アーノルド・フリードマン

アーノルド・フリードマンはスロヴァキアでの略奪中に逮捕され、1944年春にアウシュヴィッツへ追放されたが、そこでの大罪を生き延びた。アウシュヴィッツ収容所から撤退する際にフリードマンはバイエルン州北東にあるフロッセンビュルク収容所に行き着いた。今日歴史家全員がこの収容所には被収容者を大量殺害する施設がなかった、就中殺人ガス室はなかったことに同意しているにもかかわらず、フリードマンは1972年の著書Death Was Our Destinyの中で以下の話を記すことで彼らに同意しなかった(49ページ以降):

「私は3日間[フロッセンビュルク収容所にある]病院に滞在し、良好な食事と休息をとりました。[……]それからある夕、多数の親衛隊(S.S.)が部屋に入ってきて私たちについてくるよう命じました。彼らはある部屋に入るよう命じ、扉を施錠しました。私は蛇のシュウシュウといった鳴き声に似た音を聞き、それから奴隷労働者が叫ぶのを聞きました、『奴らは俺たちをガス殺している!』私は凄まじい異臭を嗅ぎました。一部の人は倒れ死にました。残った私たちはナチスを呪いながら部屋中を駆け回りました。

私はもう耐えられなくなり扉へ走り取っ手を握り開けようとしました。扉は施錠されていました。ガスの臭いは強まりました。私は咳込み、窒息し、顔を鍵穴に突っ込み僅かな外気を吸い続けました。

私たちが5分ほどその部屋にいると扉の外からドイツ語で話しているのが聞こえました。『奴らの一部がまだ生きているか見てみよう。』私が鍵穴から離れると扉が開きました。私には分からない理由で神が私を殺人ガス室から助けました。親衛隊(S.S.)は私たちに出るよう叫びました。私たちの内5人だけが生き延びました;60人は倒れ伏したまま死にました。[……]

親衛隊(S.S.)の殺人者たちは何故殺人ガス室の仕事を完了しなかったのか? 私には分かりませんでした。」

彼が分からなかったのは、この話全てがでっち上げだからだろう。フリードマンの嘘がばれたのはこれが最後ではない。1985年、彼は第一ツンデル裁判にて自身のアウシュヴィッツでの経験についての証言に同意した。彼と、別の証言者ルドルフ・ヴルバが、法廷にて技量に長け懐疑的である尋問者によって反対尋問を受けた唯一のホロコースト証言者である。証言の間フリードマンは他に交えて以下のように主張した(Air-Photo Evidence: World War Two Photos of Alleged Mass Murder Sites Analyzed、68、69、81ページ):

火葬棟から煙が棚引いており、常時臭っていました――煙が空に上がるのではなく収容所じゅうに散るほどに、火葬棟は密集しており低かったのです。[……]ええと、そこには――火葬棟と描写した建物は小屋の形をした低い建物で、煙突が1本そこから突き出ていました。夜間、がその煙突から時間によりますが1〜2メートル程吹き上がるのが見えました煙が上がり、[……]ええと、生肉が焼ける悪臭で、炎は状況によって黄色から深紅まで色を変えました。[……]私達は様々な事を論じており、当て推量の議論の一部として、その種の炎だったのだから私達素人はハンガリーの移送者の炎だったのだろうと推測しました、そしてポーランドの移送者たちがいて彼らは骨と皮ばかりで[……]」

宣誓の元に「骨と皮ばかりの人々」は火葬棟の煙突から「より太った人々」とは「異なる色の炎」を出したのかと弁護士から反対尋問を受けたフリードマンは確証した、「これは1つの意見ですがその通りです、私たちが出した1つの意見です」(同書、82ページ)。少しして彼は付言した(同書、88ページ):

「我々が[骨と皮ばかりの人々と太った人々とを]区別したと覚えておりますが、それは明るい黄色の炎に対して深紅あるいは桃色の炎、それと悪臭などからです。」

疑いなく有り得ない荒唐無稽な話であるが、まず第一には火葬棟の煙突から出ず、次に、火葬での炎の色は人種にも体重にも依存しない。反対尋問の間、火葬棟は炎も大量の煙も出さないという事実に直面した時、フリードマンはとうとう自分は自身の経験からそれを本当に知ったのではなく、単純に人から聞いた話を繰り返したのだと認めた(同書、87ページ):

「貴方が言ったことは分かりません。他の人から聞いた事もあるし、恐らく彼らより貴方の方がもっと信憑性があると考えますが、当時私は彼らの話を受け入れたのです。」

アウシュヴィッツにいる間に聞いた噂かどうか訊かれた時、フリードマンは答えた:「四六時中(Constantly)」(同書、78ページ)、これは、彼は他の複数の証人と同様、自分が聞いた噂と話を自分自身が目撃したと主張する出来事に転換したことを意味している。