「私はドイツ、イタリアと通常の信頼関係を築きたい。この戦争後欧州は新たに生まれ変わるだろう(……)この新たな欧州を築くためにドイツは大変な犠牲を払い途方もない闘いを進めている(……)ドイツが勝利しなければ全欧州は共産主義者の手に落ちるだろう(……)」(ピエール・ラヴァル仏首相、1942年)
フォリソンは学校でラヴァル首相のラジオ演説を聞いた時、根っからの反独主義者だったために憤怒して学校の机にカッターで「ラヴァルに死を!」と刻みつけた。
フォリソンがいたずらをした机をその後使うことになった子供達も、その両親も、また今日我々自身も、全欧州が共産主義者の手に落ちずに済んだのは何百万というドイツの青年達が命を賭けたおかげであることを今もまるで知らずにいる。フォリソンの同級生に彼が反独主義であるのと同じくらいに親独主義の子がいたが、独軍の旗色が悪くなった途端フォリソンに握手を求め仲直りを求めた。フォリソンは人間の卑劣さと良識による日和見主義が証明されるのを目の当たりにする思いがした。あっさり寝返りをした同級生との対極が、仏と国家主義ドイツとの仲介役だったジャン=エロルド・パキというジャーナリストで、1937年にはスペイン内戦にフランコ軍側で参戦した。卑劣でも良識的でもなかったパキは自らの信念に命を賭け、45年仏レジスタンス政府に逮捕、死刑宣告され銃殺された。
待ち望んだ連合軍によるフランスの「解放」を実体験した青年フォリソンは動揺する。ラヴァルは望みどおり殺害された。それも普通のやり方ではない。腸の洗浄を受けた後監獄の中庭で椅子に座らせられ適当な裁判だけでその場で銃殺。共和国特有のリンチ死刑だった。
祖国「解放」とラヴァルの死に満足できるはずの青年フォリソンの不安はむしろ募る。もし自分の見解が完全には正しくなかったのだとしたら? 反独感情をフォリソンに伝播したのはスコットランド人の母親だったが、ペタン元帥すらが死刑宣告されると「今になってペタンが理解できる気がする」とこぼした。
特に待ち望んだアメリカ軍が到着すると、ドイツ軍との差がフォリソンを驚愕させた。1944年フランスに上陸した米軍は、1940〜41年にフランスに進軍したドイツ軍とは比べものにならないくらい占領者顔をし、占領者風を吹かせた。ドイツ軍の規律正しい軍隊とは似ても似つかない野良犬の群を思わせた。
フォリソンは二つの体験を比べる。44年酔っ払ったフランス人が夜道でドイツ人将校に絡むのを目にした。将校は “はいはい、戦争とは酷いものですね”となだめそっと立ち去った。同年秋、米兵が怖いという女性を夜家まで送る途中実際に酔っ払った米兵に暴行を受けそうになり、なんとか振り切って逃げた。
酔っ払った軍人が市民の女性に絡むなどドイツ占領時代にはまず考えられなかったとフォリソンは振り返る。こうしたエピソードは我々がハリウッド映画で刷り込まれたイメージと正反対であることも興味深いが、何よりもこうした体験を重ねていった青年フォリソンの心境の変化が面白い。
1945年5月8日、勝利の祝いを耳にした時に私は初めてドイツ国民の悲劇に思いを寄せた。(……)後年この宿命的な5月8日の意味を整理しようとしていた時、私は戦勝者ではなく敗戦者のドイツこそが英雄的叙事詩を生きたのだということを理解した。叙事詩とは敗者にしかあり得ないからだ。
青年の成長と人の運命とは面白い(……)地球規模の巨大勢力に対してたった一人で悲愴に立ち向かったフォリソン教授の闘いの原点はこの時生まれたのだろう。この時から彼の思いは唯一つ。敵は一度破れば充分だ。勝利の後は敵愾心を捨て、敗者に対して公正と真実を持って対応しなければならない。
1948年10月モーリス・バルデシュが『ニュルンベルク、または約束の地』を自費出版し、一年の禁固刑の判決を受ける。この呪われた本を入手したフォリソンは啓示のようなものを受ける。本の冒頭は「私はドイツを弁護するのではない。真実を弁護するのだ(……)」である。
師範学校出身の文学者でソルボンヌ及びリール大学教授だったモーリス・バルデシュがスタンダールの心理分析からニュルンベルク裁判議事録の分析に移行していったように、フォリソンはランボーの詩の分析からアウシュヴィッツ強制収容所の現場分析に移行していくことになる。
戦後の反独プロパガンダが吹き荒れる最中、バルデシュはニュルンベルク裁判とは新世界秩序の幕開けを意味し、すべての国境と人種を抹消する新たな世界宗教を築き、人間をどれも均一な人型に変え、国家も祖国もない新たな“約束の土地”を到来させるための箱舟だと告発したのである。
ニュルンベルク裁判の被告席にアイゼンハワー将軍、ロソコフスキー元帥、それに我がドゴール将軍が召喚されることがあれば初めて私は戦争犯罪を裁く公正な裁判の存在を信じるだろう。彼らは少なくともカイテルやヨードルよりも多くの残虐行為の直接責任者である。
私は戦争報道記者の行なう報告を信じなくて良い権利を要求する。敵軍の“残虐行為”なるものに憤怒する前にまず考えることを許される権利を要求する。
1948年出版の本書には無論誤りもある。例えばバルデシュはモスクワとニューヨークが一枚のコインの裏表であることは見抜いていなかった。(……)1917年以来、いやそれ以前から周知の通りモスクワとはニューヨークが人工的に造った案山子に過ぎない。不要となるとあっさり潰された。
(以下は、ブリニョー氏が参考にされたフォリソン教授の回顧録の一部です)
私がドイツ人とその協力者達の論拠を理解できるようになったのは戦後ずっと経ってからだった。彼らは共産主義及びテロリズムと闘ったのだ。共産主義とは常にテロリズムであり、テロリズムは常に共産主義だった。1943年2月スターリングラードでドイツ軍がソ連軍に破れていたら、ソ連軍は1945年ベルリンに留まることをせず、フランスに侵攻し、パリを占領し、私達は共産主義政権下で生きることになっていたはずだ。このことについてアメリカ人はどう思うだろうか?
私はある時ユダヤ人の哲学の先生に“ゲーテ、カント、ヘーゲルの国ドイツがあんなことをしたとは酷いと思わないか?”と言われた。確かガス室と口にしたと思う。当時は私は“酷いです”と答えた。今なら、“先生、ドイツ人がそんなことをしなかったのは明白です”と答えるだろう。
戦争中は根っからのドイツ嫌いだった母は、戦後ペタンが断罪された時になって初めて“今になってペタンの気持ちがわかったわ。私は彼の味方よ”と言った。父は“ドイツ人達は悲しげに戦争をする。彼らは悲しい民族なんだ”と話していた。
父は正しかったと思う。アメリカ軍が来て初めて私は陽気な兵士というものを見た。ドイツ兵やドイツ人将校は常に礼儀正しく、気品のある人が多かった。ドイツ兵は音楽を愛し、よくクラシック音楽を演奏していた。
アメリカ兵はちんぴらのように振舞う者が多かったし、よく酔っ払っていた。私は酔っ払ったドイツ兵を見たことがない。
1944年9月、オルレアン近郊で夜十時頃私は女性に家まで付いて来てと頼まれた。不良アメリカ兵が多くて怖いからだと。不幸にも本当にアメリカ兵に遭遇し、女性は暴行されそうになったが、私が米兵を押し倒している間に女性は家に逃げ帰ることができた。
ドイツ占領下のフランスで、ドイツ兵はフランス人市民にとても礼儀正しかった。レジスタンス(つまりはテロリストのようなものだが)がドイツ兵を襲撃した後も、市民に復讐をすることなどなかった。強姦、殺人、盗難を犯したドイツ兵が自国の法廷に断罪された書類を多く目にした。
ドイツ占領下のフランスでのドイツ兵は、アメリカ軍が敗戦後ドイツで行なったようなことは一切行なわなかった。