2006年12月13日、イラン・イスラム共和国外務省迎賓館にて
−フォリソン教授こんにちは。インタビューをお引き受けいただきありがとうございます。
私にインタビューをしてくださるなんて、お礼を申し上げるのは私の方です。
−12月11日、12日にテヘランでホロコーストに関する会議が開催されたわけですが、どのようなお考えで参加を決意されたのでしょうか。
イランの他に、このテーマの会議に私を招待してくれるような国などないからです。米国ですらこのような国際会議の開催は確かなものではありません。歴史見直し主義者は米国に到着しても、即座に本国に送り返されかねません。フランスではこのような会議の開催は論外です。ヨーロッパで「ホロコースト」に関する会議や公けの討論を許容できるような国は一カ国も思い当たりません。貴国ドイツにおいてはあらゆる形における検証の禁止が徹底しています。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドも情け容赦ありません。また世界の他の場所ではこのテーマについて特に関心が示されないということも有り得ます。ですからようやくイランが、あらゆる人に開かれた「ホロコースト」をテーマにした国際会議の開催を提案したことは、まったく思いがけない好機でした。
これは歴史見直し主義の会議ではありません。タイトル(Review of the Holocaust Global Vision)が示すとおり、「ホロコースト」を部分的ではなくグローバルな視点から見直すことを目的としています。私の生きている間にこのような会議が開催されようとは思ってもいませんでした。
−参加されることによってどのような目標を達成されることをお望みでいらっしゃいますか?
西側世界の大手メディアが必死になって私達の目から隠そうとしていることを公けにすることです。こうしたメディアが歴史見直し主義者を引き合いに出すのは、私達を中傷し、私達が実際にはまるで口にしたことなどないことを言っているかのように見せるためだけです。
例えば彼らは、歴史見直し主義者とはドイツに強制収容所がなかったと主張している連中だなどと、嬉々として言い張ります。いかにも私達が愚かしい言動を口にする連中であるかのように主張しているわけですが、残念ながら少なくともフランス人の間では、歴史見直し主義者は本当にそういう連中だという愚にもつかない認識が広まってしまっています。つまりフランス人は一般に、歴史見直し主義者とは火を見るよりも明らかな事実でさえ否定するような常軌を逸した連中だと信じているのです。そしてそのために、私達を“否定主義者”呼ばわりする蛮行を臆面もなく続けています。
−会議後、その目的を達成することができたと感じられますか?
ある程度は。
私達のような人間が存在すること、そして私達が異なる意見の人々とも温厚で礼儀正しく交流することができることを、世界は認識してくれました。しかし真の討論を行なうには、時間が足りませんでした。
それにメディアは、私達の発言内容についてはおろらく何も報道しないだろうことが予想されます。私達の議題や発見について、メディアは沈黙を押し通すでしょう。
真の討論を行なうには改めて新たな会議が必要です。しかしそれには相手側が逃げ隠れしないことが条件です。
会議中私は、歴史見直し主義に対して敵対心を持っていた教授と、束の間ではありますが、公けの討論を行なえる兆しを体験しました。しかもその討論を通じて教授は、私達に有利な方向に劇的転換したように見受けられたのです。お望みでしたら後ほど詳しくお話しましょう。
−是非!
この会議の開催に及んで世界中で巻き起こった反応は、特筆すべきです。熱烈な抗議運動が起こりました。
ホワイトハウスの広報官ショーン・マコーマックは早くも12月12日にイラン政府を:
『倒錯したやり方で[ナチスによる]残虐な行為を問い直すことによって、ヘイトの言動に論壇の場を与えようとしている!”
と告発しました。二番目の公式抗議はブラジル政府から発せられました。続いて英国。国連からはコフィ・アナンが声をあげました。バチカンももちろん黙っていません。
これらすべての権威機関が、ユダヤ人に対する「ホロコースト」については、まったく議論すべきことはないとしているわけです。
“ホロコーストは起こった!”
それでおしまいです。
先ほどお話した公けの討論のはじまりの兆しについて約束どおりお話しましょう。
私は昨日、シラズ大学の教授で、ワシントン州の大学でも教鞭を取っているイラン人教授と議論を交わしました。ゴーラム・ヴァタンドゥスト氏という方です。教授は自分の発表の中で
“「ホロコースト」は「最初から最後まで記録されている(fully documented)」”
と口にすることを憚りませんでした。つまり資料によって完全に確証されているという意味です。
そこで教授の発言後の質疑応答の場で私は、その資料の一つを見せてくださいとお願いしたのです。特に私は、すべての資料を見せてくれる必要はない、一点だけで良いから見せてほしいということにこだわりました。
すると教授は、チャーチルが書いた覚書のなかでナチスの残虐行為の数々が告発されていると返答しました。私はチャーチルは一度たりとも「ガス室」について語ったことはないことを指摘しました。またアイゼンハワーにしても、ドゴールにしても、その他の同格の国家指導者についても同様であると。そして私が教授にお願いしているのは、一点で良いから資料の名を紹介してくれることだともう一度確認しました。またウィンストン・チャーチルとは政治家であり、彼は自分の感情について書いただけであることも指摘しました。政治家が持っていた感情は、たとえチャーチルほどの人物のものとは言え、私が調べているテーマではないと。
すると教授は別の反論を見つけたつもりで私にこう答えました。彼と一緒にアメリカ国立古文書館を訪問すればよい。資料はそこにあると。
私が求めている資料は一点だけですから、これも返答とは言えません。
私は「漁師と大きな魚」の話を思い出しました。信じられないくらいに大きな魚を釣ったと自慢する漁師に「その魚を見せてください」と頼むと、「何、私の言葉が信じられないと言うのか。あなたが私を信じないというのなら、その魚を釣った場所を見せてごらんにいれよう」という答えが返ってくるのです。私は「場所には興味がありません。私が見たいのは魚です」と答えるでしょう。
「見せてください!」これこそ私が長年口にし続けている質問です。
「ナチスが所持していたガス室を見せてください。あるいはそれを図に描いて見せてください!」
そして私はアメリカの国立古書館ならもう知っていると答えました。すでに三箇所に足を運んで問い合わせをしたことも。ワシントンのもの、その近くのスイートランド、そしてカレッジパークの壮麗な建物も訪れています。そのいずれにおいても、私の望みは叶えられませんでした。
教授はさらに三度ほど反論を試みましたがどれも虚しく、聴衆の一部は彼がまったく返答に窮しきっていることを見て取り、このやり取りは最後は笑いとオーベーションに飲み込まれてしまいました。
今朝も教授にお目にかかりましたよ。昨日よりもずいぶん謙虚になられたようにお見受けしました。新たに発見した説にたいへん興味を持ったようで、私達は連絡先を交換しましたから、もしかしたら議論は続くかもしれません。
その他にも私は、会議に参加していた六人のアンチシオニストのラビの一人と、短時間ではありますが、二度プライベートで話す機会をもちました。イギリスの方です。彼は歴史見直し研究がもたらした結果にショックを受けるというよりも驚いていたようです。
またオーストリアの偉大なラビの方とも心のこもった短いやりとりをすることができました。
聞いたところによると別の参加者で、ロシア科学アカデミー付属世界経済及び国際関係研究所所属ヴィクトール・ナデインライエフスキーという人が「フォリソンは資料を要求しているそうだが、いかなる資料も後世に残さなかった重大な出来事だって今まで起こっている。こうした場合、資料を作成することはできない」と言っているそうです。いかなる資料にも裏づけされていない「重要な出来事」とはいったい何なのか知りたいものです。
−クメール・ルージュのことを言っていたのだと思います。
そうかもしれません。
しかしそれならば極めて遺憾に思います。私達が扱っているテーマについては資料や資料と称されるものが山と存在しているからです。
ここでまず「資料」という用語の意味を確認しておきましょう。
一般に資料とは書類の形をしていますが、物的な資料というものも存在します。「資料」という言葉は、「教示するもの、何かを教え示すもの」という意味のラテン語の動詞から来ています。机の上のナイフ、椅子、部屋、建物なども資料としての価値を持つことができるのです。
例えば歴史学の創始者であるフュステル・ドゥクランジュのような偉大な精神の持ち主が
“資料がなければ歴史も存在し得ない。”
というような発言をしたことは、私達にとってはまったく当たり前のことなのですよ。
私が先ほど例を挙げてお話した二人の参加者は、われわれ歴史見直し主義者が調査研究の結果として出した結論に異議を唱えています。私達の主張が調査研究の結果だという点を、私は強く訴えたいのです。
私達はいつでも真っ先に“否定者”呼ばわりされます。(このnegateurという表現はまだしも純粋なフランス語ですが)もっとひどいのは“否定主義者”(negationniste)という呼び方で、これは野蛮の極みです。こうした呼び方によって歴史見直し主義者は、あたかも自明の事実を否定している連中であるかのように定義されるわけです。われわれは悪魔に取り憑かれた連中、ゲーテの言葉を借りれば、「すべてを否定する精神」の持ち主というわけです。
しかし実際には私達は何一つ否定しているわけではありません。ただたんに研究し、調査を行ない、その結果、ある種の主張に対して異議を唱え、私達自身の結論を表明しているのに過ぎません。
ガリレオだって何も“否定”はしていません。彼は自分の研究の結果として、一般に認められているある事柄が間違っており、別の事柄が正しいと表明しただけです。
−御自身の会議での発表内容を要約してご紹介いただけますでしょうか。
私の発表は『歴史見直し主義の勝利』というものでした。
反見直し主義達が、時代が進むにつれて私達に対して行わざるを得なくなった譲歩について語りました。同じタイトルのテクストもありますから是非参照してください。そのテクストの中では二十点、歴史見直し主義者による勝利の例を紹介しています。1951年から2004年の期間に得ることのできたこうした勝利のなかには実に劇的な様相を持つものもあります。残念ながらこうした事実は、世論にはまったく知られずにいますが……。
メディアが、私ども歴史見直し主義者を完全に無視しているからです。
−例を一つご紹介いただけますか。
ジャン=クロード・プレサックの例を挙げましょう。
プレサックはセルジュ・クラースフェルド夫妻の庇護の下、長年〈ナチスのガス室〉が実在した証拠を発見したと主張して憚りありませんでした。彼の著書の一つは1993年から1994年にかけて、すべての大手メディアに絶賛されたものです。
1994年私は彼に反論する小論文を書き、そのせいで法に追求される身となりました。幸い私はプレサック自身を法廷で聴取させるという条件を勝ち取ることができました。
1995年5月、場所はパリです。法廷でのプレサックの信憑性の失墜ぶりは実に見ごたえのあるものでした。彼はその後、決してこの一件から立ち直ることはできなかったほどです。
ヴァレリー・イグネという歴史見直し主義に敵意を抱いている歴史家がいます。彼女はその著書『フランスにおける歴史見直し主義の歴史』のなかで、プレサックが署名した降伏宣言とも言える文を掲載した点においては賞賛に値するでしょう。
事実プレサックは最後にはこう認めたのです。
“ドイツの強制収容所に関する資料は嘘に満ち満ちており、「腐りきった」ものである……”
と。彼自身の言葉ですよ。さらには次のように付け足しさえしたのです。
“生々しすぎる悲劇の周囲に、あまりに「腐りきった」資料が積み挙げられたせいで、いずれは歴史学のゴミ箱に捨て去られることになるだろう……”
と。
−信じられませんね! プレサックはその後どうなったのですか?
もちろんユダヤ人の友人達に見捨てられました。彼は2003年に59歳で亡くなり、メディアは完全なる沈黙を押し通しました。
プレサックは、私が1970年代に投げかけた挑戦に応じることができず、無能をさらけだした大勢のうちの一人です。当時私はナチスのガス室と言われるものの存在は、物理上の基本的問題のために不可能であると証明していました。その後、ロイヒター報告書(Fred Leuchter)やルドルフ報告書(Germar Rudolf)、またその他の数々の科学者達による報告書によって、私の論は確証されました。
あなたは今回のテヘランでの発表でまずはじめに、ナチスの残虐行為を示したものだと言われる写真に対して警戒することを促されました。どうしてでしょう。
これらの写真が人心に浸透しきっているからです。
人心を惑わすプロパガンダの手口として何よりも簡単に効果を発揮するのが、写真です。
わざわざ手の込んだ合成をつくることもありません。病人や瀕死の人間、死人の写真を見せながら、これは殺された人間ですよ、虐殺された人間なのですよ、と言い添えるだけで充分なのです。
善人と言われる人々は、やすやすと騙されますよ。彼等は嫌悪感を抱き、義憤に駆られるでしょう。彼らの目には、実際そこに写っているもの(人間の死体)は見えなくなり、彼らの意識に刷り込まれたもの(“殺された”人間の死体)しか見えなくなるからです。
彼らの理解は混濁し、熟考に時間をかけたりなどしません。
嘘の虐殺話を広めるのに取られるプロセスは常に同じです。
この点から言えば、「アウシュヴィッツの虐殺話」は、スケールの差こそあれ、歴史上の敗者が散々に押し付けられてきたあらゆる虐殺話と同類です。例えばアンダーソンヴィル(アメリカの南北戦争時に存在したといわれる強制絶滅収容所)、ルーマニアのチミソアラ、あるいはクウェイト・シティなど。
特に女子供の死体の写真は用を足すのにもってこいです。
これと同じ手法が1945年、一方ではアメリカ人とイギリス人に、また他方ではソ連人に用いられたのです。ドイツの強制収容所が1945年に解放された時、現場にカメラチームが入りました。彼等は手始めに全てを撮影した後、今度は選別を行ない、何よりも悲惨で怖気を催す写真だけをカメラに収めました。とりわけ病棟やその近辺の光景です。
文字通り生ける屍の様相を呈するチフス患者や、実際に強制収容所に付きまとうあらゆる恐ろしげな光景の撮影には、とりわけたっぷり時間がかけられました。
それは実際には、連合国であるソ連の強制収容所が呈する様相に比べればずっとマシだったのですが。
さらに次の段階で、捕虜達を故意にこのような目に遭わせたのは、あたかもドイツ司令部や守衛が、彼等を物理的に消滅させる政策に従ったためであると言うかのような解説を行なったのです。健康体で解放の喜びに満ちている多数の捕虜の姿を撮影した写真はその際、隠蔽されました。
その上、ドイツの強制収容所には、例えばアウシュヴィッツもそうですが、捕虜達が使用するための広々とした厨房や多種多様の衛生設備、歯科や外科用の医療施設、パン屋、郵便局、作業場、工芸用又は音楽用施設が敷設されていたことも明かされません。そうした設備が備えられていたというだけで、ドイツ人が捕虜を物理的に抹殺する意図を多少なりとも持っていたという主張が、非現実的に見えてくるからです。
その一方で扇動者にとっては、メス一本でも、拷問が行なわれていた証拠になりますし、殺菌用のガス室は、虫ではなく人間をガス殺していた証拠に、殺菌や除染に使用されていたツィクロンBの空き缶は、ドイツ人がこのガスを殺人用に使っていた証拠になるのです。
殺菌や除染を行なっていたことはむしろ、病気や危険な感染症から人命を守ることを目的としていたはずなのに。
強制収容所の捕虜が体験した本当のおぞましさとは、実際には、一箇所に大勢の人間が詰め込まれ、雑居させられることでした(“人間はりんごのようなものだ。たくさん詰め込むほど腐りやすい”)。あるいはまた刑務所特有の暴力、空腹、過酷な気候、病気、感染症等です。そうしたことについては、見直し主義者[またブッヘンワルト元捕虜]のポール・ラッシニエが多くを語っています。捕虜達はこうした原因によって、時によっては地獄を体験したのは事実です。
−イギリスがベルゲン・ベルセン収容所について行なったプロパガンダについて特に多く語られましたね。
ええ。
ウィンストン・チャーチルの同胞は、ベルゲン・ベルセン収容所でたいへんな手柄を立てたのですよ。
私が〈ブルドーザーのトリック〉と呼ぶものです。1945年4月、人口密度が過剰だったベルゲン・ベルセン強制収容所では東部からもたらされた感染症が猛威をふるい、収容所内はまさに病巣と化していました。原因は、英米軍による度重なる空襲のために食料が底をつき、水道が断たれてしまったことでした。
そのためドイツ当局は、強制収容所に近づきつつあった英国のモンゴメリー隊に使節団を送り、収容所が置かれた衛生状況(また、無検査で捕虜を一挙に解放した場合にドイツ国民を含めたあらゆる人々を襲いかねない危険)について知らせました。
英軍は親衛隊と協力することは拒否しましたが、ドイツ国防軍なら状況改善のために手を貸すことを受け入れました。
到着したイギリス人達は、墓を掘り起こして死体を数え、それが終わると再び大きな深い穴にそれらを埋め直すことにしたのです。死体を穴に収めるために彼等はブルドーザーを用いました。ブルドーザーが操業している様子は現場でフィルムに収録され、映像の幾つかは後世にまで伝わることになります。何よりもドキュメンタリー映画(あるいは“デマメンタリー”と言うべきでしょうか?)『夜と霧』(1955年)のおかげです。
何百万という視聴者が、この映像こそが、ドイツ人が来る日も来る日も産業的規模で捕虜を殺していた証拠であると信じたのです。ブルドーザーを運転しているのがドイツ人ではなくイギリス人だと見抜くことができた視聴者は稀でしょう。歴史見直し主義に一挙に反論するために1978年、南アフリカで出版された書物に掲載された写真では、ブルドーザーと死体は見られますが、運転手の頭部はカットされていました。運転手がドイツ人だと読者に思わせようとする意図が明白です。
それだけではありません。時間が経つにつれて、たとえばアカデミー・フランセーズのモーリス・ドリュオンのような人間の意識のうちでは、「一台のブルドーザー」が「何台ものブルドーザー」に増大していったのです。
ドイツ人の残虐さを物語ることを目的にしたこの手の粗悪極まりないプロパガンダの手法を挙げたらキリがありません。山積みされた靴や眼鏡、髪の毛などが、あたかも皆ガス室で死んだ人の遺物であるかのように満足げに展示されているのも同じやり口です。
経済制裁のために窮乏のどん底にあった当時のヨーロッパでは、捨てられるものは何一つなく、髪の毛も含め、あらゆる物が取り置かれ、再使用されていたという事実については、もちろん一言も言及されません。髪の毛は何よりも繊維産業で重宝されていましたし、皮やガラス、金属、木材をリサイクルするための作業場は、市町村内だけではなく収容所にも数々敷設されていました。
〈トランクのトリック〉についてもお話する価値があるでしょう。
アウシュヴィッツには、丁寧に積み重ねられたトランクの山を写した有名な写真があります。哀れな持ち主は、ガス室に送られる前、一人一人トランクに自分の名前と住所を書きつけたのだと説明されます。
ところがよく見ると名前と住所はすべて同じ人間の手によって同じ白い字で書かれていることがわかります。これは本当は、どこの収容所でも捕虜が到着した時に取られる手続きに過ぎないのです。捕虜達の持ち物は、収容所到着時、職員によって記録所に登録されました。
マルセル・ブロッシュ=ダソーという人は、ブッヘンヴァルト収容所に到着した時に没収された財布を、戦後何年もたってからドイツから受け取りました。この手続きのおかげです。彼はフランスのテレビ番組である晩この財布を紹介し、当時財布に挟んでおいた四葉のクローバーをそのまま取り出して見せたのですよ。
とは言うものの、ドイツ当局がこうした膨大な没収品に手を付け、度重なる空襲のために極貧状態に置かれていた国民に配給していたことはまず疑いありません。
−ベルゲン・ベルセンはアンネ・フランクと姉のマルゴーが亡くなった収容所でしたね?
そうです。1945年2月末か3月始めのことでした。姉妹の死因はチフスです。戦後長い間、公的立場は二人がアウシュヴィッツのガス室で殺されたと主張していました。姉妹は確かにアウシュヴィッツに立ち寄っていますが、そこからベルゲン・ベルセンに移されました。本当に哀れな運命です。
しかし英米軍の爆撃隊によって生きながら焼き殺されたドイツ国民の運命はもっと酷いものです。戦後、あるドイツ人が1945年3月24日一晩のヴュルツブルグ市空襲による犠牲者の一覧表を掲載した書物を調べました。5千名を越す名前のうち「アンネ」という名、またはそれに近い名を持つ女性は確か128人いたそうです。ドイツ人だからという理由だけで自動的に殺されたこの女性達について語られることはその後いっさいありません。違いますか?
(一部未訳)
Pensez-vous que le régime national-socialiste a commis des crimes envers les juifs européens ?
Ce régime n’a suivi à l’égard des juifs aucune politique criminelle. Cela dit, des crimes ont bien été perpétrés, surtout en temps de guerre, et c’est ce qu’il est convenu d’appeler 《 des excès 》. Des crimes de cette nature ont été commis soit contre des individualités juives, soit contre des juifs pris en groupes, par exemple, lors d’une opération militaire ou bien lors de représailles. Toutefois, si l’on y regarde de près, rien ne saurait distinguer ces crimes des actes odieux que les vainqueurs ont perpétrés contre, par exemple, des Allemands ou des Japonais. Je vais maintenant insister sur un fait qui est important et que même les révisionnistes n’exploitent pas suffisamment. Nous avons la preuve, nous l’avions dès le procès de Nuremberg, que des soldats, des officiers, des fonctionnaires allemands, jugés par des tribunaux militaires ou des cours martiales du IIIe Reich, ont été, pendant la guerre, condamnés à mort et exécutés pour l’assassinat d’un seul juif ou d’une seule juive. A Marinka, ville d’Ukraine, le maire, qui se trouvait être un 《 Volksdeutscher 》, un Allemand ethnique, et qui avait été nommé maire probablement parce qu’il parlait l’allemand, a, un jour, tué une juive. Traduit devant un tribunal militaire, il a été condamné à mort et il a été fusillé. Je reviendrai sur son cas.
Nous avons l’exemple, à Budapest, d’un jeune lieutenant allemand qui, avec ses hommes, est entré au domicile d’une juive, y a vu un poste de radio – ce qui était interdit aux juifs – et a voulu le prendre ainsi que des bijoux. La femme menaçant de porter plainte, il a fini par la tuer. Traduit en conseil de guerre, il a été condamné à mort et exécuté. Quant aux soldats qui étaient sous ses ordres, ils se sont vu infliger de lourdes peines de prison.
S’agissait-il de la Wehrmacht ou de la SS ?
Il s’agissait d’une unité de défense anti-aérienne. Mais vous savez que cette distinction qu’on fait entre Wehrmacht et SS se justifie dans certains cas et ne se justifie pas du tout dans d’autres. Par exemple, dans l’action militaire, on en est au même point. De toute façon, s’il avait existé un ordre quelconque de tuer tous les juifs parce que juifs, on ne serait tout de même pas allé jusqu’à fusiller quelqu’un qui, manquant à la discipline, aurait tué un juif ou une juive.
D’après vous ces quelques exemples sont-ils une preuve suffisante pour dire que toute la Wehrmacht et toute la SS se sont comportées de cette façon ?
Un ordre allemand de tuer – je dis bien de tuer – les juifs a-t-il pu exister ? C’est exclu si je peux, comme ici, vous soumettre ne serait-ce qu’un seul cas d’un seul tribunal militaire allemand, jugeant, condamnant à mort et faisant exécuter une seule personne pour le meurtre d’un seul juif. Je n’ai pas parlé de 《 preuve suffisante 》 mais de preuve. Une preuve est un élément qu’on peut prendre en considération pour, à la fin, émettre un jugement. Le juge d’un tribunal a devant lui un ensemble de preuves ou de témoignages et il en tire des conclusions. Commençons par le commencement, c’est-à-dire par des cas comme ceux que je viens d’évoquer ou par celui, qui me revient à l’instant, d’un membre de la Luftwaffe, qui, dans le Midi de la France, a été ainsi condamné à mort pour 《 excès 》 à l’encontre d’une juive.
J’ai personnellement vécu l’occupation allemande. En 1939, j’avais dix ans et, en 1944, quand les Allemands sont partis de France, j’avais quinze ans…
Où viviez-vous ?
D’abord, jusqu’en juillet 1943, à Marseille, puis à Paris. Jamais de la vie quelqu’un n’aurait pu, avisant un juif, saisir une arme et le tuer impunément. Les conséquences auraient été extrêmement graves pour l’assassin.
Il se trouve que, depuis 1957, j’habite Vichy. En août 1941, une petite bombe y a éclaté devant le portail de la synagogue, sans blesser personne. L’ 《 attentat 》 avait été commis de nuit. Les coupables ont été trouvés dans la journée. Il s’agissait d’un certain nombre de jeunes doriotistes, partisans français de la collaboration avec l’Allemagne dans la lutte contre le 《 judéo-bolchevisme 》. Ces gens-là ont été rapidement jugés et condamnés. J’ai retrouvé le texte du jugement. Grâce à quelqu’un qui, pendant la guerre, avait appartenu à la police, j’ai appris que l’un des jeunes participants de l’attentat, un 《pupille de la nation》, c’est-à-dire le fils d’un soldat mort à la guerre de 1914, a été tellement roué de coups au commissariat de police de Vichy qu’il est mort des suites du traitement subi. Jamais, pendant la guerre, un Français n’aurait pu se permettre de gifler un juif dans la rue. Un juif en tant que tel était certes tenu par l’Etat pour un citoyen potentiellement dangereux. Il vivait en quelque sorte en liberté surveillée. Il pouvait avoir de bonnes raisons de se tenir sur ses gardes. Ses mouvements et ses droits étaient l’objet de sévères restrictions, mais il n’a pas manqué de juifs qui, pendant toute l’Occupation allemande, ont vaqué à leurs occupations au vu et au su de tous et en tenant même une activité commerciale ou artisanale. Toujours à Vichy, le pharmacien attitré du Maréchal Pétain et de son épouse était un juif du nom de Maurice Benhamou et la boucherie casher de la rue Bardiaux semble avoir fonctionné pendant toute la durée de l’Occupation. En mai 1944, à Lyon, un bombardement américain a provoqué la mort de nombreuses personnes. Les obsèques de ces victimes ont fait l’objet d’une cérémonie œcuménique présidée par le cardinal-archevêque en la présence d’un iman et d’un rabbin. Mais, cela n’exclut bien sûr pas qu’à Vichy, à Lyon et partout ailleurs en France les juifs ont pu connaître la déportation et revenir ou ne pas revenir de cette déportation.
Vous parlez là de la France ?
Oui, de la France sous l’Occupation.
Et à l’Est, pensez-vous qu’il en allait de même ?
Si vous avez des cas précis, présentez-les-moi. Vous êtes Allemand. J’inviterais volontiers tout Allemand à lire un extraordinaire document sur la vie quotidienne, durant toute la guerre, de certains juifs en plein cœur du IIIe Reich. Il s’agit des mémoires de Victor Klemperer. J’en possède tout à la fois la version allemande, la version française et la version anglaise. J’aime à comparer les différentes versions d’un même livre. En l’espèce, la plus intéressante est la version française ; au lieu de s’arrêter à juin 1945, elle se prolonge jusqu’à décembre de cette année et contient une lettre de janvier 1947 où l’auteur, manifestement sous l’influence de la propagande qui était en cours après la guerre, accumule mensonges et exagérations sur ce qu’il avait réellement vécu et qu’il avait si exactement décrit, jour après jour, dans ses mémoires proprement dits.
Victor Klemperer, juif de Dresde, est marié à une aryenne. Très antinazi, il nous raconte ses tourments. Je vais vous dire le sommet de ses tourments : étant juif, il lui a fallu porter l’étoile juive et il a fait, en tout et pour tout, huit jours de prison, en juin 1941, pour avoir contrevenu aux règles de la Défense passive après l’heure du couvre-feu. Il a passé ces huit jours à la prison de la préfecture de police de Dresde, où, nous dit-il, il a été très correctement traité. Dans son livre, il ne cesse de souligner que les Allemands qu’il a rencontrés dans le tramway, dans la rue, à l’épicerie, bien loin de le maltraiter ou de le voir d’un mauvais œil, se sont, dans l’ensemble, montrés prévenants et secourables. L’épicier Vogel lui réserve du café, à l’époque denrée précieuse. Les fonctionnaires sont aimables et polis. 《 Les passants sympathisent avec les porteurs d’étoiles 》. Il accumule 《 de bonnes expériences avec l’étoile 》 et dit : 《Il ne fait pas de doute que le peuple ressent la persécution des juifs comme un péché》. Cela dit, il se réjouit des désastres militaires de l’Allemagne ainsi que des bombardements et il se désole de constater qu’il semble impossible de briser le moral des civils. Ces mémoires (au moins 5 000 pages dactylographiées) infligent un cinglant démenti à la thèse de Daniel Jonah Goldhagen selon laquelle, par leur antisémitisme, 《 les Allemands ordinaires 》 auraient concouru à ce qu’on appelle 《 l’Holocauste 》.
Vous parlez là de la France, de l’Allemagne, mais, si l’on va plus loin vers l’Est, on se retrouve en Pologne, dans le Generalgouvernement, et alors, dans ce pays et en Russie, il faut bien parler des 《 Einsatzgruppen 》. Et là, que dites-vous ?
C’est surtout en Russie que ces unités de police sont intervenues. La guerre à l’Est a été sauvage. L’Etat soviétique n’avait pas souscrit aux conventions internationales de Genève ou de La Haye et les Allemands se sont trouvés confrontés à une guerre de partisans. Il n’y avait ni loi ni droit du côté des Soviétiques. Aussi les Allemands ont-ils pu être amenés, lorsqu’il y avait un groupe de partisans dans un village, à tout détruire, même s’il s’y trouvait des femmes et des enfants. La sécurité du soldat allemand primait. L’Allemagne étant en guerre, quelle femme allemande, quel père, quelle mère, aurait accepté que son fils pût être tué par un individu en civil tirant dans le dos du soldat, puis s’éclipsant ? Dans ces moments-là se produisent inévitablement des cas de sauvagerie militaire comme en commettent toutes les armées du monde en pareille circonstance.
Pour en revenir à mon expérience personnelle en France, j’ai pu voir successivement à l’œuvre d’abord le soldat français, puis le soldat allemand, le soldat italien et, enfin, le soldat canadien, le soldat britannique et le soldat américain. Moi, qui, pendant la guerre, étais tellement antiallemand, je dois admettre que je n’ai vu que des Allemands extrêmement corrects ; je peux même citer des cas étonnants. Quand, ensuite, j’ai vu arriver les Américains, j’ai trouvé cela merveilleux. Beaucoup étaient certes sympathiques et se conduisaient correctement mais il y avait aussi parmi les soldats et les gradés américains de sacrés voyous. Et puis, par ailleurs, j’ai surtout été bouleversé par les horreurs de l’Epuration. Mais je suis là en train de sortir du sujet.
Vous vouliez parler du 《 Kommissarbefehl 》, des 《 Einsatzgruppen 》 et de Babi Yar.
Oui, trois parties d’un même sujet. On nous dit qu’il a existé un 《Kommissarbefehl》, qu’on nous décrit comme un ordre de tuer systématiquement les commissaires politiques soviétiques qui surveillaient les troupes, et l’on en profite pour ajouter que les Einsatzgruppen avaient pour tâche de tuer les juifs. C’est faux. D’abord il n’a jamais existé de 《Kommissarbefehl》 en tant que tel. Chez les historiens, l’habitude a été prise de désigner sous ce nom un ensemble de documents relatifs au tri, soit des prisonniers, soit de certains civils juste à l’arrière du front. Fondés en 1938, au moment de l’Anschluß, les Einsatzgruppen étaient chargés de ce tri. Sur l’immense front russe, ils n’étaient que 3 000 (trois mille), chauffeurs et dactylographes compris. Au début de la campagne militaire, de rigoureuses instructions leur ont été données. Il faut lire ces instructions. Elles reviennent à dire que, les lois de la guerre étant ignorées des Soviétiques, il convient de sévèrement trier les prisonniers qu’on fera. Certains prisonniers devront être exécutés séance tenante parce qu’il s’agit non de soldats mais de commissaires politiques fanatisés qu’on ne peut laisser dans les camps de prisonniers de guerre ; d’autres pourront être utiles à l’Allemagne. Un document, classé URSS-014 au procès de Nuremberg, énumère huit catégories de personnes suspectes dont il faut faire le tri (Aussonderung) parmi les prisonniers militaires ou civils. Il est intéressant de noter que les juifs viennent en huitième et dernière position ; il est précisé, dans cet ordre du 29 octobre 1941, qu’il s’agit seulement d’une catégorie de juifs. Je cite : 《 8) les intellectuels russo-soviétiques et juifs, pour autant qu’il s’agisse de révolutionnaires professionnels ou de politiciens, auteurs, rédacteurs, fonctionnaires du Komintern etc. 》. Avec leur malhonnêteté coutumière, les responsables officiels chargés de résumer les documents ont osé écrire que 《 les personnes visées 》 《sont principalement les commissaires du peuple soviétiques et les autres dirigeants ainsi que les juifs et des membres des classes intellectuelles》 ; dans leur résumé ils vont aussi jusqu’à parler de 《 directives pour le nettoyage 》 alors que, répétons-le, pour ce document, il s’agit de 《 tri 》. Lorsqu’une troupe avance et conquiert une ville, il faut que des 《 Einsatzgruppen 》, sorte de police militaire en campagne, essaient de contrôler les prisonniers et la population civile. Cela ne veut pas dire qu’on va les tuer. Seuls certains seront à exécuter. En face, chez les communistes, on ne se gênait pas pour exécuter. Venaient donc en première position les commissaires politiques. Ni là, ni ailleurs il n’a existé d’ordre de tuer les juifs.
Donc, si je vous ai bien compris, ces instructions ne spécifiaient pas que tous les commissaires politiques devaient être exécutés, même si lesdits commissaires étaient nommés en premier.
C’est exact. Souvent, semble-t-il, ces commissaires étaient juifs ; or, même dans leur cas, il y avait un tri à opérer. Mais vous comprenez bien que, dans la pratique, cela signifiait qu’il y avait des prisonniers qu’on avait, en fait, le droit d’exécuter en contravention des lois de la guerre. Aussi, comme vous le savez peut-être, les chefs militaires allemands n’ont-ils pas voulu se comporter comme l’Armée rouge et, finalement, se sont refusés à suivre les dispositions les plus sévères de ces ordres.
Quant à Babi Yar, aucune enquête matérielle n’a été conduite du genre de celles qui ont été menées pour Katyn ; rien n’est venu étayer les récits qui ont cours sur le sujet et qui paraissent invraisemblables. Je reviendrai sur Babi Yar.
Vous vouliez ajouter quelque chose sur la ville, située en Ukraine, de Marinka.
Oui, mais je vous préviens, quitte à vous surprendre, que nous allons, pendant un bref instant, quitter ici le domaine de l’histoire pour celui de la fiction. Voici le drame que j’imagine.
Le maire allemand de Marinka vient d’être condamné à mort pour avoir tué une juive et il va être fusillé. Il est en prison, en attente de l’exécution. C’est la nuit. Il est dans les affres de la mort. A cet instant, un homme se montre à la porte de sa cellule et lui tient ce discours : 《 Vous êtes un Allemand que des soldats allemands vont tout à l’heure fusiller parce que vous avez tué une juive. Or sachez que, dans quelques années, l’Allemagne va être terrassée. Ses vainqueurs se montreront impitoyables. Ils feront table rase de tout ce que vous avez appris et cru. Ils inventeront une histoire mensongère de cette guerre. Ils imposeront la version du vainqueur. La nouvelle vérité historique officielle, imposée à l’Allemagne et propagée quasiment partout dans le reste du monde, sera que, pendant cette guerre, les Allemands avaient toute licence de faire ce que vous avez fait. Oui, on ira jusqu’à prétendre que les Allemands passaient le plus clair de leur temps à traquer, à torturer et à massacrer les juifs. On affirmera que Hitler avait donné l’ordre de massacrer tous les juifs européens. On ajoutera que, pour mener à bien cette entreprise aux dimensions colossales, il avait fait construire des armes de destruction massive, des armes tellement diaboliques qu’après la guerre on n’en retrouvera pas la trace. Des appareils de télévision, encore si rares aujourd’hui, en 1942, seront dans tous les foyers ; matin, midi, l’après-midi, le soir et la nuit, année après année, ils diffuseront cette universelle néo-vérité qu’on enseignera dans les écoles, les lycées, les universités, et même au catéchisme, à vos enfants, petits-enfants et arrière-petits-enfants. Un peu partout on érigera des monuments et l’on instituera des cérémonies en l’honneur de la nouvelle religion. Les rares hommes qui oseront contester ce dogme seront poursuivis devant les tribunaux, jetés en prison, mis au ban de la société. Et savez-vous quels seront les plus ardents apôtres de cette croyance en ce qui s’appellera “l’Holocauste des juifs” ? Ne cherchez pas ! Ce seront les Allemands eux-mêmes. Dans le peloton même de ceux qui vont vous fusiller il se trouvera peut-être des hommes qui survivront à la guerre et qui, une fois revenus à la maison, se mettront à croire au mensonge de “l’Holocauste”. En tout cas, leurs enfants, leurs petits-enfants et leurs arrière-petits-enfants y croiront. 》 Le maire de Marinka recevra ce discours comme un choc renversant. Il en perdra la raison et c’est un insensé qu’on mènera alors au poteau d’exécution.
Telle est la tragédie que j’imagine. J’y vois la trame d’une pièce ou d’un film à composer. Cette tragédie, c’est celle de l’Allemagne, dont on est parvenu à tuer jusqu’à l’âme.
さて、フィクションはここまでにして、歴史に戻りましょう。
バビ・ヤールの虐殺というテーマについて少し時間を割きたいと思います。
このところ、〈ガス室神話〉のあちこちから水漏れが始っていることに気づいたユダヤ人団体の幾つかは、人々の注意を他に逸らそうと試みています。彼等は私達の目をガス室やガス室を搭載したトラックなるものから、今度は[第二次大戦中ロシアで活動したドイツの]〈アインザッツグルッペン〉に向けさせようとしているのです。
例えばフランスのユダヤ人ジャック・アタリは、最近こんなことを書きました:
“大戦中に殺されたユダヤ人の大半は、1940年から42年の間、ドイツ警察とドイツ兵の銃によって命を落としたのであって、その後開発された殺人工場で殺されたのではなかった。”
この新たな解釈のために、ユダヤ人達は新たな表現を用い始めました:
〈銃弾によるショア〉というものです[ショア=ホロコースト]。
今や〈ガス室によるショア〉は、この〈銃弾によるショア〉に取って代わられつつあるのです。
〈バビ・ヤールの大虐殺〉が我々に紹介されはじめたのもそのせいです。
バビ・ヤールとは、キエフ近郊の地名です。ニュルンベルク裁判では、この名が登場することはありませんでした。しかしある書類に、ドイツ軍はキエフ市を攻略した直後、ソ連の内務人民委員部NKVDによるものとされる連続放火が起こったことに対する報復措置として、すべてのユダヤ人を1941年9月29日から30日の間に強制連行し、そのうちの一部をバビ・ヤールで銃殺したと、わずか一文のうちに書かれているのです。
ドイツ軍が銃殺したというユダヤ人の数を是非ともよく味わってください:
3万3771人です!
なんとも詳細な数字ではないですか!
この書類には日付けも署名もありません。ロンドンのワルター・ロスチャイルド中尉が選出したある書類群の一部です。この報告内容自体が、非常に現実離れしています。
実際に起こったことがわかっているカチンの森の大虐殺の犠牲者は、1940年3月から4月にかけての二ヶ月間で約4250人です。これはソ連のNKVDによる犯行でしたが、後にドイツ軍になすりつけられました。バビ・ヤールの虐殺はそれに対してたったの二日間で、カチンの二ヶ月分のおよそ八倍の犠牲者を出したことになります。これほどの規模の虐殺が実際に起こったとしたら、必ず数知れない痕跡を周囲に残したはずです。死体はいったん埋葬された後、再び掘り起こされ野焼きされたというのですから、それだけでも、その地の光景はすっかり変わってしまったはずです。ところが当時の航空写真には、そのような出来事を物語る手掛が何一つ写っていないだけではありません。このとてつもない規模の虐殺が実際に起こったことを証明する物的証拠は、一つとして存在しないのです。
このところウクライナでは、パトリック・デボワという名のフランス人の神父が大変話題を呼んでいます。ユダヤ人と実に懇意な人物です。
デボワ神父は、ウクライナ各地を巡り歩いて、〈ユダヤ人の集団埋葬地〉を探し当てることを得意としています。彼はウクライナの善良な村人達に、近々どこそこの地を訪問することを告げ、ドイツ人が戦争中ウクライナで行なったユダヤ人虐殺に関する証言を収集するつもりであると伝えます。
〈ユダヤ人の集団埋葬地〉が存在すれば、そこには記念碑を樹立し、観光客を呼び寄せることができますから、ウクライナの人々はそのような埋葬地があると、率先して自慢します。〈証言者〉が集まって、物語を準備します。そこにデボワ神父がやって来て、それらしき場所を指差す村人達と記念撮影を行ないます。そうした証言者の写真をみると、びっくりさせられますよ。八十歳は越えていなければならないはずの彼等は、どう見ても遙かに若い顔をしているのですから。
しかしもっと驚くことがあります。〈ユダヤ人集団埋葬地〉だといわれる場所は、決して発掘されることはないのです。いかなる物的検証も行われません。ユダヤ教がユダヤ人の死体に触れることを禁じているからだという言い訳です。ところが1978年版のユダイカ百科全書の「検死と解剖」という項目を開けば、この禁忌が決して絶対のものではないことは一目瞭然です。
たった一箇所ブスクという地で、十五箇所の共同墓地が掘り起こされました。しかし埋葬されていた遺骨の鑑定はまったく行なわれないまま、ただちにすべてが再び埋めなおされ、今後いかなる検証も行われることがないよう、墓地は上からコンクリートで塗り固められたのです! ユダヤ法に則って遺骸を敬ってのことだとしたら、なんとも奇妙なやり方ではないですか。
歴史家は、デボワ神父なる狡猾な人物が、証人から聞いたとする話のみで満足する他ないのです。
かくして発見されたことも確認されたこともない犠牲者の数が積算されていき、最後にはウクライナには、これだけのユダヤ人集団埋葬地とこれだけの犠牲者数があるのだと、断言されるのです。そしてこの主張は、ローマカトリック教会と〈ヤハッド・イン ウヌム〉協会、それに“ヘブライ法に則った犠牲者の遺骸の尊重を守る”〈ザカ〉協会によって守られているのです。いずれアウシュヴィッツと同じように、観光客を呼び寄せるチャンスもあるかもしれません。
−ひとつ質問があります。〈銃弾によるショア〉と資料のお話をしてくださいましたが、私は確か、ある場所で処刑されたユダヤ人の数を記した棺桶のマークが記載された地図の資料を見たことがあるように記憶します。親衛隊か、またはアインザッツグルッペンがロシア前線からベルリン当局に送付した資料だということだったと思います。この資料はアインザッツグルッペンA、B、C、Dが処刑したユダヤ人の数を確かに示しているわけですよね。これは証拠とは言えませんか。あなたのご意見をお聞かせください。
お話の資料を知っています。特に棺桶と数字を示しているものです。この資料に対して最初にその著書『二十世紀のデマ』(The Hoax of the Twentieth Century)の中で疑問を表明したのは、アメリカのアーサー・R・バッツです。こうした資料は往々にして署名もなく、胡散臭いソ連発のものなのですよ。あなたのおっしゃる地図を載せた資料は、1979年に元CIAのブラジオニとポワリエが公表したアウシュヴィッツ航空写真を彷彿させます。この航空写真にはアウシュヴィッツの火葬場が写っているのですが、その上にバカ正直に〈Gas Chamber〉と書き添えられていました。あなたがお話の棺桶マークが記された資料にも、誰のものかわからない筆によって同じやり方で数字が書きこまれ、それが処刑されたユダヤ人の数だと主張されているわけです。けれども、その数の総計がどこから来ているのかを確認できるソースはどこにも記載されていないのです。
ところでロシアで集団埋葬地が発見され、実際にその鑑定が行なわれた場合、必ずそのどれもがスターリンの犠牲者を埋めたものであって、ヒトラーの犠牲者であったためしは一度もないことに気づかれましたか?
それはともかく、ドイツ軍がベルリン当局に送った推計なるものは、そもそも慎重に扱う必要があるでしょう。
−戦争で手一杯だったドイツ人は、平和時代と違ってきちんと署名を行なった非の打ち所のない報告を作成してベルリンに送る暇がなかったのだと考えることもできますね。
それはあたな自身の仮定に過ぎません。何故ならこの時代の無数のドイツの書類が、彼等が実に綿密な報告を行なっていたことを示しているのですから。
−確かに仮定に過ぎないかもしれませんが、もしかしたら存在したことが一度もないのかもしれない完璧な証拠を求めるのは、あまりに過度な要求だとも言えないでしょうか?
証拠が手に入らないのだとしたら、推測をするに留まるのが常識です。「噂によると〜である」とか「おそらく〜だったのだろう」と言うことはできますが、それ以上のことを主張する権利はありません。
要するに目下私は、〈アインザッツグルッペン〉が咎められている非現実的なユダヤ人虐殺について、カチンで実施されたのと同じような刑事捜査の行なわれるのを待っている状態です。そして鑑定の後、「遺骸は霧散してしまったのである」という手の報告がなされないことを祈ります。これだけの犠牲者の遺体を野焼きしたのだとしても、それには想像を絶する量の木材か燃料が必要なはずです。それに少なくとも歯や骨の欠片など、何かしらの痕跡は必ず残るはずです。ロシアでは今日なおナポレオン軍の兵士の遺骨が発見されるのですよ。
−しかしナチスの犯罪を示唆し、断罪を可能にする裁判や手掛かりもあるわけですが、それらはどうなるのですか?
手掛かりとは、何かが存在した可能性を示唆する表面的な符号に過ぎません。[ユダヤ人名士の]クラースフェルド夫妻の友人だったジャン=クロード・プレサックがアメリカで出版した大著の中で”証拠の兆し”だとか”痕跡”だとか呼んでいるのが、まさにそれです。〈四分の一の証拠〉と〈四分の一の証拠〉を足して、さらに〈半分の証拠〉を付け足せば、完全な証拠の出来上がりだ、と思い込んでいる人には用心をしなければいけません。このやり方は何世紀も昔の魔女裁判で使われていたと言いますが、二十世紀においても〈ナチス戦争の悪魔的犯罪者〉という現代の魔女達に対する裁判でふたたび復活しているのです。
−私が言いたいのはそういうことではありません。今日行なわれるある種の裁判では、本物の証拠が提示されなくとも、幾つかの手掛かりがあれば被告を断罪することができるということが言いたいのです。
その通りです。
例えばフランスの裁判官は、いわゆる〈内的確信(または心証)〉(intime conviction)なるものを判断基準にすることさえできるのですよ。〈内的確信〉なるものは裁判官には許されるかもしれませんが、歴史家には許されません。いったいこれまでどれくらいの誤審が明らかにされてきたことでしょう。特にドイツに対して行なわれたあの大裁判においては、私はただの〈内的確信〉などに依拠しないことを求めます。
私が求めているのは証拠です。たった一つでいいから、証拠を要求しているのです。
ポリアコフやヒルバーグやその他大勢の〈ドイツ断罪主義〉の歴史家達は、証拠が何一つ存在しないことをついに認めざるを得なかったことを、これまで私は確かめてきました。
ご存知のようにラウル・ヒルバーグは、ユダヤ人を絶滅させよという命令をヒトラーは二度出したと、1961年には堂々と書いていたのですよ。そしてこのヒトラーの絶滅政策は、指令系統の上から下まで綿密に組織されていたとまで付け足しているのです。
ところが1983年にヒルバーグは歴史見直し主義者達の追及を受け、実際のところは絶滅命令も、計画も、そのための予算も存在したことなどなかったことを認めざるを得ない羽目に陥ったのです。1985年トロントで行なわれたエルンスト・ツンデルに対する裁判の場で、宣誓付きでこのことを認めたのです。
その後ヒルバーグはこれ以上ないくらい惨憺たる弁明を行なったものでした。彼の思いついた新しい解釈によれば、ユダヤ人絶滅政策は命令も計画もなしに、“ドイツの大規模な官僚網内での信じ難い以心伝心”によって実行されたのだそうです。大三帝国の官僚の話ですよ! 私はこれを“(ユダヤ式)霊媒術”と名づけました。
もう一点、付け加えさせていただいて良いですか?
−もちろん。
偽の証拠というものをめぐって私が衝撃を受けたもう一つの出来事がありました。
それはアメリカの大臣コリン・パウエルが、国連で、イラクが大量破壊兵器を所持していると証明するふりをした厳かな光景です。歴史見直し主義者の私は、即座にこれが詐欺であることを見抜きました。火を見るよりも明らかでした。
今となっては皆あの話をして笑います。けれども、当時国連では誰一人立ち上がって「パウエル氏の演技は我々を馬鹿にしている! 私は厳かにそれに対して抗議する! パウエル氏が手にしている容器には、なんの害もない液体しか入っていないだろうことを、我々全員が知っている。氏は映画的効果で我々をごまかそうとしている。また氏がスクリーンに映して見せた大量破壊兵器が隠されているという建物も、まったく何の変哲もない建物に過ぎない。ここに大量破壊兵器が隠されていると主張するなど、まったく馬鹿げている!」と憤慨し、発言しなかったことは、なんと嘆かわしいことでしょうか。
1979年に元CIAのブルジオーニとポワリエはまったく同じやり口で、ドイツの強制収容所にあるただの火葬場の写真を見せて、そこに大量破壊兵器、即ち〈ガス室〉が隠されているのだと我々に堂々と主張したのですよ。まったく同じ粗野な嘘、まったく同じ主張です。
−先ほどもお尋ねしたことに戻りますが、国家社会主義政権下のドイツがユダヤ人に対して不公正な政策を行なったとお考えですか?
さきほどは「犯罪」という言葉を使われました。今度は「不公正」ですか。
ドイツが、あるカテゴリーの人々を国家に敵意を持った潜在的に危険な人々であると見なしたことは決して根拠がなかったことではありませんし、そのためにドイツが取らなければならなかった措置をどのように評価するのが妥当であるのかは、私にはわかりません。
戦争状態にあるあらゆる国家は、ある種の措置を取らざるを得ない状況に置かれますし、そうした措置は、対象となる家族にとっては残酷であることには違いありません。例えばもしも明日、フランスとイタリアが戦争を始めることになったら、フランス政府は当然、フランスに住んでいるすべてのイタリア人を監視下におき、強制収容所に送ったりするでしょう。またイタリア政府は自国内に住むフランス人に対して同様の措置を取るはずです。
−つまりあなたにとってドイツは、〈ユダヤ人〉と呼ばれる人々と戦争状態にあったのですね。
その通りです。ドイツは〈ユダヤ人〉と戦争をしていましたし、同様に〈ユダヤ人〉は、ドイツと戦争をしていたのです。
そして戦略的論法を徹底していたならば、本当はこれらすべての潜在的危険分子を強制収容所か監視された居住施設に送るかすることもできたはずなのです。しかし彼等の数からして、それは実行不可能でした。そこでドイツは別の措置を取り、それは、戦火が深刻化していくにつれて次第に厳しいものになっていきました。
例えば、ユダヤ人に黄色い星を付けることを義務化させた例について考えてみましょう。この措置はヨーロッパのドイツ占領地域の一部で、ある時代から実施されることになりました(フランス南部ではユダヤ人達は黄色い星を付けずに済みました)。
この措置によって、ユダヤ人達は監視下にある自由の身となりました。しかしこれが、ユダヤ人家族全員を強制収容所に閉じ込めることよりは、遙かに穏やかな措置であったことを忘れてはいけません。実際にユダヤ人のある者は、ドイツに強制収容所に送られましたし、またアメリカやカナダは、戦時下では一般であるように、彼等の国に住んでいる日本人を強制収容所に収監しただけではありません。日系のアメリカ人やカナダ人にまで、同様の措置を適用したのです。
ドイツがユダヤ人に黄色い星を付けさせたのには、理由があります。このことによって、特にドイツ兵の安全が保障されたのです。当時多くのユダヤ人が、連合国が〈レジスタンス〉と呼び、ドイツ人が〈テロリスト〉と呼んだ行為に参加していたのですよ。ドイツ兵は往来を歩くたびに、いちいち行き交う人を危険人物かどうか識別するわけにはいかなかったことは、おわかりでしょう。黄色い星は、彼等にとって要注意という警告を表わしていたのです。
パリの地下鉄は当時五両編成でしたが、黄色い星を付けた人間は、五両目に乗車することを義務付けられていました。逆にドイツ兵はこの車両に乗ることを禁じられていました。
−そのようなユダヤ人に対する扱いは公正だったとお考えですか。フランスやドイツに住むユダヤ人はその国に同化しており、パリのユダヤ人とニューヨークのユダヤ人には特別なつながりなどなかったとは考えられないのでしょうか。
これは道徳上の問題ではなく、軍事的な必要性の問題です。
道徳的観点から言ったら、ドイツ国内のユダヤ人に対する扱いは、大戦開戦直前の水晶の夜の時期、咎めるべきものだったと言うことができます。たとえドイツ国内でユダヤ人によるドイツ人への挑発が激増し、ユダヤ組織が絶え間なく〈新ドイツ〉に対する聖戦を呼びかけ、特にユダヤ人グリンスパンによるパリのドイツ大使館顧問フォン・ラート氏の暗殺が起こったことで、ドイツ人の心情が非常に悪化していたことは理解できるとは言え、水晶の夜に発生した被害の賠償として、ゲーリングがユダヤ人に十億マルクの罰金を課したのは非難すべきです。
しかし、「評価する」ことは「比べる」ことでもあります。これまで世界各地で少数派に対して行なわれてきた残虐行為の数々を考えれば、いかなる国家も、別の国家に教訓を垂れる権利など持たないのは明らかです。
常々私が口にしてきているように、あらゆる戦争が屠殺場であり、勝者は腕の良い屠殺者、敗者はそれに劣る屠殺者だったに過ぎません。ですから戦争というテーマについて、勝者は敗者に屠殺技術に関する教訓を垂れることはできるかもしれませんが、権利や正義、さらには美徳の教訓を押しつける権利などないのです。
ところがニュルンベルク裁判では第二次世界大戦の勝者が、まさにそうしたことを、歴史上稀に見る偽善に満ちた法廷で、敗者に対して行なったのです。
−とは言え、戦争犯罪や、今日の言葉で言えば〈人道に対する犯罪〉が、国際法の原則に従って裁かれるべきであることには、少なくとも同意されますよね。
原則的には同意しても良いでしょう。
けれども、実地においては、国際裁判なるものによって断罪されるのは、ご覧のとおり、結局ほとんどのところ、敗者なのです。敗戦に打ちひしがれた兵士が、黒い法衣をまとった検事や裁判官にまるで獲物のように取り囲まれ、勝者が法廷内を凱旋するのを眺めさせられる光景ほど、憤りを催させるものはありません。血生臭いことにおいては世界中の軍の中で飛び抜けているアメリカ軍は、決して国際裁判所に裁かれることはないのですよ。
第二次世界大戦の話に戻れば、いったいどうしてスターリンと組んだ者が、別の者がヒトラーと組んだからと言って、非難することができるのでしょう。
ここで一般に流布している比較を採用して、スターリンはペスト、ヒトラーはコレラであったと仮定してみましょう。いったい何故ペストを選んだ者が、別の者がコレラを選んだことを非難できるのか、私には理解できません。
1945年5月8日、フランスのルクレール将軍は、自らが多少なりともアメリカの軍服を身に付けていたのにもかかわらず、病院から解放された十二、三名のフランス兵捕虜が、多少なりともドイツの軍服を着ていたという理由で、彼等を銃殺させたのは、いったいどんな権利があってのことでしょう。
多くのフランス人の若者は当時、ソ連共産主義に対する恐怖と不安から、フランス民兵団やドイツ軍に参加したのだったということを、よく理解する必要があります。
−占領下のフランスでドイツ軍が行なった報復行為を正当化されますか。
その質問にお答えするためにはまず、占領下のフランスでは、ドイツ占領軍やドイツに協力するフランス人(コラボラション)に対して、繰り返しテロ行為が行なわれたことについてお話しましょう。こうしたテロ行為によって膨大な数のドイツ人が死傷しただけではなく、交通や交信機関(電話線)、兵舎、兵器や収穫倉庫を狙った破壊活動も頻発しました。武器の密輸もありましたし、連合国のための諜報活動、脱走の擁護、逃走網の組織、テロを続行させるための共産主義によるプロパガンダも盛んでした。
このような状況下に置かれたドイツの指導部はどうすれば良いのでしょう。
当初、ドイツ軍は反抗者や人質を銃殺しました。しかし、フランス国民がドイツ兵の殺害を非難しながらも、占領軍による報復行為には憤慨していることを見て取ったドイツ当局は、フランス国民の支持を失うことを恐れ、ある時から、ほとんどのケースにおいて、犯人を銃殺する代わりに、強制収容所に送ることを選んだのです。しかし戦争末期、連合軍のノルマンディー上陸が成功したことで、ドイツ軍に対するテロ行為が激増すると、再び銃殺措置を選ぶようになりました。
ドイツ占領下のフランス国内で、軍事裁判や軍法会議によって決定された銃殺刑の数は、ニュルンベルク裁判で主張された2万9660件とは程遠く、実際には、大戦の全期間を通じて4520から4540件の間だったようです。それに対して共産主義者達は、遙かに大きな数を長い間主張してきて、共産党とは「7万5000人が銃殺された党である」と、のたまってきました。モーリス・トーレスに至っては1947年11月18日、スターリンに「大戦中[フランスでは]35万人の共産主義者がドイツ兵に銃殺された」(『共産主義』誌、一九九六年夏号、四十七頁)などとほざいています。実際にフランスで銃殺された共産主義者の数は数百名に過ぎません。
1945年、今度はフランス軍がドイツを占領した時には、フランス兵を殺害するための組織された武力抵抗運動は、ドイツ側では起こりませんでした。さもなければ、フランス軍は[第一次大戦後にフランス軍がドイツの]ルール地方を占領した時と同じように、また[フランスの旧植民地である]マダガスカルやインドシナ、アルジェリアで〈反逆者〉に対して行なったのと同じように、情け容赦ない行動に出ていたでしょう。
今、私の頭に思い浮かぶのは、フランス占領下にあったドイツのある街に張り出されたポスターです。ポスターには強制収容所で撮影された死体の写真が印刷され、“このポスターを剥がす者は死刑に処す”と警告されていました。
他国の地域を占領する者は、占領された側が反逆し、特に武器に訴え始めた場合、ある種の恐怖政治に頼らざるを得ないものなのです。
まったく異なる質問に移させていただきます。今日ドイツでは、ホロコーストに異議を唱える者に対する裁判が行われる時、被告と弁護人は、法に基づいて次のように裁判官に注意されます:「ホロコーストは公知の事実であり、実証されている。それに対して異議を唱える権利も、またそれを行なう際の自分の善意を証明する権利も、ナチスによるユダヤ人大量殺人とガス室が実在したという事実を信じない理由を表明する権利もあなた方にはありません。」
これについて、どのようにお考えですか。
〈公知の事実〉という論拠の源泉は、ニュルンベルク裁判の規定、第二十一条にあります。「当法廷では、公知の事実については、証拠を求めることなく、これを法廷に顕著な事実と認める」という条項です。これは、常軌を逸しています。
いったいこの〈公知の事実〉とは何を意味するのでしょう。いったい〈誰〉にとって〈公知の事実〉なのでしょう。いったいどのような基準によってニュルンベルク裁判は、ある事実は〈公知〉であり、別の事実は〈公知でない〉と決めるのでしょうか。
答えは法廷自身です。
ニュルンベルク裁判は恣意的に、理由も説明せずに、ある事実が〈公知〉であると宣言したのです。そして法廷が自分の意見を述べるにあたっては、いかなる証拠も提示する必要はない許可を、自分自身に与えたわけです。
その上、ニュルンベルク裁判には控訴をする上級の裁判所が存在しませんから、この裁判はまさに司法義務を踏みにじる全権を保有することになったわけです。裁判官達は秘密審議のうちに、誰の意見も求めず、どの〈事実〉については証明の必要がないか、選り分けたのでした。いかにも傲慢なやり口です。
私自身、歴史見直し、オーストリア、スイス、そして英語圏カナダの司法家と対峙してきました。彼等は皆揃って、小難しい威張りくさった言葉を使いたがりますが、実際には「これはこうと決まっているからこうなのである」「我々がこうと決めたからこうなのである」という、これ以上ないくらい単純で、鈍重な意見を述べているのに過ぎないことに、毎度のことながら可笑しくてしかたありません。
けれどもニュルンベルクなる奇天烈な裁判の第二十一条には、さらにもっと驚くべき続きがあるのですよ。よく聞いて下さい。彼等は次のように言うのです。「当法廷は、国連加盟国、また戦争犯罪調査委員会が公式に提出する書類・報告書、また国連加盟国内の法廷が既に下した判決を、正統の証拠と見なす。」
これ以上図々しいことがあるでしょうか。
国連加盟国とは、つまり被告を敵国と宣言している国々ですよ。要するにこれは「原告側の主張は自動的に正しいのである。従って被告は口を閉じろ」と言っているようなものです。
ソ連が提出したカチンの森虐殺に関する書類が、即座にニュルンベルク裁判によって正統な証拠であると認められ、カチンの虐殺(ソ連によれば犠牲者1万1000人!)がドイツ軍の犯行であるという判決が下ったことも驚くに値しません。抗弁を試みたドイツ側弁護士シュターマーとラテルンザーは、ソ連内務省と裁判長ローレンスだけでなく、まるで検事であるかのように振舞うソ連の裁判官ニキチェンコによって沈黙を強いられたのです。
しかしフォリソン教授、ドイツ国内でホロコーストが〈公知の事実〉(offenkundig)であると言われるのは、ドイツの図書館にはこのテーマに関する書籍が溢れかえっているからです。ですから何故〈公知の事実〉と呼んでいけないということがあるのでしょうか?
あなたのおっしゃる大量の書籍というものの正体は、たった一つしかない同一の論理を多様なバリエーションで繰り返しているだけのものです。即ちドイツに勝利した国々の論理です。勝者の掟が敗戦国内で適用されている現状を表わしているのに過ぎません。よく調査してみると、この論理が実際にはまったく立証されていないどころか、この論理が間違っていることを示す無数の証拠が存在することがわかります。
歴史家にとっては〈公知である〉ということは、論拠にも証拠にもなりません。太陽が地球の周囲を回っていたことは昔は〈公知の事実〉でした。皇帝ネロがローマに火をつけたことも、魔女が存在することも、かつては〈公知の事実〉だったのです。1914年には、連合国側にとっては、ドイツの槍騎兵がベルギーの子供達の手首を切り落としていることが、〈公知の事実〉でした。そしてニュルンベルク裁判の裁判官達は、カチンの森の大虐殺がドイツ軍に犯行であることが〈公知の事実〉であると決定したのでした。
つまりあなたのご意見では、ラウル・ヒルバーグとその仲間達は、嘘をついているか、あるいは頭が悪いのですね。
そうとは限りません。彼等が自分達の語っていることを多かれ少なかれ信じている可能性もあるのです。このことを私は、今回の会議で説明しようと試み、私の発表のはじめに〈歴史的嘘〉について話したのです。
〈歴史的嘘〉は、日常的な嘘と異なり、長い歳月をかけて成長していくうちに、いつの間にか歴史上の〈一般事実〉のようなものになっていくのです。人々は、もともとは嘘でしかないこの事実と呼ばれるものを、正直に信じているのです。こうした人々は不正直というよりは、順応主義や怠慢、知的好奇心の欠如から罪を犯しているわけです。このような欠点は、人間というものがそもそも不完全であるために存在するものですね。私達は日々すべての物事をひたすら確かめながら生きるわけにはいきません。それはあまりに骨が折れます。そのために往々にして目を瞑ったまま、これは良い物だ、本物だと世間が保障する製品を、実際にはそれが不純物であっても、がぶがぶ飲み込んで満足しているのです。
つまり彼等が〈善意の人〉かもしれないとおっしゃるのですか。
その質問にお答えするには、人の心や腹の内を読み取る術が使えなければいけませんね。彼等がそれぞれ、どれくらい自分の言っていることを信じているのかは、私の知るところではありません。しかしそれとは別に私が知っていることがあります。世の中には、〈敬虔な嘘〉と呼ばれるもの、つまり〈善行〉のためにつく嘘というものが、頻繁に横行しているのですよ。
この〈善行〉は、政治的なものであることもあれば、宗教的なものであることもあります。また特定のグループ、組織、人々の利益のためであることもあります。このような”敬虔な”嘘をつく人は、事細かなディテイルや具体的な数字にたいして気を遣いませんし、人の気に入る証言を平気で行ないさえします。常に正確であり続けなければならないための配慮というのは、大きな重圧です。私はこうした不安による重圧や、人が安心感を求める欲求を信じます。私達の行動のかなりの部分が、こうした重圧や欲求の力に司られているのではないかと思います。
とはいうものの、〈ホロコースト論〉を擁護する人々の中には、札付きの嘘つきもいるものです。彼等は歴史見直し主義者によって、何千回と現行を抑えられてきました。サイモン・ヴィーゼンタールとエリー・ヴィーゼルは、極めつけの偽証者です。
それから山師タイプもいます。例えば既にお話したユダヤ系オーストリア・アメリカ人の歴史家ラウル・ヒルバーグ。
ヒルバーグについてはもう一度詳しくお話する価値があります。
彼は〈絶滅政策神話〉を布教する歴史家の〈ナンバーワン〉です。彼が〈ヨーロッパユダヤ人の絶滅政策〉と呼ぶものに関する研究は1948年に始まり、彼の著書『ヨーロッパユダヤ人の絶滅』The Destruction of the European Jewsは、1961年に出版されました。
この版の177頁で彼は、ユダヤ人を絶滅させよというヒトラーの命令は、二回発せられたと、堂々と断言しているのです。最初の命令は1941年春のもの。内容は、“ソ連国内のユダヤ人をその場で殺しに行け!”と言う命令だったそうです。それから間もなく(詳細な日付けはなく)、二度目の命令が発せられ、“ヨーロッパのユダヤ人を全員、絶滅収容所に送れ”とあったそうです。
しかしヒルバーグは、ソースも、資料も、二つの命令の原文も、詳細な日付けも挙げていないのです。それにも拘わらず、誰一人それに対して疑問を発することなく、すべての歴史家がこぞって、ラウル・ヒルバーグこそ歴史の第一人者であると見なしたのです。ヒルバーグは本当は、我々に押し付けられている〈公式の真実〉を擁護する歴史家の〈ナンバーワン〉だったのです。
ラウル・ヒルバーグがその後態度を変え、1961年の解釈を放棄したことをどのように説明されますか。
1970年代後半に歴史見直し主義者達は大反撃を開始しました。ヒルバーグは明らかにこれにショックを受けたようで、1982年にフランスの『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌で次のように宣言したのです:「ある意味で、フォリソンとその仲間達は、彼等の意に反して、我々の役に立ったと言えます。彼等が呈した疑問のおかげで、歴史家達は、さらに研究を進めることができました。我々がますます情報を収集し、資料を再検証し、起こったことをよりよく理解することができるように、彼等は我々の背を押してくれたのです。」
この記事が発表された当時、私達はまだ、ヒルバーグが歴史見直し主義者達の攻撃に屈し、研究を再開し、ヒトラーの二つの命令なる彼の理論を徹底的に見直すことになったとは、知らずにいました。
1983年、ニューヨークでの講演で彼は突然、奇妙極まりない新たな理論を発表しました。本来ならば、歴史学界における彼の名声を永久に失墜させるべきような理論です。
ヒルバーグの新たな説によれば、ヨーロッパ全土における全ユダヤ民族を絶滅させるというとてつもない計画を実行するためには、ドイツには実は命令も、計画も、予算も一切なかったそうです。ドイツの官僚達は、暗黙の了解と自発的な策略なるものによって、絶滅計画を実行させていったのです。
ラウル・ヒルバーグの言葉を正確に引用しましょう。
《But what began in 1941 was a process of destruction not planned in advance, not organized centrally by any agency. There was no blueprint and there was no budget for destructive measures. [Those measures] were taken step by step, one step at a time. Thus came about not so much a plan being carried out, but an incredible meeting of minds, a consensus-mind reading by a far-flung bureaucracy》
(しかし1941年に始ったのは、事前に計画されたものではない、いかなる中枢機関による組織もない絶滅プロセスだったのである。絶滅措置を指示する青写真も予算も存在しなかった。[措置は]段階的に、一時に一段階ずつ実施されていった。これは計画を実行に移すという形で行なわれたのではなく、大規模なドイツ官僚システム内における官僚同士の心中の合意による信じ難い以心伝心によって行なわれたのである。)
ヒルバーグが予算のなかったことをわざわざ断っていることに気づかれましたか。これは私自身が彼に持ちかけた議論に対する返答です。私は彼に、とりわけ戦時下においては、何一つ予算なしに実施されることはないと指摘し、ヨーロッパのユダヤ人の大量殺戮キャンペーンと言われるものにはどれほどの大予算があてがわれたのか見せて欲しいとお願いしたのです。
つまりラウル・ヒルバーグはここで、我々の詰問から逃れるために、度肝を抜く〈説明〉を試みているのですよ。
まとめて言えば、ヒルバーグは、この一大犯罪計画なるものが、“聖霊”だか自然現象だかの力を借りて行なわれたのだと主張しているのです。彼自身、無数の官僚の間で「信じ難い」以心伝心が起こったと言っているのですが、「信じ難い」と自分で形容するものを、他人に信じろと強要するとは、なにごとでしょう。しかも信じなければ法的に罰され、投獄されるのですよ。以心伝心とはそもそも超常現象以外のなにものでもありません。そんなものを私達は信じる必要はないはずです。
トロントで開かれた[エルンスト・ツンデルに対する]法廷で、ラウル・ヒルバーグが宣誓付きで、彼の〈ヨーロッパのユダヤ人絶滅〉解釈を説明した後、ツンデルが毎晩、裁判が終わった後に、私達を招待してくれた会食の場では、冗談が飛び交いました。私自身はこんなことを言いました。「新しい時代の始まりだ。今後は、塩や水を取って欲しい時、言葉を使わなくてもよくなった。皆で〈信じ難い以心伝心〉と〈互いの心中の合意〉を実践しようではないか!」
どこの国の官僚よりも鈍感だと評判のドイツの官僚に使えた術が、私達に使えないわけがありません。
ツンデルに対する裁判が進行している最中に印刷中だったラウル・ヒルバーグの著書の改訂版では、さすがに上記のとんでもない表現は使用されていませんでしたが、彼は凝った学術用語を駆使して同じ内容を繰り返していました。「最新の分析によれば、ユダヤ人の絶滅は指令を敢行するという形で行なわれたのではなく、暗黙の了解、精神の協和と共時態の結果として起こったのである。」
フォリソンさん、第二次世界大戦中にドイツ人の責任によって亡くなったユダヤ人の数はどれくらいだとお考えですか。そのうち何人が強制収容所で亡くなったのでしょうか。そして具体的にどの収容所ででしょうか。それはガス室やガス室を搭載したトラックによるものでしょうか。
ガス室やガス室を搭載したトラックの中で殺されたユダヤ人は、一人もいません。こうした大量破壊兵器は、実在した痕跡が発見されたことは一度もなく、またその技術的機能も誰一人説明できないものです。あちこちの収容所で観光客に見せられるガス室だとされるものは、実際にガス室だったことは有り得ない代物です。このテーマについて私は既に何度も話しているので、ここではこれ以上立ち戻りません。私達の論敵は、未だにガス室の機能を説明する技術的・科学的鑑定を提出することを頑なに拒否し続けています。
一方、第二次世界大戦中にドイツ人の責任で亡くなったユダヤ人の数は、今のところまだ特定することができません。それは連合国とイスラエルの態度が原因で、これはまさにスキャンダルです。
膨大な量の古文書が、ドイツのバード・アロルセンの国際捜査局(International Tracing Service, ITS)に保管されているのですが、彼等は頑としてそれを公開しません。時たま、もうすぐ研究者に公開されるという噂が流れ、ユダヤ人やシオニスト団体が公開を要求していると言われるのですが、そんなことを信じてはいけません。
ただこのテーマには私自身も非常に興味を持ってきたので、次のことは申し上げられます。もしもバード・アロルセンに保管された資料が、すべての研究者に対して何の規制もなく完全公開されたとしたら、〈ホロコースト論者〉は大打撃を受けること間違いなしです。
ドイツ第三帝国の行政責任者達が当時、いかに綿密に記録を行なっていたかが明らかになるでしょう。彼等は、各収容所の捕虜の数、そのうちのユダヤ人と非ユダヤ人の数、それぞれの捕虜の到着日、出発日、入院していればその状況、彼等がどんな労働に従事したか、どの収容所からどの収容所に移送されたか、また死亡した場合はその状況について、事細かに記録していました。ですから、それぞれの火葬炉で火葬された遺体の正確な数、また戦争を〈生き延びた〉ユダヤ人の数、つまり戦後世界中に拡散し、イスラエルの人口の大きな部分を占めることになった〈奇蹟の生還者〉と言われる何百万人のユダヤ人の数が判明するでしょう。
バード・アロルセンの古文書に歴史見直し主義者達が興味を持ち始めたのは1970年代後半のことなのですが、当時ITS内に存在していた歴史部署は、1978年に突然閉鎖されてしまいました。私は、同部署の再開と、あらゆる研究者にすべてのアーカイブを閲覧する許可を要求してきています。
しかしあなたの質問は、ドイツ人の責任で亡くなったユダヤ人の数でしたね。今のところ、それは誰にも特定することができません。自然死した人、ドイツ人あるいは連合軍の責任で亡くなった人をまずは区別することから始めなければなりません。
ところで私が注目するのは、とにかく戦争を生き延びたユダヤ人の数の多さです。その数こそまさに、すべてのユダヤ人を殺戮する政策など存在したはずがなかった手掛かりになるとさえ言えるでしょう。
2004年4月18日、イスラエルの新聞『ハーレッツ』のレポーター、アミラム・バルカットは、「ホロコースト生存者は誰かを議論するアメリカ法廷」というタイトルの記事を公表しました。その中で彼は、二人のユダヤ人人口統計学者が、2004年の時点で結論したユダヤ人生存者の数を報告しています。一人は68万7900人、もう一人は109万2000人としています。二つの結論の差は、後者の専門家が、北アフリカ、シリア、そしてレバノンのユダヤ人人口を加えたことから来ています。これらの国は、ある時期ドイツやイタリア、あるいはヴィシー政権の占領下にありました。
私は少ない方の数字を使用することにします。68万7900人のヨーロッパユダヤ人が、ドイツ軍による占領を生き延び、戦後六十年を経て未だに生きながらえているわけです。このことから、戦争直後のユダヤ人生存者数は、数百万にのぼったであろうことが推測されます(おそらく325万人と考えられます)。
いったい数百万人もの奇蹟の生還者を生んだ絶滅計画とは、どんな計画なのでしょう。戦争直後、ヨーロッパ人達は、永遠に消滅したと言われていたはずのユダヤ人が方々に溢れ返るのを目にして仰天したものでした。彼等を受け入れる施設はたちまち満杯になりました。特に中央ヨーロッパから汽車で運ばれたり、ホームに保護されたりしたユダヤ人の子供達の写真は、山のように存在します。そして彼等は同時代の非ユダヤ人と、なんら変わらない体格をしていたのですよ。
フランスに関して言えば、当時およそ35万人いたユダヤ系住民のうち、主に外国から移住してきた7万5721人のユダヤ人が、強制収容所に送られたことがわかっています。しかしそのうち何人が生き延びたのかは、明らかにされません。生還したのはわずか2500人と時おり言われますが、これは何重ものインチキの結果出された数字で、今ここでその一つ一つのインチキを暴露する時間はありません。私はすでに別の場でそれについては説明したことがあります。
戦争直後のフランスに住んでいたユダヤ人の数がいかに多く、彼等の共同体が活気に満ちていたかを知るには、パリのImpress社が出版した『ユダイズム年鑑』の閲覧をお奨めします。1952年の年鑑は、パリと世界のユダヤ人社会の状況を415ページにわたって描写しています。これは本当に参考になりますよ。この巻だけでも、電話番号と住所が記載されているユダヤ人団体の数は膨大です。
その上、後から後から湧いてくる〈奇蹟のユダヤ人生還者〉達の作品、回想録、証言集の山をご覧ください。次から次へと請求される賠償金の数については言うまでもありません。
しかしドイツでは、絶えず600万人のユダヤ人犠牲者と繰り返されます。500でも700でもなく、必ず600万人です。
ドイツのマルチン・ブロシャートのような順応主義的歴史家でさえ、はるか以前からこの数字が「象徴的な」もの、つまり神話的なものであることを認めています。これはユダヤ象徴学に帰属する数字だと、私は付け足しておきましょう。
2003年にドン・ヘデスハイマーが出版した『最初のホロコースト』(The First Holocaust)という研究を読んでごらんなさい。著者は裏付けとなる新聞の複写を1900年まで遡って紹介しています。当時ユダヤ系アメリカ人の新聞が「600万のヨーロッパユダヤ人が死んでいく」と言うスローガンを掲載したものです。実際にはさらに古くに遡ると考えられます。本書は1900年、 1919年、 1920年、 1926年、 1938年、 1940年のプレスから同様の例を引用しています。この数字はユダヤ人の間で、ライトモチーフ化していたのです。
イエルサレム、ヤド・ヴァシェム記念館の専門家たちは、しばらく以前、〈ホロコースト〉の犠牲となった600万人の名前を列挙する企画を立てました。結局300万人までしかたどりつかなかったようですが、基本的に大部分がソースの確認されない、真偽の検証されていない申請によるものなので、同じ人間が何度も死んだかのように記録されることすら可能です。最高十回も死んだ人間がいるとの話です。このテーマについてはオランダで出版されたDubitandoとう雑誌に掲載された研究の閲覧をお奨めします。
でもドイツ人、またはドイツの同盟国の責任によって亡くなったユダヤ人の数はどれくらいだとあなたはお考えですか。
その質問に関しても、バード・アロルセンの国際捜査局に赴かれることをお奨めしますが、1978年以降は許可を得た歴史家以外は入室が拒否されるようになりました。
そうかもしれませんが、アウシュヴィッツで亡くなった人の数を是非挙げてください。
突拍子もない死亡者数の中でも、最も知られているのは400万人ですが、公式と言われた数値にさえ、もっと多いものがありました。それは、ニュルンベルク裁判が採択したものです。そしてその数がアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の石碑に刻まれ、1990年まで保持されました。五年間迷った後、1995年、この数字は突然削除され、150万人に書き換えられました。これは当時のポーランド共和国大統領L・ヴァウェンサが選んだ数字でした。しかしその後、アウシュヴィッツ博物館責任者や公式の研究者はさらにこの数字を110万、80万、そして60万ちょっとに減らして行き、2002年にはとうとう51万(フリトヨフ・マイヤー)にまで下がりました。
私個人は、アウシュヴィッツ強制収容所がドイツの管理下で機能していた1940年5月から1945年1月の期間に、この広大な複合施設に設けられた合計39箇所の収容所で亡くなったユダヤ人及び非ユダヤ人男女の総計は、およそ12万5000人ほどではないかと推測します。ほとんどの死因は、ドイツ人員の間までその猛威をふるった感染症、チフスです。特に収容所の医療班の被害は大きく、ポピエルシュ博士及びシュヴェラ博士の二名の医師がチフスで亡くなっています。
およそ12万5000人が死亡したのではないかという私の推測は、死亡記録簿とその他幾つかの資料に記録されたデータから出しました。それらによると死亡者の合計は8万10人なのですが、死亡記録簿に何冊か欠けている号のあることがわかっているため、死亡者の全体数はおよそ12万5000人に達するのではないかと思います。一方、ときどき挙げられる7万4000人という数は、報道上の誤りから来ているようです。
アウシュヴィッツの医師の話をされましたが、メンゲレ博士について何かお話していただけることがありますか。
メンゲレ博士については、私自身、調査を行ないました。ですから、ヨーゼフ・メンゲレという人物が、おそらく彼の同時代人のなかでも最も手酷く中傷された人であることは、まず間違いないと思います。おそらくギュンツブルク市の同時代人が彼のことを〈騎士〉と呼んでいた通り、名声に値する人だったと考えられます。私は彼の残した(非公開の)草稿を垣間見ることができたのですが、そこに現われるのは、ラテン・ギリシャ文化に精通し、科学に熱中し、あらゆることに好奇心を持った人間像です。彼はごく親しい人達には、ガス室が純粋な空想の産物であることを打ち明けていました。
イエルサレムで彼に対して〈死後裁判劇〉が行われ、世界中でTV公開されたとき、彼の〈犠牲者〉だと自称する人々が登場して、あることないこと最悪のデタラメを彼になすりつけたものでした。この〈犠牲者〉なる者達によれば、メンゲレ博士は、医務室の壁に人間からえぐり取った目をピンセットで飾ざったり、〈実験台〉になる人間の目に、瞳の色を黒から青に変える酸を流し込んだりしていたそうですよ。まったく医学上の残虐行為についての作り話くらい、それも白衣の〈ドイツ人博士〉が主人公の場合ほど、人々の想像力のハメの外し方が留まるところを知らない分野はありません。好き放題、どんな残虐行為でも、素人の視聴者に信じ込ませることができます。
このテーマに関しては、デーリング事件について二人のイギリス人弁護士が書いた著作を読むことを是非ともお奨めします。(Mavis Hill & L. Norman Williams, Auschwitz in England, a Record of a Libel Action, London, MacGibbon and Kee, 1965 ; 『イギリスのアウシュヴィッツ、デーリング事件』、カルマン・レヴィ社、1971年 / Auschwitz en Angleterre, l’Affaire Dering, Calmann-Levy, 1971).
1959年、レオン・ユリスというユダヤ人が、Exodusというタイトルの本を書き、その中で、自分がアウシュヴィッツの捕虜だった時代、ポーランド人外科医のヴラディスラヴ=アレクサンダー・デーリング(ユリスはDehringと表記している)が、1万7000人の女性に、麻酔なしで外科実験手術を行なったと、平然と書いたのです。いいですか、1万7000人という数字と「実験」という表現をよく覚えておいてください。
W・デーリングという医師は、戦後イギリスに渡った後、ソマリアで医療に従事し、再びイギリスに戻って、大英帝国勲章オフィサーの称号(O.B.E.)を授与されました。これはフランスのレジョン・ドヌール勲章に匹敵するものです。
デーリングは、ユリスと彼の出版社を名誉毀損で訴え、1964年4月13日から5月6日にかけてロンドンで裁判が行われました。この裁判の間、特にデーリング医師が勤務していたアウシュヴィッツ第21棟で施行された外科手術に関する記録簿が発見されたおかげで、素晴らしい数の嘘が暴かれることになったのです。被告弁護側は、彼等がデーリング医師が手掛けたとする手術の数をどんどん減らしていかざるを得ない羽目に陥りました。「女性達」という記述は「男女」に訂正され、「1万7000人」は、とりあえず「大勢」と言い換えられました。それから「百回と二百回の間」になり、最後には「三人の女性」にまで萎んでしまったように記憶しています。しかもその女性達には名字はなく、名前しか挙げることができなかったのです。そのうえ、手術は麻酔なしで行なわれたのではなく、「脊髄くも膜下麻酔」が適用され、イギリスの高名な麻酔医師が、このタイプの麻酔の選択が正しかったことを、デーリング博士のために証言しました。
一大センセーションは、デーリング博士が、1943年8月以後の手術記録が、保持者のポーランド人によってでっち上られたものであることを証明してみせたことでした。というのもこの時期からデーリング博士は第21棟にもはやおらず、手術は行なわれなくなっていたからです。
アウシュヴィッツのドイツ人達の手術記録は綿密で、その一部にはラテン語が用いられ、確か《casus explorativus》という記入がありました。これは「大事を取って」行なわれた手術のことだったのです[訳注:これが実験と曲解された]。
あと一歩でデーリング博士は裁判に勝利し、いくばくかの賠償金と利子とを得ることができるはずでした。ところが裁判長は、酷い中傷を受けたはずのデーリング博士が、高額の全裁判費用を負担しなければならないこと、そして控訴の権利のないことを、仰々しく告げたのです。その理由は、裁判を通じてデーリングの頭上に〈アウシュヴィッツ〉と〈ガス室〉の影がつきまとい、裁判長自身からも何度も喚起され続けたことでした。裁判後、デーリング博士は「私は破産してしまったが、私の名誉は守られた」と語り、その後、間もなく亡くなったと記憶しています。
しかしそれなら、虐殺されなかったユダヤ人はいったいどこに行ったのですか? という質問がされると思うのですが。
「パレスチナと、その他世界中の五十カ国」というのが、私の答えです。五十の国名リストを挙げてご覧に入れることもできます。今日イスラエルに住む約六百万のユダヤ人の多くが、彼等が〈ホロコースト〉と呼ぶものの〈生還者〉、または、生還者の子孫です。ちなみにスティーヴン・スピルバーグが、五万の〈証言〉を収集する大計画を立て、世界五十カ国に捜査員を派遣しました。この五十カ国が、戦後、ユダヤ人達が散っていった国の数です。
今回の講演者の中には、ドイツ国防軍が東部侵攻を始めた時、多くのユダヤ人が逃亡するか、またはソ連に移送されたと主張した人々がいましたが、どのようにお考えですか。
その通りです。しかし例えばウズベキスタン(タシケントやサマルカンド市)、タジキスタン、あるいはビロビジャンのユダヤ自治州に、何人くらいのユダヤ人が移住したのかを特定するのは、今はまだ難しい状況です。
強制収容所の生還者の殆どが、ガス室が存在したことを保証できると主張する事実をどのように説明されますか。
彼等は耳にした噂話をただ繰り返すだけで、英雄だとか奇蹟の人というステータスを労せずに勝ち取ることができるからです。しかも通常、そうすることには何の危険も伴いません。というのも、詰問され、説明を求められる可能性はほとんどないからです。
私はある裁判で、過度に興奮したユダヤ人に聴取室の入り口で遮られ、アウシュヴィッツで腕に受けた登録番号の入墨を見せつけられながら、「ガス室が存在しなかったなどと、どうしてほざけるのだ。私がその存在の証人だ」と言われました。私は彼の目を見返して、「それではガス室がどんなもだったか、描写してください」と答えました。彼は落ち着きを失い、「私がガス室を見ていたら、この場に来ることなどできなかったさ!」と答えました。そこで私は、そういうことなら証人を自称するべきではないと、指摘しました。本当はさらに、アウシュヴィッツから生還したすべてのユダヤ人と同じく、今この場に生きて立っている彼こそが、むしろドイツにはユダヤ人を物理的に絶滅させる政策が一度も存在しなかったことの証人になると付け足すこともできましたが、それはしませんでした。
1985年、エルンスト・ツンデルに対してトロントで最初に行なわれた裁判の際、〈ホロコースト〉の証人を自称するユダヤ人の中でも〈ナンバー・ワン〉の男、ルドルフ・ヴルバを反対尋問できるという稀な機会に私達が恵まれたことを、思い出していただきたいです。裁判の議事録をご覧になれば、いかにこの傲慢な男が追い詰められ、何よりも正確で詳細であるという評判だった彼のアウシュヴィッツについての本が、〈詩法上の破格語法〉を用いて書いたものであることをとうとう告白せざるを得なかったかがわかります。彼は、《licentia poetarum》(詩法上の破格語法)と言うラテン語を引っ張り出したのですよ。
〈アウシュヴィッツ(またはビルケナウ)のスロープ〉と呼ばれている場所で選別されたユダヤ人の運命はどのようなものだったとお考えですか?
そこでは、片側に男性、もう片側に女性と子供とが分けられました。彼等は整列して、ある者は徒歩で、別の者はトラックで、シャワーを浴び、殺菌を受けるためにサウナ室に向わされました。有名な『アウシュヴィッツ・アルバム』と呼ばれるものに掲載されている写真に、スロープに人々が到着した光景が確認できます。
これと同じ区域、スロープのすぐ隣りにサッカー場(スポーツ広場)があり、収容所に到着した人々の目にも入ったはずです。その他にバレーボールのコートや、非常に多くの男性用と女性用の病棟がありました。また小庭に挟まれた大きな火葬炉が二基あったのもこの区域で、どこからも目にすることができました。それから廃水処理用の大きな貯水槽、シャワーと殺菌施設、それにどこの収容所や監獄でもそうするように、新参者から到着時に没収する私物を保管するための広い倉庫がありました。
1939年1月30日ベルリンのクロール・オペラでアドルフ・ヒトラーが行なった演説をどのように解釈されますか。ヒトラーは文字通り次のように宣言しました:「もしヨーロッパ内外の国際金融界のユダヤ人社会が、ふたたび人々を世界戦争に追い立てることに成功するのであれば、その行き着くところは世界のボルシェヴィズム化とその当然の帰結としてのユダイズムの勝利ではない。ヨーロッパユダヤ民族の消滅である。」
戦争前に行なわれたこの演説は、ユダヤ民族の物理的絶滅とはまったく関係ありません。ヒトラーは、戦争を焚き付け、何が何でもドイツに対する聖戦を望んでいる勢力に対して、ある種「甘い夢を見ない方がいいぞ。お前達が戦争を起こすことに成功しても、抹殺されるのは我々ではなく、我々の敵である共産主義者とユダヤ民族だ」と応じているようなものです。
ヴィルヘルム・シュテーグリッヒが『アウシュヴィッツ神話』の中で行なっているこの宣言の分析をご覧になることをお奨めします。シュテーグリッヒは同様に、ハインリッヒ・ヒムラーが1943年、ポーセンで行なった演説も分析しています。ある者はこの演説に「秘密の」といういかがわしい形容詞を付けて呼んでいます。ヒムラーは戦前から戦中、そして戦争の最後の数ヶ月にいたるまで、連合国に、彼等がどうやら素晴らしいと考えているらしいユダヤ民族を引き受けてくれるよう説得を続けていました。
つまり他の歴史家の解釈とは違って、あなたにとってこのヒトラーの演説は、彼がユダヤ民族の絶滅を意図していたという証拠にはならないのですね。
もちろんなりません。そもそも今ではそんな解釈をする歴史家はもはやいなくなったと思いますよ。
それではアドルフ・ヒトラーの政治的遺書は、どう解釈されますか。例えばこんなことが書いてあります:
「この件については私は一抹の疑問の余地を残していない。金と金融世界の国際陰謀家達が、ヨーロッパ民族をただの株式証券の束であるかのように扱うのであれば、この殺戮劇の真の責任者である彼等は、いずれその代価を払うことになるだろう。つまりユダヤ民族のことだ。ヨーロッパ・アーリア民族の子供達を数百万という単位で餓死に追い込み、成人男性数百万の命を奪い、何万もの女子供達を都市の爆撃で焼き殺した責任を負うこの民族を、どのような運命が待ち受けているのか、私は隠したりしない。たとえずっと人間的な手段によるものだとしても、必ずや責任者は、罪滅ぼしをすることになるだろう。」
ここでヒトラーが言う「ずっと人間的な手段」こそが、「ガス室」を意味しているのではないですか。
それはただの邪推というものです。ヒトラーがこの文に署名をしたのは1945年4月29日、つまり自殺の前日です。(ちなみに“正史”によれば、〈ガス室〉は1944年11月末以後は使用されていないことになっていることも指摘しておきましょう)。この時ヒトラーが目前にしているのは、壊滅した祖国の惨憺たる光景と、日々計画的に白リン弾で焼き殺される老若男女の姿です。この非人道的な戦争の責任者に対して彼は、その罪を償わねばならない日が来ることを誓ってはいますが、それはいくらなんでも、連合国が使用したような残忍で非人間的な方法にはよらないだろうと断っているのです。
残虐の極みとは、生きたまま人間を焼き殺すことです。1940年から41年にかけて、今後はドイツ市民を計画的に戦争攻撃の対象とすることに決定し、ドイツの都市を爆撃する目的のための爆撃機の製造を開始したのは、チャーチルを首長とするイギリス指導部です。それまで軍は、軍を相手にしか攻撃を行なっていなかったのですよ。そして市民が巻き添えになって命を落とした場合には、それが軍事行動(例えば戦略的爆撃)に際した二次的被害であると、真偽のほどはわかりませんが、遺憾の意を表明したものでした。
イギリス“紳士”達は、戦闘法を一新させたわけです。彼等は一方では、市民を計画的に虐殺することで軍を屈服させ、他方ドイツ軍に対しては〈卑怯者の戦法〉を用いました。つまり非正規軍兵士や〈レジスタンス〉を煽動し、彼等を支持したのです。
敵兵を殺すために自爆をするのであれば、勇気もいることでしょう。しかしこっそりと背後で行動しては、そそくさと逃亡する非正規軍兵士には、勇気など必要ありません。しかもその結果として血生臭い報復が、多数の無実な人々に対して行なわれることを承知のうえです。それに続いて、ソ連軍の野蛮とアメリカ軍の乱暴が加わったわけです。
ヒトラーの目からすれば、ウォール街の資本主義者とモスクワの共産主義者がその本質に反して手を組んだのは、ドイツ国民に対する決然たるホロコーストを行なう目的があったからなのです。相反するこの二つの勢力の契約によって世界中のユダヤ人が連帯しました。彼等はとりわけアングロ・サクソン系の金融界とメディア界、そして国際共産主義世界で、多大な力と影響力を持っていましたからね。
ヒトラーの「ずっと人間的な手段」という言葉が、ガス室が存在した証拠だという説は、私は以前ドイツの歴史家エルンスト・ノルトからも授かった経験があります。彼等のような歴史家が、他になんら確かな証拠を持っていないことをよく表わしています。
ベルリン、ヴァンゼー湖畔会議の議事録は、ユダヤ人絶滅計画が存在したことを証明していませんか。
全然。
日付けもなければ、書名もない、押印ひとつないこの書類は、1942年1月20日にベルリンで開催された会議の議事録下書きのように見えます。この中では一度たりとも、ユダヤ人を殺す、あるいは絶滅させることは語られていません。議論されているのは、労働能力のあるユダヤ人を東部に避難させ、そこで就労させること、その一方で、六十五歳以上の老人は、ボヘミアのテレージエンシュタットに移住させるということです。
この書類の随所に「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題に関する最終解決策」という表現が登場し、時折「ユダヤ人問題の最終解決策」、あるいはただ「最終解決策」と短縮されています。しかし元の完全な文章は「ユダヤ人領土問題に関する最終解決策」(ヨーロッパにおけるユダヤ人問題という了解の下)だったのです。
マルティン・ルターと言う大三帝国外務省次官補が、この表現を彼の有名な1942年8月21日の覚書の四ページ目で使用しています。「領土上の」という形容詞は、ユダヤ人占有の領土をつくることによって、ユダヤ人問題を解決するべきであることを意味しているのです。その他のあらゆる方法は不適格とされました。
というのも戦後、もしも例えばヨーロッパのユダヤ人がふたたび解放されることになるのなら、彼等はたちまちその力と影響力を取り戻すでしょうし、歴史が我々にそれが現実であることを教えてくれています。一方で、彼等をどこかヨーロッパ圏外の土地に永久に移住させれば、その試練に生き延びることのできた者達は、やがてユダヤ民族蘇生の芽となるエリート層を構成することができるでしょう。ですからこれを、ユダヤ民族を絶滅させる計画と見なすのは、まったく馬鹿げています。
イエルサレムのヘブライ大学イェフダ・バウアー教授でさえが、1992年、とうとう「ヴァンゼー湖畔の馬鹿げた物語」と表現したくらいです。「世の中では未だに何度も何度も、ユダヤ人絶滅計画はヴァンゼー湖畔で決定されたという馬鹿げた話が繰り返されている」と、彼は言い放ったのです。
人によってはユダヤ人が何人ドイツ人に殺されたかは問題ではないと言います。600万だろうが200万だろうが50万だろうが、重大な犯罪には変わりないと。
その考え方はとても広まっていますね。
ドイツには一度たりともユダヤ人絶滅政策が存在したことがなかったと説明して差しあげたことで、私はすでにその質問の根本にはお答えしていると思います。
それはさておき、数には意味がありますし、その意味は、非常に大きいこともあります。
まず第一に、死ぬことと殺されることとは大違いです。次に、大量の人間を虐殺することは、たった一人の人間を殺すことに比べて遙かに重大です。そして600万人と50万人の差は550万人ですから、この550万人の人間が、死にも殺されもせずにしっかり生き延びているという重要な事実が少なくともあるわけです。
そもそもある少数派の共同体が、計画的に600万人(これはスイスの人口に等しい数ですが)の仲間を始末されたと世の中に信じさせることができれば、50万人が死んだ、または殺されたと言うよりも、遙かに大きな同情を得られることは確実です。600万人の仲間が死んだ、殺されたと言うことによって、この共同体は、ずっと多くの道徳的共感、経済援助、それに様々な影響力や特権を要求し、獲得することができるのです。少数民族にとって、600万回多くの殺人を被ったと主張できるということは、大して苦労もせずに何十億という現金を要求し、受け取ることを可能にするのです。
600万人の犠牲者を出したホロコーストは、その数に比例して、〈ホロコーストビジネス〉という金の成る木を保障してくれるのです。私はここで、人々が、金や利権欲しさから嘘をついたり、大袈裟な話をしたと言っているのではありません。人々はまず嘘をつき、続いてその嘘から利益を引き出しているのです。
ドイツは、イスラエルとユダヤ人に対して道徳的責任を持ち、それに対して経済的に賠償を行なう義務があるとお考えですか。
私はむしろ歴史見直し主義者の〈ナンバー・ワン〉であるアメリカのアーサー=ロバート・バッツと意見を共にします。彼はその傑作『二十世紀の大デマ』の最後のページを締めくくるのに、ドイツが支払った〈途方もない額〉の賠償金についての次のように書いています:
「イスラエルは(結果として)ドイツに多額な借金を負っているわけだ。我々が立証してみせたように、賠償金を受け取る正当な理由などなかったわけだから。」
注目すべきは、この本の独訳版では、この部分はだいぶ手直しされてしまって、残念ながらこれほど明白な表現はされていないことです。
第二次世界大戦を生き延びたユダヤ人は、賠償金を受け取る資格があるとお考えですか。
この残虐の限りを尽くした戦争と、その結果起こった事態の本当に犠牲となったあらゆる人々は、敬意と配慮、そして賠償を受ける資格があります。この犠牲者の中でも私は、とりわけドイツ人、それも指導者ではなくドイツ市民と、すべてのパレスチナ人を挙げたいと思います。
あなたは反ユダヤ主義者、つまりユダヤ人の敵ですか。
反ユダヤ主義かとおっしゃるのなら、違います。私はユダヤ人に対して何も悪いことは望んでいませんから。反ユダヤ主義であるとは思いません。彼等の泣き言がますます増えるのを聞きたくないという理由からであったとしても、彼等が髪の毛一本でも触られることを、私は望んでいません。
それとは別に私が望んでいるのは、彼等が、私や他の人々に害を及ぼさないことです。彼等がホロコースティック・プロパガンダのために、耳の痛くなるほどのドンちゃん騒ぎを続けるのをいいかげんに止めて欲しいと、切望しています。そのドンちゃん騒ぎの裏には、あまりに頻繁に、彼等の戦争への鼓舞が隠されているからです。〈ホロコースト〉の名において、つまりはひときわ低劣な嘘の名において検閲と弾劾を要求し、聖戦と進軍を煽るシオニスト及びネオコンのユダヤ人特権階級ほど、うるさく泣き言を言いながら、好戦的な者はありません。
あなたは人種差別主義者ですか。
いいえ。
〈ホロコースト〉にどのような将来をお望みですか。
この言葉が、ユダヤ人の物理的絶滅政策及びナチスのガス室、そして600万の犠牲者と呼ばれるものを指すのならば、一刻も早くこの忌むべき中傷行為が、歴史学の廃棄場に捨て去られることを望みます。
大学者として私は、ユダヤ人特権階級の要求によって制定された特別法の執行を恐れることなく、第二次世界大戦について書くことができることを望んでいます。ヒトラーが死んで六十年が経つのにも拘わらず、ヒトラーについて書くことは〈厳重に禁止〉されているのですよ。書くことが許されているのは〈ヒトラーに対して〉だけです。これは幼稚ですし、幼児化でもあります。ナポレオンやチャーチルやスターリンについて書くことができるのと同じように、ヒトラーについて書く権利が与えられることを望んでいます。
何かまとめの言葉がおありでしょうか。
私のまとめの言葉は次のようなものです。
私達は今、12月11、12日に〈ホロコースト〉をテーマに開催された会議の翌日、テヘランにいます。これは本当の意味での国際的な会議でした。会議には特に歴史見直し主義者が集まりましたが、反見直し主義者も何人か参加しました。あらゆる人に門戸が開かれていました。
ラウル・ヒルバーグとノーマン・フィンケルステインが参加し、発言をしなかったのが私たちには残念に思われます。フィンケルステインは、歴史見直し主義者のことを〈気違い〉(crackpots)だと言っています。もしフィンケルスティンが参加していたなら、何故私個人がそのような形容詞を付される目に遭わなければならないのか、そして彼はいったいどの著作を読んだ結果、著者に対してそのような判断を下すことになったのか、たいへん丁寧に問い正したかったです。
この会議が閉会するにあたって、〈ホロコースト〉に関する研究及び考察グループが結成されました。グループのリーダーは、イラン人ラミン博士で、メンバーは今のところ五人です。オーストラリア人一人、イギリス人女性一人、デンマーク人一人、フランス人一人、それにスイス人一人です。
2006年という年は、イラン史だけでなく、世界の歴史に残るでしょう。この年、イランという驚くべき国は、アメリカの帝国主義のみならず、〈ホロコースト十字軍〉をも拒否する英断を下したのです。これほどの英雄的行為に私は不安を覚ざるを得ないことを正直に申し上げましょう。アハマディネジャード大統領はこの勇断に対して、高い代価を支払わねばならないことになるかもしれません。
大統領と話されましたか。
ええ、大勢の他の参加者のいる中、一対一で数分の間、話すことができました。私は大統領の勇気に対する感嘆の念と、見直し主義者にも非見直し主義者にも開かれたこの驚くべき会議を開催してくれたことに対する我々の感謝の意を伝えました。
西側メディアがまるで危険な狂信者であるかのように描くアハマディネジャード大統領ですが、閉会の挨拶においても、また直接の対話においても、優れた精神の持ち主、そして真摯な、節度ある物腰の人物に見えました。
そもそも大統領は、イスラエルが地理的に「地図上から消される」べきだとは一度も発言したことのないことは、ご存知でしょう。実際には故ホメイニ師の「イスラエルはいつの日か、時代、あるいは歴史の地図から消えるだろう」という言葉を引用しただけです。ロシアから共産主義が消えたように、シオニズムもいつかは中東から消える運命にあるという見解を、そのように表現したのです。
大統領の願いは、パレスチナの地において、ユダヤのものも含めたあらゆる共同体が、再びそれぞれの居場所を見出すことです。
だからこそ今回の会議には、ユダヤ人であるがシオニストではないことを示すバッジを付けた六人のラビによる代表団が参加したのです。すでにお話したように、私はそのうち二人のラビと個人的に親しくなりました。そのうちの一人が第三者の聞いている場で、次のように私に言いました。「“彼等”があなたに対して行なったことをどうぞお赦しください。それが赦すことのできるものであるならば、ですが……」それに対して私は、「お互いに団結を続けていきましょう」と答えました。つまり私達は、全権を手にし、それを濫用している者に対して共同戦線を張らなければいけないという意味です。
あなたは、1974年以来続けている歴史見直しの闘いのために、大変な代価を払われてきましたね。
ええ、高い代価ではありますが、それでも他の歴史見直し主義者に比べればマシです。私の言っているのは、身体的に受けてきた攻撃や入院のことだけではありません。雪崩のような裁判の数々、そしてスキャンダルとしか言いようのないその信じ難い結末という辛酸を舐めてきました。歴史見直し主義者を相手にした行政司法官は、ごく僅かな例外を除いては、かつての魔法使いや魔女裁判となんら変わりなく、信念も、法も、権利もすっかり捨て去ることを、身を持って体験してきました。
またメディアは、私の名を、気の遠くなる量の罵詈雑言、誹謗中傷で塗り固めてきました。三十年以上にわたって彼等は、一度たりとも私に弁護の機会を自発的に提供してくれたことはありません。たった一度の例外は、1980年に放映されたラジオ番組で、私は自分の研究を説明するためになんとか60語、口にする時間を得ました。その結果私は告訴され、この60語のせいで有罪判決を受ける目に遭ったのです。
1974年から今日にいたるまで、ジャーナリスト達は何千回と私の名を挙げ、〈歴史改竄者〉と罵ってきましたが、一人たりとも、少なくとも私の言い分を数分間聞くだけのためでも対談を申し込んで来た者はいません。なんという有様でしょう。また研究の自由を擁護する立場にあるはずの同業者達、フランスの大学者や知識人の沈黙ぶりも、それに劣らず惨憺たるものです。アメリカのノーム・チョムスキーがたった一度、私の言論の自由を擁護しましたが、その後は、歴史見直し主義者のことを〈気違い〉(nuts)呼ばわりするようになりました。
フランスで私を擁護してくれた数少ない人々は、私の弁護士(と彼の友人達)の他には、ピエール・ギヨーム、セルジュ・チオン、それにジャン=ガブリエル・コーン=ベンディット(と彼の友人達、とりわけ勇気に満ちたジャコブ・アス)だけです。
しかし他の歴史見直し主義者の運命に比べたら、私は不平を言うことなどできません。誰よりもまず英雄エルンスト・ツンデルと、その他数多くのドイツ人やオーストリア人達。彼等は何年も服役を強要され、今なお服役を続けている者もいまし、今後もその目に遭うことになるでしょう。スウェーデンでは、不屈のアーメッド・ラミが、同様に“臭い飯”を食わされました。
私達はインターネットの登場によって救われました。私はもしかしたら幸運の星の下に生まれたのかもしれません。ただし私の妻子については、そんなことはとてもではありませんが言うことはできませんが。
このインタビューを公開してもよろしいでしょうか。
はい。ただし原稿を事前に送ってください。場合によっては私自身の考えから、またはあなたの要求に応じて、訂正を施したり、必要な加筆を行なうかもしれません。
承知しました。お礼を申し上げます。
ダンケ・ゼアー!(ありがとうございます。)あなたの住所を書く時、国名の部分に“Armes Deutschland ! ”(哀れなドイツ!)と付け足しますね。
Leider(残念ながら).
Leider(残念ながら).
完
テヘラン、2006年12月13日