第二次世界大戦前のナチス・ドイツの軍事行動に関する情報を年表にしてみました。青字はオーストリア併合に関する話で、赤字はチェコスロバキアのズデーテンラント併合に関する話です。
時期 | 出来事 |
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第一次世界大戦当時 | |
― | 地図 |
1919年ヴェルサイユ条約(第一次世界大戦講和条約) | |
― | 分割された領土の地図 引用元:不思議の国のアリス |
― | チェコスロヴァキアにおける独逸人人口は、主にその独逸と隣接した西側の地域、ズデーテンラントとして知られる地域に固まっていた。これらのズデーテン独逸人は、何世紀にも亙ってそこで生活しており、オーストリア=ハンガリー帝國の中でも繁栄していた。これら、勤勉で細かいこだわりのある独逸人は、地域全体に繁栄する農場、生産性の高い鉱山と木材業と共に、時を経て大変秩序だった社会を発達させた。ズデーテンラントはまた、19世紀から20世紀初頭に大規模化学工業、褐炭鉱山と同時に繊維・磁器、ガラス工房(工場)などにより、高度に工業化された。ズデーテンラントは、舊オーストリア=ハンガリー帝國の中で、最も裕福で生産性が高く、ズデーテン独逸人はずば抜けて成功した裕福な民族集団であった。これは、チェコスロヴァキアの新しい國家に於いてもそうであった。ズデーテンラントに於いては、人口の39%が工業に従事し、農業はたったの31%だった。それに比べて、チェコスロヴァキアの他の地域では、大多数が農家であった。全ての大工場が独逸人に所有されており、独逸人所有の銀行の傘下であった。 1919年のサン・ジェルマン条約で造られた、新しい人工國家であるチェコスロヴァキアは、今は多数派のチェコ人に統治され、それは、基本的に320万人の独逸人を以前の臣民であるチェコ人に統治される立場に引き下げた。チェコ人は、以前の自分たちの上の人間に替わって殿様顔する事に大きく満足したが、独逸人の状況は急速に非常に厳しくなった。1919年、60万人に上る独逸人が、新政府によるチェコ人入植の為の方策により、生活基盤を剥奪され、彼らの数百年に及ぶ入植地を去ることを強要された。(ドイツ悪玉論の神話065) |
1920年 | |
― | 新チェコスロヴァキア共和國の憲法がズデーテンラントの独逸人の参加なしで起草された。この新憲法は、ズデーテンの独逸人の利害に極端な偏見のある条項を含んでいた。例えば、独逸人の財産を他の種々の民族集団に再配分する方策である。裕福な独逸人農民から土地が押収され、他の民族、主にチェコ人に再配分された。政府は更に他の「富の再配分」の枠組みの為に、紙幣の五分の一を押収した。独逸人がはるかに裕福であったためにこれは、独逸人を最も厳しく打ち据えた。チェコスロヴァキアの國家の安全保障と、チェコ人の権利を守ることを意図した政策も独逸人の不利益に働き、それは、國内の敵意を生み出した。古くからのズデーテン独逸人の國民的領土と考えられていた國境の森が防衛的な理由から強制収容された。チェコスロヴァキア政府は、独逸の國家主義を抑えるために独逸人が密集している地域にチェコ人を入植させたが、この政策は、逆効果しかもたらさなかった。チェコ人の学校が同じ理由で独逸人の地域に建てられた。ズデーテンの独逸人は、多数の政府補助の地方劇場を所有していたが、それも一週間に一夜、少数派のチェコ人の好きなようにすることを課せられ、これもまた敵意を生むことになった。全ての動きは、独逸人社会の団結を溶かして、他の民族への同化を促すものであった。しかし、これらの全ての方策は、独逸人を更に國の残りの部分から疎外し、ズデーテン独逸人とチェコ人の間の摩擦と不和を増長した。(ドイツ悪玉論の神話065) |
1931年 | |
― | 第一次大戦後、パリ講和会議で巨大な多民族帝國、オーストリア=ハンガリー帝國はバラバラにされ、オーストリアには、残存部分として、人口680万人の、大部分が独逸人の小さな國家が残された。オーストリア=ハンガリー帝國の一部としてオーストリアは、比較的自給自足できる経済系の最も重要な部分であったが、今や、巨大帝國から削り取られ、ちっぽけな独立國家となり果てたオーストリアは、もはや、経済的に生存できる実体ではなかった。オーストリア=ハンガリー帝國から賄えた原材料資源や製品の輸出市場から切り離された。オーストリアは独逸語圏で、独逸人の國家であり、オーストリア=ハンガリー帝國無き後は、独逸と結びつくことが理に適っていた。更に、オーストリア、独逸双方にそれに対する強い支持があったが、ヴェルサイユ条約は、特にそれを禁じた。実際問題、第一次大戦は、第一に独逸の領土と力を減じるために戦ったもので、ヴェルサイユ条約は独逸が再び超大國になる事を避けるための方策であった。この理由により、戦勝國は、一貫してオーストリアと独逸の統合に反対した。 オーストリアが経済的に自立できない國であることが明らかになるに連れて、独逸との統合に対する人々の支持は増加した。1930年代初頭までに独逸とオーストリアの人々の間で統合に対する支持は圧倒的であった。少なくとも80%のオーストリア人が独逸との統合を望んていたと推定され、ほぼ同じくらい高い割合で独逸人も望んでいた。準備段階として1931年に独逸とオーストリアの二國間で自由貿易と旅行の自由を許可する税関の統合が試みられたが、協定はフランスとチェコスロヴァキアにより顕著に外からの力で阻止された。この二國はこの協定をヴェルサイユ条約の合意を逃れる企てと観た。25%に上る失業率と飢える國民を前に、オーストリアは、必死で貿易と生産性を増進する方法を探っていた。しかし、それは悉く、外からの力により阻止された。独逸との統合はオーストリアの諸問題をすべて解決するはずであり、また同時に國家社会主義者の「単一独逸國家」の夢を一部実現するものだった。(ドイツ悪玉論の神話059) (ドイツに関し、)オーストリア(は自国)を山間の小国に閉じ込めたオーストリア版ベルサイユ条約であるサン=ジェルマン条約への恨みはあった。しかしそれ以上にドイツの勧めてきた経済再建を評価し、オーストリアを苦境から救ってくれるのではないかと強く期待した。どちらの条約でも、ドイツとオーストリアは関税協定を結ぶことさえ、国際聯盟の承諾なしにはできなかった。世界恐慌の中、ドイツはオーストリアとの関税同盟の容認を願った(一九三一年)。しかし、英仏伊そして特にチェコスロバキアの反対で許されなかった。ドイツへの意地悪ともとれる周辺国の態度は「ドイツ国内に強い恨みを残し(9)」ていた。(渡辺惣樹著「戦争を始めるのは誰か」252〜253ページ) (9) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p78.(53ページ参照) |
― | 大恐慌が起きると、ズデーテン独逸人は他のチェコスロヴァキアの地域よりも國際貿易、特に独逸との貿易に頼っていた為、特に大きな被害を受けた。大恐慌の間、チェコスロヴァキア政府は、ズデーテン独逸人を犠牲にしてチェコ人市民を守る方策を取った。結果として工業化したズデーテン独逸人の失業率は残りのチェコスロヴァキアの5倍となった。二つの集団の間の緊張は、増加した。争議が起こった。チェコ陸軍とチェコ警察はチェコ人の味方で独逸人住民に対する多数の残虐行為が行われた。(ドイツ悪玉論の神話065) |
1933年 | |
― | ウィリアム・ハーバット・ドーソンは、「条約下の独逸」(1933年)で次の様に述べている。 「今日欧州の暮らしの中で、回廊(問題)ほど重大な危険を孕んだそして平和の脅威の確かな要素はない。回廊は独逸を二つの部分に切ってしまい、ダンツィヒと言う最も独逸的な町を祖國から断絶してしまったからだ。欧州は、この脅威を無視し、問題が漂流する事を許しても大丈夫なのだろうか? そうする事は、災難を招き入れ、急き立てている事と同じである。何故なら、12年に亙るポーランドの統治の後、回廊の状況は、良くなるどころか、着実に悪化しているからだ。 今となっては、ポーランドの貿易に必要なすべての物は、現在も将来も、回廊無しで賄えるという事が充分過ぎるくらい明らかとなり、また、独逸とポーランドの友好関係は欧州に於ける平和の固定化にあまりにも重要であるので、政治的な奇形が続く限り、(平和は)不可能であろう。その領土の大部分は、その文明がよって立つところの國に戻されるべきである。」(ドイツ悪玉論の神話070) |
1938年 | |
3月 11日 |
1919年の25箇条の演説に始まるヒトラーの最優先の目標の一つは、全ての独逸の人々の単一國民國家への統合であった。ヒトラーはオーストリア人であったが、常に自分を独逸人と呼んでおり、オーストリアを独逸の一部と考えていた。(ドイツ悪玉論の神話059) ヒトラーはオーストリア首相シュシュニックに最後通牒を突きつけ、彼の退陣と民族社会主義者への権力移譲を要求し、聞き入れなければ占領する、と言った。伊仏英いずれの支持も得られず、また、國内の支持も少なかったシュシュニックは首相を辞任した。そして、民族社会主義者の内務大臣、ザイス=インクヴァルトが首相になった。これで民族社会主義党がオーストリア政府を取り仕切った。 独逸との統合問題を巡ってオーストリア中で暴動が発生した。そこで、新首相、ザイス=インクヴァルトは、ヒトラーに独逸軍を出動してもらうよう依頼した。そんなことが本當に必要であったかは定かではないが、それが独逸軍がオーストリアに進駐する口実として使われた。(ドイツ悪玉論の神話060) |
3月 12日 |
オーストリアのキリスト教社会党の重鎮のテオドール・イニツァー枢機卿は、3月12日に宣言した。「ウィーンのカトリック信者は、この政治的激変が無血で起こったことを神に感謝すべきだ。そして、オーストリアの偉大な未来にお祈りすべきだ。言うまでもなく、皆が新しい体制の秩序に従うべきだ。」(ドイツ悪玉論の神話061) ドイツ軍(第八軍)がオーストリアに侵攻したのは三月一二日朝のことであった。オーストリア国内に入ったドイツ軍への抵抗は皆無だった。オーストリア国民は侵入するドイツ軍をむしろ歓迎した。街道の国民は歓声を上げ、ナチス式敬礼で迎えた。発砲の事態が一つもなく花束で迎えられた。それが「花の戦争(Blumenkrieg)」とされる所以だった。 ヒトラーはオーストリア国民がこれほど彼を歓迎するとは予想していなかった。彼の凱旋帰国は生まれ故郷のブラウナウ・アム・インから始まった(三月十二日)。(「戦争を始めるのは誰か」251〜252ページ) |
3月 13日 |
オーストリアのプロテスタントの会長、ロバート・カウアーは、3月13日に「35万人のオーストリアの独逸人プロテスタントの救世主で、5年に亙る苦難からの解放者」として、ヒトラーに挨拶した。(ドイツ悪玉論の神話061) ヒトラーはオーストリアのレオンディング(リンツ郊外)にある両親の墓所に献花した。(「戦争を始めるのは誰か」251ページ) |
3月 15日 |
午前一一時、(オーストリアの)ウィーンに入ったヒトラーは英雄広場に集まった二五万人の市民を前にオーストリア併合を高らかに謳いあげた(6)。この演説の模様もユーチューブで確認できる。聴衆の反応から決して官製の強要された振舞ではないことがわかる。「『総統の顔が見たい』と叫ぶ聴衆の声で、ヒトラーは何度も宿泊先のホテル・インぺリアのバルコニーに立たなくてはならなかった(7)。」 当初、ヒトラーは、(オーストリア首相)シュニシクに大ドイツ帝国構想を語ってはいたが、オーストリアを新しい国家社会主義の国として生まれ変わらせた上で、ドイツとの連邦国家にするつもりであった。つまり別個の国としての運営を考えていた。しかし予想もしなかった熱烈な歓迎を見て、大ドイツ帝国の一部として併合することに決めた(8)。 なぜオーストリア国民はこれほどにドイツとの併合を歓迎したのだろうか。なぜ国民はシュニシク首相の抱く反プロシア(ドイツ)、反プロテスタントの感情を共有しなかったのだろうか。1931年参照。それから七年後初めて軍事力を行使して願いを叶えたのである。 実際に併合後のオーストリア経済の回復は目覚ましかった。先述の歴史修正主義の歴史家マーク・ウェーバーは次のように書いている。 「一九三八年三月にドイツに併合されたオーストリアの経済発展は目覚ましかった。官僚たちは社会の沈滞を一掃し瀕死の経済を再活性化させた。投資、工業生産、住宅建築が活性化し消費も増大した。観光旅行を楽しむものも増え生活水準はたちまちに上がった。一九三八年六月から一二月の間に工業労働者の賃金は九%上昇した。国家社会主義政権のもとで失業者も激減し、アメリカの歴史家バー・バクリーは近年の歴史上でも驚くべき経済回復を見せた、と書いている。一九三七年の失業率は二一・七%あったが、一九三九年にはわずか三・二%にまで低下したのである。(10)」(「戦争を始めるのは誰か」251〜253ページ) (6) Giles MacDonogh, 1938 : Hitler's Gamble, Constable, 2009, p74.(242ページ参照) (7) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p198.(53ページ参照) (8) MacDonogh前掲書、p69. (10) Mark Weber, How Hitler Tackled Unemployment and Revived Germany's Economy, Institute for Historical Review, November 2011 & Feburuary 2012. https://ihr.org/other/economyhitler2011(206ページ参照) 独墺統合より前は、オーストリアの経済は、人口の三分の一が失業中と言う壊滅的な状況であった。國境の向こう、独逸では、失業者は消滅し、生活水準と労働環境は、大いに改善していた。そして経済、社会、文化活動・生活を再び謳歌していた。ヒトラーが首相になる前は、独逸の経済状況はオーストリアと同様であった。オーストリアのライヒへの編入に従い、オーストリアでも状況は劇的に改善した。独墺統合の後、たったの半年で失業者は、以前の四分の一に減少した。1940年までにオーストリアの失業率はたったの1.2%となった。 1938年の年末までに(つまり、独墺統合が起こった間)オーストリアの労働者の賃金(週給)は9%上昇した。オーストリアのGNP は、1938年に12.8%、翌1939年には13.3%成長した。この様な劇的な経済成長は、一國の歴史に於いて滅多に経験することは無いのものだ。 独墺統合から少しの後、独逸の國内労働法とその包括的な社会保障系がオーストリアにも取り入れられた。職場における基本的な権利が保証されることになり、労働者は、恣意的解雇から保護されることになった。これらの方策により、20万人以上に上る絶望的な貧困層の人々にも即座に安心感を与え、健康保険制度も労働者階級にまで拡大する事になった。安価な住宅を供給する為の大規模な建設計画が直ぐに着手された。音楽・芸術・文学の分野での活発な振興策により、文化生活が鼓舞された。これら全ての結果は、繁栄と楽天主義の増進であったが、同時に、オーストリアの出生率の急増であった。オーストリアの人々は、独逸との統合は史上オーストリアにとって最良の出来事であると信じ、ヒトラーは奇跡の仕事人だと信じた。(ドイツ悪玉論の神話062) |
4月 10日 |
独墺統合は、即刻、プレビサイトによる承認により、施行された。適正なオーストリアの有権者の登録を経て、選挙(投票)は、独逸・オーストリア両國で1938年4月10日に行われた、独墺統合は、オーストリア人の99.75%の「賛成」票、独逸人の99.2%の「賛成」票で承認された。 オーストリアの第一次大戦後最初の首相となったカール・レンナーは、独墺統合への支持を表明し、4月10日には全てのオーストリア人に賛成投票する様に訴えた。「独墺統合がウィルソン大統領の自己決定権の原理の適用に過ぎないとヒトラーが主張するのは、とても真っ當な尤もな議論である。」 予期される通り、猶太人の書き手は違った見方をしていた。猶太人歴史家のウィリアム・L・シャイラーは、著書「第三帝國の興亡」の中で、独墺統合を「(ナチス独逸による)オーストリアの強姦」と呼んでいる。 ヒトラーは後に論評している。「ある種の外國新聞は、我々が暴力的な方法でオーストリアに降りかかったと書いている。私はただ、次の様に言えるだけだ。奴らは、死んでも嘘を吐くことを止めないだろう。私は、自分の政治的闘争の中で、我が人民からの愛を勝ち取った。しかし、以前の國境を越えて(オーストリアに)入った時、私はそれまでに経験したことのないような愛の流れに遭遇した。我々は、圧制者としてでなく、解放者として来たのだった。」(ドイツ悪玉論の神話061) |
9月 13日 |
チェコスロバキアは人工の国であり、その成立にはチェコ人指導者の強欲がかかわっていた。一九一九年のベルサイユ条約では外務大臣のエドヴァルド・ベネシュの強い主張でドイツ系三二五万がチェコスロバキアの中に囲い込まれた。「ウィルソンの民族自決原則に対する見事なほどの裏切りだった(1)」のである。英国の左翼系ジャーナリスト、H・N・ブレイルフォードでさえも、ベルサイユ条約の最大の過ちは三〇〇万のドイツ人をチェコ人の下に閉じ込めたことであると批難したほどだった(2)。 チェコスロバキア政府は人口の二五%に相当するドイツ系、あるいはそれに匹敵するスロバク系やマジャール系(ハンガリー系)が議会で発言権を持つことを防ぐために、選挙区割りをチェコ人有利に変更した。典型的なゲリマンダーの手法で、チェコ人に有利な議会運営を図った。「五〇〇万を超えるドイツ系やマジャール系などの民族は国会で一つの議席も持てなかった。彼らの要求はことごとくチェコ系によって無視された。憲法に関わる全ての基本法、公用語規定、社会変革政策、土地改革などが国会で決まっていったが、ドイツ系やマジャール系の声が反映されることはなかった(3)」のである。 一九二〇年から三八年にかけて、少数派となった民族は国際聯盟に請願を繰り返した。一九三八年に入ると西部ズデーテンラントのドイツ系住民はドイツへの編入に向けて実力行使に出た。もし住民投票が実施されたら八割がその主張を是としただろうと言われている(5)。 九月一二日から一三日には、オーストリア併合を成し遂げたヒトラーが、ズデーテンラントのナチス党指導者コンラッド・ヘンラインに蜂起を促し、ドイツとの併合を主張させた。チェコスロバキア政府は戒厳令の施行で対抗した。(「戦争を始めるのは誰か」251〜253ページ) (1)(2) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p213.(53ページ参照) (3) 同上、p214. (5) Buchanan前掲書、p215. チェンバレン首相は、割って入り、平和的解決を目指す仲介を申し出た。彼は、独逸とチェコスロヴァキアの間で戦争が起こらない様にランシマン子爵を送った。ランシマンは、両國を歩み寄らせて何らかの合意を得ることが出来なかった。そこで彼は英國に帰った。彼は英國に帰國した折、次のような、ズデーテン独逸人に非常に同情的な報告を英國政府に提出している。 「独逸語が殆どか全く話せないチェコ人の役人と警察が多数、独逸人しかいない地域に赴任している。チェコ人の農業入植者が農地改革の名の下に独逸人から押収された土地に独逸の居住地域のど真ん中で、定住を奨励されている。これらのチェコ人の侵入者の為にチェコ人の学校が大規模に建てられている。チェコ人の企業は、國の契約の分配に於いて独逸人の企業と比べて有利に扱われ、しかも國は仕事や救済を独逸人に出すよりもチェコ人に優先した。私は、これらの苦情は概ね筋が通っていると信じる。私の派遣の時に至ってもチェコスロヴァキア政府によるこれら諸問題に対する対策は充分な規模では全く行われることもなかった。(中略)ズデーテン独逸人の気持ちは、3〜4年前までは絶望に近いものだった。しかし、ナチス独逸の現出が彼らに新たな希望を与えた。私は、彼らが同胞に助けを求め、そして最後にはライヒに帰属する願いは、この状況下、自然の成り行きと見做す。」(ドイツ悪玉論の神話066) |
9月 15日 |
一触即発の状況をみた英国ネヴィル・チェンバレン首相はドイツに飛びベルヒテスガーデンでのヒトラーとの会談に臨んだ。チェンバレンはチェコスロバキア政府との事前交渉なしで、ドイツ系住民が五割を超える地域についてはドイツ編入を容認する、フランスにもそれを納得させると約束した。(「戦争を始めるのは誰か」264ページ) ロンドンのタイム紙は、社説でヒトラーは正しいとしてズデーテンラントの独逸への併合を支持した。社説はまた、ハンガリーとポーランドの要求も支持した。 チャーチルは勿論、このタイムスの社説を取り上げて議論してる。「このたった一つの段落で、タイムスは、ナチのもっとも極端な要求に支持を与えた。ズデーテンラントの完全な分離は、それが通ればチェコスロヴァキアに崩壊の宣告をする要求であり、そして大半のズデーテン独逸人をナチスの規則の厳格で融通の無さの下に置くことである。」チャーチルは、ズデーテン独逸人の圧倒的な多数が独逸との併合を要求した事実を無視していた。同じ日、外務省は公然とチャーチルとの関係を絶った。(ドイツ悪玉論の神話066) |
9月 30日 |
四ヶ国交渉においてチェコスロバキアの意志とは無関係にズデーテンラント併合が容認された。 これが世界史の教科書にはただ単に一言で「ミュンヘン協定」として説明される事件である。しかし、ここに書いたように、ドイツ、チェコスロバキア、そして英仏も臨戦態勢にあり、ヨーロッパ各国は、再び戦いが始まることに怯えていたのである。だれもが先の大戦の恐怖を鮮明に記憶している時期だった。 「ミュンヘン協定」を戦後の史書は宥和政策の失敗だと説く。しかし、これは当時の世相をまったく斟酌しないあまりにも単純な解釈である。 イギリスの歴史教育のサイト(9)では、チェンバレン英首相が「対独宥和」の代名詞とされてしまったミュンヘン協定を結んだ背景に以下の六点を挙げている。まっとうな指摘である。
「ジョージ六世直々の要請で、空港からバッキンガム宮殿に向かうことになった。『私から直接祝福の言葉をかけたい。ミュンヘンでの交渉の成功を祝いたい』。これが国王の言葉だった。(中略)宮殿までの道のりはわずか九マイル(一四キロメートル)ほどだったが歓迎に出た市民で溢れ、一時間半もかかった(2)」(チェンバレン英首相) 「ミュンヘン協定」やチェンバレン首相個人を現代の歴史家がどれほど低く評価しようとも、同時代人はチェンバレン外交の成果を心の底から喜んでいた。(「戦争を始めるのは誰か」267〜270ページ) (9) https://www.bbc.co.uk/schools/gcsebitesize/history/mwh/ir1/chamberlainandappeasementrev3.shtml (2) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p206.(53ページ参照) |
10月 1日 |
独逸陸軍は反抗無しに、喜びを以って受け容れるズデーテンラントに進駐した。チェコスロヴァキアは、知識人が創った、そして第一次大戦の戦勝國が支持した、人工的でうまくいくはずがない國家であった。実際、それは成功する可能性が皆無で、その死は悲劇でもなかった。ミュンヘン協定の後、國に残された部分は即座に民族地域の境で分裂し始めた。(後略)(ドイツ悪玉論の神話067) |
10月 2日 |
ポーランドはズデーテンラント併合の混乱に乗じて、ミュンヘン協定のわずか二日後、チェコスロバキアに侵攻しチェシンを奪っていた。炭鉱のある町だった。このことはポーランド自らベルサイユ条約による国境線引きを変えても構わないと考えていることの証左だった。 |
10月 5日 |
チャーチル(当時大臣等の役職なし)は「われわれの完敗である」との言葉で始まるチェンバレン批判を議会でぶった。 歴史家パトリック・ブキャナンはチャーチル演説の「ナンセンス」さを冷静に分析している。彼は、当時のチェンバレンが仮に「ミュンヘン協定」を結べず(結ばず)戦争になった場合、英国に勝利の見込みはなかったしズデーテンラントの併合を止めることは決してできなかった、と断じている。英国にはドイツに派遣する陸軍はなかった。フランス国民もチェコスロバキアのために血を流す気にはなれないでいた。ズデーテンラントはオーストリア併合で南北と西側の三方からドイツに囲い込まれていた。その上、容易に第五列となる三〇〇万を超えるドイツ系住民がそこにいた。このような状況でイギリスができることといえば、優越する海軍を使って再び港湾を封鎖するぐらいのものであった。要するに英国の意思に関わりなく、英国はズデーテンラント併合を防ぐ軍事力を持っていなかった。 こんな状況で、ズデーテンラントを防衛するために、チャーチルはスターリンとの防衛構想を唱えた(5)。スターリンの恐怖政治に敏感であったヨーロッパ諸国、特にソビエトに隣接する国々の感情など全く考慮していなかった。政敵のパージ、ウクライナに対する非道な食糧政策が惹起した大飢饉(ホロドモール)。その実態は既に明らかになっていた。「国境を接する国々の指導者が、ヒトラーかスターリンのどちらかを選べと言われたらヒトラーを選んでいたに違いない(6)」状況だった。当時のスターリンの犠牲者は既に一〇〇万単位であったがヒトラーの犠牲者は数百人に過ぎなかった(7)。 たしかにチャーチルのいうとおり、チェコスロバキア救援能力のある陸軍を保持していたのはソビエトだけであった。しかし、ソビエトを警戒する隣国が、チェコスロバキア救援に向かう赤軍の通過を認めるはずもなかった。ひとたび赤軍を領土内に入れたらそのまま駐留することがわかっていた。「東欧中欧諸国はドイツのズデーテンラント併合の方が、ロシアがチェコスロバキア救援に入った場合の恐怖に比べたらよほどましだと考えた(8)」のである。(「戦争を始めるのは誰か」270〜272ページ) (5) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p229.(53ページ参照) (6)(7) 同上、p230. (8) 同上、p231. |
10月 24日 |
ドイツ国民には、ダンツィヒとポーランド回廊奪還を願う強い気持ちがあった。この問題についてはヒトラーよりも国民の方が強硬だった(1)。現実に、ダンツィヒに住む三十五万のドイツ系住民はドイツへの帰属を求める行動を活性化させていた。これは同市の人口の九五%に匹敵する数字だった。(「戦争を始めるのは誰か」273〜274ページ) (1) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p242.(53ページ参照) 回廊の主な問題は、この土地が独逸の領土を東プロシャと残りの独逸領土の二つに分割している事だった。独逸人が東プロシャと行き来するには、回廊を避けて船で回り道しなければならなかった。彼らは、回廊を横切ることを許されていなかった。独逸の町ダンツィヒ(現グダニスク)もポーランドに港湾施設を提供する目的の為、独逸から取り上げられ、「自由都市」として國際聯盟の監督下に置かれていた。約150万人の独逸人が今は二級市民としてポーランド支配下の領土(ポーランド回廊)に住んでいた。 ヒトラーはフォン・リッベントロップ独外相に、ポーランド大使リプスキーに対して次の四箇条の計画提案をするよう指示した。これは、ヴェルサイユ条約の不正を正し、独波(ポーランド)間の摩擦の根を全て除去するものであった。
この「四箇条」による合意は、ポーランドから何一つ取り上げるものではなかった。ダンツィヒは、ポーランドの町ではなかったが、國際聯盟の監督下の「自由市」であった。独逸の四箇条の提案は、ポーランドが引き続きダンツィヒの港湾設備を使う事を以前と同じく許可していた。独逸はこの時、ポーランド回廊として知られる失った領土の返還を要求しなかったが、東プロシャまで通過する國道と鉄道を建設する権利だけを要求した。独逸の要求に無理難題は一切なかった。(ドイツ悪玉論の神話070) ところが返ってきた答えは「ノー」であった。 歴史家A・J・P・テイラーは次のように書いている。 「彼ら(ポーランド)が一九一八年に独立できたのはロシアとドイツがともに敗れたからであった。それが次第に(一九三九年になって、安全保障上)どちらかの国と提携しなくてはならない状況になっていた。ところが彼らはそのどちらの国との提携も拒否したのである。ダンツィヒ問題だけがドイツとの提携の障害だった。だからこそヒトラーはその障害を取り除こうとした。しかしベック外相はその障害をそのままにすることを選択した。ベックはその判断がポーランドを死に導くことになるとは思いもしなかった(6)」(「戦争を始めるのは誰か」275〜276ページ) (6) A. J. P. Taylor, The Origins of the Second World War, Second Edition, Simon & Schuster, 1969, p123. |
11月 | アメリカは駐独大使ヒュー・ウィルソンを召還し、対独外交を麻痺させた。(「戦争を始めるのは誰か」296ページ) |
1939年 | |
1月 5日 |
ポーランドの外務大臣、ユゼフ・ベックがベルヒテスガーデンでヒトラーと会談した。ヒトラーは、ベックに対して、独逸がポーランド回廊の返還要求をしない、と言う明白で確実な保証を繰り返し、鉄道と國道の通過を望んでいるだけであることを再確認した。(ドイツ悪玉論の神話071) 英国の歴史家バジル・リデル・ハートが、ヒトラーの要求は「驚くほど穏健なものであった」と書いているほどである(7)。それでもベックはドイツの提案を全て拒否した。こうしてヒトラーが期待するダンツィヒ・ポーランド回廊問題の外交的処理は暗礁に乗り上げた。(「戦争を始めるのは誰か」276〜277ページ) (7) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p78.(245ページ参照) |
1月 6日 |
フォン・リッベントロップは、ミュンヘンでのポーランド高官との会談で回廊だけでなく、ポーランド全土を保証する意志を確認した。(ドイツ悪玉論の神話071) 多くの読者が釈明史観(apologism。FDR・チャーチルを是とする歴史観。この歴史観の特徴はこの二人の政治家の評価に不都合な史実を極力軽視するか、あるいは全く触れないことにある。180ページ参照)に基づく歴史書を読んでいる。そうした書は、ヒトラーが、この時期にはポーランドに好条件を提示しダンツィヒ帰属問題の外交的決着を強く望んでいたことを書かない。これを書いてしまうと、ヒトラーのナチスドイツは当初から全ヨーロッパ支配を入念な計画に沿って企む極悪国だった、連合国に潰されるべき国であった、という主張が崩れるからである。(「戦争を始めるのは誰か」277ページ) |
1月 16日 |
以下の発言は、ウィリアム・ブリット駐仏米国大使が、パリに帰任する際に、ポトツキー(ポーランド)大使と会談した時に発したものである。「英仏は、全体主義国家と、いかなる種類の妥協もやめなければならないというのが、大統領の確固とした意見である。領土的変更を目的としたどんな議論も許されてはならない。合衆国は、孤立政策から脱却し、戦争の際には英仏の側に立って、積極的に介入する用意がある旨を同義的に確約する。」(「TRAGIC DECEPTION」(米国の政治家ハミルトン・フィッシュ著、1983年刊行)) |
1月 23日 |
ワルシャワを訪れたフォン・リッベントロップにより、1月6日の意志は再び繰り返し提案された。(ドイツ悪玉論の神話071) その後にポーランドが辿った運命を知る者にとっては、ヒトラーの一九三九年のオファーを受けておけばこの国の運命は大きく変わったと考える。戦後のポーランドがソビエトの軛から逃れたのは、この傲慢でかつ愚かな決断から六〇年後のことであった(一九八九年)。(「戦争を始めるのは誰か」277ページ) |
3月 15日 |
FDRは、英国ハリファックス外相に対して、イギリスがその対独外交方針を変更しなければ、米国世論は反英国に傾くと脅した(5)。FDRは、ドイツから英国大使を引きあげ外交関係を断つことまで要求した。しかし、ハリファックス外相は、「英国民は外交の重要性についてはよくわかっている。アメリカ国民ほど無知ではない」と皮肉交じりに答え大使を召喚する愚策はとらなかった(6)。(「戦争を始めるのは誰か」295〜296ページ) (5)(6) David L. Hoggan, The Forced War : When Peaceful Revision Failed, Institute for Historical Review, 1989, p169. |
3月 19日 |
ブリット駐仏米大使は、ポーランドに、彼自身もルーズベルト大統領も、必要ならばダンツィヒを巡ってポーランドの参戦意欲を頼りにしている、と伝えた。1939年3月19日、英仏が対独戦争を推進するために必要なことをルーズベルトは何でもする用意がある、とブリットはポーランドに伝えた。(ドイツ悪玉論の神話077) |
3月 21日 |
フランス大統領ルブランと英國首相チェンバレンはロンドンで会談し、独逸を「取り囲む」仏英波同盟を提案した。この提案はその後ポーランドの高官に送られ、それはヒトラーの要求に対するポーランドの抵抗力を更に強める効用があった。独逸の最善の外交努力にも拘わらず、ポーランドは、これで何につけ、承諾することを拒むようになった。(ドイツ悪玉論の神話071) |
3月 26日 |
ブリット駐仏米大使は、ロンドンのジョセフ・P・ケネディ大使に連絡し、「ダンツィヒを巡って敵対が起きれば、英國が対独戦を始める事を米國が望んでいること」をチェンバレン英国首相に伝えるよう指示した。英國はその後、陸軍の規模を倍増する事を発表した。(ドイツ悪玉論の神話077) |
独ポ交渉は再び決裂した。 ポーランドの愚かさをハミルトン・フィッシュは次のように書いている。 「ユゼフ・ピウスツキ元帥はポーランドの歴史上でも傑出した政治家であり国民的英雄であった。ポーランドが危機にある時にはすでに亡くなっていた。もし彼が存命であれば、ダンツィヒを交換条件にしたポーランド独立の保証をドイツから取り付けていたに違いない。もちろんピウスツキがナチスドイツに肩入れしていたなどと言うつもりはない。彼はソビエトロシアの本質をよくわかっていた。共産主義を嫌っていた。その彼が世を去っていたことはポーランド国民にとっては不幸なことだった。ピウスツキは優れた軍人であり、ヒトラーでさえ一目置いただろうと思える人物であった。 私はポーランドから逃れてきた多くの人々の話を聞いた。みな口をそろえて私と同じことを言っていた。ピウスツキが生きていたならダンツィヒ問題は平和的に解決されていたはずだと嘆いていた。そうなっていれば、ポーランド侵攻もなく、大戦もなく、共産主義者によって一万二千ものポーランド士官らが虐殺(ソビエト赤軍によるポーランド士官虐殺事件〔カチンの森虐殺事件〕)されることもなかった。戦後、ポーランドが共産化することもなかったのである(8)。」(「戦争を始めるのは誰か」277〜278ページ) (8) ハミルトン・フィッシュ著『ルーズベルトの開戦責任――大統領が最も恐れた男の証言』(渡辺惣樹訳、草思社、二〇一四年)一六七−一六八頁。39ページ参照。 |
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3月 31日 |
チェンバレン首相は議会で、ポーランドと独逸の間で戦争が起きれば、「額面無しの小切手」をポーランドに保証すると発表した。つまり、それは、独逸がポーランドを占領すれば、英國は独逸に宣戦布告するという事だ。フランスも英國に加わり、同様の保証をした。(ドイツ悪玉論の神話077) ロバート・ブースビー議員は、「我が国最悪の狂気の沙汰だ」と憤った(9)。対ドイツ宥和派のロイド・ジョージは怒りを通り越して笑い出してしまうほどだったと述べている。「もしわが国の将軍たちがこれを承認していたとすれば、彼らはすべて気が違っている」とも言った(10)。 イギリスがこれまで取ってきた外交はベルサイユ体制の不正義を理解し、ドイツの恨みに敏感で、その不正義の解消は「武力を伴わない方法であれば」進めて構わないというものだった。ヒトラーにとって、ダンツィヒ・ポーランド回廊問題は、ベルサイユ体制の不正義是正の最終案件であった。だからこそ英国の態度を慮り軍事行動を自制し、あくまでポーランドとの外交的妥結を目論んだ。しかし、ポーランド独立保障で何もかもが崩れた。歴史家バジル・リデル・ハートは、チェンバレンの唐突な外交方針の一八〇度の転換がもたらすドミノ効果を憂え、「強情なポーランド政治家をますます頑なにし、ヒトラーに外交上の体裁を取った上での妥協でさえもできなくしてしまった」と嘆いた(11)。 ダフ・クーパーは反チェンバレンの急先鋒であり、ミュンヘン協定調印後、抗議の意味を含めて、海軍大臣職を辞した政治家であった。その彼でさえポーランド独立保障宣言に驚いた。 「我が国史上初めて、我が国が戦争するかしないかの判断を小国に預けてしまった(12)」 当時アメリカ国内で、ヨーロッパ情勢の悪化を憂え、何とか再びの戦いが起きないよう願っていたハーバート・フーバー元大統領もチェンバレンの方針転換とそれに追随するフランスの外交に呆れている。 「ヒトラーが東進したければさせるというのがこれまでの考え方だったはずではなかったか。現実的に英仏両国がヒトラーのポーランド侵攻を止められるはずがない。これではロシアに向かうスチームローラー車(ドイツ軍)の前に、潰してくださいと自ら身を投げるようなものではないか(13)」(「戦争を始めるのは誰か」285〜287ページ) (9)(10) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p255.(53ページ参照) (11)(12) 同上、p256. (13) Herbert Hoover, Freedom Betrayed : Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath, Hoover Institution Press Publication, 2011, pxxvi. |
3月 以降 |
ポーランドには長い軍隊の伝統があり、強力でよく訓練された陸軍を維持しており、それは実際独逸陸軍より大きかった。ポーランドの陸軍は最近では1920年にロシアの赤軍を打ち負かしていた。ポーランドの軍の指導者は独逸の軍事力にはこれっぽちも脅迫されていなかった。思い出してほしいのだが、独逸の軍隊は、ヴェルサイユ条約により10万人に制限されており、そのポーランド危機の頃の独逸は未だ軍備を整えている最中であった。ポーランドは独逸に脅迫されていたどころか、むしろ好戦的であった。(ドイツ悪玉論の神話071) ポーランドは独逸陸軍より大きな陸軍を持ち、高度に軍國化していた。更に、ポーランドの新しい指導者は、独逸に対して侵略的な態度を持った軍人であった。英仏の「額面無しの小切手」保証に支援されて、ポーランドは挑発行為さえ始める始末だった。戦争の勃発に先立つ数か月、ポーランド陸軍は繰り返し独逸の國境を侵していた。ポーランドの非正規兵と独逸の正規兵・予備兵による衝突が独波國境沿いで頻発し、その全てが独逸領土側であった。ポーランドは1939年3月に部分的動員すら実施した。(ドイツ悪玉論の神話080) |
4月 6日 |
ドイツがポーランドを攻撃した場合、英国は軍事援助すると公式に約した。 チェコスロバキアは英国から捨てられた。ポーランドには英国の助けが入った。しかしその後の両国の運命はあまりに皮肉だった。イギリスに裏切られたはずのチェコスロバキアの首都プラハはあの大戦の戦禍をほとんど受けなかった。一方のワルシャワはその建物のほとんどが破壊された。 「先の大戦(第二次世界大戦)でチェコ人はわずか一〇万人が戦死しただけだった。一方で(英国に救われたはずの)ポーランドは六五〇万人が死んでいった。裏切られたチェコが幸せだったのか、それとも救われたポーランドが幸せだったのか(4)」(「戦争を始めるのは誰か」300ページ) (4) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p281.(53ページ参照) |
4月 28日 |
ポーランド独立保障に憤ったヒトラーは独英海軍協定と独ポ不可侵条約の破棄を発表した。その発表の中にポーランドとの外交交渉を願う言葉を注意深く挟んでいた。「ドイツとポーランドが新しい合意に至るドアはまだ開いている。両国が対等な立場であることを前提に、そのような合意がなることを歓迎したい(5)」(「戦争を始めるのは誰か」301ページ) (5) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p283.(53ページ参照) |
5月 5日 |
ポーランドのベック外相はドイツとの交渉を拒絶すると言明した。 ネヴィル・ヘンダーソン英駐独大使はポーランドの強気の外交が理解できなかった。彼はFDR政権の裏の外交を知らなかった。チェンバレン首相の側近ホーラス・ウィルソンに次のように書いた。 「私は、ヒトラーが提示した(交渉のベースとなる)条件はフェアだと認めざるを得ない。ポーランドの(あからさまに最初から)ドイツを敵にするやりかた(外交)は、(独立を保証した)同盟国であっても、我が国にとっては極めて危険である。プラハの問題(チェコスロバキア併合)については、たしかにヒトラーを世界が警戒している。しかしダンツィヒ・ポーランド回廊問題についての解釈(是正されるべきということの本質)はプラハ問題があったとしても変わっていない」 「間違っているかもしれないが、私はダンツィヒがドイツに返還されない限り、ヨーロッパに和平は構築できないと思う(7)」 英仏両国はポーランドにヒトラーと交渉のテーブルにつけさせるくらいの圧力はかけることが出来たはずだった。しかし実質何もしなかった。だれもそれを口にしなかった。(「戦争を始めるのは誰か」301〜302ページ) (7) Patrick J. Buchanan, Churchill, Hitler, and the Unnecessary War : How British Lost Its Empire and the West Lost the World, Crown, 2008, p283.(53ページ参照) |
5月 頃 から |
ポーランド陸軍に守られたポーランド人は、ポーランド回廊に住む民族的独逸人に対して、恐怖政治を仕掛け始めた。ボルシェヴィキ猶太人のならず者も独逸人に対する攻撃を実行した。この時期に、ポーランド政府により奨励された略奪して回るゴロツキにより、5万8千人に及ぶ独逸人が殺された、と推定されている。独逸政府は、國際聯盟に何十回も公式の抗議を申し入れたが、何も為されなかった。(ドイツ悪玉論の神話079) |
8月 6日 |
デイリー・メール紙が報告している様に、ポーランドのシミグウィ元帥は、「ポーランドは独逸との戦争を望んでおり、独逸はそれを避けることを望んでもそうは出来ないのだ。」と言っている。(ドイツ悪玉論の神話071) |
8月 21日 |
夜、(ポーランドによる)國境沿いの独逸人の(ポーランドの)町グライヴィッツの攻撃を含め、多数のいざこざがあった。(グライヴィッツ事件は戦後ニュルンベルク裁判に於いて顕著に目立つこととなった。)(ドイツ悪玉論の神話080) |
8月 23日 |
独ソ不可侵条約締結。モロトフ−リッベントロップ条約とも。表向きは不可侵条約だが、実際にはポーランド他の割譲も含まれていた。 独ソ外交に勝利したヒトラーはすぐにでも対ポーランド侵攻を開始できた。それでも、ヒトラーはしつこいほどに外交的解決を諦めなかった。(「戦争を始めるのは誰か」309ページ) |
8月 25〜 31日 |
英國の宣伝工作員にホウホウ卿とあだ名されたウィリアム・ジョイスは、独逸市民となり、独逸のポーランドに対する正當な理由を取り上げた。彼は、舊独逸領でポーランド領となった地域に住んでいた独逸人の恐るべき状況について、彼の著書「英國の黄昏(Twilight Over England)」の中で記述している。次に示すのは、ブロンベルクで何が起きたか、についての彼の記述である。 「独逸人の男女は、ブロンベルクの街路を通して、野獣の様に狩られた。捕まると、彼らは、ポーランド人の暴徒に手足を切断され、更にバラバラに裂かれた。(中略)日ごとに殺しは増加した。(中略)何千人と言うポーランド在住独逸人が自分の家から着の身着のまま、逃げ出した。(中略)8月25日から31日にかけての夜、独逸血統の民間人に対する数えきれない攻撃に加え、44件の完全に正真正銘の独逸人の公務員と財産に対する軍隊による暴力が起こった。」(ドイツ悪玉論の神話080) |
8月 25日 |
ヒトラーは、英國大使、ネヴィル・ヘンダーソン卿に、次の様に言った。「ポーランドの挑発行為は我慢の限界を超えた。」独逸人民の指導者として、彼は、虐殺を止めるために何かしなければならない責任を感じ、ポーランドに対する軍事行動しかできることは無いと思った。ポーランドのダンツィヒ独逸返還の合意の拒否、並びに独逸の東プロシャと本土を結ぶ國道と鉄道建設許可の拒否は、それら自体がポーランドへの軍事行動の正當な理由であったが、ポーランドに住む無辜の独逸民間人の殺戮は、更に緊急の正當な理由であった。(ドイツ悪玉論の神話079) |
8月 28日 |
ポーランドのベック外相は、ドイツがダンツィヒに関わる要求および東プロシア問題を今後一切持ち出さないことを明確にしない限り、一切の交渉に応じないとチェンバレンに伝えた。(「戦争を始めるのは誰か」309ページ) |
8月 29日 |
午後7時15分、ドイツ政府はネヴィル・ヘンダーソン英駐ベルリン大使に覚書を届けさせた。そこには、イギリス政府が改めてポーランド政府に圧力をかけ対独直接交渉に臨むよう指導して欲しいと書かれていた。ポーランドからの特使を八月三〇日にベルリンに来させるようにして欲しいとも書かれていた。(「戦争を始めるのは誰か」309ページ) |
8月 30日 |
ポーランドはドイツに対し総動員の命令を出した。(ジュネーブ条約に依ると動員は宣戦布告と同等の行為である)(ドイツ悪玉論の神話080) |
ポーランドは特使を寄越さなかったが、ドイツのリッベントロップ外相は最後の戦争回避の手段としてドイツがポーランドに求める最終条件を明らかにしていた。
この条件をポーランドが認めれば、軍の動員を解除する、というものであった(5)。ポーランドは、この条件を受け入れることを決めるだけで戦いが回避できた。独ソ両国に不可侵条約が成立している以上、ドイツの要求にこたえるのが最善の外交であった。 それでも、ポーランドは動かなかった。全権特使を遣らなかった。(「戦争を始めるのは誰か」310ページ) (5) Herbert Hoover, Freedom Betrayed : Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath, Hoover Institution Press Publication, 2011, p599. |
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9月 1日 |
独逸軍はポーランドに侵攻した。同じ日、ヒトラーは議会で演説した。「ここ何か月もの間、我々は、ヴェルサイユ命令が作り出した問題の拷問に苦しんで来た――問題、それは我々の堪忍袋の緒が切れるまで悪化する一方であった。ダンツィヒは、独逸の町であったし、今もそうだ。回廊も今も昔も独逸のものだ。これら両方の領土はその文化的発展を専ら独逸の人々に負っている。ダンツィヒは我々から分離され、回廊はポーランドに併合された。他の東方の独逸領土と同じく、そこに住んでいるすべての独逸人少数民族は、最も憂慮すべきやり方で虐待されてきた。 ……和解調停の提案が失敗したのは、まず、その間にポーランドの急な総動員と言う答えが来たからであり、次にポーランド人に依る残虐行為だ。これらは昨夜も繰り返された。最近、一夜で21回もの國境紛争があった。昨夜は14回でうち三件は重大なものであった。だから、私はポーランドに対してポーランド人自身がここ何か月に亙って我々に向けて発した言語と同じ言語を以て話す決断をした。 今夜、ポーランドの正規軍が初めて我々の領土に向けて発砲した。午前5時45分を以て、我々は撃ち返しを始めた。そして、これから先は、爆弾には爆弾で応酬する。毒ガスで戦うものには毒ガスを以て戦うであろう。」(ドイツ悪玉論の神話080) |
9月 3日 |
ポーランド回廊の独逸の町ブロンベルクで虐殺が起きた。その虐殺は、侵攻前に既に起きていた虐殺の典型であった。この、「血の日曜日」と呼ばれる虐殺で、5千5百人の独逸人が豚の様に殺された。子供は、小屋に釘で張り付けられ、女性は強姦された後、斧で叩き切られて殺され、男は殴られて、叩き切られて殺された。328人の独逸人がブロンベルクのプロテスタント教会に集められた後、教会に火が放たれた。328人全員が焼け死んだ。(ドイツ悪玉論の神話080) |
英仏が独逸に対して宣戦布告した。 | |
9月 17日 |
ソヴィエト連邦が反対側からポーランドに侵攻した。ソヴィエトのポーランド侵攻については、英仏から何も反応がなかった。ソヴィエトは、独逸がしたことと全く同じことをしたのに、である、しかも、独逸の様な正當な理由もなく。という事は、ソヴィエトによる占領の方が、独逸による占領よりもさらにひどい事であったはずだ。これが、英國の独逸に対する宣戦布告の理由の欺瞞を示す。独逸によるポーランド占領は、英國の必要としていた戰爭の口実を与えただけだった。それは、「開戦理由」には當たらない。(ドイツ悪玉論の神話080) |