あるドイツ人少尉の手記

フランツ・W著

1.志願とシュレースヴィクでの訓練時代(1940年4月17日〜1940年6月30日)

1939年我が国が電撃的にポーランドに勝利した後、ドイツでは誰一人戦争が長引くことになろうなどとは夢にも思っていなかった。ぐずぐずしているうちに「非戦闘員」のまま戦後若い生徒達の前に立たなければいけなくなることを恐れた私は思い立って二月に志願をした。志願に踏み切ったのは、志願した場合なら兵科を自分で選択できるということもあった(肉体的、精神的に適合と見なされればだが)。私は空軍を選んだ。古くからの学友で青春を共にしたユップ・ペルツァーがスペイン内戦でコンドル部隊の戦闘機パイロットの一人として活躍し、その後空戦の教諭となっていたことに刺激されたせいかもしれない。ユップ・ペルツァーは曹長として北海上空を封鎖飛行中に非常な高度から墜落し、我がJ市最初の戦死者の一人となった。私はJ市防衛管区司令部から空軍訓練所に登録され、訓練は1940年4月17日に始まることになっていた。

だが数週間の間招員状は黙って鞄にしまっておいた。ようやく四月中旬デュッセルドルフでの新婚旅行の間、私は結婚したばかりの愛する妻にこの意味深い通知を披露した。私達は暖かい陽の当たるベンチに腰掛けていた。妻にとってはまさに青天の霹靂だった。

4月15日の早朝、駅に赴く。私の他三名のJ市出身者が同時に出発することになっている。W・バルトロマイ、ユップヒェン・レンツレンとテオ・ライエンデッカーだ。ケルン駅には私達のために長い列車が停車していた。出発までは何時間も待たされた。次々に召集された人々がやって来るからだった。ようやく午後遅くなって列車は駅を後にした。退屈な旅だ。幾度も停車し、駅で車両を入れ替え、急行列車を通過させ、目的地のシュレースヴィクに向って遅々と北上していった。目的地に到着すると同時に、私達の私生活には唐突な終止符が打たれた。個人の自由とは完全にお別れだ。私達は車両ごとに兵士に迎えられ、兵営に連れて行かれた。兵営の中庭で我々は身長ごとに整列させられ、中隊に分けられることになっていた。W・バルトロマイは私と同じ中くらいの大きさだった。J市出身者四名が一緒にいられるようにテオは体を縮め、ユップヒェンは背伸びをした。テオは運悪くトリックを見破られて前列に連れて行かれたが、ユップヒェンの方はうまくいった。だが喜ぶのはまだ早すぎた。他にも人が来るそうだ。

我々は身長を基準にそれぞれ十二人の班に分けられ、訓練係に付いて兵舎に連れて行かれた。三名のJ市出身者を含む我々の班は、第八兵舎を割り当てられた。兵舎の一角には三台の寝台が上下に設置されていた。

兵舎で過ごした最初の晩のことを私はよく覚えている。私は最下部の寝台を割り当てられた。つまり頭上にはさらに二台の寝台があるわけだ。私にはそれが大変息苦しく感じられ、たちまち壁に押しつぶされる悪夢にうなされた。それも奇妙にも上から壁が迫ってくるのだ。壁がどんどん降りてきてとうとう身動きが取れなくなると、私は叫び声を挙げて目を覚ました。誰かが明りを点け、大声で笑い出したため、兵舎中が起こされてしまった。目を覚ましてみると、私はベッドの上に跪いて頭上のベッドを懸命に押し上げようとしていることに気づいた。このことは勿論その後も語り草となった。

我々は第八兵舎に引越しをし、洋服をロッカーにしまうと、班長が一人一人に声を掛け、名前と年齢、職業を尋ねた。私の職業[フランツ・WはJ市の小学校教師だった]は必ずしも班長にとって快いものではないようだった。ただの小学校卒の自分が教師を相手に講義と養成を行わなければいけないのかとこぼした。私は彼の窮屈な思いを解きほぐそうと、彼が兵舎を立ち去る後を追い、「どうか他の仲間とまったく同じように扱ってください!」と頼んだ。

続く日々、我々は4月20日に予定されている宣誓式のための訓練を受けた。歩を合わせた行進、「止まれ!」「右向け右!」「左向け左!」、方向転換、そして何よりも「気をつけ!」を習わされた。直列で行進できるようになるまでは大変長い時間がかかった。まずはグループで。それから列を組んで。そして最後には全中隊。宣誓式が済むと、訓練の日が続いた。だんだんに市民の生活態度が抜けていき、私達は兵士になっていった。例えば上官のもとに赴き、報告を行なう時には「私は報告します」ではなく、「飛行士××、報告を行ないます」と言わなければならない。

教官は私達が営庭を横切る歩調を大変重視した。新兵がふだんの歩き方で横切ろうものなら、ただちに急かされた。私達は駆け足でしか移動することを許されなかった。

兵舎にはもちろん室長がいて、兵舎内の秩序と仲間達の行動の責任を負っていた。その他にも兵舎やロッカー室点呼、講義前に入室する上官に報告をする義務があった。私達の室長だったのは誠実で気の良い農家の息子ヨハン・ワーグナーだったが、彼にはこの役は幾分荷が重すぎたようで、始終息を切らせ、間違った報告ばかりしていた。そんなことが何日か続いた後、班長は彼を解任して、代わりに私が室長の役を任された。私は訓練の最終日までこの任務を務めることになった。

私達は営庭でいつまでも執拗に続く訓練にだんだんうんざりし、無感動になっていったばかりか、苛立ちさえ感じ始めた。何人かの仲間は訓練中あてこするように笑ったり、馬鹿にする顔をして不満をちらつかせるようになった。これはまさに班長の怒りの火に油を注ぎ、当該者は「伏せろ!」「起立!」「進め! 進め!」とひときわ小突かれた。わが班最年少の十八歳の青年(だがすでに一児の父親だった)は毎日のように苛立っては、昼休みの間まで罰を受けるはめになっていた。それでも青年はまるでこたえない。命令無視ぎりぎりのところまで挑発的にゆっくりと伏せ、時には昼休みがまるまる返上となるのだった。それは教官にとっても同じで、ようやくそれで気が静まることになったりするのだった。

教官の中にはとりわけ巧妙な罰則を思いつく者もあった。シュレーヴィスク市はバルト海の入り江の一つであるシュライ沿いに位置し、私達の兵営は直接海岸に面していた。教官は「伏せろ!」と命じた後、雨と満潮で泥だらけになった海辺に新兵がたどり着くまで「前進!」「前進!」と号令を掛けるのだ。彼等が兵舎に戻って来る時の様子と言ったら! 班全体が処罰されないうちはそれも他人事だったのだが、やがてそうはいかなくなった。

私達の兵舎に新兵が一人遅れて到着した。これがプライドの高い大学生で、幾分原始的な班長に対して自分の精神的優位を示すために、毎日のように小ばかにしたように鼻でせせら笑っていた。その結果、班の全員が毎日のように泥にまみれなるはめになったのだ。彼は私の注意も馬耳東風で、挑発をやめようとしなかった。ついに私達は自主教育に踏み切ることにした。一人が提案をする。「ヤツを今晩、聖霊のもとに送ってやろうじゃないか!」「何だそれは?」「知らないのか? それじゃあ今晩のお楽しみだ!」いったい何が起こるのだろうという期待で、私はいつまでも寝つけずにいた。夜中の十二時きっかり、誰かが私の寝台に近づいてきて耳元で囁く。「おい、起きてるか? 明りが点いたら聖霊が現われるからな。」部屋が明るくなり、私の頭上三台目のベットから若いシュヴァルツヴァルト出身の恐いもの知らずが毛布を手に、隣りの二台目の大学生のベットに飛び移った。学生は好都合にも腹ばいで寝ていた。シュヴァルツヴァルトの青年は毛布で彼の頭をすっぽり包んで枕に押し付けた。同時に別の二人が学生の足を押さえ、パジャマのズボンを脱がせる。たちまち彼の尻が革ベルトで滅多打ちにされた。兵舎中が喜び勇み、誰もが一発は自分で打ちたがった。私が合図をすると全員が素早くベットに戻り、灯りが消え、聖霊も退散した。私は翌朝どのような反応が見られか興味津々だった。学生は微塵も表情を変えず、無言のまま洗面所に立ち去った。だが朝食の席で私達は、彼が腰を下すのに苦労をしていることを見て取った。すると一人がニヤニヤと「昨夜部屋に聖霊が降りて来なかったかい? それとも俺が夢でも見たのかな……」とうそぶいた。学生はぴくりともしない。しかし訓練が始ると班長は彼の動きが鈍いことに気づいて「どうしたんだ、調子でも悪いのか?」と聞いた。「いいえ、何でもありません!」私は後から班長にそれとなく事情を仄めかすと彼はすぐに了解し「私には関係のないことだ」と答えた。私達は事が大きくなることを恐れずに済んだ。とにもかくにも聖霊の降誕は、私達全員にとって何よりもの助けとなったのは確かだ。

新兵達はシュライ入り江に向って訓練させられる時、声を張り上げて『フリーゼンリート』のメロディに合わせた四行詩の歌を伴うようになった:

一等兵がシュライの海辺で

「進め! 進め!」と叫ぶ時

新兵の思いは

「……でも舐めやがれ!」

(「……」が何なのか私は知らない!)

新兵時代の思い出でまだ幾つか私が書き留めて起きたいことがある。訓練が始った最初の土曜日、午前中に部屋と廊下の掃除をし、昼食が済んだ後私達は兵舎の前に集合するよう言われた。皆緊張している。何が始まるのだろう? 中隊付き下士官[訳注:ドイツ語で“シュピース”と呼ばれる]が現れ、「水泳のできる者はいるか?」と聞く。二十名あまりが申し出る。もちろん私もだ。“シュピース”:「泳者は右に並べ。残りは退去してよい。」さらに:「泳者は私に続け!」そうやって私達の連れて行かれた兵舎の裏にはズラリとバケツとジョウロが並んでいた。「見ての通り我が兵営は上空を飛ぶ機体からカモフラージュするためにふんだんに植物を植えてある。植物は水を欲する。一人一人バケツかジョウロで武装し、直ちに仕事に取り掛かれ!」私達は拍子抜けして互いに顔を見合わせた。見事に引っ掛かった。他の連中は今頃兵舎でのんびり羽を伸ばしているのだろう。なのに私達と言ったら! “シュピース”は思わずニンマリと「泳者は誰よりも水の扱いが得意だろう? 違うか?」と言う。私は今後二度とこの手には乗らないぞと心に誓った。

次の土曜日も泳者グループは庭木の水遣りを命じられた。私自身には特別任務が用意されていた。「私の官舎にいる妻のもとに赴きたまえ!」命令に従う。私に用意されていたのは官舎の窓拭きだった。中隊付き下士官夫人は「やったことがありますか?」と聞くので、私はもちろんないと答えた。「それでは今日習えばいいことね。難しいことではありません。ここにバケツと水があるので、まずはスポンジで窓を丁寧に拭いてから、皮布でよく拭き取るだけです。」“シュピース”は後から様子を見に来て満足し、私を兵舎に帰してくれた。この特別任務はきっと私の職業に関係していたに違いない。

こんな風に時折笑いの種になる出来事が突発したものだった。

ある朝私達は眠たい目をこすりながらロッカーの前で講義のために班長のやって来るのを待っていた。いつもと違って班長がなかなか現れないのでヨハン・ワーグナーは「俺はもちっと寝るから、始ったら教えてくれ!」と言うが早いがロッカーの中の棚に横になり、内側から扉を閉じてしまった。班長はだいぶたってからようやく現われ、私は兵舎全員の用意のできていることを告げ、講義は直ちに始った。班長:「今日はカラビーナー98クルツの続きで、遊底についてだ……」突然、ロッカーの扉が開く。皆ヨハン・ワーグナーのことはすっかり忘れていた。ヨハンが棚から転がり落ちて、長々と班長の足元に横たわった。そして寝ぼけ眼で「ここはいったいどこだ!?」全員腹を抱えて笑い転げた。とはいえ室長は誤報告を行なったかどで軽い叱責を受けるハメになった(私は兵舎全員出席と報告していたのだ)。

私達の小隊長は伍長への昇格を待っている下士官だったが、私のことを「村の小学校のマイスター殿」と呼んでからかった。悪意はないのだが、嫌味が混じっていたことは確かだ。私が個人訓練で方向転換や銃の持ち替えに成功すると「村学校の先生もなかなかやりますな」と一言。射撃訓練で私が出来の良い部類に入るのを見ると「我が村の小学校のマイスター殿は銃も撃てるようだ。」

ある日のこと「運動着で兵舎前に集合!」という命令が下り、私達は体育館に向わされた。私の胸は高鳴った。久々に別の訓練だ! 私達の班は腕の届く高さの鉄棒に連れて行かれた。最初の指示:三人ごとに鉄棒で懸垂。私は当時充分にトレーニングを積んでいたので、軽く他の仲間よりも多くをこなした。小隊長は例によって「ほお! 村学校のマイスター殿は腕力もおありだ!」次の指示:何らかの方法で鉄棒の上に上がれ。ほとんどの者は支柱をよじ登って水平の横棒にたどりついた後に着地した。元体操選手の私にとっては朝飯前だ。短振蹴上がりから腕支持姿勢、そこから足を抱えて鉄棒を跳び越し着地。皆が目を瞠り、小隊長も例外ではなかった。彼が例の嫌味を口にする間もなくつい私は「どうぞ、今度は小隊長殿の番です!」と言ってしまった。小隊長は無言のまま立ち去った。班長は私に「あんなことを言うもんじゃない。必ず根に持って何か仕返しが来るぞ!」と注意した。それはたちまち現実となった。その日の晩のうちにロッカー点呼が命じられたのだ。小隊長が現れ、次々とロッカーを点検して回る。私の所に来ると長々と血眼になって手抜かりを探す。(私はこんなこともあろうかととりわけすべてをきちんと整頓しておいたのだ)。とうとう小隊長はうがい用のコップから私の歯ブラシを取ると、白い清潔な私の麻布の教練服になすりつけ、出来上がった黒い染みを見せて、数日間昼休みを返上しての電話当番を命じたのだった。

とは言えその後私達の関係はどんどん改善し、何よりも「村の小学校のマイスター殿」という呼称は金輪際葬り去られた。

もう一つだけ是非とも書き留めておきたい新兵時代の出来事がある。私達は徹底して「上官への敬礼」や「食堂での立ち居振る舞い」を叩き込まれ、ついにはもう「人間」の間に出しても大丈夫だろうということになった。私達は初めての外出許可に喜んだ。ようやく拘束を解かれ、自由な空気と普通の人間のもとに戻れるのだ! だが執務室に外出許可証に受け取りに行く前、私達はまたも新種の「お遊び」を体験しなければならないことになったのだ。今回は椅子取りゲームのようなものだった。ルールは次の通り。五分以内に外出着に着替えて兵営の前に集合! 時間を守れない者は外出禁止だ。それっ! とばかりに麻布の教練服は乱暴に寝台に脱ぎ捨てられ、長靴は部屋の隅に放り出される。外出着と靴を身に付け階下に駆け下りる。ところが私は我が耳を疑った。「体育着に着替えてもう一度集合せよ! 先着六名には外出を許す。後はここに居残りだ。さあ兵舎に戻った、戻った!」再び息せき切って兵舎に戻る。私は三番目に兵舎を飛び出したので、チャンスはあると期待した。ところがどっこい! 下の階の者がすでに八名先に到着していた。私達よりも距離が短いのだから当然だ。運の良い六名が満面の笑みを浮かべて兵営を後にした。残った者は? 兵舎に駆け戻り、教練服に着替えて来い! またも煽られる。兵舎の中は既にとんでもない散らかりようだ。どんなにがんばったところで下の階の者を追い越すことは出来ない。またも幸運な六名が立ち去っていく。そして次なる命令:「外出着に着替えて来い! さあ、寄宿舎に戻れ、戻れ!」ついに私の堪忍袋の緒が切れ、階段を上がる途中仲間達に告げた。「私はもうこんな馬鹿げた遊びに付き合うのはごめんだ。」私はゆっくりと兵舎に戻ってまずは散らかった服を片付け始めた。何人か古参の兵舎仲間も同様に振舞い、ついには全員がそれに倣った。私達が一致団結して集合場所に戻ると、小隊長は顔を真っ赤にして私達を怒鳴りつけようとした。その時執務室の窓が開き、中隊長の声が響いた。「私はこれを見事な連帯感だと呼ぶ! 班全員に外出を許可する。」まさに団結の力が証明された一例だった。

新兵訓練の間に私達は我が国のフランス侵攻を知らされた。こんな具合だ。「中隊全員朝食後に麻の教練服に着替え銃を持たずに集合すること!」五つの中隊が全員集合とは何事だろう!? 近くの町からスピーカーの音が私達のもとまで聞こえて来る。大隊司令官ケッシー大佐が現れ、短いスピーチを行った。「兵士達よ! 本日早朝我がドイツ国防軍はフランスに進軍し、順調に前進を続けている。この後特別ニュースが流れるので全員謹聴するように。本日の任務は中止だ。各中隊長は部下を座らせるよう!」

私達は前日の日を浴びてまだ温かいコンクリートの床に座って、ファンファーレと共に告知される特別ニュースを待った。待つ間、船乗りの歌を覚えた。

甲板にアコーデオンの調べが響くと

水兵達はみな静かになる

誰もが故郷に思いを馳せるから

いま一度目にしてみたい故郷

私の脳裏を様々な思いがよぎった。今回もまた電撃的勝利のようだ。だとしたら「戦闘機パイロットの夢よ、さらば!」だ。戦争は今年中にも終わるだろう……。私達は何たる思い違いをしていたものか!

訓練期間も終わりを迎えようとしていた頃、最後の大きな試練がまだ待ち構えていた。五十キロ行軍だった。私達は幾つかのグループに分けられ、それぞれ同じ最終目的地の異なる行軍ルートを与えられた。最終目的地(大きな農家)には全てのグループが星型に到着するようになっている。二グループは兵営から直接出発できるが、その他のグループはトラックで目的地から約25キロ離れた出発地点まで連れて行かれる。私は自分のグループの指揮を任され、行軍ルートと目的地の記された地図を受け取った。きっかり六時半出発。万一グループが迷子になった場合は空砲を三発撃って合図をするよう事前に注意された。そうすればすぐに目的地から三発の空砲が返ってくるそうだ。

カラビーナを肩に担いで私達は早朝の爽やかな空気の中、気持ちよく歩き始めた。七キロ歩いた後、私達は国道を離れ、残りは畑を抜ける道だった。二時間半後、最初の休憩。日はすっかり中天に昇り、厚い軍服を着た私達の上に容赦なく照りつけ始めていた。続く行軍のために、私は軽装を命じた。厚い上着を脱ぎ、丸めて雑嚢にくくりつける。正午近く、私達は森の端にたどり着き、その涼しい木陰を喜んだ。十五分後、私は地図を確かめた後仲間達に告げた。日向の道を行軍するのはきつい。方位磁針で方向を確かめながら下草のほとんどないこの森を横切れば、木陰にいられるし、近道にもなる。素晴らしい提案ではないだろうか。私達は地図を確かめ、方位磁針を設定して、いざ森の中へ! 初めのうちは順調に前進できた。ところがだんだんと下草が繁茂し、しまいに森はギョッとするようなジャングルの様相を呈するようになった。とうとう私は方位磁針を目的地に向けて握ったまま、度々仲間の二人を視覚と聴覚の届く距離内に進ませ先の様子を確認させることにした。私の計算では私達はとうに森を出ているはずなのだ。さらに左右にも二人ずつ仲間を送り、森の端を探させた。だが皆むなしく戻ってきた。すでに一時近くなっていたため、私は三発の空砲を撃つことにした。すると嬉しいことにすぐに返答が返って来た。それも間近から、まさに私達の向っていた方向からだ。残りはたった200メートルだったのだ。たちまち本来の道に合流し、五分もしないうちに目的地に到着した。班長は私達の姿を見て喜んだ。彼はそろそろ気を揉み始めていたのだ。「銃を三脚ピラミッド型に置き、食器を持ってグーラッシュ鍋に行け! 極上のグリーンピーススープが待っている。」大袈裟でなく極上のスープをすすっていると、仲間の一人が私に「フランツ、美味しくないのか? やけに心配そうじゃないか」と聞いた。「ああ……。実は気掛かりなことがあってな。空砲の一発目を撃った時、妙に大きな音がしただろ。それでさっき銃を置いた時、銃口セーバーがないのに気付いたんだ。だからあんな音がしたんだ。いずれ上官が気付くだろう。そしたらどんなことになるかはわかってる。なるべく早く解決策を見つけないと……。」すると彼は「簡単だ。班長のところに行って銃口セーバーを盗まれたと報告しろ。俺が証人になってやる。それが解決策だ」と言う。「すまん!」

私は早速班長を脇に呼んで報告をすると「ああ、よくあることだ。明日町で新しいのを手に入れて来てやろう!」と言う答えが返って来た。めでたし、めでたし! かくして私は一日土木作業の罰を逃れることができた。

一時間休憩した後、中隊はみな揃って帰途に就いた。今回はもちろん幅の広い街道を行進する。教官全員、それに大尉も参加した。25キロの長い距離だ。部隊が団結して行進する方が楽に感じられ、最初の十キロはさほど苦にならなかったのだが、徐々に体の節々、それに長靴の中のマメが痛み出した。十五キロの時点でようやく、ようやく休憩。私達は道端の茂みに覆われた草地の上にくたくたの体と痛む足を投げ出した。残りまだ十キロ!? 最後まで歩けるのだろうか? 突然「サンカ」(衛生兵の車両)が現われた。足のマメが既に破裂した何人かが乗せられ、兵営に連れて行かれた。

中隊は最後の行程に取り掛かる。1キロごとに痛みは増し、最後にはマメのできていない者は一人としていなくなった。それでもなんとか私達は最後まで持ちこたえた。シュレースヴィク市から一キロ程の場所までたどり着くと、吹奏楽団が待機していて鳴り響く軍隊行進曲に合わせて私達は最後の力を振り絞って町を抜けて兵営まで行進した。中隊長が「止まれ!」と命じ、短いスピーチを行った後、解散を命じた。「マメやその他の怪我のある者は皆所轄地区に赴いて治療を受けるように! ぐっすり眠って疲れを取るのだ。明日は休日だ。」私達は三度の「万歳(ウラー!)」でこれに答えた。

物事は万事いつかは終わりを迎える。苛酷な訓練時代もしかり。最終週にはもうあまり訓練は行なわれず、その分銃の扱い方が徹底された。二十回、三十回、百回……。坦え銃! 立て銃! 注視! 銃を構えろ! 最初はグループ内で。それから隊列で。そして最後は中隊で。

教練が終了する前日にはすべて一糸乱れないまでに徹底された。そして午後すべての中隊が司令官による終了式に集合した。各中隊長が自分の隊を報告する。前列を視察した後、ケッシー大佐が短い別辞を述べた。私達のこなした訓練の数週間の苛酷だったこと、それがしかし市民から兵士を育てるためには必要不可欠であることを述べ、全員に今後も多大な「武運」[ドイツ語では“兵士の幸運(ソルダーテン・グリュック)”と言う]を祈った(私は度々これに恵まれることになる……)。

この何日間か兵舎でのもっぱらの話題は、私達がどこに配属されるかということだった。どの部隊に転属されるのだろう。その前に休暇が許されるのだろうか? やがて各人がそれぞれ配属命令書を受け取った。ほとんどが航空部隊の地上職員(飛行機エンジン技師、機械技師など)としての教習を受けるためにウィーン・ノイシュタットに送られることになった。だが私は前線に送られることになり、ヘルメットとカラビーナーを携えての行軍を命じられた。いったいどこの前線? 「ジュルト島の北海の作戦基地、ウェスターランド空軍飛行場だ。」この展開は決して悪いものではなかった……!

2.北海作戦基地(1940年7月1日〜1942年10月17日)

シュレースヴィクからウェスターランドへの道中、私は生まれて初めて広大な草地で草を食む牛の点在するホルシュタイン地方の湿地帯を目にし、私にはほとんど理解不能のフリーゼン地方の方言を耳にし、ジュルト島を本土と結ぶ長大なヒンデンブルクダムに目を瞠った(ダムは鉄道用で、車は対岸で列車に積まれる)。

午後遅く私は軍用飛行場中隊の兵営に到着し、当直下士官の下に出頭した。彼は私の行軍書類に目を通し、事務室に電話をした。一等兵が派遣され、私を“私の”兵舎に案内してくれた後、夕食を給仕してくれた。退室する前に彼は明日の朝事務室の特務曹長の下に出頭するよう言った。

兵舎には他に三名の兵士がいて、互いに自己紹介をした。彼等は私に軍用飛行場での任務について話してくれた。ほとんどが時間をもてあます監視業務で、ひどく退屈らしい。私は興味津々に翌朝を待った。翌朝“シュピース”(中隊付き下士官)の下に赴くと、彼は衛兵所に電話をして次のように告げた。「衛兵隊長、早急に書記を必要としていただろう? 新入りをよこすから待ってろ。」そして私には「衛兵所に赴き、クールマン伍長の下に出頭するんだ。」

クールマン伍長は「ようやく助けが来た!」と私を迎えた。「とても手に負える状態ではなかった。外部の人員を管理し、衛兵所の車両を記録する任務だ。書き物は得意だろうな。普段の職業は何だ? 教師? それはもってこいだ! 主な仕事は車両記録簿の記入だ。各車両のナンバーと入場時間、出場時間を記入するんだ。運転手は運行命令書を提示する義務があるからそれに押印をする。このボタンを押せば外の遮断機の開閉ができる。」

私は見張りよりは幾分面白いこの任務のおかげで、何よりもたちまち飛行場の人員と設備のすべてを知ることができた。その上、朝の点呼出頭を免除され、中隊の訓練も月に一度参加すれだけで良かった。なんとも幸運だった。

私の上役の衛兵隊長は女性と名のつくものにはまるで目がない人物だった。根っからの女たらしで、年がら年中口にすることと言ったら“股の話題”ばかり、週に幾度となく新しい恋人を衛兵事務所の隣室に連れ込んだ。

私達の監視圏は飛行場中隊の兵営、整備工場、格納庫と仕官食堂だった。この監視圏はだが一ヵ月ほどすると拡張され、飛行場のほぼ全部隊を網羅するようになった。即ち司令部、情報部、機材置き場、気象士の勤務する気象観測所、飛行部隊が侵入した場合の宿泊所、そして広大な飛行場全域。もちろんそれに合わせて監視体制すべてが新たに編成された。私達はこれまでの飛行場中隊の衛兵所からウェスターラントの端に新築された建物に引っ越すことになり、扱う車両数は遙かに多くなった。先の衛兵長は転属し、新たな上役(イッツェホー出身のビューゲル伍長)と交替していた。新たな中央衛兵所の人員は二名の兵士と一名の市民書記(フロイライン・アードラー)に増えた。

七月末から八月上旬にかけて、私は軍人にとって何ものにも替え難いひととき、つまり休暇を得ることができた。愛しい妻のマール、母、それに妹たちとほぼ四ヶ月ぶりに再会する幸せ! 素晴らしい日々(それに夜!)を過ごし、妻と我が家の菜園を幾度も散策した。あんずの実“ルネクロード”がまさに旬で、妻はこれをいくら頬張っても頬張りきれないのだった。

軍事用飛行場に帰還後、異動が行なわれた。これまでの伍長は金髪碧眼のフリーゼン地方出身者と交替していた。ハンス・ラングベーンというのが新たな“シュピース”の名前だったが、彼は大変なスポーツマンで、嬉しいことにすぐに飛行場中隊ハンドボール・チームを結成してくれた。勿論私も選手として名乗り出た。

早くも最初の練習で私の腕は認められ、センターハーフを任されることになった(私が故郷のJTV1885チームで務めたポジションと同じだ)。我がチームにはカール・イェンセンという下士官がいて、私と同じく士官候補生だったが、既に選抜教練過程と軍事学校を済ませ、“伍長”になるのを待っているところだった。私と同じく体育が専門の小学校の教師だったため、私達の間にはたちまち温かな友情が芽生えた。軍用飛行場内にはその他にもいくつかのチームがあった。事務局チーム、情報局中隊チーム、機材部チーム、技術班チーム、そしてウェスターランド・スポーツクラブ・チームだ。チーム同士で試合が行なわれ、こうした試合を通して、私W一等兵の技能は皆に知られるところとなり、上位のスポーツ仕官ラート大尉の目にも留まったほどだった。

だが間もなくある試合で私は手痛い失敗を犯すことになる。選手としてではない、審判としてだ。カール・イェンセンは多くの試合を自ら裁いた後、私に管理課チーム対機材中隊チームのレフリーを務めてくれと頼んだ。ただの一等兵の私が伍長だけでなく士官クラスの選手がほとんどの試合の審判を行なうことには不安を感じないわけではなかった。そのうえこの二チームはどんな理由があってか仲が悪く、相応の配慮を行なう必要があると事前に囁かれたのだ。実際、試合が始ると間もなく管理課チームの左サイドがゴールエリア前で激しく攻撃された。私はファウルの判定を下すべきだったのに躊躇してしまった(いったい何故躊躇などしたのか!?)。たちまちそのツケが回ってきた。両サイド共に目にあまるラフプレイが頻発し、とうとう十五分も経たないうちに私はプレイを中止させなければならなくなったのだ。だが選手同士の恨み合いはとうとう殴り合いに発展し、一大スキャンダルとなってしまった。私はスポーツ仕官の下に呼ばれ、すべての責任を押し付けられて散々な説教を喰らう羽目になった。

いったん崩れ去った信頼を、私は好プレイを重ねることによって少しずつ回復させていった。そしてついには最高の選手から構成される全軍用飛行場の選抜チーム入りを果たした。ポジションはやはりセンターハーフだった。この選抜チームの初戦は、強豪として知られるクラブチームを相手にフレンスブルクで行なわれた。好戦の末私達は僅差で敗退したが、充分に満足して帰還した。二週間後にはシュレースヴィク――私の先の駐在先だ――の地元チームとの対戦が行なわれた。仕官も含め、軍用飛行場の全部隊から大勢が観戦に訪れた。ハードな試合の中で私はどんどん調子を上げ、ついに二十五メートルの距離から見事なゴールを決めた。ポストの左上に狙いを定め、全力を振り絞って投げ込んだ爆弾のようだった。客席はざわめき、拍手喝采が湧き起こった。審判を務めたカール・イエンセンは「フランツ、今まで最高のプレイだったな!」と言ってくれた。

ある時私はスポーツ好きの特務曹長にファウストボールもできないものかと持ちかけた。彼はすぐに同意してくれた。興味のある者を募集して二チームが結成され、練習が始った。だがこの地に絶えず吹く、時には突風ともいえる強風の中ではまともなプレイを行なうことはとても不可能なことが間もなく明らかとなり、この案は放棄された。我がファウストボールチームは一度だけ実戦に出動したが、それは男性ではなく女性チーム相手の試合だった。だがそれはしばらく経ってからのことで、ひとまず私は士官候補生として終了させなければならない二つの教習課程のために、スポーツの舞台から遠ざかることになった。

第一課程は予備仕官候補選抜教習で、1941年1月8日から2月12日まで北ドイツ、メックレンブルク州ミューリッツのレヒリンで行なわれた。ハンブルク空軍管区司令部からおよそ150名の志望者が集まり、軍事学校入学の適性を徹底的に検査された。教習指導者の少佐は初日から最もハードなテストを行った。3000メートル走だ。スポーツの経験のないほとんどの志望者は、スタートから全力で走り始めた。私は彼等に先を譲り、故郷のJTVハンドボールチームのトレーニングで慣れていたように、全行程を均等に分けた。四周目で特に速度を上げることなく最初に飛び出した連中の半分を追い抜いた。六周目に入って(全部で八周あるのだが)徐々にテンポを上げていき、一人また一人と追い抜き、最後は三位でゴールインした。

競技終了後バラックに戻る途中、仕官候補の教官が少佐に「有能な走者達でしたな、少佐殿。特に黄色が良かった」と言うのが耳に入った。私は故郷のハンドボールクラブの黄色い短パンを履いていたのだ。「まったくだ、あのごぼう抜きは見事だった」と少佐は答えた。

私は「ふう、フランツ、ちょっと得点を稼いだもんじゃないか!」と心の内で喜んだ。続く週はトレーニング、指揮、射撃、銃把の練習と講習で詰まっていた。ある時悪天候のため、私達は廊下で銃把の練習をしていた。この日の午前中私はあまり調子が良くなく、何度か理解が遅れた。伍長「いったい今日はどうしたんだ?」私「伍長殿、今日はどうも気分が良くないんです。」これがとんでもない失言で、「なんと! 諸君、聞いたかね? W一等兵は気分が良くないそうだ!」とその後二、三日間は嫌味たっぷりに繰り返される羽目になった。教練の最終日、合格者は全員予備下士官として所属する部隊に帰還した。

教練はそれなりの激務を伴っていたため、さらに苛酷な軍事学校の始る前、私達は故郷への休暇を与えられることになっており、私は妻のマールとアルゴイ地方にスキーに行く計画を立てていた。妻はフィッシェン駅で私を迎えるつもりでいた。だが大変に落胆することになる。私は約束を守ることができなかったのだ。いったいなぜこんな失望を味わう羽目になったのか?

私は事務室で書類(休暇許可証と旅券)を受け取り、リュックサックを詰め終えると、汽車の出発時間まで昼食後一時間横になった。突然電話が鳴る。シュピースだ。「残念ながら君は出発できない。空港課から再審査の要請が来てるんだ。」衝撃と失望のあまり、私は腰が抜けそうになった。そして最初の反応は「ハンス、それは御免だ。休暇は目と鼻の先だ。俺は出発する。」ハンス:「フランツ、そのまま隊長に報告するぞ。」数分後再び電話が鳴る。「フランツ、すぐに中隊長の下に出頭するんだ。命令だ。」従う他ない。運悪く、きっと私を飛行場司令部の要請から庇ってくれたであろう実際の中隊長は休暇中で、代理のプロテスタントの牧師は私に大変な説教を垂れ、将来の仕官としての義務感に呼びかけ、最後に「どうしますか。これが原因のあらゆる結末を承知で休暇に出掛けますか。それともフレンスブルクに出頭しますか」と聞いた。私:「フレンスブルクに出頭します。」中隊長代理:「それならよろしい。」そして口調を和らげて話を続けようとするので、さすがに私は我慢の限度が来て踵を合わせ「大尉殿、退室させていただきます」と言うと、乱暴に背を向けて部屋を後にした。私は長い間失望の念に苛まれた。それでもまだ嬉しかったのは、フレンスブルクには他にも何人か、まったく同じ目に遭った仲間達がいたことだ。いったいどんな再審査が待っているのか。なんと、ただ静止状態での銃把の微細な修正のみだった。ある者は肩が少し高すぎる、別の者は「右向け、右」「左向け、左」という指令後、踵が正確に90度に合っていないといった類の重箱の隅を突くような理由で、私達軍事学校予備学生は虐められた。だが飛行場司令部はこのような新兵訓練を通して、私達がひときわ軍事学校に通う準備が出来たと信じて疑わなかった。

ある日私達は講義室に招集され、非常な緊張をして待っていた。現われたのは少佐と大尉だ。私達は席から飛び立つように起立した。少佐:「着席したまえ! 仕官というものは、あるテーマについていつ何時でもその場で短い説明を行なう準備ができているものでなければいけない。それでは・・・というテーマ(なんというテーマだったのかは失念)について説明してみたまえ。まずはW一等兵!」私は五、六行の文を諳んじてみたところで言葉に詰まってしまった。だが何たる幸運! ちょうど詰まったところで少佐は「よろしい、充分だ。次!」と切ってくれたのだ。私はまたもツキに恵まれた。

この馬鹿げた幕間劇にもようやく終わりが訪れた。私はウェスターランドに帰還し、三月一日に下士官に任命された。数日後にはもうベルリンのヴェルダー・アン・デア・ハーヴェルにある軍人学校の仕官養成課程への入学書類が届いた。

初日には大ドイツ帝国全国から受講生が到着し、ひとまず寄宿舎に振り分けられた。午後遅く全員が司令官の大佐フォン・リュックナー伯爵(『海の悪魔』の有名な著者フェリックス・フォン・リュックナー伯爵の兄弟)による祝辞を拝聴しなければならなかった。大佐はすべての列を回り、一人一人の肩を叩いて声を掛け、名前と職業を尋ねた。私の職業を聞くと「体育教師か、それは素晴らしい! ここに居合わせる私の同僚達の間に良い仲間がみつかるはずだ」と言った。またも“体育教師”という肩書きは魔法の効果を発揮したようだった……。

大佐は祝辞の中で「初日早々、私は諸君に一つ注意をしておきたいことがある」と強調した。「ここから遠くない“ビスマルク高台”と呼ばれる場所に有名な食堂がある。ここの名物ベリーワインは味も良いが、実に危険だ。楽しみ過ぎた後に外気に触れてたちまち足を取られた客は一人や二人ではない。急な坂道で転んで骨折した者さえある。くれぐれも注意するよう。」

解散後、私達は同じ寄宿舎の四人で外出し、周囲を散策してみることにした。花のほころび始めた果樹に覆われた丘陵に囲まれた素晴らしい景観だ。そして私たちの辿り着いた先と言えば? もちろん他には有り得ない。ビスマルク高台のレストランだった。ベリーワインは私達四人とって初めてのもので、実に口当たりが良く、一杯では済まない。杯が進んだ。とはいえ司令官の警句を忘れたわけではなく、度を越える前に席を立った。いつの間にか日が暮れ、外は闇に包まれていた。急な坂道には照明がなかったが、私達は完全にしらふだった。だが麓に辿りつく直前、私達の一人は足を滑らせて転倒し、腕を折ってしまったのだ。まったく偶然の出来事とは言え、即座に大佐に報告しないわけにはいかない。どのように解釈されるだろうか? 幸運にも私達は全員まったく酔っていなかった。信じてくれるだろうか? でなければ私達四人の教練はこの場で終了したも等しかった。私達は当直仕官に帰営報告を行なった。「特筆事項:腕の骨折」。当直仕官:「残念ながら直ちに司令官に報告しなければならない。」間髪をいれずに大佐が険しい顔をして現われた。私達は行った先を告げ、大佐の警句に充分注意を払った旨を説明した。大佐は事実を確認する必要があると言って、すぐにテストを行った。一人一人が長い廊下を歩き、「止まれ!」「左向け、左」「右向け、右」「戻れ」の指令に従わされた。幸いにも四名全員これを無事にこなし、大佐は早くも態度を和ませた。「諸君が事実を語ったことを私は信じる。さもなければ明日にでも全員退学させなければならないところだった。下士官殿は所属部隊に戻り、そこで怪我の治療を行なわなければならない。」そして当直の少尉に「下士官を医務室に連れて行きたまえ。残りの諸君は寄宿舎に戻るのだ。それではグーテナハト!」と告げた。

続く週はこの上なく苛酷だったが、実に興味深くもあった。私達は特に空中戦の戦術について、また機甲部隊の大佐から地上戦の戦術について学んだ。専門知識の習得の他にも一般教養がテストされた。ある時講義室でそれぞれが一枚の白紙を前に座らされた。課題:ドイツ帝国の地図を描き、山地、河川と州都を記すこと。私にとっては朝飯前の課題だ。またある時は、それぞれが歴史上最も有能と考える軍事司令官を挙げ、その理由を説明しなければならなかった。私はアレクサンダー大王、ナポレオン、そしてハンニバルまたはフリードリッヒ大帝を選んだ。解答用紙が返却され、質疑が行なわれる。中尉:「一名を除いては全員が総統の名も挙げている。下士官W、どういうわけだ?」(私は縮み上がって続きを待った。)中尉:「だが私も同じ選択を行なったと思う。理由も同じだ。我が総統の軍事司令官としての真の才能を歴史的に評価するには今はまだ時期尚早だ。」私はほっと胸を撫で下ろした。

実技の教習は主に指揮の勉強だった。それぞれが前線を前にあらゆる形の命令を下す訓練を行なった。最も重要なのは明瞭で鋭利な指令を行なうことだった。

そのほか私の記憶に残っているのは、二日間行なわれたスポーツ訓練である。一度は一万メートル走によって体力と持続力が、二度目は体育館にある高度の鉄棒で度胸を試された。課題:各人、何らかの手段で横棒に上がり、そこから飛び降りること。私達のグループの若い筋肉質のスポーツマンタイプが高い鉄棒から完璧な開脚飛びを披露した。拍手喝采! 私も幾度となくこの技をJTVチームやボンで行なってきている。番が回ってきた。スウィングを行なって蹴上がりから腕支持姿勢、開脚飛び……。だが片足が引っ掛かり(長いこと練習をしていなかった)、チップを敷いた着地場に転落した。幸い怪我がなかっため、すぐに起き上がって今度は振り上がりから腕支持姿勢、開脚飛び。今度は完璧だった。二度挑戦を行なったことが高く評価されたことを私は後で知った。

最終日の前日、落第者は所属部隊への帰還を命じられた。その他の者(私もその中に含まれた)は幕僚監部に赴き、希望する部隊(飛行兵か地上職員か)を告げることができた。私は戦闘機のパイロット志望を告げると、既に年齢をオーバーしていることを知らされた。二十四歳以下でないといけないそうだ。だが大変に人員の不足している爆撃隊を選べば、軍用機の司令官としてすぐに教練を受けることができると薦められた。落ち着いて考え、明日返答すればよいと言う。難しい選択だ。野心(早期の昇格は魅力的だった)と理性(無事に戦争から帰還すること)との狭間で悩んだ末、理性が勝利した。私は地上職員の道を選んでウェスターランドに帰還した。間もなくいかにこの選択が正しいものだったかを知ることになる。

だがとりあえずは慣れ親しんだ飛行場中隊の下に帰還した。一週間後には早くも伍長に昇格し、専用の兵舎を割り当てられ、仕官候補として(今では当直中隊仕官を務めることになっていたカール・イエンセンと共に)仕官食堂で食事をしなければならなかった。これは悪い待遇ではなかった。司令部はシングルエンジンのユンカース34を所有し、十四日に一度デンマークに飛んでは今では貴重品となった良質の食糧を持ち帰ってきた。とりわけ仕官食堂の夕食会では嬉しい驚きが常に待ち構えていたものだ。この夕食会では必ず仕官あるいは管理職の一人が講演を行なうことになっていた。やがて私にも実に間の悪い形で藪から棒にお鉢が回ってくることになるのだった。

ビューゲル伍長(今でも衛兵隊長)はイッツェホー市在住だったが、彼はある時、当地の体操クラブと我がハンドボールチームとの試合をアレンジした。そういうわけである土曜日、私達はイッツェホーに出発した。直前に会長からもう一度電話があり、できればファウストボールのチームも連れてくるよう頼まれた。クラブ内に強力な女性チームがあるのだそうだ。

イッツェホー駅で我々は会長と代表者何人かに温かく迎えられ、クラブ施設に案内された。既に沢山の会員(ほとんどが体操選手)が集まり、宿泊先の手はずを整えていた。各会員が我々の一人を自宅に迎えることになっていた。夜にはクラブ施設で実に気持ちの良い歓迎パーティーが催された。翌朝、我々は再び施設で再会し、十時から十二時まで男女の体操選手達に現地を一通り案内してもらい、特にスポーツ施設を見せてもらった。

昼食をそれぞれのステイ先で取った後、十四時にまずファウストボール選手の男女が競技に取り掛かった。話に聞いた通りの手強い女性チームが我々の前に立ちはだかり、軍人相手に奮闘した。

十五時にはハンドボールの試合が始った。図らずもたちまち強敵に3対0のリードをされてしまった。だが突然我々の有利に展開が変わり、競り合いの末11対9の僅差で勝利を勝ち取ることができた。

帰還後の夜には勿論早速食堂で勝利の祝杯が挙げられた。特に我が“シュピース”はご機嫌で、幾度となく杯をふるまった。夜もすっかり更けた頃彼は突然素晴らしいことを思いついた。我がチームの各選手の目前にシュナップス(蒸留酒)の小さなグラスが十一杯ずつ並べられた。どうしろと言うのだろう? “シュピース”は立ち上がって「私はフリースランドの出身だが、諸君は軟弱な西部や南部から来たのだろう。真の男なら半時間以内にこの十一杯のグラスを飲み干せるものだ。」そう言われては尻ごみして軟弱呼ばわりされるわけにはいかないと誰もが思った。私は八杯まで飲み干したところでその効果を思い知り始めた。気分が悪くなり、とうとう仲間の一人に支えられて兵舎に戻らなければならなかった。彼は念のために寝台の横にバケツまで置いて行ってくれた。

翌朝、我が友“シュピース”の電話で私は深い眠りから叩き起こされた。「起きろ! 司令部から電話だ! 今夜は仕官食堂の夕食会だ。そこで君は国防軍付属部隊について講演を行なうことになった。」寝耳に水とはまさにこのことだ。大慌てで洗面室で頭を冷水に浸し、制服に着替えた他は髭も剃らず、朝食も抜きで、シュピースがその間に集めてくれた資料を抱えて自転車で干潟に向った。風を除けられる場所を選んで勉強開始だ。だがどんなに努力しても私の頭は何一つ吸収しようとしないのだった。まるで固く閉じた扉ががんばっているようだった。とうとう私は諦念し、最悪の事態を覚悟しながら兵営に帰還した。“シュピース”は私を目にするとすぐに呼んで、「いったいどこにいたんだ? かれこれ一時間探していたんだぜ、この幸せ者め! 講演は行なわなくていいことになった。上級行政委員が司令官にこんな短期間でこれほど膨大なテーマをこなすことなど不可能だと諭したんだ。」今回も私は窮地を脱することができたのだった。この上級行政委員は私に別の題材を提案し、「もし貴方がそれぞれの兵役代替義務の任務に言及するつもりでいたのなら、この任務が絶対不可欠であることを是非伝えていただきたい」と言い添えた。

次の夕食会で私はそれを実行した。私は次のように講演を締めくくった:「国防軍のあらゆる単位は、その性質や規模に関係なく、長年の経験を積んでいるため有能な非戦闘員の専門人員に依存している。たとえ軍人がある専門分野の養成を受けたとしてもこうした専門人員の能率に達することはほとんどできない上、軍事分野の能力さえ失ってしまうでしょう。」上級行政委員は拍手をした。「大変結構でした、伍長殿。」司令官:「よくやった、W。では紳士諸君、食卓につこうではないか。」

しばらく後、我が友カール・イェンセンが首を長くして待っていた少尉に昇進する日が訪れ、同時にデンマークに転属させられた(デンマーク語ができたためかもしれない)。同じ日に私は、彼がそれまで勤めた中隊付き仕官のポストを受け継ぐことになった。私の仕事場は中隊長の部屋となり、私は中隊の生活の中で起こるあらゆる出来事について彼と話し合わなければならなかった。任務の内容は、曹長があらかじめ選り分けた業務郵便の点検、つまり微細な事項は中隊長には回さず、重要なものを自分の意見も含めて提示すること。また業務スケジュール、休暇リスト、昇進や監視ミスに対する罰則リストの作成等々。

この期間に一度事件が起こった。ある日の早朝五時、私がほとんど毎日のように一緒に卓球を行なっている司令部の少尉に起こされた。「すぐに身支度をしろ! 沿岸砲兵隊から電話だ。イギリスのウェリントン爆撃機が緊急着陸を行なった。乗組員は死亡、ポーランド人のパイロットだけが生存している。事故機は我々の管轄区域にあるため(ジュルト島は北部、中部、南部沿岸区域に分割されていた)、我々がパイロットを連れてこなければならない。」

私達は拳銃に弾を込め、現場に向った。あばた面のポーランド人パイロットは見るからに動揺しており、「いったいどんな目に遭わされるのだろう?」とすっかり怯えていることが伝わってきた。私達は身振りで逃げようとすれば撃つことを知らせた。そして車の前部の運転手と少尉の間に彼を座らせ、私は拳銃を手に後部座席に陣取った。司令部で彼は当直仕官(白髪の大尉)に迎えられた。昔気質の大尉は捕虜を座らせ、煙草を勧めた。パイロットは目に感謝の意を浮かべてこれを受け取った。時計が八時を回った。司令部の扉が開き、司令官プフラウメ少佐が早足で入室し、よく知られた剛直な、敬意を喚起する口調で「なぜこの男はここに座っているのだ。怪我でもしているのか? 煙草をやったのは誰だ? 報告を要求する!」と言うと、自室に消えた。その後どのように事が進んだのかは、私は知らない。私達の任務は終了し、退室させられたからだ。

この時期我が国はイギリスと制空権をめぐる熾烈な闘いを繰り広げていた。私達も間接的にそれに拘わることになった。ある日、我が軍事飛行場にイギリスを攻撃する準備を行なうためのユンカースJu88の飛行中隊が到着したのだ。乗組員は毎朝離陸、着陸、急降下と定められた標的への爆弾投下(勿論擬似爆弾を使用して干潟で行なう)の演習を行なった。飛行中隊長は騎士鉄十字勲章を持つ威勢の良い大尉で、ある朝、飛行場の上を一、二メートルの高度でバックに飛行した。大した人物だ。この中隊の仕官達は私達と同じ仕官食堂で食事をしたため、食卓では様々な話を耳にすることになった。彼等の中にも飛行兵曹長が一人いて、私の隣に座った。間もなく私達はベルリンのヴェルダー軍事学校で同じ課程にいたことが判明し、そんなことから私達はたちまち親しくなり、よく卓球を一緒に行なった。

およそ二週間の演習の後、飛行中隊長は出撃準備の整ったことを告げ、数日後には既に出撃命令が発せられた。毎夕、黄昏と共に爆弾を搭載した飛行機がイギリス目指して西に飛び立った。間もなく我々は死闘の爪痕をまざまざと目にすることになる。ある朝、朝食の席が一つ空のままだったのだ。私達は悪い想像をした。そしてその想像は当たっていた。席の主が現われることはなかった。X中尉は海の藻屑と消えたのだった。残念ながらその後も成り行きは変らなかった。朝食の場での空席は増え続け、飛行中隊長自身がある晩帰還しなかった。私の友の飛行兵曹長は私に言った。「イギリスの沿岸を高い高度で飛行しようが低空飛行しようが、必ず敵の戦闘機に迎撃される。私が昨日無事に帰還できたのは、爆弾を非常投下し、全速の低空飛行で戻ってきたからだ。だがいつかは私もやられるだろう。」彼の予言は残念ながら的中してしまった。早くもその翌朝、私の隣席は無人となったのだ。私は軍事学校で当時行なった選択を思い起こさずにはいられなかった。ほぼ確実に私も今頃は北海の藻屑と消えていただろう。(戦後の戦死者統計はこの推測の当たっていることを明確に裏付けた)。

私達はさらにこの壮大な空中戦の不吉なメッセージを受け取ることになる。沿岸砲兵隊から再び電話が入った。戦闘機パイロットの死体が打ち上げられたので引き取りに来るように。私はかつての衛兵隊長と共に飛行場中隊を代表して命令を受託した。死体は頭部のないドイツ人少尉だった。北海の海水で重くなったパイロットスーツを開くと、骨ばかりが崩れ出た。同時に失神しそうな強烈な臭気に襲われる。目前の人間の身元を知らせることができたのは標識番号のみだった。

打ち上げられる死体の数は増えていった。北海は次々と犠牲者を陸に返すのだった。その中にはイギリス人パイロットもいた。戦死したドイツ兵はウェスターランドの軍人墓地に礼砲を伴う軍装で埋葬された。イギリス兵も当地に埋葬されたが軍装は行なわれなかった。

軍用飛行場には各部隊の当直下士官の他、全飛行場を担当する飛行場付き仕官が一人いた。飛行場付き士官は午後、衛兵にその日一日有効な合言葉を知らせ、日中及び夜間一度ずつ巡回を行ない、特別な出来事を衛兵記録に記入するよう命じる。ある時私もそのような出来事を経験することになった。私は匿名の電話によってトラックの運転手らが足を洗わずに就寝したので、是非とも確かめるように告げられたのだ。行くべきか無視するべきか迷った末、まあ、行くだけ行ってみようと決心した。宿泊施設のバラックの扉を開けたとたん、気絶しそうな臭気に襲われて慌てて鼻を覆った。室長の報告を受けた後、私は皆に足を見せるよう命じた。一人の足はほとんど真っ黒だった。「諸君、すぐにベットから出て洗面所へ行くのだ。半時間後にもう一度来る。室長は責任を持って命令を実行させるように。従わない者は衛兵所に同行してもらう!」と私は命じた。宿泊所に戻ると、扉の前に室長が立っていて「伍長殿、命令は実行しました。ただ仲間をもう起こさないでください。明日の朝早く起きなければいけないので。」「了解。グーテナハト!」と私は答えた。

休日の週末には、私はよくカール・イェンセンと、田園詩のように美しい近郊のカイトゥム村に足を運んだ。ここには我が機材部隊が駐屯していた。部隊長のクリューガー伍長はこれ以上ない実直で穏やかな、気さくな人物で、たいてい私達にカリッと炒めたじゃがいもを出し抜けに振舞ってくれた。伍長も部下のほとんどもこの地域の出身のため、どんどん品薄になっていく新鮮な野菜に困ることはなかったのだ。

ジュルト島の干潟側に位置するカイトゥム村には、島唯一の森があった。ブナとミズナラの明るい見事な森で、そこここに隠れるように建つ茅葺屋根のフリースランド風家屋で飾られ、その光景を目にするだけでも安らぎと憩いの念に包まれるのだった。

妻のレーネ[マグダレーネの愛称、時にマール又はマー、時にレーネと呼ばれていた]は三週間の休暇をジュルト島の私のもとで過ごしたいと願ったため、私はそのようなフリースランド家屋に一部屋を借りる手はずを整えた。家主はフロイライン・ヤンセンという女性だった。夢のような休暇が私達を待ちうけていた。

私自身も二週間の休暇を取ることが出来たため、すべて一緒に計画し、実行することが出来た。幾度となく干潟を散策し、時にはウェスターランドまで車で赴いて海岸を訪ね、フロイライン・ヤンセン宅の庭の寝椅子でのんびりし、球技を楽しんだりした。夜は大変感じの良い家主と一緒に庭に座ってお喋りに講じた。

こうした素晴らしい日々の後、別れは辛かった。私達は様々な言葉で気を慰めようと試みた:「燦燦と太陽の輝く日々! 泣いちゃいけない。もう過ぎ去ってしまったのだから。笑うんだ! この日々を体験できたのだから。」

私が夢の転属を体験する前に起こった軍用飛行場での出来事をもう一つだけ記しておきたい。いつもながらの仲間達との湿っぽくも愉快な夕べに、ある時訪問客が一人加わった。飛行兵曹長ギルドナーだ。

騎士鉄十字章を授与された夜間戦闘機パイロットで、もちろん話題には事欠かなかった。特に爆弾を満載した四発エンジン爆撃機を攻撃した話は凄かった。「私は真っ黒に塗ったD15機で、爆撃機を標的に入れるとすぐに真後ろに付き、斜め下から攻撃した。そうすれば狙撃者が私を発見するのは遅れるか、まったく発見されないからだ。私はできる限り接近する。すると砲撃はたちまち威力を発揮する。私のD15機は前方に2センチの機関砲を二機搭載している。これはそれなりに効果があるんだ。」と話している真っ最中、楽しい座は突然当直下士官の呼び出しに阻まれた。「司令部から電話だ。敵の爆撃機が帰還飛行をしている。航路はジュルト島。飛行兵曹長ギルドナーは即座に出撃するように。」ギルドナー曹長は即座に我々に別れを告げ、駆け足で機体に向った。機体の横ではパイロットスーツを携えた機械工が待ち受けていた。瞬く間に彼は滑走路を走りぬけ、闇夜に消え去った。誰一人食堂に居座る者はなく、私達は全員外に出て上空を見上げた。爆撃機が大変な高度を母国に向って飛行している。突如銃撃音が鳴り響いた。一斉射撃が繰り返される――間もなく稲妻のような閃光と共に巨大な火の玉が生まれ、ゆらゆらとゆっくり落下し、北海に消えていった。一体誰がやられたんだ? ギルドナー? 彼のD15だったのか、あるいは爆撃機か。幸いにもギルドナー飛行兵曹長からすぐに連絡が入った。「着陸態勢に入っている。サイドライトの点灯を願う。車輪を撃たれたので緊急着陸(胴体着陸)を試みる。」間髪を入れずに可動式消火器と事故処理車がサイドライトの時々点滅する滑走路に猛スピードで向かう。たちまち黒い機体が現われ、胴体着陸を行なった。豪雨のような火花が飛び散り、悲鳴のような軋み音が鳴り響いた後、機体は静止した。無傷の飛行兵曹長が飛び降り、ただ一言「・・・番だった(数字は残念ながら失念)」と告げた。間もなく中尉に昇進したこの凄腕の夜間戦闘パイロットの噂を私達はその後も度々耳にした。だがその彼も運に見放される時が来る。多くの仲間と同様、彼もまた空中戦で命を落とすことになった。

季節が十月を迎える頃、幸運の女神が私に微笑んだ。ある日事務局から電話が入っり「転属命令が届いている」と言うので階下に向う。“シュピース”が向こうからやって来て、「この幸せ者め! デンマーク・リュー市の空軍スポーツ学校にスポーツ教師として転属だ。おめでとう!」私は勿論天にも昇る心地だった。これ以上の待遇はない。“体育教師”の肩書きがまたも威力を発揮したのだった。

私は鉄道でデンマークの東海岸の港町オーフス市に赴いた。駅を出ると、出口の前に「リュー市空軍スポーツ学校」という標識を掲げたバスが止まっていた。私の他にも何人かが乗車した。席に着くと間もなくバスは発車した。いったいどのような様相のスポーツ学校なのか興味津々だった。バスは内陸に向っておよそ三十キロを走った。わずか三十分ほどの行程だ。スポーツ学校は飛行場と運動場の他にはバラックが一列並んでいるだけのものだったのには、少しがっかりした。いつものように私は司令部の司令官(大尉)の下に到着を報告した。「貴殿の書類は届いている。仕官候補ですな。司令部に一室確保することもできるが、スポーツバラックに赴く度に広い飛行場を横切らないといけない。スポーツ教師用バラックにも居心地の良い部屋があるので、それを使うことをお奨めする」と大尉は言った。迷うことはなかった。仕官食堂の付き合いはウェスターランドで既に充分体験した。ここは安全な場所の上、スポーツ教師用バラックは美しい森の端にじかに面していた。間もなく私はスポーツ学校のスポーツ責任者フォークト巡査の知己を得た。私達はすぐにスポーツ仲間同士で気が合い、親称(du)で呼び合う仲になった。彼は一号室を使っていたので、私にすぐ隣りの二号室を勧めた。この後も何人かの教師が召集されており、どんな人が来るかはわからないからだ。彼は私に運動場と体操設備の整ったバラックをひと通り見せてくれた。「私達の任務とはどんなものなんだ?」と聞くと、「十四日ごとにハンブルク全空軍管区司令部から骨休めにあらゆる階級の軍人が百二十名ほど訪れ、様々な軽いスポーツによってリフレッシュをする。従って激しいスポーツはダメだ。」彼は既に半年間一人で三十人を相手に勤務してきた。参加者が百名に増加したことによりスポーツ教官も相応の数召集されたわけだ。

仕事は朝の七時、冬は一時間遅く八時に、早朝のスポーツか森の中のウォーキングで始まり、それから朝食、朝の点呼と“シュピース”とそと特命部隊による告知、そしてスポーツ教官はグループを引き受ける。天気の良い日には我々は外で活動した(軽陸上競技、サッカー、ハンドボール、ファウストボール、森のウォーキング、トレッキング)。悪天の日には体育館で体操競技、跳び箱、縄跳び、メディシンボール等を行なった。

フォークトと私は毎晩それぞれ勤務スケジュールを立てた。最初からこの新しい任務は私の気に入った。実に居心地の良い兵営、質の良い食事、軍隊の訓練から遠ざかった楽な仕事、そのうえ、今なお何でも購入することができる食堂の売店。もう一つのおまけは、デンマークに駐屯している軍人は各人二週間に一度、実家にバターを一キロ送ることが許されていたことだ。もちろん私はこの特典を十二分に利用した。

最初の教習者達が金曜日に学校を去った後、思いがけない待遇が待ち受けていた。厨房の下士官が私達全員を饗宴に招待してくれたのだ。その御馳走と言ったら! スープだけでもマイスターの名に値するものだった。それに種々のじゃがいも料理、野菜(アスパラガス、えんどう豆、グリンピース、カリフラワー)と鴨のローストが食べ放題だった。“シュピース”は一人で鴨を丸々一羽平らげた。デザートにはアイスクリームと果物。それにこれでもかとワインとビールが供された。そんな具合に十五時まで舌鼓を打ったその後にコックが用意していたケーキは最高峰のレベルだった。ケーキの後には立派な夕食が待っていると聞いた私はトレーニングスーツに着替えて、森の中を走りに行った。それでなんとか御馳走の一部を味わうことができたが、食後には勿論ワイン、ビール、シュナップスが深夜まで惜しげなくふるまわれた。私は十二時に席を立って就寝したが、その後も遅くまで食堂の賑わいぶりが聞こえてきたものだ。翌日の日曜日、校内にはやっとのことでふらふらと徘徊する“屍”の姿しか見られなかった。月曜日には新たな教習課程が始り、校内は生気を取り返した。

数週間後、フォークト巡査は昔からの知り合いのデンマーク人一家に夕食に招待され、私を一緒に連れて行ってくれた。一家はオーフス市に住んでいた。私達は午後、約束の時間よりもずっと早く市内に到着した。カフェに入り、ケーキや菓子類の品揃えに目を瞠った。私はふと外に目をやり、思わず笑いをこらえきれなくなった。「どうしたんだ?」とフォークト巡査。「見ろ。老婆が太い葉巻をくわえて市場広場を横切っていく。」フォークとはまるで驚かず「パイプをくわえた女性を見たこともあるさ」と言った。

七時に招待先の家を訪ねる。実に感じの良い一家が私達を温かく迎えてくれた。すぐに食卓に通され、特上の料理とワインがふるまわれた。一家全員がドイツ語が達者だったため、興味深い話に花が咲き、ドイツとデンマークとが互いに歩み寄る夕べとなった。

さらに日々は過ぎ去り、いつの間にかクリスマスが目前に迫っていた。クリスマスから新年にかけては教習課程がないため、すべてのスポーツ教師は休暇を与えられた。食堂の売店はたっぷりと食糧を入荷していた。バター、肉、ハム、ベーコン等々。私達はリュックサックに詰め込めるだけ詰め込んだ。また全員、近所の農家に丸々と太ったガチョウを注文してあった。出発前日にガチョウを受け取り、リュックサックは一杯になった。我家で待ち受けていた家族を前に、サンタクロースがリュックサックから宝の山を次々と取り出した時の彼等の喜びようといったらなかった。

クリスマス休暇後にスポーツ学校に戻ると、一面深い雪に覆われていた。司令官は用意周到に空軍管区からあらゆるサイズのスキーとスキー靴四十組のほか、我々スポーツ教師のためにアイススケートを十二組取り寄せてくれていた。以後何週間にもわたってプログラムは冬季スポーツで埋められた。

ゆっくりと春の近づきつつあるある朝、戸外の草や穂、枝が厚い氷に覆われていた。夜の間に氷雨が降ったのだった。風が吹くと、ガラスが砕けるような音が響き渡った。

東部戦線での戦闘員損失は増加の一途を辿り、補給が必要となったため、残っている良質の人材を求めて“英雄狩り”が軍用飛行場を巡っていた。重要な戦場ポストを務めていない軍人は全員ロシアに送られることになった。五月にはフォークト巡査が召還された。私も明日にも召還されるかわからないと覚悟を決めていた。これらの代替兵は独立した空軍地上戦闘部隊と呼ばれる師団にまとめられ、戦場経験とロシアの戦略に関する知識が少ないために膨大な数の犠牲者を出すだろうことが当初から予測されていた。だがこの空軍地上戦闘部隊を経験を積んだ陸軍の部隊と組み合わせる案は、ゲーリングに拒絶された。

ウェスターランドの飛行場部隊への帰還を命じられたのは五月のことだったと思う。同時にスポーツ学校も閉鎖された。訪れる軍人が一人もいなくなったからだ。少しでも兵役に適した者は、スポーツ学校に通う代わりに、誰も彼も東部戦線に投じられるようになったのだ……。

3.フランス・ムルムロン市戦術学校(1942年10月18日〜12月15日)

ウェスターランドで私は再び中隊付き仕官となり、転属命令を待った。数ヶ月が何事もなく過ぎ去った。特筆すべきことと言えば高射砲の教習を受けたこと、そして飛行場司令官のプフラウメ少佐が栄転したことくらいだろうか。少佐の歓送会には、軍人も非戦闘員も含めたすべての部隊が戸外に集まった。参謀最年長の仕官フィッシャー大尉が別辞を述べたのだが、これが文字通り大変な失態となってしまった。その白髪とゆっくりとした動作のために私達がこっそり“我等がお爺ちゃん”と呼んでいた大尉は、上官に対するあまりの敬意に全身震えが止まらず、足はがくがく、手はゆらゆら。プフラウメ少佐は、軽い苦笑を浮かべながら祝辞を受けたが、それは祝辞というよりは気品に欠けた喜劇に近かった。

そしてとうとうその時が来た。私はフランス、ランス市から遠くないムルムロンに転属することになったのだ。1942年10月18日のことだった。広大な演習場を備えた大規模な兵営が、およそ四十名の仕官候補からなる私達の戦術学校教習生を受け入れた。ほとんどが伍長クラスだ。驚いたことにその中には、数ヶ月前に私自身が軍事学校入学を準備するための教習を行ったウェスターランドからの二人の志望者も含まれていた。

戦術学校教習課程の目的はロシアへの派兵準備だ。ロシア戦線に参加した勲章受章者の落下傘部隊員らが教官としてその経験を私達に伝授することになっていた。

理論の講義(特に地上戦戦術について)のほかに、新たに開発され、その高速の射撃力のために大変敵に恐れられる新兵器グロスフスMG42機関銃と、歩兵にも戦車を相手に闘うチャンスを与えるために考案されたパンツァーファウストについて教えられただけでなく、実技訓練も行なわれた。ある峡谷で、私達は戦車の残骸を標的にこれをそれぞれ一発ずつ射撃することになった。発射した弾頭が安々と戦車の装甲を貫く様は実に見事だ。ところがこの化け物兵器はまだ百パーセント完成されているわけではなく、時に故障して事故を起こすこともあると聞かされた。それを私達も身を持って体験することになる。教習生の一人の兵器は発射せずに弾頭は手元の筒で直接爆破した。腕が砕け、肩に凄惨な傷を負って救急車に運ばれていく仲間。彼は不運だったと言えるのだろうか?(ロシア戦線よ、さらば……)私の番が回ってくる少し前に再び故障が起こった。だが今回は不発なだけで爆発は起こらなかった。教官は注意深く兵器を脇に置いた。私の“ファウスト”が戦車の真ん中を無事に撃ち抜いてくれたのにはホッとした。

この期間には忘れることができない三つの思い出がある。二つは愉快なもの、三つ目は実に、実に悲しいものだ。

ある休暇の週末、私は何人かの仲間達とランスを訪ね、町と聖堂とを見物した。私達のさらなる目的は昼食に今でも上等のウサギ料理を供すると言う噂のレストランだった。ランスの街中を縦横に散策した後、私達はくだんのレストランにたどり着いた。店内は客で押し合いへし合いしている。ボーイが片隅のテーブルの食器を片付け、私達に席を作ってくれた。“ウサギ料理”が運ばれてくると、ふと私達の脳裏をよからぬ想像がよぎった。突然仲間の一人がニャアニャア、ワンワンとやり出す。その真似が実に上手いので、店内の客が一斉に笑い出してしまった。

ボーイ:「ニャアニャア、ナイン! ワンワン、ナイン! ラパン、ラパン![フランス語でうさぎ]」

そして手で大きな耳を真似て見せた。猫だったのか犬だったのか、あるいは本当にウサギだったのか、とにかく味は良かった。

昼食後、さらに街中を散策していると、仲間の一人が名案を思いついた。ランス市には名高い“売春宿”があるそうだ、ちょっと覗いてみようではないか。皆が賛同した。そのような場所を一度も訪れた経験のなかった私も興味をそそられた。

私達は広い広間に通された。ここでまず前座が行なわれるそうだ。広間の真ん中にはテーブルと二脚の椅子があり、そこから二メートルの距離を置いて椅子が四列、円形に並べられている。前列の四席にはすでに兵卒達が陣取っていた。私達は後列に席を取り、何が演じられるのかを待った。間もなく扉が開き、二人のフランス人女性が現われる。一人は若くて器量も良く、軽いコートを羽織っていた。二人目はだいぶ太った年増で、肩にショールを掛けているだけだったが、それもすぐに放り出し、ブラジャー一枚の姿で椅子に腰掛けた。若い美人な方もコートを脱ぎ捨て、素裸でもう一脚の椅子に腰を下す。二人はまずさまざまな形での自慰を披露した。続いて若い方がペニス型の玩具を装着し、二人して事にかかる。今やブラジャーも脱ぎ捨てた年増女は、考え得るあるいは想像を絶するありとあらゆる体位で玩具を装着した若い仲間に弄ばれた。特に二つの体位は奇妙なものだった。一つは”フランス式恋愛”、もう一つは”コーヒー豆挽き”という。後者では、一人が椅子に座ってコーヒー豆を挽いている間、片方はペニスを彼女の脇の下に押し込み、豆を挽く動きによる刺激を楽しむのだった。散々に刺激されて熱くなった年増女は、自らも玩具のペニスを持ち出して己の股間に激しく出し入れを始めた。ついに嬌声と共にペニスを抜き出し、ぎらぎらと目を光らせながら前列に座っている兵卒達の鼻先にそれを突き付けた。最後に余興が告知され、若い方が客席を回って一フラン硬貨を集めると、それをテーブルの一角に積み上げた。そしてその上に両足を広げ、股で覆い尽くした。彼女がテーブルを離れると、テーブルの上の硬貨は跡形もなく消えていた。そのまま兵卒らの間を周り、一人一人差し出した手の平の上に硬貨を一枚落とした。この余興をもって前座はおしまいとなった。だが訪問はまだ続く。私達はテーブルと椅子の並ぶ大きな広間に通され、席に着き、ワインを注文した。給仕を行なうのは部屋の片隅のテーブルにいる売春婦らで、彼女達は客が合図をするのを待ち、呼ばれてテーブルに来ると、実に巧みに媚を売るのだった。何人か必要に迫られた軍人がそそくさと女と共に上階の密会部屋に消えていった。供されるワインは悪いものではなかった。だいぶ時間が経った頃、突然女の一人が我々のテーブルに来て、片隅に座っていた男を無言で押しのけると、私の膝の上に座った。一言も発せず、視線も合わせず、人形のように無言のまま座っていたかと思うと、突然片手で私の太股をまさぐりはじめる。だが何事も起こらないと確認すると、来た時と同じくらい不躾に部屋の片隅に立ち去った。

さていよいよ戦争を通して私にとって最も悲しく思われた出来事について綴りたい。ある時講義が終了した後、落下傘部隊に所属する少尉が現われ、私達にもうしばらくその場に留まるよう願った。「私は実に悲しい任務を果たさなければならないのです。厨房で働いていた我が中隊の上級兵長は、買出しのために農村地帯に出入りしていたのですが、どうやらそこでフランスの反乱分子に篭絡されてしまったらしい。まだ若い彼は、他言の禁止されている機密事項を漏らしていたため、だいぶ前から尾行されていたのですが、ついに軍から支給されたピストルとバター一キロを交換してしまったために逮捕され、軍事裁判にかけられました。裁判は昨日行なわれ、二人の弁護士は彼の命だけは助けようと全力を尽くしました。彼の若さでは、行なったことの重篤性が十分に理解できていなかったことが特に強調されました。だが無駄な努力でした。裁判長のX将軍の厳しい態度は変わらず、前例を示し、教練中の仕官候補達の肝に銘じさせるためにも、全員が刑の執行に最後まで立ち会うことを命じたのです(判決は銃殺刑だった)。刑の執行は明日の早朝六時に定められました。皆さんは五時十五分に集合していただきたい。我が中隊の伍長が刑場に皆さんを誘導します。制服、軍靴、鉄兜を清潔に整え、何よりも厳粛な姿勢で臨んでいただきたい。もしも自分は刑の立会いには耐えられないと思う方があったら、今すぐに申し出ていただきたい。一人もいらっしゃいませんか? 仕官候補の皆さんに対して私の望んだ通りです。」

翌日早朝四時半に起こされ、あらかじめ指示されていた通りに刑場に連れて行かれた。私達が到着すると、既に現場には何人かの仕官と裁判官が一人、グループごとに立って、小声で話をしていた。私達は別のサイドに連れて行かれ、“休め!”の姿勢で待った。私達の右側には支柱が立ち、左側には全身戦闘用の装備をした落下傘部隊の兵士八人が銃を携え、支柱からおよそ二十五メートル離れた場所に立っていた。突然黒いリムジンが現われ、私達の向かいに停車した。まず黒い僧衣をまとった司祭が、続いて落下傘部隊の伍長が降車し、最後に上級兵長が現われたが、両手を背中で縛られているために車を降りるのに伍長の助けを借りねばならなかった。若い痩身の彼は、目を見張って怯えきった様子で周囲を見回した。死人のように蒼白だ。司祭がすぐに駆け寄って落ち着いて言葉を掛けた。彼が支柱に縛られる間、私達には“気をつけ!”の命令が下った。哀れな若者に随行した伍長が彼に目隠しをしようとしたが、若者は首を横に振って拒絶した。司祭が言葉をかけて彼を説得する。最後に短い祈りの言葉を唱え、司祭は彼のもとを離れた。その間、少尉の命令を受けて八人の銃撃兵は銃を構え、声高の命令の下るのを待っていた。だが少尉はサーベルを高く揚げ、再び下げただけだった。一斉に銃声が鳴り響く(少尉の実に人道的な判断だ)。若者の全身が痙攣し、不動のままゆっくりと顔を前方に落として崩れ落ちた。制服の肩の部分がズタズタに引き裂かれている様が彼の仲間達の射撃の腕がしっかりしていたこと物語っていた。医師が死体に駆け寄り、死を確認し、それをその場に居た裁判長に告げた。

この処刑には私達全員深い衝撃を受け、何日ものこの話題で持ちきりだった。

教練の最終週には、同胞達の懇親会が行なわれた。私達は馬蹄型に並べられた長テーブルに付いていた。先頭には仕官達が座っている。プラッレ少佐が式辞を述べ、私達がシャンパーニュ地方の石灰質の土地を長々と行進して任務を遂行し、戸外の敷地で戦術の訓練を行なったことに対して礼を言った。続いて突然の知らせがあると言う。「皆さんの一人が早くも少尉に昇格した。W伍長だ。」

私は我が耳を疑った。皆が私を見ている。どうやら聞き間違えではないらしい。少佐の言葉は続く。「少尉殿、前にいらしてください!」少佐は私に祝辞を述べ、仕官の肩章と特別な功績を讃えるきれいなフランドル地方の彫刻を授与してくれた(いったい何が評価されたのか私には今日に至るまで謎である)。「貴殿の教練は今日でおしまいです。明日すぐに出発して下さい。こちらが行軍命令書です。」

公式の祝賀会の後、私達は小さなグループごとに別れて、祝杯を上げ続けていた。その時突然思いついた。移動先はフランクフルト・アン・デア・オーデル[有名なヘッセン州州都フランクフルトではなく、ポーランドとの国境の町]ではないか! ということは検札の問題なくアーヘン、ケルン経由の汽車で行くことができるし、そうすれば故郷のJ市は途上にある。思いつくが早いが、仲間達はすぐに理解を示し、協力さえしてくれた。一人が時刻表を手に入れてきて、ムルムロン発ランス行きの最終電車が三十分後に発車する、まだ間に合うはずだと教えてくれた。私は一座にさらにワイン二本を奢り、その場を飛び出した。首尾良く間に合った。だがランスでは始発列車を待たなければならなかったため、駅の近くに良いホテルを探して上等な部屋を取り、早朝に起床すると、翌日J市に到着して、妻を驚かせた。彼女の喜びよう!「もうクリスマス休暇なの?」「いや、フランクフルト・アン・デア・オーデルに向かう途上なだけだが、そこでクリスマス休暇をもらえるはずだ。」

この期待を胸に私はフランクフルトに向かった。当地では同じ希望を抱く仲間二人と合流した。任務はまったく何もなかっただけに期待も高まった。私達はただぶらぶらとトランプでスカットをしたり、昼寝をしたり、散歩をして時間を潰していたのだから。だがクリスマスが近づくにつれてその希望も薄れていった。毎日のように新たに昇格した仲間が到着し、しまいにはウェスターランドの二人の友人も含め、ムルムロンの教練仲間全員が揃ってしまったのだ。落胆し、暗い気持で私は故郷に“クリスマスの祝辞”を送らねばならなかった。

クリスマスの数日前、数車両が我々のために予約されている長い列車が東部戦線に人材を支給するために東方に向って出発した……。

4.ロシアへ――対パルチザン特別部隊を指揮する(1)

1942年クリスマスの数日前、長い列車が東方に向って出発した。そのうちの数両は私達、つまり東部戦線に送られる人材のために確保されていた。うんざりする長い旅だ。美しい村々に飾られた東プロイセンを抜け、ポーランド(プロイセンとはなんという風景の差だろう!)を通過すると、その後は、ただただ雪に覆われた果てしないロシアの平原と森林。何時間走れども走れども駅も村も町も現われない。二日半、列車の中で昼夜を座って過ごした後、十二月二十四日に疲れ果て節々の痛む体をようやくスモレンスク駅で解きほぐすことができた。まだ昼を回ったばかりの時間だというのに軍の宿泊所に到着する頃にはもう日が傾き始める(ロシアでは午後三時には夜が更けるのだ)。

聖夜は軍人全員が共同の大広間に集まって過ごした。大きなクリスマスツリーのろうそくの火だけが灯る陰鬱な雰囲気が、皆の気持ちをよく反映している。近くの一角には陸軍の仕官達が座っている。そのうちの二名は騎士鉄十字勲章の受章者だ。「騎士鉄十字勲章の受章者がその次に受けたものと言えば……木の十字架のことが多いな……」と言う言葉が耳に飛び込んでくる。私は友人のヘルベルト・ミュンツァーを思い出した。彼はイタリアからロシアに向う旅の途上のミュンヘンで「ドイツ十字章金章はもう受章したし、あと数ポイントで騎士鉄十字勲章だ!」と話していた。数週間もしないうちに私は彼の戦死を知らされたのだった……。

クリスマスが訪れ、クリスマスが過ぎ去る。そして私達はさらに先に進まなければならない。

クリスマスの初日[ドイツでは十二月二十五日がクリスマスの初日、二十六日がクリスマス第二祝日]、私達は前線基地を訪れ、空軍地上戦闘第二師団がどこに駐屯するのか尋ねた。「詳しくはわからない……。目下我々のいる中部は多忙を極めているもんでね。パルチザン連中が見張りの甘い車両を盗んだり、地雷を埋め込んだりするからだ。最新の通知によれば皆さんの師団はヴェリーキエ・ルーキ付近に駐屯しているはずなのだが。」「そこまではどのように行くのですか?」「紳士諸君、方法はただ一つ。方々で尋ねまわって見つけ出す以外にはない。幸運を祈っている!」

そんなわけで私達ウェスターランドから来た三名はとにもかくにもヴェリーキエ・ルーキの方角に向って出発した。時には橇で、時には通りかかった車に乗せてもらい、残りは徒歩で何はともあれ前進を続けた。移動は三日三晩続いた。困るのは夜の宿泊所だった。ある晩には零下42度の中、臨時軍用補給道路脇に立って車を待ったが、待てど暮らせど何も現われない。恐らくこの寒さではエンジンが発動しないのだろう。ようやく馬に引かれた橇が通りかかり、私達を次の村まで乗せてくれた。村の端まで近づいたところで突然近くの森から曳光弾が発射された。パルチザンだ! 狙いは私達。御者は狂ったように二頭の馬を鞭打ち、馬は跳躍と共に駆け出した。運よく銃弾は我々の頭上を通過していった。一軒目の家の陰に入ると、やく安全圏だ。これが敵との最初の出会いだった。

私達はドイツ兵が占拠している古い農家で夜を過ごすことになった。真夜中、用を足すために懐中電灯を灯すと、突然私の目に天井から柱を伝ってゴキブリが延々と列を成す様が飛び込んできた。先頭は既に危機的なくらい私の寝台に近づいている。いったいどうしたものか!? 何も案の浮かばないままとりあえず極寒の戸外に用を足しに出る。だが外でしゃがんでいる間、ドイツ兵の宿泊する家々の周囲をパルチザンが夜な夜な徘徊するという噂を思い出した。大急ぎで用を済ませ、温かい屋内に戻るとホッと息をついた。だがゴキブリ! 列の先頭が今にもベッドの足を登り始めようという時、名案を思いついた。リュックサックに油紙に包んだバターが少し残っていたはずだ。大急ぎで紙を半分に破ってバターを塗りつけたものをベッドの足に巻きつけた。最初の数匹が登りかけ、一センチもしないうちに滑り落ちる。ようやく二方面の敵から解放されて安堵した私は間もなく寝入った。翌朝見ると、ゴキブリの隊列はベッドを諦めて、扉の柱に移動していた。

翌日ようやく我が師団の前線部隊を発見することができた。暗号標識が我々の出頭すべき指揮所への道を示してくれていたのだ。土に掘った穴が指揮所だった。扉代わりに防水シートが下がっている。“部屋”の中央には机が置かれ、二人の男が座っていた。どちらが指揮官でどちらが副官だろう。私達がいつもの挨拶を終えると、年取った方が立ち上がってにこやかに私達を迎え、名前や年齢等お決まりの質問を行なった。その間副官の少佐は軍刀でパンを一切れ切っては荒々しい髭に覆われた口に押し込んでいた。と、いきなり刀を壁に突きつける。巨大なネズミが刃に貫かれてキィキィ鳴き声をあげていた。副官はしばらくネズミの痙攣する様を眺めてから、外に放り出した。B大佐は苦笑をし、短く「あなた方の部隊は副官が教えてくれるはずです」と言う。副官は紙挟みから書類を一枚取り出し「若い二人は機関士として第二中隊に配属される。W氏は特別部隊を担当されることになっている。だがその任務は数日後に始るので、それまでは目下軍曹が指揮をしている埋葬部隊を引き継いでいただきたい。一時間後に食糧と弾薬を積んだトラックが来るのでそれに乗って現地に赴くといい」と説明した。

くだんのトラックは臨時軍用補給道路を数キロガタガタと走った後、さらにでこぼこした脇道に曲った。突然運転手が口を開く。「ここから先、我々のトラックがよく森から銃撃される箇所に通りかかります。あらゆる場合に備えてとにかく銃を手にしていて下さい。」言うが早いがアクセルを踏み、全速力で危険地帯に差し掛かった。銃弾は飛んでこない。「ふぅ、ツイていた!」と運転手。

埋葬部隊を引き継いだ私を軍曹は作業場に案内してくれた。一件のバラックの裏にありとあらゆる姿勢で硬直した空軍兵の死体の横たわっているのが目に飛び込んできた。埋葬部隊の兵士達が固く凍りついた軍服から貴重品や標識番号、書簡等を切り取っている。結婚指輪は薬指をペンチで切断してようやく外すことができるのだった。見るに絶えない。だが遺族に通知をするにはそれ以外に方法はない。伍長はさらに私をある斜面に連れて行った。一面に奇妙な形をした雪の塊が点在する。前回のロシア守備隊による砲撃で命を落としたドイツ兵の姿だった。斜面は敵の視界にあるため、遺体を回収するには日暮れを待たなければならなかった。

この任務は正直まったく心地の良いものとは程遠く、二日後に部隊の幕僚長の下に出頭を命じられた時にはホッとした。指揮所に向う途中、箱橇が後ろから私を追い抜いていくので、同乗を願った。「行き先は?」「部隊の指揮所」「それなら私が行かなければいけない所だ。どうぞお乗りなさい。」道中御者と言葉を交わす。「前線から来たのですか?」「ああ、最前線からだ。今朝、またも新入りが一人塹壕から少しばかり頭を高く出し過ぎてね……。今は我々の後ろにいるさ。」驚いて後ろを振り返ると、年のいった兵士の横たわっている姿が目に入った。鉄兜の縁の真下、額の真ん中に丸い穴が開いている。シベリアスナイパーの仕業だ!

指揮所では数分間待たされた後、フィーテン少佐に迎えられ、即座に本題に入った。「貴方はスキーができるそうですね。」「はい。」「パルチザンの活動は前線背後でますます目に余るようになってきた。これ以上放っておくわけにはいかないので、雪の中でも機動力のあるスキー部隊を編成したいのだ。スキーの出来る者を立候補させた。二十名が明日到着するので彼らの指揮を取り、対パルチザン戦の訓練を施し、出撃準備が整ったら直ちに私に報告していただきたい。注文したスキー板は既に届いている。どのようにパルチザンに対して望むべきか作戦を熟考していただきたい。成功を祈っている!」

私は一昼夜頭を絞り続け、行うべき訓練のイメージは徐々に固まった。

翌日はまずスキー板を試着した。どの板も簡単な皮ベルトが装着されたもので、フェルトブーツでも使用できるので、この一帯はほとんど平地なだけに問題はなかった。

我々はテスト滑降にもってこいの近くの斜面に移動した。「斜面の上で私の指示を待つように」と言ってまず私が下まで滑り、板を揃えて停止してから指示を出した。「一人ずつ滑り降り、私の前で停止してくれ! 一人目、始め!」

結果、十六名は転倒することなくまずまずの出来で滑り降りてきた。二名は楽々と滑り、エレガントな停止を披露した。残りの二名は文字通り転がり降りてきた。「いったいスキーの経験は一度でもあるのか?」と二名に聞く。「ありません。」「それなら何故立候補したのだ?」「少尉殿、前線の地獄から逃れたかったんです。」「すまないが君達を使うことはできない。スキー板を脱いで肩に担ぎ、指揮所に申し出るんだ。残念ながら地獄に戻る他ない……。他の皆さんは、私のシュプールに続いてくれ。すぐに訓練を開始する。」

練習に適した場所で左右へのスケーティング、推進、キックターン、そして最後にはスケーティングからの素早い伏せ、そして起き上がりを繰り返す。我々の命はいかにこの動作を素早く行えるかに懸っているかもしれないため、日が暮れるまで訓練を続けた。その後木造小屋の宿舎に戻り、隣接する機材置き場に各人それぞれ板を収用する場所を確保した。押し合うこもなく、機材置き場内はきちんと整頓された。

「それでは諸君、互いの“匂い“を覚えるべく自己紹介をしよう。」各人が氏名と出身地を言う。書記がすべてを記録する。今朝のテスト滑降で二名が卓越した腕を見せた理由がわかった。一人はチロル出身の軍曹、もう一人の伍長はオーストリア、シュタイアーマーク出身だったのだ。軍曹の名はヨーゼフ・……(名字は忘れてしまった!)。家具職人でスキー教師でもある彼は、この後私にとって非常に頼りになる存在となる。彼は間もなく仲間内ではただ“ゼッペル”の愛称で呼ばれるようになった。私は皆に少佐から受けた指令内容を説明した。「同志諸君、我々は特別部隊なんだ。私は特別部隊においては指令系統も特別であるべきだという意見だ。つまり一方的に私が命令し、諸君がそれに従うのではなく、一人一人が望みを言ったり意見を提案するべきだと思う。この特別任務は我々全員にとって初めての体験のため、何よりも経験が不足している。私は一晩中どうやったら最もうまく事を運べるか考えた。既に幾つか案は思いついているが、私の頭は一つしかない。諸君もそれぞれがアイディアを提案するために思考する頭を持っている。我々の相手は狡猾な上に血も涙もないことを忘れないでいただきたい。我々の一人一人が最上を尽くせばきっと成功するに違いない。嬉しいことに諸君のスキー技術はこの任務を果たすのには充分だ。それでも不安に感じる者がいたら、ここにスキー教師が一名おいでだ。とにかくスキーの練習にはもう一日も失いたくないし、明日は武器を使った訓練を開始したい。我々にはMG42機関銃が二台、短機関銃十台とカラビーナ六台が支給されている。今のところは以下のようにこれを配分したいと思う。スキーエースの二人が二台のMG42を受け持つ。短機関銃は希望者に配りたい。ちなみにカラビーナにはスコープ装着が可能だから、狙撃の名手にはもってこいだ。本日はこれにて終了。質問はありますか?」――ない。「それでは明朝七時、機材置き場前に集合だ。そこで武器を配る。それではグーテナハト!」「少尉殿、グーテナハト!」と言う彼らの声は、彼らが私の言うことを理解し、受け入れてくれたことを物語っていた。

翌朝武器を配った後、森に囲まれ、容易には目の届かない練習用の緩い斜面に移動した。パルチザン達はそれでも充分早期に、こちら側で何かが起こっていることを嗅ぎ付けることになる……。

我々は勿論全員が一本のシュプールの上を滑走した。私が先頭に立ち(斜面を知っているので)、その後ろをMG42機関銃を使用する二名が、同時に支給された重たい舟形の輸送用ケースを引っ張りながら続く。二名の後ろは短機関銃隊、そして最後に狙撃隊。間もなく私は後ろの二名の息が切れ始めているのに気付き、休憩を命じた。MG42は重過ぎて雪に沈み、シュプールを乱すと二人は報告する。滑り始めるたびに舟形ケースは速度を増し、しまいに我々の足元に絡むようになったため、これ以上これを引っ張って滑るわけにはいかないことは明らかだった。

我々は昨日と同じ練習を今回は武器を手に行った。簡単にはいかないが、いつ何時不意を突いて襲われるかわからないため、なんとしてもこれをこなす必要があった。私が叱咤するまでもなく皆汗だくになるまで必死に練習を重ねた。

宿泊所に戻ると私は即座に少佐に電話しMG42用運送ケースが使い物にならないため、別の方法を考えてくれるよう頼んだ。「調べておこう」と少佐。

その晩私は機材置き場から何者かが作業をしている音を耳にし、ついに好奇心に駆られて覗きに行った……。なんと驚いたことにチロルの家具職人ゼッペルがどこからともなく板を手に入れてきてMG42用の素晴らしい運搬車を製作していたのだ! 二本のスキーを三十センチの間隔で並べたものを横板で固定し、中央にはMG42がピッタリ納まる開口部を施した見事なケースが設置してある。ケースの左側には弾帯用の低い台が添えてあるため、MG42は常時発射可能だった。私は感極まり、褒め言葉に詰まった。フィーテン少佐には時間が出来たら是非ともこの新しいMG42輸送用橇を視察に来るよう告げた。

三日後フィーテン少佐の下に報告を行う。「少佐殿、特別部隊の出撃準備が整いました。しかしその前にもう一つだけお願いしたいことがあります。」「言いたまえ!」「スキー板とストック、それに武器を白く塗るためのペンキを手配していただけますか。パルチザンの目を欺くためになるべく部隊をカモフラージュしたいのです。」「名案だ。私が思いつくべきだった。明日支給させる。だが直接私の下に出頭していただきたい。貴方の戦略について聞きたいのだが、電話では話したくないのでね。」

私はすぐに少佐の下に通され、いつものように間髪入れず本題に入った。「貴方がたの“友人”らは、今や部隊の補給車を駐屯地の真裏で襲撃するようになった。貴方の使命は何よりもまずこれを防ぐことだ。」カモフラージュ用の上着とペンキに関する約束は守られ、翌朝にはすべて支給された。私達はその場で色を塗り始め、昼までにはすべて用意は整った。

出発直前、突然ある考えが頭をよぎった。「諸君、聞いてくれ。我々の存在はできるだけ長い間パルチザンに気付かれないようにしなければならない。三つの中隊に向う橇道を使用したのでは最初の出撃ですぐに我々の存在を曝すようなものだし、目的地に到着する前に不意打ちを喰らって早々に犠牲者を出してしまう可能性さえある。パルチザンは橇道の右側の森に立て篭もっているのだから、我々は左側を使用したらどうだろうか。森の雪が深くてもスキーならば前進できる。どう思う?」皆が賛同した。「よし、それなら準備をしてくれ。」私はとりあえず少佐の下に赴いた。少佐は感激した。「素晴らしい! 貴方はまさにこの任務にうってつけの人物だ。つまりこの特別部隊を幽霊部隊にするというわけだな。」毎度の飲み込みの早さだ。即座に電話網で中隊長達に通知がされる。使用するのはたったの四語:「橇道、否、森、左サイド」。盗聴されていたとしても意味はわからないだろう。それから私に向って「ところですべての部隊長に貴方が私個人の直属であり、出動においては全命令権を所持していることを伝えてある。質問がある時や困難に面した時には昼夜に関係なくいつ何時でも私に電話をしてくれ。そうだ、大事なことを一つ忘れていた。三つの中隊の背後は歩哨が防衛している。呼び掛けられた場合、今日の合言葉は“パルチザーニ”だ。覚えておいてくれ。それでは、神の御加護を! 成功を祈っている!」

我々は幕僚の建物の裏を急いで通過し、森に入った。幅も長さも充分なスキー板のおかげで首尾よく前進することができ、先頭のシュプール制作者を十五分ごとに交替しながら、一時間半後には目的地に達した。時間はちょうど正午近く。辿り着いた先は第一中隊だった。即座にグーラッシュ鍋に招待される。だが我々のカモフラージュ装備を目の見えない所に隠すのが先だった。敵の目はどうやら至るところにあるらしいからだ。食後、私はカモフラージュ着もスキーもなしで、前回パルチザンが襲撃した場所を視察させてもらった。第二、第三中隊でも同じことを繰り返す。パルチザンの襲撃はいずれも道と森とがある程度空き地によって離れている場所で起こっていた。森からの直接の襲撃はこれまでに一度もない。これは理に適っている。森よりも空き地の方が動きやすい上、森の端から援護射撃が可能だ。いずれの襲撃の場合でも、彼らは少なくとも一人は機関銃狙撃者を森の中に残していた。

我々特別部隊の使命は重い。道から、つまり反対側から見られず、しかしこちらからは危険地帯を監視し、銃撃できる場所を森の中に探さなければならない。そのために翌日何時間も費やした。我々の待機地点からは、味方の車の頭上を通して、しかし味方を危険に曝さずに敵を銃撃できなければならない。幸いなことにパルチザン側だけでなく、こちら側も道の端から森にかけて地面は高く傾斜していた。だが一箇所だけ低すぎる地点がある。またも我等がゼッペルの出番だった。彼は宿泊所への特別帰還を願い出ると瞬く間に出発し、たちまちノコギリと金槌、釘を持って戻ってきた。森の中から長い棒状の枝を二本、それに大量の棍棒大の枝を集めてくると、頑丈な梯子をこしらえた。これを森の端に立つ大木の裏に固定し、その上にMG42機関銃を設置するための台と狙撃者が腰掛けるための台が取り付けられた。視界を遮る幾つかの枝を取り払って無事に問題解決。

宿泊施設に帰る途上のことだった。黄昏間近。突然、銃撃音……! 間違いなくロシア製機関銃だ。二名のMG42隊はいつものように私と共に先頭のシュプールを滑走していた。三名で最後の力を振り絞って滑り出す。(「後に続け!」と残りの隊員に叫ぶ。)森から出ると劇的な場面が待ち受けていた。程遠くない場所でロシア人が一人ドイツ軍の橇付きトレーラーをまさに“誘拐”しようとしている真っ最中だった。道の上には死体が一体横たわり、さらに一人のドイツ人がロシア人から逃れようと走っていた。私が命令を下すまでもなく、ゼッペルはMG42の後ろに腹ばいになり、発射。ドイツ人を追っていたロシア人が崩れ落ちる。二発目の発射。“偽の”御者が橇から崩れ落ちた。するとどうだ! 森から五、六、八名のロシア人が橇目指して一斉に飛び出してきた。どうやら何が何でも橇を頂戴するつもりらしい。私達にとっては格好の標的だ。今や私自身の短機関銃も出番だ。次々にパルチザン達が雪の上に倒れる。その間に森の中で待機していたパルチザンの機関銃狙撃者達も我々の位置を見極め、反撃してきた。だが幸いなことにおそらく我々の白いカモフラージュ装備のおかげで、彼らの銃弾は逸れ続けた。やがて私の短機関銃狙撃隊員達も到着して、一斉射撃を始めると敵の反撃は間もなく崩壊した。

これがパルチザンとの最初の直接対決だった。そして成果は我が“特別部隊”にとってまずまずだったと言える。馬と橇、それに荷(パン、バター、銃弾)、それに何よりもドイツ兵を一人救うことができたのだ。彼はいつまでも感謝の言葉を言い止まないのだった。残念なのは御者の死を防ぐには遅すぎたことだ。だがそもそも我々が襲撃の場の近くに居合わせたこと自体が偶然だったのだ。

三つの中隊の中隊長と私は、今日から毎晩その日の出来事について話し合い、分析するため集まる事を決定した。私は毎回隊長代理に任命したゼッペルを同伴した。最初の会合の結論:襲撃警報が出た場合に我々の三箇所ある拠点に最速でたどり着ける集合地を探すこと。パルチザンは好んで夕暮れ時に襲撃を行う。ロシアでは夜の更けるのが早いため、妨害されずに掠奪品を持ち去ることができるからだ。

翌日我が部隊は夜明け前から待機したが、何事も起こらなかった。夕暮れまで我々は夜の間に積もった新雪に覆われたシュプールを速やかに出動できるように再び整え、日の傾き始める前に集合地に戻り待機した。

暗くなりかけるや早くも襲撃が始った。昨日襲われたのは第一中隊だったが、今日は第三中隊だ。またも我々の現場到着は遅すぎた。御者と随行兵の死体が道の真ん中に並んで横たわっている。パルチザンの影も形もその場には見受けられなかったが、すっかり夜が更けた頃、彼らが大声で叫びながら我が軍の橇を運び去る様子が聞こえてきた。私達は腸を煮えくり返らせた……。

(以降続く)