杉原千畝の偉業は実際には捏造されていたことを示すこの書籍の内容は、日本人にも外国人にも知られていないため、どちらにももっと周知されるようこの引用記事を作成しました。
杉原による日本通過ヴィザが署名、押印された時点で、リトアニア滞在中のユダヤ難民たちがナチス・ドイツによるユダヤ・ジェノサイドの危険を逃れるために第三国への出立を模索し始めたという経緯は、当時の一次資料をもってしては、いかにしても跡づけることができず、また、国際情勢、とりわけ独ソ関係の時系列の上でもおよそ辻褄の合わないことだからである。一九四〇年六〜七月、ソ連がリトアニアの共産化に乗り出した時点で、ナチス・ドイツの当地への侵攻はまずもって考えられず、また、ナチスによる反ユダヤ政策が、域外追放、域内隔離(ゲットー化)を経て無化・絶滅にシフトするのも、早くて翌一九四一年秋以降のことだからである。
これとは対照的に、JDC現地代表としてリトアニアのユダヤ難民支援に当たったモウジズ・ベッケルマン(7)が残した電文や報告書、スルガイリス※1がリトアニア中央国家古文書館から掘り起こしてくる一次資料、さらには、希少ながら、当時、人々がその場で書き残した手記――なかんずくテルシェイのラビ、ハイム・ステイン※2のヘブライ語手記(本書一六八頁)――からは、一九四〇年夏、一部のユダヤ住民、ユダヤ難民たちにリトアニア残留への大きな不安を抱かせたのは、ソヴィエトの全体主義であり、「忍び寄るナチスの魔手」などではなかったことがはっきりとうかがえる。
(中略)
一九四〇年の夏、「キュラソー・ヴィザ」と「杉原ヴィザ」が発給された時期、ユダヤ難民たちが出国を切願する理由として、新しいソヴィエト=リトアニア体制の脅威のみならず、ドイツ=リトアニア国境の彼方、また独ソ不可侵条約の敷居の向こうから彼らの身に及んでくる「ナチスの脅威」があったことを示す記載が一次資料のなかに埋もれていないか、筆者は、まさに目を皿のようにした。その結果として、以下、本書にそうした記載が見当たらないのは、純粋単純にその種の痕跡が「なかった」からである。そこに一点の欺瞞も操作もないことだけは、研究者としての倫理、そして、歴史を歴史として成り立たせる作業にたずさわる者としての誇りにかけて断言する。
22〜23ページ。
(7) 巻末「主なJDCメンバー略歴」参照※3。
※1 Gintautas Surgailis。
※2 Chaim Stein。
※3 Moses W. Beckelman。
以上が序文の重要な部分の抄録です。日本人なら、「モウジズ・ベッケルマン? ああ、分かる分かるー 有名人だよねー」となるでしょうが🤪、外国人にとってはカタカナ表記されても原文の綴りも発音も分からないでしょうから、綴りを私の方で特記しておきます。
以下からは千畝の嘘の暴露です。
[乖離点@]ユダヤ難民がナチスに捕縛される恐れ
一九七七年八月、モスクワにて、フジテレビ・モスクワ支局長、萱場道之輔が千畝(当時七十七歳)に行なったインタヴューより。
萱場――それで、独ソ戦が始まって(123)八月に引き揚げられるまでに、当時のリトアニアの連中で西に行きたい連中、あっちへ行きたい連中がビザを出してくれと、こういったわけですか。
千畝――それがね、ポーランド領から逃げてきた連中だと思っていた。ガリシアのほうかな。
萱場――あれが、ドイツになっちゃったから。
千畝――前の年にドイツが入ったから、どんどんドイツ人はユダヤ人を引っ張っていって、どっかの電気仕掛けで人を殺すところ。※1
萱場――アウシュヴィッツへ。
千畝――ああいうほうへ引っ張っていくっていうことでね。ユダヤ人は逃げ回っていた。それがどんどんやってきたわけね。ウィルノを通って。ヴィリニュスまで来たら日本の領事館がカウナスにあるということを聞いて、そして僕のところに雪崩を打って入ってきたわけね。これは僕、困ってね。僕がちょうど引き揚げ命令、モスクワ政府から受けてる。館を全部片付けなきゃいかんわね。〔……〕そこへなだれ込んできた。行くところがない、後ろからドイツが来るから、日本を通ってよその国へ行くんだと、通過だけのビザをくれといって頼んできたわけ。それですったもんだ、東京に聞いたけど東京は頑として応じない、いけない、ノータッチでおれと。と言ったってね、みんな僕の宿舎の窓のところまで集まってくるしね。何千人と(124)。
そもそもインタヴュー自体が時間軸に沿って行われているわけではなく、(この直前の個所では、一九四一年、ケーニヒスベルクの総領事館時代の思い出が語られている)、この時点、すなわち四〇年七月、ソヴィエト化直後のリトアニアにおけるユダヤ難民の状況説明が、三九年九月の第二次大戦開始時の記憶や四一年六月の独ソ開戦時の想像によって大きくかき乱されている可能性がある。たとえば、ユダヤ難民たちが、ただちに「アウシュヴィッツ」送致ではないにせよ(アウシュヴィッツ強制収容所の稼働開始は一九四〇年五月である)、ナチスの迫害を恐れ、「ウィルノ(ヴィルニュス)を通って」「どんどんやってきた」というのは、三九年秋〜冬の時期にあてはまり得る叙述だ。しかしながら、四〇年七月、国境が完全に封鎖済みであるばかりか、ドイツならびにドイツ占領下のポーランドとの境界に赤軍が大量配備されるにいたった時期について、リトアニアのユダヤ難民たちが、ナチスにより、アウシュヴィッツ、その他、「ああいうほう」へ「引っ張って行」かれる状況にあった、とするのは完全に史実に反している。
ヒトラーの第三帝国によるユダヤ政策が、ドイツならびにドイツ占領地域内において、当時、残虐非道を極めるものとなっていたとしても、国外ならびに占領地域外へ逃れ出たユダヤ住民まで、ゲシュタポなどを使って追跡させ、捕縛させていた(明らかに現地国家主権の侵害)といった事実はいずこにも確認されていない。もちろん、第二次世界大戦開戦後のリトアニアにも、カウナスのドイツ代表部を基地局のようにしてドイツの秘密警察や諜報員は配置されており、ポーランドからの避難者、とりわけ軍人、左翼活動家による反独地下活動に目を光らせていたに違いないが、その場合でも、とりわけ「ユダヤ人」が監視、追跡、捕縛の対象になっていたとは言えない。ましてや、一九四〇年六月十五日、ソ連軍のリトアニア再進駐とNKVD組織網の敷設という事態を受けて、ドイツによる秘密警察・諜報活動の自由度は急速に狭められていたと考えられる。
やはり、本書におけるここまでの一次資料調査の結果に示されているように、一九四〇年七〜八月、ユダヤ難民たち(しかも全員でなく一部)の国外脱出の動機は、もっぱらソヴィエト体制に組み込まれることに対する忌避願望であり、ナチス・ドイツからの逃避願望ではあり得なかった、と断ぜざるを得ない。
243〜245ページ。
(123) ここで聞き手の萱場は、おそらく「リトアニアのソヴィエト化」(四〇年七月)と言おうとして、「独ソ戦」(四一年六月)と言い間違えたのであろう(別の個所はで※2萱場自身が「独ソ[開戦]は、四一年六月ですね」と確認を促している)。
(124) このインタヴューの全文は、「資料D杉原へのインタビュー」として、古江孝治『杉原千畝の実像――数千人のユダヤ人を救った決断と覚悟』(ミルトス、二〇二〇年)に収録されている。
※1 現在の正史に於けるアウシュヴィッツのガス殺では、電気は使わない。2人は現在の正史では破棄されている主張である、「アウシュヴィッツでの高圧電流殺」プロパガンダを信じていた可能性がある。ボリス・プレヴォイ参照。
※2 原文通りだが、「では」の誤字。
[乖離点A]ガス室への言及
一九八二年二月、ジャーナリスト木元教子による千畝(当時八二歳)へのインタヴューより。
木元――その、やってはいけない、発給してはいけない、と言われながら、杉原さんはヴィザを発給なさったわけでしょう?
千畝――要するに、ナチにひっ捕まって、そして要するに、ガス中毒……、ガスの部屋へ放り込まれるわけですね。
木元――それは、わかってらっしゃった。
千畝――それは、あの、連中から喋るですからね。
木元――とすると、やはりどうしても、ご自分としては、東京サイドの反対はあるけれども、通過ヴィザは出さなくてはならない、とお思いになった。
千畝――そう(125)。
1940年夏の時点で、リトアニアはもちろん、ドイツならびにドイツ占領地域のいずれの場所についても「ガス室」の恐怖を云々することは時代錯誤である。ナチス・ドイツが、ユダヤ人の処遇を、域外への追放、域内での隔離(ゲットー化)を経て、域内での無化・絶滅へと内々にシフトし始めたのは一九四一年の秋頃のことであり、それが国策として正式決定を見たのが一九四二年一月、「ヴァンゼー会議」の場であった※1。たしかに、それ以前から、障害者の安楽死という非道きわまりない施策のため一酸化炭素(トラックからの排気ガス)が用いられていた事実はあるが、ユダヤ人に対して初めての集団ガス殺が行われたのは、一九四一年九月三日、アウシュヴィッツ第一収容所でのこと※2である(126)。よって、四〇年夏の時点で、リトアニア滞在中のユダヤ難民たちが「ガスの部屋へ放り込まれる」ことを噂ながらに耳にしており、そのことを彼らの側から千畝に「喋る」という事態は、時間軸の上ではまず成り立ちえない。
すでにこれら二つの乖離点をもって、右の晩年の千畝による証言は、みずからの数十年越しの記憶に、戦後になってナチスによるユダヤ人狩りとガス殺について知ったことが覆いかぶせられるという、「前後即因果の誤謬」の一種であった、と結論せざるを得ない。
246〜247ページ。
(125) 「運命をわけた一枚のビザ――四千五百人のユダヤ人を救った日本人」、一九八三年九月三十日、零時十分より、フジテレビで放映。
(126) マルセル・リュビー『ナチ強制・絶滅収容所――十八施設内の生と死』、菅野賢治訳、筑摩書房、一九九八年300頁。
※1 ヴァンゼー会議議事録については動画 ホロコースト論争 その8参照。
※2 正史(アウシュヴィッツ博物館)によると、ユダヤ人ではなく病気の収容者とロシア軍戦争捕虜が処刑されたという。その中にはユダヤ人がいたかもしれないが、「ユダヤ人に対して初めての集団ガス殺が行われた」という表現は誤っている。とはいうものの、そもそもこの正史は何にも基づいていないのだが。[『アウシュヴィッツ・カレンダー』によると、最初のガス処刑は、1941年9月3日に行なわれた。この日付は、ひとつの資料によっても確証されていないだけではなく、利用可能なあらゆる資料――これら自体が互いに矛盾している――ともまったく矛盾している。とくに、アウシュヴィッツ博物館によっても、絶滅派の歴史学によっても基本的とみなされているルドルフ・ヘスの証言とも矛盾している。] http://revisionist.jp/mattogno_02.htm
[乖離点B]ユダヤ難民を支援する高位の危険性
千畝の没から四年を経た一九九〇年、幸子による回想『六千人の命のビザ――ひとりの日本人外交官がユダヤ人を救った』(初版)より。
しかし、日本は四年前の一九三六年にナチス・ドイツと日独防共協定を結んでいました。日本領事館がユダヤ人にビザを発行したとなれば、それはドイツへの敵対行為ともなります。ゲシュタポに命を奪われかねない危険なことだということを、夫も私もよく承知していました(127)。
「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手を出さない(128)」
また一九三九年、幸子がパワシュ=ルトコフスカのインタヴューに答えて語ったところによれば――
「ビザを発給する」ことを決めて、外務省はクビになるかもしれない……危険性も有りました。コヴノ〔カウナス〕にはドイツ人もいましたから、そんなに大勢を隠すことはできないでしょう。ドイツ人に捕まったら、殺されるかもしれません。
その間も東京の外務省から「だめだ」と言ってきますけれども、そんなこと無視して書き続けました(129)。
しかしながら、時期の如何を問わず一九四一年六月二十二日の独ソ開戦以前、リトアニアの地でユダヤ難民に支援の手を差し伸べようとする人間(私人であれ、公人であれ)がゲシュタポに命をつけ狙われるという事例は報告されておらず、本書の歴史再構成の試みのなかでも、そうした状況はまったく確認されておらず、本書の歴史再構成の試みのなかでも、そうした状況はまったく確認することができない。かりにそうした事実があったならば、ベッケルマン、JDCヴィルニュス事務所の面々、そして地元リトアニアのユダヤ会衆内の難民支援活動家、リトアニア赤十字職員などが、真っ先に、最大級の身の危険を感じていなくてはならないはずである。
247〜248ページ。
(127) 杉原幸子『六千人の命のビザ――ひとりの日本人外交官がユダヤ人を救った』(初版)、朝日ソノラマ、一九九〇年、二一頁。
(128) 同、三三頁。
(129) エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ※1、アンジェイ・T・ロメル※2「第二次世界と秘密諜報活動――ポーランドと日本の協力関係」、『ポロニカ』、第五号、一九九四年、二六頁。文中、「そんなに大勢を隠すことはできない」とは、そのような多数にヴィザを発給した事実を秘密にすることはできない、の意か。
※1 Ewa Pałasz-Rutkowska
※2 Andrzej Tadeusz Romer
[乖離点C]「悪い人」の指示対象
同じく、幸子による回想『六千人の命のビザ』より。
「あの人たち何しに来たの?」
隣にいた長男の弘樹が聞きました。〔……〕
「悪い人につかまって殺されるので助けてくださいって言いに来たのよ」
「パパが助けてあげるの?」〔……〕
「そうですよ(130)」
このとき、もしもユダヤ難民たちのなかに、「悪い人に捕まって殺される」ことを恐れなくてはならない者がいるとすれば、それは反共産主義思想の主としてソ連側のブラックリストに挙げられていた政治活動家(たとえば前述のブンド指導者ボルフ・シェフネル※のような人物)であるが、その場合でも、恐れる相手は「ゲシュタポ」ではなく「NKVD」である。ここでも、「悪い人」という言葉の指示対象が「ソ連」から「ナチス」へと暗々裏にすり替えらえている。
総じて、幸子のナラティヴに満ち満ちているこのナチス恐怖も、リトアニア滞在中の実体験といいうより、戦後、ナチス・ドイツの蛮行について書物や映画などを通じて得た知識が、彼女の五十年越しの記憶に覆いかぶせられた結果と見るのが正しかろう。
248〜249ページ。
(130) 幸子前掲書『命のビザ』二二頁。
※ Boruch Szefner
[乖離点D]領事館閉鎖命令の時期は省略します。書籍を購入下さい。
[乖離点E]七月二十八日、本省宛電報の意味
私はこのように群衆に対し、本件処理にとっての基本方針を明らかにした上で、約二時間に渡ってポーランド脱出開始からカウナス入りまでの苦難、恐怖に満ちた決死行を聞かされました。これによれば、〔……〕ナチスのユダヤ人狩りを避けることのできる国は最早や、ヨーロッパには無い。従って兎にも角にもソ連、日本を経て第三国に移住するのであるという訳です137。
千畝の回想によれば七月十八日(木)、幸子回想の初版によれば二十七日(土)(筆者の推定によれば二十六日(金))、千畝と面会したヴァルハフティグ※1を含む五名が、前年の秋から冬、それぞれ経験したポーランド脱出の辛苦を語り、占領下のポーランド西部から漏れ伝わってくるナチスによるユダヤ人虐待の情報をも懸命に伝えようとしたことは確かであろう。しかし、その延長線上で、この代表者たちが、リトアニアの地すら、もはや「ナチスによるユダヤ人狩り」から身を守ることのできない場所になり果てた、という情勢認識を千畝に開陳したとの証拠は、物的にも状況的にも、いずこにも見出し得ない。
むしろ、おそらくこの会談のあと(千畝の回想によれば十日後、筆者の推定によれば二日後)、七月二十八日(日)に千畝が日本の本省に送った電文――この時期について残された五通のうち最初のもの――のなかに、ヴァルハフティグらとのやり取りが忠実に反映されている、と見るべきではないだろうか。
日本語:https://www.town.yaotsu.lg.jp/6930.htmの「七月二八日」の電報参照。
英語:https://www.town.yaotsu.lg.jp/6944.htmの「July 28」の電報参照※2。
一読して明らかなとおり、ここで千畝は「猶太人」のみを話題にしているのではなく、「ポーランド人、白系ロシア人、リトアニア人、猶太人」の全体にわたり、今次のソ連軍進駐、リトアニアのソヴィエト化という事態をつうじて急激に立場を危うくした人々の状況を包括的に収めている。簡潔に言えば、ポーランド人、白系ロシア人、リトアニア人、猶太人の別なく、また元からの住民、移流民の別もなく、政治家、官僚、軍人、あるいは非ないし反共産主義系の政治団体に属する人々がGPU(ソ連国家政治保安部)による厳しい取り締まりの対象とされ、一部はすでにサマーラなどソ連領の奥地へ集団移送され始めている現状を伝えたものだ。
たしかに千畝が述べるように、ソ連官憲による身柄拘束の危険にさらされた者が取り得る行動は、(一)農村部への潜伏、(二)ドイツ領への退避、(三)日本を経由しての移住、いずれかであっただろう。当然ながらユダヤ出自の者にとって(二)の選択肢は危険すぎるため、(三)の選択肢を取ることを考えた多くの人々が日本領事館に殺到し始めており、現下のリトアニア情勢がそのまま日本通過ヴィザの大規模な発給業務に直結しそうな雲行きであることが本省に報告されたわけだ。
ただ、ユダヤ出自ではなく、反独の嫌疑からもほど遠い人々にとって、ソ連警察の「魔手」を逃れるための格好の避難地は、とりもなおさずナチス・ドイツとその占領地であった。一説によると、一九三九〜四一年の期間をつうじてドイツに居を移したリトアニア人の数は四万人にも上ったという(140)。
統計数値などが残されていないため、推断に頼るしかないが、このとき、ソ連体制の確率によって立場を危うくし、ドイツないしドイツ占領地へ避難していったリトアニア人のなかには、それまでのリトアニア反ユダヤ主義を中心的に担ってきたタウティニンカイ党員も多く含まれていたはずだ。そうした人々は、同年十一月十七日、元駐独リトアニア大使カジイス・シュキルパ※3がベルリンで創設した反ソ抵抗組織「リトアニア活動戦線(LAF)」に馳せ参じ、反ボルシェヴィキと並んで反ユダヤの旗幟を掲げていくこととなろう(141)。よって、全体の構図としては、四〇年夏、リトアニア国内における反ユダヤ主義の危険は増大したのではなく、むしろ、ドイツ国境の彼方へといったん――つまり翌四一年六月、ドイツ軍とともに、また戻ってくるまで――遠ざかったのである。
ともあれ、右の千畝の電文中、少なくとも「今日までに逮捕せられたる者〔……〕『ブンド』派及『シオニスト』猶太人等にして」という部分は、ソ連官憲の動向についてヴァルハフティグら五名の代表から得られた情報にもとづいていたと思われる。その際、かりにヴァルハフティグらが、後年の千畝の手記にあるように「ナチスのユダヤ人狩りを避けることの出来る国は最早や、ヨーロッパには無い」として、日本通過ヴィザの発給を懇請したのだとすれば、なぜ〈その時、その場〉の千畝は、ソヴィエト化したリトアニアにあって、ことユダヤ難民の身には、ソ連警察の脅威に加え、ドイツ=リトアニア間の国境も独ソ不可侵条約の敷居も乗り越えてくるナチスの脅威が二重に迫っているという、もしも事実ならそれ自体のっぴきならぬ情勢観察を、本省への報告電文中ですっぽりと書き落としたのであろうか?
253〜257ページ。
(137) 千畝前掲書回想録※4、二九六〜二九七頁、傍点は引用書による。
(140) Masha Greenbaum, op. cit.※5, 1995, p.300.
(141) Eidintas, op. cit.※6, p.168.
※1 Zorach Warhaftig
※2 「6,000 poisoned Polish soldiers who were sent to Samara」とあるが、これは誤訳で、実際には1,600人。日本語原文参照
※3 千畝回想録「決断(外交官秘話)」、杉原幸子監修、渡辺勝正編著『決断・命のビザ』(大正出版、一九九六年)所収
※4 Škirpa Kazys
※5 The Jews of Lithuania, A History of a Remarkable Community 1316-1945, Jerusalem/New York, Gefen Publishing House, 1995
※6 Alfonas Eidinas, Jews, Lithuanians and the Holocaust, Versus Aureus, 2003.
[乖離点F]千畝がヴィザ発給の許可を本省に求めた形跡はない
千畝、幸子、いずれの回想においても、たとえ通過ヴィザであっても発給数が多い場合は、東京の本省の許可を必要とした、とされている。
自分に与えられた権限、ないし守らなければならない、規定及び常識の許す範囲で極力援助してあげたいが、何分大人数のこと故、単なるトランジットとはいいながら(註日本外務省の規定では入国査証発給には本省との事前打ち合わせを必要とするが、通過査証発給には事前請訓を必要とせず、領事独自の判断で処理してよいことになっている)、公安上の見地からも上司、即ち外務大臣に向って伺いを立てて、穏やかに事を処理していきたい142。
幸子の回想によれば――
数人分のビザならば、領事代理だった夫の権限でも発行できます。しかし何百枚、何千枚ともなると外務省の許可が必要です。夫は自分の考えでは即答できないことを告げ、その日の会談は終わりました143。
こうして、千畝は、日本通過ヴィザの発給を求めるこれら大人数のユダヤ難民の窮状を見るに見かね、その許可を本省に何度も(幸子によれば三度)求め、ことごとく拒絶にあった末に、省の意向に背いて行動することを決断した、とされているのだ。
千畝の回想録より。
最初の、即ち、第一回の私初本省宛電報の骨子は、上述の通りであったのですが、今一度繰り返せば以下の通りでした。
一、人道上、どうしても拒否できない。
二、発給対象としてはパスポート以外であっても形式には拘泥せず〔……〕
三、トランジットの性質を失わないため、ソ連横断の日数を二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日と推測し、この五〇日の間には何が何でも、第三国行のビーザも間に合うだろうという趣旨を織り込んだ請訓電を打ったが、やはり第一回回訓の通り拒否してきました。拒否の返電第二号では、大集団の入国には公安上、内務当局を初め旅客安全取扱上からも、敦賀、ウラジオストク間連絡船会社側も反対しているからといって、トランジット・ビーザといえども発給相成らぬ……と解答してきた(144)。
サーア私は考え込んでしまった。〔……〕
兎に角、〔……〕全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを発給してもかまわないとでもいうのか? それが果たして国益に叶うことだというのか? 苦慮の揚げ句、私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得ました。そして妻の同意を得て、職に忠実にこれを実行したのです(145)。
幸子の回想録より。
さて、ビザ発行について最初の〔右掲、七月二十八日の〕電報を送ったあと、夫も私もじりじりしながらその返事を待ちました。外のユダヤ人も落ち着かない様子です。本省に電報を打ったことは告げられていたので、五人の代表も結果を聞きに何度か出入りしていました。〔……〕
やっと返事がきました。外務省の判断は「否」。最終目的国の入国許可を持たない者にはビザを発行するなという意向でした。〔……〕
それでも夫はあきらめず、〔……〕第二の請訓電報を送りました。〔……〕が、外務省の以降は変わりません。〔……〕
外務省への三度にわたる電報には、いつも同じ返事が返ってきました。三度目の「内務省が大量の外国人が日本国内を通ることに治安上反対している。ビザ発行はならぬ」という回答に、夫の心は決まったようでした。
「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?(146)」
パワシュ=ルトコフスカが所有する千畝の未公開の報告によると――
八月一日、とくに領事館閉鎖に伴う残務整理もたくさんあったので東京との不毛な話し合いを打ち切ることに決めた。こうして八月一一日責任を負い、文字どおりみなに自主的にビザを発給し始めた(147)。
しかしながら、外交史料として残されたカウナス=東京間の電信記録からは、この繰り返された「許可願いと拒絶」という二人のナラティヴを跡づけることが、どうしてもできない。
一九四〇年七月二十八日(日)、カウナスの千畝が、リトアニア国内にあって新しいソ連体制の確立により立場を危うくした人々(ユダヤ出自に限らず)に関する右の情報を、日本の本省に打電したことは動かぬ事実だ。白石仁章は、幸子の回想録刊行から六年を経た一九九六年、『外交史料館報』にこの電報を採録し、
前掲〔幸子の〕『六千人の命のビザ』によると、杉原領事代理と本省の間ではヴィザ発給の可否について、三回に亙って電報のやり取りがあったとされている。そして、最初にヴィザ発給を求めた電報とされているのが次の〔本書右掲の〕電報である(148)。
と述べる。しかし、ある歴史的現在から直接「いま」に伝えられた史料の意味を読み解くに当たって、その歴史的現在から五十年後に書かれた回想録の方に準拠しようとする白石の手法は、どこか「逆立ち」してはいまいか。本来なら、とくに当時の日記や書簡に裏打ちされているわけでもなく、五十年の時間的距離をおいて記憶をたぐりながら書かれた回想録の方を、はっきりと日付が刻まれた一次的記録によって検証、批判、校訂していくのが歴史研究のあり方として正しいはずだ。
そもそも右の千畝の電報は、日本の外務省に対して「ヴィザ発給を求めた」ものなのだろうか? 本書の筆者の目に、それは淡々とした――しかも、限られた字数の中できわめて的確な――現状報告であり、白石が述べるように、日本の外務省に「ヴィザ発給を求めた」ものとは見えない(何度、文面を読み返しても、本省が「許可を求められているので応答せねばならない」と思うような形では綴られていない)。ましてや、後年の千畝や幸子が述べるように、ユダヤ難民たちがヴィザの発給を求めていることに対し、「人道上、拒否できない」旨を訴えたものとは、どうしても読むことができないのだ。「カウナス・リスト」上、その最初期の日本通過ヴィザの発給件数は、日付ごとに以下のようになっている。
| 七月九日(火) | 一 |
| 十五日(月) | 一 |
| 十六日(火) | 一 |
| 十九日(金) | 二 |
| (この間、二一日(日)、「リトアニア・ソヴィエト社会主義共和国」成立) | |
| 二十四日(水) | 四 |
| 二十五日(木) | 四 |
| 二十六日(金) | 十四(前述レヴィン・ステルンヘイム家の三名を含む) |
| 二十七日(土) | 四一 |
七月二十八日(日)の電報に見える「当館に押掛くる者連日百名内外に及び居れり」という千畝の言葉をそのまま受け止めるならば、七月二十四、五日頃から日本通過ヴィザの申請に訪れる者が増え始め(先述の通り、アメリカが特別船をペツァモに送り、自国民を退去させる、との報が流れた頃)、週末には百名程度にまで膨らんだ、という状況が浮かび上がる。それでも、まだヴィザの発給数が四〇の水準に留まっていることから、多くの者は、アメリカのような第三国の入国ヴィザが未入手の場合でも日本通過ヴィザを先に取得することができるのか、とくに、すでに噂として広まり始めていたに違いない「キュラソー・ヴィザ」をもって申請すれば日本通過ヴィザが発給されるのか、といった点を問い合わせる段階にあったのだろう。そして、実際に「キュラソー・ヴィザ」しか持ち合わせていなかったとおぼしき前述レヴィン=ステルンヘイム家の三名に、二十六名、日本通過ヴィザ発給されたことから、この週末、「まずオランダ領事館へ行ってキュラソーに関する署名をもらえば、日本通過ヴィザを出してもらえるそうだ」という情報が、カウナスからヴィルニュスにも運ばれ、難民たちのあいだで一気に拡散したことであろう。
この後、「カウナス・リスト」上の日本通過ヴィザの発給件数は以下のように推移していった。
| 七月二十九日(月) | 一二〇 |
| 八月一日(木) | 一五四 |
| 二日(金) | 一三五(以下、和文箇所スタンプ) |
| 三日(土) | 一三八(リトアニアのソ連正式加入) |
| 五日(月) | 一六六 |
| 六日(火) | 一二七(フートウィアト※含む) |
| 七日(水) | 二一一 |
| 八日(木) | 一七 |
| 九日(金) | 三二 |
| 十日(土) | 二一 |
| 十二日(月) | 十一 |
| 十三日(火) | 九十三(チェコ国籍四名含む) |
| …… |
つまり、千畝は、七月二十八日、本省宛の電報――後年の千畝は請訓電と言うが、筆者の目には報告電にしか見えないもの――への反応など待たずして、週明けの二十九日以降、領事代理の権限をもって大量のヴィザ発給に踏み切っており、翌三十日、難民代表のヴァルハフティグとその妻ナウマ(ナオミ)の分も含めて発給した日には、早くも一日当たりの発給数として最多を記録しているのである。
また、筆者がこれまでに世界じゅうで発見された「杉原ヴィザ」を調査した範囲で、千畝による証文の和文箇所は、八月一日(木)までが手書きで、二日(金)以降はスタンプとなっている(149)。特製スタンプの作成にもやはり数日を要したはずであり、その発注は七月二十九日(月)の週の初めの方、すなわち、二十八日(日)の本省宛電報の直後であったと見られる。千畝が、本省の指示など仰がず、みずからの領事代理としての権限をもって、早い時期にヴィザの大量発給を決断していたことの証拠である。
大量発給の開始から十日ほど経た八月七日(水)、千畝は本省に打電し、すでに国家としては存在しないチェコスロヴァキアの旅券に日本通過ヴィザを与えることの是非を問うている(これこそ、まさに請訓電)。
「チエツコ」旅券に通過査證を与へ差支なきや回電ありたし尚当地独逸公使館に於て右に例外として独逸通過査證を与ふる場合あり(150)
これに対して五日後の十二日(月)、本省より、その旅券がいまだ有効期限内で、行先国の入国許可が決定済みの場合に限り、通過ヴィザを発給してよい、との回答があった(151)。これを受けて千畝は、翌十三日(火)以降、二十数名のチェコ国籍の申請者にヴィザを発給している。
よって、《美浜の判断により中略》千畝と幸子の回想における一九四〇年七月下旬〜八月上旬をめぐるナラティヴは、残された電信そのものの文面、ならびに「カウナス・リスト」に示された発給数の推移から浮かび上がってくる現場の状況とはいかにしても相容れない、と断ぜざるを得ない(152)。
あくまでも一次資料が示す限りにおいて、この間、千畝は、チェコ国籍者の旅券に日本通過ヴィザを発行してよいか、一度、本省に紹介したのみであって、ヴィザ発給事態の許可を本省に求めたわけではない。
257〜265ページ。
(142) 千畝前掲回想録、二九七頁。
(143) 幸子前掲書『六千人の命のビザ』、二五頁。
(144) この個所の千畝の記述は、後出、九月一日に千畝から本省宛に発せられ、何かの手違いで「八月一日」と日付が誤記されてしまった電報と、本省発、九月三日の回電の内容に一部故王している。
(145) 千畝前掲回想録、三〇〇頁。傍点は引用者による。
(146) 幸子前掲書『六千人の命のビザ』、二九〜三三頁。傍点は引用者による。
(147) パワシュ=ルトコフスカ、ロメル前掲記事、二四頁。
(148) 白石前掲論文、六二頁。傍点は引用者による。
(149) このスタンプの作成を考案したのが、千畝と協力関係にあったポーランド人情報将校「ペシ」ことダシキェヴィツ中尉であったという説がある。坂東宏『日本のユダヤ人政策一九三一〜一九三五――外交史料館文書「ユダヤ人問題」から』、未来社、二〇〇二年、一七二頁。
(150) 昭和十五年八月七日発、在カウナス杉原領事代理より松岡外務大臣宛電報第五八、白石前掲論文六三頁。
(151) 同、六三〜六四頁。
(152) 幸子は、一九九三年の回想録・新版のなかで、千畝がソ連領事館の意向も確認したうえでヴィザの発給を始めた朝のことについて、初版の「その日も朝早く、まだ暗いうちから」(三五頁)から、「一九四〇年(昭和十五年)七月二十九日〔月〕の朝早く、まだ暗いうちから」という、はっきりと日付の入った表現に改めている。しかし、もしそうだとすると、人々が列をなし始めた二十四、五日からわずか数日内にすべて(ヴァルハフティグらとの会談、三度にわたる請訓電と否定的な回電のやり取り、ソ連領事館訪問)が行なわれたこととなり、時系列の上でますます矛盾が生じる。
※ Nachum Tzvi (Nathan) Gurwirth
[乖離点G]ソ連側の意向を確かめるタイミングは省略します。書籍を購入下さい。
[乖離点H]千畝がヴィザ発給の許可を本省に求めた形跡はない
上述のとおり、八月七日、チェコ国籍の旅券の扱い方について本省に問い合わせた千畝は、その回答を待ちながら、九日(金)、別件につき新たな請訓を行なった(これが請訓電としては二通目)。
当国避難中の「ベルグマン」外約十五名の有力なる「ワルソー」出身猶太系工業家の一行は南米に移住すべく当館の敦賀上陸通過査證(当館は通過査證には滞在十日限と註記し居れり)を得たるが途中本邦企業団に対し其の資本及経験提供方折衝を試みたき趣にて一ケ月滞在許可方願出たる処何等容疑の点を認めざるに付右様許可し差支無きや折返し回電ありたし(電信料本人負担)(157)※
八月九日といえば、「カウナス・リスト」通し番号で一五六八番まで、つまり、記録されている全二一四〇通の日本通過ヴィザの七四パーセントまでがすでに発給を終えた頃である。しかも、千畝はここで「避難中」の者に日本通過ヴィザを発行してよいかどうか、本省の指示を仰いでいるわけではない。発給済みの数にこそ言及はしていないが、「避難中」の者にすでに日本通過ヴィザを発給した事実をことさら秘する様子もなく(それが現地公館の裁量である以上、秘する謂れとてないわけであるが)、ある受給者重ねて日本滞在期間を一ヵ月まで延長して欲しいと求められたため、その可否を本省に照会しているのだ。
五日後の十四日、これに対する本省からの回答が届く。
「南米移住の猶太人十六名本邦通過に関する件」
貴電第五九号に関し
右一行の本邦滞在方に付ては本邦上陸許可後の問題と致度し尚此の種の者に関し本邦通過査証を与え得るは行先国の入国許可手続完了の者に限るに付若し同人等が右手続き未了なるに於ては上陸も許可せられざる次第なるに付右御含置あり度し(158)
つまり、十日を超える滞在の可否は上陸許可後の問題であり、在外公館の職責としては、あくまでも通過ヴィザの申請者が最終渡航先のヴィザを確保済みかどうか、正しくチェックすることに徹して欲しい、という型通りの指示である。本省の側では、申し出の内容から推して、当人らが日本での滞在延長を求めているのは、まさに日本以遠の渡航のための条件を日本の地で整えるためではないか、という疑いを禁じ得なかったのであろう。そこで、現地公館としては、くれぐれも最終渡航先の査証が整っていない者に通過ヴィザを発給したりすることのないようにと、従来の指示を繰り返したわけである。
少なくともこの二度目の請訓と回訓について言えば、千畝、幸子、両者の回想中で繰り返されているように、千畝が日本通過ヴィザの発給自体の許可を本省に求めたのではない。単に、すでに自身の判断で通過ヴィザを発給済みのユダヤ難民からなる特別許可を求められたことにつき、本省に問い合わせたにすぎないのだ。それに対して本省は、滞在延長お可否は日本入国後の問題であって、現地公館としては、ひたすら規則どおりのヴィザ発給を心がけてもらいたい、と念を押したにすぎず、通過ヴィザの発給自体を制止したり、禁止したりしようとしたわけではない。
千畝からの請訓電に見える「ベルグマン」に相当する名前としては、「カウナス・リスト」上、八月三日、通し番号一〇二四で日本通過ヴィザを取得したポーランド国籍者Simon Bergmanがある。筆者が別途作成している難民リスト上では、翌四一年二月十四日に敦賀に到着し、その後、上海に移動して、十一月十日、上海ポーランド領事館で居住者登録を行なったシムソン(シムション)・ベルグマン(Simson/Szymszon Bergman)が、綴りの酷似をもってそれに対応している。
このベルグマンが、八月三日、おそらくは「キュラソー・ヴィザ」を渡航先の根拠として日本通過ヴィザを取得し、その後、日本通過期限の十日間のみでは、アメリカ、その他、第三国へ向かうための正規ヴィザを申請し、取得するには短すぎると考え、仲間十数名と相談した結果、「其の資本及経験提供方折衝を試みたき趣」という名目で日本滞在期間を1カ月に延長してもらう可能性を模索したのだろう。もしもこの人物が上海で登録を済ませたシムソン・ベルグマンであったとすれば、おそらく、翌四一年二月、前年夏に取得した「キュラソー・ヴィザ」と日本通過ヴィザにものをいわせて来日しながら、依然、それ以遠の渡航を可能とするヴィザの取得にはいたらず、上海行きを余儀なくされたものと推測される。
269〜271ページ。
(157) 昭和十五年八月九日発、在カウナス杉原領事代理より松岡外務大臣宛電報第五九号、白石前掲論文、六四頁。
(158) 昭和十五年八月十四日午後八時三〇分発、松岡外務大臣より在カウナス杉原領事代理宛電報第二一号、同、六四〜六五頁。
※ 今回の引用は日本人のみならず外国人にも杉原千畝の真実を知ってもらうためのものであるが、この電報は電報の為に省略された文章で、恐らく正確には機械翻訳されないであろうことから、また、引用している筆者による要約も少ないと感じたことから、私の方で分かりやすいよう書き直します。
リトアニアに避難中の「ベルグマン」他約十五名の有力なる「ワルソー」出身ユダヤ系工業一族の一行は、南米に移住しようと当領事館が発行した敦賀に上陸する通過ビザ(当領事館は通過ビザには滞在十日限と註記している)を得ているが、日本上陸中に日本の企業団に対し自身の資本及び経験の提供に関する折衝を試みたいと、一ケ月の滞在許可を願い出ている。何等の容疑の点を認められないので、これを許可して差し支えないだろうか。折り返し回電願う(電信料本人負担)(157)
[乖離点I]千畝が本省から求められたこと
ところが、八月九日、千畝が「ベルグマン」の件を本省に照会し、十四日、本省がそれに対して応じているあいだにも、福井県の敦賀港入管では厄介な事態が発生していた。
八月十三日、『福井新聞』の朝刊記事より。
去る十日敦賀入港の欧亜連絡船ハルビン丸で来朝したリスアニア人ウェルドヴエルカスさん(三九)同国人農夫カツフランさん(三四)と其の家族三人は旅券査証及び見せ金の不足のため入国禁止となり同夜敦賀出帆の北河丸で浦塩へ送還された、ヴエルカスさんはニユーヨークへカフランさん一家はカナダへ赴く途中でいづれも動乱の地より新しい天地を求めて行く途中だつただけに上陸が出来ない理由を聞かれてがつかりしてゐた(159)
記事中、「ウエルドヴエルカス」は、「カウナス・リスト」第三番Owei Feldberg/Feldbergas(日本通過ヴィザ取得日、七月十六日)、「カツフラン」は、同第二番Moses Kaplan(日本通過ヴィザ取得日七月十五日)であったことが確認されている。いずれも「カウナス・リスト」の国籍欄には「リトアニア人」と記され、Owsei(ロシア語で「イェホシュア」に相当)、Mosesという名前から、そのユダヤ出自もほぼ確実視される。いわゆる「ユダヤ難民」ではなく、一九四〇年六月、ソ連軍のリトアニア進駐以前から、北米への移住準備を始めていた人々と見られる(「ウェルドヴエルカス」の方は少なくとも五月八日にカウナスでアメリカ入国ヴィザを取得していることが「太平洋航路乗客リスト」から判明している)。いずれにせよ、「カウナス・リスト」通し番号一番、ドイツ国籍のSiegfied Hopfer(五月十日、カウナスでアメリカ・ヴィザを取得、八月七日、神戸から「日枝丸」でアメリカに向けて出航)に続き、千畝が発給した日本通過ヴィザをもって敦賀に到来した最初の人々である。
しかし、「ウエルドヴエルカス」の方は所持金不足、「カツフラン」一家の方は所持金不足と査証不備の両方を理由として敦賀での上陸を拒まれ、同日夜の「河北丸」でウラジオストクに逆送されてしまった。彼らはウラジオストクでも上陸を拒否された末、九日後の八月十九日、同じ「河北丸」で敦賀に舞い戻ってくることとなるが、この日本海一往復半の顛末については他所に譲る(160)。確かなことは、「ウエルドヴエルカス」「カツフラン」いずれの事例についても、日本通過後の行先国の入国手続きが完了しており、日本到着時に二五〇円異常の提示金を所持していることを必須条件と定めた、一九三八年十月七日、近衛文麿外務大臣の訓令「猶太避難民の入国に関する件」に明らかに違反する措置であったにもかかわらず、ウラジオストクのソ連当局が逆送者を受け入れない以上、日本側としてはほかに如何ともし難く、しぶしぶ、再上陸を認めざるを得なかったということだ。
こうした混乱をうけて、日本外務省は、八月十六日、カウナスの千畝に宛てて以下を打診した。
「避難民の取扱方に関する件」
最近貴舘査証の本邦経由米加行「リスアニア」人中携帯金僅少の為又は行先国の入国手続未済の為本邦上陸を許可するを得ず之が処置方に困り居る事例あるに付此際避難民と看做され得べき者に対しては行先国の入国手続を完了し居り且旅費及本邦滞在費等の相当の携帯金を有するにあらざれば通過査証を与へざる様御取計ありたし(161)
ここでも本省の意図は、定められた条件を満たした者にしか通過ヴィザを発給しないよう指示することにあり、通過ヴィザそのものの発給を禁じようとするものでないことは一目瞭然である。ただ、千畝がこの電信を受領した八月十六日には、「カウナス・リスト」通し番号一八四三まで(全体の八六パーセント)がすでに発給を終えており、そうした指示も完全に遅きに失していた、というにすぎないのである。
いずれにせよ、ここではっきりと確認しておくべきことは、従来の「命のヴィザ」言説のなかで了解事項とされてきたように、「千畝からの度重なる伺い立てにもかかわらず、日本外務省がユダヤ難民への日本通過ヴィザの発給を抑制、禁止しようとした」といいう事実は、残された電文のやり取りからは毫も跡づけられない、ということだ。むしろ千畝は、七月末、本省に伺いを立てることなどせず、すでにかなり弛緩した発給業務に着手していた。ここで「弛緩した」とは、(一)行先国の入国ヴィザがなくとも、「キュラソー・ヴィザ」あるいは「宣誓供述所※」(後述)のたぐいをもって行先国の入国手続き完了と同等とみなし、(二)二五〇円異常の提示金の確認をも厳格に行なっていないようであった、という意味である。その結果、八月中旬早々に敦賀港入管で生じた混乱について、現場から報告を受けた本省は、ひたすら従来の入国管理規則の遵守を千畝に促したわけである。
272〜274ページ。
(159) 「見せ金不足で/外人の入国禁止/河北丸で浦塩へ送還」、『福井新聞』、一九四〇年八月十三日(火)、朝刊三面。
(160) 菅野賢治「『福井新聞』に見る戦時期日本へのユダヤ難民到来――第一部、一九四〇年」、神戸・ユダヤ文化協会『ナマール』第二十二号、二〇一八年。
(161) 昭和十五年八月十六日午後八時〇分発、松岡外務大臣より在カウナス杉原領事代理宛電報第二二号、同、六六頁。
※ 原文通りだが、宣誓供述書の誤字
[乖離点J]内務省と陸軍の介入は一部のみ引用します。全文は書籍を購入下さい。
外務省は千畝に対し、ヴィザの発給そのものを制止したのではなく、単に発給時の厳格な規定順守を求めたのだった。よって、その事実として跡づけることのできない「制止」の背景に内務省と陸軍の介入、圧力があったか否かを論じること自体が、机上論、砂上の楼閣になってしまうのだ。
290ページ。
以下、同時代のJDCの文書を引用します。
現地リトアニアの被支援者たちの一部がリトアニアのソヴィエト化という事態をうけて国外脱出の可能性を真剣に考え始めたのは、一九四〇年七月初めから半ばにかけてのことであったと言えそうだ。
これと確実に同期して、難民たちの国外における代弁者、支援者たちもが、もはや現地での共同支援ではなく国外への移住支援へと重心を移す必要を感じ始めていたことを示す例証が、以下、七月十九日、JDCヨーロッパ評議会議長バーナード・カーン※1からアメリカの正統派ユダヤ教のラビ、レオ・ジャング(エリヤフ・ユング)(185)に宛てられた手紙である。
親愛なるラビ・ジャング
今朝、われわれは、ロンドンの二人のラビ、アブラムスキー(186)とジェイコブ・ロウゼンハイム(187)から以下のような電信を受け取りました。
「リトアニア・イェシュバーのラビと学生が大いなる生命の危機にあり、一部アメリカ、一部パレスティナへの緊急避難が急がれる。ユダヤ教の英雄たち数千人を無化・絶滅(annihilation)から救うべく、「アグダット・ハ=ラバニー厶(アグダス=ホ・ラボニーム)」(188)と協議されたし」
ご存知の通り、われわれは、リトアニア代表(ベッケルマン)をつうじて、現地のラビたちが何を必要としているか、十全に情報を集めてまいりましたし、合同分配委員会は、その手持ち資金の許す限りにおいて、リトアニアのラビたち(そこにポーランド難民として身を置くラビたちも含め)を支援してきました。しかし当然ながら、彼らのためにアメリカやパレスティナに別の避難地を見つけてやる、という段になると、それはわれわれの力量を超えるものとなります。
私が把握している限りでは、本邦〔アメリカ〕のシオニストや労働派も、自分たちの同胞について同じような問題に直面し、ワシントンに〔陳情のための〕代表団を送り込んでおります。そして、労働派は、指導者の一部をアメリカに呼び寄せるため、一時滞在ビザを五十通余り入手することに成功したとも聞いております。加えて、ラビ、スティーヴン・S・ワイズ※2とナフム・ゴルドマン博士※3が、シオニストの友人たちの便宜を図り、近々ワシントン行きを計画している、とも言われております。もしかすると、本邦の「アグダット・ハ=ラバニーム」も、リトアニアとラトヴィアの傑出したラビたち一部のため、ワシントンとの折衝を希望するかもしれません。これらラビたちの境遇は、あなたもよくご理解なさっておられるとおり、リトアニアとラトヴィアがソヴィエト化されるとき、大きな危険に見舞われることになります。そして、その事態は、数週間以内、あるいはより間近な将来に到来するかもしれないのです。〔……〕
当然、そのような大人数を対象として大がかりなことができるかどうか、疑問ではあります。しかし、もしかすると、その一部でも助けてやることはできるかもしれません。彼らのためにパレスティナへの渡航証明書を確保してやる可能性について、私はよく存じません。いずれにせよ、ロシア政府は、人々がリトアニアからロシア、シベリアを経由して移住することを今のところまだ許可しているけれども、それもリトアニアがソヴィエト国家の完全な一部になるのと同時に打ち切られるかもしれない、と言われております。
この件について、このようにあなたのご注意を喚起したいと思います反面、私といたしましては、合同配分委員会が、こうした個々人の移送にかかる費用を提供することができるとの保証も、当然ながら、いたしかねるという点を申し述べておきたく存じます。
むろん、状況のなかでわれわれにできる限りの支援を行うため、最善を尽くす、ということに変わりはございませんけれども(189)。
今日のわれわれの歴史語彙集のなかで、「無化・絶滅(annihilation)」という言葉に出会うとき、それはただちに、そしてほぼ排他的に、ナチス・ドイツによるユダヤ教徒・ユダヤ人のジェノサイド、いわゆる〈ホロコースト〉を意味する。しかし、少なくともこの時期(一九三九〜四一年)については、その語がソ連体制下にある反宗教政策、少なくとも反ユダヤ教政策を指して用いられていたのである。
304〜306ページ。
(185) Leo Jung (Eliyahu Jung, 1892-1987).アメリカにおける近代政党はユダヤ教を代表するラビ。「アメリカ・ベイト・ヤアコヴ」会衆を率いた。
(186) Yehezkel Abramsky (1886-1976).一九三一年、ソ連からイギリスに移った正当はユダヤ教ラビ。ロンドン・ユダヤ教法廷(ベイト・ディン)の長。
(187) Jacob Rosenheim (1870-1965).ドイツに生まれ、イギリスに学んだあと、一九二〇年、アメリカに移住した正統派ユダヤ教ラビ。
(188) 「アメリカ・カナダ正統派ラビ連名」(The Union of Ortodox Rabbis of the United States and Canada (UOR))のヘブライ語、イディッシュ語名。
(189) NY_AR3344_00056_00477※4。
※1 Bernhard Kahn
※2 Stephen Samuel Wise
※3 Nahum Goldmann
※4 JDCニューヨーク本部所蔵文書。数字は文書番号。
先の三月にルヴァヴィチ派の最高指導者シュネールソン※1とともに、ラトヴィア、リガからアメリカへの脱出に成功したラビ・グラリー※2からも、以下のような「覚書」とともに、ソ連領内に残る同宗者たちへの支援要請が重ねて行われていた。
一九四〇年八月九日
ニューヨーク、アメリカ・ユダヤ合同分配委員会 御中
《ロシア本土ならびに昨今ソヴィエトに占領された地域でソヴィエト支配下に置かれたユダヤ教徒の立場に関する覚書》
昨年一年をつうじ、われらの民を立て続けに襲った難事と不幸が、ソヴィエト・ロシアに住むわれらの同胞たちの苦境に暗い影を落としております。
ロシアのユダヤ教徒たちは、不幸なるかな、何年にもわたり無視され続けてきました。彼らはいま、かつて彼らとともにあり、彼らを助け、励まし続けた古き友にして庇護者、ジョウゼフ・A・ロウゼン※3博士の不在の大きさを通説に感じております。博士がロシアを去って以来、その席の空白は痛々しいまでに感じられ、わが敬愛する義父、ラビ・I・シュネールソンの仲介によりJDCから散発的に届けられる支援を除けば、事実上、いかなる援助も彼等に対して行なわれることがありませんでした。
昨今のソヴィエト拡大は、ポーランド、ルーマニア、バルト諸国のわれらが同胞たち、数十万人を次々と飲み込んでいきました。
これら哀れなユダヤ教徒の命運は、いったい如何なるものでありましょうか?
彼らもまた、ソヴィエトの党機構にからめ取られ、完全なソヴィエト市民となり、ソヴィエトの監護と法のもとで働き、生活することを余儀なくされるのでしょうか?
私は確信をもって申し上げます。これら不幸なるユダヤ教徒たちの大多数は、のけ者、無法者と見なされ、宗教と伝統的ユダヤ教への帰依、民族主義意識、資本主義的過去、その他、あまたの理由により迫害の対象とされるでありましょう。彼らには、職業も、その他の生活の糧も与えられず、そのささやかな焦点は閉鎖され、宗教指導者とシオニズム指導者は狩り出され、禁則を命じられ、その家族は飢えに追いやられるでしょう。
新しい生活環境のなかで同化の途に着こうとするごく少数の者を除き、ソヴィエト占領下のわれらの同胞たちの立場は、ナチス占領下より恵まれたものとは決して申せません。むしろ、ナチスに牛耳られた地域に住むわれらの同胞たちがJDCの関心の的となり、その庇護を受け、JDCの力が及ぶ限りの支援に与り、つまるところ忘れ去られてこなかったのに対し、ソヴィエトが牛耳る地域に住むわれらの同胞は、言うなれば、みずからの傷をみずから嘗めるしかない状態に捨て置かれ、物心いずれの面での援助も一切受けてこなかったように思われます。
よって私は、JDC指導者のご関心をこの嘆かわしい状況に向けていただきたく、ロシア本土ならびに新しくソヴィエトに占領された地域絵ソヴィエトの支配下にあるわれらの同胞への支援と救済の問題をご検討いただけますよう、お願い申し上げる次第です(197)。
一九四〇年夏、ロシアならびに新しくソ連の統治に組み込まれた国や地域におけるユダヤ教徒の苦境を直截に描き出す、きわめて貴重な資料である。
ここでラビ・グラリーが念頭に置いているのは、なによりもルバヴィチ派の同胞たちのことであるが、そのほかにも、「ユダヤ人」という民族的アイデンティティーに拠って立つ人々や、ユダヤ出自の「資本家」であるがゆえに外部からことさら「ユダヤ人」視される人々、さらには「宗教と伝統的ユダヤ人」(religion and traditional Judaism)という、一見、畳語的な表現をもって、いわゆる正統派のユダヤ教徒集団のみならず、ユダヤ教の実践を日常生活の最低レベルに押しとどめている人々までをも含め、その全体が、新たなソヴィエト体制下で確実に受けることとなる物心両面での被害を言い尽くそうとしている点が注目される。
旧来のソ連領ならびに新たにソヴィエト化された国々に身を置く同宗者たちと不断の連絡を取ってきたシュネールソン、グラリーの立場から、その時、リトアニアにあって「ユダヤ」の名を冠する人々を見舞った危機が何であったのか、これほど直截に表現した文書もほかにないといってよい。「ソヴィエト占領下のわれらの同胞たちの立場は、ナチス占領下より恵まれたものとは決して申せません」――もとより、ラビ・グラリーのこの一文だけをもってして、一九四〇年夏のリトアニアについて「ナチスの魔手」云々を語ること自体の不条理が認識されてしかるべきだったのである。
317〜318ページ。
(197) NY_AR3344_1052_2of2_1056_3of3_00631。傍点は引用者による。
※1 Yosef Yizhok Schneersohn
※2 Shemaryahu Gurary
※3 Joseph A. Rosen