レオン・ドゥグレル著『我が友タンタン』より

この引用はドゥグレルが実はタンタンのモデルだったことを明かしたドゥグレルの自伝『我が友タンタン』からのもので、94年ドゥグレルの死後6年経った2000年に法的追及を避けるため匿名出版で密かに出回り始めたものだそうです。

議会制度とは過渡的な逃避措置でしかあり得ない。あらゆる議員は再選されないことを恐れている。落選でもすれば元も子もない。(……)つまり議会制民主主義において最も優先されることは議席を守ることだ。そのための手段は選ばれない。

私はかつてヒトラー主義だったがその信念は深まる一方だ。(……)どん底にあった国を数年で信じ難い偉大な国に復活させ(……)それまでヨーロッパのどこにも存在したことのなかった、そして今日も存在しないレベルの社会主義体制を実現させたのだ。

私達は最も些細なディテイルまでかつての兵士であり続ける。私のシンプルなカフスボタンにまで1945年と変らない親衛隊(SS)の栄光あるシンボルが刻まれているのだ。

ヒトラーの大実験は社会主義理論を揺るがした。マルクス主義の基本は階級闘争だ。馬鹿げている。労働者と雇用者を闘わせれば社会は分裂する。だからこそ共産主義は各地で敗北し、ソ連で失敗したのだ。ヒトラーは社会階級の和解を土台にドイツの復活を可能にしたのだ。

今の民主主義国家を見るといい。失業者は増大する一方だ。ヒトラーは600万の失業者を二年間でゼロにした。戦争に頼らずだ。175万件の家が建てられた。集合住宅ではない。子供が遊び、家庭菜園もできる庭付きの一軒家だ。それらは十年の労働で購入できる価格だった。しかも子供が一人生まれる度に住宅購入のためのローンの四分の一が免除されたのだ。つまり四人の子供を生めば家は無償となった。そんな福祉では国が破産すると皆ヒトラーを笑った。ヒトラーは四人の子供が国家にもたらす利益の方が遙かに大きいと答えた。大戦勃発時、ドイツでは年間160万の子供が生まれていた。一方フランスはたったの60万だ。これもまたマルクス主義に対する明白な勝利だった。ヒトラー政権下の労働者の家族は我家を持ち、仕事を持ち、この上なく幸福に生活していたのだ。7千キロのアウトバーンの建設も今では考えられない人間的な方法で行われた。労働者の家族が分裂しないように建設が進むにつれて一緒に移動する町が作られ、そこには学校、食堂、映画館、コンサートホールがあり、労働者の家族はそこに住むことが出来た。

西側世界の民主主義の失敗は戦前も戦中も戦後も明らかだ。ここ数年間だけでもヨーロッパ人は驚愕の目で何万というクロアチア人やボスニア人が虐殺される様を眺めざるを得ない。国際共同体と言われる大機構はこれほどの犯罪を前に全く手も足も出ずにいる。骨抜きにされころりと買収される国家に、全国民の和解なくしてまともな国家経済の成立しないことをどうやって説明できよう。国民はマルクス主義によって階級に分裂させられ、労働階級なるものは今や組合という笛吹きの玩具でしかなくなった。

私は社会主義や共産主義者達の下に集まる労働者を説得し始めた。テレビやラジオはまだほとんどなく(……)当時の民衆は未だ消費熱に汚染されておらず、純真な心を持ち、本能的に真実と清廉を求めていた。

[ヒトラーの夢とは]1927年以来レーニンによって奴隷化された広大なロシアの地におけるスターリン共産主義の暴政に終止符を打ち、マルクス主義に粉砕された地域経済を復興させ、東ヨーロッパに住む各民族を古典的ヨーロッパの価値観に則った共同体に組み込むことだった。

ヒトラー、1930年

オーストリア人の99%が、ダンツィッヒ住民の99%が、またスーデーテン地方のドイツ人のほとんどがドイツへの帰属を望んでいた中で、本当のスキャンダルはドイツがこれらの領土を要求したことではなく、住民の帰属願いが執拗に拒否されたことだ。1938年から39年にかけて執拗に繰り返された同民族同士の合法的な併合に対する猛烈な反対は、国際法ではなく偽善の仮面を被った独裁体制から発するものだった。サーランドが独仏のどちらへの帰属を望むかを住民のドイツ人が直接住民投票で決定することを連合国は1919年から35年まで拒否し続けた。その間英仏伊軍は同地を占領し、強権を振るい続けていた。ようやく1935年に実行されたサーランドのドイツへの返還を問う住民投票は、連合国の砲兵隊と装甲車の監視の下、投票者に圧力を掛けながら行われ、最後までヒトラーは現地で講演を行うことを一度も許されなかった。それでも91%がドイツへの帰属を願う票を入れた。

1935年の時点からヒトラー・ドイツの解体計画が始動したことは火を見るよりも明らかだった。その最大の扇動者は、ライバルの革命によって、自らの経済的邪説の過ちが実証されつつあることに憤激する国際マルクス主義者達だった。マルクス主義者と共にその先頭に立ったのが各地で自分達の支配力の低下を目の当たりにしたフリーメイソン……そして1933年のようにドイツ銀行幹部28席中22席を占めることを許されなくなったユダヤ人達だった。ユダヤ人達はヒトラーが彼らに皆と同じ普通の市民に戻れと言われたことに怒り狂った。“支配民族”が支配してはならないということか? マルクス主義者、フリーメイソン、ユダヤ人という生来の胡散臭い独裁主義者達が欲求不満を高めていることが手に取るように感じられた。

欧州の世論は[ヒトラーを悪魔視し]盲滅法大戦の危機に突っ走るよりも、ヒトラードイツが産業家と労働者とを和解させつつある事実を正視するべきだった。マルクス主義が分裂させたこの二つは、現代経済において実際には互いの存在なくして存続することができないのだから。

ヒトラー政権の行った経済改革は少しでも好奇心のある社会主義の専門家なら誰にでも興味深いもののはずだ。ヒトラーは労働の尊さを賛美し、産業家が労働者に尊厳ある生活と相応の給金、近代化した仕事場を保障することを義務付けた。ヒトラーは工場に運動場やプール、シャワー室といった数千もの近代施設を設置させ、労働者のために最高年間22日間に至る有給休暇制度を導入した。フランスのブルム社会主義政権は三年後1936年にやっと有給休暇を導入したが、年間たったの六日間だった。労働者の生活を余暇のある夢のあるものにするために、ヒトラーはバルト海沿岸に何キロにもわたる海水浴場を整備し、ノルウェーのフィヨルドやカナリア諸島に向けて労働者のためのクルージングをオーガナイズした。また巨大な真新しい産業複合施設で、1924年に既に自分でデザインを始めていた真に民衆のための自動車フォルクスワーゲンの製造を実現させたのもヒトラーではなかったか? それは労働者の賃金で誰にでも購入できる価格のものだった。そして第三帝国の高い出生率は国民がもはや金の心配をせず、家庭生活に満足し、何よりも平和を信じていることを意味していた。こうした社会改革は揺るぎようのない事実だった。何故頑なにこの事実を認めようとせず、目を瞑って否定し続ける必要があったのか?

残念ながら[1938年]ヒトラードイツに対する不寛容は国際社会の掟と化し、ヒトラードイツに関するどんなバカげた作り話でも信じることがもはや暗黙の義務となっていたのだ。

その1938年から半世紀が過ぎた今、ヒトラードイツに関するプロパガンダはますます酷くなる一方だ。ロビーの掌中にあるテレビやマスコミが、来る日も来る日も世界中の人々のソーセージのような脳にプロパガンダを詰め込み続けているからだ。

ユダヤの教条化は二十世紀が終わろうとする今、面白い域に達するくらい熱狂化した。1991年ラジオ番組でシンガーソングライターのジャン・ギドニが“私は芸能界入りした時、成功するには左派かユダヤかホモでなければならないと言われ、最善を尽くしました”と話したほどだ。

「週に五マルク節約すれば自分の車を運転できる!」(ヒトラー政権下の広告)

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1938〜39年のフランス民主主義陣営の熱狂的好戦ぶりは、当時のファシズム側ジャーナリストのルシアン・ルバテが平和を唱えることが投獄されかねないほど危険だったと書いていることにも現われるが、同様にドゥグレルはベルギーで参戦を拒否し、中立を唱える者がいかに袋叩きにあったか書いている。

エルジェの漫画は好戦派を風刺しベルギーの中立を訴えるものだったが、フランスの左派アジャムは戦後、著書『エルジェ』で、これらの風刺画はエルジェが〈戦争犯罪〉に加担した証拠であるとした。

1939年から40年にかけての冬、好戦派連中が戦争に反対する者を既にリストアップしていたことがわかる。このリストは1944年から45年にかけての粛清に際して大いに活用されることになる。平和を守ろうとすることは自殺行為に等しかった。

1939年に好戦派の熱狂を風刺することは実に賢明な姿勢だった。中立を訴えることはベルギーにとって平和を守る最後のチャンスだった。だが左派アジャムのような好戦派連中は戦後、そうした行為を〈戦争犯罪〉に仕立て上げることに成功したのだ。

1940年5月10日私は逮捕状もなしにベルギー警察に捕縛されフランスに引き渡された。初日に銃殺刑を偽装された後、殴る蹴るの拷問を受け歯を十本失った。私の仲間21人の市民、女子供は5月21日銃剣と銃で惨殺された。典型的な戦争犯罪だが未だに隠蔽され続けている。

「1940年5月10日私は逮捕状もなしにベルギー警察に捕縛されフランスに引き渡された。初日に銃殺刑を偽装された後、殴る蹴るの拷問を受け歯を十本失った。私の仲間21人の市民、女子供は5月21日銃剣と銃で惨殺された。典型的な戦争犯罪だが未だに隠蔽され続けている。」(レオン・ドゥグレル)

1940年5月21日私の仲間21名をフランス警察が惨殺する時、老婆は事切れるまで胸を30回余り銃剣で刺された。盲目的でサディスティックな典型的な戦争犯罪だ。だが戦争犯罪はドイツ軍にしかあり得ないのは世の中のお決まりだ!

レオン・ドゥグレル『我が友タンタン』(2000年)は“1944年7月8日、娘達の目前でベルギーの粛清屋に銃殺された弟と、1947年10月23日そして1948年3月11日ブリュッセルの絶滅収容所で亡くなった父母に捧げ”られている。

『タンタン』の著者エルジェは幸運にも検察の子供が大のタンタンファンだったため釈放されたが、埋め合わせのようにエルジェの友人の知識人が大量に逮捕・銃殺された。

[レジスタンスによる]この盲目的迫害を目の当たりにしたショックからエルジェは生涯立ち直ることはなかった。

レジスタンスが〈独協力者女性〉に舐めさせた手の込んだ恥辱の一つに、アンヴェール市の動物園の檻に閉じ込め見世物にするというものもあった。

温和な薬剤師だった私の弟エドゥアール・ドゥグレルも[兄がボルシェヴィキと闘うために東部戦線に参加しているというだけの理由から]、レジスタンスから背中に五発の銃弾を浴び、娘達の目の前で殺された。私達を苦しめるだけのために! 私達を諦めさせるだけのために!

戦後エルジェはミルーのモデルについて聞かれるたびに「いったいどうやって思いついたのかまるで覚えていない」と答えていた…

ベルギーの古典的漫画『タンタン』の連れている犬のミルーのモデルは第一次世界大戦中に“某兵卒アドルフ・H”が塹壕で連れていた犬でした。戦後エルジェはミルーのモデルについて聞かれるたびに「いったいどうやって思いついたのかまるで覚えていない」と答えていましたが。

ベルギーの古典的漫画『タンタン』の連れている犬のミルーのモデルは第一次世界大戦中に某兵卒アドルフ・Hが塹壕で連れていた犬だったのかしかも作家のエルジェとレオン・ドゥグレルが大親友だったとは

「私はあの子犬に二度と会えなくなったことを知った時、最良の同胞を失ったのに比する悲しみに襲われた」(アドルフ・ヒトラー) 確か犬は盗まれたのだったと記憶しているけれど、せめてこのワンコだけは思わぬ形で今も世界中で愛され続けているのだった……

「私はあの子犬に二度と会えなくなったことを知った時、最良の同胞を失ったのに比する悲しみに襲われた」(アドルフ・ヒトラー)

しかも作家のエルジェとレオン・ドゥグレルは大親友でした。

ドゥグレルとエルジェはベルギーのカトリック系新聞社で知り合った。当時メキシコの親共産党政権が国内の数百万人のカトリックを残虐に迫害し、カトリックのゲリラ〈ロス・クリステロス〉が結成されたと聞いたドゥグレルが彼らを助けるためにメキシコに渡った……。これがタンタンの冒険の発端となる!

男女限らず棍棒で殴る、爪を剥ぎ取る、体の部位を炭火で焼く、刃物の上に何時間も座らせる、縄で吊るす、女性の頭髪陰毛を剃る、乳首を切り取る、膣に電流を流す(……)等は日常茶飯事だった。

↑ナチスの話ではない。レジスタンスが〈解放後〉にベルギーで行った〈粛清〉の実体

これはレオン・ドゥグレルが報告しているごく一部だが、読んでいるとエルヴェ・リッセンの言うユダヤ人得意の加害者と被害者の立場を逆転させ、自分の行ったことを相手が行ったことにする〈あべこべの告発〉は、レジスタンスとナチスについて言われることでも起こっているのではないかと疑いたくなる……

こうした犯罪行為はレジスタンスなる態のいい言葉で偽装された野蛮な裁判の下で次々犯されたが、実体は卑劣な報復精神による殺人、強姦、掠奪、また党利のための行政施設の横領以外の何物でもなかった、とレミ少佐が報告するが、党利とは? 勿論共産党の党利のことだ!

勿論大戦中と〈解放〉初期には尊敬に値する本物の〈レジスタンス〉も存在したが、1944年8〜9月にベルギーやフランスで起こった血みどろの野蛮な粛清劇の下手人の大部分はソビエトのために働く者達だったというのが事実だ。

退却中、クール・サンテチエンヌでレジスタンスに虐殺されたドイツ兵。

退却中、クール・サンテチエンヌでレジスタンスに虐殺されたドイツ兵。

「あの美しかったモスクワも、ソビエトの手によってこんな悪臭を放つ泥沼と化してしまったのか」というタンタンの漫画『ソビエトのタンタン』を描いていたエルジェも、レジスタンスに逮捕されることになる……。

“真のレジスタンス”でブーヘンワルト強制収容所に収容されていた社会主義者のポール・ラッシニエも強制収容所内での共産党系捕虜の横暴振りを大いに告発しており、そのために戦後、ラッシニエの歴史検証は反共産主義が原因に過ぎないと糾弾されることになる……。

1944年9月モスクワの工作員達は[レジスタンスの名の下]ベルギーその他欧州各地で(……)文字通り〈解放〉の暴君となった。無力化した善良な欧州市民を戦慄させる一方で、ベルギーや仏、伊等で戦争の被害を最小限に留めようと務めた理性ある人々を殲滅する必要があったのだ。

ベルギーやフランスの真の愛国者達の多くが1941年6月21日以降〈レジスタンス〉の名の下で共産党員たちが行い始めた数え切れない残虐行為を目の当たりにして距離を取るようになった。こうした虐殺はソ連によるフランス初め欧州の右派エリート層絶滅計画だったのだ。

欧州のケースが一番知られていませんね。ドゥグレルがこのように書かなければ私も気付きませんでしたが、フランスの立派な右派知識人が一網打尽にやられた様子はピエール=アントワーヌ・クストーが書いていたのですぐに納得しました……

私の人生で最も重要な時期は戦争直後ではなかったかと思う……迫害と憎悪のせいだ……私の友人のジャーナリストで今日も私が潔白を信じている人の多くが銃殺された……その時以来私には何も理解できなくなった……

フランスの代議士だったルネ・シャトー氏は著書『カインの年』内でレジスタンスがベルギーやフランスで1944年に行なった巧妙な犯罪の典型的なものを数々を上げている。(……)最も洗練された技術は例えば犠牲者の肛門にろうそくを挿入し火をつけると言ったものだった。

レオン・ドゥグレルが終戦期シュペアの戦闘機を奪って命がけの脱走を行った理由について:

昔なら名誉ある降伏ができたが、1945年勝者の側には憎悪しかなかった。

↑「勇気の消滅と個性の弱化が日々酷くなる世の中だ。嘗ては勇気ある公正な敵に対して敬いの念が持たれたものだ」(ジェローム・ブルボン)

ヒトラーは一瞬たりとも欧州戦争を望んだことなどなかった。無意味だ。フランス人をドイツ人にしようなどと思っていなかった。ヒトラーの望みは自国をソ連の脅威から救うこと、そしてロシア民族を共産主義から解放することだった。

ベルギーはこの戦争で得るものは全くなく中立だったがドイツ軍に占領された。我々がドイツのために闘ったと言うのはまるきり見当違いだ。国家主義者の我々がドイツの占領下で満足するわけがない。我々が東部戦線に参戦したのは自国を救うためだった。

ヒトラーは何故狂気の沙汰のソ連攻撃を行ったのかとよく問われるが答えは簡単だし、アーカイヴも明示している。スターリンは一、二年後にドイツを攻撃する準備を着々と進めていたのだ。ドイツ軍の戦車が三千両の時、スターリンはすでに三万二千の戦車を所有していた。

独ソ戦の勃発は私には天意に思えた。市民としては完全にドイツ占領軍に従うほかなかったが、ベルギー人がドイツに負けない歴史のある勇敢な軍人であることを示せばドイツと対等な対話ができる。そこで私は即座に東部戦線に参加したのだ。

それまでレックス党党首としてベルギーでは半神のように崇められていた私は兵卒として泥にまみれて行軍し地べたに寝る生活を送った。私は部下達に同じ荷を背負っていることを示したかった。私はドイツ軍の指揮の下兵卒で居続けるつもりだったが、功績を重ねるうちに指揮を取る立場になった。

ドゥグレルは後にヒトラーに「君を息子として持ちたかった」と言われました。

仏人、スペイン人、イタリア人らが集まったこの東部戦線で偉大な現象が起こった。何十万という非ドイツ系欧州の若者が欧州史上初めて四年間、戦争の悲惨と血を分けた友愛、死と犠牲の精神を共有し、心の底から理解し合うようになったのだ。真のヨーロッパの誕生だった。

それまでヨーロッパの各国や民族は互いのことを知らずにいた。だが東部戦線で共産主義を相手に共に闘うことで血を分け肉を分かち合う融合が起こったのだ。私はヨーロッパはこのようにしてしか融合されないと思う。今日のヨーロッパとはただの商業連合体でしかない。

東部戦線で我々が経験したのは真の愛で起こる精神の相互融合だった。そこまで達するには二年かかったが志願兵はどんどん増えていった。そして我々は親衛隊(SS)こそが我々の真の精神を表すことを理解した。政治的であると同時に軍事的だったからだ。

北海からウラジオストックまで欧州が一つになっていたら今日の青年層の可能性は無限だったはずだ。その代わり訪れた今日の共通市場は千六百万の失業者を抱えている。武装親衛隊(ワッフェンSS)は時と共にこの夢を実現させる部隊になっていったのだ。私はヒトラーやヒムラーと何度も激論を交わした。

そういえばブレジンスキーのアメリカによる世界支配戦略の鉄則はドイツとロシアの共鳴を絶対に許さないことだった。

我々は親衛隊(SS)への入隊を薦められたからただ受諾したわけではない。条件を提示した。特にカトリック司祭の維持を要求したのだ。私はヒトラーに大欧州圏を維持するには偉大なるキリスト教精神基盤が不可欠であることを説き続けた。

ある時ヒトラーは私に言ったものだ。“レオンよ、よく考えてみるとあなた方が私に協力しているのではなく私があなた方に協力しているのではないか!”それは事実だった。私の部隊には一人のドイツ人指揮官もいなかった。我が国のアイデンティティー、精神性、言語を維持するのが大事だったからだ。

我が部隊にいたドイツ人の技術士達は私を“シェフ”と呼び、フランス語で話さなければならなかった。そして私が隊長になった時、ドイツ兵に騎士鉄十字勲章を授与したのはベルギー人の私だった。

ドイツ人とまったく対等な立場だった。だがそこまで認められるには国防軍で兵卒としてどんなに努力を重ねたことか。私には五人の幼い子供がいた。東部戦線への参戦を決意した時は事務所で頭を抱えて一人泣き続けたものです。

私にとっての東部戦線参戦は悲劇以外のなにものでもなかったのですよ。人々はそんなことを知りもせずに今日我々を悪党扱いする。我々が犠牲にした膨大なものをまるで知らずに!

東部戦線で私は75回一対一の直接対決を経験し七回負傷した。これには政治的に意味があった。私は戦闘の度に一番乗りをしたのだ。ドイツ人達にベルギー人が有能な兵士であることを認めさせるためだ。そのためには指揮官は先頭に立たなければならない。

部下に命を賭けることを要求する指揮官はまず自分が最初に命を落とす覚悟を決めていなければならない。

私は徐々に昇進していったが、ドイツ人が価値判断による昇進と呼ぶものだった。つまり士官学校終了などと言った形式を踏んだわけではなく、戦場での勇気と決断力を証明したための昇進だ。武装親衛隊(ワッフェンSS)はそうした価値を認めていた。百万人親衛隊(SS)のうち42万の若者が戦死した。

そして人々がまったく知らない事実は武装親衛隊(ワッフェンSS)に多くの非ドイツ人が入隊しただけでなく6万人のイスラム教徒もいたことだ。ヒトラーはイスラム教に非常に気を遣っていた。統合欧州におけるイスラム教の重要性をよく理解していた。イスラム教徒の敬虔さのためだ。ヒトラー自身が実に敬虔な人間だった。

様々なことが言われるがヒトラーは生涯たいへん敬虔なカトリック信者であり続けた。聖職至上主義には反感を持っていたがこれはまったく違うことだ。教会はヒトラーの政権掌握前、国家社会主義に実に凶暴だった経緯がある。そして教会の常で勝利者の前に慌てて跪く。

ヒトラーはイスラム圏の膨大な石油埋蔵量が欧州にとって重要であることを意識し、イスラム教徒に武装親衛隊(ワッフェンSS)の門戸を開いた。彼らが後に母国で国家社会主義体制を築ける土壌を作ったのだ。イスラム親衛隊(SS)と我々は同胞として戦った。今日のイスラム圏との憎み合いとは大違いだ。

1945年1月私はこのイスラム親衛隊(SS)の隊員全員が小さなコーランの下がった鎖を一人一人記念としてヒトラーから授与されるのを見た。このことからも“ナチズム”という概念が他人種を見下したり蹂躙したりする意味などまるでなかったことがわかる。

ヒトラー政権下の出生率は同時期のフランスの三倍高かった。労働者のための見事な福祉改革を実現させ、賃金は倍増し、失業者はなくなった。人々がヒトラーを愛したのはそのためだ。

私はヒトラーとは長くから知己があった。それも偶然知り合ったのだ。ムッソリーニと知り合ったのは私がベルギーの選挙で大勝した後彼にローマに招待されたからだが、そのムッソリーニに “ヒトラーには気をつけろ”と言われた。ムッソリーニは根本的にアンチヒトラーだった。

おそらくムッソリーニはヒトラーが妬ましかったのだろう。それに彼を恐れてもいた。当初ムッソリーニはヒトラーの庇護者気取りでいたのにヒトラーの躍進を見るうちに不安になったようだ。ムッソリーニと私は常に心からの同志だった。

ムッソリーニと仲良くすることはベルギーにとって特に危険はなかった。国は離れているし王家同士の付き合いも続いていた。だがドイツは訳が違う。第一次世界大戦で占領された経験があり、それは決して良い思い出ではなかったから、私は用心した。

私はある時我が党の議員二人と妻とドイツに旅行した。別に誰に知らせたわけでもない。観光客としてベルリンに着き、日曜日の朝ミサに出席した後宿に戻るとロビーに大きな花束を抱えた男性が私を待っていた。リーベントロップ外相だった。

ドイツは諜報機関のおかげで何もかも掌握していたのだ。1936年夏選挙で私は大勝したばかりだったが、彼らは私の行動を逐一知っており、ベルリンに旅行すると知って待ち受けていたのだ。そしてその晩夕食に招待された。

ドイツの外交上最重要人物を知るのは興味深いですから私は招待を受けた。食事の終わりにリーベントロップは席を外し(ドイツではよくあることだ!)戻ってくるとフューラーに電話をしたが貴方に会いたがっていると言う。お茶にいらっしゃいませんか? と。

イヤとは言えずにお茶の誘いに出かけた。そこで典型的なヒトラー現象を体験した。出会って十分も話さないうちに互いに電撃的に理解し合ったのだ。彼に支配された訳ではない。互いに心を支配し合ったのだ。そして出合って十五分後には私とヒトラーは永遠の絆で結ばれていた。

まさに相互的な一目惚れだった。私とヒトラーはまったく同類の爆発的エネルギーの持ち主だった。まったく同じ周波だった。そうした人物との絆は永遠のものだ。その上ヒトラーは非常に理性的な人物だった。

私はドイツが第一次大戦後ベルギーに奪われたオイペン・マルムディ問題について簡単な解決案を示した。住民投票を行ないヒトラーとベルギー国王両者が住民の前で話す。開票後は結果を尊重し再び両者が対面し和解する。ヒトラーも国王も直ちに了解したが、当時の国際政治体制が実現を阻んだ。

しかしそれが典型的なヒトラーだった。彼は三十分も冷静に話し合えば何年も続いた紛争問題を解決する理性を備えていた。私はヒトラーと二時間に亘って実に濃厚な議論を交わし、天才というものを初めて目にする思いがした。

何度でも言おう! 史上最悪の悪魔扱いをされているヒトラーは実際には二十世紀最大の、いや人類史上指折りの偉大な人物だったのだ。これほど明白な事実を否定するほどバカバカしい世界があり得るだろうか!?

ヒトラーはすべての点において天才だった。破綻した国の舵を引き受けて二年もすると国民を一つに団結させた。彼は国民に愛されどこでも自由に安心して歩きまわれた。それは最後まで変わらなかった。彼を武力による圧政者だの暴君だの言うことほど嫌悪を催させることはない!

中でもヒトラーの福祉感覚における天才ぶり! マルクス主義による階級闘争によってバカみたいに分裂させられていた国民を、生産における相互補完という考えで見事に団結させた。世界にとっては大変な脅威の社会になっているはずだった!

それに対してマルクス主義など国家経済を破綻させ、国民を互いに憎み合うようにするだけだ。

ドイツ悪玉論の神話でもレオン・ドゥグレルについては触れられています。

1940年までヨーロッパ人はヒトラーも含め、ヨーロッパという概念を持っていなかった。ムッソリーニは偉大なイタリア人、ヒトラーは偉大なドイツ人であり、それ以上ではなかった。だが戦争でドイツが他国に進出したことにより戦闘を越えた民族間の理解が生まれた。

ヒトラーの偉大さは即座にドイツを越えたゲルマニアがありゲルマニアを越えるヨーロッパがあることを理解し、同じ信念を持つ若者すべてに国籍を問わず親衛隊(SS)の門戸を開いたことだ。我々が望んだのは国民の自由を保障できる強力な国家を築くことであり、国民精神の昇華を理想とした。

そのため私は最初の著書を『魂の革命』と名づけた。これはスペインのホセ=アントニオ・プリモ=デ=リベラやルーマニアのコドレアヌとまったく同じ路線だ。その我々が東部戦線で目前にしたのはそうした我々の精神的そして政治的価値観をすべて徹底否定する敵だった。

我々は突如みな同じ魂を共有していることを理解した。この時ヒトラーの意志の下にヨーロッパ中の若者を集めた親衛隊(SS)はドイツの親衛隊(SS)でもゲルマニアの親衛隊(SS)でもなく、ヨーロッパの親衛隊(SS)に成長したのだ。親衛隊(SS)には60万人の非ドイツ人がいたのだ。人々はこの事実をまるで知らない!

武装親衛隊(SS)百万人のうち60万人はドイツ人ではなかったのですよ。そしてヒトラーに続いて武装親衛隊(ワッフェンSS)の中で重要な立場にあったのは、口にするのがおこがましいようですが私自身だったのです。

我々はドイツ軍の奴隷などではなかった。それぞれが自分の国を代表し対等の立場の一つのヨーロッパを築くことを夢見た。我々の夢見たヨーロッパは簡単だ。ドイツは欧州の中心にあるモーターだ。組織力に長け、勤勉で完璧主義の民族だ。だがその傍らには二千年の歴史を誇る文明がある……

これらの文明なくしてはゲルマニア圏は単独では意味を持たない。私が東部戦線で学んだのはこの二千年の歴史を誇るヨーロッパとロシアのスラヴ世界との橋渡しをつくらなければいけないということだった。スラヴ民族は偉大だ。

他民族には耐えかねる極寒を生き延びられるのはスラヴ民族だけだ。そして古くからの家族制度という価値観が今でも生き続けている。ロシアの村々の住民の家族愛に満ちた敬虔な生活を見た。教会を破壊されても大事に取っておいたイコンに祈りを捧げていた。

我々が闘いに出掛けるときには老女達が前線まで足を運んで神の祝福を捧げてくれた。しかもこの広大な土地はソ連であるだけではない、二十もの異なる民族を抱えているのだった。私は常にヒトラーにこの土地には西欧と同様二十の国家を作らなければいけないと諭し続けた。

残念ながらドイツ民族には千年間に亘るスラヴ民族との紛争の歴史が染みこんでいた。スラヴ民族は歴史上常にドイツ領への進出を試みてきた上に、近年では共産主義という脅威がそれに加わった。そして独裁者スターリンは実際欧州の粉砕を虎視眈々と狙っていたのだ。

『タンタン』の連れている犬のミルーのモデルは第一次世界大戦中に某アドルフ兵卒が塹壕で連れていた犬で、作家のエルジェとレオン・ドゥグレルは大親友でした。

ヒトラーの才能において興味深かったのはその芸術性だ。彼は本質的に芸術家だった。美を熱愛していた。そして時間のある時はそのほとんどを読書、時に芸術に費やした。彼の読んでいない本などなかった。彼にとっては美と神がすべてだった。

不思議なことに我々にはヒトラーの凡庸な絵画作品しか残されていない。彼自身が笑っていた。そのような凡作が土曜日のミサの後の教会の前でよく売れたそうだ。それで数日間の生活費が稼げた。生活費のある数日間は読書に費やされた。

「美がなければこの凡庸な世の中をどうやって生きればいいのだ? 自然の山々の美しさ! 今でも覚えているが私がフランスで鎖を掛けられて投獄された時、地面の草の穂を数本拾うために地べたに跪いたものだった。ほんの僅かなその自然が慰めだった。そしてヒトラーとはこうしたことについてすべて話せた。会話のすべてが情熱的だった。」

(インタビュアー:感情的ですぐに機嫌が変ったと言われますが……)

「ヒトラーほど心優しい人間、そして愉快な人間はいない!」

美がなければ生きていけない。私は東部戦線でのこれ以上ないみすぼらしい食事のためにルイ十四世時代の素晴らしい銀の食器を持参していた。それにプレイアード版の『パスカル』。これらを決して荷物から外さなかった。

シュミット大使が私とヒトラーは信じられない友達口調で話し合い笑ってばかりいたと書き残しているが常にそうだった。ヒトラーはオーストリア人だがその枠には収まらない。隅々までギリシャ哲学、ギリシャの叡智、ギリシャの美が染みこんだ人間だった。そしてゲルマン民族の古い陶器を探すために発掘作業を行なわせるヒムラーを笑い飛ばしていた。ギリシャにフィディアのあった時代のゲルマン陶器の原始的なこと! 彼にとって古代ギリシャは文明の頂点だった。民主主義の生誕地でもある。ヒトラーほど暴君と程遠い人間はいなかった。ヒトラーは暴力行為、野蛮な行為を心底嫌悪していた。国内で何かしら暴力沙汰が起こったことを報告されると憤激したものだった。魔術だのオカルトだの言う話もどれもこれも根も葉もないデマだ。とことん素朴な自然な人間だった。

戦争末期私は二度に亘って一週間ヒトラーの下で過ごす機会を得たが、この時期になると互いの愛情は実に深いものになっていた。そしてもしも戦争が別の展開をし、ヒトラーが引退していたら私が彼の後継者となっていた可能性は実に高かったのは事実だ。

ベルギーにファシズムのレックス党を築いてレックス・アピールと呼ばれる程の人気を博し、ドイツのベルギー占領後、武装親衛隊(ワッフェンSS)ワロニア部隊を築いて東部戦線に参加しました。東部戦線での活躍ぶりは人間離れしていたようです。しかも戦争末期に壮絶な逃走劇。ハリウッド映画なんて子供騙しです。

私は当時の国家首長は大抵知っていた。まずムッソリーニと友達になり、また敵側フランスの首脳陣にも全員会っている。即座にペタン元帥とは友達になった。チャーチルにも招待されてロンドンで会った。だがヒトラーを知っている者にとってチャーチルは何の変哲もない凡人だ。

英国が自分の帝国の保持しか念頭になく、欧州大陸よりも米国を選ぶことは自明だったのに、ヒトラーは英国を信用し続けた。彼のナイーヴさ、センチメンタリズムのせいでこれは私から見て悲しいほどの誤算だった。ヒトラーは英国との和解を願って止まなかったのだ。

チャーチルは肥満体の赤ん坊のような顔をしたろくに教養のない人間だった(……)関心事は英帝国の保持だけだ。大陸欧州のことなどどうでも良い。そもそも英国は欧州大陸に介入するたびにそこで築かれつつある物を破壊するだけの歴史を送ってきている。

ダンケルクの戦いで独軍は英軍を壊滅できたのに逃亡を許した。私は絶句して後にヒトラーにその理由を尋ねると“故意に行ったことだ。英国が屈辱感を覚えて和解の難しくなることを避けたかった”と説明した。そこまでナイーヴだったのだ。第二次大戦の運命はこの時に決まった。

副総統ルドルフ・ヘスを英国に送ったのも同じ熱烈なる和解願望からだ。死の直前までヒトラーは英国との和解に取りつかれていた。彼にとって英国民とは同じ血を分けた兄弟の民族であり、敵国であることがどうしても理解できなかったのだ。

ヒトラーの周囲で最も頭の良かったのはゲッベルスだ。電撃的頭脳の持ち主だった。目を瞠るべき正確さ、方法論の持ち主だった。それに最後の最後まで勇気そのものだった。また質素なこと! 彼らがみな大金持ちだったかのような今日のデマ! 誰も彼もごく普通の市民と変わりない質素な生活を送っていた。

唯一贅沢好きだったのはゲーリングだ。ある時私はゲーリングに共産党党首のタールマンはどうしていると聞くと元気だと言う。どういうことだと聞くと時々ブーヘンワルト収容所に車で迎えに行って自宅で一緒に食事をしているのだと笑った。ところが戦後タールマンはナチに殺されたと言う。実際には連合軍に暗殺されたのだ!

ここまでのレオン・ドゥグレルの引用はドゥグレルが実はタンタンのモデルだったことを明かした『我が友タンタン』からのもので、94年ドゥグレルの死後6年経った2000年に法的追及を避けるため匿名出版で密かに出回り始めたものだそうです。ベルギーとフランスでは著作権問題のせいで(?)禁書措置。

強制収容所というものは戦時下の国にはどこでもあった。フランスは1940年に戦争を始めた時、国内に49もの強制収容所を持っていた。英国のトランスヴァール強制収容所では捕虜の女子供の半数が獄死している。アメリカには日本人用の強制収容所があった。

戦時下という状況を考慮に入れて考えると強制収容所とは多少なりとも人間的な施設だと言える。こういう私は専門家として喋っているのですよ。自ら二十の監獄と一件の強制収容所を体験しているのですから。監房に比べたら戸外に頻繁に出られた強制収容所はずっと楽だと言える。

戦争末期の強制収容所は特に東部から大量の捕虜が送られ鮨詰め状態で酷いことになった。虱だらけでチフスが蔓延、鉄道は破壊され物資は届かない……第一当時は一般のドイツ市民も収容所の捕虜同様の悲惨な状況で殺されていった。だが平常時の強制収容所の生活は規律的だった。

ところで今日では民主主義の英雄であるかのように讃えられる強制収容所捕虜の正体とは? 90%が殺人や児童性愛など正真正銘の犯罪者だった。何故なら戦時中一般の監獄は兵舎に転用され、囚人は強制収容所に移送されたからだ。

↑ラッシニエが刑事犯と一緒に収容される苦痛を書いていた意味はこれか!

リシェ博士の統計によれば政治犯は強制収容所捕虜の僅か15%だった。その中の多くは共産主義者。残りはレジスタンスなわけで [ラッシニエがそう]、私はレジスタンスに敬意は表する。しかし忘れてはならないのは国際法の存在だ。国際法は市民が勝手に武器を取ることを禁じている!

国際法は市民が勝手に武器をとって戦争行為を行うことを禁じている。あるいは少なくとも腕章をつけて所属を明示しなければならない。レジスタンスは正体を明かさず突然軍人を襲った。国際法はそうした行為を犯罪とみなし銃殺を認めていた。銃殺の代わりに収容所に送られたのは命拾いなわけだ。

ガス室という言葉を私は戦後初めて聞いた時、信じられない、戦時中一度たりともそんな話を耳にしたことはないと思った。私は第三帝国の指導者全員懇親の仲だった。夜通し飲んだりしたこともあった。だが一度もそんな言葉は耳にしたことはなかった。

そもそも一度でも公式の科学班にアウシュヴィッツのガス室の調査が委託されたことがあるのか? 一度もない! それにもかかわらず観光客にガス室だと言って公開され続けている。

ある時とても頭の良さそうに見えるジャーナリストにガス室の存在は疑わしいと言うと“映画『ショア』をご覧になっていないのですか?”と言う答えだ。映画という物は純粋なフィクションだ。なんと頭の悪い発想だろう!

私は常に大声で訴え続けてきている。ガス室が存在したと言うのなら当時とまったく同じ装置をし、ユダヤ人証言者達が描写しているのと全く同じやり方で私をその中に入れてくれ! バスタブ二つの面積に440名が入れられたという証言があった。その条件でお願いする!

国際赤十字社による当時のアウシュヴィッツ視察報告書もガス室の存在など認めていない。ただし噂が流布していることには言及し、噂に過ぎないと結論している。実在したのは虱殺菌用のガス室だけだ。それなら私自身体験している。前線から帰還するたび軍服はすべてガス室に送られた。

ブーヘンワルト強制収容所での捕虜の食事はリシェ博士によって一日2千カロリーに定められていた。多くはないが我々東部戦線の兵士もそれ以上与えられていたわけではない。その上強制収容所は身内からの食糧等の荷物の差し入れを推奨していた。我々兵士にはそんなものはなかった。

『タンタン』の作者エルジェもドゥグレルと同じ平和・中立路線を支持し、中立を訴えるカリカチュアを右派紙『ウェスト』に投稿していたが、戦後エルジェ基金はエルジェが“ファシスト”であるかのように見えることを恐れてそれらのカリカチュアの公開を禁止している……

東部戦線は人類史上例を見ない大陸の攻防戦だった。数千万の若者(武装親衛隊(ワッフェンSS)は2百万の志願兵だ)が命を賭けてスターリングラードからベルリンまで1000日間持ちこたえた。フランスが東欧のように共産圏にならなかったのはそのお陰なのに、我々は日々罵倒され続けている。

ロシアで我々に勝ったのはソ連ではなくアメリカだ。アメリカの膨大な支援がなければソ連だけでは到底勝ち目はなかった。アメリカはスターリングラードに膨大な量の兵器を送っている。シャーマン戦車だけで750両だ。

名誉と自己犠牲を最も重要な価値観としていた伝統的な軍人は絶滅したとベルナノス(だったと思いますが)が書いていました。国防はもともとは貴族階級の義務でしたし。今いるのは傭兵ばかりだと。

ナチズムとはそれぞれの国の人種が心身ともに健康な若者を養成し、大家族を築いて国家の基盤とすることを望む思想だった。ヒトラー政権下では毎年180万の子供が生まれたことを忘れてはならない。人々は幸福で希望のある時代に多く子供を生むことはよく知られている。

敗戦が明らかになっても私達は少しでも共産軍による侵略を抑えるため命を賭けて闘い続け、ドイツが降伏した時はノルウェーまで北上していた。その時私はまだ降伏していない日本で闘い続けようと思った。そこで潜水艦を探したが東京まで航行できる型は見つからなかった。

1945年2月苦しい敗走の中での最後の戦闘時、私は相変わらず当時一番乗りをしていたが武器が底をついたため棍棒を手に飛び出した。怯んではいけないと部下に示すためだ。翌日何百という部下は全員棍棒を手に出陣した。