅。
  21. 2km行くとオスヴィエチムの町に向かうソラ川。
  22. 収容所両側の3mの高さのセメントの壁。外側から収容所の中をのぞくことを妨げており、囚人とスパイの接触を妨げた。

 「赤い矢印はアウシュヴィッツ博物館のツアーで紹介されるルートだ。

Eの地点からはじまり、ガイドの説明を受けながら規定のコースを歩く。

Gの白い屋根の建物がガス室だ。

アウシュヴィッツIにはガス室は一つしかない」

 「Pって何?」

 「それは……」

 「何? 言えないの?」

 「囚人用の遊泳プールだよ。

写真を見れば見ての通り、飛び込み台や競技用に用いる『スローター・ブロック』があり、小さいながらもよく整備されたプールだ。

アウシュヴィッツおよび周辺の収容所の囚人は、土曜日や日曜日の午後に、水泳やプール側での日光浴を楽しんだ。

サッカーのようなスポーツのほど人気があったわけではないが、いくつかの競技会がおこなわれ、そこには、様々な国と様々な収容所からの囚人が個人で、あるいはリレーで参加した。

フランスの歴史修正主義者フォーリソンのWebサイト(ttp://www.rense.com/general24/controversy.htm)によれば、フランスのストラスブール大学医学部の教授で元アウシュヴィッツ囚人のマーク・クラインが書いた冊子にそれらのことが載っているとある。

フォーリソンは1985年のツンデル裁判でクラインのことについて述べたそうだ。

このプールの現物は現在でもPの場所にいけば誰でも見ることができる。

ただし、ツアーでは紹介してくれないから、見たかったら自分の足で行くしかない」

 「ふーん、アウシュヴィッツ博物館のガイドは都合の悪いところは見せないのね」

 「絶滅刑務所に囚人用の遊泳プールがある事実は、ホロコースト肯定派にとって都合が悪いからな。

プールの存在について質問すると、露骨に嫌そうな顔をするらしい。

『これはプールに見せかけた消防用の貯水池です』とかいう看板があるにはある。

英語、ポーランド語、ヘブライ語でな。

だが、その看板は何のために誰がいつ作ったのか?

なぜ消防用貯水池に飛び込み台がついているのか?という質問には答えてくれない。

他の観光客の前で、しつこく質問すると『これ以上は聞かないでくれ』と無言で訴えるそうだ」

 「そりゃそうだろ。

あんまり虐めるなよな。ガイドさんは仕事でやってるだけなんだからさ」

 「虐めではない。世の不正を正す正義の剣(つるぎ)だ」

 「はいはい」

 「百歩譲って虐めだとしても、プールの質問程度ならまだ可愛い方さ。

ロサンゼルス出身のアメリカ人歴史家デイヴィッド・コールに到っては、アウシュヴィッツ博物館歴史部主任のピペル博士にロイヒタ―・レポートを突きつけ、これを事実上認めさせている。

ピペル博士はロイヒタ―・レポートの化学分析に反論できなかったのだ。

このときのインタビュー結果が論文で発表されており、インターネットで読むことも可能だ。

”虐め”とはこういうのを言うんだよ」

 参考資料:「アウシュヴィッツ国立博物館員ピペル博士へのインタビュー」 著デイヴィッド・コール(両親はユダヤ人)

David Cole, "A Jewish Revisionist's Visit to Auschwitz", JHR 13(2) (1993)

(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/cole_01.htm

ここで興味深い点に突き当たります。ツアーでは何が見せられており、何が見せられていないのかという点です。ツアーのあいだ、「死のブロック」、当然にもそのすぐ隣にある「死の壁」を見せられます。虐殺物語を確証し、アウシュヴィッツを、囚人を絶滅した死の装置として描くように設計された展示物を次々と見せられます。

しかし、何が見せられていないのでしょうか。まず、「生存のブロック」とでも呼ぶことができるような建物があります。チクロンBをつかって毎日シラミを駆除し、シラミが媒介する疫病を防いだ大規模な殺菌駆除施設です。これらは、本当のガス室でした。ただし、その対象は衣服や寝具であり、目的は囚人の健康を維持することでした。ホロコースト専門家はこの建物の目的を否定していません。それに触れたがらないだけです。なぜ、事態をこのように紛糾させているのでしょうか。もうひとつ忘れられているのは、アウシュヴィッツ収容所の劇場です。今では、前にお話しした尼僧院がそこにあります。この建物内部を最後に写した写真には、ピアノ、衣装、囚人が出し物を出したステージが写っています。しかし、現在では、尼僧たちが内部の撮影を許可していません。最後に、アウシュヴィッツ水泳プールがあります。そうなのです。水泳プールなのです。囚人バラックに隣接した監獄区画の中にあります。飛び込み台や競技用の「スターター・ブロック」をもつ美しいプールです。アウシュヴィッツ収容所の管理人の方々の名誉のために申し上げておきますが、管理人の方々はこの娯楽施設を取り除こうとはしませんでした。しかし、プールをご覧になりたければ、ツアーでは発見することができませんので、その場所をあらかじめ知っておく必要があります。

(略) 私は何年も自分で研究を続け、また他人の研究を参照してきましたが、ホロコーストの証拠がほとんど存在しないことに気づきました。存在しているのは、「目撃証人」の証言と戦後の自白だけなのです。殺人ガス室やユダヤ人絶滅計画を扱っている写真、計画、戦時中の資料はまったく存在しないのです。ナチスがすべての証拠を破壊してしまったからであるとの言い訳を使うこともできません。ドイツのコード言語は解読されているので、アウシュヴィッツからのものも含む秘密交信記録を解釈できるようになっているとされているからです。ホロコースト物語の理解の鍵は、証拠として提出されている事柄の本質を理解することです。ホロコーストの証拠として使われているすべての事柄も、まったく普通に説明されなくてはなりません。

(略) ロイヒター報告再考

もう一つの問題があります。シアンガスが残余物を残すとすれば、ガス室にはチクロンBの残余物が残っているのかという問題です。1988年、処刑装置専門家のフレッド・ロイヒターが、アウシュヴィッツのガス室を法医学的に調査して、この問題に答えようとしました。彼は、ビルケナウのガス室から4つのサンプル、中央収容所のガス室から1つのサンプル、チクロンBを使用したことが知られている殺菌駆除室の1つから基準サンプルを採取しました。その結果、ガス室のサンプルには感知できるような痕跡がないのに、殺菌駆除室のサンプルにはかなりの量の痕跡が検出されました。さらに重要なことに、1990年、クラクフの法医学研究所が、独自の法医学調査を行い、ロイヒターの結果を反駁できるかどうか検討しました。この調査にはピペル博士も協力しました。彼らの調査もほほ同じ結果を示しましたが、そのときから、話は、「ガス室にはチクロンBの感知できるような痕跡があるかどうか」ではなく、「なぜ、感知できるような痕跡がないのか」という問題に移っていきました。私はこの問題をピペル博士にぶつけてみました。殺人ガス室では感知できるような痕跡がほとんど存在しないのに、殺菌駆除ガス室では大量の痕跡が存在するのはなぜなのかということです。

ピペル:チクロンBを使ったガス室が稼動したのは、非常に短く、24時間で20、30分ほどでした。一方、殺菌駆除室は、昼夜兼行で稼動していました。殺菌駆除室とガス室では、ガスの使用方法が異なっていたのです。ここで、ピペル博士が話していることを明白にしておきましょう。私は、「殺菌駆除室での痕跡が高くて、殺人ガス室での痕跡が低いのはなぜなのでしょうか」と彼に質問しました。そして、彼の答えは、殺菌駆除室は「昼夜をわかたず」使われたのに、殺人ガス室は「24時間で20、30分ほど」使われたためであるというものでした。これでは、1日に1回だけガス処刑が行なわれたことになります。この答えは、殺人ガス処刑が昼夜兼行で繰り返し行なわれたという目撃証言とだけではなく、ピペル博士自身の発言とも矛盾しています。のちに、私が1日どのくらいの人々がガス処刑されたのですかと質問すると、彼は、ガス処刑が繰り返されたと述べているからです。

コール:焼却棟2と3では、毎日どのくらいの人々がガス処刑されたのですか。

ピペル:ガス室が毎日毎日数時間使用された時期があったので、この問題に答えるのは簡単ではありません。ガス処刑、焼却、ガス処刑、焼却……という作業が繰り返されたのです。

私たちは次の問題を質問しなくてはならないでしょう。ピペルがもともと述べているように、ガス室が「24時間で20、30分」しか使われなかったとすれば、収容所での大量殺戮は起こりえたのでしょうかということです。

 「韓国名物『自爆

まさか、かのアウシュヴィッツでもこれが見られるとはな。

ユダヤもニダヤもそれほど中身は変わらんということか……」

 「さすが情け容赦を知らない戦闘民族アメリカ人。

弱い者虐めを『正義』と言い張ってやりたい放題。

まさにですね。

アメリカの本能は戦争だとつくづく確信します」

 「ぐぅ! 合衆国の恥晒しどもめ!

ロイヒターしかり! コールしかり!

わざわざアウシュヴィッツ博物館にまで嫌がらせをしに行ったのか!」

 「ピペル博士も可哀想に…… とんだ災難だな」

 「可哀想だと?

はっ! 可哀想なのはホロコースト物語で莫大な利益を得ている詐欺師どもではなく、悪役にされてきたドイツだ。

嘘と誇張と捏造と歪曲が全てのホロコースト物語で、ドイツ人はドイツ人であるというだけで存在を否定されてきた。

その煽りを喰らって、なぜか日本人まで悪者にされてきたではないか。

捻じ曲げられた歴史とでっち上げの犯罪をネタにドイツを虐めることで、不当な利益を得ている悪党どもは根こそぎ叩き潰さねばならん」

 「悪者にしているのはユダヤ人じゃなくて特定アジアじゃないの?」

 「ユダヤ人の大虐殺という神話が発明され神や宗教、預言者そのものよりも上に位置づけられてしまった!

誰かが神の存在に疑問を呈しても何も言わないが、ユダヤ人虐殺の伝説を否定しようものなら、シオニストの拡声器とシオニストに雇われた各国政府が金切り声を上げ始めるのだ!」

 「イランのアハマディネジャド大統領みたいなこと言ってるわね」

 「とにかくだ!

アウシュヴィッツIはGの位置にガス室があることだけわかればそれでいい!

あと弁護人は余計なことばかり言うな! デイヴィッド・コール個人をアメリカ全体のイメージにしてもらって困る! アメリカのイメージが悪くなる!」

 「何を今さら。これ以上悪くならないから心配するなって。

支那・ロシアと並んで悪の枢軸 一軍の座はあと数十年は不動のものだ」

 「やかましい! お前は少し黙ってろ!」

 「ヤンキー、必死だな」

 「お前も黙ってろ! このファシストのゲルマンスキーめが!」

 「なんで俺がファシストなんだよ? ワケがわからん」

 「ネーメツは皆ファシストなのですよ!

殺せ! 殺せ! ドイツ人で無実なる者は居ない。

今生きている者にも、これから生まれてくる者にも!

同志スターリンの意志に従い、ファシストの野獣をその地で踏みつぶせ!

ドイツ女の種族の誇りを暴力で破れ!

女共を正当な獲物とせよ!

殺せ、勇敢に進む赤軍兵士よ!」

  「……」

 「とにかくアウシュヴィッツIの説明は終わり!

ごほん、初心者が混乱するのは死体を焼く焼却棟が4つあるビルケナウのほうだ。

焼却棟の位置は図のようになっている。

各焼却棟には地下室Iと地下室IIがあった。

このうち地下室Iがガス室、地下室IIが囚人が服を脱ぐ脱衣場だった。

絶滅計画が本格化してきたため、アウシュヴィッツIだけでは処理しきれなくなり、ビルケナウが建設されることになった。

ビルケナウの年表は下の通りだ」

 参考資料:栗原優,1997,『ナチズムとユダヤ人絶滅政策―ホロコーストの起源と実体―』ミネルヴァ書房.

1941年10月 ビルケナウの建設はじまる
1941年11月 第11ブロックの地下室にて、チクロン-Bによるガス殺がおこなわれる。
次回から第一クレマでおこなわれる。
1942年5月 農家を改造した第一ブンカー完成
1942年6月 農家を改造した第二ブンカー完成
1942年9月 クレマ2・3の建設はじまる
1942年11月 クレマ4・5の建設はじまる
1943年2月 クレマ2の換気装置の設置はじまる
1943年3月 クレマ2・4完成
1943年4月 クレマ5完成
1943年6月 クレマ3完成

 「アウシュヴィッツのガス室についての簡単な説明はこんなところだな。

ごほん、証人、名前と職業を」

 「名前はルドルフ・ヘス。 アウシュヴィッツの初代所長をしてました」

 「ヘスの証言は、ヘス自身の署名がしてある供述書からの引用だ。

実物には1946年4月5日の日付で、ルドルフ・ヘスの宣誓と署名が記されている。

この供述書は1946年4月15日のニュルンベルク裁判でも採用された。

ヘスの『告白』は裁判用語でいう『敵性証人』の加害者による『自白』だから、非常に価値が高い。

実際に処刑していた連中の親分の告白なのだから、第一級資料といっていいくらいだ。

これでドイツの有罪は決まりだな」

 「なるほど、では証人。

証言を開始してください」

 「――――了解。

私は、1943年12月1日まで、アウシュヴィッツの司令官でした。

私の計算では、少なくとも250万人の犠牲者が、ガス室と火葬場で処刑または虐殺され、少なくとも50万人が飢えと病気で死に、死者の合計は300万人になります。

ユダヤ人問題の“最終的解決”は、ヨーロッパのすべてのユダヤ人の絶滅を意味していました。

私は、1941年6月に、アウシュヴィッツでの絶滅の準備を命令されました。

この時期にはすでに、ドイツの支配下に三つの絶滅収容所、ベウツェック、トレブリンカ、ヴォウツェックがあったのです」

 「証人、今のあなたの言葉はニュルンベルク裁判で提出された供述書に書いてある。

これは確かか?」

 「そうよ。今の発言内容は1946年4月15日にニュルンベルク裁判で実際に採用されたものだもの」

 参考資料:木村愛二著 『偽イスラエル政治神話』

(アドレス:ttp://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-17.html

何人かの証言が基本的なものとされている。有名なのは、ルドルフ・ホェス、ザウケル、そしてアウシュヴィッツの医師、ニツリのそれである。最も重要な証人、裁判官の法衣を着て仮装した勝利者の理論を“立証する”完璧な証人として登場したのは、アウシュヴィッツ収容所元司令官、ルドルフ・ホェスだった。彼が逮捕された際の陳述の概要は、ニュルンベルクにおける彼の供述の筋書きとなったが、そのすべてが、この裁判所の彼への期待に応えるものだった。一九四六年四月五日の日付で、ルドルフ・ホェスの宣誓と署名が記された陳述は、つぎのようなものである。

《私は、一九四三年一二月一日まで、アウシュヴィッツの司令官だった。私の計算では、少なくとも二五〇万人の犠牲者が、ガス室と火葬場で処刑または虐殺され、少なくとも五〇万人が飢えと病気で死に、死者の合計は三〇〇万人になる。ユダヤ人問題の“最終的解決”は、ヨーロッパのすべてのユダヤ人の絶滅を意味していた。私は、一九四一年六月に、アウシュヴィッツでの絶滅の準備を命令された。この時期にはすでに、ドイツの支配下に三つの絶滅収容所、ベウツェック、トレブリンカ、ヴォウツェックがあった》

 参考資料:木村愛二著 「アウシュヴィッツの争点」

(アドレス:ttp://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-11.html

前掲の朝日新聞報道をさらにくわしくしたのが、『週刊金曜日』(94・7・15)の見ひらき二ページの記事、「アウシュヴィッツの犠牲者数の変遷」である。この記事では、さきの「精密な論文」について、「収容所博物館歴史部主任F・ピペル博士により、一九九〇年七月に発表されたもの」としている。「数年」を正確にかぞえると、一九九四年の碑文の数字訂正決定までに「四年」が経過していることになる。さらに同記事はホェスが、ソ連軍が「四〇〇万人」説をだした調査の直後の、一九四六年四月一五日にニュルンベルク裁判で証言した内容を、つぎのように要約して紹介している。

「アウシュヴィッツにおいては二五〇万人がガス室で殺され、そのほか五〇万人が飢えと病気で死亡した」

ホェスは、その後、「犠牲者の総数は一一三万人であったと前の証言を訂正」したりしている。だから、「精密な論文」以後の「四年」間のゆれの結末の約一五〇万人は、ホェス「告白」のゆれの範囲内にとどまっていることになる。ホェス「告白」は、ニュルンベルク裁判の判決でも最大の根拠となったが、その最大の数値がもともと「二五〇万」だった。だから、ソ連発表の「四〇〇万」は最初からあやしい数字だったのだ。これまでアウシュヴィッツはソ連の勢力範囲にあったから、その数字のままだったにすぎないのである。

 「なるほど、ではもう一つ質問に答えていただきたい。

あなたはドイツ人だ。

当然、使用する言語はドイツ語だな」

 「当然よ。

ドイツ人がドイツ語を使うのは自然な話」

 「弁護人、何を当たり前のことを言っているんだ。

ドイツ人がドイツ語を使うことに何の不思議があるんだ?」

 「大有りだよ。

ドイツ人がドイツ語を使うのは当然のこと。

だが、1946年4月15日のニュルンベルク裁判で提出されたヘスの供述書は英語で書かれている」

 「

 「しかも、ヘスの家族の証言によれば、ヘスは英語を読めない

ドイツ人の供述書が母国語のドイツ語で書かれていないことがすでに怪しいが、さらに読むこともできない英語で書かれた供述書はさらに怪しい。

英語が読めない人間が、裁判で使う書類を英語で用意できるわけがない」

 「たしかに英語が読めない人間が裁判の供述書を用意したとなるとこれは極めて不自然です。

しかし、その供述書は実在します。

もしヘスが英語がわからないならば、その証言はどのようにして作られたのですか?」

 「簡単なことですよ。

実際の供述書の文章はタイプされたもので、誰が書いたかはわからない。

ヘスは誰かが予め用意しておいた偽の供述書にサインをしただけです。

文字通りサインしただけだから何が書かれていたかは知らない。

だから内容は矛盾だからなんですよ。

アウシュヴィッツで処刑された人数なんて最たるものです。

どこをどうすれば数百万人も犠牲者の数が変わるのでしょうか?

最初から数えもせずに決め付けでもしなければこんなに数は変動しない!

これはヘスの証言や検察が根拠とする証拠が、捏造されたものばかりであることのなによりの証拠です」

 参考資料:goo 辞書(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

陳述(ちんじゅつ)

訴訟において、当事者やその関係人が、関係事項を口頭または書面で述べること。

供述(きょうじゅつ)

刑事訴訟法で、被告人・被疑者・証人が知覚した事実を述べること。また、その述べた内容。

 参考資料:著エルンスト・ツンデル 『ニュルンベルク:消えざる犯罪(訳:NSJAP)』より

戦慄すべき「残虐行為」を,ホェスがニュルンベルクで証言したことは事実である.自ら署名した陳述書の真偽について,彼が宣誓したことも事実である.彼はこの中で,何百万人をガスで殺す指令書を受け取ったことを認めている.しかし,この陳述書は英語で書かれており,家族の話では,ホェスは英語を話すことも聞くこともできなかったのである.私たちには今,『死の軍団』という本がある.この本の中では,ルドルフ・ホェスが拘留中,死ぬほど殴打されたことが記されている.彼を殴打したのはイギリス警察に属するユダヤ人であった.彼らは殴打後も,ホェスが悲しい「証言」,「陳述書」を書くまで拷問を続けた.そしてこの証言が,連合国宣伝部によってその後ずっと用いられたのである.以下にルパート・バトラーによる『死の軍団』からの抜粋を示そう.判断するのはあなたである.

「1946年3月11日午後5時,ホェス夫人は玄関のドアを開けて6人のイギリス軍服を着た諜報員を中へ入れた.彼らは皆,背が高く,高圧的で,容赦ない訊問を行う技術を身に付けていた.家族には身体的暴力はほとんど加えられなかった.必要なかったのだ.夫人と子供は引き離され,それぞれに護衛が付いた.クラークの声音は意図的に低く,くだけた調子を響かせていた.彼は穏やかに話し始めた.『ご主人は昨晩あなたに会いに戻られましたね.』ホェス夫人はすぐに答えた.『私はこの数か月主人に会ってはおりません.』クラークはなおも穏やかながら,非難の調子を込めてもう一度言った.『そうではないでしょう.』それから彼の態度は豹変し,彼は叫び始めた.

もし言わないのなら,お前をロシア人に引き渡すぞ.ロシア人はお前に一斉射撃を浴びせるだろう.お前の息子もシベリア行きだ.

これは効き目があった.とうとうホェス夫人は力尽き,夫の所在を明かした.元アウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ホェスは,フランツ・ランクと名乗っていた.同じ脅迫が息子・娘にも行われ,夫人と一致する証言が得られた.ホェスを捜し出した時の模様について,クラークは鮮明に回想している.

『ホェスは新しい絹のパジャマを着て,三段ベッドの一番上に寝ていた.後に分かったことだが,彼はナチス指導者の大半が持っていた毒薬を失くしていた.また彼はそれを使うチャンスもなかった.なぜなら私たちが,彼の口に懐中電灯を突っ込んだからである.』

ホェスはイギリス軍服を見ただけで,恐怖のあまり叫んだ.クラークは言った.『お前の名前は何だ?』

ホェスが『フランツ・ランク』と答える度に,彼はその顔を殴りつけた.それが4度続いた後,ホェスは自分の正体を認めた.その場にはユダヤ人外科医もいたが,ホェスが正体を明かすやいなや,彼は嫌悪感を抑えられなかった.彼の両親は,ホェスが署名した指令によってアウシュヴィッツで殺されていたからである.ホェスは三段ベッドから引きずり降ろされた.パジャマは引きはがされ,彼は裸のまま取り調べ机へ引きずって行かれた.殴打と叫びが長く続いた.とうとう医療班長が訊問リーダーに言った.『殺したくなければ,もうやめさせて下さい.』ホェスには毛布がかけられ,クラークの車まで引きずられた.そこで外科医は彼の喉に大量のウィスキーを流し込んだ.その後ホェスは眠ろうとした.クラークはホェスの目を棒でつつき,ドイツ語で命令した.『起きていろ,豚め.』彼らはハイデに午前3時頃に戻った.雪はまだ吹雪いていたが,ホェスは毛布をはぎ取られ,真っ裸で独房まで歩かされた.彼から一貫した証言を得るまでに3日かかった.」

このように拷問と脅迫で得られた証言が,私たちがよく知っている「ユダヤ人をガス室で殺した」事件の証拠となっているのである.

 参考資料:木村愛二著 『アウシュヴィッツの争点』

ホェスは最後にポーランドのクラコウで裁判にかけられ、一九四七年四月一七日にアウシュヴィッツ収容所内(写真3,4.Webでは省略)で処刑されたが、その死の直前に書いたとされている「回想録」には、つぎのような部分がある。

「わたしは一九四六年三月一一日に逮捕された。[中略]わたしにたいする最初の尋問における証言は、わたしをなぐってえたものである。わたしはサインはしたが、そこになにが書かれてあるのかは知らない。アルコールと鞭でわたしはまいってしまった。鞭はわたしのものだが、偶然、妻の荷物のなかにはいっていた。それは馬にふれたことすらなく、ましてや収容者にむけられたことなど、まったくなかったというのに」

 参考資料:木村愛二著 『アウシュヴィッツの争点』

ホェスの尋問調書の一つは英語でタイプされており、下部にホェスのサインがある。本人の母国語のドイツ語でないだけでも大いに偽造の疑いがあるが、ホェスの尋問にあたったイギリス軍の尋問者自身が、のちに拷問の事実をみとめている。

ホェスを逮捕し、尋問したイギリス軍の軍曹、バーナード・クラークは、イギリス国籍のユダヤ人だった。わたしはさきに紹介したフォーリソンの論文、「いかにしてイギリスはルドルフ・ホェスの告白をえたか」によって、その拷問の経過を知った。出典は一九八三年に発表された『死の軍団』という本で、著者、ルパート・バトラーはクラークとインタヴューしている。『死の軍団』はすでに絶版で入手は不可能だが、これも「歴史見直し研究所」のウィーバーにたのんでおいたら、帰国してから該当部分のコピーをおくってくれた。表紙の部分を見ると、カナダのトロント州、オンタリオ地方裁判所のゴム印がおされていて、名前や日付などが手がきでしるされている。のちにくわしく紹介する「ツンデル裁判」の書証のコピーであった。

ルパート・バトラーによると、クラークには拷問について「なんら後悔をしめさない。それどころか正反対に、“ナチ”を拷問したことについてかなり自慢した」という。いわゆる確信犯である。

クラークが目的とした「すじのとおった供述」をえるまでには「三日間の拷問が必要だった」。ホェスが調書にサインした時刻は午前二時三〇分だった。バトラーは、「尋問でもっともくるしんだのは捕虜ではなくてバーナード・クラークのほうだった」という奇妙な書きかたをしている。その理由は、クラーク自身の言葉としてしるされているが、つぎのようである。

 参考資料:木村愛二著 『アウシュヴィッツの争点』

イギリス軍のクラーク軍曹によるホェス拷問の事実が活字になったのは、一九八三年になってからのようである。だが、アメリカ軍兵士の拷問による「証言」強要の数々の事実は、アメリカ軍自身によって調査され、一九四九年には一般むけの新聞紙上で暴露されていた。

事実を公表したのはエドワード・ファン・ローデン判事である。ローデン判事は、アメリカ軍がダッハウ収容所でおこなった軍事裁判の経過を再検討するために任命した「シンプソン陸軍委員会」のメンバーだった。「シンプソン陸軍委員会」の同趣旨の調査報告はアメリカ上院でも発表され、一般公開の議事録にも明記されている。わたしは、日本の国会図書館で、いとも簡単に該当箇所を発見した。A3判で二五ページ分のコピーを手元に持っている。一般向けの新聞による暴露報道は、『六〇〇万人は本当に死んだか』によると、一九四九年一月九日付けのワシントンの日刊紙『デイリー・ニューズ』と、同年同月二三日付けのイギリス紙『サンデイ・ピクトリアル』でおこなわれている。

 「木村はフランス語がわからないのに、フランス語の本を自分で辞書片手に訳して出版してしまうような男だぞ。

自分のメールマガジンを『転載引用大歓迎』などと言って、至る所に自分でまき散らす人間毒電波発生装置だ。

論じる対象ではない」

 「人格攻撃とは見苦しいぜヤンキー。

このソースが信用できないなら、このソースが嘘であるという証拠を出せ。

ホロコースト肯定派もヘスの証言が信用できないことは認めているのが現状なんだぞ。

ヘス証言をソースにしているのはニッコーくらいなものだ」

 「またニッコーかよ」

 「ほぉ、それは面白い話だ。

なぜ信用できないのかな?」

 「ホロコースト肯定派はヘスの回顧録は、死刑判決の後に書かれたものだから、ヘスが嘘をつく意味がない。

だから本当だと言う。

だが、ヘスがポーランド人民法廷で死刑を確定されたのは1947年4月2日。

彼が処刑されたのが1947年4月17日だから、ちょうど2週間前のことだ。

しかし、ヘスの回顧録は処刑日の数か月前に書かれている。

つまり、ヘスの回顧録は死刑が確定する前に書かれたものということになる」

 参考資料:シャーロック・ホームズのガス室――ホロコーストのガス処刑説の文芸学的分析の試み――サミュエル・クロウェル著

Crowell,The Gas Chamber of Sherlock Holmes, An Attempt at a Literary Analysis of the Holocaust Gassing Claim

(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/crowell_01.htm

要するに、1946年4月5日のヘスの宣誓供述書はすでに知られていたことを確認したにすぎない[294]。それが述べていることに新しいものはなく、新しいものはまったく誤りである。それは、それが繰り返している説を立証したものでも、説明したものでもない。事実、10日後のニュルンベルクでのヘスの証言は、宣誓供述書の中味を確証できなかった陳述から成り立っている[295]。ヘスはカルテンブルンナーのために証言したのち、検察側から交差尋問を受けているが、彼は自分の宣誓供述書が読まれると、うなずくか、「はい」と答えるだけだった[296]。それは、ソ連特別委員会が提示した教会法的なホロコーストの内容を拡張し、確認したにすぎない。そのようなものであれば、歴史学的な観点からすると、それは実際には価値のないものである。数週間後、ヘスはポーランドに移送され、そこでふたたび裁判にかけられた[297]。11月、多くの宣誓供述書が用意された。これらは。彼が裁判中やその後に作成したその他の資料と組み合わされて、彼の「自伝」として刊行されてきた。これはすべて、ヘスに死刑判決が下されたのちに作成されたのだから、彼には嘘をつくか、真実を隠す理由はなかったとしばしば語られてきた[298]。これは正しくない。ヘスが死刑を宣告されたのは、1946年12月27日以降のことであり、彼がポーランドの刑務所でガス処刑についての詳しい話をした1ヵ月後のことである[299](これは、それぞれイギリスとアメリカの刑務所で記録されている3月16日と4月5日の供述とまったく矛盾している。だから、イギリスの尋問官、アメリカの尋問官、ポーランドの尋問官は、それぞれの思惑で尋問したのであろう)。さらに、ポーランド人民法廷がヘスの死刑を確定したのは、1947年4月2日のことであった。これは、彼の死の2週間前であり、彼の回想録が執筆された2ヵ月後のことであった[300]。さらに、この回想録やその他の供述書のなかの彼の主張を立証するような物的・資料的証拠はまったくない。そして、この回想録は、内容に首尾一貫性がなく、矛盾をはらんだ文書の典型であり、多くの明白な虚偽を含んでいる。例えば、米英の爆撃で死んだ700万人のドイツ人を記録した秘密ファイルのことに触れている[301]。にもかかわらず、回想録は、ガス処刑説のリアリティーを立証する「公式」資料として依然として再三引用されている。実際には、回想録の存在自体が、問題をはらんでいる1946年4月5日の供述書に、あとからさかのぼって、権威を与えているにすぎないのであるが。

1946年3月11日 ヘス、逮捕される
1946年4月 5日 ヘス供述書作成
1946年4月15日 ヘス証言がニュルンベルク裁判で使われる。
1946年11月 ヘス、ガス殺を記述した「回顧録」作成
1946年12月27日以降 ポーランド人民法廷、ヘスに死刑宣告(裁判長が死刑判決を告げること)
1947年4月2日 ポーランド人民法廷、ヘスに死刑確定(死刑がはっきり決まること)
ヘス、拷問を記述した「回想録」作成(?)
1947年4月17日 ヘス処刑

※ 拷問を記述した回顧録がいつ書かれたのかは手元のソースでははっきりしない。
しかし、ガス殺が記述された回想録は死刑判決の前に書かれたものである。

 「面白い話ですね、続けてください」

 「ヘスはナチの悪行を認める代わりに自分の命を助けてもらおうと思ったのでしょう。

偽の牧師や、偽の弁護士がそんな取引を持ちかけた可能性は否定できない。

ポーランド政府の待遇が良かったとか、連合国をほのめかす記述は死刑が確定する前に書かれた。

これは一種の司法取引である可能性があります。

ヘスは連合国に都合のいい文書を書くことで、死刑を逃れようとした。

しかし、文書が完成した後に死刑が確定し、嘘をつく必要がなくなった。

だから拷問された事実を書き残した!

 「それがさっきのソースね」

 「ただしこれは状況証拠に過ぎない。

木村のソースでは『回顧録』『回想録』がいつ完成したのかが正確にわからないからだ。

だが、それでもヘス証言は信用できない。

その最大の理由は証言そのものが矛盾だらけだからだよ。

とりあえず簡単な例を出そうか。

まず、先ほど検察は『絶滅計画はモスクワ攻略が失敗した1941年12月以降に決定されたもの』だと言った。

だから外務省の極秘書類とも矛盾がないと言った。

違うか?」

 「そうだ。それがどうした?」

 「すでにこの時点で検察とヘス証言は矛盾が生じている。

検察はヴァンゼー会議が1942年1月20日に行われてそこで絶滅計画が決定されたと主張している。

証人、あなたが絶滅計画の命令を受けたのはいつですか?」

 「1941年6月です」

 「

 「そりゃおかしいな。

決定もしてない命令が半年も前に下されるわけがない」

 「そう。

さっき提出した1942年2月10日外務所の極秘書類がヘス証言の矛盾を暴露しているんだよ。

簡単に嘘だとわかるところはまだあるぜ。

証人、あなたが絶滅計画の命令を受けた1941年6月当時、ドイツの支配下にあった3つ絶滅収容所の名前をもう一度言ってください」

 「この時期にはすでに、ドイツの支配下に3つの絶滅収容所がありました。

すなわち、ベウツェック、トレブリンカ、ヴォウツェックの3つです」

 「証人、ヴォウツェック(Wolzek)とはどこの収容所ですか?」

 「それはドイツの支配下にあった収容所の配置図をみれば――――」

 「わかりませんね。

なぜなら、ヴォルツェック(Wolzek)という名前の収容所は実在しないからですよ」

 「

 「証人、あなたは戦後になってイギリス国籍のユダヤ人、バーナード・クラークに拷問された。

ニュルンベルク裁判で使われた供述書は、拷問によって得られたものだ。

あなたはニュルンベルク裁判で使われた供述書に何が書いてあるかなんて知らないし、あなたが書いたわけじゃないから読むこともできない英語で書かれていた。

ドイツの内部事情に詳しい人間が作ったわけじゃないから、実在しない収容所の名前が書かれていた。

……違いますか?」

 「そ、それは……」

 「弁護側は、ヘスが“Wolzek”という《実在しない》収容所について証言していることを、ヘス証言のデタラメさを示す証拠として槍玉に上げている。

しかし、ヘスの証言全体を慎重に検討すれば、この『Wolzek』が、重要な絶滅収容所の一つでありながらヘス証言ではなぜか言及されていないもの、すなわち『Sobibor』を指していることが分かる。

恐らく、ヘスの記憶違いか、あるいは最初から誤った名前でヘスに報告されていたのだろう。

なぜなら、『ガス室大量殺人』をデッチ上げるためにあらかじめ用意されたシナリオが、ありもしない収容所名を使うほど間抜けなはずがないからだ!」

 「その仮説には根拠がない!

その説を裏付ける証拠を出せ!」

 「……ふん。

ヘスはありもしない絶滅刑務所を一つ挙げることで、証言全体の信用価値を下げようとしたのだ。

連合国がそれに気づいたときは遅かった。

これはヘスの巧妙な罠であり、ヘスのささやかな抵抗と言えよう」

 「……証拠は?」

 「残念ながら無い。これは可能性に過ぎない。

だが、肯定派の主張も同レベルの可能性に過ぎないとだけ言っておこう」

 「……ただの屁理屈のような気がするのはあたしだけ?」

 「なかなか香ばしい香りがする電波だな」

 「そうだろう? これが正義と知性の香りだ」

 「……」

 「言うなればこれは、♪ 偶ぅ〜然が〜 い〜くつもぉ〜 重な〜りあ〜って〜 ♪ できた出来事に過ぎない」

 「なぜ『To Heart』?」

 「ヘスが暴行を受けた。

ヘスの家族が『ヘスは英語が読めない』と証言した。

供述書は英語で書かれていた。

供述書には実在しない収容所の名前が書かれていた。

ただそれだけの偶然が重なっただけに過ぎんのだ」

 「そんな偶然など有り得ない!

 「そうよねぇ…… 偶然とは考えにくいわ」

 「クラークによる拷問は、明らかにヘスの証言が意図的に作られたものである証拠だ。

何せ拷問した本人が自慢しているんだからな。

それにヘス証言が信用できないのは、供述書の出所だけじゃない。

証人、ガス殺のやり方を言ってください」

 「アウシュヴィッツに送られたユダヤ人はガス室に送られました。

ガス室の中に多くのユダヤ人が入れられると、扉を閉めます。

アウシュヴィッツIのクレマIでは、210m2の部屋に2000人が入れられました。

そのあとに天井の穴からチクロンBを落とし、青酸ガスで殺しました」

 参考資料:航空写真と矛盾している12の「目撃証言」 ジョン・ボール著

John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos

(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/air_photo_evidence/ball_02.htm

アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの自白の中のありえない話

大量殺戮についてのもっとも重要な証人であるアウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスは、殴打と眠らせてもらえないという拷問を受けた。1946年4月15日、ニュルンベルク裁判には、彼の署名のある、英語の自白が提出されたが、そこには物理的な不可能な話が数多く含まれている。

ヘス:「私は…、1943年12月1日までアウシュヴィッツ所長でした。その間、少なくとも250万の犠牲者がガス処刑と焼却によって処刑・絶滅されました。」

不可能:250万プラス1943年12月から1944年11月までの150万の10分の1でさえも焼却することは物理的に不可能であったろう。この数字は、1990年に1941−1944年の合計が100万に減らされるまで、公式の数字であった。

ヘス:「私はアウシュヴィッツに絶滅施設を設立したとき、青酸の結晶であるチクロンBを使いました。それは、小さな穴から死の部屋に投入されました。」

不可能:ガス室が存在したとされるビルケナウの地下死体安置室、アウシュヴィッツ1の死体安置室のセメントの屋根には、まったく穴が存在しなかったことが1944年の航空写真でも、1993年の収容所調査でも確証されている。

ヘス:「私たちは、叫び声がやんだとき、人々が死んだことを知りました。普通30分ほど待ってから、ドアを開け、死体を取り除きました。」

不可能:屋根には穴も換気口もない。ひとつのドアがあるだけである。このような条件のもとでは、部屋に入って死体を取り除くことができるようになるには、何時間もかかるであろう。そして、死体が取り除かれるときには、残余ガスが放出されて、作業中の人々を危険にさらすであろう。

 「天井の穴から? それはガス室の天井に穴が空いているということですか?」

 「その通りです。

天井の穴からチクロンBを落とし、すぐにシャッターを閉じて部屋にガスを充満させました。

中に入れられたユダヤ人が死ぬと、同じ穴から換気をして、死体を外へ運ばせました」

 「証人は嘘をついてます。

天井からチクロンBを落とすというやり方は不可能だ」

 「何を根拠に? 証拠はあるのか?」

 「あるさ。

オリジナルの設計図には穴が存在しないんだよ」


アウシュウィッツIの焼却棟Iのオリジナル設計の平面図

  1. 入り口
  2. 死体安置室
  3. 洗浄室
  4. 死体仮置き室(「ガス室」)
  5. 炉室
  6. 石炭貯蔵室
  7. 骨室

『アウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」に関する技術的・化学的考察』 著ゲルマール・ルドルフ
Germar Rudolf, Some Technical and Chemical Considerations about the 'Gas Chambers' of Auschwitz and Birkenau, Ernst Gaus, Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of 'Truth' and memory', (Ed.), Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000 より


1944年に防空シェルターに改築されたのちの、
アウシュウィッツI中央収容所の焼却棟Iの平面図。

  1. 作戦室
  2. 旧洗浄室、今は便所つきの防空シェルター
  3. 防空シェルター
  4. 旧炉室

『アウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」に関する技術的・化学的考察』 著ゲルマール・ルドルフ
Germar Rudolf, Some Technical and Chemical Considerations about the 'Gas Chambers' of Auschwitz and Birkenau, Ernst Gaus, Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of 'Truth' and memory', (Ed.), Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000 より


アウシュウィッツIに現存する焼却棟Iの平面図

  1. 「ガス室」
  2. まがいもののチクロンBの投下ハッチ
  3. トイレの垂直錘
  4. 死体安置室(「ガス室」)と洗浄室(取り除かれている)の前の隔壁
  5. 防空壕換気煙突
  6. 今日では誤って「犠牲者の入り口」と呼ばれている防空壕の気密ドア
  7. 骨室
  8. 石炭燃料
  9. 不適切に再建された炉
  10. 炉室への新しい通路、点線はオリジナルの場所を示している
  11. 古い炉の跡
  12. 建物にはつながっていないまがいものの煙突

『アウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」に関する技術的・化学的考察』 著ゲルマール・ルドルフ

Germar Rudolf, Some Technical and Chemical Considerations about the 'Gas Chambers' of Auschwitz and Birkenau, Ernst Gaus, Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of 'Truth' and 'memory', (Ed.), Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000 より

 「なんだこれは。『アウシュヴィッツ』を『アウシュウィッツ』と表示しているではないか。

なんともいい加減な資料だな」

 「ドイツ語の“w”は唇をかむ音じゃないから、英語の“v”とは違う。

だから、『アウシュヴィッツ』だろうが、『アウシュウィッツ』とだろうがどちらでも間違いとは言えない。

オーストリアの首都は“ウィーン”だ。

クルツだって、クルツ=“ウェーバー”だしな」

 「そう言えば」

 「とにかく、単語の表示違いなど内容には無関係だ。

それより問題なのは、一枚目のオリジナルの設計図のCを見れば、

死体安置室(Leichenkeller)[ライヒェンケラー]」と思いっきり書いてあるってことだ。

ソ連軍がアウシュヴィッツで押収したドイツ側の文書、図面は膨大な数だったが、その中に、処刑用ガス室の設計図は一枚も存在しなかった。

ガス室の設計図なんてものがあれば、とっくの昔にソ連が公表しているから当たり前の話だ。

WW2当時のドイツは公共施設は防空壕として使えるように改造しろという命令が出ていた」

 参考資料:シャーロック・ホームズのガス室――ホロコーストのガス処刑説の文芸学的分析の試み――サミュエル・クロウェル著

Crowell,The Gas Chamber of Sherlock Holmes, An Attempt at a Literary Analysis of the Holocaust Gassing Claim

(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/crowell_01.htm

第13章 強制収容所での民間防衛

強制収容所もかなりの民間防衛施設を備えていた。その理由は三つである。第一に、1940年秋以降の防空シェルター建設のガイドラインは、とくに軍需産業部門で新しく建設される収容所が、(密閉された)防空シェルターを備えていなくてはならないと定めていた[427]。第二に、強制収容所システムは、軍需産業にとって、非常に重要な労働力の源であった[428]。第三に、1943年2月8日のハインリヒ・ヒムラーの指令によると、SSは強制収容所システムへの空爆の可能性についてとくに関心を抱いていた[429]。

強制収容所で発見された主なシェルターは、地面を掘り起こした塹壕のようなものであった[430]。しかし、民間人のあいだでの関心を考慮すると、収容所でも、とくにガス戦にそなえた措置がとられたに違いない。当時の写真や資料をざっと眺めるだけでも、強制収容所で空爆とガスに対する防衛措置が広くとられていたと推論できる。例えば、アウシュヴィッツ所長の住居には、換気パイプとともに、建物の右側に気密シャッター(ブレンデ)が付いている[431]。マイダネクの浴室・害虫駆除施設IIには、様々な場所に防空シェルターのドアが付いており、この施設がガス攻撃を受けたときには、清掃浄化センターとしても使われるとされていたことがわかる[432]。ビルケナウの中央「サウナ」の青写真は、地下室に非常出口を備えていたことを示している。収容所の建物をもっと詳しく分析すれば、防空シェルターとガス気密の証拠がもっと発見されるであろう[433]。

[428] Crowell, loc. cit.

[429] Crowell, loc. cit.

[430] Crowell, loc. cit.

[431] Crowell, loc. cit.

[432] Crowell, loc. cit.

[433]ゲルマール・ルドルフが筆者にコピーをくれた資料は、アーヴィングのサイト、http://www.fpp.co.ukに、翻訳はCODOHのサイト、www.codoh.comにある。

 「防空壕への改造はアウシュヴィッツIの死体安置室も例外じゃなかった。

それが二枚目の図面だ。

死体安置室なのに暖房装置があったり、のぞき穴付きの密閉性ドアの存在はシェルターとして改造されたことを立証するものだ。

だが、三枚目の現存のガス室の配置を見てみれば、明らかに改造がされていることがわかる。

建物につながっていない偽者の煙突、ぶち抜かれた壁。

そして、戦後に改造されたガス室から見れば均等に配置された穴。

なにより、密閉性ゼロの木製のフタ」


 

↑ 左:ガス室内部から見た天井の穴
右:ガス室の屋根から見た天井の穴


 「えーと、ガス室よね。この部屋って」

 「うん、ガス室って密閉性が必要とされるのよね」

 「青酸ガスって猛毒ですよね。たしか……」

 「探せばまだまだあるが、これだけでも『何も手を加えていない』というソ連の発表が嘘だということは誰の目にも明らかだ。

『親衛隊が証拠隠滅のために擬装した』というヤツもいるが、もし本気で証拠隠滅するつもりならば建物を爆破するなり他の方法があったはずだ。

現にガス室として公表されているんじゃ証拠隠滅になってない

ここで弁護側から検察に質問したい。

連合国はナチスはユダヤ人を一日に何千人、何万人と殺していたと言っている。

設計図では死体安置室となっていた場所がガス室だと言っている。

もし、それが事実なら、その殺した死体はどこに置くんだ?

つまり、死体安置室でガス殺があった場合の死体安置室はどこなんだ?」

 「その辺の広場にでも積んでおいたんじゃねえのか?」

 「連合軍の偵察写真に写ってないんだよ、その積んでおいた死体がな。

何千何万の人間の死体があれば当然写真に写ってるだろうし、なにより絶滅計画が極秘で行われていたという連合国の主張と食い違いが起きてしまう。

死体の置き場所が無い大量殺人事件なんてものは、物理的に不可能だ」

 「うーん……」

 「さらに2004年現在のアウシュヴィッツ博物館はアウシュヴィッツIのガス室がオリジナルではないことを認めている。

冷戦時代は『何も手を加えていない』とされてきたガス室が実は観光用に改造されていたという事実はこのガス室が偽物以外の何物でもないことを示している!」

 参考資料:「アウシュヴィッツ国立博物館員ピペル博士へのインタビュー」 著デイヴィッド・コール(両親はユダヤ人)

David Cole, "A Jewish Revisionist's Visit to Auschwitz", JHR 13(2) (1993)

(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/cole_01.htm

ピペル博士は、イスラエルのホロコースト専門家イェフダ・バウアーなどの研究者とともに、アウシュヴィッツの死亡者の数を下方修正したことに直接責任を負うホロコースト専門家の一人です。

(略)

ピペル:最初のそしてもっとも古いガス室は、今私たちのいるアウシュヴィッツI収容所にありました。それは、1941年の秋から1942年12月まで、ほぼ1年間稼動しました。このガス室の近くにある焼却棟は、もっと長く、1943年中頃まで稼動していました。1943年7月、焼却棟は停止し、アウシュヴィッツIで死んだ囚人の死体はビルケナウに運ばれました。1944年、連合軍がアウシュヴィッツを空襲しましたので、アウシュヴィッツのからの焼却棟とガス室は防空シェルターになりました。このとき、以前のガス室内部に壁が付け加えられました。別の入り口がガス室の東側面に作られ、チクロンBガスが内部に送られた天井の穴もそのときに破棄されました。このために、収容所が解放されたとき、以前のガス室は防空シェルターの姿をしていました。初期の姿を再現するために、1944年に作られた内壁は取り除かれ、天井の穴が新たに作られました。ですから、このガス室は1941−1942年に存在したものとよく似ていますが、細部は異なっています。たとえば、ガス気密ドアがありませんし、東側面に付け加えられた入り口は1944年に作られたときのまま残されています。このような修正は、初期の姿を再現するために戦後に行なわれたのです。

コール:天井の穴は同じ場所に作られたのですか。

ピペル:はい。同じ場所です。痕跡が残っていましたから。

ここでピペル博士の話をまとめておきましょう。彼によると、この部屋はガス室だったが、その後、防空シェルターに改造され、そのときに、隔壁が作られ、天井の穴が取り除かれ、ガス室の一つの側面に新しいドアが付け加えられた。収容所が解放された後、隔壁は壊され、穴が天井に作られた。しかし、新しいドアは取り除かれなかったというのです。ここには3つの重要なポイントがあります。その第一は、私たちは明らかなごまかしを見ているということです。すでに明らかにしたように、博物館の関係者はガス室が作り直されたものであることを知っているにもかかわらず、見学者には、ガス室がオリジナルな状態であると説明されているのです。ピペル博士は、戦後に修正が行なわれたという事実にまったく無頓着であるかのようです。しかし、そのことがたいしたことではないとすれば、見学者から隠されているのはなぜなのでしょうか。それだけではありません。1992年5月、イギリスの歴史家アーヴィングは、ミュンヘンでの会議で、たった今ピペル博士が話したのと同じことを口にした罪状でドイツの裁判所から罰金刑の処分を受けました。事実、ピペルは弁護側証人として召喚されていました。しかし、判事は、ピペルの証言がアーヴィングの無実を証明したかもしれないのに、彼の証言を許しませんでした。もう一度言っておきます。このことがたいしたことではないとすると、それを話しただけでなぜ罰金刑といった処分となるのでしょうか。重要な点は、「ガス室」が今のままの状態では証拠として有効ではないということです。ドイツがこの収容所を管理していた戦時中にこの建物の天井には4つの穴が存在し、隔壁も存在しなかったことを明らかにすることができなければ、この「ガス室」は殺人ガス処刑の証拠とはならないのです。私たちの最後のポイント、作り直し問題に移ります。今までの情報から、ガス室の作り直しには二つの異なった見解があるといえます。一つは公式見解で、ソ連とポーランドが、かつてガス室であった防空シェルターに「ガス室」を作ったというものです。修正主義者は、ソ連とポーランドが、かつて防空シェルターであった防空シェルターに「ガス室」を作ったと考えています。どちらが正しいのでしょうか。証拠を提出しなくてはならないのは、この建物にはかつてガス室が存在したと主張している人々の側です。では、彼らはこの説を立証している証拠を持っているでしょうか。私はホロコースト修正主義者として、そのような証拠を目撃したことはないと断言できます。また、建物の屋根にある4つの穴にしても、疑問の余地があり、いかなる航空写真にも写っておりません。

※ デヴィット・コールは1992年1月22日にロサンゼルスのカリフォルニア大学での会合で、ユダヤ人防衛連盟の暴漢たちに襲撃された。ホロコーストを否定するユダヤ人は韓国における親日派のような存在であり、言論の自由を認めないユダヤ人はまさに白い朝鮮人そのものなのである。

 「元の形に復元しましたって…… これじゃ偽物ですって言っているようなものじゃないの?」

 「そうだ

こんな状況でアウシュヴィッツIのガス室が本物だと言っている奴はホロコースト真理教の狂信者か、ホロコースト産業で飯を喰ってる金の亡者のどちらかだ。

結論から言えば、アウシュヴィッツIのガス室は戦後のポーランド共産主義政権によって改造されているため、議論の対象にすべきではないってことだな」

 「弁護人の主張はよくわかりました。

たしかにアウシュヴィッツIは改造された可能性が極めて濃厚、というか改造されたもののようですね」

 「……」

 「アルク検事、何か反論でも」

 「……異議を唱える間に何か思いつくと思ったが、何も思いつかなかった」

 「ってことは異議なしってことだな」

 「じゃあこれでアウシュヴィッツIの話題は終了ね」

 「否! それは違う」

 「何が違うんだ?」

 「ふっふっふ

弁護人の働きは大したものだ。

だが、今の説ではアウシュヴィッツIのガス室が改造されたものであることだけしか立証していない。

アウシュヴィッツ博物館は『ガス室を捏造した』とは言っていない。

『ガス室を復元した』と言っているだけではないか」

 「そんな苦しい言い訳はとても信じられんぞ。

だいたいあの木製のフタはなんだ? 木製のフタのガス室など危険すぎて使い物にならん」

 「使い物にならんだと?

ふんッ 笑えるジョークだな ネオナチ。

専門家でもないくせにそんなデタラメを言うとはいい度胸だ。木の板にタールでシールすればなんとか使えんこともあるまい。

実際、消毒用ガス室の扉は木の板にフェルト片をシールしたものだったのだ。鉄が軍事優先で貴重だったからな」

 「むぅ……実際に……消毒用ガス室で使ってたなら使えんこともないか」

 「アウシュヴィッツIのガス室が偽者って根拠は設計図や戦後に改造されたことだけじゃないぞ。

現在の天井には穴が開いているが、これは戦後に開けられた穴だとはアウシュヴィッツ博物館が認めている。

では、戦時中に開いていた穴はどこだ?」

 「そんなの見ればわかるじゃないの。

コンクリートの屋根に穴が開いてたんならセメントで埋めたでしょうし、そんなの周りと色が違うから見ればわかるわよ」

 「それが見てもわからんのだ。

お前の言う通り、コンクリートの穴をセメントで埋めたなら色が違うから一発でわかるはずなんだ。

まったく痕跡を残さずに穴を埋めるというのは非常に難しい。

ところが問題の天井には現在ある穴の他に穴が開いていた形跡がない」

 「ならば結論は一つではないか。

SSは一度埋めた穴をもう一度ポーランド人が開けたのだ」

 「だが今ある穴には鉄骨が残ってるんだぞ。

殺人ガスを作るなら投下穴には鉄骨なんて残さないだろうし、今ある穴は現在のガス室から見れば均等な位置に開けられているが、最初の死体安置室からみれば不均等に開けられている。

もしも本当に戦時中からあったら逆だろ。穴は最初の死体安置室から見れば均等な位置じゃないとおかしい」

 「それは状況証拠に過ぎんな! 最初の死体安置室から見て不均等な位置で穴が開いてたとすれば問題ない話だ。

SSはたまたま不均等に位置した投下穴をつけたのだ」

 「アウシュヴィッツIのガス室には換気装置がなかった。

これはアウシュヴィッツ博物館館長ピペル博士も認めている。

ヘス証言によれば中の囚人が死んでから30分後にドアを開けたとあるが、換気装置がないんじゃドアを開けたら毒ガスが外へ漏れてしまうぞ。

換気装置のないガス室なんて有り得ない!

 「それも貴様の思い込みだ!

換気装置のないガス室があったことは事実なのだ。技術的な問題は検証してはならない。

それは事実だからあったのだ。

換気装置のない殺人ガス室は有り得たのだ!」

 「……戦後に改造した上、換気装置がないガス室が証拠になるわけねぇだろ……」

 参考資料:ルドルフ報告 著:ゲルマール・ルドルフ

(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_report/05auschwitz.htm

死体安置室を、窓、外部ドア、強制換気装置なしで使うのは考えられないが、私の知るかぎりでは、この死体安置室に換気システムを設置したという資料はまったく存在しない。死体仮置き室はのちに、「ガス室」として使うように改築されたといわれてきた。のちに、殺人ガス処刑目的で、チクロンBを室内に投下するために、3つか4つのハッチが屋根に、および強力な換気扇の設置のためにさらに1つか2つのハッチが開けられたという。[163] しかし、アウシュヴィッツ博物館長ピペルは、次のような見解である。[164]

「焼却棟Iにはまったく換気装置がなかった。ドアが開かれ、ガスは対流によって排出された。」

プレサックは、解放直後にソ連側が撮影した焼却棟の屋根の写真を掲載している。そこでは、屋根フェルトのうえの3つの黒い点が、チクロンBの投入穴のくぼみであったという。[163]、[165] しかし、彼の著作に掲載されている写真は、何かを識別するには質が悪く、まして、建築上・技術上の結論を下せるような素材ではない。だから、プレサックの憶測には根拠がない。

1944年秋、焼却棟は防空シェルターに改築された。建物の変更、とくに、薄い隔壁を厚い壁と取り替えたことは図22から見てとることができる。[166]

それが存在していたと推定する場合に限るが、チクロンBの投入穴と換気穴はふさがれたという。この改築作業は、資料の中で、細かく記述されている。[167] 屋根にあけられていた古い穴をふさぐことはまったく言及されていない。むしろ、ガス気密窓とドアおよび新しい穴を開けることが言及されている。

「ガス気密ドア、窓シャッター、窓の設置、暖房炉、および換気出口、吸入穴、パイプのために石壁に開口部を作ること。」

このことは、この時期以前には、ガス気密ドアや窓、換気装置のための開口部、その他の目的の開口部(チクロンBの投入穴)が存在しなかったことを強く示唆している。もし存在していたとすれば、古い開口部がこれらの目的のために使われたであろうし、もしくは、それらをふさぐことが言及されていたはずであろう。

(中略)

少なくとも、天井、外壁、ならびに土台だけはオリジナルの状態を保っていることについては異論はないであろう。もしも、チクロンBの投入穴と換気穴が強化コンクリートの屋根に存在していたとすれば、内部から、強化コンクリートの亀裂に対応する場所に見ることができるであろう。これらの亀裂を消し去っても、何らかの痕跡が残るはずだからである。しかし、今日現存しているチクロンBの投下穴以外には、屋根に穴が存在していたことを示すものはまったくない。それゆえ、別の場所に存在していたとされる穴は存在していなかったのである。

図24、25:アウシュヴィッツ中央収容所の焼却棟Iの死体安置室の内部天井にある崩壊現象。50年以上経過して、表面の近くにある鉄筋が錆びていき、それがコンクリートに亀裂を生じさせ始めた。博物館当局は一時的に、これらの穴(右側)に漆喰を塗ろうとしたが、無駄であろう。

今日でも見ることのできるコンクリートの穴は漆喰を塗られていないし、切断された鉄筋の残りも専門的なやり方では取り除かれていない。穴には、木製の枠が取り付けられ、タールでシールされている。このようなやっつけ仕事は、毒ガス処理という、細心の注意を必要とする仕事にふさわしくないし、ドイツ的な熟練技能にもあてはまらない。

もしも、戦時中にSSがコンクリートを穿って、穴を開けたとすれば、チクロンBを均等に室内に配分するように、オリジナル(!)の死体安置室(「ガス室」)の天井に、これらの穴を均等に配置するはずであろう(図21と23を参照)。しかしながら、現存の投下穴の配置が意味を持つのは、戦後に「博物館目的のために」偽りの寸法で「作り直された」もの(B. Bailer-Galanda)[169]のためにとくに作られた場合だけなのである。このことは、ソ連人かポーランド人が以前の防空シェルターの内壁を壊したのちに、これらの穴が穿たれたという説に対する強力な状況証拠である。また、今日見ることのできる投下穴は、ふさがれたとされるそれ以前の穴の痕跡をまったく参考にせず、戦後に作られたものであると推定することにも異論がないが、この事実は、ソ連人かポーランド人が以前の防空シェルターの内壁を壊したのちに、これらの穴が穿たれたという説を確証している。[174]

 「これ以上の議論は時間の無駄だな。

アウシュヴィッツIはここまでとしよう。

ビルケナウでは議論の余地なくガス殺を証明してお見せする。

判事、次のお題に移ってくれ」

 「子供を殺さないで! 以上!」

2006/12/15 AFP/MAHMUD HAMS

(アドレス:http://www.afpbb.com/article/1174867

パレスチナ人の子どもたちがヨルダン川西岸(West Bank)およびガザ地区(Gaza Strip)で14日、11日にガザ市(Gaza City)で幼い兄弟3人が犠牲となった車両銃撃事件に抗議するデモが3日目を迎えた。一方、パレスチナ自治政府与党のイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)を率いるイスマイル・ハニヤ(Ismail Haniya)首相は15日、穏健派マハムード・アッバス(Mahmud Abbas)自治政府議長率いるファタハ(Fatah)との緊張の高まりを受け、イスラム諸国歴訪を切り上げてガザ地区に戻った。写真はガザ市で14日、「子どもを殺さないで」と書かれたプラカードを手にデモに参加する少女。