#1273/1770 研究室「パンドラの箱」
★タイトル (QYA33902) 96/11/19 11:11 (112)
ニツコー>66Q&A42番43番 三鷹板吉
★内容
約2時間である。
約1時間半である。だが、大きな骨はその後さらに処理しなければならない。
先に焼かれた死体群によって発生する熱エネルギーを使って、次の死体群のために炉を熱く保つように設計されていたのだ。
この1体用の内窯でどうやって先に入れた死体の熱エネルギーを使うというのだ? 燃え盛る死体の横に新鮮な死体を置くことなど不可能な大きさだろう。
※火葬棟IIの火葬炉。
ラガセは、炭化物を残さないというような配慮が、ナチスにおいては重要ではなかったということを失念している。
火葬棟IIの火葬炉の写真がニツコーで入手可能である。
そのリンク先に火葬棟IIの火葬炉の写真はない。私は、自説の馬鹿馬鹿しさを悟られないようにリンク先に意図的に写真を入れなかった可能性を疑っていますが、どうなのでしょうね。
さて、1.5時間か2時間か、どちらなのだ? より最近、ホロコースト否定者たちはアイヴァン・ラガセ(Ivan Lagace)の証言に依拠し始めている。ツンデル裁判においてラガセは明らかに死体1体につき6時間から8時間かかると言い、それは後に印刷物にもなっている。
生存者たちの証言が、火葬に必要な時間のような技術的詳細において互いに矛盾していることについて、IHRはしょっちゅう神経質な不平を並べててている。――そのIHRは、自分自身の作り話さえ首尾一貫できていないのに!
IHRの見積りと実際の火葬時間(約30分)との不一致は、主として、IHRが軍/産業的火葬と、日常の市井の火葬とを混同しているという事実による。
IHRが「プロの火葬技術者」と言う際には、ラガセのような人達を意味している。一度に1体の死体を棺桶ごと一つの火葬炉で火葬するのが仕事の人達だ。その火葬炉は、もっとも大きな骨さえも細かい灰に火葬して近親者が持ち帰れるようにすべく設計されている。こうした状況が、第2次大戦中のアウシュヴィッツ・ビルケナウの状況と比較できないのは明らかだ。
例えば、ラガセは、ある故人の遺灰を別の故人の遺灰と混ぜる、もしくは「いっしょくたにする(comingling)」など考えもしなかっただろう。ラガセとIHRは、二体か三体の痩せ衰えた死体が一緒に「内窯(muffle)」に入れられるケースもあっただろうことを忘れている。もちろん、このようなことは市井の火葬を商売とする施設では、けっして行われない。
その上、アウシュヴィッツの火葬炉は、継続運転するように設計されていた。先に焼かれた死体群によって発生する熱エネルギーを使って、次の死体群のために炉を熱く保つように設計されていたのだ。一日の最初に、コークスを燃やして適当な運転温度に達した後は、運転のために追加する燃料はほとんど、もしくは一切必要としなかった。この技術的達成については、詳しく記録されている(グットマン他の「Anatomy of the Auschwitz Death Camp」1994年刊、185〜187ページ他を見よ)。ラガセは、一体一体の死体を火葬する合間に「冷却」時間が必要だと主張している。このことは、火葬炉がどのように運転されていたかという部分についての、彼の根本的な無知を露呈している。ラガセは、継続運転はアウシュヴィッツの火葬炉に故障を引き起こしただろうと主張しているのだが、ここでも彼は単に日常の市井の火葬と軍/産業的火葬との違いを理解していないのだ。
その上、典型的な商業的火葬技術者は、炭化した肉体の痕跡すら残さないまでに十分時間をかけて死体を火葬する。すなわち白骨状態にまで。そのようにしても、それらのプロセスは、全体的な火葬時間を2時間から4時間にまで延長するだけで、ラガセが主張したような6時間から8時間ではない。ラガセは、炭化物を残さないというような配慮が、ナチスにおいては重要ではなかったということを失念している。が、このような間違いその他は、質問45番への回答で取り上げられている。
これらの間違いはさておいて、火葬炉での火葬時間については、疑問の余地がない。1939年、トップフ・アンド・サンズ商会は、ダッハウの火葬炉を建設する契約を与えられたのだが、その火葬炉は、一内窯あたり一時間で一つの死体を処理する計算上の能力を有していた(同時に2つの内窯を使える)。空気の導入圧を増すことにより、商会は1940年7月には、一内窯あたり一時間で二つの死体を火葬できる火葬炉を生産していた(同じく、同時に2つの内窯が使える)。一日に3時間のメンテナンスが必要であり、これはIHRが質問45番で主張している一日12時間とはほど遠い。(グットマン他の前掲書、185〜186ページ、189〜190ページを見よ)
アウシュヴィッツ・ビルケナウに最終的に備え付けられた火葬棟は大規模なものだった。一内窯あたり複数の死体を半時間で火葬する以上の能力があった。そして、メンテナンス無しで何日間もぶっつづけで運転可能だった。(ついには困難が生じ、これらの火葬炉のいくつかは、メンテ無しで何ヵ月も運転されることとなった)トップフ・アンド・サンズ商会は1951年に特許を与えられている。その特許はなおも、一個の内窯が1体の死体を半時間で火葬可能だと述べている。
火葬棟IIの火葬炉の写真がニツコーで入手可能である。