裏切られた自由

米国が日本に宣戦布告させようとしていた証拠

ハーバート・フーバー元大統領著「裏切られた自由」から、米国が日本に宣戦布告させようとしていた証拠を引用します。3か所から引用します。

文脈が分かりにくい引用だと感じるかもしれませんが、それは分かる程に引用すると更に長くなり、話が散漫になるからです。引用後の解説で私なりに引用までの話を要約しますが、詳しく知りたい場合は買って読んでください。

第8編 アメリカ外交の革命的転換

第31章 武器貸与法とABC−1協定

ABC−1協定

武器貸与法が成立してからしばらく経った一九四一年三月二十七日、ワシントンで米英戦争指揮協定(ABC−1協定)が締結された。政権顧問のロバート・シャーウッドは次のように交渉の模様を語っている。

〈会議は参謀総長のマーシャル、海軍作戦部長のスタークの言葉で始まった。最初の言葉は、この会議は徹底的に秘密にされなければならないというものだった。この会議の存在が世に知られたら、武器貸与法反対勢力に利用されるというのがその理由だった。予期せぬ悪影響が出ることも懸念された。

英国代表団は軍人が民間人を装い、英国調達委員会付きの技術顧問であると偽った。

この会議でABC−1協定が決定された。これは両国による戦争計画書であった16。〉

この秘密会議の性格については、アーネスト・J・キング提督(当時、大西洋艦隊司令官)も同じような説明をしている。

〈ABC−1協定は、アメリカが参戦した場合、アメリカ海軍の主要任務はシーレーン防衛であると定めたものだった。宣戦布告がない場合にできることは、大西洋横断の民間船の護衛であった17。〉

ABC−1協定の文言には戦争状態になる事を想定しているものがある。

〈米英両国の最高司令官は継続的に協力し、戦争遂行時の戦略・執行を協議するものとする。

連合国の最終目的は、ドイツおよびその同盟国を敗戦に追い込むことである18。〉

ABC−1協定には対日行動についても触れられていた。一九四一年四月二十一日から二十七日には、シンガポールでその詳細が議論された。また、八月十日の大西洋憲章の協議の場でも打ち合わせがなされたが、これについては、第10編で詳しく記すことにする。

シンガポールでの協議は相当に好戦的なものだったことが次の議定書の文言からわかる。

我々の目的は、ドイツおよびその同盟国を敗北させることにある。したがって、極東においては、連合国の軍事力を、日本の(予想される)攻撃に耐えられるよう整備することにある。日本に経済的圧力をかけ続け、こちらから攻勢に出る機会を待つ19。〉

この協定書の文言が明かされたのは、真珠湾攻撃調査委員会の場であった。キング提督によれば、海軍はすでにこの協定の成立を見越して行動を起こしていた。

〈スタークは、支援部隊の艦隊創設を二月十五日の時点で命じていた。この艦隊は、三つの駆逐艦隊および四つの海軍哨戒機艦隊を支援することが目的だった。駆逐艦隊の基地は北アイルランド(ロンドンデリー)の英国海軍基地が使われることになった。基地の整備・拡張は武器貸与法から拠出された資金が使われることになっていた20。〉

チャーチルも回顧録でこのことを書いている。ABC−1協定が、たんなる机上の約束事でなかったことがわかる。

〈一九四一年三月十四日、アメリカから、(民間輸送船の)護衛艦隊および支援航空部隊の基地を選定する海軍士官一行が到着した。その作業はただちに始まった21。〉

後に真珠湾攻撃について調査が実施されたが、その中で、スターク提督の次のような言葉があったこと(一九四一年四月三日)が明かされた。

〈(この協定が成ったことで)問題は、我が国が参戦するか否かから、いつ参戦するかに移行した22。〉

ABC−1協定は、議会にも議会内の委員会にも報告されていない。憲法が議会に付与した権限はまったく無視されていた。

原注

16Roosevelt and Hopkins, pp.272-273.

17Ernest J. King and Walter Muir Whitehill, Fleet Admiral King. A naval Record, W. W. Norton & Company, New York, 1952, p.338.

18〔United States Congress, Joint Committee on the Invenstigation of the Pearl Harbor Attack, 79th Congress, 1st Session,〕 Pearl Harbor AttackHearing Before the Joint Committee on the Investigation of the Pearl Harbor Attack, United States Government Printing Office, 1946〕,Part 15, p.1949.

19同右、Exhibit No. 50., p.1558.

20Fleet Admiral King: A Naval Record, pp.338-339,

21Winstons S. Churchill, The Grand Alliance, Houghton Miffin Company, Boston, 1950, p.138.

22Pearl Harbor Attack, Part 17, p.2463.


「裏切られた自由 上」ハーバート・フーバー(元米国大統領)著、渡辺惣樹訳、平成29年7月13日に草思社にて刊行。411〜413ページ目より。

上は引用1つ目です。「我々の目的は、ドイツおよびその同盟国を敗北させることにある。したがって、極東においては、連合国の軍事力を、日本の(予想される)攻撃に耐えられるよう整備することにある。日本に経済的圧力をかけ続け、こちらから攻勢に出る機会を待つ」「(この協定が成ったことで)問題は、我が国が参戦するか否かから、いつ参戦するかに移行した」くだりが私が示したい論点に於いて一番重要です。

この引用の前段では「武器貸与法案には開戦権限を議会から大統領に移す条項があり、大変危険だ。憲法では議会が開戦権限を保持するとあり、この法案は憲法に反する。そうした声は一定数あったにも拘らず、修正されずにこの法案は可決された」解説がなされています。

この引用最後の「議会にも議会内の委員会にも報告されていない。憲法が議会に付与した権限はまったく無視されていた」は、武器貸与法での指摘と同じく、米国で宣戦布告の権利は大統領でなく議会が持つと規定する合州国憲法を無視している、という指摘です。

第10編 戦争への道

第39章 日本を刺激する方法 その二:太平洋方面での和平を探る再びの好機

十一月二十二日、ハル国務長官は、イギリスおよび中国の大使、オランダとオーストラリアの公使を呼び、日本の二十日の提案と、国務省が準備した対案を協議した。対案に添付する一〇の和平条件(国務省起草)についても話し合われた。これに対して不満を表明したのは中国大使(胡適)だけであった。

ハルは次のように書いている20

〈我々の対案を日本が受け入れる可能性は三つに一つだろう。〉

十一月二十四日、ハルは再び連合国の代表を集め、対案となる休戦協定案を協議した。この会議で、本国政府からの指導を受けていたのはオランダ公使だけだった。ハルは、イギリス、中国、オーストラリア政府の関心の薄さと協力姿勢の欠如に憤っている21

十一月二十五日、中国代表はまたしても米国協定案に反対を表明した。

この日、大統領は会議を招集した。出席したのは、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長である。会議を記録したスチムソンの議事録が真珠湾攻撃調査委員会に提出されている22

問題は、いかにして彼ら日本を、最初に一発を撃つ立場に追い込むかである。それによって我々が重大な危険に晒されることがあってはならないが(傍点著者フーバー)。〉

このような態度を我が国が取ることは、相手がどのような国であれ理解に苦しむことである23

原注

20同右、p.1074.

21Pearl Harbor Attack, Part 14, pp.1143-1146.

22同右、Part 11, p.5433.

23真珠湾攻撃調査委員会で、J・O・リチャードソン提督が証言している(一九四〇年十月八日)。彼は、一九四〇年から四一年まで、太平洋艦隊司令長官であった。彼は次のように述べた。

「私は大統領に、我々は(日本との)戦争になるのでしょうか、と尋ねた。大統領は、日本が常に間違いを犯さないでいることはないだろう、戦火はやまず戦場は拡大している、遅かれ早かれ彼らは間違いをしでかす、その時は我が国も参戦する、と答えた」(Pearl Harbor Attack, Part I, p.266)


「裏切られた自由 上」ハーバート・フーバー(元米国大統領)著、渡辺惣樹訳、平成29年7月13日に草思社にて刊行。501〜502ページより。

上は引用2つ目です。「問題は、いかにして彼ら(日本)を、最初に一発を撃つ立場に追い込むかである。それによって我々が重大な危険に晒されることがあってはならないが」のくだりが私が注目して欲しい箇所です。

これからこの引用の前段を要約します。

独ソ戦が始まってひと月後の7/25に米国の対日経済制裁が突然に強化され、日本向け輸出及び日本からの輸入が政府の管理下に置かれ、米国における日本の資産が凍結されました。英国、オランダも米国に倣いました。

それによって日本は以下の3つの選択肢しか取れなくなりました。

  1. 南方のタイ、マラヤ、蘭領東インド諸島などを占領し食糧・石油を確保する。
  2. 経済制裁の首魁米国を攻撃する。
  3. 米英との和平構築を模索し続ける。

実際に日本が取った選択肢は3つ目で、交渉の経過が語られます。ここで私が引用している通り、米国の目的は和平構築ではなく対独参戦の為の日本による対米宣戦布告なので、成功する筈もないのですが。

引用にある「二十日の提案」は日米休戦協定の提案で、引用にあるその対案も米国の意思を反映した(日本が蹴るような内容の)日米休戦協定です。中国大使が反対した理由は、日米が正常に交易をすると中国にとって不利なため、日米休戦協定そのものに不満だったのでしょう(私見)。

第10編 戦争への道

第42章 日本を刺激する方法 その五:誰に責任を負わせるか

議会の真珠湾調査委員会

ワシントン議会は政府や軍による調査に納得しなかった。一九四五年には議会に(上下両院合同)調査委員会が設置された。同委員会の調査が最も重要なものになった8。調査は一九四五年十一月から翌四六年五月まで実施された。すでに真珠湾の事件から四年が経ち、戦いも終わっていた。

同委員会以前の調査と同委員会の調査は、「真珠湾攻撃(Pearl Harbor Attack)」の表題でまとめられた。十一巻の証拠書面、十巻の議会調査報告書に加え、それまでに行われた調査内容を十八巻にまとめていた。

原注

8Report of the Joint Committee on the Investigation of the Pearl Harbor Attack, 79th Congress, 2nd Session Document No.244〔United States Government Printing Office, 1946〕.


「裏切られた自由 上」ハーバート・フーバー(元米国大統領)著、渡辺惣樹訳、平成29年7月13日に草思社にて刊行。522ページ目より。

引用3箇所目です。引用1〜2つ目の出典に頻繁に出てくる「Pearl Harbor Attack」がどのような書物か解説するため、この箇所を引用しました。

以下引用箇所までの要約をします。

  1. 真珠湾攻撃での大きな被害を受けて米国民は米国に不手際がなかったかの調査を強く求め、FDRは大東亜戦争開始直後にロバーツ最高裁判事を調査委員会の長にしたロバーツ委員会を設置しました。その報告書は、大損害の原因はハワイの2人の指揮官が警戒を怠っていたためと結論付けました。
  2. 米国民はこの報告書に満足せず、多方面から調査を要求する声が上がったため3年も経たないうちに海軍が調査を実施(1944年2月〜6月)しました。(海軍1つ目)
  3. 陸軍も1944年7月〜10月に調査委員会(陸軍真珠湾委員会)を設けています。陸軍真珠湾委員会の報告は、暗号解読の内容をハワイの将軍に伝えなかったマーシャル陸軍将軍含む米国の高官を非難する内容でした(陸軍1つ目)。1945年8月29日まで公開されませんでした。
  4. 陸軍真珠湾委員会に納得できなかったスチムソン陸軍長官は、ヘンリー・C・クラウゼン中佐に陸軍真珠湾委員会報告書を補完する目的で調査を命じました(クラウゼン調査、1944年11月〜1945年9月、陸軍2つ目)。
  5. もう1つ陸軍の調査もありました(クラーク調査、1944年9月と1945年7〜8月に実施、陸軍3つ目)。この調査では解読された情報が上層部でどう扱われたかに焦点が絞られました。
  6. 海軍調査委員会もありました(1944年7〜10月、海軍2つ目)。ハワイの司令官キンメル海軍提督に責任はなく、スターク提督(作戦部長)を非難する結論となっていました。1945年8月29日まで公開されませんでした。
  7. 海軍は更に別の調査も行いました(ヒューイット調査、1945年5〜7月、海軍3つ目)。

国内世論の圧力で7つの調査が実施されましたが、軍法会議は開かれませんでした。開かれていたらハワイのキンメル海軍将軍、ショート陸軍将軍両名は裁判の場で、実際に何があったかを暴露し、弁明できた筈でした。要約終わり。


以上が、米国政府は日本に開戦して欲しかったことを証明する引用となります。

「リメンバー・パールハーバー」が米国の戦時中のスローガンとなったそうですが、当時の米国民が真珠湾に関して憤るべき相手は日本ではなく、米国政府やFDRだったという事になりましょう。