ワシントン在住ティム・シップマン著
2008年12月20日19時16分付
「我々はかの偉大な愛国者との間で酷い状況になっている、彼は手が付けられないので、我々は彼を自重させなければならない。」戦略諜報局の長官はパットンに不信を抱いていた。
新たに発見された、CIAの前身である戦略諜報局[Office of Strategic Services(OSS)]の為の戦時中の様々な暗殺の日誌は、『パットンは、[米国人の命を代償にした、ロシア人との間での共謀]を暴露する恐れがあったがため、米国の間諜の長がパットンの死を望んでいた』ことを明らかにしている。
1945年12月のパットン将軍の死は、永続する戦時下の謎の1つだ。彼はマンハイムで交通事故に遭って重傷を負ったが、回復しすぐにでも帰宅できると思われていた。
しかし10年に亘る調査の後に、軍事歴史家のロバート・ウィルコックスは、『戦略諜報局長官「ワイルド・ビル」ドノヴァンは、ダグラス・バザタ(Douglas Bazata)と呼ばれる相当に勲章を授かっていた狙撃手に、「昔気質(Old Blood and Guts)」の高名に浴するパットンを黙らせろと命じた』、と主張している。
その著書「Target Patton」には1999年に亡くなるバザタ氏への取材と、彼の日誌からの引用が含まれており、彼が如何にパットンのキャデラックに軍用貨物自動車(troop truck)をぶつける事による交通事故を企てたか、それから彼の同乗者が掠り傷一つ負うことなく逃げている間に彼の頸部を破壊する低速の射出物で如何にかの将軍を撃ったかを詳述していた。
バザタ氏はまた、パットンが傷から回復し始めた時に、KGBの前身NKVDの工作員がかの将軍を毒殺する間、米国の役人たちは見て見ぬふりをしたことを仄めかせた。
ウィルコックス氏はSunday Telegraph誌に、自分がバザタ氏と話した時のことを告げている:「バザタ氏は自身が行ったあらゆる殺害に関して煩悶していた。バザタ氏は私に『ワイルド・ビル・ドノヴァンが自分にそうするよう命じて自分があの事故を引き起こした』と自白した。
「ドノヴァンはバザタ氏にこう告げた:『我々はかの偉大な愛国者との間で酷い状況になっている、彼は手が付けられないので、我々は彼を自重させ、連合諸国が行っている全てを無為に帰させないようにしなければならない。』私はダグラス・バザタを信じる。彼は立派な人だ。」
バザタ氏は数奇な人生を辿っている。彼は1944年のDデイに至るまで抵抗勢力の組織を助ける為にフランスに落下傘降下していた精鋭部隊ジェドバラの一員だった。彼はその作戦遂行によって米国から名誉戦傷章を4つ、殊勲十字章を1つ、そしてフランスからFrench Croix de Guerreを3回授与している。
戦後彼はモナコ公国の公妃及びウィンザーの公爵と公爵夫人という後援を享受する著名な芸術家となった。
彼はサルヴァドール・ダリと友人であり、ダリはドン・キホーテとしてバザタ氏を肖像画に描いている。
彼は、ロナルド・レーガン大統領の海軍長官ジョン・レーマンの側近、9/11委員会の会員、そしてジョン・マケインの大統領選挙活動助言役として経歴を終えた。
ウィルコックス氏は米国陸軍の対諜報部隊の職員であるスティーブン・スクビクも追跡し取材したところ、彼は、「私はパットンがスターリンの殺害名簿に入っている事を知っていた」と言った。スクビクは繰り返しドノヴァンに警告をしていたが、ドノヴァンはただ彼を米国へと送り返すだけだった。
「強力な証人が2人ここにいる、」とウィルコックス氏は述べる。「その証言はロシア人の仕業だと言っている。」
この筋書きは有りそうにないように聞こえるが、ウィルコックス氏は米国の役人が何かを隠していた有無を言わさない証拠を1つ集めている。くだんの交通事故に関する最低でも5つの書類が、米国のアメリカ国立公文書記録管理局から取り除かれているのだ。
その貨物自動車の運転手は質問できるようになる前にロンドンへと高飛びし、パットンへの死体に対し検死は行われなかった。
デトロイトからのキャデラックの専門家の助けもあり、ウィルコックス氏はフォート・ノックスにあるパットン博物館に展示されている車はパットンが運転していたものではないと証明している。
「これは隠蔽だ、」とウィルコックス氏は言う。
両腿に象牙制の銃把をした回転式拳銃を装備する、ジョージ・C・スコット主演のオスカー賞受賞映画の題材となった精力的な論客であるジョージ・パットンは、Dデイの後フランスじゅうで際立つ戦果を上げた第三陸軍を指揮した。
しかしソ連軍より先にベルリンを手中に収めようという彼の野望は連合国最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワーによって妨害された。アイゼンハワーはパットンへのガソリン物資を、より注意深い英国の将軍バーナード・モントゴメリーへと渡したのだ。
ロシア人に不信感を抱いていたパットンは「アイゼンハワーは1944年秋のファレーズ・ポケットと呼ばれる戦闘に彼が近付くのを不当に妨害し、何十万ものドイツ兵が再戦を期して逃走できてしまった」と信じた。そして、これによって、バルジの戦いとして知られる事になる冬の逆襲の間数千人もの米国人が死んだと信じた。
スターリンを宥める為、第三陸軍はドイツの戦線に着いた際に停止するようにも命じられ、戦後のソ連による東欧の占領を妨害できたであろう行動である、ベルリンやプラハの征服が妨害された。
ウィルコックス氏はSunday Telegraph誌にこう告げている:「パットンは陸軍を辞職するつもりだった。彼はロシア人を相手に戦おうとしていた。政府は、彼は狂っていると感じていた。」
「彼は、複数人の経歴を台無しにするであろう戦争の秘密も知っていた。
パットンが生きて言いたいことを言っていたなら、ドワイト・アイゼンハワーが大統領に就けたとは私は思わない。」ウィルコックス氏はこう付言する:「もし大陪審に行くことになったなら私は恐らく起訴されるだろうが、多分有罪判決は受けないだろうという程に十分な証拠がここにあると考えている。」
ジョージ・S・パットン保存会の会長チャールズ・プロヴィンスは、その本が暴かれた計画の決定的な証明になることを願うと言った。
彼は言う:「パットンの死に大喜びした人々は沢山いる。パットンは、大喜びした人々の計画を滅茶苦茶にする多数の話の蓋を本当に開くつもりだった。」
実行犯1人の自供と日誌があるのでは、他の例も鑑みてこの暗殺はもう正史になっているのではと思いますが、どうなのでしょうね。