ロベール・ブラジヤック:『ヒトラーの国で過ごした百時間』より抜粋

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その双肩に新たな帝国のみならず、新たな信仰を担う人物を前にした時、果たして自分はどのような印象を受けるだろうか、私はそう思い続けていた。しかしここでもまた受けた印象はあまりに複雑で、そこから価値ある結論を誠実に下すことは到底無理であり、いくばくかそれを解きほぐしてみることしかできない。

私は1933年の選挙活動中にヒトラーの演説をラジオや映画でよく耳にしたことを覚えていた。今日、彼の語り口はずっと穏やかになった。確かにドイツ人達は今でも彼の演説を聞いては熱狂し、ヒトラーが国力を増強するための緊縮政策を約束するたびに拍手喝采を送る。また先日の「政治指導大会」でのパレードにおけるように、自分はドイツのためにすべてを犠牲にする覚悟がある、必要とあれば命も差し出すと宣言する時、彼の声は確かに感極まって聞こえる。しかし全体として、当時に比べてずっと落ち着いた印象を受けるのだ。ジェスチャーを使うことはなくなり、演説中はほぼ手を組んだままでいる。そしてスピーカーが、彼の文の末尾にエコーを掛ける。正直に認めよう。外国人としてはやや呆気に取られて、聴衆の熱狂に眺め入るものだ。

実を言うと私はこの二時間前、ずっと間近から彼を目にしてきたところだった。八十から百名の外国人がリーベントロップ氏から、宰相の同席する茶会に招待を受けたのだ。当初から変わらぬ、また噂によれば『我が闘争』執筆においても総統の右腕であったルドルフ・ヘスがまず我々を迎えた。精悍な体躯の、深く険しい眼差しの人物で、言葉少なに、外国人が新しいドイツに興味を示すことに対する満足の意を述べた。それから我々は別の広間に導かれた。そこで我々は、雑多とも言うべき人々の群れに無造作に囲まれたその人を目にしたのだ。六千万人の国民の上に立つ人物。

常時身につけている、人を驚かせるあの黄味がかった軍服と黒色のズボン。例の前髪。疲労に満ちた表情。そして悲しげだ。思っていたよりもずっと。その微笑は、間近に来て初めて見て取れる。それは子供っぽいとさえ言える、人の上に立ち、民衆を導く人物に実にしばしば見られる微笑だった。「とても優しい方なんですよ」と、彼と仕事を共にする人々は驚くべき口調で繰り返す。何人かが彼に紹介される。彼は虚ろな眼差しのまま握手をし、一言二言口にする。我々は呆然とその場に居合わせた。

だが注視しなければいけないのは、彼のその瞳の深奥だ。この表情の中で、物を言うのはその瞳だけだ。それは別世界の眼差し、異邦人の眼差し、深い青色と黒色を湛え、瞳孔はほとんど見分けがつかない。この瞳の奥で起こっていることを、いったいどうして見抜くことができるだろうか。奇跡の夢以外、なにものがあり得るだろうか。Deutschland[ドイツ]に対する無限の愛、ドイツの大地、未だ再建半ばのこの現実の大地のための愛以外に。この瞳と我々との間に、共通するものがあるのだろうか。そして何よりも、最初に受ける印象、最も驚くべき印象がいつまでも後に残る。それはこの瞳の深刻さだ。ほとんど克服することが不可能な不安、筆舌に尽くしがたい恐怖が漂っている。一瞬の閃光のように我々は、彼の担っている困難、戦争勃発の脅威、経済危機、宗教危機、国家首長として彼がその責任を負っている苦悩のすべてを理解する。国を司るということが、ドイツをその貪るような運命をくぐり抜けて導くという試練の苛酷さが、強烈に、肉体的に我々に伝わってくる。特にこの国家首長の場合は、彼が常に繰り返し口にするよう、祖国を〈新人類〉が生まれ育つことができる地に変貌させようというのだから。

ロマン主義に傾くつもりはない。だがこの遠い眼差しをした男、彼の国にとっては神である男を前にすると、ある六月の夜明けに、彼はまるで死の大天使のように、古い仲間の何人かを征伐する義務を果たすために天から舞い降りてきたのではないかと想像せずにはいられないのだ。六月三十日[長いナイフの夜]をお家騒動と見なす自由は、おそらく我々にあるだろう。だがそれはまた別のものでもあるのだ。何故なら彼は、それが自らの義務であると判断したもののために、個人の人間としての平穏を犠牲にしたのだ。友情を犠牲にしたのだ。彼はその不思議な義務が命じるならば、何もかもを犠牲にするだろう。人間としての幸福を、自分自身のものも、そしてそのうえ、国民のものも。ヒトラーをありきたりの国家首長として評価することはできない。彼は、聖なる使命を負っていると信じている改革者でもあるのだ。そしてその瞳が、彼の負っている荷の熾烈さを物語っている。これこそが、すべてをいつ何時でも根本から変えてしまうことができるのだ。

私はおそらく、ヒトラーの瞳の色とその悲しみを決して忘れることがないと思う。それがおそらく彼の謎でもあるのだ。もちろん私はこの印象のみから彼を判断するつもりはない。たとえそれが、ニュルンベルクでの荘厳な式典の日々の間、他の多くが認めたものであったとしても。何よりも我々、これら華麗なスペクタクルを目にしたフランス人の我々は問い続けるのだった。これらすべてのものと我々との間に、いつの日か何かしら共有できるものがあるのだろうかと。

日曜の朝には、第三帝国における最も特異な儀式が行なわれた。旗の聖別である。総統の前に「血の旗」が差し出される。1923年ミュンヘンの軍事クーデター未遂の際にフェルドヘーレンハッレ前で殺されたデモ隊が掲げていた旗である。

ミュンヘンで 彼等は多勢だった

銃弾に 彼等が貫かれた時

宰相は片手で血の旗を、もう一方の手でこれから聖別される真新しい旗を握る。この媒介によって、殉教者達への恩寵が目に見えない気流となり、今後は新たな祖国ドイツのシンボルの中に通い続けるはずなのである。これは純粋にただ象徴的な儀式なのだろうか。私はそうは思わない。ヒトラーの心のうちには、ドイツ人すべての思いのうちと同じように、司祭による聖水の祝福(敢えて聖体拝領とは言わないとしても)に似た神秘的な聖化の考えが実際にある。パンの聖別の一種である旗の聖別にドイツ的秘跡を見ることのできない者は、ヒトラー主義についてまるで何も理解することができないだろう。

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ロベール・ブラジヤック『我らの戦前』より、プロン出版、282〜285頁


ロベール・ブラジヤック

1909年3月31日生 - 1945年2月6日死去

フランスの詩人、作家、批評家、ジャーナリスト。『鳥を売る男』『七つの虹彩』『時の経つように』等多彩な小説のほか、義弟モーリス・バルデシュとの共著『映画史』、同じくバルデシュと繰り返しスペインを訪れて共著した『スペイン内戦の歴史』等、異なる分野で多くの名作を残している。バルデシュが戦時中、政治に無関心であったのに対して、早くから国家主義者として『アクション・フランセーズ』に1939年まで執筆、また1943年までファシスト新聞『ジュ・スイ・パルトゥー』の編集長を務め(1943年からはピエール=アントワーヌ・クストーが編集長を引き継ぐ)、ヴィシー政権を支持したため、終戦時期、レジスタンス政権から対独協力罪に問われる。1944年9月、母親と義弟バルデシュが身代わりとして逮捕されたため、出頭、フレーヌ刑務所に投獄される。1945年1月19日に裁判が行われ、死刑の判決。数々の著名人による恩赦願いにもかかわらず(ただしピカソ、ジード、サルトル、ボーヴォワールは恩赦願いへの署名を拒否)、2月6日銃殺された。上のテクストも含む『我らの戦前』は、両大戦間の斜陽期のヨーロッパ文明の稀有な雰囲気をパリを中心に精緻に描いた傑作で、ブラジヤックら、いわゆる“ファシスト”達が、日の出の勢いの資本主義による金銭支配と共産主義による破壊的無秩序から救おうとしたものがよく伝わってくる:「このなかから、脆くも長くつづいた平和な日々の香りと思い出を汲みとることができるだろうか。風前の灯の、だが、それは平和だった。」

「ヒトラーの国で過ごした百時間」という章は、1937年9月6〜13日ニュルンベルクでのドイツ国家社会主義政権式典を取材した際の体験。当時、反共産主義展、反フリーメイソン展が開催されていたのを見学したことなどを報告している。