『カナダの歴史見直し主義:ツンデル裁判』〜ロベール・フォリソン

1988年8月31日著

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ロベール・フォリソン


1988年5月31日エルンスト・ツンデルは、カナダ、トロント市オンタリオ地方裁判所ロン・トーマス裁判官から九ヶ月の禁固刑の判決を受け、即座に投獄された。罪状は十四年前に出版された『600万人は本当に死んだか?』という歴史見直し主義雑誌を配布したことだった。

エルンスト・ツンデルは、近年までトロントに住み、グラフィックデザイン、広告デザイン業を営んできた。四十九歳。ドイツに生まれ、ドイツ国籍を保持してきている。ツンデルの人生が激動したのは、1981年頃に彼が、リチャード・ハーウッドのパンフレット『600万人は本当に死んだか?Did Six Million Really Die?の再配布を始めたときだった。このパンフレットが世界で初めて公開されたのは、1974年イギリスでのことで、翌年Books and Bookmen上では大論争が巻き起こった。南アフリカでは、同国ユダヤ人コミュニティの介入によって禁書扱いとなっていた。

カナダでは、1985年にツンデルに対して行なわれた一回目の裁判で、彼は十五ヶ月の禁固刑の判決を受けていたが、1987年判決は無効とされた。1988年1月18日に新たな裁判が開始し、私は裁判の準備と法廷での訴訟の双方に参加した。エルンスト・ツンデルを弁護するための仕事に私は何千という時間を費やした。

最初の犠牲者フランソワ・デュプラ

既に1967年、フランソワ・デュプラ[訳注:フランスの作家、政治運動家、フロン・ナショナル党創設者の一人(1940〜1978)]が、〈ガス室の謎〉についての記事を発表していた[原注1]。彼もリチャード・ハーウッドのパンフレットに興味を持ち、再配布を手掛けたが、1978年3月18日に暗殺された。犯行は秘密諜報局によるものとしか判断しようのない高度な技術を要するものだったが、〈記憶の守護人〉及び〈ユダヤ革命グループ〉を名乗る者達が犯行声明を発表した[原注2]

デュプラの住所を『ネオナチ・ファイル』上に公表したのは[フランスの作家]パトリス・シェロフだった。シェロフは、『ル・モンド』紙のコラムにデュプラ暗殺を正当化する記事を発表し(1978年4月26日、9頁)、デュプラの歴史見直し主義的態度について次のようなコメントを行なった:「暗殺はフランソワ・デュプラの自己責任である。死を招く責任というものがある。」

また、LICRA(人種差別とユダヤ差別に対する国際リーグ)の出版物『生きる権利』の中では、ジャン・ピエール=ブロッシュが、殺人行為を断罪しながらも、同時に歴史見直しの道を選ぶ者に対しては、この犠牲者と同じように、同情の余地はないと示唆する態度を表明した[原注3]

ピエール・ヴィアンソン=ポンテ

デュプラ暗殺の八ヶ月前、ジャーナリストのピエール・ヴィアンソン=ポンテが、リチャード・ハーウッドのパンフレットに対する激しいバッシングを始めていた。彼のコラムは『嘘』というタイトルで[原注4]、上記のLICRA『生きる権利』誌にも絶賛とともに転載された。暗殺の六ヵ月後、ヴィアンソン=ポンテは、パンフレットの攻撃を再開した[原注5]。デュプラ暗殺については口を噤みつつ、歴史見直し主義の読者三名の氏名と在住都市を公開し、歴史見直し主義者に対する法的追及を呼びかけた。

サビーナ・シトロン対エルンスト・ツンデル

1984年、カナダでは、「ホロコースト追悼の責任を担う協会」の責任者であるサビーナ・シトロンが、エルンスト・ツンデルに対して過激な運動を開始した。ツンデルの自宅はテロ攻撃の対象となり、カナダの郵便行政は、歴史見直し主義文学をポルノ文学と同等とみなし、ツンデルの郵便送受信を一切拒否した。ツンデルが郵便送受信の権利を再び取得するには、一年間にわたる訴訟が必要だった。その間、ツンデル事件の火は収まりかけていた。すると今度は、サビーナ・シトロンの訴えによって、オンタリオ州検事総長がツンデルを「虚偽の主張(または虚偽の情報)を伝播した」という罪状で起訴したのだ。

起訴状によれば、被告はリチャード・ハーウッドのパンフレットを配布することによって、言論の自由の権利を濫用し、虚偽の情報を虚偽と承知の上で伝播したという。何故ならば、被告は〈[ナチスによる]ユダヤ人の虐殺〉と〈ガス室〉が、実証された事実であることを知らないはずがないから、というものだった。

またエルンスト・ツンデルは、パンフレットの内容と同義の文書を自らも執筆・配布していたが、その罪によっても起訴された。

1985年の第一回ツンデル裁判

最初の裁判は七週間にわたって行われ、陪審の判決は、エルンスト・ツンデルの自著に関しては無罪、パンフレットの配布に対しては有罪と下った。ヒュー・ロック裁判官は、ツンデルに十五ヶ月の禁固刑を申し渡し、トロントのドイツ領事は彼のパスポートを没収した。西ドイツは、ツンデルに対していわゆる「強制移送」の手続きを始め、その前に、国内全土でツンデルの交信相手全員を警察に大規模捜査させた。1987年アメリカはツンデルの入国を禁止した。

それにも拘わらずツンデルは、この裁判によって、メディア上の勝利を収めたのだった。七週間の間、あらゆる英語圏のメディアが来る日も来る日も、劇的な暴露に満ちた裁判の内容を報道したからだ。歴史見直し主義者という人々が最高の資料と論拠を手にしているのに対して、絶滅主義者達が太刀打ちできず追い詰められる実態が日の目に曝されたのだ。

絶滅主義者のエキスパート:ラウル・ヒルバーグ

この最初の裁判での検察側のエキスパートは、ユダヤ系のアメリカ人教授ラウル・ヒルバーグだった。このテーマの規範とされる『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(1961年)の著者である。ポール・ラッシニエ[フランスの歴史見直し主義者・元ブーヘンヴァルト強制収容所捕虜]が自著『ヨーロッパ・ユダヤ人の悲劇』(1964年)で扱った作品だ。

ヒルバーグは、はじめなんの障害もなく自分のユダヤ人絶滅論を披露した。続いて、ケルティ・ズブコと私自身のサポートを受けたツンデルの弁護士ダグラス・クリスティによる反対尋問が行なわれた。最初の質問が発せられただけでたちまち、ホロコーストの歴史に関する世界最高権威であるはずのラウル・ヒルバーグが、アウシュヴィッツはおろか、[ナチスの]強制収容所を一箇所たりとも調査した経験のない事実が判明した。著書を刊行した1961年以前にも、以後にもである。1985年には、三巻からなる同書の改訂・検証・増補版の刊行が大々的に発表されていたのにも拘わらず、彼はなおも強制収容所を調査したことはなかった。たった一度1979年にセレモニーに参加するためアウシュヴィッツに赴いたことがあるだけだった。研究テーマにかかわる現場やアーカイヴを確かめる好奇心など、彼はこれっぽちも持ち合わせていなかったのだ。〈オリジナル〉の状態であろうと、廃墟になったものであろうと、ヒルバーグは、生涯に一度たりとも〈ガス室〉を目にしたことはなかったわけである(廃墟というものは、歴史家にとっては常に饒舌なものだ)。

また彼は、〈ユダヤ人絶滅政策〉と研究書の中で彼が呼んでいるものについて、計画書も、執行組織も、中枢機関も、予算も、検査機関も存在したためしのないことを認めざるを得なかった。さらには1945年以来、連合国は殺人用のガス室の存在を証明するために一度も〈凶器〉の鑑識を行なったことがないことも認めなければならなかった。毒ガスを使用した捕虜の殺害を証明する検死報告も存在しないのだ。

ラウル・ヒルバーグは、ヒトラーがユダヤ人絶滅の指令を下し、ヒムラーが1944年11月25日(なんたる詳細!)にこれを停止させる指令を出したと断言しながら、これらの指令書を提示することさえできなかった。弁護側が、彼の著作の改訂版には、ヒトラーの指令に関するくだりは保持されるのかと尋問すると、答えは「イエス」だった。だがそれは嘘だった。偽りの宣誓を行なったわけである。というのも、新たに刊行された版の序文は1984年9月付けとなっているのだが、本文内のヒトラーの指令に関する箇所は、ことごとく削除されていたのだから[原注6]

弁護側は、ドイツ人が計画書もないまま、いかにして数百万人のユダヤ人の虐殺という壮大なプランを実行できたのか説明を求めると、ヒルバーグは、ナチスの様々な機関の中での「官僚同士の心中の合意による信じ難い以心伝心による(an incredible meeting of minds, a consensus mind-reading by a far-flung bureaucracy)」と答えたのだった。

証人アーノルド・フリードマン

検察側は、〈生き残り〉の証言に期待していた。細心の注意を払って選り抜かれた〈生き残り〉証人達だった。彼等こそ、ガス殺人が準備され、実行される過程をその目で見たことを証言してくれるはずだ。戦後、ニュルンベルク裁判(1945〜46年)、イエルサレム裁判(1961年)、あるいはフランクフルト裁判(1963〜65年)といった一連の裁判は、必ずこのような生き証人を召喚してきたものだ。しかしながら、私自身がしばしば指摘してきたように、ガス殺そのものに関する彼等の証言に対して反対尋問を行なう勇気、または能力のある弁護士は、これまで一人もいなかったのだ。

1985年、トロント裁判の被告弁護士ダグラス・クリスティ弁護士は史上初めて、(私が用意した)地図や建物の設計図、またガス殺に使用されたというガスの性質や、火葬炉や火葬台の稼働能力に関する科学的資料を参考にして、証人達に説明を求めたのだ。この試練を無事にくぐり抜けることのできた証人は一人としていなかった。特にアーノルド・フリードマンという証人は、問い詰められ、答えに窮した末に、自分は確かにアウシュヴィッツ・ビルケナウにいたが(しかもそこでは強制労働は一度限り、ジャガイモの荷卸をさせられただけだった)、ガス殺に関しては、話に聞いたことを繰り返しただけだと打ち明けざるを得なかった。

証人ルドルフ・ヴルバ

ルドルフ・ヴルバという名の証人は、世界中に名を馳せている。ユダヤ系スロヴァキア人で、アウシュヴィッツとビルケナウに捕囚されていた。彼の語るところでは、1944年4月にフレッド・ヴェッツラーなる人物と共に脱走し、スロヴァキア帰国後、アウシュヴィッツ及びビルケナウ強制収容所の火葬炉と〈ガス室〉なるものについての報告書を作成した。ヴルバの報告書はスロヴァキア、ハンガリー、スイスのユダヤ人団体の仲介によって、ワシントンに届けられ、1944年11月に発表された名高い『戦争難民評議会報告書』のベースとして用いられた。連合軍側で〈戦争犯罪〉を追及するあらゆる組織、又〈戦争犯罪者〉を告訴する裁判を担当するあらゆる検察官は、こうしてナチスの強制収容所に関する公式報告書を手にすることになったのだ。

ルドルフ・ヴルバはやがてイギリス国籍を取得し、自伝『私は許さない』I Cannot Forgiveを発表した。1964年に出版されたこの本の真の著者は序文を執筆したアラン・ベスティック自身だった。その序文の中でべスティックは、「(ルドルフ・ヴルバ)の細部に対する並々ならぬ配慮」と「正確に物語ることに対する彼の熱狂的とさえ言える細心の敬い」を絶賛していたのだ。

1964年11月30日、ヴルバはフランクフルト裁判で証人として証言を行なった。その後カナダに移住し、カナダ国籍を取得。アウシュヴィッツをテーマにした数々の映画、特にクロード・ランズマン『ショアー』に出演している。まさに1985年のツンデル裁判で容赦ない反対尋問を体験するまでは、飛ぶ鳥も落とす勢いだったわけだ。だがツンデル裁判で、この詐欺師の仮面は剥がされた。1944年に彼の作成した報告書にある〈ガス室〉や火葬炉の数も、位置も、すべてが彼の作り話であることが発覚したのだ。

1964年の彼の著書は、ヒムラーが1943年1月にビルケナウ収容所の新たな〈ガス室〉付き火葬炉の落成式に訪れるシーンから始まる。ところが実際にはヒムラーが最後にビルケナウを訪問したのは1942年7月であり、1943年1月には新たに建設中だった火葬炉群の最初の一基さえ、完成からは程遠い状態にあった。

またルドルフ・ヴルバは、特別な記憶術と偏在術のおかげで、1942年4月から1944年4月の25ヶ月間の間に、ビルケナウ収容所だけでも176万5千人のユダヤ人(そのうち15万人はフランス出身)がドイツ人に〈ガス殺〉されたことを計算できたそうだ。ところが、セルジュ・クラースフェルド[ユダヤ系フランス人の弁護士・歴史家]は、1978年に出版した『フランス・ユダヤ人強制移送の回想録』の中で、大戦の全期間を通じて、ドイツが全強制収容所に強制移送したフランスのユダヤ人の総数が7万5721人であると結論しているのだ。ここで何よりも深刻なのは、ヴルバが挙げた176万5千人という、ビルケナウで〈ガス殺された〉ユダヤ人の数が、ニュルンベルク裁判の書類(L-022)に採用されたことである。

詐欺師ヴルバは、エルンスト・ツンデルの弁護士クリスティーに四方八方から攻められ、とうとう法廷で、自著が〈詩法上の破格語法〉licentia poetarum、つまり詩人に許されるフィクションの範疇で解釈すべきものだと告白したのである。つい最近ヴルバの本は、フランスでも刊行された。フランス語訳版では、著者名は「ルドルフ・ヴルバとアラン・べスティック」になり、アラン・べスティックの手による熱狂的な序文は姿を消した。そしてエミール・コプフェルマンの手短な紹介文の中で「ルドルフ・ヴルバの同意のもと、英語版に含まれる二つの付記は削除された」と断られている。この付記のせいで著者が1985年のトロント裁判で苦境に立たされる羽目になった事実については触れられていない。

第二回ツンデル裁判(1988年)

1987年1月、五名の高位司法官から構成される法廷が1985年の裁判の無効を決定した。その理由は、裁判官のヒュー・ロックが陪審の選抜において被告側にいかなる保証も認めなかったことと、また陪審が裁判官によって裁判の意義そのものを誤解させられていたことだった。

私個人は、これまでの人生で、粛清時代のフランスのものも含めた相当な数の裁判を経験してきたが、ヒュー・ロックほど不公正で、権威主義的、乱暴な司法官には出会ったことはない。

アングロ・サクソン圏の法廷はフランスのものに比べて、遙かに多くの保証を提供するものだが、たった一人の司法官によって、最高のシステムすら失墜させることが可能なのだ。ヒュー・ロックとはまさにそのたった一人の司法官だった。

二度目の裁判は1988年1月18日にロン・トーマス裁判官の指揮下で開始した。ロン・トーマスは、ヒュー・ロックの友人だそうだ。激しやすく、被告に対する敵意の露わな人物だったが、前任者よりも巧妙だった。また五人の高位司法官が監視の目を光らせていたため、ある程度手綱は握られていた。

ロック裁判官は1985年の裁判で、被告弁護側の証人や専門家が自由に証言を行なうことに幾度となく制限を加えたものだった。例えば私はアウシュヴィッツで撮影した写真を使うことも、化学的・地理的・建築学的立場からの論拠を展開することも禁じられた(アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の火葬炉の地図を世界で初めて公開したのは私自身であるにも拘わらずだ。)またアメリカのガス室について語ることも禁止、アウシュヴィッツ及びビルケナウ収容所の航空写真を用いることも許されなかった。名高い化学者ウィリアム・リンゼイでさえが、その証言に制限を加えられた。1988年のロン・トーマス裁判官は、被告弁護側にずっと自由に証言させたが、原告側の要請に従って、当初から陪審を束縛する性質の決定を採択していた。

ロン・トーマス裁判官の「法的通知書」

アングロ・サクソン圏の法廷では、あらゆる事柄は実証されなければいけない。ただし、幾つかの自明の事実(〈公知の事実〉)は例外とされる(例えば「イギリスは王制である」とか、「イギリスの首都はロンドンである」、あるいは「日が昇ると夜が明ける」等と言ったものだ)。そのため裁判官には、原告または被告側の要請に従って、こうした〈公知の事実〉(judicial notice)について「法的通知書」を作成することが求められる。

検事のジョン・ピアーソンは、裁判官にホロコーストに関する「法的通知書」の作成を要請した。つまりこの用語の定義を行なわれなければならないことになったのだ。おそらく弁護側の介入がなければ、裁判官は、ホロコーストという用語の定義を、まさに1945〜46年と同様に行なっていただろう。45〜46年当時には、〈ユダヤ民族の虐殺〉(ホロコーストという表現はまだ使用されていなかった)と言えば、「指令に従った六百万人のユダヤ民族の特にガス室を使用しての計画的抹殺」という風に定義することができただろう。

しかし今回、原告側にとっての頭痛の種は、被告側が裁判官に、1945〜46年以降、絶滅主義的歴史家達自身の間で、ユダヤ民族絶滅についての考えが大きく変化していることをあらかじめ伝えていたことだった。そもそも絶滅主義者達は、「絶滅させた」ではなく「絶滅させる意向があった」と表現するようになっていた。さらに彼等は、「これ以上ない専門的な調査にも拘わらず」、ユダヤ民族の絶滅を命じる文書の片鱗すら発見されないことを認めざるを得なくなっていた。ついには「絶滅意向主義者」と「絶滅主義者」との間で分裂が起こったのだった。ユダヤ民族を絶滅させる意図を証明する証拠がないと皆が口を揃える中、前者は、それでもやはりナチスドイツにはそのような意図があったことが推測されると主張し、後者は、絶滅政策はローカルで無秩序な個人的イニシアチヴの下に実施された、つまり実際の行為が起こることによってある種の組織が形成されたのだ、と主張するようになったのだ。

また六百万という数字は、象徴的なものであることが明らかにされ、〈ガス室問題〉をめぐっては様々な対立する立場が発生している、といった情報の山に、ロン・トーマス裁判官は明らかに虚を衝かれた。彼は慎重を期し、しばらく考えてから、次のような定義を採択した:ホロコーストとは、国家社会主義の手による「大量のユダヤ人の絶滅/及び/又は虐殺」のことである。

この定義には特筆すべき点が複数ある。絶滅命令又は計画という表現、あるいは〈ガス室〉や六百万という表現が消えたのだ。ホロコーストという用語から大部分の中身が削がれ、この言葉はほとんど意味を失いかけた。いったい「大量のユダヤ人の虐殺」とは何か(裁判官は慎重に、”ユダヤ民族の虐殺”ではなく、”大量のユダヤ人の虐殺”と表現した)。この定義ひとつを取っただけでも、1945年から1988年にかけて、歴史見直し主義者達が達成した進歩を確認することができるのだった。

ラウル・ヒルバーグ、再度の出廷を拒否する

1988年第二回の裁判では、検事のジョン・ピアーソンにとって不都合な事態が発生した。度重なる懇願にも拘わらず、ラウル・ヒルバーグが再び法廷で証言することを拒否したのだ。

ピアーソン検事とヒルバーグが文通していることを風の便りに知った被告弁護側は、その遣り取りの公表を要求し、これは受諾された。こうして我々が目にすることができた特に「親展」扱いの一通の書簡の中で、ヒルバーグは、1985年の法廷での尋問が彼に取って決して良い思い出ではないことを打ち明けていたのだ。彼は、被告弁護士ダグラス・クリスティーから、当時と同じ点について再び攻撃されることを危惧していた。書簡の文を文字通り引用すると、ヒルバーグは「[被告弁護側が、]前回の私の証言と、1988年に私が新たに答える可能性のあることとを比較して、まったく些細な点であろうと、表面的な矛盾を指摘することによって私を罠に陥れようとする(every attempt to entrap me by pointing out to any seeming contradiction, however trivial the subject might be, between my earlier testimony and an answer that I might give in 1988)」ことを恐れていると書いていた。実際、ラウル・ヒルバーグは、既に上述したように1985年に典型的な偽りの宣誓を犯しているため、当然、それを断罪されることを恐れなければならない立場にあったのだ。

検察側エキスパート、クリストファー・ブラウニング

ラウル・ヒルバーグに代わって、彼の友人で、ホロコーストを専門とするアメリカの教授クリストファー・ブラウニングが登場した。エキスパートの肩書きを認可され(何日にもわたってカナダの税金から時給600フランという報酬を受け取った)ブラウニングは、リチャード・ハーウッドのパンフレットの内容がデタラメであり、ユダヤ民族絶滅の意図は科学的に実証された事実であることの立証を試みた。結果は惨憺たるものだった。反対尋問で被告弁護側は、彼を論破するのに彼自身の論拠を利用した。

最初胸を張って仁王立ちしていたこの無邪気な大先生は、裁判の日が経つにつれて、証言台の向こうで立ち上がることもできなくなり、間違いを指摘された生徒のように身を縮めていった。そしてとうとう服従しきった小声で「まったくこの裁判では、歴史学の知識について実に学ばされることが多い」と打ち明けるに至ったのだ。

ラウル・ヒルバーグと同様、この教授も強制収容所を実地調査したことは一度もなかった。〈ガス室〉と言われている施設を一つも訪れたことはなかった。この“凶器”に関する鑑識を探そう、要求しようなどという考えは、一度も彼の脳裏をよぎったことはなかったのだ。

自著の中で、殺人用のガス室を搭載したトラックについて大々的に論じているのにも拘わらず、本物の写真も、設計図も、技術的研究も、鑑識も提示することができなかった。ドイツ語のGaswagen(ガス車)、Spezialwagen(特別車)や、Entlausungswagen(虱駆除車)と言った単語が、まったく無害な意味を持つことがありえることすら、彼は知らなかった。技術上の知識は皆無だったし、アウシュヴィッツ収容所の航空写真を確かめた経験すらなかった。また、ガス殺について告白したルドルフ・ヘスらのドイツ人が受けた拷問についてもまったく何も知らずにいた。幾つかのヒムラーの演説やゲッペルスの日記に寄せられる疑惑についても無知だった。

戦争犯罪人裁判の大ファンである彼は、ひたすら検事ばかりにインタビューを行い、弁護士に質問をしたことは一度もなかった。ニュルンベルク裁判議事録に関する彼の無知ぶりは、目を覆わんばかりのものだった。ブラウニングは、『旧ポーランド総督ハンス・フランクが、自分の〈日記〉や〈ユダヤ人絶滅〉について法廷で述べた内容』について読んだことすらなかったのだ。許され難い手落ちである。

ブラウニング教授は、ハンス・フランクの〈日記〉に書かれた内容こそが、ユダヤ人絶滅政策が存在したことの押しも押されもせぬ証拠だと信じ込んでいたのだ。この〈日記〉内に、「断罪」できる文を発見したと思っていた。ハンス・フランクが、およそ1万1500ページからなる個人的事務日記中の何万という文の中から選抜されたこうしたタイプの文に対して、ニュルンベルク法廷で釈明を行なっていたことを、彼は知らずにいた。そもそもハンス・フランクは米軍が彼を逮捕しに来た時、自発的にこの〈日記〉を差し出したのだ。旧総督の供述を読んだ者にとっては、その信憑性には疑いの余地はなく、引用文の朗読を聞かされたブラウニングは、微塵も反論を試みようとしなかった。

だが彼の生き恥はまだ終わらなかった。

彼は自分の理論を立証するために、1942年1月20日に開催されたヴァンゼー会議の議事録から一文を引用し、自ら訳を付けていたが、それが大変な誤訳だったのだ。そのために彼の理論そのものが成り立たなくなっていた。

最終的に、ブラウニングが解説した〈ユダヤ民族絶滅政策〉なるものは、ラウル・ヒルバーグのものと五十歩百歩だった。ブラウニングによれば、ヒトラーが〈頷く〉(the nod)ことで合図が送られたというのだ。つまりドイツの総統は、ユダヤ民族を絶滅させるための文書による命令文も口頭による指令も必要としせず、ただ〈頷く〉だけで、作戦は開始され、その後も連続して〈合図〉(signals)を送るだけで、誰もが総統の意向を理解したそうである!

シャルル・ビーデルマン

検察側に召喚されたもう一人のエキスパートは、赤十字国際委員会(ICRC)代表で、西ドイツ、バード・アロールセンに置かれた国際調査局(ITS)の事務局長、スイス人シャルル・ビーデルマンだった。後者は、国家社会主義政権下の犠牲者、特に強制収容所元捕虜達の個人的運命に関するとてつもない量の情報を保有する機関である。バード・アロールセンにこそ、第二次世界大戦中に死亡したユダヤ人の本当の数を突き止める資料があると言うのが私の意見だ。本当にそれを突き止めようという意志さえあれば。

しかし検察側は、このエキスパートが所持している宝の山を自分達の有利に利用することがまったくできなかった。逆に弁護側の反対尋問が、再び多くの得点を稼いだのだった。

ビーデルマンは、ドイツの強制収容所に殺人用のガス室が存在したという証拠を赤十字国際委員会は一度も発見したことのないことを認めた。1944年9月にアウシュヴィッツ収容所を視察した国際赤十字代表団の一人はむしろ、ガス室という風評が多かれ少なかれ存在するに過ぎないという結論に達していた。

ビーデルマンは混乱の末、〈絶滅収容所〉という表現を国家社会主義者が使用したものであるとしたのは誤りであると認めた。〈絶滅収容所〉という表現が、実際には連合国が捏造したものであることに、彼は気づかなかったのだ。また彼は、赤十字が、戦中も戦後も公正な立場を保ったと主張したが、我々はその反対を証明することに成功した。戦後、赤十字は連合軍に口裏を合わせたのだった。

ビーデルマンは、戦争末期及び戦後にドイツ人が体験した残虐極まりない状況に関する赤十字の報告書を知らないと主張した。欧州東部の少数民族だったドイツ人達の大量強制移送についても、〈大崩壊〉[赤軍を前にした東部ドイツ民族の悲劇的逃走、数百万の死者を出した]時の惨劇についても、ドイツ兵の大量処刑についても、特に1945年4月29日アメリカ軍にダッハウ強制収容所を引き渡した520名のドイツ兵及び将校の銃、機関銃、シャベル、ツルハシによる虐殺についても、赤十字はいっさい資料を保有していないそうだ。

またITSは、ドイツの強制収容所に収監されていた刑事犯罪者さえも、〈ナチスドイツによる迫害者〉の数に含めていた。ITSは〈アウシュヴィッツ博物館〉(共産党組織)が提示するデータを盲信していた。1978年以降、ITSは、歴史見直しの研究を妨げるために、歴史家及び研究者への門戸を閉じた。閲覧を許されるのは、ITSの活動を監視する十カ国(イスラエルを含む)から特別許可を得た者だけである。ITSは今や、これまで行なってきたように各収容所で死亡した捕虜の統計を作成することも禁止されている。年間活動に関する貴重な報告書も、研究者にはなんの意味も持たない最初の三分の一を除いては、今後は一般には公開されなくなった。

1964年のフランクフルト裁判で漏洩した情報が正しいことを、ビーデルマンは認めた。その情報によると、アウシュヴィッツが解放された時、ソ連とポーランドは、この三十九の収容所と付属収容所から成る複合施設全体での死亡記録簿を発見していたのだ。それは全三十八〜九巻からなる記録簿だった。そのうちの三十六〜七巻はモスクワに保管され、ポーランドは〈アウシュヴィッツ博物館〉に残りの二〜三巻を保管し、そのコピーをアロールセンのITSに送付した。ビーデルマンは、ITSがコピーを所持しているこの数巻に記載された死亡者数すら公開することを拒否した。アウシュヴィッツ収容所死亡記録簿に掲載された数値が公けになった暁には、この収容所での数百万の犠牲者という神話が崩れ去ることは明らかである。

検察側、〈生き残り証人〉を召喚せず

裁判官は検事に、〈生き残り〉を証人として召喚したか尋ねると、答えは「否」だった。1985年の第一回裁判における経験が、あまりに苛酷だったためだ。〈生き残り〉証人への反対尋問という試練は、検察側にとって大打撃だったのだ。

残念ながら1987年にフランスで行なわれたバルビー裁判や、1987〜88年イスラエルで行なわれたデムジャンジュク裁判では、カナダのダグラス・クリスティー弁護士が1985年の第一回ツンデル裁判で披露した手腕を見習える弁護士は、一人もいなかった。ダグラス・クリスティーは、〈ガス殺〉が行なわれた行程について的確な反対尋問を行なうことによって、〈絶滅収容所神話〉をその根本から解体することが可能であることを、証明したのだった。

被告弁護側証人とエキスパート

ラウル・ヒルバーグやクリストファー・ブラウニングの証言が不正確で妄想的であればあるほど、被告側の証人やエキスパートの供述の大部分が、正確で具体的であることが目立った。

スウェーデン人のディートリーブ・フェルデラーは、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の強制収容所で撮影した写真をおよそ350枚紹介した。

資料に関して卓越した知識を持つアメリカのマーク・ウェーバーは、ホロコーストと、とりわけ〈アインザッツ・グルッペン〉の様々な様相に焦点を当てて供述した。

ドイツのティユダール・ルドルフは、ポーランド領ウッチにあったゲットーについて供述し、また1941年秋に赤十字国際委員会調査団が行なったシレジア及びポーランド総督府内の強制収容所(アウシュヴィッツ、マイダネク等)視察旅行に関する個人的な体験を語った。当時、赤十字代表は旅の終わりに、ポーランド総督ハンス・フランクの協力的姿勢に感謝の意を表したそうだ。

1944年にアウシュヴィッツ施設内の農業研究所を指揮していたティース・クリストファーセンは、研究所の人員を募集するために度々ビルケナウ収容所を訪れたが、世間で語られるような残虐行為を見たことは一度もなかったと証言した。彼は1973年に早くも十九頁からなる記録を自ら執筆していたが、その内容を一点一点、証人席で披露した[原注7]

カナダのマリア・ヴァン=ヘアワーデンは、1942年からビルケナウ収容所に収監されていたが、大量虐殺と呼べるようなものは近場でも遠地でもまったく目にしたことがない、しかし多くの捕虜がチフスが原因で命を落としたと証言した。

アメリカのブラッドレー・スミスは、「ホロコーストに関する公けの討論のための評議会」なるもののメンバーだが、アメリカ国内での百件近いホロコーストをめぐる討論での経験について供述した。

オーストリアのエミール・ラシューは、1987年12月以来オーストリア当局を動揺させている名高い『ミュラー・ファイル』について、注釈を行なった。『ミュラー・ファイル』は、1948年10月1日に作成されたものだが、当時すでに連合軍の調査委員会が、ドイツの多くの収容所で〈ガスを使った殺人〉が行なわれていたとは信じなくなっていたと暴露している(ダッハウ、ラーフェンスブリュック、シュトルートホフ(ナッツヴァイラー)、シュトゥットフ(ダンツィク)、ザクセンハウゼン、マウトハウゼン(オーストリア)収容所等)。『ミュラー・ファイル』には、ガス殺に関する自白を[ニュルンベルク裁判等で]行なったドイツ人達が皆拷問を受けており、彼等の告白は偽証であると、明記されている。

ベルゲン・ベルセン強制収容所の解放に立ち会ったラッセル・バートン博士は、はじめはその惨状を目にして、これが指令による虐殺によるものだと信じ憤慨したが、間もなく、こうした死骸の山や生ける屍の群れの出た原因が、断末魔にあるドイツで過密化し、疫病が猛威を奮い、連合軍の爆撃のせいで断水し、食糧や医薬品がほとんど底をついた収容所の悲惨な状況にあったことを理解したと証言した。

ドイツ人のウド・ヴァレンディは、自らの歴史を検証する研究結果を紹介した。

ミュンヘン在住のユダヤ教徒ユダヤ人J=G・ブルクは、戦争中に自ら体験したことについて語り、ナチスによるユダヤ人虐殺政策が存在しなかったことを証明した。

MM・クアン・フーやゲイリー・ボッティングら大学教授は、史実だけでなく見解や解釈の分析方法についての専門的解説を行なった。

ユルゲン・ノイマンは、自ら行なっているエルンスト・ツンデルとの共同研究の性質について説明した。

エルンスト・ニールセンは、ホロコーストについて自由に研究することに対してカナダの大学内で行なわれる妨害についての体験を語った。

カナダ、カルガリーにある火葬炉の操業責任者であるイヴァン・ラガセは、アウシュヴィッツ収容所の火葬炉に関してラウル・ヒルバーグが挙げる火葬数が、現実的に不可能であることを立証した。

私自身も、エキスパートの肩書きの下、六日間にわたって供述を行なった。私は特にアメリカに実在するガス室に関する自分自身の調査について詳述した。チクロンBとはシアン化水素ガスであり、アメリカの死刑施設の幾つかで死刑囚を処刑するために使われていることに注意を喚起した。つまり1945年、連合軍は、アウシュヴィッツ等、数百万人の捕虜をガス殺するための施設だったといわれるドイツの強制収容所を、アメリカのガス室専門家に調査させるべきだったのである。

私は既に1977年から次のような考えでいる。ホロコースト伝説のような大規模な歴史上の問題を扱わなければならない時には、まずこの問題の核心がどこにあるのか探し当てるべきである。ホロコースト伝説について言えば、問題の核心はアウシュヴィッツにあり、次いでアウシュヴィッツの問題の核心は、275平方メートルのとある空間に限定することができる。すなわちアウシュヴィッツの火葬炉Iの〈ガス室〉と呼ばれる65平方メートルの空間と、ビルケナウ収容所の火葬炉IIの〈ガス室〉と呼ばれる210平方メートルの空間である。第二回トロント裁判が行なわれた1988年、私の考えは変わっていなかった。ホロコースト問題に対する答えは、この275平方メートルの鑑識を実行すれば出る、という考えだ。私は陪審に、アメリカ、バルティモアに実在する死刑用ガス室の写真と、私が発見したアウシュヴィッツの〈ガス室〉なるものの図面を披露しながら、この施設でガス殺を実行することが物理的、化学的に不可能であることを説明した。

クライマックス:ロイヒター報告

私は1977〜78年の間、ガス室を所有する六箇所のアメリカの刑務所と連絡を取っていた。その書簡をエルンスト・ツンデルに譲渡したところ、彼は弁護士バーバラ・クラシュカに、これらの施設の責任者の中に、法廷に出廷し、本物のガス室の機能について説明することを引き受けてくれる人がいるかどうかを調べさせた。ミズーリ州ジェファーソン・シティの刑務所長ビル・アーモントラウトが出廷に同意し、ついでにアメリカで誰よりもガス室の機能に精通しているのは、ボストンのエンジニア、フレッド=A・ロイヒターであると教えてくれた。

私は1988年2月3日と4日にロイヒターに面会することになった。フレッド・ロイヒター自身は、ドイツの強制収容所の〈ガス室〉について、一度も疑問を抱いたことはなかった。事実だと信じて疑っていなかったのだ。ところが私が自分の資料を広げ出すと、たちまち彼は、この〈ガス殺〉が物質的にも化学的にも不可能であることに気付きはじめた。さらなる資料に目を通すために、彼はトロントに来ることを承知してくれた。

さらにロイヒターは、ツンデルから旅費を得て、秘書(彼の妻)、図面家、カメラマン、そして通訳を携えてポーランドを訪問した。彼はアスシュヴィッツとビルケナウの火葬炉の〈殺人用ガス室〉と呼ばれる場所、またビルケナウの〈殺菌用ガス室〉から32のサンプルを採取して帰国し、付記も含めて192ページからなる報告書を執筆した。彼の結論ははっきりしていた。アウシュヴィッツでも、ビルケナウでも、またマイダネクでも、〈人間のガス殺〉は一度も行なわれなかった。

フレッド・ロイヒターは、1988年4月20日と21日、トロント法廷で証言を行なった。自分の調査について報告し、結論を述べた。この二日間で私は、〈ガス室神話〉の死に際に自ら立ち会った、と言うことができる。1982年のソルボンヌ大学で行なわれた会議(1982年6月29日〜7月2日『ナチスドイツとユダヤ民族の絶滅』会議)で、私にとってはすでに断末魔にあったと言える神話が、この二日間で絶命したのである。

トロント裁判所の法廷内、特にサビーナ・シトロンの取り巻きの間での動揺は並々ならぬものだった。ツンデルの友人達は別の意味で感極まっていた。壮大な陰謀のヴェールがようやく目前で破られたのだ。私自身は安堵とメランコリーを覚えた。安堵は、長年私の訴えてきた説が、とうとう完璧に立証されたことから来るもの。そしてメランコリーは、この説を提訴した元祖である私が、物理的、科学的、地図学的、そして建築学的分野の理論までをも、文学者の不器用さでもって扱ってきたのに対して、同じ説を、本当の科学者が、驚くべき正確さと専門性でもって繰り返すのを目にしたことによる。この疑問を最初に提起したのが私であったことは、いつの日か忘れ去られるのだろうか。歴史見直し主義者達の間でさえ。

フレッド・ロイヒターの直前には、[ミズーリ州刑務所所長]のビル・アーモントラウトも証人席に立ち、ガスを使った殺人がいかに技術的に困難か、私が陪審に行なった解説をあらゆる点において裏づけしてくれていた(この場合のガス殺人は、ガスを使った自殺やガスによる事故死と混同してはいけない)。

また航空写真の専門家ケン・ウィルソンは、[戦争中に撮影されたアウシュヴィッツとビルケナウ収容所の航空写真に写っている]収容所施設には、〈殺人用ガス室〉に必要不可欠な排ガス用の煙突が欠けていることを指摘した。さらに、セルジュ・クラースフェルド[ユダヤ系フランス人の歴史家、弁護士]とジャン=クロード・プレサック[ホロコーストを擁護する大著の作者]が、著作『アウシュヴィッツ・アルバム』に掲載したビルケナウ収容所地図を改竄しているという私の糾弾が正しいことも証明してくれた[原注8]。二人は、火葬炉I号基とV号基の間で行列をつくるユダヤ人の女性や子供の写真を使用したのだが、あたかも行列の行く先が袋小路になっていて、彼等が火葬炉施設内にある〈ガス室〉に行き着かざるを得ないような印象を読者に与えるために、その先に写っていた通路をすっかり消去してしまったのだ。実際には彼等は先の通路を通って、火葬炉の向こう側に位置するシャワー室に移動している最中に過ぎなかった。

続いてマサチューセッツ州の研究所所長ジェームズ・ロートが証人席に立ち、出所を知らされずに検査した32種類のサンプル分析結果について供述した。殺人用と言われる〈ガス室〉で採取されたあらゆるサンプルには、ほとんど検出不可能な、あるいはごく僅かな量のシアン化物しか含まれなかった。それに対して比較としてビルケナウ収容所の殺菌用ガス室から採取されたサンプルからは、目が眩むほど大量のシアン化物が検出された(前者から検出されたごく微量のシアン化物は、〈ガス室〉と言われているこの施設が実際には霊安室だったために、チクロンBで殺菌されたことがある可能性を示唆している)。

デイヴィッド・アーヴィング

イギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングは、非常な名声を誇っている。エルンスト・ツンデルは、彼に証言をしてもらえたらと願っていた。しかしそれには障壁があった。ディヴィッド・アーヴィングは、中途半端な歴史見直し主義者でしかなかったのだ。例えば著書『ヒトラーの戦争』Hitler’s Warの中では、端的に言うと次のような説を論じていた:ヒトラーは確かにユダヤ民族絶滅命令を下したことはなかったし、少なくとも1943年末頃までは、そのような絶滅政策が行なわれていることを知らされていなかった。ヒムラーと70人程度のグループだけが知っている政策だった。しかし1944年10月、連合軍にいい顔をしたいと考えるようになったヒムラーは、ユダヤ人絶滅政策を停止するよう命令を下した…。

1983年9月、私はロサンゼルスで開催された歴史評論研究所の年会でディヴィッド・アーヴィングに直接会ったことがある。その時に、彼の説を証明する証拠について幾つかの質問をして、彼を困惑させた経験がある。それから私は『歴史評論誌』上に「ディヴィッド・アーヴィングへの挑戦」と題した文を寄稿し[原注9]、論理的思考を徹底させるのならば、生半可な歴史見直し主義的な立場に甘んじ続けることはもはや不可能であることを、この才能ある歴史家に納得させようと試みた。その端緒としてまず、実際には存在したことのないヒムラーの命令書を披露してくれと、私は挑戦した。

私はその後、様々な方面から、ディヴィッド・アーヴィングが、歴史見直し主義者にとって歓迎すべき方向に方向転換しつつあると耳にした。

1988年、今や決定的な機会さえ到来すれば、このイギリス人歴史家は私達の仲間入りをする一線を越えるであろうとエルンスト・ツンデルは確信するようになった。

トロントに到着したアーヴィングは、ロイヒター報告及びツンデルと仲間達、そして私自身が長年かけて収集したとてつもない量の資料を次々発見することになった。会合の場で、最後の躊躇や思い違いも解消し、アーヴィングは法廷で証言することに同意した。

1985年と88年両方の裁判を傍聴した者の意見によると、フレッド・ロイヒターの証言を除いて、アーヴィングの供述ほど一大センセーションを巻き起こしたものは他になかったと言う。

三日以上にわたって、ディヴィッド・アーヴィングは、ある種、公けの場での告白を行なったのである。彼は今まで自分がユダヤ人絶滅政策について語ってきたことを再度想起させた後、微塵の迷いもなく、歴史見直し主義者の側に味方したのである。勇気と誠実さでもって、アーヴィングは、いかに一人の歴史家が、それまでの第二次世界大戦史観を根本から正すことができるか、身を持って示したのだった。

エルンスト・ツンデルの勝利

エルンスト・ツンデルは、自分の裁判が「ニュルンベルク裁判の裁判」あるいは「歴史見直し主義者のスターリングラード」になることを約束していた。1985年と1988年の二つの裁判の展開は、彼が正しかったことを証明した。たとえ陪審が、ホロコーストが〈公知の事実〉であり、〈いかなる人間もこれに疑問を呈してはならない〉と扱うことを裁判官からあらかじめ命じられていたために、彼に有罪判決を下すことになったとしても。

エルンスト・ツンデルは、すでに勝利していたのである。後は、この勝利をカナダ中、そして世界中に知らしめるだけである。1988年の裁判に関しては、マスコミは完全なブラックアウトに徹した。ユダヤ人団体の圧力に屈したためである。彼等は「不公正な論評など聞きたくない」と脅したのではない、「論評などまったく聞きたくない」と通知したのだった。

矛盾しているのは、唯一この裁判について比較的正直な報道を行なったのが、週刊誌『カナディアン・ユダヤ・ニュース』だったことだ。

エルンスト・ツンデルとフレッド・ロイヒターは歴史となった。そしてそこから消される日は遠い。

原注

[原注1]『西洋擁護』Defense de l’Occident, 1967年6月、30〜33頁

[原注2]『ル・モンド』紙、1977年3月23日 1977、7頁

[原注3]『ル・モンド』紙、1978年5月7〜8日

[原注4]『ル・モンド』紙、1977年7月17〜18日、13頁

[原注5]『ル・モンド』紙、「嘘(続き)」、1978年9月3〜4日、9頁

[原注6]この件については、クリストファー・ブラウニングの書評『検証されたヒルバーグ』The Revised Hilberg、294頁を参照のこと。

[原注7]『クリティック』23号、14〜32頁

[原注8]ジャン=クロード・プレサック著、『アウシュヴィッツ・アルバム』、42頁

[原注9]当時『歴史評論誌』の責任者ウィリス・カルトはディヴィッド・アーヴィングに気を遣って、私の同意を求めることなく、この文の一部をカットした。全文は『歴史見直し主義テクスト集』(1974〜1998)第一巻、455頁に掲載されている。