ヨーゼフ・ゲッペルス著『ベルリンをめぐる闘い』

ゲッペルスの引用は1934年に書かれた『ベルリンをめぐる闘い』からで、フランスの『フェ&ドキュマン新聞』編集長が “政治運動に関するイロハがすべて書かれている。是非とも今読むべき一冊” と熱烈推奨していた。

我々の考える社会主義とは本質的に、個人の利益は顧みずに国家に対する責任感と結びついた健全な公正感から生まれるものである。

ベルリンの国内での評判は実際にこの都市に値するものよりずっと悪いものだが、その責任の多くは根無し草の流浪の民でベルリンとは実際には無縁の存在である国際ユダヤ人にある。彼らは地に足のついた勤勉な現地の住民にたかることでその寄生的生活を維持しているのだ。

(……)ベルリンほど執拗な政治的熱狂の居座る都市はない。だがこの都市の危険は毎日のようにフル回転する印刷機が何百万部もの新聞を通してユダヤ毒を帝国首都に浸透させていることだ。何百という秘密権力がベルリンをあらゆる方向に引きちぎろうとしている。

国民社会主義はマルクス民主主義政党と異なり、盲目的に大衆と過半数にしがみつくのではない。大衆とは我々にとって形のない素材に過ぎない。有能な為政者の手によって初めて大衆から国民が作られ、国民から国家が形成されるのだ。

国民が自ら政治を行いたがるのは、政権が病み、腐敗している場合だけである。政権が誠実な善政を行っていると確信している国民は、選挙権も民主主義憲法と呼ばれるものも求めないものだ。国民が望んでいるのは[主権ではなく]善政なのだ。

善政を行う意志も能力もない政治体制ほど、都市や農村で増長する不満をごまかすために、信じやすい国民の耳に魅惑的な民主主義イデオロギーを吹き込むものである。

国民社会主義はこのような[左派・民主主義系]闘争の偽善的幻想を暴くという暴挙を、まだそうしたことが評価されない時期に行い、左派とその無責任な過半数盲信イデオロギーに対して個人の才能の優先を対峙させたのだ。

ドイツ国民社会主義労働者党内部で、徐々に強い意志を持つ何人かの個人の下に党全体の方針を実現させる責任が集中するようになっていったのは、そうした政治姿勢が導いた結果であると言える。

我々に敵対するプレスは、よく「我が党はビザンチン主義的に権威に平伏する嫌悪すべき体制である」と批判したが、まるで不公平な批判だ。政党議会の泥沼政治から出来上がった政権を同じように権威として祭り上げ、これを信じろと彼らは大衆に言うのだから。

マスコミによって作られた人気は往々にして短命だ。国民はそのような政権を意に反し矛盾を感じながら我慢するだけだからだ。ユダヤマスコミが人工的に国民的人気民主主義人物と祭り上げた者と、自らの命を掛け闘ってきた真の国民的リーダーでは国民から得られる信頼はまるで異なる。

しかし権威主義は濫用すると破裂する。権威の行使は稀であるほど権威は長持ちするものだ。従って思慮深い国民リーダーは、自らの権威を稀にしか使用せず、むしろ国民に対して彼が何故ある事を行い、行わないのかを論理的に説明することによって舵を取る努力をする。

政治運動が小規模で煽動やプロパガンダ力に欠けるうちは、その政治目標が何であろうと敵対する既存勢力の害とはならず無視されるが(……)世論の口に頻繁に上るようになると敵側は(……)これでもかと嘘、中傷、憎悪煽動や血生臭いテロ行為で攻撃してくる。

ベルリンを恒常的に手中に収めていると世論に信じさせようとしていたマルクス主義者は 我々が “赤いベルリン” に終止符を打とうと意図していることに気付くと(……)全党組織を上げて怒髪天を突く勢いで我々の運動を攻撃してきた。(……)攻撃は嘘と中傷によって始まった。

我々に対する攻撃においては社会民主主義者とボルシェヴィキとが例外的に結束したため、街頭を占拠しているボルシェヴィスムスと政権内に不動な根を下しているように見える社会民主主義という二重の前線と我々は戦わねばならなかった。

典型的な政党政治デマの汚水が我々にこれでもかと浴びせられた。マルクス主義者は支持者が我々の集会に来るのを防ぐため、事実を悪質に歪曲した嘘を拡散し、我々は犯罪者集団で支持者は皆サクラ、指導者は労働層がブルジョワを転覆するのを防ぐため資本主義が雇った煽動家とされた。

政党政治に典型的な憎悪煽動活動がこれ以上ない規模で開始した。新聞が国民社会主義労働者党に対する中傷を掲載しない日は一日としてない。大抵『赤旗』か『前進』が最初の音程を定め、全ユダヤプレスによるオーケストラが憎悪デマ交響曲をフィナーレまで合奏した。

マルクス主義・ユダヤプレスによる憎悪煽動活動と時を同じくして、往来では血生臭い赤色テロが始った。我々の同志は集会から帰宅する途中夜闇の中刺殺され、銃殺された。往々にして集合住宅の中庭で十倍、二十倍の人数に襲われた。(……)警察に訴えても馬耳東風だった。

世の中は我々を下級市民のような者として扱うことに慣れていった。我々のような卑劣な煽動屋はプロレタリアの場末で胡散臭い連中に背中を刺されても当然と思われた。辛い、耐え難い時期だったが、不幸中の幸いは、こうした事件によって我々の名が人々の口に上るようになったことだ。

プロレタリア層はこと公正感に関しては非常に繊細に敏感に反応する。この感覚に訴えることが出来る者は、必ず彼らの好意を得ることができる。我々は[民衆大会で]プロレタリアと面と向かって同等の立場で話し合いたいと明言した。議題は社会主義だった。

[初の民衆大会で]私が社会主義をテーマにした演説を始めると、『赤旗』が予告したように我々の集会を拳で粉砕することを目的にやって来た五百名のマルクス主義擁護者達はどんどん静かになっていった。ついには集会は喜びに満ちた落ち着いた雰囲気を勝ち取ることに成功した。

質疑応答でマルクス主義者が演説を始めた時、早めに席を立った我々の同志が外でマルクス主義者に襲われ一人は瀕死という知らせが来た。議論能力不足を補うために我が同志を外で襲撃する党の党員に同時に発言の場を与えるのは、我が党の倫理に反すると私は述べた。

卑劣な襲撃事件の知らせで会場は怒りに満ち、妨害のために参加した共産主義者もさすがに良心の咎めで静かになった(……)私は我が党が、真摯な政治論争家、特に労働者とは率直に同等に議論したいが、このようなテロ行為には同じ形で返答を行わないわけにはいかないと宣言した。

翌日のマルクス主義新聞は我々の予想通りだった。現実は完全にあべこべにされ、我が党が卑劣な労働者殺しの煽動屋で、無実なプロレタリアが議論を求めたというだけの理由で殴打したと、“シュパンダウでナチが血みどろの集会を開催” という大見出しで報道したのだ。

赤系新聞の“ナチ、シュパンダウで血祭り集会。ドイツ帝国の全革命労働層に危機!”という見出しには、“ただで済むと思うな!”と言う不吉な脅し文句が続いていた。

国民主義の本質は言葉ではなく実行である。国民主義の精神的闘士は即ち論争に溺れることを防がねばらない。我々の目的はユダヤ文明文筆家の流麗な文体と思想の花火を真似ることではない(……)

私は国民主義者の文が往々にして筆のために組織を利用している印象を受けた(……)特に作者に市民としての勇気が欠けていることが多い気がする。“モダンでない、時代遅れだ”という批判を恐れてユダヤ由来の狂気の沙汰に抗議できない小心者の知識人の特徴だ。

国民主義は常に文明的知識人達から反動的であると糾弾されてきたが、次のように反論する肝っ玉がなければいけない:“国民主義が反動的ならなるほど我々は反動者という名の神だ! そして我々の世界観を偉人ぶった傲慢きわまりない原稿料家畜に指図されるつもりは毛頭ない!”

マルクス主義の拠点で[我々が挑戦的に集会を開いた時]生まれたばかりの我々の運動を血の海に沈めようとした彼らの戦略は完全に失敗した。我々はこの闘いから多くを学んだ。我々がとっくに知り尽くしていたユダヤ界は、今回もまた一致団結して我々を潰しにかかったのだ。

当時の『ベルリン・ターゲスブラット』紙と『赤旗』にはほとんど差は見受けられない。両紙とも我々を平和の敵扱いした。マルクス主義者とユダヤ界の双方とも、その卑劣な支配力が我々に脅かされていることを察し、警察に対して我々を始末するよう呼びかけていた。