ロベール・フォリソン:『歴史見直し主義者の冒険』

歴史見直し主義的研究者とは、例外を除けば、書斎に閉じこもるタイプの知識人ではない。たとえ本人が隠遁生活を望んだとしても、社会が彼をそっとしておかないだろう。

歴史見直し主義的研究者は何よりもフィールドワークを基本とし、研究が要するあらゆる場所に自ら足を運ばなければならない。そして誰一人そうした彼の調査に協力などしてくれないから(それどころかその反対だ!)、彼は接触する相手を篭絡したり、目的に達するために百の障害を乗り越える術を身につけなければならない。つまり彼の研究は人生を学ぶ学校でもある。

一方でまた研究者というものは自らの仕事に孤立することはできないため、彼は世界各地の他の見直し主義者と積極的にコンタクトを取らなければならない。私個人について言えば、歴史見直しの研究のために私はアメリカ、カナダ、そしてドイツといった国々と、言ってみれば“触れ合う”ことになった。その他にも英国、オランダ、ベルギー、ノルウェー、オーストリア、スイス、スペイン、イタリア、ポーランド、その他幾つかの国々と付き合ってきたが、オーストラリア、ニュージーランド、ウクライナと日本、チュニジア、南アフリカ、イラン、ペルーといった、現在、歴史見直し主義研究が進み始めている国々にはまだたどり着いていない。

こうした国々の人とのコンタクトは、異なる様々なメンタリティを知る絶好の機会である。〈ユダヤ民族のホロコースト〉という人類史上最強のタブーの一つを前にした時、アングロサクソン、ゲルマン、ラテン、アラブ、ユダヤ、カトリック、プロテスタント、イスラム、あるいは無神論者のメンタリティは、歴史見直し主義によってこのタブーのベールが破られることによって、まるでリトマス試験紙に浸したかのように露わになるのだ。

同様に歴史見直し主義は人間の本性を暴き、様々な組織が本当はどのように機能しているのかを露わにする。私は、人が生まれて始めて歴史見直し主義者による冒涜的見解を耳にし震え上がる時の顔色、男性、女性、老人、または若者の表情を観察するのが好きだ。ある者においては突然顔色が冴え、目が輝き始める。好奇心が刺激されたのだ。別の者は血の気を失う。それまで寛容だと信じていた人間がまさに正反対であることが暴露され、当初はやすやすと心を開いてくれたように、今度はあっという間に心を閉ざす。

歴史見直し主義者を前にした組織機関も、その本性を露わにする。これらは結局のところ、時が経つうちにいつの間にか一種の尊敬のようなものを勝ち取ったご都合主義の辻褄合わせの総体でしかないことがわかる。例えば司法機関。彼等は正義(美徳)や法(必要事)を守ることを任務としているかのように振舞い、司法官はみな、真実を追究することに最も専念しているかのように我々に信じさせている。ところが歴史見直し主義者を裁かなければならない立場に置かれた司法官が、そんな建前などさっさとかなぐり捨てる様子は、実に一見の価値があるものだ。歴史見直し主義者を相手にした司法官には信念も、法も、権利もへったくれもないのだ。司法機関の本質的な脆弱性が赤裸々となる。一方、ジャーナリズムや広報機関という狭い世界が歴史見直し主義を扱うと、彼等の頭には、許可された商品のみを通過させることしかない実態がまざまざと見せつけられる。彼等の真の任務とは、あたかも言論や表現の自由が存在するかのように世間に信じさせるための大衆娯楽のようなものである。

歴史見直し主義者の生活は危険に満ちている。警官、裁判官、ジャーナリストが常に目を光らせている。監獄、それに病院も待ち構えている。

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(1989年9月16日、フォリソン教授は三名のユダヤ人に暴行を受け、たまたま通りかかった通行人に助けられて九死に一生を得た)

家族とともに一文無しになる危険が常につきまとう。しかし彼はそんなことには動じない。歴史見直し主義者は夢を追い続け、想像をめぐらせ、自由を実感する。だがそれは自分の発見の効力を過信しているからではない。彼の発見は誰をも怖気させ、あまりに多くの常識を覆す。彼の発見は、人間にとっての二大神秘に挑戦するものだからだ。一つめの神秘とは、謎に対する人間の一般的な恐怖。もう一つは、人間は必ず何かしらを信じずにはいられないという神秘。

『人類の歴史』という五巻本を完成させたある歴史学者に、「結局のところ、人類の歴史の最大の牽引力は何ですか?」という質問がなされた。彼は長いこと躊躇した後、「それは恐怖だ」と答えた。

恐怖というものには実際、凄まじい存在感がある。それは人間においては動物においてよりもさらに明白に形を取り、時には奇妙極まりない、人目を欺く偽装の下に顕在化するものである。またすべての人間とは言わないが、多くの人にとって、恐怖という神秘は前述の通り、別の神秘と結びついている。つまり何ものかを信じなければどうしようもないために、何かを信じるという神秘である。イギリス人はこれを “the will to believe”と上手いこと表現するが、仏訳は残念ながら不可能だ。セリーヌは「嘘をつく熱気と信じる熱気は、疥癬のように蔓延する」と言っていた。またラ・フォンテーヌは次のように書く:

人は真実に対しては氷のごとく冷たく

嘘に対しては炎のごとくのぼせる

歴史見直し主義者は歴史を正すことはできるが、人間の性質は何一つ正すことはできない。しかし後世は歴史学的に彼の仕事を認めるだろう。歴史見直しが着実に前進していることを証明する要素があまりに増え続けているからだ。さしずめ「20世紀末に起こった偉大なる知的冒険」とでも評価されるだろう。

注意:歴史見直し主義者は大量虐殺やガス室の存在を“否定”しているのではない。そのように表現するのは誤りだ。ガリレイは、地球が不動であることを“否定”していたわけではないのと同じだ。ガリレイは、研究の結果、地球は不動なのではなく、地球は自転しながら太陽の周りを回転していると“断定”したのだ。同様に歴史見直し主義者は、調査の結果、大量虐殺やガス室が存在したのではなく、〈ユダヤ問題に関する最終解決策〉というものの内容は、可能ならばユダヤ人を他所へ移住させること、必要であれば他所へ排斥することだったと“断定”しているのだ。

歴史見直し主義者は、“実際に何が起こったのか”を調べている。その研究は肯定的なものだ。それに対して絶滅主義者達は、“実際には起こらなかったこと”を我々に押し付けようと躍起となっている。彼らの仕事は否定的なものである。

歴史見直し主義者達は、参戦国が“実際に起こったこと”を認識することによる和解を望んでいるのだ。

ロベール・フォリソン、1992年5月25日