ドイツは、ユダヤ問題に対する地理的解決案を幾つも検討した後(例えば実現不可能という結論に達した〈マダガスカル計画〉など)、ヨーロッパのユダヤ人をアメリカとイギリスに引き渡す用意をしていた。ただしそのためには、両国がユダヤ人移住者を戦争が終了するまで自国内にとどめ、「気高く勇敢なアラブ民族」に迷惑をかけないよう、パレスチナに移住させないことが条件だった。
例えば1944年には、ヨアヒム・リーベントロップの率いるドイツ外務省は、イギリス政府に、五千人の〈非アーリア人〉(ポーランド、リトアニア、ラトヴィア出身で、85%が子供、15%は大人の引率者)を引き渡す用意があること、しかし終戦まで、パレスチナと中近東以外のイギリス帝国内(例えばカナダ)に彼等を居住させる保証が条件であることを通知していた。
(ニュルンベルク書類NG−1794、エーバーハート・フォン・タッデン、1944年4月29日、5月5日、ワーグナー、1944年7月29日参照。軍事法廷元補佐官ヘンリー・モンネレイ『ニュルンベルクに提示されるヨーロッパ東部のユダヤ人迫害』、パリ、現代ユダヤ資料センター出版、1949年、168〜169ページ参照)
1945年1月15日、ハインリッヒ・ヒムラーはシュヴァルツヴァルトのバード・ヴィルバードで、再度〈ユダヤ民族の運命の改善〉について話し合うためにアメリカの要望により訪れたスイス連邦元大統領ジャン=マリー・ムジーと面会した。裏工作はすでにある一点において効果を発揮していたことがわかる。それまでは他の捕虜と同様、重労働に従事させられていたユダヤ人達は、〈重労働〉から外され、〈通常の労働〉のみに従事させられることになったのだ。この面会に関する覚書のなかで、ヒムラーは次のように言及している。
「私は再び自分の立場を詳説した。我々はユダヤ人を労働に従事させており、無論それは、道路や運河の建設、炭鉱労働など苛酷なものも含む。こうした労働における彼等の死亡率は高い。しかしユダヤ人の運命の改善についての話し合いが始って以来、彼等は通常の労働に従事することになっていた。しかし彼等が、その他のドイツ人と同様、軍事工場で働かなければいけないことは自明である。我々のユダヤ人問題に対する立場は次の通りである。アメリカとイギリスがユダヤ人に対してどのような立場を取っているかは、我々にはまったく関心はない。明白なのは、我々がユダヤ人の存在をドイツ国内、またドイツ人の生活圏内に望まないことである。その理由は、[第一次]世界大戦後の数十年間に我々が体験したことによる。そしてこの件に関しては我々はいかなる話し合いにも応じない。アメリカがユダヤ人を引き受けるつもりがあるのならば、我々にとっては喜ばしい限りだ。しかしながら、我々がスイスを通して大陸ヨーロッパから出国させるユダヤ人が決してパレスチナに移送されることがないことが条件であり、このことについては我々に保証の提示されることを要求する。我々はアラブ民族が、我々ドイツ人と同様にユダヤ人を拒否していることを知っており、ユダヤ人に苦しめられているこの哀れな民族に新たなユダヤ人を押し付けるような卑劣な行為を行なうつもりは毛頭ない。」
(ベルリンUS資料センター保存資料より。ヴェルナー・マーザー『ニュルンベルク、勝者の法廷』、ミュンヘン・チューリッヒ、ドレーマー・クナウアー、1979年、262〜263ページ参照)