Adrien Arcand (1899〜1967)、フランス語圏カナダ・モントリオールのジャーナリスト、政治家。ヒトラー政権とファシズムを擁護し、汎カナダ主義の政党を結成し党首となる。戦前、党は大成功を収め、フランスの大作家ルイ=フェルディナン・セリーヌさえもが、この運動に興味を惹かれ、わざわざモントリオールで開かれた集会に足を運んだ。しかし1939年第二次大戦開戦前後から、極左勢力とカナダ・ブナイブリット等のユダヤ人団体によるアルカンに対する弾圧は激化し、ファシストは国家の敵とみなされて、1940年5月30日アルカンは逮捕、他のファシズム運動家と共にカナダ・ペタワワの強制収容所に収監される。収容所内では、捕虜の間で英雄視されていたと言う。1944年、同収容所でアルカンの右腕だったスコット少佐が死亡。アルカンは終生、彼の死の責任は収容所指導部にあると告発を続けた。アルカン自身は、終戦後三ヶ月経った1945年7月にようやく釈放された。逮捕に対する訴訟を試みたが、起訴は却下され続けた。歴史家ピエール・タピニエは「カナダ国家は裁判を避けた。アルカンは人を殺したことさえなく、無実が証明されることは明らかだったからだ」と語っている。1967年8月1日癌で死亡。葬儀には何百という信奉者が集まったと言う。
ナチスを嫌悪してカナダに逃れた若きエルンスト・ツンデルが歴史検証に目覚めたのは、アドリアン・アルカンに出会ったことがきっかけだった。「私はフランス系カナダ人のおかげで、本当のドイツ人になることができた」と、ツンデルは常に語っていた。
アルカンについて語るエルンスト・ツンデルのビデオ
(以下は1933年10月20日モントリオールでのアルカンの講演を一部抜粋翻訳したもの)
(……)目下残虐に全世界を苦しめている金融危機は、世界を揺るがし、キリスト教文明の基盤そのものを脅かす遙かに根深い危機の一角が、表層に浮上してきたものに過ぎない。我々は歴史上のある時期、唯物主義の道に魅せられてしまった。しかし唯物主義は、我が西洋社会の精神的防御である盾を粉砕する誤った道であり、現在、我々を取り返しのつかない事態に導きつつある。
この四世紀を振り返っただけでも、人間精神が恐ろしいほど変貌してしまった様、現実的価値感に対する人間の理解がすっかり逆転してしまった様が見て取れる。
西洋では中世こそが、キリスト教文明の頂点を表していた。民衆は、国家権力が神から授けられた権利であることを認めて受け入れ、権威は安定しており、効果的な力を発揮できた。階級闘争は存在せず、労働者は組合やギルドという形でまとまり、今日の世界では失われてしまった公正で幸福な生活を享受していた。国民生活とは、特に農村での生活を意味していたため、それは人間の本能や自然法にずっと適ったものだった。偉大な哲学、そして何よりも真のヒューマニズムの時代であった中世は、古典主義時代まで上り詰めた末に終焉した。それは人間精神の最も美しい側面に語りかける彫刻、絵画、音楽、文学を生み出した、かつてない麗しい世紀だった。
その直後、文化は強靭な能力にも、純粋な精神にも語りかけるのをやめ、理性の脆弱な部分と感情を主体とするようになる。百科全書派は精神的価値観を懐疑主義のヴェールで包み隠し、世界はロマン主義に向って降下を始める。芸術は、人間の二次的な機能である感情に支配されるようになる。そして最も貴重な精神的価値が退けられた結果、物質的な混乱が台頭するようになった。例えば革命、神権の否定、反聖職主義、階級闘争を生み出す平等権の主張等だ。科学の発展、発明の増加に伴って強まった物質崇拝が、徐々に非物質崇拝に取って代わっていく。
ロマン主義時代から今日にかけて人類は、恐るべき速度でもって降下を続け、今や宗教は大っぴらに破壊され、前例のない熾烈な階級闘争が発生し、物質と金のみに対する信仰が定着した。被造者による創造者への挑戦である。リズム、均衡、節度、線、調和の尊重の中に生まれた芸術は、今や、おぞましい無秩序、不協和、不均衡と野蛮の騒乱と化し、精神どころか感情にすら語りかけない。ただ神経と野人の破壊本能を刺激するばかりである。
フランス革命の謳うリベラリズムは、自らを神格化した人類の均一化を求め、その平等を主張した。人間とは自律したものであり、自分自身のみを法とし、自分自身のみに義務を持つ存在となった。この反キリスト教的因子は、人間以外のあらゆる神性を否定し、人間を物質化、野獣化させた。人類は今日、岐路に立っている。このまま絶対的唯物世界、宗教の決定的破壊、唯一の中央権力の下にすべての民族を飲み込む世界共和国への降下を続けるのか、あるいは精神主義に立ち返り、国家主義的、宗教的良心を取り戻し、既に人民の多くを物質主義に縛り付けてしまった鎖を解き放つのか、選ばねばならない(……)。
ユダヤ民族による世界支配の夢は未だかつて一瞬たりとも消えたことはない。ユダヤ人自身の記した数々の書物によれば、この夢は、全人類をユダヤ化することによって叶えられる。しかしながら彼等の行く手には大きな障壁が立ちはだかっていた。それはキリスト教である。救世主は訪れ、旧神殿のヴェールは破られ、ユダヤ人と神との旧契約は、新たな契約に取って代わられ、世界を司るのはイスラエルでなくキリストであるとするキリスト教は、各々の民族が千年以上に及ぶキリスト教的伝統の上に築いてきた国家主義的性質という障壁によって、ユダヤ人の行く手を遮っていた。これを破壊する必要があった。
ユダヤ主義はどのようにそれを行なったのか? 父親サタンが堕天使達を神に反逆するようけしかけたのと同様、娘のユダヤは、キリスト教徒の間に〈自由〉という名の毒を注いだのだ。non serviam!「そなたには奉仕はせぬぞ!」と [悪魔(ルシフェール)が神に対して叫んだように] 人々が権威と既存の秩序に対して反逆し、権威からの独立と自由を要求するよう仕向けた。
ルネッサンスによって周到に準備されたフランス革命は、この自由を求める叫びを世の中に広めた。その結果、悪魔の叫びは、それまでフランス国民が享受していた自由の大部分を破壊し去った一方で、民族も違えば、伝統も異なるユダヤ民族に、フランス人と同じ市民権と特権を認めたのだ。フランス革命が、ユダヤ人のコントロール下にある秘密結社によって起こされたユダヤの仕業であると主張するユダヤ人作家の数は数知れない。ユダヤ人はフランス革命のおかげでフランス国家に対する自分達の影響力を増大させ、世界革命に向う礎石を築いたのだと彼等は口を揃える。
1789年のリベラリズムは、ただ一つだけのものから人間を解放した。すなわち神から授けられた権力とキリスト教の権威、キリスト教精神に基づいて個人に求められていた公共の場(政界、経済界、あるいは福祉の世界にかかわらず)における義務から人々を解放したのだ。こうしてフランスで発せられた自由と解放を求める反逆の叫びは、世界中に広まった。そしてその敵は常に唯一つ、キリスト教だった。この敵に対する攻撃手段も唯一つ、反キリスト教主義の前提である中立主義と無宗教主義を掲げることだ。このユダヤ・リベラル因子は、たちまちヨーロッパ各国に広まり、各地に同じ革命手段と同じサタンの叫びをもたらした:「奉仕はせぬぞ!」
こうしてやがてポルトガル、ロシア、オーストリア、ハンガリー、ドイツ、トルコ、スペイン、ギリシャ等で発生した革命では、常にユダヤ人が革命を組織し、支援し、実行し、政権を奪取していった。政権に就き、強奪した国の内部で地盤を充分に固め、もはや恐れる敵がいなくなると、ユダヤは仮面をかなぐり捨て、血と破壊を好む残虐なテロリストの本性を露わにする。そして大急ぎで残された障壁を一つ残らず叩き潰す。つまりユダヤによる世界支配の邪魔となる宗教と国家主義を抹殺するのだ。
ユダヤ人は『タルムード』によって、「ゴイム」と彼等の呼ぶ非ユダヤ人が、魂のない犬だと信じさせられている。1932年パリでフランス・ラビ協会の権威の下に出版された最新版の『タルムード』では、ほぼすべての章で非ユダヤ人は、獣と同一視されている。我々非ユダヤ人に魂がないのなら、我々が固有の宗教を持つことはまったく不要なわけだ。教会や修道院、学校や神学校を建設するために金を出すことも、使節団や慈善事業に出資することも無駄であり、同じ金はバーや劇場、キャバレー、神に選ばれた民族のための投機売買所や高利貸しに回した方がましなわけである。我々魂のない非ユダヤ人が、宗教的な感化や伝統を持つことも誤りであり、それらは破壊してしまうに限るのだ。ユダヤ主義を唯一の源泉とするリベラリズムが、まさにこうした伝統を攻撃するという事実に驚くことがあるだろうか? またリベラリズムが、我々の精神的遺産に反する事象に対して、常に寛容を要求することに驚くことがあるだろうか? リベラリズムが、我々に民族や宗教差の認識を口にしないよう求めることに驚くことがあるだろうか? リベラリズムが、我々が確固たる国家主義的アイデンティティーを名乗るよりも、インターナショナルな匿名的存在であることを望むことに驚くことがあるだろうか? 我々が民族や歴史に内在する非物質的な価値観から遠ざかり、あらゆる行動において物質主義であることを強要することに驚くことがあるだろうか? 否。リベラリズムというものは、あらゆる国に住みながらどれ一つ自分の祖国と考えないある特定民族の繁栄のために、我々のアイデンティティーを放棄させるべく発明されたユダヤ思想に過ぎないのだから、すべて至極当然なのである。
ユダヤ主義は、ある国に、物質的あるいは精神的豊かさをもたらすことはない。彼等は常に貧しい移民としてやって来て、悪徳取引を繰り返しながら、やがてその国のすべての物質的財産を横取りする。その次にその富を利用して、数々のプロパガンダ機関や直接行動を駆使しながら、その国の精神的財産を潰すのだ。物質主義的なユダヤ人は、精神面においてはいかなる闘いにも勝つことはできない。しかし物質面においては、競合相手が伝統と教育によって誠実であることを強いられているのに対して、平気で不誠実でいられるユダヤ人はすべてを勝ち取る。だからこそユダヤ人は、自分達が世界征服に成功するには、すべての人類を唯物主義の世界に引き摺り下ろすことが唯一の手段であることを認識している。
ユダヤ主義はその本質である破壊本能、また太古から先祖代々引き継がれてきた汚職嗜好、そして徹底した物質主義のため、他民族にとっては精神面においても物質面においても唯一無二の危険を表わす。だからこそユダヤ問題は、あらゆる真剣な国家復興運動、真のファシズム運動における基本問題として検討されなければならない。ユダヤ主義を徹底掃討することが反動主義にとって重要であればあるほど、社会主義にとってはユダヤ人の指導者を持つことが大事なのである。どこの国を見ても、あらゆる社会主義政権や社会主義グループの主要リーダー、思想家はユダヤ人である。何故なら社会主義運動は、非ユダヤ人リーダーの下では成功することが不可能だからだ。同様に、あらゆるリベラリズムの指導者もユダヤ人である(……)。
反ユダヤ主義者は、個人個人のユダヤ人に対しては、なんら私的な非難は行なわない。反ユダヤ主義が追い払おうと試みるのは、ユダヤ主義のリベラル哲学であり、その理由は、それがキリスト教哲学のアンチテーゼ、敵であり、国際ユダヤ秘密結社がこの破壊哲学を広めるための政治システムだからだ。ユダヤ人というものは、彼等の中で最も優秀な者が種々の美徳を備えているにも拘わらず、この哲学の布教者であり、このシステムの道具であるため、キリスト教国家内では、彼等がその悪魔的計画を意識的にも無意識的にも推進できない立場に置いておく必要があるのだ。
リベラル民主主義は、歴史上最大の惨事をもたらした。何故か? それはその本質である反逆精神が、西側社会に住む人々に、個人の内的信仰とは正反対の公的生活を送ることを強いるからだ(……)。
リベラル民主主義が、人々にその内的信念とはまったく異なる社会的な生き方を強いる事実がわかれば、このシステムが惨事と混乱をもたらしたことは驚くに値しない。二つの相反する在り方とは、個人の内的生活においては精神主義であり続けながら、公けの場では物質主義的に生きなければならない事実である。この状態は、リベラリズムによる人間の定義がもたらす結果である。リベラリズムによれば、人間というものは魂のない、純粋に物質的存在だからだ。つまり『タルムード』が定義するゴイムと同じである。人間の定義のみならず、その他すべての点において、タルムードとリベラリズムは完全に一致する。当然だ。どちらもユダヤのものなのだから。
ここで我々がリベラル民主主義と呼ぶのは、民主主義を受け入れたすべての政党のことである。これらの政党は二つの異なる一般名称の下に集まっている。つまりリベラル派と保守派である。
(……)経済リベラリズムとは、リベラリズム哲学を応用した一つの結果に過ぎない。純粋なリベラリズム、総合的なリベラリズム、一言で言えばリベラリズム哲学こそが、唯一の真の悪である。適用法によって、それは宗教リベラリズム、政治リベラリズム、社会主義リベラリズム、経済リベラリズム、国際リベラリズムとなり得るが、どこにあっても常に最も強力に作用し、喚起し、先導の役割を果たす根本的要因は、リベラリズム哲学であり、あらゆるタイプのリベラリズムはそこから派生した。キリスト教指導者がリベラリズムを断罪した時、つまりピウス十一世が「社会主義とは、リベラリズムを父親に持ち、ボルシェヴィズムを子とする」と公布した時、視野におかれていたのはしばらく以前から馬鹿げた言葉のコンビネーションで〈経済リベラリズム〉と呼ばれるものではなく、リベラリズム哲学、リベラリズムそのものだった。
一方、今日我が国の保守政党によって代表されている保守主義も、リベラリズムと五十歩百歩である。民主主義とそのすべての付随物に服従した保守主義は、リベラル思想を自分のものとして取り込んでしまったからだ。保守政治は、哲学的観点から言えばリベラル政治と寸分違わない。両者の差は行政上のものだけである(……)。
フランス革命によって聖化された民主主義は、すべての人間の平等、またすべての自由という誤った原則をも聖化した。これらの原則は、段階を追ってあらゆる西側諸国に浸透し、その結果として真の自由が失われたと、一言でまとめて言うことができる。
(……)民主主義は各地でそれまでは社会的弱者の立場に置かれていたユダヤ人を解放し、その社会的地位を向上させた一方で、その国の正統な民族が享受していた特権を失うという結果をもたらしたが、この性質こそが、民主主義が統合体として永続できる真の原因である。
リベラル民主主義は、それまでの現実的、具体的、そして責任ある行政権威を、無責任な盲目な大衆と入れ替えた。実際、民主主義における唯一の権威とは、選挙によって表明される過半数である。この過半数の内容とは、一貫性のない、匿名で曖昧な、無知で無責任な大衆であり、彼等はまさにこうした欠点のために、他に例を見ないほどに独裁的で暴虐なのだ。またこの過半数とは、ほとんどの場合が買収された選挙によって得られた結果である。大衆は買収されやすいからだ。このように選ばれた人間は、匿名の大衆に対してしか責任を負っておらず、さらに買収を重ねやすい立場に置かれる。結果として、民主主義とは買収の上にしか成り立たないことになる。民主主義的選挙制度の条件そのものが、浄化不能な買収の温床なのだ。
リベラル民主主義は、民衆を苦しめる問題を解決する代わりに、それをさらに激化させることしかしなかった。民主主義的行政が買収の温床であるため、富裕層はますます富裕に、貧困層はますます貧困になった。農民層は乱暴に土地から引き剥がされ、労働者層を縛る鎖はますます重くなった。民主主義はその本質のせいで、真の為政者を育成するかわりに、プロの政治屋を生み出す。民主主義は、それ自体が一つの不均衡であるため、国家を形成する各要素の調和を完全に混乱させ、社会階層を闘争に駆り立て、異なる勢力を対立させ、司法機関を堕落させ、法や出費は物質主義世界における強者の利益のためのものでしかなくなった。
社会主義とは、別の様相の下にリベラル民主主義と同じことを行なう。民主主義よりもさらに極端で、暴力的な反逆なのだ。主軸を失った社会階層間の均衡を再構築する代わりに、社会主義は、自分には必要がない社会階層の廃絶を要求する。宗教とは、社会における濫用を防ぐ弁の役割を果たし、あらゆる社会階層を庇護するものであるため、社会主義は、宗教の廃絶も求める。また国家主義は、国民を国外からの経済的、社会的侵略者に対して保護する役割を果たすため、社会主義は、国家主義の完全なる廃絶を求め、あらゆる国家主義的利益に反する国際主義と置き換えようとする。資本主義が貧困層を苦しめたという理由から、社会主義は資本の廃止を求める。またリベラリズムが所有権の実施において深刻な濫用を行なったため、社会主義は、所有権の廃止を求める。家族という枠は、個人と社会階層(社会主義が抹殺しようとしている階層も含め)にとって最大の安全を保障するものであるため、社会主義は家族の縮小化、解体、そして最終的には消滅を求める。ちなみにリベラリズムは既に家族に関する多くの権利を潰している。自然による生来の不平等は、社会階層が発生する原因そのものであるため、社会主義は〈標準化〉された単一の社会層だけの存在を求め、社会的地位のみならず、富の分配(あるいは私有化)、また責任の分担において、あらゆる人間の平等を主張する。
社会主義は、単一の社会階層を求める。つまり、一握りのプロレタリア暴君が利用できるために、魂を抜かれた奴隷の階層である。そのために社会主義は、この均一化に不向きなあらゆる人間を、虐殺だろうがその他のものだろうがあらゆる手段を使って何が何でも絶滅させる必要があるのだ。
以上の教条がたどり着く先は、今日ソ連に実在するボルシェヴィズムであることが確認できる。そしてキリスト教的養成を受けた人間には、このような政治的、社会的、そして宗教的な過ちに手を貸すことなどできないため、結果的に社会主義とボルシェヴィズムは、世界のリベラリズムのトップと同様、ユダヤ人に占拠されることになるのだ(……)。
ユダヤ人はユダヤ主義であり続ける限り、他国内ではいかなる権利も持たないし、ユダヤ化を推進する分子として、キリスト教圏ではいかなる権利も許されない。かつては乗り越えることが不可能だったこれらの障害を打破するため、ユダヤ人は、リベラル民主主義を駆使して、巧妙な呼びかけ、魅惑的なパラドックス、一見無害に見える拒絶を広めはじめた。そしてすべての民主主義政党はそれらを、自国の利益に反してでも利用してきた。その呼びかけとは「民族や宗教の差別をなくそう!」「寛容を!」また「和解を!」などというものである(……)。
(……)疑いを持つ者の目を簡単に覚ますはずの事実がある。それは、社会主義体制のあるところ、必ずその権力をコントロールしているのがユダヤ人だという事実だ(……)。戦略上、社会主義グループのリーダーが純粋なユダヤ人でない場合、そのリーダーはユダヤの血が混じっているか、アンチ・ナショナリズムでインターナショナリストの無宗教者であり、彼等は常にユダヤ人の作家ばかりを引用し、主人であるユダヤ人に忠誠を誓い、ユダヤ人本人よりも熱烈に、ユダヤの利益を擁護する(……)。
社会の破滅が避け得ぬものであることを認めたファシズムは、社会主義と社会主義による影響に対する敵として果敢に立ち上がった。しかしながら、社会主義による危機がファシズムを生み、台頭の機会を与えたと考えるのは間違っている。またドイツについて言われるように第一次大戦による疲弊がファシズムを生んだ原因だと言うのも誤っている。何故ならば、戦勝国であったイタリアでも、第一次大戦直後にファシズムは歓迎されたからだ。
社会主義と同様、ファシズムもまた、リベラル民主主義がもたらした惨状と、国家問題、社会問題を前にしたリベラル民主主義の無能ぶり、リベラル民主主義が古来からの伝統を頑なに無視し、人間の感性を歪め続けたことに対する民衆の不満から生まれたのである。
社会主義と同様、ファシズムも反逆である。しかし社会主義が、僅かに残された道徳と精神主義、自然法や神性に対する反逆であるのに対して、ファシズムは、リベラリズムによって広まった社会的、経済的混乱に対する反逆である。社会主義と同様、ファシズムは安定した強固な権威を要求する。しかし社会主義が一つだけの階層の声を代表する権威を求めるのに対して、ファシズムは国家を形成するあらゆる階層を代表する権威を要求する。ファシズムの要求するこの権威は、現実的、具体的で責任あるものである。左派の教条である社会主義が、本質的に否定主義であるのに対して、右派の教条であるファシズムは、本質的に肯定主義である。破壊的性質を持つ社会主義は、無神論主義・物質主義世界を築くために精神主義を片端から抹殺することを望んでいるが、ファシズムも破壊の仕事を担っている。それは民主主義によって積み上げられた混乱の破壊である。それが完了した後ファシズムは、あらゆる国民がその社会公共生活において慈善の精神を敬う精神主義的国家の建設を目指している。
国家とは国民の総体である。そのためファシズムは、国民の中の特定グループや選挙で過半数を得た一政党のみが国家権力を行使することを認めない。ファシズムにとってはあらゆる権力は神から授けられたもので、それは権利ではなく義務なのだ。そしてその義務は特定のグループ、特定の利益、私益のためだけにあってはならないもので、神と真実の名の下に負っているものである。(……)
ファシズムは、人間法は神の法を反映するものと見なす。あらゆるリーダーは、その権威を神の法の名の下に借りているのであり、法を敬い、適用することを義務とする。リーダーの地位がいかに高いものであろうと、その権力がいかに大きかろうと、あらゆるリーダーは神の法の奉仕者であり、これを犯した場合は、自らの権威の基礎を失墜させることになる。この点においてファシズムは、過半数の力による民主主義の暴政、あるいは絶対的権力を握った個人による暴政の対極にある。何故ならファシズム国家においては、いかなる個人も法を凌駕することは許されないからだ。ファシズムのリーダーは、彼に委託された憲章に違反した場合、いつ何時でも国家総評議会によって解任されることができる。彼自身がこの憲章に奉仕する第一の人物であり、奉仕者の規範となる義務を持つ。
ファシズムが国家についてどのようなコンセプトをもっているかを知るには、ムッソリーニによる国家の定義を紹介すれば充分だろう。この定義はヒトラーによるものと一致する。
“ファシズムの考える国家とは、精神的、道徳的総体である。国家とは政治、司法、経済機関を具象化したものであり、この総体は、その誕生においても発展においても、民族国家の精神を表明するものである。国家は、国内の安全を保障するだけでなく、国民精神の守護者、伝達者でもある。この国民精神とは、先祖代々、長い歳月をかけて言語、風習、信仰によって練り上げられてきたものである。国家は今を生きるだけのものではない。過去のなかにも生き、そして何よりも未来に生きる。個人の短い人生を超越して、民族国家の不死の意識を具現しているのが国家である。”
一言で言えばファシズムは、我々の先祖が我々の現在生きている国を共につくりあげた協力者であり、我々もまた子孫と協力していく義務を負っていると考える。ファシズム国家とはつまり、何よりもまず伝統国家であり、伝統こそが国家精神を実現させていくための導きであると考える。そのためファシズムは特に政権の形を規定せず、国家の恒常的利益、民族的伝統と憧憬の取り込みを、あらゆる一時的な政治的煽動行為に優先させることによって、民主主義の欠点を回避しようとする。端的に言えばファシズムは「民主」主義よりも、「民族」主義を好むのである。ファシズム国家の政権は常に、専門家の意見を幅広く求めることによって確定される民族国家にとっての最大の利益を実現させる努力をし、国民が常に国家の第一義的利益を学び、これを擁護し、必要とあれば長期的利益を獲得するために一時的な犠牲も辞さないよう促す。
ファシズムとは社会・経済復興のための一つの政治解決策であり、西洋文明の根本を考慮に入れない限り、この復興は不可能であると考える。千年を越えるこの文明はキリスト教文明であり、その喚起力、また指針となるのは、個々人を養成するキリスト教である。国家を形成する個々人は、彼等の受けた宗教的養成が求める原則に従って生きなければならないため、国家は宗教と密接に協力していく必要がある。この観点において最も遠いところまで行った為政者はヒトラーである。宰相としてポツダムで行なった最初の演説の中で、ヒトラーは政治原則を次のように表現した。「新ドイツの政権は、道徳、生来の家族、国民、国家の唯一の土台は宗教であると考え、これを守護する」。そのために永久不可侵としたプログラムの中でヒトラーは、国家は積極的にキリスト教的でなければならず、中立でも無関心であってもならないとした。そしてすべての法令は宗教と対立してはならないだけではなく、宗教の教えに貢献するものでなければならないとした。ファシズムは、教育があらゆるレベルにおいて宗教的であることを求める。ファシズムは、宗教を道徳の代弁者、守衛、そして受託者であると見なしている。ポツダム憲法が明白に定義しているように、ファシズムは宗教の第一の擁護者、守護者である。ファシズムは、1789年のフランス革命から生まれた夢、つまり人間の神格化と楽園としての地上という夢を完全に退け、純粋なキリスト教的伝統の原則に立ち返ろうとする(……)。
ファシズムは、リベラル社会主義と異なり、個人は先天的に不平等であると見なす。そのため社会が個人主義であることはもはや許されない。社会は完全に社会的(福祉的)でなければならない。個人主義は犯罪であり、それがもたらす罪に応じて罰されるべきものなのだ。ファシズム国家における個人とは、その生来の遺伝、教育、才能、そして個人的努力によってその者に最も適した社会階層に帰属する一員なのである。しかし個人は、孤独に自立しなければならないわけではなく、組合組織による支えと保護を享受する。
ファシズムは、労働がすべての個人にとっての社会的義務であると考える。ファシズムは、怠惰な金持ちも、怠惰な貧乏人も許さない。そしてあらゆる営みにおいて、個人は自分本位のみであってはならず、常に他者の面倒を見ることを求められる。公共社会や国家が正当な権威を発揮しているならば、それらの利益は、私的利益に優先されなければならない。人間は、国家の中で独立した単位であるだけではない、現在と未来の幸福を共有する一つの共同体の一員として重大な責任を負ってもいるのだ。人はもちろん個人的な損得を持つし、持たねばならないが、公益に反する私益を追求することは許されない。つまり団結と愛国精神を基本に行動することを求められるのだ。個人の社会生活は、その人の家族生活における義務と同型のものであり、その生活は、恒常的で安定した権威によって統制される同業組合に内包される。国家はこの生活を誰よりも断固として擁護し、保護する。国家は、国というものが個人の家族の延長としての民族的大家族であると考え、個人の家族と同様、この大家族にとっても自然な守護者の役割を務める。
ファシズムは、リベラリズムに煽動され、社会主義によって定着した階級闘争の克服に専心し、これを解消するために求められる司法上、経済上の手段を実施する。ファシズムはすべての社会階級が必要なものであり、それらは対立し合うものではなく、互いに補完し合うものであると考える。
自然というものが不平等な原則の上に成り立っている限り、その結果として社会階級も個人も不平等であることを認めなければならない。異なる社会階級は、時計の歯車と同じように連携の取れた一定の動きの中で、国全体が前進、発展すべく秩序正しく、調和に満ちて機能しなければならない。それぞれの社会階層は、社会組織の中で固有の役割を果たす。そして各社会階層に固有の義務と権利があり、それによってその階層の伝統が築かれていく。ファシズムは、労働階層が持つ怨恨、また資本層が奮う横暴に対して、権利と義務を正しく分配することによって、社会的な団結を築くことを試みる。それぞれの階層内にもまた上下関係があり、エリートや責任者が存在するとファシズムは考える。
ファシズムは社会主義を退け、キリスト教的福祉を受け入れ、それは同業組合という形でもって実現される。ファシズムにおいては全てが同業組合という観念の上に成り立っており、一人一人がその才能と素質に自然に適った場に身を置くことができるよう目指す。それは一般の産業組合と似ているが、違いは、上に立つ者はその力が大きいほどそれに見合った多くの義務を負い、国家が彼に求める任務が厳しくなることである。
ファシズム国家において、所有権は神聖なものである。とは言え、それは権利として認められているからには、義務も伴う。社会主義が「所有とは盗みである」と説き、リベラリズムが「すべての個人は自分の所有物を無制限に自由に利用することができる」と主張するのに対して、ファシズムは、私的所有とは個人が所有を許され、過剰な税を課されることなく子孫にも相続させることができる預かり物であると考える。ただしその条件は、所有者は預かり、所有することになった土地、資本、あるいは工場を理性的に利用し、私益だけでなく公益のためにもその可能性を最大限に発展させることである(……)。
ファシズムは、想像可能なあらゆる分野において所有権を擁護するが、所有権が国益と衝突を起こす場合、国家は介入する権利を持つ。ファシズムの最も重要な義務は“統制する”ことであり、ファシズムは常にこの第一義的使命を念頭に置きながら国内の全生産力を調整し、賢明にその任務を果たす。このようにしてファシズムは、国内の自然な需要と国外の市場に応じて、国内生産をコントロールし、投機目的のための不自然な需要に依拠するあらゆる過剰生産を抑止することができる。つまりファシズムは、商業主義の産業と利益追求のみを目的とした生産方法に対して、公共奉仕の精神を擁護し、投機売買による資本主義に対して個人財産を守るのである。
ファシズムは資本と資本主義を明確に区別する。資本とは、国家生命にとって絶対に必要不可欠な経済要素である。それに対して資本主義とは、一部の資本所有者による経済的・社会的暴政である。資本主義の暴政を生んだ直接の責任者は、彼等に国家の資本の大半を吸い上げさせることによってあらゆる均衡を崩壊させ、彼等が弱者層を無慈悲に搾取することによって勢力を増加することを許し、彼等が私益のためにあらゆる政党を買収し、その他の階層に不利となる一連の法制度を制定することを可能にしたリベラル民主主義である。
ファシズムは社会主義よりも熾烈なアンチ資本主義かもしれない。というのはファシズムは、社会主義よりも遙かに健全に資本主義の悪弊を見抜き、それに対する確かな処方を提案するからである(……)。
資本主義による独裁暴政を完全に潰すために、ファシズムはその政治プログラムの中に、暴政のタイプやその生じる場所に応じて、異なる法を盛り込んでいる。これまでの立場を逆転させ、金融は主人ではなく、農業・工業・商業に奉仕する立場に置かれなければいけない。金の力は、生身の人間の労働力に従属するものでなければならないからだ。
ファシズムの原則では、個人の労働、または現実の投資のみが、唯一利益をもたらすことができる。言い換えれば、資本とは投機のためのものではなく、純粋に生産につながらなければならない。現実の価値を持たない証券や架空の価値しか持たない商品への投機こそが、現代社会の惨状と富の不公平な分配を発生させた真因なのである(……)。
ファシズムとは、あらゆる政党の廃止を意味する。実際には、民主主義時代が続いている間を除いては、ファシスト政党というものすら存在しない。ファシズムとは反逆者グループではなく、一つの行政システムだからだ。
政党民主主義政権下での政権とは、数による支配であり、選挙における過半数を基盤とする。つまり匿名で不安定、一貫性のない、まったく無責任な集合体がその基盤なのだ。この選挙制度は買収に好都合であり、その結果買収そのものでしかなくなる。そのように選ばれた政府は名目上の政権でしかなく、常に怯え、充分な統治を行なうことができない。
民主主義国家で実施されているタイプの国民投票は、すべての市民は平等であるとする誤った原則から生まれたものだ。また国民投票によって選ばれた政権は、どの政党であろうと、統治能力を持たない。国民投票は買収に弱く、また自らの票田を買収することも辞さないプロの政治屋をつくり出すだけで、僅かな例外を除いては、真の為政者を生むことはない。真の為政者は、大衆には決して備わっていない先見の明と叡智、自己犠牲の精神を備えていなければならないからだ。無知の数をいくら増殖させたからといって叡智が得られるわけではない。ところが民主主義においては、叡智は、無知な烏合の衆による「はい」か「いいえ」に還元されてしまうのだ。それが国民投票と呼ばれるものだ。
そういうわけでファシズムは、嘘や空約束、威嚇や買収の用いられるのが常の民主主義選挙制度をまったく信用しない。民主主義選挙は、国内の特定階層や私益グループに政権を与えるだけだ。為政者としての能力を駆使し、大きなヴィジョンで統治に身を入れなければいけない指導者が、民衆に媚びなければならないようではダメだ。国法にとって大切なのは、それを支持する声の数ではなく、その法がいかに優れ、公正かということだ。ファシズムが過半数に価値を置かないのはそのためである。熟練し、愛国精神のある人々の過半数である場合は別として。
議会における野党の存在ほどくだらないものはない、廃絶するに限るとファシズムは考えている。議会における野党はどれも雇われ煽動家で、政府のイメージを汚し、法を批判し、政務の執行を遅らせ、妨害するというバカバカしい仕事だけのために存在しているかのようである。その結果、世論は政府の公正に疑いを持ち、本来喚起されるべき敬意を失うだけだ(……)。ファシズムは野党という民主主義制度の過ちを退け、国民全員が国家に協力することを求め、国家に反対するグループの存在を許さない(……)。
自由についてファシズムは、非常に明確な条件を提示する。それはフランス革命による自由の解釈の対極にあるものだ。自由とは、ある権利を享受できた結果として生まれるものに過ぎず、そのものとしては存在しない。人はある権利を行使するかしないかを選ぶ自由を持つが、自由そのものから権利が発生することはない。社会主義者やリベラリストが自由を第一義的な原則としたのは、まさに国にとってはまったくの異邦人で、本来はその国ではなんの権利も持たないはずの外国人が、その国の国民とまったく同じ権利の土台の上に立つことを可能にするためだった(……)。
他者に悪を及ぼすことを可能にする権利は、存在してはならない。従って悪に関する自由も存在することはない。一方、善はそもそもが全権を持つため、善を行使するための権利を要求することは不要なはずである。また善からの解放を求める権利というものも存在しない。解放とは悪から行なわれるものであり、それ以外のあらゆる解放(自由)の観念は虚偽である。
それでは悪とは何か? ファシズムが悪と見なすのは、国家の統一を阻害する全てのもの、伝統、風習、愛国心、祖先が後世に残した土地における経済的、社会的政務を妨害するあらゆるもの、既存の国家、宗教機関の弱体化を試みるあらゆる分子、国民が唯一の祖国で自由に経済発展する邪魔をする全てのものである(……)。
以上がファシズムの様相、機能と教条についての概要である。これは現代におけるキリスト教の再生、国家の政治的、経済的、社会的修復のための一大復興政策である。まとめて言えば、現代という時代、リベラル民主主義が残した廃墟、時勢の要求と言った条件を考慮に入れながら、伝統と公正、キリスト教的慈愛へ積極的に回帰する試みであり、国家と宗教権の熱烈な要求であり、人間の本質と相容れない物質主義に対する闘いであり、民主主義という虚偽が、社会の本質と矛盾する原則の上に築いた社会主義社会の破壊であり、ユダヤ覇権からの世界の解放であり、我々が祖先から引き継いだ遺産の異邦人からの防護であり、暴虐的な独裁者に絞め殺されかけている経済の解放である(……)。
ファシズムは唯一の救世手段であり、復興者であり、我々はこの福音を世界に広めなければならない。我々に僅かに残された国家主義精神とキリスト教信仰を社会主義が根絶させようとしている今、ファシズムはその精神を再び覚醒させようとするのだ。ファシズムとは本質的に信仰の運動だ。我々の伝統が正しいという信仰、我々の国家使命感への信仰、我々の民族への信仰、我々のキリスト教性に対する信仰である。ファシズムとは物質主義からの、個人と集団の脱却であり、国家精神への投身でもある。ファシズムとは、人間のエゴイズムと低俗な本能による誘惑を拒絶することであり、同時に高尚な本能、犠牲の精神への呼びかけでもある。個人の人生も、国民としての人生も享楽ではない。それは義務、名誉、勤労への絶え間ない奉仕であり、人は個人としても国民としても、努力と犠牲なしには、いかなる美にも崇高なものにも到達することはできない。ファシズムとは、悪徳の誘惑、社会的不公正、破壊的教条主義、非道徳的原則に対する闘いであると同時に、再生と復活の、率直で純粋な叫びなのである。それは国民という集合体の偉大なる意識の内奥に浸透する力を持ち、我々が大いなる覚醒の日まで手を緩めることなく働き続ければ、必ずや我々を救済してくれるだろう(……)。
Serviam, La pensee politique d'Adrian Arcand, Anthologie, Reconquista Press, 2017より