ティース・クリストファーセン著
出版:1973年1月1日
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法廷弁護士
初版はDie Auschwitz-Lügeという題名で1973年にドイツで刊行された
5つの言語で100,000刷以上刷られた!
1974年の英訳初版の題名はThe Auschwitz Lie
完全復刻版にして補足付新版は1979年8月だ
「法廷弁護士」マンフレッド・ローダー著
「神のため、政略と結びつくことなく卑猥な表現や道徳低下に対して戦い続けることはできないだろうか。何故君は過去にそこまで拘るのか。確実に、君は民族社会主義を正当化したり過去のその犯罪を否定したりはしたくないだろう?」私が初めてアウシュヴィッツという言葉と恐怖の宣伝戦との結びつきに言及した後、親友たちでさえこのような嘆願の表明を私にした。心底心配した司祭は私に対してこう書いている、「貴殿が政治的な極右思想に転向したと聞き少しばかり怖くなったと告げなければなりませんが、貴殿のことは知っているため、将来貴殿を応援することでしょう。」
この信頼に関して同じ程に喜ばしかったのは、これはドイツの真実と公正を見つける為のあらゆる努力がどう呼ばれるか認識しろという警告になっていたということだ:政治的な極右思想と呼ばれていると。そう、三十年戦争後の1648年の講和条約内で為されたものと同じような、あらゆる面に関して赦しと忘却の相互からの約束があった場合なら私がどれほど過去を触らずにおくべきだと考えていても、そう取られてしまう。触れられないのであれば、迫害は起こらない。これは実のところキリストの精神にある荘厳なる英雄的な行いだというのに!
我々は今日何を見ているだろう? 赦し、忘れ、古傷を癒やす気があるのは誰だろう? ドイツ人だけが、特にドイツの難民だけが、これらの行いを支えとして繰り返し自身の意向を提案している。もう片側は何をしている?
ドイツ大国の政府は法に反して執務室から追い出された。職務以外は何もしていなかったドイツの職員たち、そして彼らを裁いた連合軍の者たちより遙かに優れた人格を持っていた者たちは、嗜虐的に喉を絞められ、一方でその敵である兵士やパルチザンは1人たりとも戦争犯罪の法廷に出頭することはなかった。ドイツの裁判権と真実の探求の実行は不可能だった。勝者のみが裁判官の席に座り、歴史を記していた。他国が為した戦争犯罪への迫害は即刻禁止された。ドイツ人が為したとされる所業が国際的な法理の検討もなく極めて暴力的な手法で求刑されたのみならず、ドイツの戦争犯罪あるいは民族虐殺と呼ばれるものへの時効は引き上げるよう明確に命じられた。ドイツ人は、つまり結果として無法者という烙印を押された者たちは、現在破滅の日まで自分たちへの所業に対する復讐を行える。こうして、陰険なパルチザンは国民的英雄となった;悪党たちから自衛した誉れあるドイツの士官たちは戦争犯罪者と呼ばれた。
ドイツ連邦共和国の現在の政府は、ドイツ人捕虜及びドイツ市民に対して為された犯罪を扱った書物14冊に、出版は禁止するが、製本は許可すると命じている。
イスラエルの首相ゴルダ・メイアは、間違えようのない言葉『「ドイツとイスラエルの間の完全に正常な関係」は存在しないだろう』、を知らしめた。毎日人々に対して新しく使われるよう扇動される過去をそっとしておくことは、どうやればできるのだ?
あらゆる学校は強制収容所内での残虐行為に関する嘘を広め続けている。例えば、ヘッセン州の州首相の後援を受けてヴィースバーデンで公開されている「ザクセンハウゼン強制収容所」という名前の展示物では反証されて久しい宣伝戦の嘘が再び持ち出されている。いくつもの学級が次々とこの展示に触れるにつれ、怖がる子供たちは1943年にザクセンハウゼンでガス殺室が建てられたと読んでいくが、大昔からドイツ国内にはガス殺室が存在したことはなかったと証明されている。これを読めば身震いすることだろう、「昼夜を問わず人間の焼けた肉の甘い匂いが収容所中に漂っていました。」このような主張は、1945年3月まで赤十字がこの強制収容所を定期的に精査しており、ガス殺や甘い匂いの報告は全くなかったという事実にも拘らず為されている。
軍事裁判にかけられる…連邦刑事庁親衛隊判事コンラート・モルゲンがSSの犯罪を精査し、中には処刑されたSS隊員もいる。(600万人は本当に死んだか?参照)
更に、ザクセンハウゼンの親衛隊員それぞれは点呼の間に囚人を打ち据え、更には殺しさえできる「権利」を持っていたという神話も維持されている。勿論、非道な行為は時に為されたが、そのほぼ全ては収容者自身たちの間でか、「カポ」と呼ばれる予備的な警備員によって起きたものだ。親衛隊員あるいは他のドイツの公務員が囚人に対し犯罪を犯したり囚人の財産に手を付けたりした場合、その人物は即座に軍事裁判にかけられる。
どれのほどの利権があればヘッセン州の州首相オスヴァルトはドイツに関するこのような嘘を広げられるのだ?
若年者学校全体は親に関するこうした嘘に囚われており、かつてない程に世代間の憎悪が深まっている。しかしこれは世界の策謀者たちが人々を破壊する為の手法である。そしてより知っている者たちは、沈黙を守るべきなのだろうか? 沈黙が行うべき基督教徒的振る舞いであるとまだ私たちに言いたい者は、私の目には単なる無価値な臆病者にして悪党にしか映らない。
ヘッセン州の文部大臣はユダヤ女性ハンナ・フォークトに「Guilt or Destiny」と題するドイツの過去に関する本を著すよう任命しており、この本は既に11刷目で、全ての高校に配布されている。このユダヤ女史はドイツの過去を客観的に審判する資格を有しているとは言い難いだろう。この著作は科学の外套を纏った完全なる歴史的汚点にして憎悪の宣伝戦の傑作であると判明しており、そしてドイツに対する記事を書く際には、コミンテルンからの指示を受けており比類なき反ドイツ扇動と嘘の宣伝戦の達人であるヴィリ・ミュンツェンベルクによる作品と同水準になりうる:
「余りに弱い、明らかな目標! 奴らの頭を打ち据えろ。世界を恐怖に対して立ち向かわせろ。奴らを世界の汚臭にしろ。人類全員は奴らを呪い、恐怖で震えなければならない!」
この最新の大戦の間にユダヤ教徒人口全体の200,000人を超える喪失が起こった事を示す信憑性のある文書は1つたりとて存在しない。ドレスデンでは、ほんの一夜にしてより無防備な無辜のドイツ人たち――民族社会主義政権下の年月のうちで強制収容所全てで死んだユダヤ教徒より多くの子供、女性、老人、そして重傷の男性たち――は非業の死を遂げた!!! そしてそうしたユダヤ教徒総死者数の中には自然死さえ含まれている。つまり比率ででも絶対性ででも、彼らの死は戦時中に起きた他の死より遥かに少ない;ユダヤ教徒の世界組織は1933年の時点で既にドイツ相手の死ぬまでの聖戦を宣言していたことは心に留めておくこと。
[画像]「ユダヤ教徒ドイツに宣戦布告」Daily Express新聞の大見出し
当時ユダヤ教徒の毛髪1本さえ触れられていなかったというのに! しかし、世界は死んだユダヤ教徒という騒ぎに共鳴している。しかし、ドレスデンや正真正銘の東ドイツ人600万人の殺害に関して怒りの声があがることはない。ドイツ側で戦ったドイツ人及び欧州人の捕虜数百万人の殺害についての声も同様だ。ドイツ是認派であるという理由で殺された105,000人のフランス人のことを我々に告げる碑文はない。ドイツ側で労働したあるいは戦ったがため極めて野蛮な方法で虐殺されたオランダ人、デンマーク人、ノルウェー人、ルーマニア人、ロシア人、コサック人、ウクライナ人の追悼記念日も存在しない。彼らはボリシェビキ主義から欧州を救おうとしていたか、あるいは一部の場合にはドイツの支配の方が恐らくまだマシな悪であろうと見做していた。
現在のドイツ郵便事業の職員は、ユダヤ教徒がガス殺されたことを否定する場合即日解雇を言い渡される可能性がある。ユダヤ教徒に対して「その攻撃性に於いて後塵を拝す事はない」と声を上げたら雇用者は黙認する必要がないとヘッセン州の法廷によって合意が取れているため、この「正義」の奇妙な概念はヘッセン州の法廷によって支持されている。しかし悪党それぞれは今日、自分はドイツに対して破壊工作と反逆行為を行っていたと自由に自慢できる。
関心のある読者の1人は私に、もし私が新種の反ユダヤ主義の犠牲者にならなかったらどうなっていたかと質問した事がある。とんでもない! 私は、ユダヤ教徒が特権を享受する事なく他民族と同じように扱われるようになる事を望む。こうした特権が、そして特定のユダヤ世界支配勢力によって広められた嘘が、新しい反ユダヤ主義の理由だ。私以上にヴィーゼンタール氏が反ユダヤ主義を促進している。きちんとしたユダヤ教徒それぞれは我々の事実探求を歓迎し、つまりこの小冊子に同意するだろう。この衝撃的な報告の出版によって、私たちは国粋主義や憎悪を掻き立てることなくただ単純に真実に尽くし、そしてその事実は我々も他者も自由にすることだろう。本当に為された不正義のみが、償われるあるいは許される事が可能なものだ。でっちあげの「残虐行為」の物語は新たな憎悪を作り出し、不和の種を確実に蒔いてしまう。
ここではその損失や犯罪の規模で背筋を凍らせる事は余りしないが、我々が第一に関心を持っているのは人々の精神的回復についてだ。我々は人類史上最悪の犯罪を犯したと非難されている:つまり、世界的な戦いを意図的に開始し、無辜の人々数百万人を殺し、そしてもし我々に時間と機会があれば我々は残りの「征服された」人々全員を排除していただろうという犯罪を犯したと。
そのような非難を抗議もなく受け容れる者は心も脳も持っていない! 今、突如立ち上がって声を上げている者たちがいる:それは全て嘘っぱちだと! ドイツ人はこの戦争を始めたくなかったし、致命的な敵たちによって已む無く参戦せざるを得なかったと。ヒトラーにはユダヤ教徒を殺す意図はなく、彼らの絶滅の命令を下した事はなく、それ以外の人々についても同様だと。ガス殺室はなかったと。それらは全て病んだ脳味噌が産んだでっち上げだと。戦争犯罪と強制収容所裁判とされるもののほぼ全ては偽証をする証人と偽の文書によって保たれていると。
犯罪を告発されている者は無罪と判明した時に確実に喜び、係争されている犯罪が犯されていないと証明された場合にはそれ以上に喜ぶ。
だから我々ドイツ人は、アウシュヴィッツは死の機械ではなく巨大な兵器工場であり、収容所の囚人たちは完全に丁寧に扱われ、外部の人々はいつでも訪問できたと証明できる証言者が現れた今日という日を喜ぶべきである。しかし、我々ドイツ人の大半は全く異なる反応をする。そうした者たちは、最も貴重な戦後の体験――罪という劣等感――を誰かが自分たちから奪いたがっているかのように振る舞う。彼らはドイツの罪に爪と歯を立ててしがみつく。これは人類史上極めて前例のない現象だ。そのような反応をする他者らは思考ができない者たちであり、有罪判決を下せる程の正常さを保っていないがために重度の精神障害を患っているとしか形容しようがない。
これが真なる問題であり、この小冊子の出版の本当の理由だ。これは、どちらがより間違っていたかという質問ではない;それがどちらなのかは利用可能な出典を表層的に学習した全員にとってさえほぼ常識だ。明白にドイツ側が潔白だ。フランクリン・D・ルーズヴェルトの娘婿であるドール大佐による書籍America’s War Policyでさえこの証明をするのに必要不可欠にはならない。にも拘らず、この書籍は疑いなくこの大戦と平和に対する犯罪的な陰謀のルーズヴェルトやチャーチルの独占的な罪を暴いている。いったい誰が反対側がより邪悪だという神話を維持しているのか!
何故我々ドイツ人は600万人のガス殺されたユダヤ教徒という御伽噺を愛しているのだ? ここで経験から言わせてもらうと、私自身一時期それを信じていた。我々ドイツ人はこの問題に関して巣の中の雛のようなものだ。我々は生まれつき神を恐れている。だから、我々を襲った計り知れない程の苦難について確立した宗教的な説明を持つ必要があった。他国はより強く、より無謀だったという説明だけでは、ドイツ人の精神には不十分だ。我々ドイツ人は、妥当な原因もなくこのような苦難を蒙る必要は誰にとってもないと信じる。これは、命運からのあらゆる打撃は神からの罰であると――「友人たち」と再教育者たちによって――言いくるめられた(聖書の)ヨブの良く知られている問題だ。つまり、多くのドイツ人は1945年の大惨事を犯した大罪と犯罪への神の裁きだと見做している。無辜の殺された600万人の神話は実のところ形而上の説明という需要を満たし、つまり熱心に受け入れられた。聖書に基づくようにすると全てがより尤もらしく思えてくる:我々は「どんな」人でも殺したというわけではないが、「選ばれた」人を殺したのだと! 読者の1人がこういう言葉で私宛に手紙を送ったようにだ:「そう、我々は神の瞳を攻撃しているのです。」;何と「驚くべき」説明だ! 今なら我々は理由を知っている。現在我々は報いを受けており、ユダヤ教徒全員への貢献と莫大な金額の支払いによって、我々は少なくとも神の恩寵の一部を、あるいは赦しを求める懺悔する罪人として再獲得できるのだと。それがためドイツ人は、それが自身の魂の救済を意味しているかのように「殺されたユダヤ教徒」に固執するのだと。この説明がなければ、我々のぞっとするような破滅は意味がなくなり、耐えられないものになってしまう。
だから私たちはこの強制収容の惨劇の存在を信じる哀れな市民を非難できない。それは、多くの人々に未だ根深く根付いているように見えるマルチン・ルターの宗教改革の根本的問題である、他ならぬ神の信仰を彼らから奪うようなものだからだ。しかし聖書のヨブは再教育者たちと議論し、彼らに適切な回答を提示した:
「神はなぜわたしと争われるか。彼が大いなる事をされることは測りがたい。不思議な事をされることは数知れない。わたしは今まで一日も心に責められた事がなく、わたしは彼の道を守って離れなかった。わたしの敵の書いた告訴状があれば、わたしは必ずこれを肩に負い、冠のようにこれをわが身に結び、彼に近づくであろう。わたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。後の日に彼は必ず地の上に立たれ、しかもわたしの味方として見るであろう!」
これが義人の声だ。これが我々が口にしなければならないやり方ではないか? 我々は戦後の発展全体の前に鎮座している2つの大嘘を排除している:実際には、ユダヤ教徒と同一であると主張できるイスラエルの選ばれた民はいない;そして非難されているような犯罪者ドイツ人は確実にいない! 我々はこうした嘘の1つや、我らが国民をより惨めさへと追い落とすべき関連する亜種を維持する者相手に妥協することなく戦うべきだ。立ち上がって未来を変える時は来ている。我々は神の頼み事を果たしているのだから、命運を征服すべきだ。だからティース・クリストファーセンには非常に感謝している、この勇気ある作品で輝かしい一例を我々に提示してくれ、我々にこの時運を逆転させる事実の保証人だからだ。
マンフレッド・ローダー
1918年生まれのティース・クリストファーセンは大戦まではドイツ北部の農民だった。ドイツ軍兵士だった彼は1940年の西部軍事作戦中に負傷し、以降兵役には不適切となった。
農学学習の後、彼は天然ゴムの研究でウクライナで勤めるよう命じられた。この研究部署はソ連によって再占領されてからポーランドのアウシュヴィッツへと移送された。
少尉(ゾンダーヒューラーZ)の階級を持つドイツ軍の一員だったティース・クリストファーセンはその調査班の1人だった。強制収容所の被収容者たちと共に働いていたクリストファーセンは観察し経験したものを綴り、今君の目の前にある小冊子として出版している。
今日、クリストファーセンは著者かつ農業関係の報道記者として活動している。彼は複数の出版物を、即ち定期刊行のKritikとDie Bauernschaftの出版者だ。この著者は西ドイツのモールキルヒ町字カルバーハーゲンD-2341番地在住だ。
ティース・クリストファーセン
成功した農夫にして弁護士 マンフレッド・ローダーは1929年に生まれた。彼の父は民族社会主義者として尽くし、ローダー自身もヒトラー青年団の一員として1945年にベルリンの戦いに参加した。
彼の最初の政治への参加は10年前まで遡り、その際彼は淫猥な表現に対する国家規模の闘争を導いた。その直後に彼は西ドイツの無数の不正義を認識するようになった。彼は2つの国粋組織の創設者である:ドイツ市民自発会とドイツ大国解放運動だ。
ローダーは特に、西ドイツ政府が出す、第二次世界大戦のドイツ国民へと罪と恥の感覚を沁み込ませる事が目的である宣伝戦に対し能動的に反論している。ローダーは大規模な抗議活動を指揮し、ルドルフ・ヘスの解放を要求しており、『600万人のユダヤ教徒が大戦中にドイツ人によって「ガス殺」されたという法螺を破壊する運動』の指導者のような役割を担っている。
マンフレッド・ローダーは以下のような容疑を受け、投獄を避けるため1977年に西ドイツから逃げ出した;
「民主制全般への、なかんづく西ドイツ民主制への名誉毀損、そして憲法違反の宣伝戦」
ローダーは、「ひとたび投獄されたなら、ボン政権はローダーを無期限に獄中に押し留めるためローダーに多数の追加の告訴を申し立てる計画をしていた」という言葉を受け取っていた。
ローダーはドイツを離れて以来南北アメリカ内で広範囲に渡って旅しており、友人と自分の組織に関する伝手を作っている。彼は現在西ドイツの警察のみでなく、国際刑事警察機構によっても探されている。合衆国にいた間、FBIは彼の活動に関心を持っていた。マンフレッド・ローダーが、ドイツにあり妻と6人の子息が彼の帰りを待っている自身の農場に帰還できる日が来る事が望まれる。しかし当面の間は、自国と自国民を愛するこの男は彼らから追放されていなければならない。
1978年11月~12月刊行White Powerより
フリードリヒ・グリム著、Verlag Bonner Universitäts-Buchdruckerei, Gebr. Scheur, GmbH.刊、1953年にボンにて刊行、Politische Justiz – die Krankheit unserer Zeit、(政治的正義――我らが時代の病)からの抄訳。
我らが時代の病
フリードリヒ・グリム著
宣伝戦の圧倒的な成果が誤導しているため、第一次世界大戦の最後の年の時点から既に、善意に満ちた人々でさえも歴史上本当に起こった出来事を認識して見解を構築するのは難しくなっている。
「[1945年5月の、崩壊から1~2日後に、私は反対陣営の重要な代表と驚くべき議論をした。彼は、自分は彼の自国での大学教授だと自己紹介し、この大戦の歴史的な背景について私と話したいと伝えてきた。続いての会話は高水準なものとなった。彼は突然話を打ち切り、強制収容所での恐怖の話を扱った、机の上にあった私の本を指差した。降伏後の最初の数日の間、その種の小冊子は私たちの間で氾濫していた。
『それに関して貴方はどうお考えですか、』彼は私に訊いた。『オラドゥールとブーヘンヴァルトなら』、私は答えた。『その問題を詳しく調べるのは貴方にとって無意味になるでしょう、私は法に携わる男であり不正義に出逢えばそれを非難しますが、自分たちの側で間違いが為されればその非難を強烈に行いますから。私は本当の事実と、その事実から作り出された政治的活用の差異に十分に認識しています。私は恐怖の宣伝戦がどのようなものか理解しています。また、私は第一次世界大戦後のこの問題に関する貴方の出版物全て、ノースクリフ卿事務局の書籍、フランスの財務大臣クロッツの本、そしてFrom War to Peaceを読んでおり、最後の書物の中で彼は、子供たちの両手を切断する御伽噺が如何にでっち上げられ活用されてきたかを描写していました。更に、私は説明的な書籍複数を、即ち1870年の恐怖の宣伝戦と1917 ~18年のそれを比較しているCrapouillot、そして最終的に直近の戦争で死体の山を構成する為に人形と騙しの写真が使われた貯蔵庫が既に如何に存在していたかを明らかにしているポンソンビーの古典的な書The Lie in Wartimeを読んでいます。それらの写真は題名付きで配布され、後に状況に従ってその題名に帰するものとされ、それからプロパガンダ・センターを通して電話で伝播されました。』
それもあって、私はそうした強制収容所から死体の山を写しているとされる小冊子の1つを生み出しており、その冊子を訪問客に見せていた。彼はかなり驚きながら私を凝視した。私は続けた、
『直近の大戦の判決を下したこの毒々しい精神を挫く武器が、連合国があらゆる武器を磨き上げていたこの大戦の最中に無視されていたというのは想像できないことです。実のところ、私はそれは無視されていたわけではないと知っています。ライヒ崩壊の1~2ヶ月前の間、私は毎日海外の新聞を読んでおり、そこで中央局が編纂した、ドイツの残虐行為に関する、そうした報告に接しました。自国領の後に扱われる占領地域は、今日はフランスで、次の日はノルウェー、それからベルギー、デンマーク、オランダ、ギリシャ、ユーゴスラビア、チェコ=スロヴァキアの順序で続いていきました。強制収容所には最初は数百人の死体がありました。6週間には同じ国でそれに関する次の段階の報告があり、突如数千人の死者があったことになり、それから数万人になりその後数十万人になりました。私は自問自答しました:この数字の急上昇が数百万に達するなんて全くあり得ないことだろうかと!』
私は別の小冊子に手を伸ばした:
『ここでは百万人に達しているのですよ!』
客人は急に大声を出した:
『私の目の前にいるのは世故長けた人物であることは理解できます。自己紹介させて下さい。私は大学教授ではありません。私は貴方がたった今話した中央局から来ており、そこで私は何ヶ月も、恐怖の宣伝戦作成だと貴方が仰った正にその通りのことを行ってきています――そしてその結果は我々の完全勝利というものです。』
私は答えた、
『存じていますよ、もう貴方はそれをやめるべきです!』
彼は応えた、
『いや、我々は始めたばかりです! 誰もドイツ人からの言葉をこれ以上一言も受け入れなくなるまでこの恐怖の宣伝戦を続け、増やすつもりです。他の国々がドイツ人に対して持っている共感が破壊し尽くされ、最終的にドイツ人自身が自分たちが何をやっているか分からなくなる程に混乱するまで継続します!』
会話の終わりに、私は言った、
『この状態の原因は大半が貴方にあります!』」
この私的報告はあらゆる善意を持つ人々宛に記している
私は1944年1月から11月までアウシュヴィッツにいた。戦後、私は捕らえられたユダヤ人を労働させたと言う親衛隊員からユダヤ教徒の大量殺人について耳にし、酷く困惑した。提示されたあらゆる口述書や情報媒体内のあらゆる報告にも拘らず、そのような残虐行為が行われた事はないと私は知っている。それを繰り返し何処でも何時でもそれを言っているが、誰も私を信じようとしていないためいつも無意味になっている。あったという証拠は明白で、矛盾なく納得させるものだ、と言われる。
法廷の事例は明白にアウシュヴィッツにはガス殺室があったことを確立しており、ヘス所長自身がそう言っている、と。誰が敢えてこれを否定しても、恐らく否定した人物自身がそうしたユダヤ教徒殺害に個人的に参加していたのではないかと疑われてしまう。
戦争犯罪は(文明国なら何処でも適用されている通り)まだ時効を迎えておらず、そのため未だ告訴され有罪判決を受けるかもしれないから注意しろ、沈黙を保つのが最善だと私は警告を受ける。
友人知己はこう言う:
「何に尽くしているの、未だに歴史を正そうとしているの?」「あなたは物事を変えられない!」「我々の罪を承認すれば私たちは国々の共同体に戻れる。」「君には家族がいることを思い出してくれ。」「誰も君の報告を信じないだろう……沈黙を続けよう、それが君ができる一番賢明な行いだ。」
正直に言おう、私は自分を疑い始めていた。全方向から同じ話を絶えず聞くと、最終的にその話を信じ始めてしまうのが唯一合理的になるものだ。「だがもしそうしたユダヤ教徒全員がガス殺されていないとしたら、彼らに何が起きたのだ?」分からないが、ユダヤ教徒600万人が戦時中に殺されたとされているのであれば、どこからそこまで多くのユダヤ教徒が来たのか不思議に思う。国内の私の地域には、戦前にさえユダヤ教徒はほぼいなかった。「家畜ユダヤ教徒」と呼ばれる存在は田舎の地域には存在しなかった。憎悪に満ちた人々はその唯一の理由は、そうした北部の農民はユダヤ教徒より賢かったのだと意見する。極めて多くのユダヤ教徒は戦前に移住でき、一部は戦時中に逃げ出し、ユダヤ教徒の多くは強制収容所を生き延びた……そして勿論ユダヤ教徒の多くは今日も我々の中で再び生活している。
ノルヴィケン(スウェーデン)のアイナー・アベルク氏が配布した折り込みチラシを読んだ時に初めて疑念が湧き上がった。彼は戦前のユダヤ教徒の公式の世界人口の統計と戦後の統計を比較した。彼は、もし殺害されたユダヤ教徒の人数が600万人というのが正しいと判断できるとしたら、彼らの人口は女性それぞれがその出産可能な年齢に於いて毎年出産しなければならない程に増えていると結論付けた。1938年、世界には15,688,259人のユダヤ教徒がいたとされている。この人数は米国ユダヤ委員会の「World Almanac」からの引用だ。1948年のNew York TimesのW・ボールドウィンの著した記事によれば、世界には18,700,000人のユダヤ教徒がいるとされていた。ボールドウィンは公正無私な高名な人口統計の専門家であり、最高に無理矢理な想像力でさえ彼を「反ユダヤ主義」とは描写不可能だ。そのため、600万人の殺されたユダヤ教徒という物語が真実であることはあり得ない、一国の人口がほんの10年で50%も増加するなんて不可能であるためだ。
確実に痛ましいWWII中のユダヤ教徒人口の損失は600万人ではなく、国際連合が積み重ねた事実に依ればおおよそ200,000人で、この死体は確実にいづれかの一国に特段の弁明を与える理由を持たない。
ブラジルで出版された本には以下の主張が含まれている:
「……これらの事実はキリスト教平信徒名誉毀損防止カナダ委員会によって用いられ、ヒトラーの統治下の12年の間(1933~45)に死因不問で、つまり、殺害も、ゲリラや破壊工作員の有罪宣告を受けての銃殺も、収容所への空爆での爆死も、そして戦争による他の状況による死も、病気や老衰もひっくるめて、200,000人のユダヤ教徒が死んだと確証していた。」
オーストリアの社会民主運動を率いたベネディクト・カウツキー博士――彼自身ユダヤ教徒――は1938年から1945年まで強制収容所で過ごし、そのうち3年はアウシュヴィッツで生活した人物であるが、こう言っている:
「私はドイツの大きな強制収容所で過ごしました。私はガス殺室のようなものを見た収容所は存在しないと誠実に主張せざるを得ません。」
アウシュヴィッツの最後(1943以降)の所長リヒャルト・ベーアはそのため最重要の証人であり、パリの週刊誌「Rivarol」は以下の主張をする彼を思い留まらせるのは不可能だと報告していた;
「彼がアウシュヴィッツにいた時、彼はガス殺室など見たことはないし、そのような存在についても知らなかった。」
所長ベーアは2週間前までは健康極まる状態であったというのに1963年7月17日に突然死した。
私にアウシュヴィッツにいた頃の秘密はない。ユダヤ教徒の破壊について訊かれた時、私はそれに関して何も知らないと答えている。こうした大量ガス殺に関する話を、はっきりした抵抗もなく如何に素早く人々が信じ受け入れる気になったのかは単純に驚きだ。
1940年に戦傷の結果として私は副鼻腔炎が酷く進行した。私は些細な冷気でさえ病院に戻る羽目になった。1942年の秋に公的な医学的所見が出た:国内の前線に仕えろと。1942/43年には高等農業学校に通わせてくれるよう休暇申請を提出し、実際に通学した。1943年の春に軍司令部の司令官が私の学校に来て、ウクライナに行ってインドゴムノキを育てる意思のある農業者を勧誘した。私は志願し、受領された。
移動する戦争には車両が必要であり、車両にはタイヤが必要であり、タイヤはゴムでできている。勿論「ブナ」と呼ばれる、炭素、石灰、硫黄でできた人工ゴムは存在する。だが天然のゴムを合成物に追加しないと結合力を持たせられないため、それを生産できない。ロシア人は自給自足できるようになる為の試み(我々の場合ではそれは戦争準備と呼ばれる)の中で、組織的に天然ゴムが含まれる植物を求めて草木全体が調べられた……そして幾らか発見された――ゴムノキ以外の1つはコク・サギスと呼ばれる、タンポポの従兄弟だった。その根の白乳液には天然ゴムが含まれている。これは戦争遂行に於いて極めて重要だった。HQの駆動車両の部門は、天然ゴムという成分を持つ植物の栽培、活用、そして研究の為の組織化された諸部署を有していた。短い訓練期間の後、私は天然ゴムを有する植物の育成と栽培を管理するようウクライナに送られた。コク・サギスを見たことはなかったが、実践的な作業とロシア人農業者たちの手助けによってすぐに必要な知識が手に入った。
コク・サギスが――アウシュヴィッツで栽培された。天然ゴムを多量に含んでいることが分かった。
我々は1943年にウクライナを失い、1944年初頭に私はカイザー・ヴィルヘルム学術振興協会で植物栽培部署に転属した。この研究所はアウシュヴィッツに支部を設立していたため私はそこに送られ、そこで私は研究の途中でここは強制収容所だとだけ理解した。アウシュヴィッツでの経験に関して、今も生きていてまだ連絡を取り合っている同僚たちの名前に言及すべきかどうか迷いを持っている。沈黙を破ったことに対する制裁への備えを私自身しなければならないことは理解している。私はそうした……を受け入れる準備はできており、今回の発表をする為に事前に準備をしなければならなかった。
寒く風の強い日に、私は1944年1月15日のアウシュヴィッツの鉄道駅に到着した。騎乗して行くか屋根付き四輪馬車で行くか迷ったが、徒歩で行くことにした。荷物を置きに置いてから、収容所への道を尋ねた。営舎で構成されており、営舎は見苦しいがどっしりとした造りである実際の収容所は、極めて近かった。最初に気付いたのは門の上の記述だ、「ARBEIT MACHT FREI」、(「労働は君たちを自由にする」)。余りに多数の収容所の非収容者たちが警戒心なく歩き回っているのを見て驚いた。後に、棘付の電流が流された金網で覆われているこの収容所は夜にのみ警備がつけられると私は知った。しかし敷地の外に詰めている見張りもおり、点呼の後の夜間は敷地に戻る。
私は暗青灰色の目を持ち赤毛を生やした身なりの良い男A博士へと報告に上がった。彼は暖かく歓迎してくれた。私はこの収容所に興味を持っており、その被収容者に関して質問した。彼は、「この地域のドイツ人はここに属しています……それとは別に、この地域にいる欧州の上流階級の人たちも」と答えた。後に、その証言は一部正しかったことを知る。彼の仕事仲間たちを紹介された。そこにはドイツ語とフランス語を話す元帝政ロシア派の亡命者の職員がおり、彼は私の営舎まで運んでくれると申し出てくれた。職員たちは車を持っていなかったが、屋根付き四輪馬車は1台あり、栽培が行われている外部の土地まで御者が自由に運んでくれた。しかし、私はそこにどこか尊大さを感じた。私はまた、通り過ぎた被収容者たちは帽子を外し、通り過ぎるまで直立の姿勢で立っていたが、私たちは職員であり、SSの男たちも私たちに対し軍隊式の敬礼をするという事にも困惑させられた。
収容所所内の輸送に職員たちが使っていた、馬の曳く一頭立て馬車に手を置いて休めている著者(中央)。
私の営舎は主収容所から3km程離れたライスコにあった。ここは女性用収容所で、温室複数を伴う植物用の建物数棟と我々の調査用の研究所もあった。私には未婚者用の住居の一室が与えられた;その家を植物栽培部署の監督官だった同僚の1人と共有した。彼は明るい性格の男だった。彼の笑いには心が温まるものがあり、彼は被収容者にも好かれていて、今日でもその一部と文通をしている。後に彼はその妻と2人の子供たちとも同居することになる。
それから私は完成したばかりの植物用の建物内にある居住区画へと移動した。そこで私は、ここで名前を言える科学者と一室を共有した:ベーメ博士だ。彼は降伏後に狂喜したポーランド市民に射殺されたからだ。彼は誰も傷つけなかったし、親切と礼節を体現したような人だった。
私が初めて会った被収容者は「アグネス」だった。彼女はエホバの証人の一員で、私たちの雑役婦だ。私は彼女にこの収容所の状態を訊いたが、彼女はそれについて答えそうになかった。厨房を仕切っていたポール夫人も同じだった。彼女もまた聖書の学徒で、チラシを作って被収容者に配っていた。実のところ、これは規則には反していたが、被収容者の監視は私の仕事ではなかった。それとは別に、彼女の出版物は無害のように私には見え、私はいつも宗教問題には寛容であり続けた。今でさえ私はエホバの証人たちへのある程度の敬意を否定できない、彼らは苦しみたいという理由によって純粋な信仰のために喜んで自らを閉じ込め、苦しんだのだから。彼らを監視する必要性はなく、彼らは自由に哨舎の境界線を超えることさえできたというのに。
私たちの収容所では約300人の女性が3棟の営舎で暮らしていた。彼女らはほぼ独占的に植物部署の為に働いていた労働者の種類1つを構成していた。彼女らの大半はユダヤ教徒とポーランド人で、フランス人もまばらにいた。彼女ら全員はドイツ語を流暢に話せ、多くは人文学科に入れる程だった。彼女らの仕事は自然科学に属するもので、彼女らは指示を仰がなくとも立派にそれを行えた。実のところ、私がその被収容者たちを訓練したのではなく、彼女らがある種の誇りを持って私を訓練したのであって、正直に言えば尊大な空気があったと言って良い程だった。いづれにせよ、被収容者たちは自らの調査任務を喜んで熱情をもってこなしていたという印象を持っている。
植物栽培は選別して進められた。植物の根は天然ゴムを含んでいるか検査され、苗木の段階から繁殖させた。その種は丁寧に集められ、植え直された。破壊工作の実行は容易だったろうが、実例の1つさえ私たちは知らない。しかし言及しなければならないこととして、被収容者たちはお互いを信用していなかった。ユダヤ教徒とポーランド人の間には古くから憎悪の感情があった。この憎悪に比べれば、民族社会主義者と呼ばれる者たちのユダヤ教徒への憎悪は全く無害なものだった。
天然ゴムの生産向上という結果は、申し分のない程満足のいくものだった。監督官の1人はロシアに行き、多数の科学者を伴って帰還した。彼らは家族ごと移住して、非戦闘員として私たちの為に働き、自身の仕事を楽しんだ。
ロシア人農学者(左)と著者。
ロシアの農学者J・サスモシェクの到着とともにある種の劇的な出来事が進行した。彼は被収容者たちの中に元恋人を見つけ、その再会で焼け木杭に火が点いた。サスモシェクはその女性と結婚し、彼女は抑留から解放された。私はアウシュヴィッツから疎開した後にザクセン=アンハルト州のハレでこの夫妻を見かけ、2人とも輝いて見えるほど幸せそうだった。2月13日に公然と無防備な都市だと宣言していたドレスデンへと行われた大空襲を潜り抜けてきたばかりで、奇跡的に傷一つ負わず逃げ出しはしたが私自身は当時そこまで幸福ではなかった。ドレスデンのこの日に、戦時中を通してアウシュヴィッツ内で死んだとされる人数より多くの人々が死んだと私は信じる。しかし連合軍によるこの戦争犯罪は今日でさえ議論されていない。
アウシュヴィッツでの日課は何だったか? 午前7時に起床し、身体を洗い、シャワーを浴び、朝食を摂って点呼を取り、8時に仕事に就いた。午後0~1時に昼食、そこから仕事に戻って午後5時まで働いた。午後7時に再度点呼を取り、それから収容所外部の哨舎は閉じて収容所は警備状態に入る。手紙は毎日運ばれた。小包は点呼の際に収容所の監督官によって開かれ、精査された。中身の一部が差し控えられることは極めて稀であり、それが行われる場合とは例えば特定の医療調剤、書籍、小冊子、写真機、ラジオ、そして技術的な器具だった。しかしそうした物は被収容者の所有物として残され、「カナダ蔵」と呼ばれる巨大な倉庫に貯蔵され、そこにはアウシュヴィッツに抑留されているユダヤ教徒の所有物全ても保管されていた。
翻訳した概要:――
1944年9月。アウシュヴィッツの赤十字国際委員会によるアウシュヴィッツの報告、91~92ページ。赤十字使節は、被収容者たちは小包を受け取っていたと証言する。
使節と関わった職員たちはオラニエンブルクやラーフェンスブリュックにいた職員たちと同様、友好的かつ無口だった。使節は小規模なコマンドー(作業員)たちの中に多くの男女の集団を目撃した。英国赤十字の「内部関係者」は英国人コマンドーのうち1人であり、彼は赤十字使節に、ガス殺室の噂を聞いたことがあると伝えた。しかし、赤十字使節は丹念な精査の後でもそうした噂を立証できなかった。
東部で休暇中の筆者と妻。1944年撮影。
「カナダ蔵」は外部からの略奪を避ける為常時警備下にあった。測候所の中に女性の親衛隊の労働者がおり、ある時「カナダ蔵」から自分用に一足の女性用の長い靴下を調達してきた。彼女は「略奪」だと軍法会議にかけられた。しかし、そこで働いていた被収容者たち自身が絶えず盗んでいた。
私が驚いたことは被収容者たちの衣服の上品さだ彼らの外衣は勿論制服だが、靴も含む他の服は全て最高品質であり、手入れが欠けたところもなく、あらゆる化粧は女性の装いの一部だった。毎週木曜日に女性たちは洗濯物の交換のために第一収容所(アウシュヴィッツI)へと送られ、魅力的な戦利品をいくらか持って戻り、それからその戦利品は被収容者たちの間で配られた。これは、自分が静かに我慢していたと考えている窃盗の1種類である。
5月に私の妻が初めて私を訪ねて来た。彼女は農業家政学の教師であり、強制収容所での私の仕事に関心を持っていた。この事実のみによって、収容所の管理に隠すべきものがない限りにおいて私たちは知人たちをいつでも招くことができた。もしアウシュヴィッツが噂通りの死の工場であるのなら、そのような訪問は確実に許されなかったであろう。今日ですらも東ドイツとして知られている囚人収容所への訪問に要求されるような決まり事は、アウシュヴィッツでは要求されなかった。私たちは若くして結婚した夫婦で、結婚してからお互いと余り会っていなかった。妻とは鉄道駅で待ち合わせした。彼女は靴下は履かずに木製の草履を履き、カーチフで頭を覆っていた。戦時中であり、優雅さは我々では余裕を持てない嗜好品だった。
当時私には新人の雑役婦がいた――個人付の女中というのがより適した称号だろうか。オルガだ! オルガはポーランド人だった。彼女は雑用係だった。しかし私の仕事を取っていってしまう彼女の気遣いのある心配りには感動させるものがあった。私の部屋には常に花々が置かれていた;常に机と紗幕は綺麗にされており、彼女はいつもどうにかして私を驚かせてきた。
彼女は大変な骨を折って妻の訪問に備えて私の部屋を手入れをした。彼女は私の寝台の上の壁に祈る天使の像を取り付けてくれた――彼女がそれを何処で得たかは主のみが知っている! 実のところ、彼女の気配りは少しばかりやり過ぎでありはしたが、彼女の配慮の魂を傷つけたくはなかった。
収容所で祝われた「2度目の蜜月」中の著者、オルガによって愛らしく設えられた机の調度も写っている。
妻の訪問の間に天然ゴムの菜園内で作業が始まり、私は客人相手に余り時間を取れなかったが、妻はオルガと考え得る最高の友人となり、その会話はまさに立て板に水だった。妻はオルガの心遣いに報いるべきだと感じ、小さな贈り物を渡した。その結果として、自宅へと帰る妻を鉄道駅へと連れて行った時に私は妻をほぼ認識できなくなった。彼女は頭から爪先まで新しい衣装を纏っていた。オルガは妻のために全てを「得て」おり、それには新品の旅行鞄さえ含まれていた。妻は私に彼女自身の僅かな糧食から美味しいものを少しだけくれ、その中には牛酪ひと欠片もあった。オルガはフライド・ポテトを夕食によく私に作ってくれ、奇妙なことに牛酪は尽きることがなかった。補給物資は毎日到着し、オルガはその恵みの配布の中に私を含める義務感を持っていた。ライスコの被収容者たちが飢えることはなく、栄養不良そうに見える新参者はほんの1~2日だけで「滑らかな髪」を持つようになるようだ。
「アウシュヴィッツに死の収容所はなかった、ビルケナウにあった。」これが戦後私が見聞きするようになった言説だ。ああと。私はビルケナウにもいた。この収容所を私は好きではなかった。余りにも人が多すぎて、そこの人々は私に好印象を与えなかった。全てが怠っており、不潔であるように見えた。子連れの家族も見た。彼らを見るのは痛々しかったが、権力者は親が抑留される際に子供たちが両親から離されない方がより温情だと感じているのだと言われた。一部の子供たちは十分楽しそうに玉遊びをしていた。だが、子供たちはそこに属す存在ではないと感じたし、英国人も同じことを――例えば、ボーア戦争中に――やっていたというのは言い訳にはほとんどなりはしないでしょうと上司に伝えた。上司の答えは「同意するが、私ではそれを変えられない」というものだった。
コク=サギスの草を育てるのに100人の作業員を見繕うよう注文していた。点呼の際に、被収容者たちはこの種の労働に関心はないか、経験はないか質問された。続けてその作業員たちの「選抜」が起きた。この「選抜」は後に完全に誤解された。その目的は被収容者に行うべき課題を与える為のものであり、彼ら自身が職に就きたがっていた。彼らの選抜は、彼らの意向、有用性、そして彼らが行うべき作業を顧みての健康状態に関しての調査を超えるものではなかった。
様々な成長段階のコク=サギスの草。
しかしアウシュヴィッツ内では実のところ、仕事よりも人の方が多かった。自然と、農業の経験がある労働者の獲得に関心を持っていた。勿論ユダヤ教徒たちはあらゆる作業の農場作業の経験をしたことがなく、一方でポーランド人たちは素晴らしい農場労働者たちだった。ジプシーたちは全く使えなかった。第11分遣隊――ビルケナウからの女性労働者たちの名称――が、詰め所にいる番兵たちより外側にある線から更に向こうにある畑に毎日仕事に来た。私はほぼ毎日そうした人々とやり取りを交わし、不満に耳を傾けた。ある時SSの番兵が女性を蹴っているのを見た。私はそれに関して彼に食ってかかった。
コク=サギスの畑で働いている女性たち。
番兵の不在と女性たちの標準的な装いに注目。
彼は、この女性は自分をナチ豚と呼んだのだと主張したが、実際には彼がまず彼女を侮辱していた。私は本件を報告し、このSSの番兵はダンツィヒの「Strafbataillon(懲罰部隊)」へと送られた。この日以降、私から被収容者たちへの好感は驚くほど高まった、特に第11分遣隊の者たちに対して。彼女らは時に注文や不満を携えて私のところへ来たが、私にとって彼女らは敵ではなく、彼女らは単に抑留されていた者たちだったため私は彼女らの為にできる事なら何でもした。時折、私は規則に反して彼女らの便宜を図った。最高の喜びは、彼女らを連れて行きスラ川まで坂を下りて、そこで1944年の夏の日々に水浴びを許可することだった。
何はともあれ、ビルケナウからの育成部署は愉快な仲間たちだった。彼らは働く間ポーランドの民謡を歌い、ジプシーたちはその曲調に合わせて踊った。最初、私は被収容者たちの一部の栄養不足の外見にとても憤り、心配した。それから私は、彼女らはかなり貧相な体格でここに到着し、体重を増量するのに時間がかかっているのだと知った。私はよく共通の昼食を分け合って暇を告げた。
しかし第11分遣隊も秘密の補給源を持っていた。最も不可思議なものは未知の隠し場所の中で彼らが見つけた。夜にそれらはその被収容者の友人によって補充された。時々そうした友人たちは囚人服を着込みさえしてこの収容所へと行進し、それによって被収容者は休暇が取れた。アウシュヴィッツはポーランド国内にあり、その国民は可能な限り被収容者たちを支援していたが、これは公式には許可されていなかった。
畑で働いている被収容者(馬で殆ど隠れてはいるが)。
写真の左端の遙か遠くに看守が1人だけいる点に注意。
占領部隊は、特に民政部隊と呼ばれていた部隊は、知られている通り、よく国民からの敵意を惹起していた。私が断固認められなかったやり方の1つに、小規模な農民たちから土地を接収していたことがある。強制収容所による農業利用の為に彼らは土地を諦めざるを得なかった。しかしアウトバーン建造の為にドイツが接収した土地と同じ基準で彼らの不動産は保証されたと言われた。遂行された再定住のやり方も好きではなかったが、それを誰にも強制してはいないと繰り返し言われた。自由の削減は過酷だったが、戦争は悲痛であり、私たちにとってどんどんと悲痛になっていった。1944年の秋に、私たちにとっては初めて、アウシュヴィッツ収容所はアメリカの爆撃機によって爆撃された。被収容者に約20人の犠牲者が出た。私自身、ノルマンディー上陸作戦以降勝利への確信を失っていた。前線からの報告はどんどんと不吉なものになっていっており、被収容者にも十分に情報が入っていた――誰が伝えていたかは悪魔が知っている。
私の地区では被収容者はその頃それまでと同程度の世話をされていた。週に1回映画が上映された。収容所の監督官と被収容者は他の者たちと一緒に映画「ほら男爵の冒険」と「Golden City」を鑑賞した。教会の奉仕は会館内で行われた。私自身何回か奉仕活動に参加し、彼らは、就中ロシア市民の労働者たちも属していたロシア正教の集団にいる者たちは、極めて真面目であることが分かった。演劇の集団は被収容者たちによって組織され、ある晩に彼らは私たちを「ファウスト」の上演に誘ってくれた。専門の役者たちでさえあれ以上の劇は生み出せまい。
一方で私は研究に時間を費やしたかったが、戦況は逼迫しており、勝算は皆無だった。通信教育を受けるよう薦められ、私は1~2冊の本を取り寄せた。プラハ出身のユダヤ教女医の被収容者が私の詰め込み教育に力を貸してくれ、毎日午後に手伝ってくれた。これはライスコでは可能だった。
ユダヤ教徒たちは知的で、アウシュヴィッツで知る事ができた限り、極めて素晴らしかった。その夏母が訪れに来て、数日間滞在した。勿論、母とオルガの間に固い絆が結ばれた。ある夕に死体が焼却されているという火葬棟について母が訊いてきた。私はそれに関して全く知らなかったため、オルガに訊ねた。彼女は決定的なことは何も答えられなかった。しかし彼女は、ビェルスコの方ではいつも空に何か反射しているようだと、火の反射のようだと仄めかしてくれた。
そのため私はビェルスコの方角へ向かい、そこで採掘収容所を見つけ、そこでも何人かの被収容者が働いていた。その収容所全体のあたりを歩いて回り、全ての火格子と煙突を精査したが、何も分からなかった。同僚に訊いてみた;答えは……肩をすくめ、「そんな噂に耳を貸すなよ」というものだった。実のところ、アウシュヴィッツには火葬棟が1棟ある、と言われた、そこには20,000の人が暮らしており、その規模の都市に見合った火葬棟だ、と。勿論他と同じようにここでも人は死んでいたが、それは収容所の被収容者に限った話ではない、と。ある監督官の妻もここで死んでいる、と。考えられる限り、これが十分な回答だろう。
アウシュヴィッツにいた頃ずっと、ガス殺室での大量殺人を仄めかす何かを僅かたりとも見た事はない。また、焼けた肉の臭いが常時収容所を覆っていたとされるなどという話は真っ赤な嘘だ。第一収容所近辺には鍛冶工場があり、そこで蹄鉄が打たれていた。熱装装蹄の際の馬の蹄の焼き付けは当然不快な臭いを引き起こした。偶然だが、当時のその鍛冶工場の責任者は現在隣村で暮らしている。
実のところ、収容所の規則は常時気前が良くなり続けていた。第一収容所には今や男性向けの売春宿があった。つまるところ愛と性行が人間であり、抑留されていた者たちに抑制させるものではなかった。勿論被収容者たちの間で恋愛関係もあった。「喜びの館」と呼ばれたものはその障害物になったのではないかと疑っている。そうした館がアウシュヴィッツ内の被収容者の為に存在していたという事実は戦後の報告で完全に無視されている。そうした売春宿への入場は善良なる振る舞いのある種の報酬だった。カポの顔に入場券を投げつけた被収容者もいた。言っておくが、それは私にとって善良なる振る舞いの特別な見世物であったがため、彼らは賞賛すべきである。オルガはお喋りを絶えず愛しており、死体が焼かれているかいないかについての彼女の終わる事のない駄弁や噂話や思索は、(そのような出来事は確実になかったと知ってはいるが)最終的に私を苛つかせた。これは、彼女のほぼ奴隷じみた隷属と併せて、私たちの道を違えさせることとなった。彼女には新たな仕事が与えられ、私は彼女を出し渋りはしなかった。彼女は女性収容所の「監視者」となり、そこで仕事のない男たちを閉め出すのが彼女の職務となった。オルガは「悪戯者」の才能があり、女性収容所から男を排除している彼女を見るのが喜びとなれるほどに美しく叱責できた。彼女の被収容者仲間は彼女を「ケルベロス」(地獄の猟犬)と呼んだ。
善良なる老オルガがどうなったのかは気になってしまう。彼女は共産ポーランドに戻りたいと思ってはいなかった――被収容者のほぼ全員がそうだっただろう、ユダヤ教徒でさえもだ。彼らの多くはドイツの勝利を祈ってさえいた。最近私が訪ねた同僚から、彼らのうち大多数はU.Sにいると知った。彼は未だその一部と連絡を維持しているという。一部はまた裁判でSSの職員の為に証言するつもりだったが、連合諸国によって、なかんづく西ドイツの権力者によってその権利は否定された。そうした報告は当時の「右翼」新聞紙によって公表された。
アウシュヴィッツに秘密はなかった。1944年9月に赤十字委員会がこの収容所を調査したが、ビルケナウの収容所の方により関心が持たれていた。
出版社注釈:――国際赤十字委員会が提出した156ページからなるこの報告を読めば、同種のうちで最大級の収容所であり「死の収容所」であると公表されているアウシュヴィッツは赤十字の報告の中で僅かな段落のみ割り当てられているという点は奇妙に感じられる、また、ティース・クリストファーセンの主張に真実味を与えているようだ。
ライスコでも大量の検査を受けたが、訪問者たちの関心の大部分は植物栽培に向けられていた。私は時折そうした団体旅行に巻き込まれた。被収容者が訪問客と会話する事は認められていなかったが、被収容者たちは自分たちの仕事を訪問客に説明した。
訪問使節団
当時コルヒチンの実験をしていた。イヌサフランの毒だ。その毒の助けもあり、私たちは倍化した染色体を持つ植物を開発した。そのような植物は巨大になるよう手入れされたが、肥沃さという費用は必要だった。倍加染色体した植物の種の収集は依然として重大な役割を果たしたが、種の収穫は単純なものではなかった、その植物の繁殖装置はタンポポ繁殖装置に似ていたからだ。一部の才能ある技師とロシアの農学者の助けもあって、私は収穫機器の製造を始めた。何人かのロシアの農学者は「亜鉛メッキ(ドイツ語原文lonogalvanization、英訳longalvanization)」と呼ばれるやり方で作業をした。亜鉛メッキという目的のため、被収容者たちは極めて短時間の周期で機能する器具を作っていった。撃墜させられた飛行機のところにあったお店で私が見繕った物資はばらばらになった。被収容者はそこで、それがあれば小さな無線受信機を作れるような物資も見つけた。勿論彼らはそれらを収容所に持っていってはいけなかった。私自身がアウシュヴィッツで無線受信機の作り方を学んだ。先生は被収容者たちで、彼らは小さな受信機一式の為に必要な全てを供給してくれた。
アウシュヴィッツでは、勿論植物栽培をしていただけではない。数え切れないほどの調査任務が遂行された。そこの労働者の可用性のため、調査作業がどんどんとアウシュヴィッツに委任されていった。当時この場所は空爆から極めて安全でもあった。約2週間ごとにSSの職員たちが賭博の為に集まった。そうした時、部署の長たちが自身固有の作業分野について話す事があった。面白い講義を沢山聞いたが、攻撃的だったかもしれないものは覚えていない。後に生きた人間に対して行われたとされる実験を耳にした。様々な食事量の母親の子宮の胚の発達に関する講義を拝聴した事を覚えている。そうした女性たちは研究されている間、飢餓状態になるまで減量をしながら腹を膨らませて子供を産まなければならなかったのかは分からない。しかし私たちに言われたのは、そうした実験は妊婦の食事の配慮に価値ある洞察をもたらしたということだ。新たに開発された医薬の被収容者に対して行われた実験の報告は私には尤もらしいものには聞こえない。アウシュヴィッツの医師は、人に与えられる医薬は動物相手の実権が終わってからだけだと私に言っていた。この実践はあらゆる文明国で未だに行われているものだ。
戦後、巨大な煙突を複数映すアウシュヴィッツに関するTV番組を見た。すまないが、1944年12月にアウシュヴィッツの収容所を離れた時にそのような建物は見ていない。あのような煙突複数が1944~1945年の厳冬に建てられたとは想像できないが、あれらの構造物が戦後に建てられたのではないかと疑っている。そのようなものが存在していたとしたら、SSが破壊しなかったというのも信じがたい。ここ数日の間、アウシュヴィッツで射殺されたとされる400万人に関する報告を無線放送で聞いた。聞いた事がないのだから、アウシュヴィッツで射殺された人がいない事はまず間違いない。しかしあるとき収容所内でとても興奮することが起きた事は思い出せる。人質が射殺されているという噂が広められた。この種類の復讐は、無実の人々を撃つがため私が考えられる内で最も見下げ果てたものだ。それが起こったのは――先とは真逆に――まず間違いない。爆撃ごとに被収容者たちが殺されなければならないとしたら、200,000人の誰も生きて強制収容所を出られないだろう。それに基づけば、アウシュヴィッツは4年しか操業されていないことを考えると、1年につき100万人あるいは1日につき3,000人が死ななければならなかった。毎日3,000人がその内で焼かれた火葬棟の見た目はどのようなものになるのだ? この指示では大量墓地すら秘密にはできない。
しかしドイツ人たちは大量殺人を信じ続けている。何故だ? 真実を知っている我々は、凄まじい責任を負ってはいないだろうか? 何故こうも長らく私たちは沈黙を続けていたのだ? 私がその質問への回答を試みよう。
私の個人的な経験が公に発表された時どのような変化が起こるだろう? ほぼ確実に何も起きない。ある程度私に対して異論が発され、この小冊子を差し押さえる試みがなされるだろうが。
我らが国民は、特に子供たちは、直近の世界大戦の勝者によって押しつけられた罪の意識から解放されなければならない――そして私たちを解放するのは真実のみだ。
思い出せる限りで私の経験の記憶を記録した。私は真実を述べている、神よ我を助け給え。こうした私の証言によって我らが若者たちが兵士としてドイツのために戦い、確実に犯罪者ではない父祖により敬意を持つようになるのであれば、幸福の極みだ。
1973年1月3日、カルバーハーゲンにて。
モールキルヒ町字カルバーハーゲン2341番地。電話番号(0 48 46)8 88。
1973年3月のアウシュヴィッツの嘘(Die Auschwitz-Luege)の出版は空爆のように民主主義擬きの体制に衝撃を与えた。30年近い間、この世界には「ナチの残虐行為」と呼ばれる正史で溢れている。異なる事実が記されたあらゆる文書と報告は破壊あるいは抑止され、勇敢にも本当の話を告げようとしたあらゆる証人は吊されるか、幽閉されるか、脅され、15世紀の異端審問も比べれば青ざめる程だ。異なる事実を敢えて出版する歴史家は全て攻撃を受けるか嘲笑され、通常大学で授業する伝手を失った。
一部は殺されさえした。
だから一般人は殆ど真実の情報に触れられておらず――大部分は――「ドイツ人は600万人の無辜なるユダヤ教徒をユダヤ教徒だからという理由だけでガス殺した暴力的な怪物であり、殺された者たちは勿論全員人が好く善良で慈愛の極地だった」と信じ始めている。一般的な考え方によれば、犯罪者だとして法的に殺されたユダヤ教徒も、軍事法に従って正当に処刑されたユダヤ教徒もいないという。ユダヤ教徒の死は常に違法な行いだ――質問も疑問も許されないのだ、と。
マンフレッド・ローダー自身はあらゆる種類の再教育を受けており、長らく600万人のユダヤ教徒が殺されたあるいはガス殺されたと信じさせられていた。彼は他の者と同様、強制収容所は絶滅収容所だったと信じていた。ティース・クリストファーセンと会い、彼自身の経験による本当の話を聞くまでは。
クリストファーセンは利己心もなく偏見もない極めて稀な証人の1人だ。彼は何かを隠す理由を持っていたかもしれないアウシュヴィッツの番兵でも、自分への被害を誇張する傾向があるかもしれない囚人でもない。クリストファーセンは不偏不党の人物だ。彼は収容所の被収容者たちと共に働かなければならなかったが、彼らへの執行力を持たず、彼らを守ったり罰したりする権利も持たなかった。
彼の報告は簡素にして説得力があり、劇的ではなく、人がアウシュヴィッツについて耳にする全てに反するもので、他の「証人」全員を、そしてまた、特に、法廷の前に7回も話が変わらければならなくてさえも自分たちによる判決を「専門の証人」による劇的な物語に基づかせた裁判官たちを、恥じさせるものだ!
弁護士による前書き付きのこの報告の発表は衝撃を引き起こした。信じられないものだった! 嘘と歪曲の体系から30年後に罅が入り始めたのだ。ユダヤ教徒から狂気の抗議が起きた。テル・アヴィヴではユダヤ教徒向けの諸紙面が、西側のあらゆる国々のユダヤ教徒が行ったのと同様に獰猛にこの本を攻撃した。西ドイツのJewish Weekly誌は1面の大見出し「嘘吐き仕事中」下に編集長ガリンスキによる記事を掲載し、ガリンスキはクリストファーセンとローダーをゲッベルス以来の最大の嘘吐きと呼んだ。これは嬉しい褒め言葉だ、ゲッベルスは恐らく史上最高の宣伝戦の天才だった――そして彼の宣伝戦は事実に基づいており、嘘に基づいていなかったのだから!
サイモン・ヴィーゼンタールは「適切な行動」を取る法廷と弁護士会を責め立てた。
「特にローダーの前書き内には調査に値する意見があります。」
最初、法廷と弁護士会は何かをすることを拒否した。しかし圧力が強まり、最終的にローダーは「不適切な過激な政治観と行動」によって弁護士資格を剥奪され、ダルムシュタットの別の法廷はローダーに、法廷及び弁護士費用に加えて7ヶ月の懲役と$2,000の罰金を宣告した。ローダーのみが前書きがため法廷へと連行され、クリストファーセンはそうはならなかった、何故なら――裁判官が嘲笑いながらローダー氏に言うようにだ――
「我々には言論の自由があり、誰でも好きなように著せますが、貴方のクリストファーセンの報告の解説は反ユダヤ主義に聞こえ、その犯罪的態度によってあなたを罰するのです。」
法廷は「意図的に少数派(ユダヤ教徒)に対する人種憎悪を煽った」という罪を彼に見出した。ガス殺室の存在の否定には、反対の証言をしたあらゆるユダヤ教徒は嘘吐きであるという推測が含まれているかもしれない(実際のところ含まれているだろう!)この係争案件の功績には以下の証言が含まれる:
「絶滅計画とユダヤ教徒迫害が全くなくてさえ(これはユダヤ教徒は全員嘘吐きということになる)、ユダヤ教徒は嘘を吐いているという意見は反ユダヤ主義です、何故ならこれは人種憎悪を掻き立てるからです! これは公共の平和を危険に晒します!」
西ドイツの最高裁判所はこの判決に無効を宣言した、その理由は、この判決は馬鹿げており、恣意的でありあらゆる論理に反しているから、ではなく、余りに寛大だから、というものだった。別の下級裁判所はローダー氏を再審理し、少なくとも数年単位へと罰を増すよう指示を受けた、何故ならば:
「弁護士のような責任ある市民は最近の歴史の十分に確立した事実を無視してはいけません。さもなくばその弁護士は少数派に対する自身の悪意と犯罪の意図を明かすことになるでしょう。」
ローダー氏は現在1978年1月以来亡命しながら現在も生きている。文字通り数ダースのいかさま裁判による「告訴」は宙吊り状態だ。彼が現在の政治機構下にして占領体制下のドイツ及びに戻ったなら、彼は(Platoが行っているような)「民主主義を毀損している」という理由で、あるいは「憲法違反の宣伝戦」という理由で即座に逮捕され投獄されるだろう。ドイツ再統一と占領軍全ての撤退を求めることで、ローダーは、彼が単一主義と呼んでいる民主主義擬きへの最も熱烈な体制批判者となっている。ジョージ・オーウェルによる暴政の伝統的な研究で描写されている「思考犯罪」によって彼は現在国際刑事警察機構によって迫害されており、指名手配が複数件発せられている。
アウシュヴィッツの嘘はドイツ国内の若者たちが買い密かに売り上げ一位となり、同時すぐに完全に「proof of dangerous neo-Nazi activity」は一掃されなければならなくなった。ここまで広く議論と騒乱を引き起こした本は他に皆無である。
JÜDISCHE WQCHENZEITUNG
PREIS 80 PEFNNIG
XXVIII. JAHRGANG ―― NUMMER 28 DÜSSELDORF, DEN 13. JULI 1973
Lügner am Werk
フォン・ハインツ・ガリンスキ
1973年7月13日西ドイツのJewish Weeklyを再印刷したもの、見出しに加えてこうある:
編集長によるこの記事は、この本(The Auschwitz-Lie)は「ガス殺室の否定によって新記録を打ち立てた、1945年以来誰も敢えてこのように見え透いたやり方をしなかったのだから」、と指摘している。筆者たちはヒトラーとゲッベルスの考えに従っている、と。編集長はそして、この記事から長々と引用しとこう結論づけている:
「これは典型的な歪んだ民族社会主義者の宣伝戦であり、我々の民主主義とその憲法の中にその宣伝戦が存在する余地はない。我々はこの本の筆者たちに対する、迅速で適切な裁判を要求する。この毒々しい小冊子を重要でないと見做すのは重大な誤りであろう。ドイツの反動主義者たちはこの出版を携えながら、自分たちは第三大国の賛美からどれだけ離れられるかを実験しているのだ。我々の民主主義的な主張は適切な回答を彼らに与えるに違いない。」
DOKUMENTATIONSZENTRUM
DES BUNDES
JÜDISCHER VERFOLGTER DES NAZI-REGIMES
An den Präsidenten der Rechtsanwaltskammer.
Zeil 29 (Pres. of the Bar Association)
D-6000 Frankfurt/Main Wien, 10.5.1973/SW/da
親愛なる会長:
この書簡に、マンフレッド・ローダー弁護士が代表を務める、所在地614-ベンスハイム、ルーンシュトラーセ8番の「ドイツ市民自発会」(Deutsche Buergerinitiative)が出版している「アウシュヴィッツの嘘」と呼ばれる冊子を同封しております。彼は御弁護士会の一員であると想定しております。
この冊子にはアウシュヴィッツ強制収容所とユダヤ教徒の受難に関する、悪意に満ちた、長らく証明されていない主張が含まれている、という事実は別にして、そこには御弁護士会の倫理委員会が調査するに値するローダー氏の前書きの見解があります。
この冊子を、特にローダー氏の前書きを読み、決断して頂けませんでしょうか。どうあろうと、貴殿による聴取を感謝いたします。
敬具
署名:サイモン・ヴィーゼンタール
親愛なるヴィーゼンタール氏へ:1973年5月30日
フランクフルトにある弁護士会は、冊子「アウシュヴィッツの嘘」に関連している5月10日付の貴殿の書簡を転送しました。貴殿に個人的に返信したく存じます。
貴殿は、貴殿の友人たちによる支配であり教導である、布かれている貴殿の再教育計画にドイツの弁護士1人が従わない事を、そしてその弁護士が従う代わりに強制収容所での残虐行為とされるものを支える為に目撃者及び信憑性のある文書化を独自に求めていることを懸念しているのでしょうか? 貴殿の懸念は、1967年1月27日に私は弁護士として宣誓した時に誓いを立てなければならなかったため、十分に正当です。
「全知全能たる神による法による秩序を保つため、そして弁護士としての義務を誠実に果たすため、神よ我を助け給え」。
その誓いと共に私はヴィーゼンタール氏及びその文書化センターが正当と認め望んでいる「真実」版を敬うよう自身に義務づけはしなかったし、「ニュルンベルクで認可された真実」を認識するよう義務づけもしていません。私の同僚もそのような追加の誓いをしているなど認識していません。
何より貴殿の「文書化センター」が大量の文書に裏打ちされていないと分かって以来、私は証人を探すのに手間暇をかけているのです。そう、貴殿にユダヤ教徒殺害とされるものに関する文書を求める緊急の要望を送った際、貴殿は紙切れ1枚たりとも私に提供しませんでした。提供する代わりに貴殿は、ユダヤ教徒起源の曖昧な人口統計に言及したのです。
いつから人口統計が殺人の証明になったのです? ドイツ法に従えば、告訴がなされる前あるいは有罪判決が下される前に特定の人間が誰かを殺したという無欠なる証拠の鎖がなければならない筈です。しかし貴殿は犠牲者とされる人々の名前を上げることすらせず、その死の状況を話しもしないではないですか。貴殿は単に戦前戦後のユダヤ教徒の人口比較を殺人の証拠にしているだけです。戦後にいなくなった人間それぞれはユダヤ教徒によって復讐のため殺されたのだと言うのと似たような偽善でしょう。そのような出来事に於いて何が起こったのか、貴殿は分かりすぎるくらい分かっているでしょう。ですが“貴殿の”人口統計に従えば失踪しているというユダヤ教徒それぞれは、野蛮なドイツ人によってガス殺され焼却されたと主張し続けても構いませんよ。資格を持つ技師である貴殿は、技術的観点からそのような主張の誤りを認識すべきです。
ああまで多くの人間の死体を欠片も残さず焼き尽くす為にドイツ勢力圏内全体で戦時中に見つけなければならない燃料は存在しないでしょう。勿論灰の山も何処にも見つかっていません。そしてそうした葬儀に必要不可欠な巨大施設は跡形もなく地上から消え去っています。戦後には完全に、微塵も見つけられません。私が、アウシュヴィッツクリストファーセン氏によってなされた観察内容全てを保証する、戦後アウシュヴィッツにいた十分な目撃者たちを現在知っていることに貴殿は関心があるかもしれませんね:
そうした絶滅施設はありませんでした! しかしそうした目撃者たちは真実を公に告白した場合のポーランド人や特定のユダヤ教徒組織の報復を恐れています。私は自身の職能の範囲内で自由契約として公に意見を述べることしかできません。貴殿は現在、弁護士会に圧力をかけて未来の弁護士たちが「貴殿の真実の出典」に従うしかできなくしようとしています。恐らく貴殿は少しばかりドイツの弁護士たちに与える影響を過剰評価しています。
ですが貴殿の非常に啓発させる書簡には感謝しています。私が所有する貴殿のセンターからの最高の文書です。つまるところこの手紙は、貴殿はドイツ全土の情報と諜報活動取締法との緊密な連絡網を保持していることを証明しているからです。連絡網がなければ貴殿が、現時点で極めて選ばれた人々の集団にしか渡しておらず大々的に提供したり販売したりはしていない「アウシュヴィッツの嘘」の小冊子の写しを入手できるとは考えにくいですから。貴殿が「自分はドイツ市民自発会の友人の中に属している」と考えているとは私には想像できません。
勿論、この小冊子の輪が最大に広がることを願っていますし、貴殿がユダヤ教徒の友人たちの一部にこの冊子を何冊か配布してくれれば感謝すること頻りですが。前書きに記した通り、この小冊子は真実の発見という目的にのみ仕えており、まともなユダヤ教徒であれば皆この冊子を歓迎するものと確信しております。愚者あるいは戦争狂のみがドイツに対する恐怖の宣伝戦を続かせることを望んでいます。
貴殿の書簡は別の面でも驚くべきものです:貴殿はドイツの秘密の「Gauleiter」もしくは公衆の意見を統制・検閲する為の世界組織の使節になりたいかのような印象を受けます。ドイツの弁護士たちの職務活動を監視し、弁護士会に提案する権利を誰が持っているのですか?
我々ドイツの弁護士たちはユダヤ教徒のあるいは他の形式での検閲や支配を評価しません。我々の問題についてこれ以上嗅ぎ回る前に、貴殿はゲシュタポの遂行者になっていると主張するポーランドの新聞紙の告発に対応する方が貴殿にとって賢明でしょう、少なくとも貴殿の多忙を極める反ドイツ活動は「捕り物」の類のように見えます。
この書簡の写しは弁護士会に送られるでしょう。この問題の重要性のため、我々の対応を宣伝するつもりです。
敬具
署名:マンフレッド・ローダー、弁護士
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