2003年5月11日
アメリカ政府は、彼らが目下国際テロリズムと呼ぶものに対する世界戦争状態にあると認識している。彼らによればサダム・フセインはアメリカを脅かす大量破壊兵器を所持しており、それが理由でイラクに対する戦争を開始した。しかし現在にいたるまでアメリカは、大量破壊兵器所持というこの告発を裏づける確かな証拠は一つも提示していない。ただ胡散臭いデモンストレーションを繰り返してきただけである。
ホワイトハウスだけでなく、ジョージ・W・ブッシュやトニー・ブレアに口裏を合わせて、サダム・フセインが大量破壊兵器を所持していると我々に納得させようとしてきた国際社会は、証拠を見せられずにさぞ窮地に立たされているだろうと想像する観察者もいる。だが、それは見当違いだ。彼らは戦争プロパガンダの歴史を知らないのだ。このテーマに関しては、是非、歴史見直し主義者の意見を求めるべきである。まさに手掛かりも証拠も見つからないからこそ、大部分の世論は、こうした兵器の存在を信じるのだということが、学び取れるはずだ。
ここで魔女裁判や、通称〈ナチス戦争犯罪者〉なる人々に対する裁判、また歴史見直し主義者に対する裁判を思い起こしてみよう。
その昔、特に1450年から1650年に掛けて、そして18世紀の終わり頃にいたるまで、宗教裁判や大学の学者達の一部は、女体には悪魔と性交したことを証明する痕跡の確認できる部位が六十箇所あると主張してきた。一方、別の裁判や、やや学識に劣る者達によれば、前述の専門家らの教示する詳細な手がかりが存在するものの、実際に女性が悪魔と交わったことを最も良く証明するのは、悪魔がその行為のあらゆる痕跡を消し去った場合だそうだ。それでこそ悪魔の所業というものだと、彼らは言う。
これとそっくりの現象が、二十世紀、ナチスのガス室やユダヤ人虐殺政策と言われるものについて審議される際に観察されてきたのである。特に1945〜1946年のニュルンベルク裁判というスペクタクルにおいて、また(今日なお法的追及されている!)〈元収容所守衛〉〈戦争犯罪者〉〈占領軍協力者〉に対する飽くなき裁判において、そして歴史見直し主義者達に対して起こされてきた訴訟において。当初、学識者達は、証拠や証言がふんだんに存在するのだから、これは〈公知の事実〉だと主張すれば事足りると見込んでいた(ニュルンベルク国際軍事裁判の規定第二十一条)。また、さすがにこれらを実証することを試みた学者もいる。ところがその結果、発見できるものと言えば、〈証拠の兆し〉やら、眉唾な証言ばかりであることを、学者自身が打ち明けざるを得ない羽目に陥ったのだ(例えばアウシュヴィッツのガス室について英語の大著を記したジャン=クロード・プレサックや、このテーマについて二冊の本を書いたロベルト=ヤン・ファン・ペルトなどがそうだ)。
とうとう最も狡賢い連中は、次のように開き直る道を選んだ:「ナチスが敗戦時にガス室をすべて破壊し、証人を全員機械的に抹殺してしまったことは誰もが知っている事実です!」この宣言はシモーヌ・ヴェイユの口から出たものだ(『フランス・ソワール・マガジーヌ』一九八三年五月七日、四十七頁)。ヒトラーがその計り知れない犯罪の痕跡を微塵でも後世に残していようものなら、もはやそれはヒトラーとは言えないのだと、シモーヌ・ヴェイユは私達の頭に叩き込んだのだ。そんなわけだから、ヒトラーという新しい悪魔は、数百万もの書類を後世に残したのにも拘わらず、その中には、ユダヤ人の殺戮を命令する書類一つなければ、数百万のユダヤ人を抹殺するための計画書もない(ベルリン・ヴァンゼーで開催された会議の議事録も含めて)、ユダヤ人を物理的に抹消しなければならないという指示書も(〈アインザッツ・グルッペン〉に関する書類も含めて)、これほど大掛かりな計画に関する予算もなければ、たった一台のガス室付きトラック、あるいは実物のガス室も残さなかったのである。見つかるものと言えば、戦後に〈再現〉されたポトムキン製のガス室もどきばかりである。
このような状況のなかで、ついには大御所中の大御所、ラウル・ヒルバーグという名のユダヤ人師匠さえもが絶望のあまり、この空前の虐殺政策は、「膨大な官僚網の中の、信じ難い以心伝心によって実施されたのである」と説明しはじめた始末である。もちろんドイツ人官僚の話だ!
それだけではない。アドルフ・ヒトラーとは、悪魔その人を上回る悪魔なのだ。だから彼は、悪行の痕跡をことごとく消し去っただけでは足らず、世間を徹底的に騙すために、まるで自分は一度たりともユダヤ人を絶滅させようと思ったことなどなかったかのように思わせるための証拠さえ残していったのである。
そのうちの例を三つだけ挙げよう。まずヒトラーは、数百万人ものユダヤ人に、戦争を生き延びることを許しているのだ。第二に、ヒトラーは「ヨーロッパのユダヤ人問題」を解決するために、「地理的な最終解決策」しか念頭に置いていなかった(マダガスカル計画や同種の他の計画)ことを証明する資料が実在する。そして第三に、ヒトラー政権下の軍事裁判は、ユダヤ人を殺害したドイツ人を銃殺刑に処していた。例はその他まだまだある。そして「魔法のガス室」について言えば、ヒトラーはそれらを跡形なく消滅させることに成功したため、「ガス室を見せてくれ」とか、少なくともそれを「絵に描いてくれ」と歴史見直し主義者が求めても、誰一人それに答えられない状態になってしまったのである。どのようにこのガス室という化学的屠殺場で、シアン化ガスに高濃度汚染した(つまり触ることが不可能の)何万もの死体を、執行人達が中毒を起こさずに片付けることができたのか、その機能についても誰一人説明できない。このように、ユダヤ人達がヒトラーの悪行を告発しても、その告発の根拠を実証することが彼らには不可能な状況を後世に残したことこそが、ヒトラーの悪魔的性質を完璧に実証しているというわけである。
二十一世紀が幕開けした今日、ふたたび同じ手が我々に対して使われているように見受けられる。サダム・フセインの大量破壊兵器の件だ。ここで私が「見受けられる」と断ったのは、その規模の差をはっきりさせる必要があるからだ。というのも悪魔との性交が物理的に不可能、ナチスのガス室が化学的に実現不可能であるのに対して、サダム・フセインが所持する恐ろしい兵器の方は、物理的にも化学的にも、基本的に製造可能だからだ。その証拠に、アリエル・シャロンを筆頭にフセインを糾弾する張本人達が、同じ兵器を〈大量抑止兵器〉という無害な名で無数に所有している。
戦争国の権力者とは誰もが、サダム・フセインであろうと、G・W・ブッシュであろうと、あり得ないような乱暴な嘘をつくものである。一国を戦争に巻き込み、好戦気運を維持し、さらには事後、軍事行動を正当化するために、民衆に対して唯一効果的に語りかけるのは、古き良き大嘘だけだからだ。変に手の込んだ新種の嘘では力不足なのだ。民衆の怒りと闘志を掻き立て、闘いに身も心も投じたいと、一時的であろうと思わせるように操作するためには、マニュアルがある。大衆を扱い馴れた政治家は、「単純化」の効能をよく知っている。なによりも単純なテーマを念仏のように繰り返すに尽きるのだ。「みなさんを愛してます! わたしたちにも愛をください!」だとか、「わたしは正義の味方、あなたも正義の味方、あの人たちは悪魔!」といった類である。そのうえテレビに「神は愛です! 神はわたしたちとともにあります! 悪者は神に罰せられます!」と宣教を繰り返させる。
平凡な詐欺の一番の武器は、騙す手口の凝り具合ではない。騙す相手が自分に対して好感を抱くように接近し、単純極まりない議論をもちかけることにある。戦争国を見ると必ず、こうした詐欺師や政治家、テレビ宣教者の手口である特徴が確認できる。この点において、二十世紀の最も狡猾な好戦家はフランクリン・D・ルーズヴェルトだった。ブッシュ・ジュニアはそれを上回るだろうか?
完全犯罪は、いかなる痕跡も証拠も残さない。同様に“完全な”断罪は、いかなる確かな証拠にも依拠しない。戦争プロパガンダ屋はそれを承知している。敵国の残虐性をお定まりの物語を使って広めれば十分なのだ。敵国は日がな一日赤ん坊の殺戮に明け暮れ、目に見えない透明兵器を使い、集団埋葬場と隣り合わせの死体工場を操業している連中だと流行らせればいい。確かな証拠などいらない。むしろ「それらしき痕跡」だとか「証言」、あるいは詳細不明の「ソース」を添える程度の方が、人々はころりと信じるのだ。確かな物理的証拠が却ってイマジネーションや情熱のジャマになるのに対して、「それらしき痕跡」は想像力を刺激するからだ。
人々の感受性に訴える「証言」も大切だ。涙ながらのもの、証言者が途中で卒倒などすれば(イスラエル人証人の十八番)とりわけ効果満点だ。なんの根拠もないステレオタイプな中傷の方が、物的証拠に固められた詳細な告発よりも遙かに有効なのだ。
最も好まれるのは、本物の写真に嘘のコメントを添える手である。写っているのはただの死んだ人間なのに、コメントによってそれが「殺された」「虐殺された」「粛清された」人々ということになる。
また最も好まれる証人は、犯罪についてやたらにこと細かな細部をうやむやに喋りたてる者である。彼を信用する人は、ファンタジーの赴くままに現場の様子を想像し、好きなように犯行を再構築することができる。そしてまるで魔法の絨毯に乗ったようにアウシュヴィッツに行ったり、ティミソアラに行ったり、あるいは、ブッシュ父によればイラク兵が1991年にクウェート人の赤ん坊の保育器の電線を切断したというクウェート・シティの病院に飛んで行ったりできる。こうした証人を目にし、その語りに耳を傾ける人々は、うっとりと同情心に浸り、それを堪能する。残虐なスペクタクルに対する抗し難い趣味が満たされるだけでない。憎悪すべき敵を必要とする欲求、善行を果たしたいという欲求も同時に満足される。そうして賢明なプロパガンダ屋は、騙す相手に、自分が個人的な自由を享受しているという幻想を抱かせることを怠らない。
大衆というのは単純なものだ。彼等の単純な精神がいかに初歩的な理論に喜び、とりわけ堂々巡りの理論に魅惑されるものかは、断っても断りきれない。大衆に、ある人物がいかに悪者かを納得させるためには、それはその人物が悪者だからだと言えば充分なのだ。その証拠に、彼はあなたを嫌っている。だから彼は悪者なのだ。あなたを嫌う彼は実に野蛮だ。野蛮なその彼は、あなたと違うものの見方をする。だから彼は野蛮で悪者で、違う世界の住民だ。彼の世界はあなたのものよりもレベルが低い。何故なら、あなたの世界はずっとレベルが高いからだ。何しろあなたは善人なのだから。そのあなたの敵はだから悪人に決まっている。こうして理論の環は閉じられる。完璧な理論だ。これ以外の余計な証拠はいらない。アンリ四世の白馬は、色が白いから白馬なのだし、ヒトラーが行なった虐殺が技術的にどのように可能だったのかを問う必要などないのだ。
「ヒトラーの行なった虐殺は、それが行なわれたのだから可能だったに決まっているのだ。」
この信じ難いような妄言は、1978〜79年に、レオン・ポリアコフ、ピエール・ヴィダル=ナケ、フェルナン・ブローデル他三十余名のフランスの歴史家達が共同宣言したものである。世間で言われているユダヤ人のガス殺が、技術的にどのように可能であったのかを是非説明して欲しいと、私が投げかけたことに対する返答だった(『ル・モンド』紙、一九七九年二月二十一日、二十三頁)。
また、サダム・フセインの大量破壊兵器の方は、イラクで見つからないのなら、シリアかどこかにあるのだろう。いや、イランか。あるいは月面か……。神のみぞ知る。だがそんなことは関係ない。大衆は忘れるのが速い。嘘つきに責任を求めたりはしないだろう。兵器が実在しようがしまいが、証拠があろうがなかろうが、敗戦国の犯罪は犯罪に変わりなく、敗戦者は犯罪者なのである。
堂々巡りの論法は、単純な脳のスパイラルにぴったりとはまる。まさに”LOVE”する。爬虫類のものであろうがなかろうが、脳みそというものは柔らかい、スポンジ状の不定形のものではないか。心臓は、我々の意識に関係なく、吸収しては吐き出すポンプの作用を繰り返すものではないか。怠惰とは心地よいものではないか。思考は骨が折れるものではないか。そして記憶する努力とは疲れるものではないか。この消費社会においては、与えられるがままにすべて受け入れ、吸収しては吐き出し、満腹し、脳に無を詰め込んで、「ウィナー・キラー」組に歩調を合わせながら、充分に善人気分でいられるというのに、何をそんな苦労をする必要があるのだろうか。
アメリカの指導者とは昔から、微妙なニュアンスやディテールに大して気を使ったことはなかった。少なくとも1898年以来、その絶え間ない軍事侵略行為を正当化するために、同じ口実を使ってきた。何故新しいものを使う必要があるだろう。アメリカン・ボウイらが第二次世界大戦、ベトナム戦争他、数十の軍事侵略でしでかしてきた残虐行為の山をまんまと見事に隠蔽することができたこの手を、何故いまさら変える必要があるのだろう。同じ詐欺の手口は、ニュルンベルク裁判という一大スペクタクルを正当化するために使われ、ユダヤ系アメリカ人がそのチャンピオンであるあの醜いホロコースティック・プロパガンダの中に見出される。
サダム・フセインの大量破壊兵器という御伽噺を濫用した今回の戦争プロパガンダもまた、ホワイトハウスとその黒幕ユダヤ・イスラエル勢力による、まったく同じ古臭い手口のリサイクルに過ぎないのだ。ちなみにサダム・フセインは、いざという時に、この大量破壊兵器を使用することを忘れたようである。第二次イラク戦争では、アメリカはすべての分野での技術進歩を証明したが、唯一これまでとまったく変わらなかったのは、敵国の残虐性と、それに対するアメリカ兵の武勇に関する作り話だった。プロパガンダはその形こそ変えたものの、中身は昔のままだった。おまけとして、我々はサダム・フセインの六人いると言われながら一人として見つからなかった影武者物語と、ジェシカ・リンチなる少女の救助という何から何までフィクションの英雄談にもありつかせていただけた。
歴史見直し主義者にとっては幸運である。次の世界大戦での検証の仕事は実に楽だろう。必ずや戦争プロパガンダには同じ手が使われるからだ。第一次大戦の大詐欺についてはジャン・ノルトン=クリュが、第二次大戦のものについてはポール・ラッシニエが、我々に詳細を書き残してくれたが、ある意味では二人は、すでに第三次世界大戦についても説明してくれたことになるわけだ。二人の著書を読めば充分である。二人はあらかじめ、ブッシュ父、ブッシュ息子、ブレア、そしてシャロンの腹黒い嘘のいわば目録を作成してくれているのだ。
第三次世界大戦は、過去の二つのものに比べて多くの分野で進歩し、まったく異なる性格のものとなるだろう。しかし、残虐物語の上に立つプロパガンダの伝統のみは、きっと守られ続ける。そして乱暴で傲慢極まりないその嘘によって、経験が明らかにしてきた事実は再び実証されるだろう。戦意が高まる中で大衆がもっとも容易に信じるのは、たいした証拠もないまま行なわれる敵国に対する糾弾である、という事実だ。確かな証拠がない代わりに、アメリカは、狡猾な人心操作の専門家であるスピンドクター達がこしらえる合成写真、パウエルが披露して見せたような、カメラの前でイラク製の毒が入っているという試験管を振り回すたぐいの猿芝居、あるいはホロコースト・ビジネスとホロコースト産業が伝統的な得意芸としてきているハリウッド映画による卑劣な演出の力を借り続けるだろう。
第三次世界大戦に歴史見直し主義的方法論を適用することには、こうしたインチキを暴きやすくするという利点が少なくともあるわけだ。