加藤継志先生が以前ツイッターで書かれた、アインザッツグルッペンへの考察です。ツイッターではスレッド形式になっていなかったため、私が1ページに纏めました(無許可で)。

東部占領地域のアインザッツグルッペン

先日、ようやくC.マットーニョによる特別行動部隊についての書籍の日本語訳を一通り完了しました。今は、自分なりの分析を進めています。内容について少しずつご報告していきたいと思います。この問題は件の再検証においては現在「主戦場」となっているようです。

https://holocausthandbooks.com/book/the-einsatzgruppen-in-the-occupied-eastern-territories/

  1. まず、論争全体の状況ですが、既に2000年前後で収容所における無差別処断については、論争としては決着しています。実証主義的にガス処断室を証明しようとしたかのような研究者は、結局の所、修正派から転向したと見せかけて、恐らくはやはり隠れ修正派だったプレサックしかいなかったのです。
  2. 彼が唱えた「死体安置室を改造したガス処断室仮説」によって、正史のテーゼは崩壊しました。その後、肝心の世界遺産収容所を無視して、正史派は跡地しか残っていない処断専用収容所の件を強調するようになりました。明らかに彼らは「戦略的撤退」を行ったのです。
  3. しかし、トレブリンカ、ベウゼッツ、ソビボルといった処断専用収容所も、彼らからすれば余りに「筋が悪い」のです。これらは、数百万人もの人々の遺体を焼却した施設であったことになっているのですが「焼却炉が無かった」のです。しかもこれは公式設定だから、彼らにとっては始末に負えない。
  4. 特にこれらの収容所は「犯罪の現場が特定されている」という点が大きいのです。必然、遺体の焼却と埋葬もそれらの傍であるはずだからです。しかし、これまでに確認されているのは「数千人規模」の埋葬地だけであり、主張されているような「数10万〜数百万」という単位からは程遠いのです。
  5. その点、「特別行動部隊(アインザッツグルッペン)による非道」は非常に広範囲に「現場」が分布しています。大量埋葬地の場所も明確な特定を避けられます。その上、特別行動部隊(アインザッツグルッペン)が処刑を行い、その中にはユダヤも存在していたことについては異論が存在しません。
  6. よってこの問題は、彼らが「戦線を後退させる」には「最後の砦」だと言えるのです。また、この問題は、私のような立場の人間にとっても、ドイツによる「ユダヤ対策」を検証するためには決定的に重要なものです。特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の活動と収容所の運営、そしてユダヤの移住、追放政策はリンクし、完全に一体の物でした。
  7. さて、特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の問題には2つの全く次元の異なる論点が存在するので、これを別個に捉えることが肝要です。第一は「処断の目的は何だったのか」です。これは、ホロコーストの「定義」とも関わる問題です。私は、よく一般の方から「ホロコーストの犠牲者は”誇張”されているのか?」と質問されます。
  8. 私はそれについて「いや、誇張ではなく、犠牲者は『0』である」と答えています。相手は大抵驚きます。「いや、そんなはずはないだろう」と考えるのです。私は直後に「ただし、これについては説明が必要です」と付け加えます。大戦時、大量のユダヤが死亡しており、これに異論は存在しません。
  9. 収容所の死亡者にも大量にユダヤは含まれています。しかし、一般に誤解されているのとは異なり、彼らが「ユダヤであるという理由で収容された」実例は1件もありません。戦争捕虜、通常の犯罪者、政治犯として法に基づいて収容された多くの収容者の多くがユダヤだったのは「結果」に過ぎません。ホロコーストが非難されているのは、ドイツがユダヤ達を「ユダヤであるという理由で」絶滅させようとしたことになっているからです。もちろん、人の死は等しく痛ましい物であり、悲劇であることは事実です。しかし、過剰防衛による殺人と、業務上過失致死と、強盗殺人では、求刑が異なるのと同じく、人々を殺害した動機、目的によって、道徳的な責任が全く異なることもまた道理です。例えば、硫黄島で戦った日本兵はほぼ「絶滅」しました。彼らはほぼ日本人であり、名目上はほぼ仏教徒でした。仮に、この「絶滅」が彼らが「日本人であるという理由で」「仏教徒であるという理由で」行われたのであれば、間違いなく理不尽な悪行です。しかし、彼らは軍服を着た軍人として、米軍との戦闘の結果戦死したのですから、この「絶滅」は痛ましいことではあっても、米軍が非難されることは無いのです。
  10. 特別行動部隊(アインザッツグルッペン)による処刑も「対象がユダヤであれば無制限、無差別に行ったもの」であったのか「治安維持のために、状況に応じて個別的に行ったもの」であったのかが第一の争点です。後者であったのなら、対象者にユダヤが多く存在していたとしても、それは単なる「結果」となるのです。
  11. 2つ目の争点は「正史が主張する処刑総数は信憑性があるのか?」です。処刑が「治安維持」という目的で個別に行われたとしても、規模があまりに過大であれば「過剰防衛」であったという評価にもなりましょう。私は、これについては一つ目の争点に比べて優先順位はずっと低いと思っていました。
  12. ソ連側の資料によれば、パルチザンはドイツ人を「150万人殺害した」となっています。(Bernd Bonwetsch,“Sowjetische Partisanen 1941-1944", 1985)これが事実なら、特別行動部隊(アインザッツグルッペン)による報復処刑が130万人に達していたとしても、一方的に非難される筋合いではなくなります。
  13. この「150万」が荒唐無稽の誇大宣伝なのだと主張するのなら、特別行動部隊(アインザッツグルッペン)による処断「130万人」も誇張であった可能性を認めなければ二重基準となります。どの道誇張であり、どの道お互い様なのだから、この人数の誇張の問題は本質的な論点ではない、と思っていましたが、私の認識は変わっていきました。
  14. というのも、マットーニョの著作を読むにつれ「誇張と捏造」の実態が私が想定したものを遥かに超える大きな(悪質な)ものであったことが浮き彫りになってきたからです。この問題は収容所の件と並ぶホロコースト論争のもう一つの柱であるとすら思えます。ともあれ、まずは第一の争点について検討します。
  15. この「処断の目的」、要は「無条件処断はあったのか」の問題については、実はニュルンベルクでの国際軍事法廷(IMT)において早くも結論が出ている、というのが私の見解です。これに対し「件の裁判においては、ドイツは有罪となったのではないか?」という疑問が起こるでしょう。
  16. ここで、歴史検証において「裁判」というものをどう位置付けるか確認しておきます。検証のための証拠には「強弱のヒエラルキー」があり、@純粋論理、物理的技術的限界、科学法則A専門家によって検証された物証B文書史料C目撃証言の順で強い価値を持ちます。ルドルフは著作でAを最上級として説明していますが、明らかに@の方がさらに上位であり、彼もこれには同意するはずです。「純粋論理」というのは、これまで私の動画や著作ではあえて語ったことはありませんが、例えば「ある事項について2つの証拠が似ても似つかない内容を持っていたならば最低でもどちらか片方、あるいは両方が虚偽である」といったものです。「物理的限界」の例は「1リットルのペットボトルに2リットルの水を入れることは不可能である」、「技術的限界」の例は「プロペラ飛行機で音速を超えることはできない」、「科学法則」の例は「鉄の融点は1500℃」といったものです。これらは、いかなる証拠を何万個集めたとしても「絶対に壊せない壁」なのです。
  17. Aの「物証」は確かに強力な価値を持ってはいますが、常に「捏造の可能性」という落とし穴があります。実際1946年クラクフでの裁判で提出された「シアンガスの反応が出た物証」は、どこにあった物なのかを特定していません。また、物証そのものは実物であっても、誰がどのように検証するかで結果は変わってきます。典型的な例はロイヒター報告へのカウンターとして行われたクラクフ法医学研究所の調査です。つまり、「物証」については常に「正当に検証された」という条件が求められるのです。
  18. 一般の歴史論争では、Bの「文書」の検証が中心となります。ホロコースト論争のように、「目撃証言」や「物証」が豊富にある歴史論争は、意外と珍しいのではないでしょうか。さて、「文書」は多くの場合は信用が置けるでしょうが、3種類の原因で内容が不正確である可能性があります。
  19. 第一に文書作成者の過誤または故意によって虚偽が記載された場合です。第二に、作成者自体は正確に記載していたとしても、情報がそこにもたらされた時点で何らかの理由で虚偽であった場合があります。そして第三として文書が偽造であるケースがあり、これが余りにも多いのがホロコースト論争の特異性です。
  20. 偽造の疑いが濃厚な各種史料は、私が知る限りで何と13もあります。パターンとしては@本物の史料に後から書き込みを加えたものA本物の文書を参考に一部の単語を置き換えるなどで改変したものB完全にゼロから捏造したもの、などがあり、部分的な嘘を大部分の真実に混ぜ込む@とAの数が多いです
  21. 特別行動部隊(アインザッツグルッペン)に関する文書については、マットーニョはこの@〜B全てが存在している可能性を論じています。処断された人数に疑問を挟む根拠は、それだけの遺体の処理が物理的に困難であるということです。個人的には@Aの独側の誇張はあったとしても、その度合いは小さかったのではないかと思います。証拠の中で最も価値が弱いのはC証言です。しかし、これに全く価値が無いということもありません。より強い証拠と矛盾しない場合には、目撃証言であっても相対的に弱い証拠としては成立します。さらに、証言が信用性を持つかどうかの基準として以下のような原則が存在します。@一般的に、その証言者が、事件について全くの第三者ではない場合、とりわけ加害者側や被害者側の関係者である場合、証言の信頼性は程度の差はあれ影響を受ける。すなわち「加害者側による無罪に有利な証言」「被害者側による有罪に有利な証言」の信頼性は弱い。その逆に「加害者側による有罪に有利な証言」「被害者側による無罪に有利な証言」は信頼性が強い。A事件が起こってから証言がなされるまでの時間が長いほど、記憶の改変などによって証言の信頼性は低くなる。B上記全てに優先する条件として、証言が何らかの脅迫、拷問、懐柔、取り引きなどによって引き出されたものであるならば、証拠能力は皆無である。
    (注)上記の@〜Bは(20)の「偽造文書のパターン」のことではなく、(19)で述べた「文書中の犠牲者数の誇張」の問題です。
  22. さて、正史を支持する人からホロコーストが真実であった根拠としてしばしば「裁判の判決」が出されるのですが、笑止千万です。裁判の判決というものは、これらの「証拠@〜C」から導き出された「判断」であって、「証拠」ではないのです。ヒエラルキーの中で位置づけるとすれば「@〜Cのさらに下」です。
  23. 一般論としても、裁判所は歴史的事実を検証する学術的な場所ではなく、多分に政治的判断がなされてしまう場所です。ましてや、そもそも国際軍事法廷(IMT)は裁判としての法律的な正当性も開廷までの経緯も、実際の裁判の進め方も、全てがデタラメの裁判モドキなのですから、判決それ自体は一顧だに値しません。
  24. 我々は「判決」ではなく、その判断の根拠であるらしい、提出された「証拠」を検証しなければならないのです。国際軍事法廷(IMT)がドイツを有罪に追い込むための茶番だったとしても(むしろだからこそ)これは有効です。
  25. 本題である特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の件に戻すと、国際軍事法廷(IMT)の時点で「無条件処断」とされるものについては結論が出ている、というのは、そこで提出された証拠のことです。一つは露軍の政治将校「人民委員(コミッサール)」に関する対処に関するものです。彼らは戦場で兵士たちを指揮していましたが、多くはユダヤでした。
  26. 1997年に他界したオットー・エルンスト・レーマー元国防軍少将は、インタビューにおいて人民委員(コミッサール)がどのような存在だったのかを語っています。(試訳:オットー・レーマー少将は語る)
  27. さて、このような憎むべき敵であった人民委員(コミッサール)に、どのように独は対処したのか。それを立証する文書として、連合国側はどのようなものを提出できたのか。これを検討するのは極めて重要です。彼らは膨大な文書を独占しており、人員をいくらでも投入してそれを洗いざらい調べることが可能でした。彼らはただでさえ、拷問、懐柔、ありとあらゆるアンフェアな手段を使って、有罪を得ようとしていました。つまり、彼らが提出した証拠というのは、別な表現をするなら、それよりましな証拠は見つけられなかったことの証明でもあるのです。だから国際軍事法廷(IMT)で提出された証拠こそむしろ重要なのです。
  28. ヒトラー総統は、裁判無しに現場の判断で彼らを処刑しろと命令しました。この命令には文書が明確に存在しており、国際軍事法廷(IMT)で重要な証拠として提出されたのです。ヴェルナー・マーザーの著作からその日本語訳を引用します。これは極めて重要な史料です。
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  30. レーマー将軍は「この戦争は基本的生存のためのイデオロギー戦争である」そして「戦場で最優先に排除しなければならない最大の敵が人民委員(コミッサール)であった」とも述べています。総統も同様に「共産主義」および「ユダヤ・ボルシェヴィズム」を敵とし、人民委員(コミッサール)が国際法に反するテロ行為を行っていたがゆえに彼らを処刑せよと命令したのです。注目すべきは、このインタビューで二人は「ユダヤ人民委員(コミッサール)」という言葉を使っており、レーマー将軍は「彼らすべてがユダヤだった」「ほとんどがユダヤでした」と語ってもいることです。しかし、「人民委員(コミッサール)取り扱い方針」を改めて読んでみれば、文中には「ユダヤ」という表現が一切入っていないことが判ります。この命令は、あくまでも「憎悪に満ちた、残酷かつ非人間的行為」をする「人民委員(コミッサール)に対する」「報復的処刑」であって、ユダヤ全般に対する措置ではないのです。殺害された人民委員(コミッサール)の多くがユダヤであったとしても、それはあくまでも結果に過ぎません。ここで、そのような人民委員(コミッサール)による戦争犯罪行為が実際にあったかどうかは問題ではありません。重要なのは「総統の命令の動機が何であったのか」です。さらに言えば、ここで命令しているのは、@戦闘中、抵抗する、あるいは疑わしきA政治人民委員(コミッサール)をB原則として処断することです。付け加えれば、「敵対行動の罪を犯さず、またその疑いのない政治人民委員(コミッサール)は、差し当たりそのままとする」とも明記されています。つまり、国際軍事法廷(IMT)において連合軍側が徹底的に追及したこの命令ですら「無条件処断」ではなく「条件付き処断」だったのです。
  31. しかも、(28)で示した「条件付き殺害命令」ですら、現場の軍人からは反発を受けて積極的には実行されませんでした。1946年6月3日、国際軍事法廷(IMT)において被告の一人だったアルフレート・ヨードルは「この命令書のヒトラーの意図は全ての軍人から一致して拒否された」(マーザーp. 255)と述べました。
  32. ヨードルは準備段階からこの命令文に国際法的、道徳的懸念を持っていました。さらに、決定的に重要な事実があります。ヨードルによる働きかけの影響もあって、1942年5月5日にこの命令は総統本人によって、「ソビエトの党役員、人民委員(コミッサール)人民委員(コミッサール)の助手の『寝返りと降伏の気持ち』を促進するために、『差し当たりは試みに』 生かしておけ」という形で事実上停止されたのです(マーザー p. 259)。
  33. 最悪の敵でありその殆どがユダヤ教徒だと認識されていた人民委員(コミッサール)に対する「条件付き処刑」ですら総統は内部からの反対にあって撤回したのです。そのような状況で、女子供を含む一般ユダヤに対する無差別処断命令とその実行が成立しえたと考えるのは極めて無理があります。
  34. 公式の規則では非戦闘員の殺害は相手がユダヤであっても明確に禁止されていました。事実、ポーランド侵攻直後の1939年9月、親衛隊(SS)が50人の民間ユダヤを射殺した際、彼らは懲役三年の実刑を受けました。この資料を引用しているのは、他でもない正史派の重鎮ヒルバーグです(「ヨーロッパ・ユダヤの絶滅」上p. 146)
  35. ホロコースト再検証が持つ最大の意義はこれにより独のユダヤ対策が徹底して「共産主義への攻撃」だったことが明らかになることです。徹底的な事実隠蔽によって、それは「人種差別」の問題だったかのように矮小化されてしまったのです。ユダヤが処断される場合、理由は人種や宗教それ自体ではなく常に政治的理由でした。
  36. C.マットーニョ「THE EINSATZGRUPPEN」(2016)では、それを確証する史料を大量に提示しています。例えば、捕虜収容所にはしっかりユダヤも収容されており、さらにその者たちを処断するかどうかを識別していました。P. 106から引用します。
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  38. ユダヤ集団が警戒されていたのは、ボルシェヴィズムと密接に関わっていたと「見なされていた」からです。第一に重要なのは、「それが事実だったかどうか」ではなく、国家社会主義ドイツが「そのように解釈していたかどうか」です。さらにp. 108から引用します。
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  40. 実際、ソ連のユダヤは、共産主義体制で大きな役割を果たしました。1920年の段階でソ連の指導者531名のうち実に447名がユダヤだったのです。ソ連内部の資料によればテロル機関NKVD(内務人民委員(コミッサール)部)の上層部におけるユダヤの割合も非常に高かったのです。(ルドルフ、ホロコースト講義1・6章より)
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  42. この表ではどんどんユダヤの割合は減っています。そもそもレーニンその人がユダヤだったのですが、スターリンは強烈な反ユダヤでした。彼による「大粛清時代」はユダヤが攻撃されたのです。悪名高いスターリンですが、馬渕睦夫氏などは、彼をロシアをロシア人の手に戻そうとした人物だと評価しているようです。
  43. この表の数字を額面通りに受け止めるべきなのかどうかは疑問の余地があります。ユダヤ達は名前を変更したり、偽装改宗したことによって、表面上潜伏していただけとも考えられるからです。マットーニョ2016, p. 185から引用します。
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  45. ただし、(39)の報告書「Ereignismeldung」(EM)には注意が必要です。「事件報告」などと和訳されるこの有名な文書群の信憑性には、大きな疑義が存在します。事件報告(エライグニスメルドゥング)は194個発見されたことになっているのですが、丸ごと偽造である可能性を私は考えています。ただ、私が観察する所では、ホロコースト関係の偽造文書の多くは本物の文書の一部を改ざんし、独の犯罪性を匂わせる不穏なもの、思わせぶりなものにする、という手法を取っています。これは極めて当然の帰結であり、文書の全文を偽造するのは手間がかかる上に部外者が本物らしくすることは困難です。一方、本物の文書を一部変更するだけなら作業は容易であり他の文書との整合性も保てるので信憑性も高くなります。殆どの真実に一部の嘘を紛れ込ませることが、人をだますのに最も効果的だというのは基本中の基本です。つまり、例え偽造文書であっても、「独の犯罪性に無関係な、あるいはむしろ反証する内容」については実際の文書の文面がそのまま引き継がれている、少なくとも反映されているのではないか、という推測がなりたつのです。
  46. よって、事件報告(エライグニスメルドゥング)についても、それを留意しつつ内容を吟味することには一定の意味があります。(39)の続きの文面を引用します。
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  48. 宗教問題では、同じような内容が事件報告(エライグニスメルドゥング)に繰り返し登場します。「共産主義は宗教を否定している」と一般には認識されていますが、その思想の起源についての答であるように自分は考えています。つまり、彼ら自身は信仰を捨てるつもりなどさらさらなかったのではないかということです。P. 177から引用
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  50. さらに、事件報告(エライグニスメルドゥング)がソースではありますが、マットーニョP. 187から引用です。
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  52. 興味深いことに、事件報告(エライグニスメルドゥング)ではユダヤの影響が小さかった都市については、その通りに記述しています。P. 188より
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  54. 今回初めて分かったことですが、私の著作の冒頭部分で引用した「ボルシェヴィキの組織は、決してユダヤ系住人と同一ではない」という文面は、ソースが裁判で提出された資料ニュルンベルク裁判文書(NO)-3151なのですが、その中身は事件報告(エライグニスメルドゥング)だったようです。P. 127より引用。この文面はかなり過激な論調で、事件報告(エライグニスメルドゥング)だけに注意が必要ですが、当時の共産主義勢力がしばしばユダヤ全般と同一視されがちであったという事実と完全に同一視も出来なかった事実を同時に表現しています
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  56. ソースが事件報告(エライグニスメルドゥング)ではない史料も引用します。(p. 182)注目すべきは、明らかに破壊活動を行っていた敵勢力についても、独は詳細に尋問し、危険分子かどうかを峻別しようとしていたことです。これは、地域の一般ユダヤを無差別にまとめて射殺する、という正史で描かれている手法とは全く異なります。
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  58. これも事件報告(エライグニスメルドゥング)ではない史料です。(p. 123) 注目すべきは、パルチザンそのものでなくとも、それに協力するユダヤ達がいたという部分です。独がユダヤ全体を潜在的な一種の「敵国人」だと扱い、ゲットーに隔離しダビデの星の標識をつけさせたのは「人種差別」ではなく「保安目的」だったことを示しています。
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  60. もう一人、軍や政府の外部にいた人物で、国際軍事法廷(IMT)継続裁判で弁護を務めた学者からの証言もあります。(p. 121)
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  62. マウラッハ博士はユダヤがロシア政権内に多いのは「原因ではなく結果に過ぎない」と捉えていたようですが、マットーニョはその見方に異を唱えています。しかし、博士もユダヤの割合が多いこと自体は事実として認めていたわけです。続きを引用します。
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  64. では当時の指導者はどんな考えを持っていたか。まずは独総統の言葉です。(p. 121)「国家社会主義の世界観を露に輸出しようとしたのは独ではない」というのは全くその通りで「国家社会主義」とは要は「独民族主義」に過ぎません。彼は「国家社会主義は独だけのものである」と明言していました。
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  66. 驚くべきことに、教科書にも載っているあの超有名政治家は、総統と全く同じ認識を持っていたのです。誰あろうウィンストン・チャーチルです。(p. 124)ただし、彼は「一部の悪のユダヤ」を「殆どの善良なるユダヤ」と区別するというレトリックを使っていました。全てのユダヤをひとくくりに出来ないのは当然ですが、そう単純に善悪二種類に分けられるものでしょう。また、国際ユダヤが本当に無神論なのか、私は極めて怪しいと疑っています。
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  68. 独によるユダヤ対策のガイドラインは1941年9月3日付けの「茶色のフォルダ」にまとめられています。ユダヤ集団は何も対独だけではなく、東欧の地元の非ユダヤ住民とも対立していたことが述べられています。そして、独は治安の維持に役に立つ限りは、地元の反ユダヤ感情を利用していたのです。(p. 113)
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  70. 茶色のフォルダの「2」では圧倒的多数の元からの居住ユダヤとロシア革命以降移住してきたソ連系ユダヤを区別する方針が書かれています。そもそも後者に対する殺害を行っていたのは、地元住人だったのです。また、前者にダヴィデの星をつけさせたのは、彼らを排除対象から外す目印だったことが判ります。
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  72. 茶色のフォルダ「3」ではユダヤ達の「潜伏」「偽装改宗」について説明がなされています。これが極めて重要なのは、「ユダヤ無差別処断」という仮説が、「証拠」云々以前に「理論的物理的に困難」であることの説明になっているからです。
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  74. どうすればユダヤを標的とした「目的としての無差別処断」が可能なのか。これについて思考実験する価値は大いにあります。その目的のためには「フェンスや壁で囲まれた収容所に閉じ込める」という手法は確かに理に叶っているでしょう。しかし、都市というのは出入りが自由であり、四方八方に逃げ場があるのです。ゲットーは何も牢獄ではなく、ただの居住区であり人を閉じ込めておくことはできません。
  75. これは常識論の問題です。無条件処断などを開始したら、殆どのユダヤ達はクモの子を散らしたように逃亡するのでは無いでしょうか。事件報告(エライグニスメルドゥング)ではありますが、実際報告書には「処断」どころか独が「占領した時点で」そのような現象が起こったケースがいくつも記述されています。(p. 160〜)
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  77. 如何に逃げていくユダヤ達を『全員』捕まえるのか?という難題には前述した偽装、潜伏の問題が加わります。そのために調査によってユダヤを識別し、記章をつけさせ「処断を目的にゲットーに集めた」という主張が正史にはあるのですが、噴飯ものです。仮に「記章をつけていれば処断される」ということであれば、なおさらユダヤ達は逃げまどい、潜伏し、記章をつけることを拒否するでしょう。記章をつけて平穏に暮らしさえすれば処断されることはない、という理解が広まっていればこそ、そのような処置は現実に可能だったのです。
  78. 屋外での大量処断をする場合、犠牲者の逃亡を阻止するためには、実行者の人数は相対的に非常に多く必要となるでしょう。しかし、目撃者によれば、十人といった少人数による数千人単位の大量処断が主張されているのだから奇妙なのです。この「逃亡」の問題を考えると、正史でおなじみの設定は、確かにずっと現実味があります。つまり、彼らを言葉たくみに騙して、逃げ場のない収容所に、そして「ガス処断室」に一旦閉じ込めた上で「秘密裏に」処刑するというものです。
  79. 抵抗活動をしていなくても潜伏ユダヤを洗い出して処断しなければならないとなれば誤認によって非ユダヤを巻き込んで処断することも容認しなければなりません。政治人民委員(コミッサール)の「原則処断」ですら総統に取り消されたことを考えるとこれは非現実的な仮説です。一方、これが政治人民委員(コミッサール)であれば、文書に「敵部隊の機関としての政治人民委員(コミッサール)は、特別の徽章によって判別せられる。袖に赤い星をつけ、金色のハンマーと鎌がそれを囲んでいる」と記されているように、明確に識別可能なシンボルがあったのです。戦場で彼らに遭遇するたびに処刑することは全く可能な任務です。
  80. 文書に明記されている独の方針は、再三紹介してきたように「治安の維持」という極めて明快なものです。つまり、これに従って危険要素を排除するなら、その対象がユダヤだろうが正教徒だろうが、潜伏ユダヤであろうがなかろうが、対象が処断されようが領域の外に逃亡しようが問題では無かったのです。
  81. さて、国際軍事法廷(IMT)の件に話を戻します。ユダヤ無差別処断とは直接は関係ないとしても、そこでどのような「独の残虐行為」が戦勝国によって糾弾されたのかを検討することには大いに意義があります。それが「独による残虐性の上限」であることを意味するからです。
  82. 政治人民委員(コミッサール)処断命令と類似したもう一つの重要な命令文書が、国際軍事法廷(IMT)で提出されました。やはり総統によって一九四二年十月に出された、特殊部隊「コマンドー」を処刑する命令です。マーザーの「ニュルンベルク裁判」から日本語訳を引用します。
  83. この報告書について、アルフレート・ヨードルは法廷で「連合国の非人道性」を実に生々しく説明しています。私が執筆したものの、無期限で発表がお蔵入りになっている国際軍事法廷(IMT)についての著作からそのまま紹介します。
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  85. このコマンドー処断命令や政治人民委員(コミッサール)処断命令について、重要なのはこれら文書の内容が本物であることに疑問の余地が無いということです。何故なら、これらの内容は独被告たちに突き付けられ、彼らはその内容を熟知しており納得もしていました。続きの文面も引用します。
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  87. 国際軍事法廷(IMT)において追及された独による「犯罪行為」には、潜水艦作戦に関するものもあります。独潜水艦Uボートは警告なしに敵輸送船を撃沈し、また沈没する船から脱出する船員を救助しないこともあったために、当時の責任者で総統亡き後の大統領となったカール・デーニッツが罪に問われました。
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  89. この潜水艦作戦の件は我が国も関わってくる問題であります。戦後の裁判で戦勝国は何故徹底的に日独を糾弾しなければならなかったのか、一体戦勝国と日独のどちらが理性的でどちらが野蛮だったのかを判断する上で、実に分かりやすい事例なのです。
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  91. ところがその一方で、国際軍事法廷(IMT)においては総統が命令した最も大がかかりな「戦時国際法違反」が、何故か追及されなかったのです。それは、「ロンドン市街への爆撃」です。
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  93. ドイツでの無差別爆撃といえば、ドレスデンへの空襲ばかりが有名になっており、他の場所は被害を受けなかったものと誤解されていますが、全くそうではありません。日本と同様に、ドイツもまた各地が激しい空襲や無差別銃撃に見舞われました。
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  95. ここで、「総統が下した犯罪的な命令」を今一度まとめてみましょう。@抵抗する政治人民委員(コミッサール)を原則として現場で処刑すること。→非道な行いをする人民委員(コミッサール)に対する報復的措置。Aコマンド―に対する処刑命令。→非道な行いを命令によって行うコマンドーに対する報復的措置。B潜水艦による無警告攻撃。生存者を救助しないこと。→連合軍の行動に対応しての措置。Cロンドン爆撃→英軍による報復に対する報復。
  96. 総統の行動原理は、実に首尾一貫とした、理性的なものだったことが判ります。一言でいえば「目には目」、敵側が非道な行為をしてきたのであれば、「報復的措置」として同じような命令を出す、というものでした。しかし、連合軍が膨大な文書を洗いざらい調査して見つけ出した明確な証拠がこのような物ばかりだった以上、彼による非人道的命令の最上限は、このような「報復」までだったというのが論理的な結論となります。実は、これは彼の有名な著作「わたしの争い」を注意深く読めば、若い頃からの一貫した姿勢だったことが判ります。彼が「暴力をふるう必要がある場合」を語る場合、そこには常に「必要とあらば」という条件が付いているのです。
  97. 重要な点なので、あえて繰り返します。最悪の敵でありその殆どがユダヤ教徒だと認識されていた人民委員(コミッサール)に対する「条件付き処刑」ですら総統は内部からの反対にあって撤回しました。それでもなお、女子供を含む一般ユダヤに対する無差別処断命令とその実行があったはずだと主張するなら、相応の説得力と信憑性がある証拠を提示する必要があります。しかし、私が知る限り今に至るまでそれはなされていません。
  98. よって、存在したのは「治安維持を目的とした個別的な処断」のみだったと暫定的な結論を出すなら、次なる論点は「処断した人数の多さ」となります。しかし、これは最初の論点「処断の目的」と密接に連動する、むしろ「一体」であるとさえいえる問題です。
  99. 何故なら、治安維持が唯一にして最重要の目的だったとなれば「それに必要な処断人数」もおのずと限られるはずだからです。処断される可能性が大きい抵抗運動に身を投じるような命知らずの人間の割合は、ユダヤに限らず、その集団の一部に限られるはずです。少なくとも、「その地域のユダヤが8割がた処断された」、などという話はリアリティに疑問符が付くし、本当にあったとしても、それは「極めて異常な事態」であることには変わりありません。
  100. 処断を行った特別行動部隊(アインザッツグルッペン)が、どれほどの規模で、どのような命令を受けていた組織であったのかをひもとけば、そのような大量処断がありえたのかどうかを推測できるでしょう。第1回および第2回シュタレッカー報告書として知られる文書には、1941年10月15日 および1942年2月1日付けの特別行動部隊Aの戦力を記述した 2 つのグラフが含まれています。(マットーニョp. 718,719)まず、規模について言えば、この期間で単純に合計人数が81人減っている(990⇒901)ことが一見して判ります。
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  102. マットーニョはこのグラフを表にまとめています。特に武器使用に関わる人員が減らされていることが判ります。特別行動部隊(アインザッツグルッペン)には無線オペレーター、女性隊員など、様々な人々が所属していたようです。数えてみると、900人中実行部隊は600人程しかいません。
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  104. となると、総計でも3000人程だったという特別行動部隊(アインザッツグルッペン)で処断に関わる人員はさらにその6割に程度に限られることになります。処断に伴い埋葬地を掘り遺体を放り込み再び埋める、という作業は処断人数に比例して絶対的に増加します。つまり、この特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の人員数に見合った人数というのが、論理的限界なのです。
  105. また、彼らの任務がどのような命令によって規定されていたかも重要です。恣意的な判断によって無秩序に連行、処断をしていなかったのかということです。見ての通り独らしい極めて几帳面な規定が存在しました。連行、処断どころか、押収した物品の管理ですら一つ一つ管理されていました( p. 39 )
  106. 続く命令にはドイツ人らしい誇り有る行動が求められており、特に女性に対しては暴行どころか、交際まで禁じることが明記されています。また、日誌を書くことも義務付けられているのですが「なぜかこれが見つかっていない」という奇妙な事実があります。
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  108. しかし、規則があったとしても、それが守られていたかどうかは別問題なのは確かです。特別行動部隊(アインザッツグルッペン)が粗暴で凶暴な野蛮人の集団であったなら、命令違反を無視して無秩序な恣意的処断をしていた可能性もあるでしょう。しかし、特別行動部隊(アインザッツグルッペン)を構成する人々は非常に教養が高いエリート集団だったようです。(p. 45)
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  110. マットーニョの研究書で最も驚いたことの一つは、特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の任務が非常に多岐の分野に渡っていたことです。(p. 43)それならば、確かに隊員に高い教養が必要であると納得します。ただし、後述しますがこのソースの「シュタレッカー報告」に非常に問題があるのは確かです。
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  112. 特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の隊長だったオーレンドレフは、彼らの任務には、何と「農作物の収穫もあった」としています。(p. 41)しかし、住人から感謝されなければ占領を平和に行うことはできないのだから、理詰めで考えればこれは全く不思議ではありません。旧日本軍の満州での活動についても全く同じことが言えます
  113. ソースが一部特別行動部隊(アインザッツグルッペン)であることを留意しつつ、その後の頁から引用します。これまで検討した史料を元に検討しましょう。まず、大前提として一般の居住ユダヤは「最低でもその半数は女性であった」はずで、さらに「残り半数の男性の内、一定の割合は年少者と高齢者のはず」です。さらに、残りの労働適齢期の男性であっても、
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  115. そもそも人員数が数千人しかいないのに特別行動部隊(アインザッツグルッペン)がこれほど多忙だったとなると、130万人ともされる総計の処断人数は物理的に不可能だったでしょう。それだけではなく「個別の大量処断」特にその地区に居住しているユダヤの「大半を処断する」というような形での行為が、はたしてありえたのか。命の危険を犯して抵抗運動に身を投じる人の割合は一部だったはずです。年少者、高齢者、女性ならば、その割合は殆どごく一部に限られるでしょう。これについて、殆ど疑問の余地はありません。
  116. さて、@命令書には再三再四「目的は治安維持」であると明言されている。A治安を乱すような地域住民の割合は一部に留まる。ことに加えて、B特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の役割は多岐にわたっていて多忙を極めていた。ことを考えれば、女子供を含む無秩序な大量処断があり得た可能性は、個別の隊員が敵への憎悪に駆られ(命令違反で処罰される可能性を犯してでも)暴走してしまった場合くらいしか考えられません。しかし、それについても隊員たちが教育の水準が高い知識人達だったことを考えると疑問符がつきます。
  117. つまり、証拠云々以前に大量処断は「理論上」そうそう起こりえないはずなのです。しかし、その起こりえないはずのことが、「例外的に」ではなく、「常習的に」起こっていたという話になっているから奇妙なのです。その根拠は、独側の文書にそのように書かれているから、というものです。
  118. それが問題となっているEreignismeldung、いわゆる「事件報告」です。参考までにマットーニョがまとめた事件報告(エライグニスメルドゥング)の記録の一部を紹介します。右の列の処断数についているアルファベットはFが政治人民委員(コミッサール)、Sが妨害者、Kが共産主義者、Gが精神病患者、Pは略奪者、Jはユダヤです。
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  120. しかし、事件報告(エライグニスメルドゥング)は文書の信憑性自体、正しく疑惑のデパートだと言っても過言ではありません。まず、軽い疑惑から始めると、発見された時期です。確かに米軍が押収した文書が800〜900万という膨大な量だったとはいっても、これが手に入った1945年9月から発見までの期間が長すぎるのです。
  121. 国際軍事法廷(IMT)の判決、刑の執行が終了したのは1946年10月です。その後の1947年春(?)に、つまり文書の押収から一年半も経ってから、劇的にも事件報告(エライグニスメルドゥング)が見つかったというのです。国際軍事法廷(IMT)が終了した後、正しく特別行動部隊(アインザッツグルッペン)についての継続裁判を控えていた時期に見つかったのですから、ただでさえ「出来すぎ」に思えます。これは、やはり国際軍事法廷(IMT)終了後の継続裁判で、あの有名な偽造文書、「ヴァンゼー議定書」がうまい具合に「発見」されたのと同じタイミングだと感じるのは私だけでは無いでしょう。
  122. 二番目の疑惑は、発見された正確な時期、そして場所が不明だということです。(p. 47)1947年1月の書簡には存在が確認されているのに、1947年春に発見されたともなっており、「ベルリンの文書センター」で発見されたとも、「外務省の別館」だともなっているのです。
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  124. さらに、奇怪なことに、報告書の原本がどこに保管されているのかも不透明だというのです(p. 48)。「米国にはマイクロフィルムの形で保管されており、原本はドイツの公文書館に保管されている」のに、マットーニョは寸分たがわず同じ原本を「ロシアの文書館」で発見しコピーをとっています。
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  126. 文書の原本は一つしか存在しないもので、その他は写真コピーのはずです。複数の部署に送るために、「当時のドイツによって」文書が複写されることはありますが、その場合はそれぞれに固有のコピー#(通し番号)が打たれるので「ある文書で特定のコピー#が打たれた物」は一つしか無いはずです。
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  128. 四つ目の疑惑は、発見された量です。事件報告(エライグニスメルドゥング)は初期は約20部、最終的には77部もコピーが作成されたことになっています。約9,700部のコピーが作られた計算になるようですが、そのうち全195種類の内(No.158以外の)194個がきれいに一部ずつ見つかっているのに、残りの約9500はなぜ影も形も見つからなかったのでしょう。これは、ちょうど30部のコピーが作成されたことになっているのに、16番目だけが完全な形で発見され、残り29部については全く見つからなかったヴァンゼー議定書とそっくりの状況です。事件報告(エライグニスメルドゥング)の残りの76部はドイツによって破棄されたのでしょうか? そして、なぜか米軍にとって都合よく一部ずつのみ残っていたということでしょうか?
  129. しかし、ここまであげた疑問点も、次の疑惑が無かったなら、大した問題ではないのです。決定的な不審点は、この194個の事件報告(エライグニスメルドゥング)についている「コピー#」(通し番号)についてです。既に画像で見せたように、各事件報告(エライグニスメルドゥング)は「〇部中の〇番目のコピー」という形で冒頭で明確に表記されています。これを便宜上「コピー#」と表記します。そして、「特定の送付先には特定のコピー#を持ったコピーが送られることが決まっていた」のです。送付先のリストは報告書の最後に記載されていました。(表はp. 50より)このことから、次のことが明白です。@それぞれの送付先には原則として全ての報告書のコピーが一部ずつ送られる。Aそして、同一の送付先に送られた報告書につけられたコピー#は同一である。
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  131. しかし、米国が発見したという事件報告(エライグニスメルドゥング)については、「一つを除き、全ての事件報告(エライグニスメルドゥング)がそろっている」「全ての事件報告(エライグニスメルドゥング)は一部ずつしか存在していない。つまり、同じ報告書が異なるコピー#で重複していない」「ある特定の日時、特定の場所で、きれいにファイルされた形で、全ての事件報告(エライグニスメルドゥング)が同時に発見された」という表向きの事実に加え、「それぞれの事件報告(エライグニスメルドゥング)についているコピー#が全く統一されておらず、バラバラである」という事実があります。具体的な分布をマットーニョはp. 50〜51にまとめています。これは決定的に重要な鍵だと考えます。事件報告(エライグニスメルドゥング)37までは、xがコピー#、yはコピーの総数という形で表記されています。二番目の表は、それぞれの事件報告(エライグニスメルドゥング)にどのコピー#が入っているかを示しています。是非ともこれをよく見て、論理的に熟考してください。
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  133. 異なるコピー#をもった事件報告(エライグニスメルドゥング)なら、異なる場所にあったはずです。なぜそれらが、一か所に綺麗にファイルされて存在していたのでしょうか? 子供でも判る異常です。これについての考察は長くなるので、画像で続けます。
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  135. この問題を調べたマットーニョは勿論これの異常性を指摘していますが、特に考察をしていません。個人的には、これは徹底的に精査すべきポイントだと感じます。考察を続けます。
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  137. 理解を容易にするために、「事件報告(エライグニスメルドゥング)の数が1〜20」だけ、「コピー#は三つ」だけという簡略化モデルで説明します。この状態が「意図せずに」成立するのは不可能であることが判ります。
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  139. 明らかに、事件報告(エライグニスメルドゥング)のこの状態は、「意図的に作った物」です。では、作ったのは何者か? ドイツか米国かの二択です。
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  141. 例えば、デザインが異なる数十種類ものトランプが目の前にあると想像してください。これらから少しずつカードをそれぞれ抜き取って、ダブりが無くきれいに52枚そろった、しかも柄が不ぞろいなトランプ一式を揃えるという作業を思い浮かべてもいいでしょう。これがどれほど無意味か理解できます。
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  143. 特別行動部隊(アインザッツグルッペン)による大量処断については「数多くの文書による根拠がある」とされてきました。確かに件数を数えれば多いのですが、その実、それらは大半が事件報告(エライグニスメルドゥング)なのです。これらは、全て同時に発見されたのですから「事件報告(エライグニスメルドゥング)群」という捉え方をすれば、ただ一つの根拠で、殆ど全てを占めていることになります。
  144. その「一つ」が重大な不審点を抱えていることによって「特別行動部隊(アインザッツグルッペン)による大量処断なるものの根拠」の信憑性は大半が吹っ飛んでしまうのです。しかし、事件報告(エライグニスメルドゥング)ではない、つまりその「大半」に属さない文書も一応あります。その一つがシュタレッカー報告と呼ばれるものです。
  145. ところが、このシュタレッカー報告にも、明確な間違いがあることが判っています。1941年11月11日“治安警察と親衛隊保安局(SD)ラトビアの司令官”は「1,134人のユダヤ人がダウガヴピルスで処刑された 」と報告していますが、シュタレッカー報告では、この数字に0が一つ加えられて“11,034”になっているのです。論理上、少なくともどちらかは間違いなわけですが、1940年の人口統計では、17,763人のユダヤがダウガフピルス郡にいたとなっています。11034人が処断されたならば、他の報告と併せた人数が全人口を超えてしまうとのことです。1134人ならば少なくとも矛盾は出ません。
  146. そして、シュタレッカー報告は「ロシア軍がリガで盗んだもので文書 USSR-357a と同じものであり日付もレターヘッドも日付もなく56ページから始まっている」とされます(p. 219)。さらに「国際軍事法廷(IMT)でも提出された」のですから、どこからどう見ても「真っ黒」です。
  147. もう一つ、「イェーガー報告」なるものもあります。これは、1942年にソ連が「存在」を発表したにもかかわらず、国際軍事法廷(IMT)では提出されず、戦後イェーガーが死亡した後の1963年にドイツに渡され、内容が公表された……というものです。もう、これを聞いただけでお腹いっぱいでしょうw
  148. そして、原本は存在せずカーボンコピーのみであり、署名の位置もおかしいと「疑惑のフルコース」です。合計137,346人の処断人数が記載されているのですが、「イェーガー報告」と「シュタレッカー報告」とでは人数が一致せず、「イェーガー報告」と事件報告(エライグニスメルドゥング)とでも一致しません。
  149. イェーガー報告では、犠牲者1,000人以上の42件を含む、犠牲者100人以上の処刑が94件記載されているのですが、事件報告(エライグニスメルドゥング)においては10件のみがこれらに関連しており、その犠牲者は合計1,841人にしかならないのです(p. 201)。(対して、イェーガー報告の合計犠牲者数は137,346もある)
  150. イェーガーは特別行動部隊(アインザッツグルッペン)-Aの分隊であるEK3の隊長で、上官であるシュタレッカーに行動を逐次報告していたということです。ならば事件報告(エライグニスメルドゥング)に記載されている特別行動部隊(アインザッツグルッペン)-Aの処断の件数と人数は、イェーガー報告のそれと大筋で一致する理屈です。しかし、それが殆どかぶっていないとなると、イェーガー報告と事件報告(エライグニスメルドゥング)の、少なくともどちらか一方が全面的に捏造であるという疑いがかけられるのです。
  151. 仮に、13万人もの処断が記録されたイェーガー報告が捏造された、ということならば、同じく重大な疑惑がある事件報告(エライグニスメルドゥング)に記載されている72万人の処断が同様に全面的に捏造であるという疑惑はなぜ排除できるのでしょうか。できないはずです。
  152. シュタレッカー報告における「1134→11034」という捏造(?)は、極めて重要な示唆を与えています。ガス処断についての捏造は、「処断方法」と「処断の事実」の両方をゼロから創造する必要があるため、文書による偽造は困難です。「ガス車」についての有名な「ベッカー書簡」が恐らくはそうだったように、文面を丸ごと作り出す必要があります。しかし、特別行動部隊(アインザッツグルッペン)等による屋外での処断は、数字を一文字追加するだけで、他の文面には一切手を加えることなく、いとも簡単に10倍も誇張することができます。
  153. 米国はダッハウのガス室を物理的に捏造し三つも報告書を作りました。複数の文書を捏造しました。「フランケ・グリクシュ再定住報告」は、明らかに文面が丸ごと捏造です。大がかりな捏造を行っているのなら、文書にたった数字を一文字追加すればいいだけの捏造を行わなかったと考えるのは馬鹿げてます。ガス検知器に関する文書は、「単語一つ」を入れかえることで偽造したと考えられていますが、これは技術的な観点から捏造が見破られました。しかし、「数字の追加」のみの捏造だと、それを証明するのは困難です。特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の文書は、恐らく全面的に「汚染」されていると疑うべきです。
  154. 古くはアーサー・バッツが「20世紀の詐術」でこの可能性を論じています。処断に関する文書にまれに署名が入っていたとしても、犯罪とは関係のないページに入っているというのです。36万3211名のユダヤの処刑が記載されている29/12/42のヒムラーの報告は、署名が1頁にあり問題の数字はそれと無関係な4頁にあるのです。この数字だとウクライナのユダヤの人口統計を超えてしまうので、明らかに非現実的なのですが、やはり、そっくり10分の1に縮めればリアリティのある数字になります。
  155. 純論理的には、「1134→11034」という実例一つによって、他の文書の数字が「捏造であることを証明」はしていません。しかし、同時に「捏造であることを疑う」理由には十分になります。少なくとも、人数が記載されている文書が存在するという理由のみでは、全く証拠としては不十分です。
  156. 根拠なしに事件報告(エライグニスメルドゥング)群の信頼性を疑っているわけではありません。内容自体が余りにも杜撰で一貫性を欠いているのです。合計の数字と個別の数字の実際の合計が殆ど一致していないといったことは序の口で、そもそも「何処で」「何月何日に」処断したのかが不明で、検証不能なデータが大量にあるのです。
  157. 検証不能なデータは296,658人にも及ぶとのことです。事件報告(エライグニスメルドゥング)に記載されている727,246人のうちの41%にも及ぶことになります。この問題は、別の基準ではさらに深刻で「どの部隊が」「いつ」「どこで」処断したのかという、最低限必要な基本データが欠けている「事例の件数」が異常に多いのです。
  158. ざっと数えたところ、場所と日時の両方が記載されている事例は全体の18%(!)です。念を押しますが「記載されていない事例が18%」ではありません。「記載されている事例が18%」です。処断数のサンプルをもう一度添付します。残りはどちらか、あるいは両方の情報が欠けています。
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  160. 処断をした当事者は「誰」が処断したのかを当然知っています。「日時」が判らないはずはありません。大抵の場合は場所も判っていることでしょう。これら基本情報は常に記載されているのが当たり前で、欠けている場合はミスか怠慢です。そういった怠慢は18%あっても多すぎるのに、82%だというのだから、全く信じられないのです。例えば、ユダヤの移送記録について「移送先」や「日時」が記載されていない記録などあり得るでしょうか。私は見たことがありません。
  161. 場所、日時、部隊の全てが無い報告は全体で15件もあります。それは、もはや「報告」の体をなしていないでしょう。これらの報告は各部隊が電文などで送られたものをベルリンで再編集したものだとされています。不明な情報は各部隊に問いただせば判明するはずです。つまり、82%もの基本情報の欠如を、ベルリンまでもが看過していたことになります。各情報は、何段階もの伝達を経て作成されたものであるため、その過程で不正確になった可能性をマットーニョは強調しています。もちろんその可能性は否定しませんが、ここで問題になるのは情報の「正確性」の問題であって「欠落」ではありません。むしろ、何段階もの過程を経るなら、なおさら基本情報については確認されるはずだと思われるのです。
  162. 事件報告(エライグニスメルドゥング)の別のおかしな点として、報告または処断それ自体の「基準」が不明確なことがあげられます。例えば「とある日時、とある部隊によって(場所は不明)8000名を処断」などとなっているのですが、この数字は明らかに「概数」でしょう。その一方で、数人〜数十人という極めて少人数の処断が詳細な状況の説明と共に記載されているのです。一名の場合もあり「氏名」まで明記されている場合もあります。一体、処断自体の基準が緻密なのかアバウトなのか、報告の内容が詳細なのか概要なのかがさっぱり分からないのです。各部隊の処断が、1日で合計15000名(!)といった報告もありますが、これも概数でしょう。もとの個別のデータはあったはずですが、それは見つかっていません。
  163. また、「非現実的」という意味では無く「論理として不可解」な報告が多く存在するのです。「政治活動」「パルチザン」「政治人民委員(コミッサール)」というのは、「立場、行動による分類」です。しかし「ユダヤ」「ロシア人」というのは「民族、宗教による分類」です。よって「政治活動家80人、破壊者・略奪者44人、ユダヤ369人」といった報告は、不可解です。「政治活動家」や「略奪者」の多くはユダヤだったはずですが、それらにユダヤは一人もいなかったことを意味するのでしょうか? また、逆にユダヤの中には政治活動家、略奪者は一人もいなかったのでしょうか? 一体、それら369人のユダヤは一体どういう理由で処断されたのでしょうか。例えば「政治活動家400人が処断され、そのうち300人がユダヤ、100人がロシア人」だったら明解なのです。
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  165. 非常に私が注目している史料があります。それは、322警察大隊の戦争日誌です。まずは、これを一切コメントなしに引用します。(p. 75-76)
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  167. 重要な情報が抜けていました。警察大隊は全体で8〜9000人で、中隊につき1000人だそうです。上記の記録で大規模な作戦の数字をまとめると、31/8/1941に2000人で700人を逮捕、2/10/1941に3000〜人で2,208人を逮捕、13/10/1941に1000人で545人処断となります。これに対し、事件報告(エライグニスメルドゥング)の記録では例えば事件報告(エライグニスメルドゥング)31 ではEK9(約2〜300人)で14/07/1941に4234人を処断しています。これで比較すると、1人当たりの処断数は特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の方が25倍ほど多くなります。
  168. この日誌にはユダヤが処断された理由が不明瞭な事例が存在しません。多くは「〇〇〇をしたユダヤを〇人処断」となっています。女性、高齢者、15歳以下の年少者は対象外という規定があったことも明白です。明らかに、文脈から抵抗運動に対する処置だということが理解できます。
  169. 人数が多い場合は、拘束した上で審査し、翌日以降に処断という流れです。部隊の人数に対して拘束や処断した人数が過大ということもありません。遺体を埋葬するにしても1000人で500体を埋葬するのは明らかに可能でしょう。この日誌には、あらゆる意味でリアリティがあり不自然さが全くないのです
  170. もう一つ、事件報告(エライグニスメルドゥング)の数字と比較できるものとして第一親衛隊(SS)旅団の日誌があります。(p. 74-75)これによると、「26/11/1941」の時点でユダヤの処断数は「累計6500人」です。wikiによると第一親衛隊(SS)旅団の戦力は「6000名」ほどのようです。
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  172. この6500人とて、正しいという保証はありません。この手の数字は、どこにどういう改竄が入っているか分かったものではありません。しかし、少なくとも現実的に全く不自然さがない規模だということは言えます。これに対し、事件報告(エライグニスメルドゥング)の数字を表でまとめました。
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  174. ベラルーシのプリピャト湿原での「浄化作戦」では、露軍とパルチザン集団を壊滅させるための大規模な軍事作戦が行われました。これほど短期間で大量の捕獲、処刑を行えた事例は珍しいでしょう。それでも20日間の作戦期間3500人の戦力で4000名を捕獲、処断という数字です。
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  176. 事件報告(エライグニスメルドゥング)の不審点として、膨大な事例が記載されているのに、事件報告(エライグニスメルドゥング)以外の別の文書で同じ数字が記載されていて「裏が取れる」という事例が極めて少ないということがあります。再度精査しているところですが、今の所4つほどしか見つかりません。また、事件報告(エライグニスメルドゥング)の他のコピーが一切見つかっていないという問題に追加して、事件報告(エライグニスメルドゥング)の元になった一次報告が一切見つからず、それからも裏が取れないということもあります。
  177. しかし、その数少ない事件報告(エライグニスメルドゥング)と合致する史料は非常に重要な示唆を与えています。そのうちの一つ、ウクライナのコディマでの事件では、「約50人のユダヤ」が秘密の会合を開いていたという情報を元に「400人」が動員され、「400人」が逮捕され、そのうち「98人が処断」されたようです(p. 70)。
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  179. 警察大隊、第1親衛隊(SS)旅団、親衛隊(SS)騎兵旅団、そして(128)の事例は、全て事件報告(エライグニスメルドゥング)以外がソースなわけですが、これらから処断の一貫した実態が見えてきます。「女性、年少者、高齢者は対象外」「拘束した成人男性を全員処断するわけではない」そして、状況によって比率は変わるでしょうが、いずれにせよ「対象の人数よりも、投入する人員の方が多い」ということです。これはごく当たり前の道理であり、一般論としても、拘束しようとする容疑者よりも、投入する警察官の方が人数の方が少ない、などということが有りえるでしょうか?
  180. となると、次のような原則が成立するでしょう。「報告書に記載されている処断人数よりも捕獲した人数は多い」「捕獲した人数は居住している成人男性人口のそれまた一部である」「理論上成人男性全体は全居住ユダヤの4割ほどである」「投入する人員は捕獲する人数以上である」よって、1小隊は100名ほどなので一回で100人の処断であっても単独で行ったというのは考えにくく、また居住ユダヤを殆ど処断などという話は極めて疑わしいのです。
  181. それは他の史料から裏が取れる事件報告(エライグニスメルドゥング)の処断の記録の一つで裏付けられています。現ロシアのカリーニングラード州であるティルジットでの警察による作戦は、「一日200人」という規模ですが、これは事件報告(エライグニスメルドゥング)と警察による報告の両方の文面で「大規模な」浄化作戦という同じ表現で記述されています。我々は一度に「数千人」とか「数万人」といった途方もない数字を常態的に聞かされてきたので感覚が麻痺しがちですが、冷静に考えてみれば「一日200人」は確かに「大規模」に違いないのです。このように、やはり、他の史料で裏が取れる事件報告(エライグニスメルドゥング)の数字は理に叶っているのです。
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  183. 事件報告(エライグニスメルドゥング)以外の史料で重要なものがもう一つあることを忘れていました。既に322警察大隊の日誌は取り上げましたが、310警察大隊の日誌も残っています。P248から引用します。
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  185. この日誌もその内容に一切不自然な点がありません。322大隊の日誌と同様、全ての事例に場所と日時が明記されています。事件報告(エライグニスメルドゥング)の元になった一次報告がこのようなものだったと想定すると日時と場所の両方が記載されているのは18%しかなかったのは極めて不自然なのです。
  186. 私は、これらの戦時日誌こそが独の対抵抗分子活動の実態を描き出しているのではないか、汚染されていない真正の記録ではないかと踏んでいます。それはこれらが「肉筆」で書かれたものであることと大きく関係しているのではないでしょうか。マットーニョは、第13予備警察大隊の第1中隊の戦争日誌が万年筆で書かれた肉筆だと明言しています。(p. 76)310大隊の日誌も「判読しにくい」個所があるということですから肉筆でしょう。多分322大隊の日誌も肉筆ではないかと思っています。
  187. 原本が発見されていないという怪しげな310警察大隊の報告書の「41,837人」という数字と同時期の日誌の数字「700人以下」の間には実に60倍も開きがあるのですが、これは非常に象徴的です。マットーニョは対共産勢力の成果を誇示する目的で独側が数字の誇張をしている可能性をしきりと強調しています。裁判でオーレンドルフも報告書の数字は「2倍」は誇張されていると発言していました。私は、もちろんその可能性は否定しませんが、各報告書の数字の非現実性は「2倍」というような規模で説明できるものではなく「少なくとも10倍」だと感じています。
  188. 「10倍」という数字に決定的証拠はないとしても、状況証拠は十分にあります。既に、親衛隊(SS)旅団や警察大隊の日誌と事件報告(エライグニスメルドゥング)の数字では、個別でも累計でも、10倍から数百倍の開きがあることは説明しました。アウシュヴィッツやマイダネクといった収容所では自然死した人数の何10倍もの人数が清算されたと報告書が出されました。ソ連程厚かましくはないものの、西側の収容所でも1946年にダッハウでは「23万8千人」が死亡したと証言が出ました。これも記録にある3万からすれば10倍です。そして、証拠うんぬん以前の、常識、直感的な領域の話になりますが、数字一ついじくれば簡単に文書を操作できるのなら「2倍」程度の誇張で彼らが満足したはずはないのです。
  189. ただし、事件報告(エライグニスメルドゥング)の中にも操作されていないと感じられる報告も中には存在します。一つは、処断人数が極めて少数のものです。「5人」を「10人」に誇張しても全く意味は無いのですから、少なくとも米国による誇張を疑う理由はありません。また、氏名が明記されている場合もあるのですが、この場合は「人数を増やすことが困難」なことを留意すべきです。そして、そのような少人数の処断の場合、論理的に不可解な「3人の共産主義者と20人のユダヤ」といった記述が全くありません。必ず「12人の共産主義者を逮捕。彼らは11人のユダヤと1人のウクライナ人で構成されている」などとなっています
  190. 私が見つけた限り、そのような実例を紹介します。非常にリアリティがある記述で、特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の活動の真の姿はこれらの記述の中に存在していると思わせます。1小隊が100人なら、通常はこういった少人数の処断がせいぜいであり、単独部隊で一度に数千人という大量処断が成立したとは信じがたいのです。
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  192. 話は前後しますが、「事件報告(エライグニスメルドゥング)の不審点」を新たに発見したので追加します。米軍が発見したという文書は1〜195の事件報告(エライグニスメルドゥング)と、55個の「東部占領地区ロシアからの報告」と11個の「作戦状況報告」が含まれています。後者2つの報告書は1943年春までをカバーしているのに、195個ある事件報告(エライグニスメルドゥング)は1942年4月までで、ぷっつりと終わっています。その期間は半分に過ぎません。何故なのでしょう。1942年後半も特別行動部隊(アインザッツグルッペン)は活発に活動していたはずです。
  193. 事件報告(エライグニスメルドゥング)1〜195は時系列に沿って作られており、ほぼ全てが存在しており、完全に内容が連続しています。文字通り隙間なく、びっしりと事例が詰まっているのです。なぜ、1942年5月以降、一切報告書が存在していないのでしょう。1942年の後半でも特別行動部隊(アインザッツグルッペン)は盛んに活動していたのだから、事件報告(エライグニスメルドゥング)は1942年5月以降も作成され、少なくとも事件報告(エライグニスメルドゥング)400までに達するのが当然ではないでしょうか? 仮に、1942年4月で事件報告(エライグニスメルドゥング)の作成が中止されたというのであれば、それ自体不自然です。逆に、事件報告(エライグニスメルドゥング)196以降も存在していたのなら、それらが1〜195と共に、他の1943年までカバーしている報告書と共に見つからなかったのは何故なのでしょう。後者だとすれば、ドイツによって報告書が保管のために1か所に集められたという解釈とは衝突します。事件報告(エライグニスメルドゥング)は一次報告をまとめた二次報告なのですが、間違いなく一次報告は各部隊が作っていたはずです。しかし、言うまでもなくこの一次報告は一切見つかっていません。
  194. この謎もまた、事件報告(エライグニスメルドゥング)が米によって改竄あるいは編集された物だと仮定すれば、簡単に解けます。要するに、これは「頁数」の問題でしょう。“東部占領地区からの報告”と“作戦状況報告”は「数百頁」しかないようです。(p. 309)これに対して、事件報告(エライグニスメルドゥング)は「2,900頁」もあるのです。前者は頁数が少なかったので、1943春までの期間を容易にカバーできた。しかし、後者は余りにも分量が多すぎ、偽造者達は事件報告(エライグニスメルドゥング)195まで作ったものの1942年春までしか到達できなかった。裁判の開廷までに編集が間に合わなかったのか? それとも、裁判に提出するためには十分な量を作成したので中止したのか? いずれにしても、事件報告(エライグニスメルドゥング)は未完成で終わった。馬鹿馬鹿しい話ですが、これが真相ではないでしょうか?
  195. 事件報告(エライグニスメルドゥング)に記載されている処断で、他の文書でほぼ同じ数字が記載されている事例は数例しかないのですが、そのうち最大の物は、有名なバビー・ヤール事件です。この事件については非常に多くの関連証拠があります。@事件報告(エライグニスメルドゥング)101,106と「活動状況報告6」に同じ数字「33771名」が記載されている。Aこの事件で得られた衣服の輸送についての記載が事件報告(エライグニスメルドゥング)と「活動状況報告」に存在する。B他の二つの文書に@とほぼ同じ数字が記載されている。C事件報告(エライグニスメルドゥング)97に「20名の公開処刑の計画」が記載されている。D市外への再定住(自主的逃亡)を呼びかけるポスターが存在する。これに応じた人々が谷で処断されたと想定されている。E被害者側の証人が多くいる。F処断を実行した独側の証人がいる。G独の宣伝部隊の従軍カメラマンによる写真がある。H処断に至ったキエフでの状況が存在する。
  196. まず、@の事件報告(エライグニスメルドゥング)101と106について、これらに「33771名」が記載されているかどうかが、正史派たちにすら不透明だったようです。ヒルバーグは最後まで事件報告(エライグニスメルドゥング)101「のみ」を典拠としました。ヒルバーグはもう一方の事件報告(エライグニスメルドゥング)106はジトーミルでの3145人の処断の典拠として直前で使っています。ヒルバーグが両報告の文面を実際に読んでいたなら、なぜキエフでの「33771名」の経緯をより詳細に記載している106ではなく、簡単な記述しかない101のみを典拠としたのか、不可解です。要は、彼も文面を確認していないのではないかという疑惑があります。G.ライトリンガーとA.ストレイムは事件報告(エライグニスメルドゥング)106「のみ」、を典拠としていましたが、ストレイムは後に事件報告(エライグニスメルドゥング)を典拠とすることを止めたそうです。で、現在は2011年に発行された事件報告(エライグニスメルドゥング)の全文が記載された資料集によって、101と106の両方に「33771」が記載されているというのが「公式設定」になったようです。マットーニョも一部の文書のコピーしか事件報告(エライグニスメルドゥング)を持っておらず、この資料集をソースとするしかない状態です。
  197. Cの事件報告(エライグニスメルドゥング)97に「20名の公開処刑の計画」があるというのは、「パルチザン戦争と報復〇〇」に記載されていましたが、マットーニョの書籍には同じ事件報告(エライグニスメルドゥング)97に「50000名の処断の計画」が書いてあるとなっています。前者は間違いなのか、それとも両方が記載されているのか、気になります。はたして、この点を確認するだけのために事件報告(エライグニスメルドゥング)の資料集(14000円)を買うべきかどうか……翻訳作業が完了したら決断しますwそれにしても、「20名の公開処刑の計画」は実に現実的ですが、「50000名処断計画」とは非現実的にもほどがあります。この2つが同時に記載されているとすればシュールです。どの場所で、どうやって、どれだけの期間で東京ドーム満員の人数を処断しようとしていたのでしょう。
  198. キエフのバビー・ヤール事件と言えば戦時中からこの種の事件の代名詞であり、支那事変での「南京」のようなものです。露は1944年に犠牲者12万人などと報告しました。そして、劇的にも米は事件報告(エライグニスメルドゥング)を戦後の1946年に見つけたということになっています。さて、ここで発見者の立場になって想像すれば41年9-10月のキエフについての文書は、最優先で確認するはずです。そして、本当に事件報告(エライグニスメルドゥング)101と106に33771名処断が記載されていたなら、報告書の発見当日にでもそれが判明し、文書の画像までも公表され、その後研究者の間でも常識中の常識になっていたのではないでしょうか。しかし、論文「パルチザン戦争と…」が書かれた2003年でもこの点が不透明であり、実に2011年の資料集の発行で両事件報告(エライグニスメルドゥング)の内容が明らかになったというのは実に不可解すぎるのです。