FDRは無条件降伏に執着していました。これはWikipediaにも書かれている情報なのですが、その情報を提示する際に出典としてWikipediaを引用するのは心情的に憚られますし、無条件降伏がどう受け止められたかまで知っておく価値はあると思い、引用します。
カサブランカ会談では主として軍事問題が協議された。しかし、ここで重要なのは、この会談で、無条件降伏の要求がされたことであった。
公式会談の終了(一九四三年一月二十四日)にあたって、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は記者会見を開いた。会見の最後にルーズベルトが、非公式ながら、次のように自身の考えを付け加えたのである。
〈(私とチャーチル首相は)ドイツ、日本およびイタリアには無条件降伏を要求数Rことを決定した。9〉
これについてチャーチルは次のように回想している。
〈大統領が、すべての敵国に無条件降伏を要求すると一月二四日の記者会見で述べるのを聞いた時にはいささか驚きを感じた。イスメイ将軍も同様に驚いたようだった。私は大統領に続いて発言したが、彼を支持し、彼の言葉を追認した。10〉
チャーチルは、ハリー・ホプキンスがルーズベルトから聞いた言葉も引用している。
〈突然記者会見が決まって、ウィンストンも私も十分な準備ができていなかった。その時に(南北戦争時に)グラント将軍が南軍に無条件降伏を要求したことを思い出した。それで、気づいた時には(三国に)無条件降伏を要求すると言ってしまっていた。11〉
ルーズベルトの顧問シャーウッドも、ホプキンスの話を基に次のように書いている。
ルーズベルトは、彼の発言(無条件降伏の要求)についてチャーチルに責任はないとした。ルーズベルトは自身の発言は予め考えていたものではなかったことを示唆していた。12
参謀本部はこの件について事前に意見を求められていなかった。ウィリアム・リーヒー提督は自著の中で次のように書いている。
私が知るかぎりこの件(無条件降伏要求)については、合同参謀本部は意見を求められていない。軍事的観点から見れば、無条件降伏要求は、軍事作戦の遂行に新たな障害になった。敵に無条件降伏を要求すれば、(敵は最後まで戦うことになり)敵を壊滅させるしかなくなるからである。戦いが終わる前に、条件付き降伏を要求したほうが我々に有利であると思われる場面がいくつかあった。しかし、その選択肢は許されていなかった。13
こうした記述に鑑みれば、(無条件降伏要求は)ルーズベルト氏一人の責任であろう、しかしチャーチル氏は別な説明の中で、彼はその要求を発表することを認め、ルーズベルトが彼に代わって発表したとも言っている。
〈冷徹な熟考を重ねた上で、カサブランカ会談の声明ですべての敵国に無条件降伏を要求することを大統領は決定した。私は我が国の戦時内閣の代表としてそれに同意していた。我々が無条件降伏に固執したことで、一般民衆への残虐行為が発生し、連合国の勝利に汚点を残したという非難はあたらない。14〉
一九四三年二月十二日、ルーズベルト氏はホワイトハウス特派員協会で、あらためて無条件降伏要求を表明したのである。15
無条件降伏要求は戦いの続く中で何度も繰り返された。この要求によって何が起きたかについては、ここではっきりと述べておきたい。
アルバート・C・ウェデマイヤー将軍は、カサブランカ会談の時期には参謀本部の時期には参謀本部の作戦計画部門にいた。彼は自著の中で、ルーズベルト氏の無条件降伏要求声明について次のように書いている。
〈あの無条件降伏要求声明によって、ドイツ軍を最後の一兵まで戦わざるを得ない状況に追い込んでしまった。私はこの状況に憂慮した。ドイツには少なくない反ヒトラーの人々がいて、彼を排除したいと考えていた。我々の考えている以上の人々がそう願っていた。しかし、反ナチスとは違うタイプの反ドイツの感情も(わが国には強く、それがよく理解できなかった。無条件降伏要求によって、ドイツ人は一丸になって戦わざるを得ない状況に陥ってしまった。16)〉
カサブランカ会談の七ヵ月後(一九四三年八月)のことであるが、ホプキンスが第一回ケベック会談の場に、ワシントンの軍の最高レベルの人物からの覚書を持参したことを、シャーウッドが明かしている。その覚書には、ドイツへの無条件降伏要求によってドイツは壊滅し、戦後のヨーロッパはロシアによって支配されることになるだろうと書かれていた。17
ルーズベルト氏も自らの無条件降伏要求がもたらすだろう状況が心配になったのだろう、一九四三年八月には次のような声明を出した。
〈枢軸国の支配下にある人々は、無条件降伏を恐れる必要はない。無条件降伏に同意すれば、解放された人々によって、自らの選択による自由な政治的行動が可能になる。また経済的安定も得ることができる。この二点は(設立される)国際連合が目指す重要な目標である。無条件降伏によって、ナチスに代わって国際連合が新たな専制者となるようなことを心配する必要はない。18〉
スターリンは無条件降伏要求には抗議した。彼も事前の協議を受けていなかった。カサブランカ会談から一〇ヵ月後のテヘラン会談では、彼の考えを示す次のような覚書の一文がある。
〈スターリン元帥(Marshal Stalin)は、戦争手段として見た場合、ドイツに課す条件を定義しない無条件降伏要求の方針が適当であるか否かについて問うている。無条件降伏要求は条件を曖昧にするものであり、それがドイツ国民を一つにしてしまう逆効果になりかねない。条件降伏を明らかにしておけば、仮にその条件がどれほど厳しい者であっても、ドイツ国民は、何を覚悟しなくてはならいないかをはっきりと認識できる。スターリン元帥は、そのほうがドイツの降伏をはやめるのではないかとの意見である。19〉
ハル国務長官はテヘラン会談の終わった一九四三年十二月十七日、アイゼンハワー将軍の参謀から電信メッセージを受けた。そこには、テヘランでは、スターリンもチャーチルも無条件降伏要求の方針には反対であったと理解していると書かれていた。20ルーズベルトはハルに対して、この条件を変えるつもりはないと述べた。21
一九四四年一月半ば、ハルはこの問題を再度提起した。条件を詰める対話の可能性について言及したのである。大統領は一月十七日付の文書でこれも拒否したことがわかっている。22
一九四四年二月二十二日、チャーチルは英国議会の演説で、ルーズベルトの無条件降伏要求に対するドイツの厳しい反応を和らげることを試みた。
〈ここではっきりとさせておきたいのは、無条件降伏によって、ドイツ国民が奴隷状態に置かれるとか、破滅させられるようなことにはならないということである。23〉
*訳注:Sir Basil Henry Liddell-Hart、英国の軍事評論家。
ハンソン・W・ボールドウィンは『ニューヨーク・タイムズ』の編集者で軍事を専門とするが、彼の意見は次のようなものだった。24
〈(無条件降伏は)おそらく、この戦争における最大の失敗となるだろう。先の大戦では、ウィルソン大統領は、ドイツ皇帝および軍国主義的ユンカー層(地主貴族層)とドイツ一般国民の間にはっきりと違いがあることを示した。今次の戦いでは、スターリンは、ヒトラーおよびナチスと一般国民との間に違いがあるとした。ドイツ軍部の間にも前者との溝があるとしていた。こうした溝に楔を打ち込む、つまり支配する者と、される者を離反させる機会を見逃していない。しかしその機会は、ルーズベルトとチャーチル(の無条件降伏要求)によって失われてしまった。無条件降伏要求は、無条件の抵抗を生む。反ヒトラー勢力の意志を削ぐ。その結果、この戦争は長引くことになろう。そして死ななくてもよい犠牲者を生むだろう。和平をむしろ避けようという動きの助長につながるだろう。
無条件降伏要求は外交の政治的破綻である。戦争目的は戦いにまず勝利することである。戦争目的は戦いにまず勝利することである。無条件降伏要求を発することで、(連合国は)合理的な和平へのプログラムを持っていないことを露呈した。いたずらに時間を費消し、無駄な犠牲を生むことになる。この要求のもつネガティブな性格によって、積極的な和平構築の動きは大きなハンディキャップを背負うことになる。
無条件降伏要求を決めたことで、戦いに勝利しても、それが必ずしも安定的な和平をもたらさないことになった。リデルハート*は、「(この要求によって)ヨーロッパにおける(軍事)バランスが完全に消滅する」と書いている。
無条件降伏要求の意味するものは、際限なき戦いの継続である。限定的な戦いにすることで、戦後の和平をより安定的なものにできる。そうでない事例も確かにある。ローマは、ライバルのカルタゴの地に塩を撒き、火を放ち武力で壊滅させた。
政治的な意味を持たざるを得ない無条件降伏要求と、戦略爆撃の名の下に実行されている無差別爆撃を以てしては、戦後のトラブルの芽を完全に積む(カルタゴに対してローマがやったような)ことは期待できない。
リデルハートは、戦後、ドイツ軍将校にインタビューしている。
〈私が話を聞くことができたすべての人物が、無条件降伏要求には戦争を長引かせる効果があったと述べていた。彼らは、もし無条件降伏要求がなければ、ドイツ軍あるいは個々の兵士は集団的に、あるいは個別的に早い段階で降伏していただろう。25〉
**訳注:反ヒトラーの地下組織クライザウ・サークルのメンバー。
アルブレヒト・フォン・ケッセル**は、日記の中で、反ヒトラーの地下組織は無条件降伏要求によって大きなハンディキャップを負ったと書いている。
〈ヒトラーとドイツ国民の間に楔を打ち込むことが極めて困難になった。26〉
***訳注:Maurice Hankey、官僚最高職の官房長官を務めた。
****訳注:Pietro Badoglio、イタリア首相(一九四三年七月〜一九四四年六月)。
無条件降伏要求が連合軍のイタリア攻略戦を難しくしたことは、英国戦時政府の閣僚であったハンキー卿***の記述からも明らかである。27
〈交渉は長引いてしまった。その原因は主として我々が無条件降伏を要求したことになる。連合国の政治家は、バドリオ****を悩ませ続けた。バドリオは、彼らが期待したイタリア指揮者であり、バドリオも自らの身の危険を顧みず彼らの助言に従って(連合国との妥協を探って)おり、連合国側も彼に期待していた。それにもかかわらず、そのような態度を取ったのである(悩ませてしまった)。(交渉が遅れる一方で)ドイツは、イタリア方面に多くの師団を送り込み、防御体制を順次強化した。その結果、連合国は多大な犠牲を生むことになった。そしてヨーロッパでも最も豊かなイタリアの国土がみじめに破壊されたのである。枢軸国の防衛の弱点、柔らかな下腹部と称されていたイタリアは、無条件降伏要求の結果、逆に要塞化されてしまったようなものだった。交渉の遅れが連合国に多大な損害を生んだ。〉
ハンキー卿は無条件降伏要求に対するドイツの反応についても書いている。
〈無条件降伏要求で、ドイツ人は最後の最後まで戦うと決めてしまった。それによって戦いが長引いてしまった。ドイツの指導者の誰一人として、屈辱的な無条件降伏に署名しようとする者はいなかったからである。〉
ハンキー卿は無条件降伏要求の問題を次のようにまとめている。
〈この要求によって、戦いは長期化し、悲惨なものになった。わが国も不要な犠牲を被り、戦後の和平を、真に永続的なものにすることも難しくしてしまった。〉
*訳注:Francisco Gómez-Jordana y Sousa、任期は一九四二年九月〜一九九四年八月。
一九四三年初め頃、スペインの外相フランシスコ・ゴメス伯爵*は、英国駐スペイン大使サムエル・ホーア卿に次のような覚書を送っていた。彼は(無条件降伏要求が惹起する)問題を見通していた。28
〈現在進行中の状況が将来にわたって継続すれば、ロシアが独ドイツ逸領内深く侵攻してくることは間違いない。そうであれば、我々は当然に自問しなくてはならない。ドイツを完全に破壊することはせずに、勝手な振る舞いができなくしたうえで、すべての隣国に嫌われながらも共産主義の防壁とするか、それともソビエト化されたドイツのどちらを選ぶかを考えてみなければならないということである。ドイツがソビエト化されたドイツのどちらを選ぶかを考えてみなければならないということである。ドイツがソビエトの勢力下に入れば、ソビエトのエンジニア、特殊技能を持った労働者や技術者に協力することができる。ドイツの力を利用したロシアは、太平洋から大西洋までを広く支配する、空前の大帝国になるだろう。もう一点自問しなくてはならないことがある。ヨーロッパは、まとまりのない地域であり、戦争と異国の支配によって血を流してきた。そんな地域で(ドイツの敗北という状況を受けて)誰がスターリンの野望を抑え込めるかということである。それができる国など一つもないことは、はっきりしている。〉
**訳注:Martin Bormann、ヒトラー総統の秘書。
レン・ダレスはこの頃、アメリカの対ヨーロッパ・プロパガンダおよび地下工作の責任者であった。彼は次のように書いている。29
〈(ドイツ宣伝相の)ゲッベルスは、無条件降伏要求は「完全なる隷属」そのものであると訴えた。ドイツ国民に、無条件降伏を受け入れたら奴隷状態になると思わせることに成功した。ゲッベルスやボルマン**らは、無条件降伏要求への反発を利用して、まったく無益な戦いを何カ月にもわたって引き延ばすことに成功した。〉
エドワルド・C・W・フォン・セルザムはドイツ外務省の職員だったが、『ニューヨーク・タイムズ』紙に次のような一文を寄せている(一九四九年七月三十一日付)。
〈無条件降伏を要求する声明が出たことで、(反ヒトラー派への対応に迷う)将軍たちの大半が反ヒトラー派から距離を置くことを決めた。彼らはヒトラーについていくことを覚悟したのである。こうして反ヒトラー派の動きは大きな打撃を受けて、連合軍にあくまでも抵抗するというヒトラーの体制を強化させてしまった。これがカサブランカ会談において発せられた声明の真の悲劇なのである。〉
英国政府の閣僚の一人ビーバーブルック卿も同じような見解である。彼は、一九四九年十一月半ばに(カナダの)トロントで演説した。その中で、無条件降伏要求は、このたびの戦争で(指導者が犯した)最も愚かな過ちであり、その結果、(永続的な)平和の構築と戦後の復興の望みが絶たれていた、と嘆いた。
ジョン・R・ディーン将軍〔訳注:米陸軍少将〕も次のように書いている。30
〈無条件降伏を求めるルーズベルト大統領のスローガンが、最後まで戦うことが(ドイツ民族が)生き残るための方策だとする敵国指導者のプロパガンダの主張を助長してしまった。〉
9 Roosevelt and Hopkins, pp.693-694.
10 The Hinnge of Fate, pp.686-687.
11 同右、p687.あるいはRoosevelt and Hopkins, p696.〔なおグラント将軍の南軍リー将軍に対する降伏交渉の模様は、拙書『日米衝突の根源』「第4章 南北戦争」(二〇一一年、草思社刊)に詳しい〕
12 Roosevelt and Hopkins, pp.693-694.
13 William D. Leahy, I Was There, McGraw-Hill Book Company, 1950, P.145.
14 Winston S. Churchill, Onwards to Victory, Little, Brown and Company, 1994, p.25,
15 The Public Papers and Addresses of Franklin D. Roosevelt, 1943, volume, p.80.
16 Wedemeyer Reports!, p.186.
17 Roosevelt and Hopkins, pp.748-749.あるいは□章参照。〔編集者注:フーバーの原稿には章を示す数字が抜けている〕
18 New York Times, August 26, 1943.
19 Roosevelt and Hopkins, pp.782-783.
20 The Memoirs of Cardell Hull, Volume. II. pp.1571-1572.
21 同右、p1576-1577.
22 F. D. R.: His Personal Letters, 〔1928-194,〕 Vol. II, p.1485.
23 New York Herald Tribune, February 23, 1944.
24 Hanson W. Baldwin, Great Mistakes of the War, Harper & Brothers, 1950, pp.14, 24-25.
25 B. H. Liddell Hart, The German Generals Talk, William Morrow & Co., 1948, pp.292-293.
26 〔編者注〕アルブレヒト・フォン・ケッセルはドイツ外務省職員であり、反ヒトラー組織の末端にいた。彼の日記はアレン・ダレスの書(Germany's Underground, The Macmillan Company, New York, 1947, p.132)の中で引用されている。フーバーのこの引用は、ケッセルの言葉ではなくダレスのものである。
〔訳注〕アレン・ダレスの第二次大戦期および終戦直後の対独・対ソ工作活動については、『ダレス兄弟――国務長官とCIA長官の秘密の戦争』(スティーブン・キンザー著、渡辺惣樹訳、草思社、二〇一五年刊)に詳しい。
27 The Right Hon. Lord Hankey, Politics, Trials and Errors, Henry Regnery Company, 1950, pp45, 50.
28 Rt. Hon. Sir Samuel Hoare, Complacent Dictatr, Alfred A. Knopf, 1947, pp183-184.
29 Germany's Underground, pp.132-133.
30 John R. Deane, The Strange Alliance, The Viking Press, 1947, p.162.
「裏切られた自由 上」ハーバート・フーバー(元米国大統領)著、渡辺惣樹訳、平成29年7月13日に草思社にて刊行。565ページ目より。