「さて、弁護人は、ホロコーストの定義を『大戦末期のユダヤ人の大量死』と改定しました。
そして、この定義でいけば、ホロコーストの実行犯、すなわち『大戦末期のユダヤ人の大量死』はドイツの援助活動を無差別爆撃で妨害した連合軍によって引き起こされた。
その命令を下したのはこのヤルタ会談の三巨頭。
英国のチャーチル首相、米国のルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長がホロコーストの真犯人である、と」
↑ ホロコーストの真犯人
「弁護人の言い分はそれでよろしいですか?」
「そうです。
この3人は連合軍の最高指導者だった。
この3人が無差別爆撃を許可したのだから、当然ホロコーストの実行犯はヤルタ会談の三巨頭ということになる」
「では、連合軍はホロコーストの実態を知っていたということを立証してください。
弁護人の提出した資料によれば、ドイツの収容所は人道的な運営がされ、外部よりも収容所の中の方が生活水準が高かったそうですが、連合軍はそれを知っていたのですか?」
「判事、あなたは肝心なことを忘れている」
「肝心なこと?」
「その通り。
前回の弁護人の怪しげなソースだが、それを裏付ける証言がないのはおかしいじゃないか」
「ナチスが人道的だったなんて証言したら、マジでやばいから誰も言わないだけなんじゃねぇの?」
「それは理由にならない。
弁護人の提出した資料が正しいのならば、それを裏付ける証人が一人くらいはいてもいいはずだろう?
それとも『ナチスの収容所は人道的だった』という証言は一つもないのか?
所詮ホロコースト否定論など空想の――――」
「あるぜ」
「産物……なに?」
「あるって言ったんだよ。
『ナチスの収容所は人道的だった』という証言は存在する」
「そんなのがあるの?」
「ほいよソース」
参考資料: 『Did Six Million Really Die?』 著Richard E Harwood
Communist leader Ernst Ruff testified in his Nuremberg affidavit of April 18th, 1947 that the treatment of prisoners on the work details and in the camp of Dachau remained humane. The Polish underground leader, Jan Piechowiak, who was at Dachau from May 22nd, 1940 until April 29th, 1945 also testified on March 21st, 1946 that prisoners there received good treatment, and that the S.S. personnel at the camp were "well disciplined". Berta Schirotschin, who worked in the food service at Dachau throughout the war, testified that the working inmates, until the beginning of 1945 and despite increasing privation in Germany, received their customary second breakfast at 10 a.m. every morning. In general, hundreds of affidavits from Nuremberg testify to the humane conditions prevailing in concentration camps; but emphasis was invariably laid on those which reflected badly on the German administration and could be used for propaganda purposes. A study of the documents also reveals that Jewish witnesses who resented their deportation and internment in prison camps tended to greatly exaggerate the rigours of their condition, whereas other nationals interned for political reasons, such as those cited above, generally presented a more balanced picture. In many cases, prisoners such as Charlotte Bormann, whose experiences did not accord with the picture presented at Nuremberg, were not permitted to testify.
共産主義者の指導者エルンスト・ラフは1947年4月18日のニュルンベルクの自白調書の中で、労働囚人への扱いと、ダッハウ収容所内は人道的だった事を証言した。1940年5月22日以降ダッハウにいたポーランドの地下組織の指導者ジャン・ピホーヴィアクも、1946年3月21日に囚人たちは良い扱いを受けていたと、そしてその収容所の親衛隊の職員は「規律正しかった」と証言した。戦時中ずっとダッハウの食糧班で働いていたベルタ・スカイロツチンは、働く囚人たちは1945年初頭まで、そしてドイツの増大する窮乏にもかかわらず、毎日午前10時に慣習となっている2度目の朝食を受け取っていた、と証言した。概して、ニュルンベルクからの数百の自白調書が強制収容所内で広く維持されていた人道的な状況を証言している。しかし強調されたのはいつも、ドイツの管理を劣悪なものに思わせる、宣伝戦目的に使えるものだった。文書研究も、『自らの追放と監獄収容所への抑留に憤るユダヤの証人は自らの状況の過酷さを甚だ誇張する傾向があり、一方で上記のような政治的理由で抑留された他の国民は概してより均衡の取れた叙述を提示している』事を明らかにしている。多くの場合、シャーロット・ボルマンといった、ニュルンベルクが提示した叙述とは合致しない経験をしている囚人は証言を許されなかった。
「コミュニストのリーダーであるエルンスト・ラフは1947年4月18日のニュルンベルク宣誓供述書の中で『ダハウ収容所の囚人の処理は人道的なままだった』と証明している。
ポーランド地下組織のリーダーであるジャン・ピッチウェイク(Jan Piechowiak)もまた1946年3月21日に『ダハウ収容所の囚人の待遇は良かった』と証明している。
ジャンは1940年5月22日から1945年4月29日までの期間、ダハウに収容されていた。
つまり、ホロコーストが行われていたとする期間のほとんどを収容所内部過ごしていたわけだ。
ダハウが絶滅収容所でないことは囚人だった彼らが一番よく知っている」
「もともとホロコースト見直し論は枢軸国側の人間から発生したものではない。
収容所の囚人から発生したものだ。
言い出しっぺは連合国側なのに、なぜホロコースト見直し論を支持するとネオナチのレッテルを張られるのかよくわからんな」
「ダハウが絶滅収容所でないのは連合国も認めているし、ダハウ博物館が絶滅収容所であることを否定しているのだからもはや議論の余地はない。
問題はダハウ収容所の経営方針が人道的だったという点だ。
戦争中、収容所の内部の囚人は外部の一般人より遥かに良い待遇だった。
だが、戦争が終わって外の世界に出てみれば絶滅計画があっただの、ガス室で殺されていただのといったヨタ話が当然のように蔓延していた。
ホロコースト見直し論はネオナチや反ユダヤ主義勢力がでっち上げたと言われているが、もともとは実際に収容されていた囚人による抗議行動から始まったんだ。
連合軍の爆撃で食糧がストップしていたことは、そこで働いていた人間ならよく知っている。
ユダヤ人を飢えに追い込んでいた連合軍が、解放軍としていきがっている姿を見て囚人たちは釈然としなかったはずだ。
ましてや、ユダヤ人を救うために全力を尽くしていたSSが証拠もないのに犯罪者にされて、良心のあるユダヤ人たちは苦悩しただろう。
だから彼らはニュルンベルク裁判で本当のことを供述した。
戦争直後の『ナチス=絶対悪』の空気の中で事実を事実のまま話すことは勇気のいることだ。
ナチスのスパイとして殺されてしまうからもしれないからな。
それほどの覚悟を伴う証言をしたのに、『ナチスの収容所が人道的だった』という証言は隠蔽されている。
理由は連合軍に都合が悪いからというだけでだ」
「いつものことだな」
「弁護側はナチスの無実を証明する証人を探し出した。
だが、彼らはニュルンベルクに来る途中に『行方不明』になることがあった。
このような検事に都合のいい話は一件や二件ではなかった。
そして彼らの証言が必要とされる審理が終ったずっと後で、彼らは姿を現した。
ニュルンベルク裁判を調べれば調べるほど、マッカーサーの軍隊が紳士に思えてくる。
まさにニュルンベルク裁判は魔女狩りだったんだよ!」
参考資料:エルンスト・ツンデル著 「ニュルンベルク:消えざる犯罪」
(アドレス:ttp://www.nsjap.com/v_b/12.html)
想像してほしい.もしあなたがニュルンベルク裁判で弁護側に立って証言したいと言えばどうなったかを.つまりあなたは,ルドルフ・ヘス,ヨアヒム・フォン・リッベントロープ,カルテンブルナー,ゲーリング,シュトライヒャー,あるいはカイテル,ヨードル,ディーツ,レーダーらの軍事指導者の弁護側に立つわけである! そして証言許可を得ようして,あなたが軍事当局に出向いた時,あなたの前に立った人がロシア,フランス,アメリカ,イギリスの軍服を着たユダヤ人だったと想像してみよう.その軍人は何と返答してくるだろうか? 彼は,あなたが「ナチス的愛国者」であり,未だ「犯罪」を続行しようとしていると思わないだろうか? 多くの人々がこのような立場に身を置きたがらなかっただろうことは,何もロケット科学者の知性がなくとも分かることである.多くの人々は弁護側の証言者に立てなかった.彼らは残酷な戦争,恐ろしい空襲,そして「解放」という名の強姦・強奪をやっとの思いで生き抜いたのである.このような状況下,誰が自ら進んで逮捕・殴打・拷問などを受けたいと思うだろうか?
しかし驚くべきことだが,自ら進み出て,ニュルンベルクの不運な罪人たちを弁護しようとする証言者もいたのである.しかし次のような例も1,2件ではなかった.ニュルンベルク裁判の弁護士たちが,弁護側にとっての重要証言者の居場所をつきとめ,割り出した.しかし,検事には実に都合のいい話だが,そうした証言者たちはニュルンベルクに来る途中「行方不明」になった.そして彼らの証言を必要とする審理が終わったずっと後で,彼らは姿を現したのである.
弁護士たち自身,全く勝ち目のない裁判を戦わねばならなかった.彼らは寒く,湿った,空襲で焼け残った事務所,半ば崩れかかり,窓に板が張られた事務所で活動していた.彼らは寒さと忍び寄る湿気から身を守るために,オーバーコートを羽織り,帽子・スカーフ・手袋を着用して文章を書き,弁論を練ったのである.そして彼らが弁護しようとしている罪人たちは日々,報道機関・ラジオ・メディア・連合軍ラジオの中で,軽蔑すべき化け物,非人間的・犯罪者として誹謗されていた.彼ら弁護士は,まるで自分がカフカの小説に出て来る悪魔的裁判(それがニュルンベルク裁判であったが)にいるような気がしたことだろう.
ドイツ人にとってまさに絶望的な時代だった!弁護活動は,人員,場所,タイプライター,リボン,カーボン紙の不足により遅々として進まなかった.そう,カーボン紙までなかったのである! コピー設備,紙の供給も不足していた.私たちは忘れてはならないが,1945年当時,コピーは写真で撮られていたのである.まず文書を特別カメラで撮影し,ネガを作り,それを乾かし,このネガを暗室で拡大し,写真用紙にプリントしなければならなかった.この写真用紙へのプリントのためには,当時入手しにくかった化学物質を使わねばならず,また写真用紙を乾かすためにも貴重な電力を消費しなければならなかった.当時,電気は厳しい配給制限下にあり,1日2時間(1人当たり)の割り当て量しか配電されなかった.これらを踏まえた上で,あなたが弁護士であると仮定してみよう.弁護団は20数名で,弁護しなければならない被告は多数いた.そして検事から30ページ,50ページ,100ページ,200ページに及ぶ文書を数多く手渡される.裁判までの日数は限られており,その間に研究し,分析し,罪を計り,無実にできそうな被告を探さねばならないのである.当時のドイツは空襲に焼け出され,通りには何千万ものホームレスがさ迷い,凍え,飢えていた.電話帳も市民台帳も事実上使えなかった.なぜなら,電話はまだ多くの場所で復旧されておらず,民間人が管轄当局から電話・敷設許可を得ることなどほとんどできなかったからだ.あなたが医者のような「重要人物」でない限り,それは無理だったのである.
「そして『ナチスの収容所は人道的だった』という証言を裏付けるのは前回の資料というわけですね」
「その通り。
ホロコースト肯定論には、証言だけで物的証拠がないが、
ホロコースト否定論には、証言も物的証拠もある。
どちらが正しいかは誰の目にも明らかだ」
「ふははは!
何を馬鹿なことを!
ホロコースト否定論が正しいならば、ユダヤ人は死んでいないことになる!
ではそのユダヤ人は戦後どこへ行ってしまったのだ?
説明できまい!」
「殺されてないなら生きてんだろ。
だいたいそれを説明するのは検察の役目じゃないのか?
殺されたって主張が成り立たないなら殺人罪には問えないぜ」
「戦争の死者を正確に把握しようとすることがどれくらい難しいか知らないアホはこれだから困る。
ましてや総力戦で国全体が戦場になった戦争ならなおさらだ」
「常識のウソ 277」 ヴァルター・クレーマー(ドルトムント大学経済学・社会統計学の教授)、ゲッツ・トレンクラー(同大学の統計学の教授)著 文春文庫
『見る人を数字の羅列で圧倒するような、細かいところまで妙に厳密な数は、実は極めていい加減なものであることが多い。たとえば、イギリス中央統計局発行の『数字との格闘』には「第二次大戦中、1316万5233人の民間人が死亡した」と記されているが、この8桁の数字のうちどれ一つとして正確なものはない。第二次大戦中の民間人の死亡者数は、百人単位どころか、千、万、いや百万人単位ですら正確に把握されていないのである。』
「戦勝国のイギリスでさえ、自国の被害がどれくらいなのか正確な数字はわかってない。
ましてや、連合国はWWIIの極秘資料を全て公開していない
アウシュヴィッツ収容所の死亡記録だって41年と44年の分は非公開のままだ。
こんな現状では、正確な数字などわかるわけがない」
「戸籍を見ればわかりそうなものなのにね」
「日本人には意外かもしれんが、欧米には日本のような戸籍制度はないぜ」
「え? そうなの?」
「戸籍は日本人の氏名、生年月日、父母との続柄、配偶関係などの身分に関することを公証するものだが、このタイプの戸籍制度があるのは日本・韓国・台湾だけだ。
日本では出生、結婚、離婚、死亡などの度に戸籍を修正する。
家族や親戚との関係も一目瞭然だから、その人がどこの誰かというのが簡単に、しかも正確にわかる。
韓国と台湾にこの制度があるのは、日本の同化政策の結果だな。
しかし、他の国ではこういう制度はない。
たとえばアメリカやイギリスは事件別偏製方式、つまり出生・結婚・死亡の度に戸籍を届けるが、それぞれが独立してしまっているので、一覧表で確認できない。
日本で出生記録を誤魔化せば、自分以外の親類の戸籍そのものを全部誤魔化さないと一発でバレる。
だが、アメリカではそーいうことはないから、自分の出生記録だけを誤魔化せば、それだけで別人になれる。
ドイツは事件別編製方式+附表、つまり出生・結婚・死亡に加えて事件別の登録に加え、離婚・縁組・認知・準正などを欄外付記があり、ナチスはこれに家族単位の身分登録が行われる家族簿を加えた。
人種政策に家族簿が必要だったからな。
人口統計ではここに最大の問題がある。
テッサ先生も言っていたように、ヒトラー政権下のユダヤ人はユダヤ人であることを否定してドイツ国民となるか、ユダヤ人として国外に出て行くかの二つの選択肢を求められた。
その結果、15万人のユダヤ人が国防軍に所属していたわけだが、このときユダヤ人は書類を偽造していた。
兵士だけで15万人なのだから、その家族を含めれば、数十万人のユダヤ人が書類を偽造していたことになる。
これがどーいうことなのかわかるか?」
「ユダヤ人の正確な人口はわからないってこと?」
「そうだ。
ユダヤ人の定義そのものが各国・時代ごとでバラバラだし、当のイスラエルでさえ実はよくわかっていない。
第三帝国時代のドイツではユダヤ人の定義は8分の1の血統だが、これがウクライナやロシアになると自己申告制となる。
こうなるとユダヤ人は肉体的なものというよりは、精神的なものとなってくるし、その土地の民族に同化してしまえばユダヤ人は生きたまま消えたことになる。
正確な数字なんてわかるわけがない。
さらにユダヤ人は、欧州各国で差別された歴史から、書類に自分の存在を知らせることを非常に嫌う。
ナチス時代のユダヤ人も書類に自分の存在を残すことを嫌っていた」
「なんで?」
「迫害されるのが怖かったからだよ。
中世のユダヤ人は、ユダヤ人とわかっただけで財産を没収されることがあった。
しかし、常に金貨や宝石で取引するわけにもいかない。
そんなことをすれば輸送量だけで莫大なコストがかかってしまう。
そこで自分の名前を書かず、しかし物資と同等の価値を保証する書類が発明された。
これが銀行券で、ようするに千円札とか一万円札のあれだ。
ユダヤ人が金融を牛耳っているのは、現代の金融システムの構築にユダヤ人が大きく貢献していたからだ。
だが排他的で選民思想を持つユダヤ人が経済を握れば、他の民族がいい感情を持つわけがない。
自分たちが嫌われていることをユダヤ人は知っている。
だから社会の表には出てこなかったのさ。
嫌われたままでも平気というのは日本人には理解できないだろうが、あいにくユダヤ人はそれが平気な民族だから性質が悪い。
これはそーいう文化だからどうにもならないけどな。
そして、あまり知られていないが、ナチスの収容所にぶち込まれたユダヤ人はだいたいが戸籍がない浮浪者・乞食・犯罪者・密入国者の類で、しっかりした戸籍と社会的地位を持っていれば収容所にぶち込まれることはなかったんだ。
戸籍と社会的地位のある人間はテロなんて起こそうとしないからな。
むしろ、そういう人間は社会の基盤を支えているのだから、やたらめったに逮捕すれば国力が低下してしまうだけで意味がない」
参考資料:「粘土足の巨人 ラウル・ヒルバーグとホロコーストに関する彼の標準的著作」著ユルゲン・グラーフ
ユダヤ人絶滅という組織的な政策があったとすれば、第三帝国が支配する地域にはユダヤ人は全く或いはほとんど居なくなるはずである。ドイツ人が捕まえたユダヤ人は誰もが殺されるはずでありもし生存者がいたとすると、それは、「偶然」か「奇跡」であるとみなさなくてはならない。しかし、実際には、第三帝国が占領した国々のユダヤ系住民の大半は移送されなかったのである。よく知られているように、フランスから強制収容されたユダヤ人は20%にすぎずその多くは外国人か、身分を証明できなかったものである。フランス人やベルギーの身分証明書を持つユダヤ人の大半は、手を付けられないままであった。
1942年初頭、ドイツ帝国、占領国、同盟国からのユダヤ人は大量に、ポーランドの強制収容所とゲットーに送られ、少数が、ドイツ帝国の強制収容所、占領ソ連地域の収容所とゲットーに送られた。移送された人々の数は、保存されているドイツの移送リストのおかげで、問題の諸国の大半については、正確に知られている。例えば、フランスでは、セルジュ・クラルスフェルトの研究によると、約76000名のユダヤ人が移送され[75]、それはフランスに暮らすユダヤ人の5分の1であり、その大半が外国のパスポートを持っているものであった。[76] ベルギー、オランダ、その他の西ヨーロッパ諸国、ドイツ帝国に関しても、数に関しては疑問の余地が無い。ハンガリーについては、ユダヤ人移送者の数は438000名であると広く認められているが、アメリカの研究者バッツ教授だけがこれに疑問を呈している。[77] しかし、ヨーロッパ・ユダヤ人が集中していたポーランドからの移送については、資料がまったく不完全で、公式の数字にはかなりの疑問の余地がある。
[75]クラルスフェルトは自分の研究書Le Memorial de la Deportation des Juifs de France (Beate and Serge Klarsferd, Paris 1978)の中で、移送されたフランス系ユダヤ人の数を75721名と述べている。誤差は1−2%を超えないであろう。
[76]したがって、フランス国籍のユダヤ人の大半は、影響を受けなかった。このことと、ユダヤ人の組織的絶滅政策とはどのように両立するのであろうか。
[77]バッツは、自著The Hoax of the Twentieth Century, op. cit. (note 47)の「ハンガリー系ユダヤ人」という章で、ハンガリーからの移送者の数が438000名であることを証明するために使われてきたVeesebmayer Dispatchesが偽造文書であり、ハンガリーからの移送者の実数はせいぜい100000名であったと論じている。彼が自説の根拠としているのは、国際赤十字委員会のハンガリーでの活動報告(1948年)である。そこには、1944年春と初夏の大量移送についてはまったく言及されていないというのである。バッツ説が決定的に反駁されているとは思わないが、移送者数に関する定説の方が正しいであろう。Veesebmayer Dispatchesだけではなく、戦時中の中立国の文書もこの数字を確認しているからである。ハンガリー系ユダヤ人の1944年の移送に関してしては、Jurgen Graf, “What Happened to the Jews Who Were Deported to Auschwitz but Were Not Registered There?”, The Journal of Historical Reviews, 19(4)(2000), p. 4-18. and Arthur Butz, “On the 1944 Deportation of Hungarian Jews”, The Journal of Historical Reviews, 19(4)(2000), p. 19-28.
※ 上記の資料から西側についてのナチスの行動は明らかになっているが、東側のナチスの行動は不鮮明な部分が多いことがわかる。鉄のカーテンの向こう側はまさに“魔界”なのである。
「だからゲシュタポは証拠不十分なら釈放したのか」
「そういうことになる。
ソ連や北朝鮮のような共産主義国家の労働者の仕事時間は恐ろしいほど長い。
一日10時間以上は当然、16時間以上働くという話も珍しくない。
だが、それが逆効果でしかなかったのはソ連崩壊が証明している。
結局のところ、連合国が全ての資料を公表しない限り、すべて明らかにすることは難しい。
だがこれだけは言える。
ユダヤ人が何人死んで何人生きていようと、ドイツが計画的殺人を行ったという証拠にはならない
死体が一体も確認されてない毒ガス大量殺人なんてありえないからな」
「まぁ、普通に考えればそうよね。
オウムのサリン事件だって死体の検死結果はあるわけだし。
死体はどこへ行ったのかしら?」
「ホーキンスと同じですね」
「ホーキンス?」
「逃げ出したアンナを追っていったホーキンスは内臓を抜かれ、木のてっぺんに吊り下げられました。
ホッパーも同じ目に会ってます」
「殺ったのは特殊訓練を受けたゲリラかしら?」
「ゲリラだったら無線を奪います。銃も。
女も逃げているはずです」
「……何を言っているんだ?」
「デュロン、まだわからないのですか?
ここでヤツを向かい討ちます。
ヤツを倒さない限り、ここから生きて帰れません」
「はぁ?」
「RVポイント(合流地点)はここから30キロ先よ。
武装ヘリで突っ込んでくればなんとかなるのに…」
「兵士は道具です。使い捨ての。
当てが外れましたねデュロン。
あなたも私たちと同じ、使い捨ての道具だったようですよ」
「懐かしいねぇ、プレデターかよ」
「人間一人分を痕跡を残さずに消すのは簡単なようで難しい。
ましてや数百万人分となれば、それこそ大仕事になる。
映画の中なら簡単だが、現実の世界ではまず不可能な話だ。
だいたいイスラエルを建国したシオニストどもは、戦時中はナチスと同盟していた連中だぞ。
なんでナチスと手を組んで欧州のユダヤ人をパレスチナに強制移動した連中が被害者なんだよ。
根拠のない被害者プロパガンダを撒き散らしては好き放題やりたい放題暴れまくっているから、ユダヤ人はいつまでも嫌われるんだ」
「まったくユダヤ人はどこまでも嘘つきですね。
ユダヤ人には捏造民族の称号がふさわしいです。
韓国人のような正直者が多い民族を見習うべきですね、ホント」
「正直なのと欲望に忠実なのは違うと思うわよ。
カレスキア(朝鮮人)に比べればユダヤ人の方がまだ良心があるんじゃない?」
「ドイツ軍の戦争犯罪は減る一方なのに、日本軍の戦争犯罪は増える一方だもんな。
なんで毎年毎年『勇気ある証言』とか、『新たな資料』とかが見つかるんだ?」
「それは日帝が隠蔽していたからですよ。
日帝は絶大な権力で軍を動かし、証拠を隠蔽していたのですシナ」
「だからやめろよコリアンネタは」
「これだからチョッパリは困りますね。
誰がコリアンネタを言ったんです?
時代はチャイナですよ。
共産党はぁあああ! 真っ赤に燃えているぅううううう!!」
「どっちでもいいけど、天皇は象徴であって、軍を動かすような権力はないはずよね。
権限があろうがなかろうが無理なことは無理っていう正論がなんで無視されるのかしら?」
「だいたい完全な証拠隠滅ができる余裕があれば戦争には負けてない.
ドイツもそうだが、日独は物資不足で負けたのに、なんでそんなワケのわからない説が一般化しているんだ?」
「まったくもって実に無知無学無意味な発言ですね。
よろしいですか?
通常のやり方では不可能でも、違ったやり方をすれば可能となることはたくさんあるのですよ?」
「というと?」
「例えばこれです」
参考資料: 朝鮮中級学校1年「金日成元帥革命活動」教科書
第29課「三千万は将軍様を崇め」
将軍様のずば抜けた戦術を伝える『縮地法』に関する話も、わが人民たちの中に広く伝わっています。いつの日であったか将軍様は『縮地法』でもって、東西南北を縮めて行き来したといいます。ある時数多くの敵どもが将軍様に立ち向かいました。実に危険きわまりない瞬間でした。この時、将軍様は付近にあった松の葉を取り、その葉を細かくちぎり冠っていた網笠の中に入れ、くるくる回した後、風にとばせました。するとなんと、細かくちぎった松の葉がそれぞれ兵士に変わり、押し寄せた敵どもを全滅させました。金(日成)大将は天下妖術を使い、東西南北を飛んで行き来する。金日成将軍様を民族の太陽として、伝説的英雄として高く崇め奉り、将軍様の意を得て闘おうとするわが人民の気勢は、天をも衝く勢いです。
「このように、妖術を使えば証拠隠滅も可能となります」
「これが中学一年の教科書かよ……」
「実にわかりやすいカルト国家だな」
「何がカルトですか!
そうやってチョッパリは朝鮮人は頭がおかしいというレッテルを張る!
これは文化なのです!」
「文化と言えば何をやっても許されると思っているようだな」
「わかってませんね。
たとえ本当のことを言っても、それが侮辱罪に問われることはよくあることです。
整形した女性のそれを暴露したり、太っている男性を『デブ』と呼ぶことは事実だとしても犯罪なのです」
「言いたいことはわかるが、こんな連中を一般人扱いするってのは限界があるぜ。
仮にも中学生の教科書だろ、これ?」
「うーん、こんな異常なカルト教育を行っているような学校を普通の学校として認めるのは無理なんじゃない?」
「シッパル!
日本人の潜在的な朝鮮人差別意識はもはや深刻な社会問題です。
どうして日本は朝鮮学校を普通の学校として認めないですか?」
「日本政府の定めた基準を守ってないからだろ」
「いーえ! これは明らかな差別ですニダ!
謝罪しる!」
「韓国の国会議員も大変ね。
『ろ』と『る』を間違えただけで、すっかりネタにされちゃった」
↑ 通称「汁おじさん」 本名 金泳鎭(キムヨンジン)
2001年4月10日に来日し、日本の教科書の歪曲に抗議する予定だったが、当然のごとく日本は無視。
怒った彼は翌11日から5日間、衆院議員会館前にてハンガーストライキを敢行。
しかし「反省しろ」と書きたかったのだろうが「反省しる」と書いてしまったため、
生きたまま伝説となった韓国の国会議員である。
「つーか、さっきの教科書の妖術って何?」
「磁力王マグニートみたいなものだろ。
マグニートは重力を操るミュータントで、ナチスに親を殺されたユダヤ人という設定だ」
「朝鮮学校の教科書はアメコミと同レベルかよ」
「X−MEN VS 将軍様では、どちらが勝つかなど言うまでもありません。
将軍様の妖術の前にはX−MENと言えども太刀打ちできません。
将軍様の脳内ソースに敗北の二文字は存在しないのです」
「脳内ソースねぇ……」
「きっと北の将軍様とやらはマグナムの弾が効かない化け物ね。
S&W M19コンバットマグナム程度じゃ傷もつかないかも」
「はい?」
「そもそも拳銃弾で戦おうということが間違いね。
砲撃・爆撃の支援が得られないなら無理に銃剣突撃なんてせず、パンツァー・ファーストのHEAT弾(対戦車榴弾)で吹き飛ばすのが―――」
「今どきパンツァー・ファーストかよ」
「RPGじゃなくて?」
「悪い?」
「RPGならともかくパンツァー・ファーストなど手に入らんぞ。
どこから入手するつもりだ?」
「イギリスの博物館」
「展示物かよ」
「ふふふ、その程度で将軍様を倒せると本気で思っているのですか?
愚かなチョパーリですね、くすくす」
「誰がチョパーリやねん」
「RPGの直撃を喰らえば死ぬと思うが…」
「戦線が悪化すると楽観主義が現実にとって変わる。
そして最高意思決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。
戦争に負けている時は特にそうだ」
「で?」
「で?と言われても……」
「RPG-7の弾頭はピエゾ電気信管だから、アース代わりに金網を張っておけば防げるかもしれないけどね。
金網を張っておくと、命中の瞬間、弾薬の圧電圧式信管がショートして、50パーセントの確率で不発になるから」
「そうそうそれが言いたかったんですよ」
「せっかくボケたのにつっこみがないと、ボケた方は辛いよな」
「まったくです。
アジア的優しさが感じられません。
若者よ、インターナショナルを歌いながら赤旗を読みましょう。
世界を革命するために!」
「……困ったな、どう突っ込めばいいのかわからん」
「ふふふ、革命には流血が付き物です。
レーニンもそう言ってました。
地上の楽園を建設するためには多少の犠牲は仕方ありません。
革命的殉教者が必要なのですよ」
「……さっきから素人お断りの会話ばっかりね…」
「まったくだ。わたしのような一般人には何を言っているのかさっぱりわからん。
ちなみに、PRG−7の弾頭の信管に使われているピエゾ素子は電圧がかかると伸縮する圧電素子で、この素子にかかる電圧を制御することで、インクを噴出させる機械がある。
これがパソコンのプリンターだ」
「あんたのどこが一般人なのよ?」
「アホコントはそこまで。
いい加減、弁護人は話を進めてください。
次に話が脱線したらペナルティですよ」
「判事の言うとおりだ。
弁護人はまともに論争したら勝てないことを知っているから意図的に話をそらそうとしている。
実に汚いやり方だな」
(…なんで俺が怒られなきゃならねぇんだよ…)
「いきなりピンチですね」
「あんたのせいでね」
「ごほん、イギリスとアメリカの航空写真分析官グループは、イギリスのロンドン近郊のメドメンハム分析センターで働いていました。
1943年ごろには、航空写真分析は最優先作業になっていました
『John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos』より引用したこの写真は写真の分析をしている作業を示しています。
ヨーロッパ各地のスパイがうわさや『目撃証言』をイギリスに伝えていたが、それらは分析官に手渡され、分析官はその地域の航空写真と照らし合わせて、スパイからの情報の信憑性を検証したのです。
ビルケナウとアウシュヴィッツIが絶滅収容所であったかどうかを検証するために、航空写真も利用されました」
「ふっ 何を馬鹿なことを。
アウシュヴィッツ収容所は爆撃されていない。
もしもアウシュヴィッツの航空写真があれば――――」
「? あるでしょ?
死体を焼く煙が写ってない写真が」
「……け、煙は写っている!」
「たしかに煙そのものは写っているな。
爆撃対策のカモフラージュ用の煙がな。
死体を焼く煙と煙幕を見分けられないほどCIAも馬鹿ではない。
少なくとも米軍が撮影した写真には煙の写っている写真などないぞ」
「ぐぐ!」
「自爆かい」
「あれ? でも航空写真があるのになんで爆撃しなかったの?
爆撃すれば収容所の囚人は逃げ出せたんじゃない?」
「爆撃する必要がなかったからだよ。
前回 俺が提出した資料を見ればわかるように、アウシュヴィッツ収容所の生活水準は外部よりもよっぽど高かった。
アウシュヴィッツの肉体労働者が一日2600カロリー以上の食事をしていた頃、ソ連の肉体労働者は一日1000カロリー前後だったというデータもある。
それはともかくとして、検察は誤解を招く発言をしている」
「誤解?」
「アウシュヴィッツIとビルケナウは爆撃されなかったが、モノヴィツ(アウシュヴィッツIII)は爆撃されている
だから厳密にいえばアウシュヴィッツ収容所は爆撃されたということになる。
だが、このとき爆撃の目標になったのはモノヴィツ収容所の石油精製所であって、囚人を逃がすことは目的じゃなかった。
せっかくナチスがユダヤ人の世話をしてくれているのに、わざわざそれを邪魔する必要はない。
赤十字の人間は囚人に直接物資を手渡すことができたし、もちろん話をすることもできた。
なにせ囚人の食事のカロリーさえモニターできたほどだからな。
スパイ活動なんて簡単だったろう。
赤十字の人間なら、収容所の中で何が行われていたかは直接見ることができたんだからな。
そして、赤十字の記録にホロコーストが確認できなかったとあるように、スパイの報告書もホロコーストは確認できないという結論が出されていた」
「でもそれならなんでホロコーストを公式に否定しなかったんですか?
赤十字もスパイもホロコーストが確認できず、ドイツ政府も公式に否定すれば―――」
「ドイツ政府はホロコーストを公式に否定したさ。
1944年、ドイツ政府は囚人の殺戮を否定し、彼らを避難させることを連合国側に保証していた。
『John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos』によれば、少なくとも1回、ドイツは大量殺戮をおおやけに否定している。
1944年10月12日の書簡は、ドイツ側がビルケナウの囚人を大量殺戮するという噂を『記者会見で否定した』ことに触れている。
国と国とのやり取りがたった一回で終るわけがない。
事実確認のため何度も連絡が行われたはずだ。
1943年、とくに1944年1月に合衆国戦争難民局が活動を始めて以降には、アメリカ合衆国とドイツは中立国のスイスとアイルランドの領事館を介して、つねに電報を交換し、大量殺戮の噂と囚人の安全について話し合っていた。
ところが、このときの電報は非公開になっている。
重要な問題を解決するためにこの電報の記録は、――もっともそんなものがまだ残っていればの話だが――、公開されなけれならないだろう。
20世紀最大の捏造ホロコーストの真実を暴くためにな」
「いい加減、当時の一次資料を全部公開してもいいだろうに。
もう60年近く前の話だし」
「ホロコーストによる被害者プロパガンダは政治的・経済的にこれ以上ない利益を生むからな。
そうそう手離すことはできないさ。
ホロコーストの損失は、イスラエルがアラブ諸国に占領されることよりダメージが大きい。
だからユダヤ人は嘘だとわかっていても宣伝をやめるわけにはいかないんだよ」
「ユダヤ人の中の人も必死なんですね」
「スターリングラード戦の敗北以降、ドイツ軍は負け戦が続き、ついに東部戦線は崩壊した。
ドイツ軍の撤退と同時に収容所の囚人もドイツ国内に移動させなければならなくなったが、その場に残ってソ連軍の到着を待つか、ドイツと一緒に移動するかは囚人の自由に任せられた。
アウシュヴィッツの場合、ドイツ軍撤退後の残った囚人の世話は赤十字が受け継いだ。
それについては、俺が前回提出した『600万人は本当に死んだか?』の赤十字の報告書について記事に書かれている。
このときアンネ・フランクの父であるオットー・フランクはその場に残ることを選択した。
当時のオットーはチフスで入院していたから動けなかったんだろう。
ホロコーストがあったとする連中は、働けなくなった人間から殺したというが、ならなぜアンネパパが生き残り、ましてやナチスがユダヤ人を治療したのかを説明できない。
このオットー・フランクは治療してくれたことを証言してナチスを弁護してくれるどころか、娘の名前を語ったインチキ日記で大もうけ。
で、日記が大人気になると日記を宣伝したメイヤー・レビンと『アンネの日記』を原作としたミュージカルの版権でもめて裁判に突入と。
オットー・フランクは金のためなら、死んだ娘も食い物にする守銭奴だったわけだ。
世間一般ではナチス迫害による殉教者とされているけどな」
「でも収容所に残れるならなんで残らなかったの?
ソ連軍が来るまで待ってれば良かったのに」
「ソ連軍に捕まったら殺されるか収容所送りだからだよ。
ソ連にとって、ソ連以外の国を知ってしまった人間は危険分子でしかない。
ソ連に占領されたら、ドイツの収容所にいるユダヤ人も危険分子としてそれ相応の対応をされるだろう。
少なくともアウシュヴィッツの囚人はそう思っていた。
アウシュヴィッツで働いていたドイツ軍人のクリストファーセンによれば、アウシュヴィッツの囚人たちの中にはドイツの勝利を願うものが少なくなかったそうだ。
東部戦線でソ連軍が何をしているかを知っている人間はみんなソ連を恐れていたんだよ。
西部戦線での大量投降と東部戦線の必死の抵抗は、ソ連よりは米英の方がマシだったと思い込んだからだ。
……実際はそれほど大差がなかったけどな。
独ソ戦勃発時、ドイツ軍が侵攻してくるとソ連軍は次々にドイツ軍に寝返ったこともあって、スターリンは自国民を信頼していなかった。
だからソ連軍は、ドイツ軍やドイツ軍に味方したものはもちろん、ドイツの捕虜になったものも容赦なくシベリアなどの収容所にぶち込んだ。
共産主義者にとって一番恐ろしいのは、自分たちの主張が嘘と誇張と捏造と歪曲に満ちていることが暴露されることだ。
だからドイツ軍に接触して外部から見たソ連を知ったものは、みんな危険分子として逮捕された。
ソ連に占領されたドイツの収容所のユダヤ人もそういう運命をたどったものは少なくないはずだ。
シベリアに抑留された日本人は、ドイツと接触して逮捕されたユダヤ人やソ連人を必ずと言っていいほど見ている。
だが、ソ連は紙が不足して囚人が何人いたとか、その囚人がどこの誰で、どのようにして収容所に送られたのかという記録はあまり残すことができなかった。
だからソ連の収容所の実際を示した正確な数字は誰にもわからない」
参考資料:ラインハルト・ゲーレン回顧録「諜報・工作」1973年 読売新聞社刊より
わが軍(ドイツ軍)は、ロシアの北部や中部であろうと、ウクライナやベッサラビアその他どこであろうと、至るところでロシア人に歓迎された。わが軍は現地住民から解放軍として歓迎され、花を捧げられたのである。赤軍が連隊単位から師団単位で揃って降伏したこともあるし、最初の数ヶ月の脱走兵の数は、数百万の捕虜を別としても、われわれの思い切った予想さえはるかに上まわった。リトアニア、ラトビア、エストニアの三バルト共和国―これら三国は1940年にソ連に占領されたばかりだった。―では、民族独立の記憶はまだ鮮やかに残っていた。それだけに、リトアニア人、ラトビア人、エストニア人は、それぞれの国の独立を回復できることを期待して、ドイツ解放軍にさっそく援助を申し出た。ウクライナ人、コーカサス人、それにトルコ系諸民族は、スターリンのくびきから解放されるだけでなく、彼らの民族的希求を実現できる―たとえ、それが必ずしも、当時亡命中だった旧指導者らが望んだほどでなくとも―と信じた。過去二十年にわたった専横的な不正と恐怖ののち、人間の尊厳、自由、正義、財産の神聖といった基本的人権が回復されるという期待から、ソ連帝国の全住民(モスクワ体制に直接協力している者を除いて)は一致してドイツ軍を支持しようという気持ちを抱いた。われわれがそういう気持ちを利用しようとするのは当然至極ではなかったろうか。ソ連国民に誠実に協力を申し出て、それを適切な実際行動で裏付けるならば、彼らに解放戦争を起こさせることができたはずだし、そうなれば、対ソ戦を急速かつ満足すべき形で終結できたはずであった。すでに、前線のわが軍司令官らは、政治的動機よりも、むしろ健全な自己保存本能から、この方針に沿って行動を開始していた。わが方としては、わが軍の損失全部を急速に埋め合わせることはできなかったし、しかもソ連軍の限りない進出によって、兵員の需要が高まる一方になっていたため、わが軍司令官たちは補助部隊やいろいろな任務を担当する義勇兵として、ロシア人、ウクライナ人、その他の民族出身者を募集していた。これら志願者は、運転手、弾薬運搬係、コック、通訳などとして自発的に働いていた。その種の補助隊員の数については、各司令官が正確な報告を避ける傾向が多かったので、はっきりしたことは、ついにわからなかった。しかし、1943年半ばには、32万人前後に達しており、そのうち相当数がわが軍とともに実際に戦闘活動に参加していた。第18軍だけでも、4万7千人の補助隊員がいた。そのほかにも、ソ連国民の間に、われわれがモスクワに対して政治的に利用できるような兆候が現われていた。たとえばドイツ軍占領下のスモレンスクでは、ロシア人の委員会が揃って出頭して、ロシア人の民族主義政府を樹立し、スターリンと戦うために、百万人前後のロシア解放軍を創設することを申し出た。フォン・ボック元帥その他の司令官たちは、当面の敵情からみて、明確な全般的政治方針をとる必要があることを認識し、このスモレンスク委員会の申し出を支持した。だが、これらの申し出は、ヒトラーによって蹴られてしまった。リトアニア人、ラトビア人、エストニア人からの同趣旨の申し出も同様だった。中央軍も、ソ連市民の補助隊員20万を募集して、人的損失を埋め合わせることを主張した。ブラウヒッチュは、この提案が決定的な重要性をもっていることを論じたが、彼もボックも1941年12月別の理由で解任されてしまったため、これは実現されずに終わった。
参考資料: 「シベリア捕虜収容所 ソ連人と日本人 上」 若槻泰雄著(玉川大学教授)
P.29
第二次大戦は、ソ連の囚人たちに大きな影響を与えた。ドイツ軍が接近した地方の未決政治犯や服役者の大部分は。連れ出すひまもなく大量に銃殺されたといわれてるが、他方、兵力に不足したソ連政府は囚人に対し、「祖国防衛のために自己の罪をあがなう」という”特典”を与え、これら囚人のかなりの量が軍隊に編入された。もっとも対象者は刑事犯や軽犯罪者と職業軍人に限られ、民間の政治犯は除外された。他方、強制労働収容所へ新たにいれられる者も続いた。それはドイツ軍に占領された地域の住民である。彼らは積極的にドイツ軍に協力した者はもとより、ドイツ軍の占領下でドイツ人と少しでも接触すると、「消極的反逆」あるいは「ドイツ軍との協力」として軍法会議にかけられたし、生活上やむなくドイツ兵のために洗濯をしたり、炊事場で働いた婦女子も犯罪者として重労働を宣告された。ドイツ軍の包囲から脱出したり、ドイツ軍捕虜収容所から逃亡してきたソ連軍人も、ドイツ軍より何らかの便宜を受けてきたものと認定され、スパイ容疑者としてやはり同じ運命におかれた。第二次大戦が終わると、強制収容所は最盛期(?)を迎えることになる。戦争中と同じような罪状の他、ドイツに捕らえられていたソ連兵の捕虜が大量に加わったのである。彼らは軍楽隊に迎えられて国境をこえて祖国の土をふんだのだが、直ちに逮捕されてシベリアの収容所送りとなった。資本主義の生活環境に毒された人間の思想を改造することと、一般国民への影響をたちきる目的のためである。スターリンは、西側と接触をもったすべてのソ連国民を潜在的敵とみなしたといわれる。
P.32
前述のように、ドイツ軍のソ連進撃に呼応して、あるいはドイツ軍に強制されて、ドイツに協力したウクライナ人をはじめ若干の少数民族、カルムイク人、クリミヤ・タタール人、カラチャエフ人、チェチェネツ人などの指導者も、17世紀のロシア帝国のウクライナ併合の際の反抗者と同一の運命におかれた。日本人捕虜で一般ソ連人に交って監獄や収容所にいれられた長期抑留者たちは、どこででも必ずといってよいほど、これらソビエト権力下の少数民族の独立運動の志士と、ユダヤ人に出会っている。
P.34
強制収容所に入れられている外国人は、ヨーロッパ人だけでなく、少数ながらインド、アフガニスタン、タイ、ジャワなどのアジア人もいる。彼らはそれぞれの国の共産党員で、ソ連に亡命してきたものだが、何らかの理由で――たとえばスパイ容疑として――逮捕されたのである。このアジア人のなかには、中国人、朝鮮人もふくまれ、シベリアの収容所で中国人や朝鮮人に出会った日本人捕虜は少なくない。
P.61
ちり紙に限らず、紙類はソ連では極端に不足していた。よほど重要な文書でない限り、事務にも紙を用いることはなかった。点呼や作業割当てをする際は、板に鉛筆で書きこみ、消しゴムの代りにガラスのかけらで削りとっていた。後年、日本から差入れの小包がつくようになり、ちり紙が送られてくると、検閲の将校はどうしてもこの”ちり紙なるもの”を理解し得なかったという。一般にソ連の人間は大便後に後始末をせず、用が終るとすぐ立ち上がってズボンをはく姿を多くの抑留者が見ている。便所の入口に、拭いとるために用いる薄く削った竹びらが何本もぶら下がっているいるようなところもある。なかには、女を含めて便所にはいるとき、とうもろこしやひまわりの葉をちょっとつまんで用をたしたのを見かけた者もいる。葉っぱのない冬は雪でふくともいわれているが、ソ連人は一般に手でふいているのだと主張する日本人捕虜もいる。
「スターリンが反ユダヤ主義者だったことは有名なようであまり知られていない。
もともとユダヤ虐殺の本場はロシアで、『ホロコースト』という言葉が1960年代に使われるようになる以前は『ポグロム』という言葉がユダヤ虐殺の代名詞だった。
在独ユダヤ人で戸籍がない連中にはロシアからの密入国者が少なくない。
1881年3月、爆弾がロシア皇帝アレクサンドル二世の身体を吹き飛ばし、皇帝は暗殺された。
そしてアレクサンドル三世は民主化を恐れる側近の指示に従い、農民の不満を政府からユダヤ人に向けさせた。
このあたりは詳しく調べてないからいろいろ説があると思うが、それはどうでもいい。
1881年から1882年にかけてロシアではユダヤ人が迫害され、大量のユダヤ人がロシアから逃げ出したことがわかればそれでいい。
そして、ロシアから移住したユダヤ人がドイツへ流れついた。
興味深いのはすでにこの頃からガス室の噂があったことだ。
つまり、『ナチのガス室』の原型は第一次大戦前にはすでに存在していたことになる」
参考資料:「シャーロック・ホームズのガス室 ホロコーストのガス処刑説の文芸学的分析の試み」
著サミュエル・クロウェル 歴史的修正主義研究会試訳
Samuel Crowell, The Gas Chamber of Sherlock Holmes, An Attempt at a Literary Analysis of the Holocaust Gassing Claim
1881年に皇帝アレクサンドル二世が暗殺されると、この地域では反ユダヤ暴動が頻発した[93]。ユダヤ人はその他の非ユダヤ教徒同様に貧しく、空腹で、不潔で、禁欲的であった。その上、政府が自分たちの伝統的な生活様式に干渉してきていたので、彼らの忍耐は限度を越えようとしていた。その結果、多くのユダヤ人が移住を選択し、彼らは多くの場合にドイツを通過した[94]。ドイツで、彼らは標準的な害虫駆除措置を受けたが、これについては、メアリー・アンチンがその回想録のなかで次のように記している[95]。
「無人の広い野原の大きな庭のなかにある一軒家の反対側に、私たちの列車はついに止まりました。車掌が急いで降りるようにと乗客に命令しました。……(車掌は)私たちを家の中の大きな部屋のなかに急がせ、ついで庭へと急がせました。ここで、白い服を着た非常に多くの男性と女性が私たちを待ち受け、女性の方は女性と少女の乗客を、男性の方は男性の乗客を待っていました。うろたえ混乱するような光景でした。親たちは自分の子供たちと離れ、幼い子は泣いており、荷物はまとめて庭の片隅に無頓着に投げ集められました(このために、多くの損害が出ました)。白衣のドイツ人は命令を叫びながら、いつも『急いで、急いで』と言っていました。狼狽した乗客は意気地なしの子供のようにすべての命令に従い、ただ、何が起こるのかとときどき尋ねるだけでした。泥棒や殺人者のたぐいに捕まってしまったのではないかと考えたとしても不思議ではありません。一軒家だけがある寂しい場所に連れてこられたのですから。所持品は持ち去られ、友人は離されてしまったのですから。一人の男がやってきて、品定めをするかのように私たちを検査しました。奇妙な風采の人々が、無力で無抵抗な、口の聞けない動物のような私たちを追い立てました。ここからでは姿を見ることができない子供たちは、何かおそらしいことが起こっているかのように泣いていました。私たちは小さな部屋に追い立てられ、そこでは大きなやかんが小さなストーブの上で沸騰していました。衣服は脱がされ、身体が、滑りやすい物でこすられました。突然、警告なしに、温水のシャワーが私たちにふりかかりました。その後、別の小さな部屋に追い立てられ、そこで、ウールの毛布にくるまって座っていました。すると、大きな粗雑なバッグが持ち込まれ、そこから中味が出てきました。見ることができたのは蒸気の雲だけであり、聞くことができたのは『急いで、急いで』服を着るようにとの女性の声だけでした。それ以外は何も見ることも、聞くこともできませんでした。蒸気で何も見えないなかで、私たちは他人のもののなかから自分の衣服を探さなくてはなりませんでした。息が詰まり、咳こんでいたので、時間をくれるようにその女性に頼みました。『急いで、急いで、乗り遅れてしまいますよ!』ああ、私たちは殺されるのではないのだ。彼らは、危険な病気にかかることを防いでくれて、旅が続けられるようにしているだけなのだ。感謝します、神よ!」
メアリー・アンチンは害虫駆除と検疫に当惑しているが、何のオリエンテーションもうけておらず、はじめてのことでもあったのだから、彼女の態度は理解できる。そして、そのような無理解からくる的外れな噂も十分に理解できる。しかし、このような措置は必要であったのである。メアリー・アンチンが1893年に旅をする前年、コレラがハンブルクを襲い、チフスとコレラがニューヨークを襲っていたからである[96]。
ニューヨークでの大流行では、その後数十年間にわたって繰り返される多くの事例を見ることができる。移民たち、とくにユダヤ人は害虫駆除と検疫を恐れており、自分たちの愛する人々が屠殺場に連れていかれると信じていたこともあった[97]。彼らは衛生管理当局に不信感を持っており、結果として疫病をさらに広めてしまうことも知らずに、チフスにかかっていることを隠そうとした[98]。さらに、検疫にも問題があった。規則によると、チフスによる死者は焼却されることになっていたが、これはユダヤ法違反であった[99] 。検疫ステーションはユダヤ教の掟に従った食物を準備しておらず、結果として、敬虔なユダヤ教徒が餓死することもあった[100]。ニューヨークの衛生管理当局とユダヤ人移民とのあいだの無理解はカルチャー・ショックと特徴づけることができるが、彼らをわかつ無理解と非順応の亀裂は非常に深かったのである。
[93]これは「ポグロム」と呼ばれ、ロシアの内乱が終結するまで続いた。この反ユダヤ活動の起源は様々である。宗教的な反ユダヤ主義(すなわち、血の名誉毀損非難)によるものもあれば、ユダヤ人だけではなくすべての少数民族が影響受けた「ロシア化」政策によるものもあれば、他の民族(ギリシア人、ドイツ人)との経済的競合によるもののあれば、東ヨーロッパのユダヤ人が農民層――解放されたばかりで、社会的、経済的、人工的な諸条件に適応しようと努力していた――と対立していたという特殊な立場によるものもある。このうちのいくつかは、ホブハウス前掲書にある。簡単に言えば、当時および問題としている時期の反ユダヤ的暴力をもたらした環境は、きわめて多様であり、共通していることは、ロシア帝国のなかで大きな、根本的な変化が起こっていたことであり、それによって、ロシア帝国は1917年の革命に急速に向かっていったのである。後述することになろうが、多くのユダヤ人の観察者は反ユダヤ的暴力の原因をたんにユダヤ民族に対する憎悪で説明し、また、ユダヤ人歴史家も、その勃発を政府による教唆とみなしがちであった。
[94]Howe, Irving, World of Our Fathers, Harcourt, Brace, Jovanovich, NY: 1976, pp. 29-38で扱われている。
[95]Antin, Mary, The Promised Land, Penguin, NY: 1997, p. 138f この本は元々1912年に出版され、メアリーが1893年春にプロツクからボストンに着いた直後に、ロシアにいる伯父にイェディッシュ語で書いた手紙をもとにしている。この文章は、Howe, op. cit., Markel, cited below, and Jan Van Pelt and Deborah Dwork, Auschwitz: 1270 to Present, W. W. Norton & Company, New York: 1996.にも引用されている。
[96]ハンブルクについては、Evans, Richard J., Tod in Hamburg, a magnificent social history of the Free City (in German translation from the English), Rowohlt, Reinbek bei Hamburg: 1996を参照。ニューヨークについては、Markel, Howard, Quarantine!, Johns Hopkins UP, Baltimore and London: 1997を参照。
[97]Markel, op. cit., p. 52, 50
[98]Markel, op. cit., p. 54, p. 44f.チフスを発病させるのは患者の血液のなかのリッケチアであり、血液からシラミに伝わり、シラミから別の人間に伝わる。1892年には、シラミが媒介者であるとは理解されていなかった。だから、シラミが発生している環境で、隔離を拒否すれば、この疫病は簡単に広まった。
[99]Markel, op. cit., p. 63
[100]Markel, op. cit., p. 65
「ユダヤ人の口を開けば『差別』だの『虐殺』だのを唱える性質は十分嫌われる要素だが、ロシアのポグロムが恐ろしいものということは間違っていない。
こういう連中はロシアの反ユダヤ主義を良く知っていた。
だからドイツ軍と一緒に収容所を撤退したんだ。
このとき、連合国はスパイからの調査で、ユダヤ人が苦しんでいる理由は物資不足による栄養失調と病気であると知っていた。
スパイの報告書の結論は、戦後にユダヤ人収容所を調査した連合軍の調査官と同じ結論だ。
そして物資不足が連合軍の爆撃による流通の麻痺の結果だということは、赤十字の報告書に書かれている。
だが、連合軍はこれらの情報を知っていたのに空爆中止命令は出さなかった。
赤十字の抗議も無視して空爆を続けたくせに何が解放軍だ。
所詮、連合軍の正義などこの程度のものだ。
連合軍はナチスの収容所で何を起きているかを全部知っていた。
ナチスはユダヤ人を助けていたことを知っていたんだ」
「して、その証拠は?」
「これです」
参考資料:『航空写真と矛盾している12の「目撃証言」』 著ジョン・ボール
「John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos」より
疎開の保証
ドイツは、ソ連軍の前進の前にアウシュヴィッツ地域の囚人を疎開させることを連合国側に保証していた。
スイスの合衆国領事館からの1月20日の電報にあるように、1944年7月から10月までビルケナウの囚人であった2名のユダヤ人女性は、ドイツ国内への収容所への疎開について次のように述べている。1. 1944年9月:「3000〜6000名」の「大きな移送集団」がビルケナウを出発した。
2. 1944年9月後半:3500名のハンガリー人とスロヴァキア人の女囚が1つの移送集団で出発した。
3. 1944年10月31日:500名の女囚がビルケナウを出発して、ドイツに向かった。このなかには、目撃証人となった2名の女性も含まれていた。
(合衆国文書館で発見された)書簡によると、合衆国は収容所で実際に何が起きているのかスパイやかつての囚人から確証を得ていたことが明らかである。2名の女性の報告の最後のセンテンスは次のとおりである。
「このような労働収容所での自然死亡率は、栄養失調、不衛生な状況、とくに、十分な衣服の不足のために、高い。」
参考資料:1945年1月20日の電報
『航空写真と矛盾している12の「目撃証言」』 著ジョン・ボール
「John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos」より↑ 入手電報――国務省
から:スイスのベルン、ハドゥル
日付:1945年1月20日午後3時
宛て:マクレランドから戦争難民局
受け取り:1月20日午後11時「公使館報告6818が報告しているように、10月12日、ドイツは、ツヴィエチムとビルケナウで囚人の絶滅が行なわれているという、ロンドンのポーランド人サークルの報告を記者会見で否定した。
私は、連合軍の前進にあたって疎開できない囚人をすべて殺すようにとの命令が、ユダヤ人収容所を管理するSSに出されたという報告を確証することができませんでした。」Reference: Letters on file at Franklin D. Roosevelt Library, Hyde Park, New York, N.Y., U.S.A
参考資料:1945年1月22日の電報
「John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos」よりから:スッテティニウス、国務省と戦争難民局、ワシントン
日付:1945年1月22日、午後10時
あて:ハドゥルとマクレランド、スイスのベルン
受け取り:1月22日「アイルランド外務省の1月13日の省報告192は、ドイツがオスヴィエチム、ホス、ビルケナウ収容所で囚人を清算しようとしているという噂の真偽についてドイツ当局に問い合わせたところ、これらの収容所のユダヤ人を絶滅しようとしているという噂はまったく根拠のない捏造情報にすぎない、これらの収容所が廃棄されるときには、囚人たちは疎開されとの回答であったことを確証している。アイルランドに対するドイツ当局の回答が合衆国政府によって確認されたこと、合衆国政府は、ドイツとドイツ支配下の強制収容所、拘束、労働収容所のユダヤ人その他の生存者はドイツ当局によって安全に確保されるように要望すること、以上のことをドイツ政府に伝えるようにスイス政治部に要請していただきたい。オスヴィエチムとビルケナウが前線に近いことを考慮して、上記の連絡事項をドイツ当局に、できるかぎり速く伝えることが緊要である。
スッテティニウス
戦争難民局:1945年1月22日」
Reference: Letters on file at Franklin D. Roosevelt Library, Hyde Park, New York, N.Y., U.S.A
「ドイツ政府が公式に計画的ユダヤ人虐殺を否定した。
赤十字の記録にも計画的ユダヤ人虐殺は確認できなかった。
バチカンの記録にも計画的ユダヤ人虐殺は確認できなかった。
連合軍のスパイの報告書にも計画的ユダヤ人虐殺は確認できなかった。
戦後の調査官の報告書にも計画的ユダヤ人虐殺は確認できなかった。
アイゼンハワー、チャーチル、ド・ゴールのような連合国の高官も回想録のなかに『ナチスのガス室』が存在・稼動したとは記していない。
この状況で無差別爆撃を決行した連合国こそホロコーストの真犯人だ。
連合国が戦時国際法を守り、軍隊同士の決戦を挑んでくればユダヤ人は死なずに済んだ。
誤った歴史は修正されなければならない」
「………」
「………」
「検察は異議を唱えますか?」
「ふっふっふ……」
「????」
「何がおかしい?」
「実に馬鹿馬鹿しい話だ。
連合軍のスパイの報告書だと?
こんな捏造文書をよくもまあ、どこからか持ってきたものか知らないが」
「アメリカ合衆国文書館だ。
出所ははっきりしているぞ。それがどうしたんだ?」
「ふん、出所などどうでもいい。
こんな捏造文書など認められない」
「お約束だが聞いておくぞ。何を持って捏造と決めてるんだ?」
「しれたこと。
ホロコーストは事実だ。
事実ゆえに検証は無意味、不必要
フフフ……
我々ハ神ノ軍隊 敵ノ名ハサタン」
「なにやら物凄いことを言っているな」
「どうしたのかね?」
「ふん 現実を認めたくなくてファビョってるだけだぜ。
だが、まだまだ本番はこれからだ。
連合国が半世紀の間隠蔽してきた事実をすべて明らかにしてやる!」