1914年 7月28日 | オーストリア、セルビアに宣戦布告(第一次世界大戦勃発) |
1918年11月9日 | ドイツ革命 |
1919年 1月 5日 | ナチス結成 |
1919年 6月28日 | ベルサイユ条約調印(北京政府、調印拒否) |
1919年 7月31日 | ワイマール憲法成立 |
1923年1月11日 | フランス・ベルギー、ルール占領 |
1923年11月8日 | ミュンヘン一揆 失敗、ヒトラー逮捕 ランズベルク刑務所に投獄される |
1924年 | 獄中で「我が闘争」完成 |
1924年12月20日 | ヒトラー、釈放 |
1928年 | F・D・ルーズベルト、ユダヤ資本を後ろ盾にニューヨーク知事当選 ルーズベルト当選以後、ニューヨークにはロシア系ユダヤ人や共産主義者が大量に流入した |
1932年11月 | ルーズベルトがユダヤ人の支持を得て大統領に当選 |
1933年1月30日 | ドイツ国民の圧倒的支持を得てヒトラー政権樹立 |
1933年2月11日 | 米国財務長官ヘンリー・モ―ゲンソー(ユダヤ人)が「アメリカは第二次大戦の局面に加わった」と明言 |
1933年3月24日 | ロンドン・デイリー・エクスプレス(イギリスの新聞)紙上で、ユダヤがドイツに宣戦布告」 JUDEA DECLARES WAR ON GERMANY ↑ 1933年3月24日 ロンドン・デイリー・エクスプレス これ以後、ユダヤ人によるドイツ製品の国際的ボイコット運動が展開される。 この結果1933年のドイツの輸出総額は10%低下し、利益は前年の半分に落ちた(木村愛二著 アウシュヴィッツの争点より) |
1933年3月27日 | アメリカのマジソン・スクエア・ガーデンにてユダヤ人による反ドイツ集会(ニューヨーク・デイリーニュースより) シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、ボルティモア、クリーヴランドなど70の他の場所で、マジソン・スクエア・ガーデンと同様の抗議集会。(The Jewish Declaration of War on Nazi Germany The Economic Boycott of 1933_ M_ Raphael Johnson, Ph_Dより) |
1933年4月1日 | ドイツでユダヤ製品のボイコット運動が行われる。 |
1933年4月 | ドイツでユダヤ人への迫害がはじまる(集英社版・学習漫画 世界の歴史15より) ↑集英社版・学習漫画 世界の歴史15 P.41 |
1933年4月7日 | 「職業官吏再建法」でユダヤ人の罷免を可能に。 |
1933年4月26日 | ゲジュタポ発足(長官:ゲーリング) |
1933年5月1日 | ヒトラー、ナチス入党停止令を公布 |
1933年5月17日 | ヒトラー、「大平和演説」 |
1933年6月22日 | ヒトラー、社会民主党の活動を全面的に禁止 |
1933年7月14日 | ヒトラー、新政党の結成を禁止 |
1933年7月20日 | 政教協約(コンコルダート)調印 |
1933年9月29日 | 帝国世襲農場法、アーリア証明を義務化 |
1933年10月4日 | 新聞界からユダヤ人を排除 |
1933年10月14日 | ドイツ、ジュネーブ軍縮会議・国際連盟からの脱退を表明 |
1934年4月11日 | ヒトラー、軍首脳と洋上会談 |
1934年6月30日 | レーム事件(ヒトラー、レームらを粛清) |
1934年8月19日 | ヒトラー、首相と大統領を兼任 |
1935年3月6日 | ドイツ、再軍備宣言 |
1935年5月28日 | エバ・ブラウン自殺未遂 |
1935年6月18日 | 英独海軍協定調印 |
1934年1月 | シオニスト指導者のヴラジミール・ジャボチンスキー、ユダヤ人の新聞『ナーシャ・レッシ』[われわれの権利]紙上にて、「われわれユダヤ人の利益を守るためには、ドイツを永久的に滅ぼす必要がある。全体としてのドイツ人が、われわれにとっての危険を代表しているからだ」と宣言(木村愛二著「アウシュヴィッツの争点」より) |
1934年2月5日 | ユダヤ人学生を医師、歯科医試験から排除 |
1934年8月 | ヒトラー、大統領と首相をかねた総統となる |
1935年3月 | ドイツ、再軍備を宣言 |
1935年 | 米国最高裁は共産主義政策であるニューディール政策の全国復興庁(NRA)を満場一致で違憲と判決した |
1935年3月7日 | 米国のヒュ―イ・ロング知事が12日の米国議会記録のためにラジオ放送(ヒュ―イ・ロングはルーズベルトの誤った考え方や、ニューディール政策で得しているのはユダヤ人だけであることを指摘していた) |
1935年3月14日 | ニューヨーク・タイムス紙上でルーズベルトは「自分はユダヤ人かもしれない」と主張 |
1935年7月2日 | ドイツ軍からユダヤ人を排除。(しかし実際は15万人のユダヤ人がドイツ軍に所属していた) |
1935年9月8日 | 反ルーズベルト派のヒュ―イ・ロング知事が22口径で狙撃される |
1935年9月10日 | 午前4:06 ヒュ―イ・ロング死亡 |
1935年9月15日 | ニュルンベルク法成立、ただしヒトラーはドイツに忠誠を誓うユダヤ人はドイツ国民として受け入れた |
1936年3月 | ラインラントへ進駐 |
1936年 | 米国最高裁は共産主義政策であるニューディール政策の農業調整法(AAA)を違憲と判決した |
1936年12月 | 西安事件で蒋介石が毛沢東に屈服し、日本人を奇襲することで合意した。その後半年間準備 |
1937年7月 | 中国軍各地で日本人、国際駐屯日本軍に奇襲攻撃開始。ちなみに、国際駐屯日本軍は1900年の北清事変(義和団の反乱)の結果、米英仏イタリア、日本が清朝との協定で30年以上駐兵していたもの。当時も各国が数千人規模の軍隊を北京付近に駐屯させていた。 |
1937年7月7日 | 盧溝橋事件、北平(北京の近く)の盧溝橋で演習中の日本軍が銃撃を受け国民党軍と一触即発となる。これは日中戦争を勃発させて混乱の中で共産主義を広めようとするソ連の陰謀だった |
1937年7月11日 | 現地停戦協定が結ばれる |
1937年7月29日 | 通州事件、通州日本人婦女子264人大虐殺発生。幼児、女性を虐殺。東京裁判では日本軍の誤爆が原因とされたがこれはデマである。なぜなら誤爆の事後処理は通州事件の前に終っているからである。 |
1937年8月13日 | 蒋介石30万の軍隊で上海の日本人居留民2万を奇襲。上海租界の日本人や欧米の民間人1700人以上が死亡 |
1937年8月15日 | 上海派遣軍の編成派遣を決定、事実上の全面戦争となる。日中戦争勃発 |
1937年11月 | 南京攻略の前にすでに富裕階級は南京を脱出 |
1937年12月13日 | 南京陥落 |
1937年12月17日 | 安全区委員会委員長ジョン・ラーべが日本大使館に送った手紙によると南京の人口は20万人 |
1937年12月25日 | 朝日新聞は南京の平和な様子を記事にした |
1938年 1月14日 | ジョン・ラーべの手紙によると南京の人口は25万人から30万人 |
1937年2月 | アドルフ・アイヒマン、パレスチナのシオニスト組織「ハガナ」の司令官ベングリオン[イスラエル初・3代首相]、とベルリンで会談。この時に2人は合意に達し、アイヒマンは書面で「ドイツのユダヤ人を代表する組織は、ドイツを去るユダヤ人がパレスチナにのみ移住するように圧力をかけるものとする」と約束。 |
1938年3月 | ドイツ、オーストリアを併合 |
1938年11月7日 | 17歳のユダヤ人少年ヘルシェル・グリュンシュパン(彼は失業中でユダヤグループから金を受け取っていた)、パリのドイツ大使館三等書記官エルンスト・フォム・ラート(当時31歳)を射殺 ヘルシェル・グリュンシュパン エルンスト・フォム・ラート |
1938年11月9日(夜)〜10日 | 水晶の夜(クリスタル・ナハト)勃発、ただしこの暴動はナチ党員が扇動したものである。 |
1939年1月16日 | ウィリアム・C・ブリット駐仏大使が、ポーランドのイエルジー・ポトツキー駐米大使に「戦争になればアメリカは英仏側で参戦する」と主張。これ以後、ポーランドの対ドイツ外交方針は強硬姿勢に変更される。 |
1939年4月5日 | 米国のハルミトン・フィッシュ議員「ドイツがベルサイユ条約で没収された領地さえ取り戻せれば戦争にはならない。共産主義者がソ連のために、アメリカを日独との戦争へ扇動している」と演説 |
1939年8月23日 | 独ソ不可侵条約 |
1939年9月6日 | ドイツ・ポーランド戦争勃発 |
1939年9月15日 | ソ連がポーランドに侵攻 |
1940年6月30日 | フランスがドイツに降伏 |
1940年9月27日 | 「日独伊三国同盟」締結 |
1940年10月 | ソ連工作員パブロフ、ベリヤ内相の指示で「雪作戦」を開始 |
1940年10月4日 | チャーチルが、アメリカに対してシンガポール周辺の防衛のため軍艦の供給を要求する |
1940年10月30日〜 | 選挙期間中、ルーズベルトは何度も「戦争はしない」と演説 |
1941年1月27日 | ワシントンで、米英参謀本部の秘密戦略会議が始まる。ドイツ打倒優先で合意する |
1941年2月3日 | アメリカ、イギリス、オーストラリアの3国の間で、太平洋共同防衛の了解が成立する |
1941年2月16日 | イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダが、太平洋防衛に関する4ヵ国会議を開く |
1941年3月11日 | アメリカ、武器貸与法を成立させる。イギリスに対する武器援助が本格化する |
1941年4月25日 | ルーズベルト、記者会見でリンドバーグを「ファシスト」と非難、怒ったリンドバーグは陸軍大佐の身分を辞す |
1941年5月1日 | チャールズ・A・リンドバーグ「政府が戦争を煽っている。戦争で利益を得ているのはユダヤ人」と主張。リンドバーグの地位を剥奪し収容所に入れる為にルーズベルトはできることをすべて行った |
1941年6月22日 | ドイツ軍がソ連に侵攻。独ソ戦勃発 |
1941年8月9日 | チャーチルとルーズベルトの大西洋上の会談が始まる。ルーズベルト「如何にしたら日本が先に、米国に攻撃を仕掛けるかを検討中である」と発言(Royal Public Record Office 大英王立公文書館の資料より) |
1941年7月25日 | 米英蘭、自国内の日本資産一億三千万ドルを凍結し、貿易、金融関係を全て断絶する経済封鎖を実施(資産凍結とは国が外国などの資産の処分、移動を禁止することで、特に戦時において自国内にある敵国政府、敵国籍の会社、敵国人の資産を接収または管理すること) |
1941年8月25日 | イギリス・ソ連両軍が、中立国のイランへ侵攻 |
1941年9月11日 | リンドバーグ、アイオワ州デ・モインで演説。「イギリス人、ユダヤ人、そしてルーズベルト政権が戦争を煽っている」 |
1941年9月9日 | イギリスとソ連がイランと協定を結び、南部をイギリス、北部をソ連の占領地域とした |
1941年9月29日 | モスクワで、アメリカ、イギリス、ソ連3国の会談が始まる |
1941年10月1日 | モスクワで、対ソ援助のための米英ソ議定書が調印される |
1941年10月8日 | ルーズベルト「(中立国の)ドイツ戦艦および潜水艦は、見つけ次第これを攻撃すべし」と命令を出す。しかしドイツは挑発には乗らなかった |
1941年 10月 8日 | 米大統領F・D・ルーズベルト、宣戦布告のないままドイツ船舶へ攻撃を命令 |
1941年 10月 | リヒャルト・ゾルゲ、モスクワに「60日以内に真珠湾攻撃が行われるだろう」と報告 |
1941年10月10日 | イギリスが貸与条項によりソ連への物資供給を決定する |
1941年10月18日 | 大日本帝国、東条英機内閣が成立 |
1941年11月 | ルーズベルトは極秘命令で日系米国人のリストを作成。真珠湾攻撃以降、このリストによって日系人の逮捕・財産没収作業はスムーズに行われた |
1941年11月26日 | 米国がハル・ノートで大日本帝国に最後通牒を突きつける |
1941年11月27日 | 米軍は国民には極秘で戦争体制に入る |
1941年12月1日 | 大日本帝国 御前会議 |
1941年12月6日 | イギリスが、フィンランド、ハンガリー、ルーマニアに宣戦布告する |
1941年12月8日 | 12:10米軍、「宣戦布告」無きまま、日本潜水艦を攻撃し撃沈(日米戦争勃発) 13:00本来、日本側が「国交断絶通告」をアメリカ側に通達すべきだった時間 13:30日本軍、ハワイ・真珠湾を攻撃(対米開戦) 14:00在ワシントン日本大使館、「国交断絶通告」をアメリカ側に通達 ただし、1941年の時点では宣戦布告は義務とされていないので、[奇襲=卑怯]は成り立たない。WW2戦前戦後の戦争を見ても宣戦布告がある戦争の方が稀であることから考えてみれば当然のことなのである ルーズベルト「リメンバー・パールハーバー」演説 |
1941年12月11日 | ドイツがアメリカに宣戦布告 |
1941年12月15日 | ジョン・ランキン米国下院議員「アメリカ、アラスカ、ハワイにいるすべての日本人を捕まえて、『Concentration Camps(強制収容所)』に入れてしまえ」と発言。以後、『Concentration Camps(強制収容所)』という言葉が一般的となる |
1941年2月19日 | 大統領行政命令9066号にサインがされ、多くの日系人が住んでいる太平洋岸を軍事地域として指定し、ここからすべての日系人を強制的に立ち退かせる権限が軍に与えられた(12万313人の日系人のうち2/3は米国籍の日系2世。16分の1以上日本人の血を引く者は日系と見なされた。ヒトラーと異なり米国に忠誠を誓う日系米国人も例外とされなかった) |
1943年 1月下旬 | 軍部は二世からなる部隊を再編することを決定 |
1942年1月20日 | ドイツ・ベルリン郊外にてヴァンゼー会談。現在はイスラエルでさえ「ヴァンゼー会談で絶滅計画が決まったというのは馬鹿げた噂話」としている。したがってこの会談で決定・実行された「ラインハルト作戦」も創作に過ぎないこととなる。 |
1942年夏 | ドイツはポーランド占領の後に安全保障上の理由からポーランドのユダヤ人をワルシャワ・ゲットーに集中されていたが、親衛隊長官ヒムラーはワルシャワ・ゲットーのユダヤ人に仕事を与えるために強制収容所への移動を命令 |
1942年7月〜10月 | ワルシャワ・ゲットーの3/4以上のユダヤ人はユダヤ人自身によって移動させられ、ユダヤ人の警察によって監視され移動は平穏だった(600万人は本当に死んだか?より) |
1943年 1月18日 | 共産主義者の支援を受けたユダヤ人のゲリラが親衛隊と市民軍に発砲。 ユダヤ・ボリシェビキのテロ活動は一般のユダヤ人に恐れられていたため、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人はテロリストの情報をドイツ側に提供していた。 |
1943年 3月13日 | ワルシャワ・クラクフのゲットー解体(インチキ映画「シンドラーのリスト」より) |
1943年4月19日 | 親衛隊中将ストローブ、自動車に乗っているところをユダヤ人ゲリラに襲撃されて12人が死亡。ユダヤ人ゲリラとドイツ軍・ポーランド軍との市街戦は4週間続き、ドイツ・ポーランド両軍で101人が死亡、12000人のユダヤ人が負傷。 |
1943年4月12日 | カチンの森事件 ロシア郊外スモレンスクにあるカチンの森でドイツ軍がソ連軍に虐殺されたポーランド将兵4321人の死体を発見。ドイツは連合国、中立国、国際赤十字のジャーナリストや調査官に調査を依頼し、ソ連の戦争犯罪を立証したが、これは連合国によって握りつぶされる。(1990年4月13日ロシア政府はポーランド将兵を処刑したのはソ連の内務人民委員部(NKVD)と認め、1992年ロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した) |
1943年8月 | ルーズベルト「枢軸国が毒ガスを使う可能性がある」と声明 |
1943年10月30日 | 最初の歴史修正主義者ポール・ラッシニエがレジスタンス活動のためゲシュタポに逮捕される |
1943年11月 | スターリン、チャーチル、ルーズベルトの署名するモスクワ宣言「ポーランド人に対して虐殺行為を行なったドイツ人は……犯罪現場に引き戻されて、その場で裁かれるであろう。」 |
1944年1月25日 | ルーズベルト、「ナチスの陰謀を阻止すべき」と声明 |
1944年 3月15日 | 国際赤十字が連合軍の無差別爆撃に抗議 |
1944年3月24日 | ルーズベルト、「ナチスのユダヤ人虐殺は史上最悪の犯罪である」と声明 |
1944年 8月 9日 | ミヒャエル・ヴィットマン武装親衛隊大尉戦死(通算で戦車及び突撃砲138輌、対戦車砲132門を撃破) |
1944年 9月 3日 | アンネ・フランク、アウシュヴィッツに送られる |
1944年10月2日 | 国際赤十字が「ドイツのいたるところで飢餓条件が避けられなくなった」と宣言 |
1944年10月 3日 | アンネ・フランク、絶滅刑務所である(はずの)アウシュヴィッツから生還、ベルゲン・ベルゼンに送られる |
1945年 1月27日 | ソ連軍アウシュヴィッツ収容所到着。オットー・フランク(アンネ・フランクの父親)、ソ連軍に救出される その日にソ連軍が撮影した写真には健康そうなユダヤ人の囚人が大勢写っている |
1945年 2月2日 | ユダヤ系の記者ボリス・ポレヴォイは、アウシュヴィッツでは数百の囚人がコンベア・ベルトの上で同時に電気処刑されたとソ連の新聞『プラウダ』紙に書く。戦後この記事の存在はなかったことにされた。 |
1945年 3月31日 | アンネ・フランク、チフスで死亡 |
1945年 4月28日 | アドルフ・ヒトラー、エヴァ・ブラウンと結婚 |
1945年 4月30日 | 15:30 ヒトラー夫妻 ベルリンの総統地下壕で自殺(青酸入りアンプルを口に含むと同時に愛用の拳銃(ワルサー社製 口径7.65mm)で自らの頭を撃ち抜いた) |
1945年 5月 1日 | 総統官邸に突入したソ連軍が遺体を発見 |
1945年 5月 7日 | ドイツ降伏(ベルリン陥落) |
西部戦線の大量投降と、東部戦線の必死の抵抗はドイツ軍最高司令官デーニッツの戦略だった。 虐殺の限りを尽くしたソ連軍よりは米英のほうがマシであると考えた結果だったが、連合軍のリンチはドイツ軍の想像を遥かに超えたものであった。戦後、収容所で死亡したドイツ兵の数は、1941年〜1945年4月にかけての戦死者数を上回ったのである。しかし、その事実が一般に公開されたのは戦後40年以上経ってからであった。 参考資料:「消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所 死のキャンプへの道」 著ジェームズ・バグー ドクター・アーネスト・F・フィッシャー アメリカ合衆国陸軍(退役)大佐 一九八八年 バージニア州 アーリントンにて 一九四五年末、西ヨーロッパ戦線は投降した何百万のドイツ兵で溢れ、東部戦線ではソ連軍との最後の戦いがつづいていた。西部の大量投降と東部の必死の抵抗は、ドイツ軍最高司令官デーニッツの戦略だった。デーニッツは、一兵でも多くを人道的な取り扱いが期待できる、アイゼンハワー麾下の連合国軍に投降させようとしていた。だが、その試みは絶望的な結果に終わった。五〇〇万人をこえる捕虜は野ざらしで、立錐の余地もない鉄条網囲いに入れられ、最小限の食糧や衛生施設にも事欠いた。一九四五年四月以降、仏軍の手にあったものも含めて、約一〇〇万人の捕虜が次々に命を落とした。このような惨事が米軍のもとで起こったのは、南北戦争時のアンダーソンビル監獄以来のことだった。そして、ヨーロッパでのこの惨劇は、四〇年もの間、連合国公文書館の書籍の山に隠されていた。一九八六年、この惨劇の最初の手がかりがジェームズ・バクーによって発見された。ナチの手から一六〇〇人もの難民を救ったフランス・レジスタンスの英雄ラウル・ラポルテリーの著書を調べたバクーは、ラポルテリーが救ったハンス・ゲーツという元ドイツ兵を捜し当てた。一九四六年、ラポルテリーはゲーツをフランス軍収容所から貰い受けて、彼が経営するチェーン店の仕事につかせた。「ラポルテリーが私の命を救った」とゲーツは語った。ゲーツのいた収容所は、飢えと病気で、一ヶ月に、捕虜の二五パーセントが死ぬという悲惨な状態にあった。パリのヴァンセンヌの公文書館にあった赤十字国際委員会のレポートから、その収容所が、最悪の状態にあったものの一つだということがわかった。バクーはやがて、米軍収容所での大量死についても、動かし難い証拠を掴んだ。米軍の報告書にある『その他の減員─Other Losses』という婉曲な言い回しの項目がそれであった。この項目の意味は間もなく、当時、連合国軍最高司令部の要職にあったフィリップ・S・ローベンによって説明された。 一九八七年春、バクーと私はワシントンで落ち合った。それから何ヶ月もの間、われわれはヴァージニア州、レキシントンのジョージ・C・マーシャル財団公文書館で、証拠の数々を照合した。ドイツ再生の道を閉ざすべく、一切の工業力をドイツから取り去る方針が、一九四四年に、米英両政府の最高レベルで検討されていたこともわかった。ドイツに対するアイゼンハワーの憎悪は、軍隊という服従の機構を通して、《死のキャンプ》の惨劇をもたらした。そして、この出来事の耐え難い側面は、何人かの高級将校たちの《当たらず触らず》の態度である。戦闘終結後に、かくも多数の非武装、無抵抗のドイツ人を死に追いやった行為は、アメリカ国民の大多数の意志とはかけ離れたものだった。収容所での死亡者数が、一九四一年から四五年四月にかけての戦死者の数を上回ったという事実は、惨劇のマグニチュードを物語る。本書は、この惨劇の実態を明らかにしていくだろう。 はじめに 調査を始めてから長い間、私と助手(匿名希望)は、数々の発見に、半信半疑の日々を過ごした。フランスのある公会堂の屋根裏部屋では、死亡捕虜のリストがはいっているはずの、埃をかぶった古い書類箱を棚からおろしつづけた。だが、リストはなかった。それでも、戦後の人手不足による手違いだろうと考えた。そして、フランス人牧師──彼がいた収容所で埋葬した捕虜の数について二度も食い違う発言をした──の落ち着かない表情も、罪の意識からではなくて、われわれが提起した問題の悲惨さに衝撃を受けたからだと善意に解釈した。 『食糧を届けるのに必要なガソリンの配給を軍が拒否した』という、一九四五年の赤十字国際委員会の苦情は重要だと思ったが、苦情書上の『済み』という手書きを見て、処置がとられたものと考えた。ところが、『約束にもかかわらず、ガソリンが入手できない』という後日の手紙を発見して、そうではないことがわかった。前記の牧師と同じ収容所にいた警備員は、牧師が認めた死亡者数よりはるかに多くの捕虜が死んだはずだと語った。さらに多くの証拠が現れた。そして、それらの証拠が物語る戦慄すべき出来事と、われわれが教えられた美しい神話の、いずれを取るべきかという、苦しい選択を迫られることになった。 仏軍収容所の第一段階調査が終わるころには、米軍収容所での同様の出来事についても、いくつかの小さな証拠が浮かんだ。そこで、われわれは、調査の場をワシントンに移した。自己の残虐行為の証拠を米陸軍が保存しているとは思えなかったが……。 ペンシルヴァニア通りの合衆国国立公文書館で、『戦時捕虜ならびに武装解除された敵国軍隊に関する週報』という表題の書類綴りを発見した。週報には、フランスの記録にもある『その他の減員─Other Losses』という項目があった。この項目が死亡数を意味することは明らかだった。だが、それは、われわれの解釈であって、死亡者数と書いてあるわけではない。真相をだれに求めるべきか? 私はフィリップ・S・ローベン大佐の門を叩いた。ローベンは、ヨーロッパ派遣連合国軍最高司令部の秘密文書配布先リストに載っていた人物で、当時、最高司令部ドイツ問題担当部長として、捕虜の移送、本国送還の任にも当たった人である。かれの家のリビング・ルームで、私は冷静を装いながら、蒐集した資料のコピーを拡げた。かれの第一声が、われわれの一年余りの努力を無にするか、あるいは、歴史的に重要な一歩とするかの別れ目だった。ローベン大佐と私は順を追って『その他の減員』の項目に辿り着いた。 「この数字は死亡者と逃亡者を意味する」と彼は言った。「逃亡者の数はどのくらいか?」との私の問いに対して、彼は、「きわめてわずかだった」と答えた。逃亡者数は一パーセントのさらに十分の一以下だったことが後日わかった。広範な隠蔽工作と、最初から偽造されていた書類もあって、把握がむずかしかった死亡者は今後とも議論を呼ぶだろう。多くのデータが一九五九年代に破棄され、偽りが真相を何層にも覆っていた。戦争終結直前の一九四五年四月以降、野ざらし、不衛生な環境、病気、飢餓がもとで、膨大な数のあらゆる年齢層の男たちに加えて、女子供までが、ドイツとフランスの収容所で死んだ。その数は、確実に八〇万を超えたし、九〇万以上であったこともほぼ確実であり、百万を超えた可能性すら十分にある。捕虜の生命を維持する手段を持ちながら、あえて座視した軍によって、この惨事は引き起こされた。救恤団体の救援の手は米軍によって阻まれた。真相は隠され、赤十字や、ル・モンド、ル・フィガロ紙には虚偽の情報が与えられた。そして、記録の破棄や改竄が行われ、あるものは秘密のファイルに入れられた。このようなことは今日にいたるまでつづいている。同じ最高司令部のもとで、フランスや米国と共に戦った英軍とカナダ軍も、何百万という捕虜を収容した。われわれは、彼らの収容所についても調べた。捕虜が辿った運命はさだかではなかったが、残虐行為の跡は発見できなかった。軍、赤十字国際委員会、それに当時の捕虜から集めた証拠は、不十分とはいえ、一九四五年に米軍から引き継いだ約四〇万を除いて、ほとんどの捕虜が、最後まで、良好な健康状態だったことを示していた。四〇万のうちの多くは、引き継いだ時点ですでに危険な状態にあった。一九八八年、ドイツ捕虜に関する重要文献とされるフィルモー論文の閲覧を、カナダ陸軍が英国政府に要求した。英国政府は《目下使用中》との理由でこれを拒否した。英軍、カナダ軍の手にあったドイツ捕虜の取り扱いに関する記録は、ロンドン、オタワどちらの公文書館にも保管されていない。ナチ強制収容所の資料を求める二人の作家が、最近、赤十字国際委員会の記録所に立ち入りを許可されたが、ドイツ捕虜に関する文献を求める筆者の立ち入りは許されなかった。 そして、カナダ陸軍およびカナダ赤十字を通じての請求にもかかわらず、本件に関する文書の閲覧は繰り返し拒否された。英国もカナダも、米軍収容所の様子を知っていたし、英国は、少なくとも、収容所の一つで行われた残虐行為を知っていた。カナダ政府だけが抗議したが、一度だけで終わった。人間の価値、報道の自由の尊さ、立法府の重要さに思いをいたしのが本書を綴る動機の一つである。四人の方々に心からの感謝を捧げたい。フィリップ・S・ローベン大佐の良心と、その勇気ある援助なしには、真実の扉を開くことができなかった。アーネスト・F・フィッシャー大佐は、寄せられた序文をはるかにしのぐ援助の手を差し伸べられた。第一〇一空挺部隊の中尉から大佐に昇進したフィッシャー氏は権威ある戦史家であり、『カシノからアルプスへ』は、同氏が合衆国陸軍戦史センターの先任戦史担当官時代の著作である。フィッシャー氏は、私が必要とした知識を縦横に駆使して、温かく私を導いてくれた。夫人エルザと彼は、合衆国国立公文書館の文献の調査に多くの時間を割いた。『ヨーロッパ戦線軍医部記録』という、欠くことのできない記録を発見したのも彼であった。ワシントン、スートランド、メリーランド、レキシントン、ヴァージニアで、同記録や他の重要な文献を彼とともに調べた。勇気ある、賢明で温厚なフィッシャー氏は、合衆国の誇りであり、私にとっても、緻密な学究の徒として、また、誠実さ溢れる友人として、尊敬おくあたわざる人である。私の思うままに仕事をさせてくれた妻のエリザベスは、常に私を支えてくれた。報われる日がくることと信じる。多くの方が、いくつもの誤りを拙著に発見されるに違いない。すべて私の責めに帰するものである。批判を歓迎し、また諸氏のさらなる調査を歓迎したい。その試みが、長年にわたり、偽りのベールに隠されてきた真実を明らかにしてくれるであろうから……。 ジェームズ・バクー 一九八九年、トロントにて |
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1945年5月8日 | ヒトラー直属の歯科技工士、カーテ・ホイザーマンによってヒトラーとエヴァ・ヒトラー(エヴァ・ブラウン)の遺体が確認される 遺体は解剖後、歯や頭蓋骨の一部を写真撮影をし、ベルリン北部の町に埋葬された。再確認のために再び発掘され、歯だけが取りはずされてモスクワへ運ばれる。ソ連軍防諜部隊(スメルシュ)の駐留地移転に伴い、7回改葬される。8回目は旧東ドイツのマグデブルクにあったソ連軍防諜部隊基地のコンクリートで固めた裏庭に埋葬されたが、基地が東ドイツに返還されることになり発掘される |
1945年 5月21日 | 英軍、ベルゲン・ベルゼン収容所を焼き討ち 有名な死体をブルドーザーが片付ける映像や酷い有様の収容所の映像は焼き討ち後に英軍によって撮影されたやらせ映像である。(1988年3月9日(水)カナダ・トロント裁判所にて弁護側証人ラッセル・バートン博士の証言より) |
1948年8月9日 | イギリス、ベルゲン・ベルゼン収容所での自作自演フィルムをナチの戦争犯罪の証拠として公開 |
1948年夏 | アメリカ下院非米活動委員会において、E・ベントレーとW・チェンバース(いずれも元米国共産党員)は、米国共産党(コミンテルン米国支部)やアメリカ非公然組織長のイクサ・アフメーロフ(ソ連人民委員部)、ボリス・バイコフ大佐(ソ連赤軍第四部)が、アメリカ政府内に構築したソ連諜報網の全容を告発し、ホワイトがソ連のスパイであることを指摘した。ホワイトは公聴会でソ連スパイ疑惑を否定するが、8月16日、ジギタリスを大量服用し不可解な死を遂げる。 |
1951年5月3日 | GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥、米国上院軍事外交共同委員会にて「彼ら(日本の戦争指導者)が戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と発言。(『東京裁判 日本の弁明』(小堀桂一郎編)より) |
1953年11月11日 | Drマックス・ナッサーブラウン(ベルリンのユダヤ宣教師)、「ユダヤ人が世界に占める立場は莫大な損失にもかかわらず20年前よりも10倍も強くなった」と明記。(600万人は本当に死んだか?より) |
1955年 | V2ミサイルなどを開発した元ナチ技術者ウェルナー・ウォン・ブラウン博士(NASAが発足するとジョージ・マーシャル宇宙飛行センター初代所長になり、アポロ11号(AS-506)を打ち上げて月面着陸を実現させる)、アメリカ市民権を取得。ナチスには軍人・技術者に優秀な人材が多かったため、連合国は本来は戦争犯罪人であるナチス関係者を大量に自国へスカウトしていた。 |
1975年4月 | いんちき“ナチハンター”・サイモン・ヴィーゼンタール、著書「本と書斎人」に「ドイツ領には絶滅キャンプは設置されていなかった」と書く。(マーク・ウェーバー著「Simon Wiesenthal / Bogus "Nazi Hanter".」より) |
2003年8月12日 | 韓国外交通商部の丁相基(チョン・サンギ)アジア太平洋局長は日韓併合時代における強制徴用・徴兵の法的補償は終結したことを表明した(朝鮮日報 2003.08.12(火)12:58より) |
21世紀現在 | 「日独=絶対悪」以外の歴史観を持つことは禁止されている…… |