「ケルト・ゲルシュタイン陳述を見てみよう。
ゲルシュタインはSS下級将校で、戦前から反ナチス活動に関与していた。
しかし、彼は技術者でもあり、害虫駆除目的でのシアンガスの使用に関与していた。
彼は赤軍の侵攻を逃れ、1945年4月に連合国側に降伏し、1945年5月6日にフランス当局に引き渡された。
この間、彼はいくつかの宣誓供述書あるいは陳述を書いている。
これらは細部では異なるが、ベルゼク収容所でのガス処刑の様子を描いており、その他のラインハルト作戦収容所でのガス処刑の実行を証言している。
ゲルシュタイン陳述は、大量ガス処刑が起こったと主張する人々が最も広く引用する資料の一つであろう。
しかし、陳述全文には多くの誤りと、有りそうもないことが含まれているために、全文がほとんど引用されないのが問題である」
▼ゲルシュタイン陳述の要約
1) ゲルシュタイン陳述は、ガス処刑その他に関して、以下のように要約できる。
2) ベルゼクは1日に15000名の能力を持っている。
3) ソビボル(見てはいない)は1日に20000名の能力を持っている。
4) トレブリンカは1日に25000名の能力を持っている。
5) 収容所を統括するグロボクニクは、衣服を消毒し、古いディーゼル・エンジンを使っているガス室の効率を上げるようにゲルシュタインに指示する。
6) グロボクニクは、ヒトラーとヒムラーが1942年8月15日に収容所を訪れたことをゲルシュタインに伝える。ゲルシュタインは、ヒトラーとグロボクニクとのあいだのまったく信じられない会話を記録している。
7) 翌日、ベルゼクで、ゲルシュタインは、浴室のことを書いている。
8) 外には、花が咲いている。
9)『浴室と吸入室へ』という指示板。
10)建物には短い階段がついている。
11)両側に「ガレージのような」三つの部屋があり、それは4x5メートル、高さ1.9メートルである。
12)輸送列車が到着し、順番に服を脱いで、貴重品の提出が強制される。
13)髪の毛が刈られ、誰かが『それは潜水艦の特別用途、充填材料を作るために』とゲルシュタインに語る。
14)人々がガス室に押し込められる。25平方メートルに700〜800名。
15)ディーゼル・エンジンが始動しなかった。ゲルシュタインは遅れを自分のストップウォッチではかる。2時間49分であった。
16)部屋の小窓から見ると、電灯の下で多くの人がまだ生きていた。
17)ガス処刑の開始から32分後、全員が死んだ。
18)翌日、彼はトレブリンカへ行った。8つのガス室があった。
19)35〜40メートルの高さの衣服と下着の山があった。
20)BBC放送の数は低すぎる。2500万がガス処刑された。
21)1942年6月8日、ゲルシュタインは、自分がチェコスロヴァキアのコリンで集めたボンベは人々を殺すためのものであるという噂を広めた。
22)輸送中のシアンはボンベに入っている。
23)殺人のもう一つの方法は、人々をはしごに登らせて、そこから溶鉱炉に落とすというものである。
「これらの主張のいずれにも、物的・資料的な証拠はない。
ボンベに入ったシアンで誰かが殺されたとは通常は考えられていない。
チクロンBで殺されたというのが定説だからだ。
ただし、戦後のベルゼン裁判ではユダヤ人囚人ソフィア・リトヴィンスカがアウシュヴィッツIのガス室に閉じ込められたとき、天井から煙が出てくるのを見たと言っているから、その元ネタはゲルシュタインかもしれない。
彼女は嘘を“発明”したのではなく、当時知られていたゲルシュタインの供述(1945年7月に広く公表された)をそのまましゃべっただけと考えるべきだろう。
そのゲルシュタインの『ボンベ』というのは以前あった蒸気処刑が元ネタだろう。
ヒトラーとヒムラーがラインハルト収容所に来て話したことについては、この2人が1942年8月にこれらの収容所にいたことはないから全部嘘だ。
2500万人だの35メートル以上の衣服の山だのはあり得ないような数字だ。
だから、この資料を事実として分析する必要はなく、陳述のもとが何であるかを問題にした方がよい。
ディーゼル・ガスに言及していることは、ソ連によるガス・トラックの暴露、あるいはトレブリンカに関してのソ連の議論と結びついているだろう。
例えば、ガス室が『ガレージ(車庫)のように』見えるといった比喩は、マイダネクに関する1944年夏のヴァースの記述、あるいは1945年2月のアウシュヴィッツに関するポレヴォイの記述によっているに違いない。
実際のアウシュヴィッツのガス室は焼却棟の中にあるのだから、煙突のある焼却棟が車庫のように見えるわけがない。
しかし、ガス車が元ネタならばそう例えても不思議ではない。むしろ自然だ。
ゲルシュタインが人間に対してシアンガスを使っているという噂を広めることに本当に関与していたとすると、これらの噂が登場した時期(1942年6月8日)は、翌8月にスイスに届いたシアン使用の噂と一致しているが、これは興味深い。
別の要素、すなわち2500万の犠牲者という要素はチクロンの使用マニュアルにさかのぼる。
衣服の山はマイダネクの報告に言及されている。
なかでも、陳述は、1945年2月におこなわれたレレコの尋問と、同時期かそれ以前に行なわれたトレブリンカとソビボルに関する証言の影響を受けている。
部屋の数、建物の配置、エンジン、のぞき穴、そして建物の前の花までもが、明らかに以前の話から出ている。
ゲルシュタイン陳述の大半は嘘だ。
その中で明らかに真実とみなされているのは、すでに伝統的となっているシャワー・ガス・焼却という概念に関連している個所だ。
しかし、これは、ゲルシュタイン陳述の一部を使って、すでに知られていることを確認しているにすぎない。
ゲルシュタイン陳述の最大の構造的な難点は、ディーゼル・エンジンを使って、ガス室用の一酸化炭素を発生させたという点だ。
ディーゼル・エンジンによるガス車の証言はいくつかあるが、技術的なスペックを語ったものはゲルシュタインだけだった。
よってゲルシュタイン陳述によるガス車のスペックが技術的に有り得ないことが証明された以上、すべてのガス車の証言は嘘だと言えてしまう。
ゲルシュタイン陳述の問題点は、それがラインハルト作戦の証言から派生したものであるとか、馬鹿げた点が数多くあるとか、ベルゼクでは60万人の大量殺害がおこなわれたとする記述が確証されていないという点にあるのではない。
チクロンの専門家であるゲルシュタインが、自白することで、有罪を免れようとしており、そして、このことによって、チクロンBが大量殺人の凶器と当時みなされていたことが証明されている点にある。
免罪の面では彼は失敗した。
彼の陳述が1945年7月に広く公表されると、フランスはゲルシュタインを戦争犯罪人として裁こうとし、彼は結局自殺した」
「ガス処刑説が今日のかたちを取った時期に焦点をあてれば、1945年4月13日から5月6日までの3週間であるといえるだろう。
この時期に、西側連合国は多くの収容所を解放し、この時期の終わりに、ソ連はアウシュヴィッツ・ビルケナウに関する特別委員会報告を公表した。
1945年4月15日、イギリス軍はベルゲン・ベルゼン収容所を占領した。
そこには数10万の囚人がいた。
イギリスの従軍写真家によるベルゼンのイメージは、拭いがたい印象を残した。裸で、変色し損傷した死体の山――その多くは腐敗しようとしていた――が建物の外に薪木のように並んでいた。
囚人の詰め込まれたバラックは死者や瀕死の収容者で一杯であった。
身体をねじまげられた死体でうまっている大量埋葬地。衝撃、恐怖、信じられないというのが一般的な反応であった。
言葉では解放者が見たものを言い表せないというのが、共通したコメントであった。
やはり1945年4月に、アメリカ軍がダッハウとブッヘンヴァルトを解放した。
これらの収容所も独自のイメージを提供した。
ダッハウでは、一群の無蓋貨車の上に数百の囚人の死体が積んであり、ブッヘンヴァルトでは、入れ墨をしていた収容者の死体からはがされたと思われる人間の皮膚が、一握り発見された。
このような死と破壊に対するアメリカ人の反応は、少なくとも一つの事例では衝撃を通り越していた。
ある将校は、ダッハウの死体を目撃して、数百のSS隊員(多くが若者)と解放の時に収容所にいた兵士を並べて、冷血にも機関銃で射殺したのだ。
現場検証と尋問をすれば、それらの死体は連合軍が間接的に殺したものだと判明しただろうが、死体の山を見て冷静にはいられなかったようだな。
連合国兵士は、このようなおそらしい光景を目の当たりにして、自分たちの知識の枠内でこれを解釈した。
噂は本当だったのだ、と。
彼らが、検証されたことのない3年間のプロパガンダから知っていたことは、ドイツが収容所でシャワー・ガス・焼却という連鎖過程を使って数100万の人間を殺害してきたということだった。
シャワー、焼却棟、害虫駆除室が存在したことは、周知のガス絶滅説の第一の証拠となった。
裸で、変色し、損傷を受けている死体は、連合軍の到着直前にガス処刑された犠牲者に違いないとされた。
ここでもまた、死体は、すでに何年間もなされてきた告発の全体性の証拠である。
そして、あるアメリカ人の表現では、ドイツ人は「うまくやり遂げる前に」、阻止されてきたという印象が生まれた。
問題は、このような感じ方がすべて誤っていたことだ。
連合軍が西部地区の収容所で発見したのは、「世界史のなかでのチフスの最後の大流行」の結果にすぎなかった。
戦争の最後の数週間、数ヶ月のあいだに、収容所の衛生施設、収容所への輸送・供給システムが完全に崩壊したことがこの大流行をもたらした。
死体が変色し、損傷を受けていたのは、腐敗が進んでいたためであり、裸であったのは、囚人が死ぬと、他の囚人が服を脱がせて、シラミのついた衣服を焼却したためだ。
この当時、西部地域の収容所のガス室として広く報道され、写真も撮られた施設は、標準の害虫駆除室にすぎなかった。
1960年、西部地域の収容所ではガス処刑はなかったことが定説となった。
だが、当時の西側の人々は死体の山しか目に入らず、それをドイツの悪行とナチス文化の証拠とみなしたのである。
西側の収容所、とくにベルゼン収容所のイメージは、ホロコーストひいてはガス処刑説の証拠として何十年も残った。
終戦直前、ソ連は報告を発表し、その報告は絶滅計画の本質を、権威をもって確定した。
アウシュヴィッツに関するソ連特別委員会は、その他のソ連の報告と同じように、比較的短いものであり、30頁の小冊子として刊行された[226]。ガス処刑説に力点を置いたこの報告には、新しい事実はほとんど含まれていない。
二つの資料が引用されているだけである。
一つは、焼却棟の建設に関するもの、もう一つは、焼却棟IVかVの特別目的の浴室に言及している資料である。
この証拠は有罪の証拠とみなされただけではなく、それだけで犯罪の証拠として十分であるという連鎖過程がこの当時、本質的なものとみなされており、どちらかの存在が他方の存在の決定的な要素とみなされていたことを示している。
報告の内容は、ガス処刑説に関しては、次のようにまとめられる」
▼ソ連のアウシュヴィッツ報告の要約(1945年5月)
1) 四つの新しい焼却棟では46の燃焼室を持った12の焼却炉が利用できる。
2) 各燃焼室は3−5の死体を処分できる。
3) 焼却にはおよそ20−30分かかる。
4) 特別目的のための浴室、すなわち、人間の殺害のためのガス室は焼却棟に隣接した特別な建物の地下室にある。
5) また、別に二つの『浴室』があり、ここで殺された人々の死体は戸外で燃やされた。
6) 犬が死を待つ人々を浴室に追いたてた。
7) 途中で、彼らは棍棒やライフルの銃床で殴られた。
8) 部屋のドアは密閉され、そのなかで、チクロンで毒殺された。
9) 死ぬまでに3〜5分であった。
10)20〜30分後、死体が除去され、焼却棟の焼却炉に連れて行かれた。
11)焼却の前に、歯科医師が死体から金歯をすべて抜き取った。
12)『浴室』とガス室の『生産性』は焼却炉の処理能力をはるかに超えていた。それゆえ、ドイツ人は戸外で大規模に火を燃やして、死体を焼却した。
13)戸外焼却のために、幅4〜6メートル、長さ25−30メートル、深さ2メートルの壕が掘られた。
14)壕の底に溝が走っており、空気の供給のために使われた。
15)死体は狭軌の鉄道によって、火のところに運ばれ、壕の中に何層にも積み重ねられた。
16)オイルが注がれ、そして焼却された。
「報告の末尾で、ソ連は、五つの焼却棟で焼却しうる死体の数を月279000名とし、ここから、最大焼却能力は500万以上であったと結論した。
メンテナンスなどで稼働率が80%と仮定し、500万×0.8=……」
「技術委員会によると、ドイツの処刑人は、アウシュヴィッツ収容所が存在しているときに、ソ連邦、ポーランド、フランス、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア、オランダ、ベルギーその他諸国の少なくとも400万の市民を殺害した」
「ということになった。
ここから、アウシュヴィッツの400万という数字が誕生した。
つまり、アウシュヴィッツ400万人という数字は実際にカウントしたわけではないのだ。
アウシュヴィッツに関するソ連特別委員会報告は、ガス処刑説に関するもっとも重要な資料だ。
たしかに、ガス処刑説が、この薄っぺらく、内容のない小冊子にさかのぼることができるのは、いささか衝撃的であるな。
しかし、この当時には、この報告は、ガス絶滅説が事実であるとしただけではなく、最大の強制収容所でこの政策が実行されていたと断定した。
だが、この報告書はガス処刑説の証拠を提供しているわけではない。
2つの状況証拠的な資料にもとづきながら、焼却の割合を勝手にかけ算することで、犠牲者の数を推定しているにすぎないし、大量の目撃証言に支えられていたにすぎない。
しかも、その証言はガス処刑の手順を詳しく語ることができない。
証言によってガス処刑の手段がバラバラだからな。
それぞれが自分の知っている噂に基づいて証言するから元ネタが異なれば証言も異なる。
このいい加減極まりない不親切な資料は、尋問、自白、戦争直後の裁判ですぐさま重要資料となった。
最初の裁判は1945年秋にベルゼンで開かれた。
この裁判の目的は、収容所で捕虜となったSS隊員を裁くことであったが、多くのSS隊員と囚人が1944年末と1945年初頭に、ベルゼンからアウシュヴィッツに移されてきていたことが判明した。
その結果、ベルゼン裁判は、アウシュヴィッツでの事件の実態についての裁判ともなった。
事実、審理はアウシュヴィッツについてのソ連の映画を上映することから始まった。
ドイツ人被告の大半は、以前はアウシュヴィッツの看守だった。
ベルゼン所長ヨーゼフ・クラマーは、短期間ビルケナウの所長もつとめた。
ヘスラーは女性収容所の長だった。
イルマ・グレーゼはビルケナウの看守だった。
全員がガス処刑への選別に関与したことで告発され、その関与を認めた。
ソ連委員会報告が彼らの自白に影響を与えていることは簡単に読みとることができる。
1945年5月22日、ハインリヒ・ヒムラーがイギリスに拘束された翌日、ヨーゼフ・クラマーは長い陳述を行ない、ベルゼン、ビルケナウ、ナチヴァイラー・ストリュホフなど、自分の勤務した収容所の状況を物語った。
彼は、アウシュヴィッツに『ガス室』が存在していたことを明白に否定していた。
翌日、ヒムラーが自殺した。
その後の尋問のなかで、クラマーは、自分の管轄ではないビルケナウに『ガス室』が存在したことを認めた。
彼は、自分が最初に否定したのは沈黙の誓約によってであり、ヒトラーとヒムラーの死によって、その誓約にはもはや拘束されないと証人席から発言した。
残念ながら、クラマーの第2の陳述の日時はわかっていないが、彼にガス処刑説を認めさせるにあたって、ソ連特別委員会報告が役に立ったことであろう。
合衆国の戦争難民局報告は1944年11月に、同じような告発をしているし、ソ連のアウシュヴィッツ報告は2週間前に発表されていた。
だから、クラマーがガス処刑説について沈黙していたということは信じがたい。
ヒトラーは何週間も前に死んでいたのだから、誓約に拘束されていたので沈黙していたというのもナンセンスである。
彼の上司ヒムラーもイギリスに拘束されていたので、クラマーが、尋問官が認めさせようとしていたことを否定していたこともありそうもない。
ベルゼン裁判でのその他の被告も、曖昧なかたちではあるが、ガス処刑説を認めた。
例えば、ビルケナウ看守グレーゼは、囚人の噂からガス室のことを聞いたことがあると述べた。
有罪となった45名のうちの11名が絞首刑となった。
アウシュヴィッツ特別委員会報告は、その後の自白だけではなく、目撃証言の中味の枠組みを定めた。
1945年9月初頭、アウシュヴィッツの政治将校であったグラブナーが、ウィーンで自白し、自分が離任する1943年12月までに、300万人が収容所で絶滅されたと述べた。
300万が1943年末までに死んだとすれば、1945年に解放されるまでに、あと100万が死んだであろうという点で、この自白はソ連の推定と一致していた。
さらに、ベルゼン裁判では、アウシュヴィッツの囚人であったベンデル博士とアダ・ビムコはガス室の実在を証言し、とくに、ビムコは2個所で400万という数字を支持していた。
戦後の目撃証言と自白がソ連特別委員会報告と一致しているという事実を、この報告の正確さが立証されたことと受けとっている人もいる。
例外は、とくに400万の犠牲者というまったくでたらめな計算の面では、ソ連報告は誤っていたと認められている点だ。
この数字は、焼却能力に関するソ連の計算から出てきているものであり、証言から出てきているものではない。
しかし、この数字を支持しているいくつかの証言と自白もある。
とすれば、数字が誤りであるとすると、この計算を支持している証言はソ連報告の影響を受けているということになる。
つまり、ソ連の報告と証言は一致しているのではなく、ソ連の報告に合うような証言をしたと考えるべきだ。
だから400万という間違った数字を指示する証言が出てくる。
そしてソ連の報告はガス処刑に関してはあいまいなので、それに関する証言は相互に矛盾しているのも道理だ。
元ネタが異なるからガス処刑に関する証言も異なるのだ」
「ガス絶滅説に関する目撃証言や自白を扱う場合、以上のような問題が生じている。
とくに、その初期の時期にはそうであるが、もっとのちになってもあてはまる。
大量ガス処刑説は1942年以降、広く広まり、1944年秋までには公式の権威を与えられていた。
こうした状況のもとでは、『まわりに影響されない』証言や手垢の付いていない自白を手に入れることは不可能であろう。
何かを証言する場合は当然、噂を元に証言する。それが一番嘘だと疑われにくいからな。
本来は、詳細を詳しく述べて、事実を確証するような陳述だけが採用されるべきなのであろうが、まさに、登場してこなかったのはこのような陳述であった。
目撃証言と自白は、詳細に立ち入ると重大な誤りをおかしている。
例えば、ポーランド系ユダヤ人女性で医学博士のアダ・ビムコはベルゼン裁判で検事側証人となった。
彼女はシアンガスが大きな丸いボンベに貯蔵されていたと考えている。
やはりゲルシュタインが元ネタだろう。
ソ連の報告書ではチクロンBで殺されたと言っているが、ゲルシュタインはチクロンBのガスをボンベに詰めたと言っていた。
だからこの2つは素人が見れば矛盾しないように見える。
ボンベなど現場検証すれば一発でばれるだろうが、採用した当時は現場を封鎖していたため、問題ないと考えていたのだろうな」
参考資料:ベルゼン裁判 第5日―1945年9月21日金曜日検事バックハウス大佐による証人アダ・ビムコへの尋問)
(アドレス:http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/belsen/belsen_05.htm)
Q:(アウシュヴィッツの)ガス室に入ったことがありますか。
A:はい。1944年8月、私は、収容所で医師として働いていました。ガス室送りに新しく選別された集団がやってきました。病人でしたので、毛布にくるまれていました。二日後、私たちは、これらの毛布をガス室から取ってくるように命じられました。悪名高いガス室を見たいと思っていたので、この機会をつかまえて、中に入りました。そこはレンガの建物で、カモフラージュするために周囲には木が植えられていました。最初の部屋で、私が暮らしていたのと同じ町からやってきた人物を見かけました。一人のSS軍曹もいて、彼は赤十字に属していました。この最初の大きな部屋に人々は服を置き、この部屋から第二の部屋に入るといわれました。数百名が入ることができるほど大きな部屋であるとの印象を受けました。収容所にあるようなシャワー室・浴室に似ていました。天井には多くのシャワーヘッドがあり、並列に並んでいました。この部屋に入った人々全員にタオルと石鹸が渡されたので、彼らは入浴するのだとの印象を持ったはずです。しかし、床を見れば、排水溝がないので、入浴するのではないことは明らかでした。この部屋には小さなドアがあり、それは真っ暗で、廊下のように見える部屋につながっていました。私は、小さな貨車の乗った、数列の線路を目撃しました。その貨車はローリーと呼ばれていました。ガス処刑された囚人はこの貨車に載せられて直接焼却棟に送られたという話です。同じ建物の中に焼却棟があったと思いますが、自分の目で炉を見たことはありません。低い天井を持ったこの部屋よりの数歩高いところに別の部屋がありました。二つのパイプがありましたが、それはガスを供給するパイプであったとのことでした。また、巨大な二つの金属製のガスボンベがありました。
「ベルゼン収容所所長ヨーゼフ・クラマーは、ナチヴァイラー・ストリュートフ収容所でのガス処刑は半パイント(約1/4?g)の『塩』を管に流し込むことによって実行されたと述べている。
『塩』の正体はまったくもって不明だ。
すでに『石灰』によるガス処刑の話は存在したから同じ粉である『塩』もOKと考えたのだろうか……?
とにかく『塩』の正体はわからない。
アウシュヴィッツ特別委員会報告が権威を持つようになったのは、それを政府が発行したため、また、それと対立するような報告がなかったためだった。
反対意見が出てこないのは当然だろう。
何せアウシュヴィッツを10年も封鎖して現場検証を妨害してたからな。
ソ連はルドルフ報告のような専門家による反証報告が出てこないようにしていたのだ。
その結果、この報告は、そこで何が起こったのかを知ろうとする人々にとって基本的な資料となってしまった。
証言をしようとする証人は、自分の記憶をリフレッシュするため、あるいは自分の経験を広い視野に置いてみるために、この報告を参照した。
非常に重要なことは、連合国の役人がアウシュヴィッツ関係者を尋問するにあたって、真実と虚偽とを区別するために、この報告を参照しなくてはならなかったことである。
報告に合うように証言しろということだな。
実に分かりやすくて好感が持てる。
証人や自白者がソ連特別委員会報告と一致するような陳述をするとすぐに、これらの陳述は、報告と一致しているとの理由で、ソ連報告の権威を獲得した。
時が経つにつれて、人々は、ソ連のアウシュヴィッツ報告自体ではなく、その影響を受けた証言や自白こそがアウシュヴィッツでの大量ガス絶滅の証拠とみなすようになっていた。
こうして、ガス処刑説――教会法的ホロコーストと呼ぶこととする――が、実体のない報告をもとに作られた口承証言を介して、進化していった。
その一方で、呪われたベルゼンのニュース映画が、当時の気まぐれな雰囲気のなかで、収容所から収容所へと上映され、ガス処刑説に確固とした根拠を与えていった」
「ホロコースト関連の本を読むともっとも名前の出てくる証人ルドルフ・ホェッス。
アウシュヴィッツ所長であり、ガス殺を命じた人間の証言は実に説得力のある証拠として権威を与えられてきた。
ヘスは、1946年3月13日、イギリス占領区の農場で逮捕され、その後イギリス国籍のユダヤ人バーナード・クラークに拷問された。
これはクラーク本人が自慢していたので本当だろう。
そしてヘスの供述が矛盾ばかりで信憑性に欠けることはSubjesct7で証明したが、もう一度改めて見てみることにしよう」
1. 大量ガス処刑は1941年夏に始まり、1944年秋まで続いた。
2. 250万がガス処刑され、50万がその他の方法で殺され、合計300万が殺された。
3. ヘスは1943年12月にアウシュヴィッツを離れたが、その後も情報は得ていた。
4.『最終解決』とはヨーロッパのユダヤ人の完全な絶滅を意味していた。
5. ヘスはヒムラーからの直接の命令によって、1941年6月、アウシュヴィッツに絶滅施設を作るように命じられた。
6. ヘスは、一酸化炭素が使用されていたベルゼク、トレブリンカ、ヴォルゼクを訪れた。
7. ヘスはチクロンBの使用を決定した。
8. 『われわれは、人々の叫び声がやんだので、彼らが死んだことを知った。』
9. ガス室は一度に2000名を収容することができた。
10.子供も必ず絶滅され、母親は子供を隠そうとした。
11.絶滅は秘密にされたが、
12.焼却による悪臭のために、周囲数マイルにいるものは誰も、絶滅が進行していることを知っていた。
「ヘスの証言の内容を並べてみると、ヘス証言はニュルンベルク裁判以降広く知られてきた『周知の事実』を並べたに過ぎないことがわかる。
つまり、ヘスは既存の『ガス殺』話に合わせて証言をしているのだ。
詳しく見ておこう。
『絶滅命令』はヒムラーによって直接伝えられたというのは、1945年のSS将校ヘットル供述書を繰り返しているにすぎない。
『絶滅』が1941年に開始されたこと、最終解決はユダヤ人の絶滅を意味するコード言語であることについては、1月におこなわれたSS隊員ヴィスリセニイの証言にさかのぼることができる。
ただし、これを正しいとすると1942年ヴァンゼー会議で絶滅が決定されたという説と矛盾してしまうジレンマに陥ってしまうためホロコースト肯定派にとっては悩みの種だったりする。
子供の運命を強調していることは、1946年1月と2月のシェメゲロフスカヤとヴェイラン・コトゥリエの証言の影響を受けている。
この2人の女性はアウシュヴィッツで起こったことの関する重要証人だった。
焼却による悪臭は、1941年の安楽死キャンペーンに関する噂にまでさかのぼる古めかしい誇張だ。
犠牲者の数(250万がガス処刑され、50万がその他の方法で殺された)は1945年9月のアウシュヴィッツ収容所の政治部長SS少尉マキシミリアン・グラブナーの自白にさかのぼることができる。
そして、双方とも、収容所が活動していた全期間で400万が殺されたと計算したソ連特別委員会報告――1943年までに300万であるとすれば、1944年に100万――の影響を受けている。
興味深いことに、250万から300万という犠牲者の数の幅ならびにその他の詳細は、数週間前にハンブルクで開かれたテシュ・シュタベノフ裁判でのSS隊員ペリー・ブロードの証言と一致している。
一方、『ヴォルゼク』収容所なるものは存在せず、彼が査察したと主張する三つの収容所は1941年には存在していない。
要するに、1946年4月5日のヘスの宣誓供述書はすでに知られていたことを確認したにすぎない。
それが述べていることに新しいものはなく、新しいもの(「ヴォルゼク」収容所など)はまったく誤りだ。
それは、それが繰り返している説を立証したものでも、説明したものでもない。
事実、10日後のニュルンベルクでのヘスの証言は、宣誓供述書の中味を確証できなかった陳述から成り立っている。
ヘスはSD(国家保安部)長官カルテンブルンナーのために証言したのち、検察側から交差尋問を受けているが、彼は自分の宣誓供述書が読まれると、うなずくか、『はい』と答えるだけだった。
それは、ソ連特別委員会が提示した教会法的なホロコーストの内容を拡張し、確認したにすぎない。
そのようなものであれば、歴史学的な観点からするとそれは実際にはまったく価値のないものだ」
「今回のテーマは『ナチスの毒ガス処刑の話を広めたのは誰だ?』であるが、これは個人、あるいは一つの組織がやったことではない。
1942年にユダヤ人が言い始め、BBCと欧米メディアが宣伝し、1944年にソ連が権威を与えた。
つまり、ユダヤ人・欧米メディア・ソ連がホロコースト神話を作ったのである。
証人たちは自分たちの知っている噂をそのまま繰り返し、あるいはある噂と別の噂を足して新しい噂を発明した。
それが伝言ゲームのようにして広まり、結果として似ているが細部が異なるガス処刑話が数々生まれたのだ。
このパターンは実は宇宙人による地球人拉致などのUFO話に構造がそっくりだ。
世界では宇宙人にさらわれただの、UFOを見ただのという話がたくさんある。
宇宙人やUFOを見たという人はまったく面識がないことがほとんどだが、話を聞いてみると内容が実によく似ている。
これはテレビなどでそれとなく見たり聞いたりした噂をそのまま繰り返したり、それに付け加えたために似てると考えるべきだろう。
空に「白い円盤」が飛んでいたのを見れば、誰が見てもUFOを連想する。
ホロコーストも同じことなのだ。
ところで、ナチス・ドイツのガス殺について最初に言い出したのはユダヤ人だが、彼らはガス殺話を発明したのだろうか?
それは違うだろう。
なぜならナチス・ドイツが誕生する前からガス殺についての話は存在していたからだ。」
「前回の説明で、ガス殺証言には元ネタが存在すること、それは1942年のブンド報告まで遡ることができることがわかった。
このブンド報告がナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅の元ネタであるが、ガス殺証言そのものはもっと前まで遡ることができる。
ナチス・ドイツが使ったシアン化水素は猛毒であることは言うまでもないが、同時に殺虫消毒をしてくれるありがたい毒ガスでもある。
使い方次第では人間を殺すことではなく、人間を助けることができるアイテムだ。
ドイツは第二次世界大戦の60年以上も前に青酸ガスを消毒用に使用してきた。
そして第二次世界大戦の60年以上も前にドイツによる青酸ガス処刑の噂は存在した。
なぜドイツは青酸ガスを消毒用に使ったのか?
それは東ヨーロッパでは敵の軍隊よりも疫病の方がはるかに恐ろしい存在だったからだ。
さっそく見てみよう。
歴史上、疫病は戦争や移住と手をたずさえて移動し、一個軍団以上を屈服させてきた。
東ヨーロッパはこうした疫病のためにとくに恐れられた地域だった。
クリミア戦争での連合軍、1812年のナポレオン軍は、とりわけチフス・コレラ・腸チフス・赤痢といった疫病で多くの兵士を失った。
長らく、これらの疫病の原因は知られておらず、やっと19世紀末に、コレラ、腸チフス、赤痢は、汚染された水にひそむ細菌によって媒介されることがわかるようになった。
チフスを媒介するのがシラミであることがわかったのは第一次大戦直前だった。
汚染や劣悪な衛生環境が疫病を媒介するということは理解されていたので、正確な知識がなくても、ヨーロッパ人は防疫を試みていた。
19世紀末ごろ、ドイツは人間とその衣服を害虫駆除するために多くの措置を開発した。
ここには、シャワー、殺虫のために石油その他を身体に塗ること、その所持品に蒸気をかけたり、煮沸したりすることが入っていた。
これらの措置は1880年代にテストされるようになった。
チフスは東ヨーロッパ土着の疫病であり、コレラは19世紀に何回となくこの地域で荒れ狂った。
地元の住民は、とくにチフスにいつもさらされていたので、免疫を持っていた。
この地域に移植してきた者は、これらの疫病に簡単に感染した。
この地域を出た者はそれを運んでいったことであろう。
ロシア帝国西部とオーストリア・ハンガリー東部の住民、ユダヤ人やその他の非ユダヤ教徒は、ひとしく貧乏で、飢えており、当時の西ヨーロッパの衛生水準からすると、不潔であった。
この地域の住民の大半は、ひとたび凶作があれば、死に瀕してしまうといっても過言ではない。
1881年に皇帝アレクサンドル二世が暗殺されると、この地域では反ユダヤ暴動が頻発した。
ユダヤ人はその他の非ユダヤ教徒同様に貧しく、空腹で、不潔で、禁欲的であった。
その上、政府が自分たちの伝統的な生活様式に干渉してきていたので、彼らの忍耐は限度を越えようとしていた。
その結果、多くのユダヤ人が移住を選択し、彼らは多くの場合にドイツを通過した。
ドイツで、彼らは標準的な害虫駆除措置を受けたが、これについては、メアリー・アンチンがその回想録のなかで次のように記している。
この本は元々1912年に出版され、メアリーが1893年春にプロツクからボストンに着いた直後に、ロシアにいる伯父にイェディッシュ語で書いた手紙をもとにしている」
Antin, Mary, The Promised Land, Penguin, NY: 1997, p. 138f
「無人の広い野原の大きな庭のなかにある一軒家の反対側に、私たちの列車はついに止まりました。車掌が急いで降りるようにと乗客に命令しました。……(車掌は)私たちを家の中の大きな部屋のなかに急がせ、ついで庭へと急がせました。ここで、白い服を着た非常に多くの男性と女性が私たちを待ち受け、女性の方は女性と少女の乗客を、男性の方は男性の乗客を待っていました。
うろたえ混乱するような光景でした。親たちは自分の子供たちと離れ、幼い子は泣いており、荷物はまとめて庭の片隅に無頓着に投げ集められました(このために、多くの損害が出ました)。白衣のドイツ人は命令を叫びながら、いつも『急いで、急いで』と言っていました。狼狽した乗客は意気地なしの子供のようにすべての命令に従い、ただ、何が起こるのかとときどき尋ねるだけでした。
泥棒や殺人者のたぐいに捕まってしまったのではないかと考えたとしても不思議ではありません。一軒家だけがある寂しい場所に連れてこられたのですから。所持品は持ち去られ、友人は離されてしまったのですから。一人の男がやってきて、品定めをするかのように私たちを検査しました。奇妙な風采の人々が、無力で無抵抗な、口の聞けない動物のような私たちを追い立てました。ここからでは姿を見ることができない子供たちは、何かおそらしいことが起こっているかのように泣いていました。私たちは小さな部屋に追い立てられ、そこでは大きなやかんが小さなストーブの上で沸騰していました。衣服は脱がされ、身体が、滑りやすい物でこすられました。突然、警告なしに、温水のシャワーが私たちにふりかかりました。
その後、別の小さな部屋に追い立てられ、そこで、ウールの毛布にくるまって座っていました。すると、大きな粗雑なバッグが持ち込まれ、そこから中味が出てきました。見ることができたのは蒸気の雲だけであり、聞くことができたのは『急いで、急いで』服を着るようにとの女性の声だけでした。それ以外は何も見ることも、聞くこともできませんでした。蒸気で何も見えないなかで、私たちは他人のもののなかから自分の衣服を探さなくてはなりませんでした。息が詰まり、咳こんでいたので、時間をくれるようにその女性に頼みました。『急いで、急いで、乗り遅れてしまいますよ!』ああ、私たちは殺されるのではないのだ。彼らは、危険な病気にかかることを防いでくれて、旅が続けられるようにしているだけなのだ。感謝します、神よ!」
「メアリー・アンチンは害虫駆除と検疫に当惑しているが、何のオリエンテーションもうけておらず、はじめてのことでもあったのだから、彼女の態度は理解できる。
そして、そのような無理解からくる的外れな噂も十分に理解できる。
メアリー・アンチンの当惑した態度はクレーマー日記に出てくる『命乞いをするユダヤ人女性』にそっくりだ。
作業者からすれば個別に説明をするのは時間の無駄だから省略したいと考えても不思議ではない。
消毒・殺菌なのだから死ぬわけではないし、そもそも言葉が通じるかどうかわからんから説明したいとも思わなかったかもしれない。
だが、このような特別措置は必要だった。
メアリー・アンチンが1893年に旅をする前年、コレラがドイツの都市ハンブルクを襲い、チフスとコレラがニューヨークを襲っていたからだ。
ニューヨークでの大流行では、その後数十年間にわたって繰り返される多くの事例を見ることができる。
移民たち、とくにユダヤ人は害虫駆除と検疫を恐れており、自分たちの愛する人々が屠殺場に連れていかれると信じていたこともあった。
彼らは衛生管理当局に不信感を持っており、結果として疫病をさらに広めてしまうことも知らずに、チフスにかかっていることを隠そうとした。
さらに、検疫にも問題があった。
規則によると、チフスによる死者は焼却されることになっていたが、これはユダヤ法違反だった。
ユダヤ教では最後の審判における死者のよみがえりの教義を持つため火葬はご法度なのだ。
これはユダヤ教を原点とするキリスト・イスラムでも同じことが言える。
また検疫ステーションはユダヤ教の掟に従った食物を準備しておらず、結果として、敬虔なユダヤ教徒が餓死することもあった。
ユダヤ教では食べて良い食べ物と食べてはいけない食べ物を定めたカシュルート(適正食品規定、食事規定)と呼ばれる律法があるのだ。
ユダヤ教徒が食べてはいけないのは、豚肉、エビ、カニ、イカ、タコなどだ。
ニューヨークの衛生管理当局とユダヤ人移民とのあいだの無理解はカルチャー・ショックと特徴づけることができるが、彼らをわかつ無理解と非順応の亀裂は非常に深かった。
同じようなパターンは第一次大戦中にも登場する。
しかもそれはユダヤ人のあいだだけではなかった。
ドイツはトルコ軍を再編成するにあたって、チフスその他の病気の防疫のためにかなりの力を注いだ。
このための二つの主な道具が『可動蒸気害虫駆除トラック』(Dampfdesinfektionwagens)と、害虫駆除目的に改造されたトルコ風呂(サウナ=蒸し風呂)であった。
ドイツ軍がおもに使ったのは硫黄ガスであり、そこでは、硫黄を燃やしてガスを発生させる発生器(Vergaser)が必要だった。
硫黄ということは、臭かったに違いない。
すでに1914年、ドイツは燻蒸(bagasen)の同義語として『ガス化、ガス』(vergasen)を使っていた。
地元住民の反応は様々だった。
トルコ人は、アラーが禁止しているとの理由で、シラミを殺す理由を理解していなかったし、ギリシア正教徒とユダヤ人は宗教上の理由から、処置の一部である入浴と髭剃りに反対した。
1914〜15年冬のセルビアでのチフスの大流行は国際的な救援活動を呼び起こし、そのなかには、初期の段階で防疫に努めたアメリカ救援隊も入っていた。
1915〜16年、ブルガリアが同盟国側に立って参戦し、かなりのセルビア領を与えられると、防疫部隊が精力的に活動しなくてはならなくなった。
この関連で、1916年3月の『ロンドン・デイリー・テレグラフ』に、70万のセルビア人が窒息死させられたという記事が登場した。
この70万という数字は1942年に『ナチスドイツによる大量ガス処刑説』がはじめて登場したも出てきた。
『デイリー・テレグラフ』は『ナチ・ドイツによる70万の犠牲者』と述べていたが、それは偶然の一致ではありえない。
つまり、第一次大戦のプロパガンダを数字もそのままでもう一度使ったのだ。
この話は、可動蒸気害虫駆除トラックが、無知で恐怖を感じていた人々の心のなかで、簡単に移動ガス室へと変わっていったことを思い起こさせる。
防疫を担当したのがドイツであるか、アメリカであるか、イギリスであるかに関係なく、同じような反応がポーランドでも起こった。
ドイツは、ポーランド各地で、とくにチフスに対する防疫措置を広範囲にこうじた。
ここでは飴と鞭の政策が取られた。
すなわち、ドイツはイェディッシュ語で書かれた丁寧な小冊子を使って、衛生管理の重要性、シラミの駆除の重要性を、トラー(ユダヤの聖書)に言及しながら説明した。
誰だって伝染病にはかかりたくないから、説明さえすればおとなしく特別措置を受けてくれるだろう。
だが、世の中は石頭の人間もたくさんいて絶対に言うことを聞かない者もいる。
特に『宗教だから』ですべてを拒否する人間には何を言っても無駄だ。
そこでドイツは銃剣を使って地元住民を強制的に入浴させたり、シャワーをあびさせた。
特別措置は任務なのだから住人の意思など無関係に完全に履行されなければならない。
戦後、チフスがポーランドと西ロシア地方で大流行した。
アメリカとイギリスの専門家が防疫のためにポーランドに赴いた。
彼らも住民を害虫駆除しようとした。
しかし、彼らも、とくにユダヤ系住民からの抵抗と不服従に遭遇した。
アメリカのやり方の特徴は、殺虫のためにビンづめのシアンガスを使うことだった。
1920年代、ドイツは、シアンガスを使うにあたって、ビンやいわゆるボンベよりも安全な媒体を開発した。
それはチクロンBと呼ばれ、粘土状の丸薬であった。
ガスは圧力を加えられて液体として吸収されており、その後、缶に密封されたものである。
缶が開けられると、丸薬が撒き散らされ、ガスがゆっくりと放出される。
第二次大戦の頃までには、チクロンBは石膏を添加されることによって安定するようになり、室温でガスを完全に放出するには3時間ほどかかった。
強力な殺虫剤ほど効き目があるが、同時に人体にとって危険極まりない。
作業者が安全な位置まで離れることができるチクロンBは殺虫剤としては理想的だった。
この頃、ドイツは『害虫駆除室(Entwesungskammern)』も開発している。
煉瓦やコンクリートも使われたが、普通は鉄製であった。
約10平方メートルで、衣服が入れられると、チクロンの丸薬がそのなかにまかれる。
この部屋あるいは装置には普通2つのドアがついていた。
汚れた衣服が1つのドアから入れられ、害虫駆除された衣服が別のドアから出された。
1つのガス室に2つのドアという構造はSucject34で説明したSS少佐アルフレード・フランケ・グリクシュの再定住報告で出てくるガス室と同じだ。
つまり、あの報告書のビルケナウ焼却棟IIのガス室の元ネタは害虫駆除室なのだ。
再定住報告書のガス室は害虫駆除室の構造を元に書いているため、書いた本人はリアリティがあると考えたのだろう。
現場検証すれば一発で嘘だとばれるのにな。馬鹿丸出しだ。アホすぎる。
さて第二次大戦の頃のドイツはまた、シアンの放出温度かその近くの温度の空気を強制的に丸薬に吹きかけて、放出時間をスピードアップする複雑な装置も開発した。
このような空気循環技術(Kreislauf)は大規模な鉄道トンネルでも使われ、空気循環ガス発生装置(Kreislaufvergasungsapparaturen)によって、一度にすべての客車を燻蒸することができた。
チクロンBは害虫駆除に広く使われていたが、1930年代と戦時中を通じて、その他の多くのガスや物質が害虫駆除に使われたことも指摘しておかなくてはならない。
チクロンに代わって広く使われたガスは、『Tガス』と呼ばれる酸化エチレンと二酸化炭素の混合物で、それは、鉄製のボンベに入れられて、パイプを介して、害虫駆除室に送り込まれた。
このTガスはナチスのマイダネク収容所で発見された『二酸化炭素』とラベルが張ってあるボンベの存在理由を説明している。
二酸化炭素では人は死なないが、害虫駆除には使うからな。
ソ連はこの『二酸化炭素』のラベルが張ってあるボンベを『一酸化炭素によるガス殺の証拠』と言っていたが、そんなことを信じるのはニッコーと対抗言論とその信者くらいなものだろう。
その他のガスには、Tritox、Ventox、Areginalがあった。
害虫駆除・殺菌駆除装置は、ドイツの都市防疫センター、ドイツ労働管理局の臨時施設、戦争捕虜や移送住民の通過収容所(Durchgangslagern)にも大規模施設として存在した。
これらの三つの施設は汚染部門と清潔区画(reine und unreine Seite)に分かれており、脱衣室、シャワー室、二つのドアを持った標準サイズの燻蒸室をそなえていた。
それにはいくつかのバリエーションがあった。
例えば、ドイツ中西部ヘッセン州ダルムシュタットの都市防疫センターは、ポーランド人、ソ連軍捕虜、ユダヤ人といった東部地区からの労働者の流入にそなえて、第二次大戦中に拡張された。
その地下室は防空シェルターとしても使われるようにされた。
ドイツ労働管理局の標準的な施設はディーゼル・エンジン室を備えていた。
ディーゼルは、これらの施設に動力源がなくなったときに、電力を供給することになっており、短時間で稼動したり、停止したりできるように設計されていたからである。
第二次大戦中、ドイツはこれらの手段すべてを使って精力的に防疫対策をこうじた。ユダヤ人がゲットーに収容されると、疫病が発生し、ドイツは地元のユダヤ人当局に防疫措置をとらせようとした。
痛ましいことではあるが、多くのゲットーでは、人々は隠れたり、指示に従わなかったり、抵抗したりした。
このときドイツは防疫処置を取らせようとして、ときに強引な手段に打って出た。
これがホロコーストとされているが、これのどこがホロコーストなのか私にはわからない。
当時の状況を無視して都合の良い事実のみを列挙すれば、たしかにドイツがユダヤを迫害しているということにはなるだろうが、歪曲以外の何者でもないだろう。
一方では、リトアニア共和国の都市ヴィルナ(ヴィリニウス)のゲットーが戦争を通じて防疫に成功したという記録もある。
この分野でのドイツ国防軍の経験も、防疫に成功した事例をあげている。
そこでは、浄化自動車や可動シャワー室が使われており、その多くはドイツ衛生医療部隊(Sanitatsdienst)のメンバーが改良したものであった。
もちろん、このような措置が適用されたなかで、もっとも悪名の高いものは強制収容所での措置であった。
収容者は到着するとすぐに、普通は裸にされ、貴重品を検査され、ついでシャワーを浴び、消毒ずみの衣服を与えられた。
実際、『浴室・害虫駆除施設』で衣服を害虫駆除し、別の区画でシャワーを浴びるという手順は酷似していた。
米兵クルト・フォンネグートは、ドイツの収容所に入ったアメリカ軍捕虜でさえも、その奇妙な儀式に不安となり、恐れを抱いたことを次のように描写している」
「裸のアメリカ人は、白いタイルの壁に沿った数多くのシャワー・ヘッドの下に立った。自分たちがコントロールできる蛇口はなかった。何が起ころうとも、待っているほかなかった。ペニスは縮み上がり、睾丸は中に引っ込んでしまった。生殖行為は、夕方の主な仕事ではなかった。見えざる手がマスターバルブを開いた。シャワー・ヘッドからは、沸騰した熱水が雨のようにほとばしり出た。その雨は、暖めることのないトーチ・ランプのようなものであった。それは、騒々しい音を立てながら、ビリーの身体に降り注いだが、骨の髄まで冷え切っていた彼の身体を温めることはなかった。アメリカ人の衣服はその間、毒ガスに通されていた。シラミ、バクテリア、蚤が数10億単位で殺されていた。」
「説明はまったくなされず、恐怖が支配するという状況は、50年前のメアリー・アンチンの時代からまったく変わっていなかったに違いない。
まして、屈辱についてはいうまでもない。
ドイツの防疫措置は以上のようなものであり、これに対するユダヤ人の反応は、不服従・逃避からパラノイア(熱狂)的な恐怖にまでまたがっていた。
こうした状況が、1942年から1944年夏のほぼすべてのガス処刑説に酷似しており、かなりの接点を持っていることがわかるであろう。
例えば、ソビボルはドイツの文書では通過収容所(Durchgangslager)とされている。
しかし、通過収容所には、到着者にシャワーを浴びせ、所有物を消毒してから、さらなる旅に送り出す施設が必要であった。
そこで起こったことはそのようなことであるとする生存者の証言もある。
しかし同時に、ソビボル収容所では到着者はシャワー・ガス・焼却という連鎖過程によってたんに絶滅されているという噂が西側で流れており、またそのように述べる証言もある。
マルキニア防疫施設はわずか数キロメートル離れたところにあったのだから、同じ状況がトレブリンカに関する証言にもあてはまる。
マイダネクに関しては、この状況はもっと顕著であった。
すぐ後に述べるように、浴室・害虫駆除施設IIはソ連によって絶滅センターとされた。しかし、その建設様式を見ると、入所者を消毒し、所有物を殺菌駆除する労働管理局の標準的な施設とまったく同一である。
1942年から1944年春までのガス処刑説を検証すると、それらは青酸・シャワー・浴室・可動ガス室に言及しているので、ドイツの防疫措置を検討してみた。
すると、ドイツは第二次大戦の60年以上も前に、防疫のために、可動害虫駆除室、浴室・害虫駆除室、燻蒸室――シアンガスを内包するチクロンBを一般的な殺虫剤として使用していた――を使うという措置を工夫していたことがわかった。
さらに、このような防疫措置に対しては、無理解あるいは伝統的な宗教的共同体の出身者のあいだで、またユダヤ人のあいだで、とりわけ、伝統的で孤立していた東ヨーロッパの出身者のあいだで、特徴的な反応があったこともわかった。
この反応には、逃避や不服従から、心配、恐怖、噂までがあった。最後に、当時行なわれていた害虫駆除措置が、当時流れていた大量ガス処刑の噂と非常に似ていることもわかった。
結論として、大量ガス絶滅という伝説の進化をつぎのように説明してみよう。
害虫駆除措置が東ヨーロッパの住民、とりわけ東部に再定住したか、強制労働に引き入れられたユダヤ人に適用された。
彼らは過去に虐殺を経験したことがあったので、絶滅と虐殺の噂を思い起こした。
これらの噂が今度は、西ヨーロッパやアメリカのユダヤ人団体に伝わり、彼らはその噂をすぐに信じ込んだ。
そして、この噂は、イェディッシュ語を含むイギリスのラジオ宣伝によって、ふたたびヨーロッパに戻り、広く信じられたわけではないとしても、1942年末までにヨーロッパの各地に広まるようになった。
つまり、ガス処刑の元ネタはドイツの防疫処置に対する未知の恐怖なのだ。
21世紀現在のようにシャワー・殺菌消毒・予防接種・それらの十分な説明の存在が『常識』として人々に当たり前に受け入れられる時代ではなかった。
口頭や冊子で説明しても、それを理解できない人間がいて、そいつらが思い込みで噂を騒ぎ立てていたのだ。
ひょっとしたら別のところから持ってきたかもしれないが。
どういうことかというと、これを見ていただこう」
「ここでご覧のような、鉄のドアとシャッターを付けた部屋――密閉された部屋という考えが浮かびました。二つの事実を結びつけてごらんなさい。どういうことになるでしょうか。……私が発見したものを観察してください。幅木にはガス管がありますね。よろしい。それは壁の隅にあり、コーナーにはタップがあります。その管はがっしりとした部屋につながってきて、天井の真ん中の漆喰のところで終わっており、そこは装飾で隠されています。その終わりは広く広がっています。外側のタップをひねれば、ガスが部屋に充満します。ドアとシャッターが閉じられ、タップが全開されれば、この小部屋に閉じこめられた人が意識を失うのに2分とはかからないでしょう。彼がどのような残酷な装置で彼らをここに誘導したのかわかりませんが、ひとたび、ドアの中に入ってしまえば、彼らは彼の慈悲のままです。だから、この小部屋に閉じこめられれば、2分しか生きていられませんが、ドアの反対側からあなたを嘲笑している悪魔を見ることはできます。どうしますか。……ここを見てください。幅木の真上に、消すことのできない紫色の鉛筆で『われわれ、われわれ』と書いてあります。それだけです。」
「鉄のドアの密室。
外のタップをひねれば密室にはガスが充満する。
ドアには覗き穴があり、内部に閉じ込められた人間は外で笑っている悪魔を見ることができる。
典型的なガス殺描写だな。
さて、これはアウシュヴィッツのことだろうか?それともマイダネク?または別の絶滅収容所のことだろうか?
答えはいずれも違う。
これはアーサー・コナン・ドイル卿によるシャーロック・ホームズの物語『引退したカラーマンの冒険』(1924年か1925年)からの抜粋であって、ナチスとはまったく関係が無い。
だが、これはナチスのガス室の描写そのものではないか。
もしかしたらガス室の本当の元ネタはこのような初期の大衆小説なのかもしれない。
ここまでそっくりだと単なる偶然で片付けてよいものかどうか悩むところだ。
最後に、ここまで説明したガス室神話のフローチャートをまとめておこう」
疫病の猛威
↓
19世紀・WWI・WWIIのドイツの防疫処置(ガス室・ガス車)
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防疫処置に対する未知の恐怖
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ガス殺の噂
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1942年 ブンド報告
↓
BBC
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欧米メディア
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1944年〜 ソ連の現場検証による権威付け
↓
1945年〜 ニュルンベルク裁判
↓
教科書・博物館・映画などによる権威付け
「さて、今回は以上だ。またネタが溜まったら更新する。ではさらばだ」